阿蘇惟将、頑張る ~阿蘇家で廻る、TS九州三国志~ 作:NoRAheart
府内に来て幾月か経ち、宗麟様への菓子の献上も幾度か重ねた頃、僕は宗麟様より「学問所に通わぬか」と誘われた。
人質、もとい客人としては破格の待遇である。
大友家中の重臣の子弟らが、作法と武芸と学問を教わる場である。
言わば、将来の重役に等しく教育を施す所。
それが、大友館の一角にあった。
集められているのは、大友家中ではよく名の知られている子弟が数名。
初日、僕は道場の隅に座って、他の方々の様子を眺めていた。
全員僕より大きく、僕より肩幅があって、逆に彼らは僕を見て必ず二度見する。
小さくて申し訳ありません。
「なあ」
隣に座った子が、小声で話しかけてきた。
「見ない顔じゃ。お主、どこの家中じゃ」
「肥後の阿蘇家です」
「阿蘇の?ここに来るとは珍しい」
「ということは阿蘇殿も大友家中と認められたのじゃな。めでたいの」
「阿蘇の姫君と言えば、惟種殿か」
「惟将です」
「えっ」
せっかくなので、いたずらっぽく口元に人差し指をおいて片目を閉じた。
「僕、男ですよ」
「「「え゛っ゛」」」
おいなんだその声は。
胸を押さえて苦しそうにする子弟らを見て、二度とやらぬと誓った。
◇
通い始めて数日、いつものように道場に向かうと空気が違った。
ざわめきが止む。誰かが息を呑む音がした。
重臣の子弟らが、一斉に平伏した。
僕も倣う。
彼らが平伏するのは、宗麟様か、それに近い方か。
伏せた視界の端に、のそりと入ってくる。
輿だ。
武将が乗る乗り物ではない。
病人や老人が乗る、簡素な板輿だった。
それを四人の屈強な男が担いで、静かに道場へ運び込んでくる。
その上に、小さな老女が座っていた。
本当に、小さい。
背中は丸く、手は枯れ枝のようで、白髪を無造作に一つに束ねている。
膝から下は動かないらしく、掛けた布の下で、ぴくりともしない。
だが、その目はまったく老いていなかった。
道場の端から端まで、一度なぞっただけで、子弟らが全員、身を硬くした。
なるほどこの人が。
「立花道雪である」
老人が名乗った。
立花道雪。
大友家、最強の将。
三十幾つもの合戦に臨み、ついに一度も負けたことがないと言われる老将だ。
ある合戦の最中に落雷に撃たれて足が利かなくなり、以来、輿に乗ったまま戦場を指揮し続けている。
伝え聞くところによると、彼女に落ちてくる雷を、咄嗟に刀で斬ったという。
雷を斬ったと、周囲は本気で信じている。
その話を聞いた当初、僕は物理的にあり得ない、ただの誇張だと思っていた。
しかしこの人を見て、正直、揺らいだ。
この人なら斬るかもしれない。
それだけの迫力が、この人にはあった。
「面を上げぃ」
しわがれた、けれどもばしっと、恐ろしくよく通る声だった。
顔を上げた。
道雪殿の視線がじろりじろりと動く。
そして、止まった。
僕のところだ。
「おい、そこな娘」
「はっ」
「見ない顔だね。名は」
「阿蘇惟将にございます」
「阿蘇ぉ?」
「男ではなかったか」と宣いながら、道雪殿はしばらく僕を見下ろす。
その視線に耐えるのは、なかなかに堪えた。
値踏みされている。それだけだ。それは分かっている。
しかし宗麟様のような、珍しいものを見つけたような優しい目ではない。
もっと厳しい、剥き身の刃物のような目だった。
この人は、僕がどれだけ大友家の役にたてるかを測っている。
いや。違う。何か、何だろう?
もっと僕には分からない、別のものを見ている気がした。
「立ちな」
「はっ」
「こちらへ、のそっと参れ」
輿の前まで歩く。
近くで見ると、道雪殿はさらに小さかった。
輿の上の目の高さが、立った僕の胸のあたりにある。
枯れ枝のような手が伸びてきて、ぐいと僕の顎を無遠慮に掴んだ。
力が、強い。痛い。
この老女の、どこにこんな力があるのか。
顔を、右へ。左へ。上へ。
あらゆる角度から、じっくりと検分された。
そして道雪殿は、口を開いた。
「よい面じゃ」
「は、はあ」
「肌が薄い。骨が細い。目が大きい。眉が柔い。まるでおなごじゃ」
顎を掴んだ時とは打って変わって、そっと手を離した道雪殿はそう言って、しかしニッと怖いほどに嗤った。
「じゃがお主、儂を量りおったな」
「!?」
バレていた。なんてこと。
いや所詮はその程度。申し訳ございませんと頭を床にこすりつけ謝罪する。
「自国のためなら恥も惜しまぬか。よい、気にしておらん」
「ご配慮、痛み入ります」
ふむと、道雪殿はまだしばらく僕を見ていた。
まだなにかと伺うと、道雪殿は変なことを申された。
「そなた、儂の子にならぬか」
「はい?」
「子じゃ。子」
「いや、あの、わたくしは阿蘇家の」
「……知っておる」
「言ってみただけじゃ」と、道雪殿は首を戻された。
しかしあの間は、なんだったのか。すこし怖かった。
一瞬、本気でおっしゃられているものかと胆を冷やした。
◇
またしばらくして。
僕は、学問所で完全に浮いた。
まず武士として基本たる武芸が、まったく駄目だった。
当然である。
木刀を持たされ、打ち合いが数度も続かぬうちに、僕はぶっ飛ばされた。
ちなみに相手の子弟はいい加減、手加減してくれていた。手加減してくれて、これだ。
弓を引いてみれば、矢は的から三尺は外れた。
馬には乗れた。乗れたが、駆けさせると振り落とされた。
落ちた僕を気遣ってか、馬がごめんねと僕に鼻を寄せた。
完全に僕の技量不足であった。
学問は、圧勝した。
圧勝という言い方は品がない。しかし他に言いようがない。
四書五経の素読。
漢文の組み立てさえ掴めば、あとは意味を取るだけ。
算術。
この時代の算術は、要するに実務の計算だ。
年貢の按分、田の広さ、利息。前世なら誰でもできる算数だった。
講師が途中から、僕に解かせるようになった。
地理。
九州の国名、街道、川、港。
これは覚えるだけである。
しかも僕には、綴りをつける癖がある。
全部頭に入っている。
軍学。
孫子、六韜。
これも、読むだけなら難しくない。
読むだけなら、である。
「惟将」
ある日、一人道場で学んだことを振り返っていると、道雪殿がやってきて、輿の上から僕を呼んだ。
「そなた、孫子の『始めは処女の如く、後には脱兎の如し』を、如何に解く」
「はっ。初めは弱く見せて敵を油断させ、機が来たら一気に動く、という意にございます」
「うむ。では、いかにして敵を油断させるか」
「それは、状況によるかと」
「例を挙げよ」
「例、ですか」
考えた。いや、考えて出てくるはずがない。
教本通りの故事に倣った答えなら出る。
兵を隠す。旗を減らす。偽の使者を出す。
だがそれは、本に書いてあることを言っているだけだ。
おそらく道雪殿が求められているのはそこではない。
この地形で、この兵数で、この季節に、目の前の敵をどう油断させるか。
その実地の合戦に対する問いには、答えられない。
答えられるのは、きっとちゃんと戦場に立ったことがある人間だけだ。
「申し訳ございません。わたくし、戦は名前だけの大将として参加した一戦しか経験がなく、分かりかねまする」
僕の答えに道雪殿は大きく目をひらいて、ご自分の額を扇で叩かれた。
それから、こう言った。
「すまぬ」
「いえわたくしが答えられなかったのが―――」
「いやそうではない。惟将、そうであった、耄碌したわ」
「道雪様?」
「儂はてっきり……」
道雪殿は首を振られて、姿勢を改められた。
「惟将よ」
「はい」
「そなたは、覚えるのが速い」
「恐れ入ります」
「速すぎる」
道雪殿は、目を細めた。
「一月で、儂が二年かけて教えることを覚えおった。算術に至っては、講師が匙を投げおった。武芸は……まあよい。お主は将や官の方が似合うておる。いや、巫女であったな」
「男でーす。僕は男でーす」
「はっはっは。冗談よ」
「しかし困った」と道雪殿は、輿の上で腕を組んだ。
「ここでは教えることが、なくなってしもうたわ」
◇
その晩、僕は改めて道雪殿のお屋敷に呼ばれた。
立花山城ではなく、府内にある道雪殿の住まいである。
通された部屋には、道雪殿が一人でいた。
輿から降りて、脇息にもたれかかっている。
膝から下は、やはり動かない。
灯りの下で見ると、昼間よりもさらに小さく見えた。
小さいのに、部屋の真ん中にいるのはこの人だった。
「座れ」
「は」
「酒は」
「不調法にございます」
「つまらぬの」
道雪殿は、自らの盃を満たそうとしたので、僕は手酌はいかがなものかと社畜精神に駆られて徳利をスッと取って、彼女の盃に酒を注ぐ。
道雪殿は、少し驚いた顔をされたが、どこか嬉しそうにされていた。
「惟将。そなた、あそこで教わることがもうない。学問所へ行くのは今日で終いでよい。しかしそれではつまらぬであろう。どうしたものかと思うての」
「左様ですか」
「家中のお役目を振ってもよいと思うておるが、その前に、そなたに聞きたいのだ」
道雪殿は盃を置いた。
「学問というものは、覚えたら終いか」
「いいえ」
「その心は?」
「覚えただけでは、身につきませぬ。覚えたものは、使わねば抜けまする。わたくしはそれを、身に沁みて分かっております」
どれだけ資格を取っても、どれだけ本を読んでも、実務で使わなかった知識は、驚くほど綺麗に消える。
経験も一緒だ。振り返って意味を分かっていないと、なんの足しにもならない。
「では、如何にして使う。試しに戦に出てみるか」
「いえ、今の立場では経験となるものは得られないと思われます」
「じゃろうな」
「ですが―――」
空に近い道雪殿の盃に、僕は酒を継ぎ足す。
「使い方は他にもございます。人に、教えることにございます」
「教えれば、己の分かっておらぬところが露わになる」
道雪殿は、継がれた盃の縁を、指でなぞりながら言った。
「人は、分かっておらぬことを説けぬ。説けるまで考え直し、言葉を選び直し、相手の顔を見て、伝わったかを確かめる。その往復を経て、ようやく覚えたものが己のものになる。そう申したいのであろう」
「仰せの通りにございます」
「ならば、そなたは何を足す」
「今行っている通りでございます」
僕は手のひらの徳利を持ち上げた。
「覚えるだけの学びは、酒を徳利に注いで手酌をしているだけのようなものにございます。注ぎすぎれば溢れまする。吞みすぎれば酔いまする。教えるというのは、注いだ酒を一度、他人の盃へ移すこと。徳利の中身が、他人の盃を満たすほど入っていないかもしれませぬ。注ぎ方が悪ければ、相手の盃に注ぐことすら許されぬかもしれませぬ。他人の舌に伺ってみなければ、己の徳利に入った酒が実は美味いのかまずいのかも分かりかねまする。自身の舌が馬鹿になっているかもしれませぬ、自身の舌が実はモノを知らぬ舌であるかもしれませぬ故」
「なるほど、続けよ」
「はい道雪様、ここからでございます」
徳利を、ゆっくりと傾ける。
「酒は、注いだ先で増えまする。人に教えた酒の種類や作法は、注いだ相手が納得がいけば、その者が継ぎまする。そしてまた別の者に、同じように教える。わたくしが一人に教えれば、それは一人分では終わりませぬ」
道雪殿の目が、じろりと細くなった。
「そなた」
「はい」
「その説を、どこで学んだ。書か。誰ぞの教えか」
「いえ。己で、考えましてございます」
僕自身の身に沁みたことだ。
誰になんと言われようと、それは譲らない。
道雪殿は、僕の言葉に満足されたのか、盃を取って、一気に呷った。
「では、注いでみせよ」
そして道雪殿は、空となった盃を僕に押し付けて、そう言った。
「そなたの申す通り。注いでみせて、継いでみせよ。教える相手は、儂が用意してやる故」
「え、あの、わたくしは人質でございましょう?」
「そうであるな。しかし言わせぬ―――いや、どうせならば覆してみせよ」
道雪殿は、新たな盃を僕の方へ突き出した。
僕が盃に酒を注ぐと、道雪殿はそれを口にせず、僕に押し付けた空の盃を待った。
仕方ないおばあさまである。
押し付けられた盃に、ほんの少しだけ酒を注いで、舐める。
道雪殿は、とても満足そうに頷いた。
◇
部屋を出る時、僕はあっと振り返った。
ちなみに道雪殿に押し付けられた盃は、そのまま持ち帰れと言われたため僕の手にある。
「立花様」
「なんじゃ」
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「申せ」
「なぜ、わたくしにここまでのことを?わたくしは阿蘇の者にございます。学問を磨いたところで、いずれは阿蘇谷に帰る者にございます」
道雪殿は、口元をもごりとさせて、少し言いづらそうに、小さな声で答えた。
「儂には、子がおらぬ」
「はい」
「儂は、ずっと人にものを教えるのが好きなのだと思っておった。しかし違っておったわ。儂は残し、託すのが好きなのだ。続き、継がれていくのが好きなのだ」
今この時のようにの、と道雪殿は僕を見ていた。
道雪殿が何を考えているのかは、まだ僕には分かりかねる。
しかしこの人が僕を気にかけてくれている、その理由の片鱗が見えた気がした。
「では今しばらく、わたくしめに道雪様の酒を注いではいただけませぬか」
腰を浮かせていたのを改めて、道雪殿の傍に座りなおした僕は、道雪殿に盃を求めた。
子がおらぬと、道雪殿はおっしゃった。
立花の家を継ぐ者がいない、ということだ。
自分の三十数戦を注ぎ込める器を、あの人は探しているのだろう。
そして今、その目が、きっと僕に向いている。
僕には、なれない立場だ。
しかし今宵だけは、せめて慰めになればと、今しばらくその話に付き合った。