依頼が入っていなかった。
俺は宿の部屋で、天井を見ていた。
何もすることがない。錬金術の練習をすればよかった。だが、手が動かなかった。
籠手を外し、自分の手を見る。右腕。左脚。
重さだけが残っている。記憶はない。
ふと、窓の外を見た。
空が白んでいる。まだ朝だ。
身体が勝手に動いた。
立ち上がり、階段を降り、宿を出る。
足がどこへ向いているのか、頭で理解する前に身体が知っていた。
東の街道。
別の依頼を受けていたギレーヌが戻ってくる道だ。
俺は石畳の上に腰を下ろした。壁に背を預け、空を見上げる。
なぜここに来たのか。
問えば、答えは出ない。ただ来たかった。それだけだ。
陽が高くなった頃、通りの向こうに人影が見えた。
褐色の肌。猫の耳。刀を腰に差した細身の姿。
ギレーヌだ。
俺は立ち上がった。
ギレーヌが足を止めた。俺を見ている。
金色の瞳が、僅かに細くなった。
「何をしておる」
「待ってた」
「待っていた? 依頼は入っていないだろう」
「入ってねぇよ」
俺は一歩近づいた。
ギレーヌは動かなかった。ただ、俺を見ている。
その目に、いつもの鋭さはなかった。代わりに何か別のものが浮かんでいる。
問いだ。理由を求める色。
「なら、なぜここにいる」
「…会いたかった」
言ってから、しまったと思った。
もっと格好のいい言い方があったはずだ。何でこんな素直に出る。
顔が熱くなる。籠手の金具が冷たい頬に触れる。
ギレーヌは、黙った。
長い沈黙だった。
俺は視線を逸らしたかった。だが逸らせなかった。
金色の瞳が、俺を捉えていた。
「あたしも」
「え」
「戻ったら、お前に話そうと思っていた」
ギレーヌの声が、僅かに低かった。
いつもの率直な響きではない。何かを選ぶような、慎重な響きだ。
「何を」
「お前と過ごす時間が、あたしにとって大事になっておる。と」
俺は息を飲んだ。
直球だった。ギレーヌはいつもそうだ。飾らない。ただ真実を言う。
だが今のその言葉は、いつもの率直さとは違う重さを持っていた。
「俺もだ」
「分かっておる」
「分かってるのか」
「お前が毎朝、あたしの剣の手入れを見ている時の顔。食堂で隣に座る時の、わずかに緩む呼吸。それが答えだ」
俺は口を閉じた。
隠せない。この女には隠せない。
俺の知識はある。錬金術の理も分かる。だが、人の感情を読むことだけは、知識ではどうにもならない。ただ、見て、感じるしかない。
ギレーヌは俺の全てを見ていた。
「一つ言っておくことがある」
「何だ」
「俺は記憶を失ってる。自分が何者か分からねぇ。前に誰がいたか、誰と過ごしたか、何を失ったか、全部抜け落ちてる」
ギレーヌの耳が、ぴくりと動いた。
「知っている」
「知ってる?」
「お前が時々、右腕と左脚を見る。何かを探すような目で。それに触れる時の、迷いのある手つき。あれは、かつてそこに別のものがあった時の癖だ」
俺は自分の右腕を見た。
籠手に包まれた腕。肉と骨。間違いない、生身だ。
だが確かに、何かが足りない。何かがそこにあったはずなのだ。
「それを知った上で、選ぶのか」
「選ぶ」
「俺の過去に誰がいたか分からねぇんだぞ。俺自身が知らねぇんだ。もしかしたら最低の人間だったかもしれねぇ」
「今のお前は最低ではない」
「どうして断言できる」
「あたしの剣を見て、お前が壁を作った。あの時からだ。見ず知らずの女を助けるために、自分の身を晒した。記憶がなくとも、お前はそういう人間だ」
ギレーヌは、一歩近づいた。
距離が縮まる。
革と鉄の匂い。微かな汗の匂い。それらが混じり合って、俺の鼓動を速くする。
「過去は分からん。だが今のお前は分かる。あたしは今のお前を選ぶ。それで十分だ」
俺は何も言えなかった。
言葉が喉の奥で詰まっていた。
ただ、目の前の女を見ていた。
金色の瞳。猫の耳。褐色の頬。
すべてが、確かにそこにあった。
「…俺も、今のお前を選ぶ」
「うむ」
短い返事だった。
だがその一言に、どれほどの重みがあったか。
俺は分かっていた。ギレーヌも分かっていた。
通りを風が吹いた。
砂埃が舞い、陽光が二人の影を石畳に落とす。
重なる影。
「飯、食うか」
「ああ」
「あたしの奢りだ。今日は上手くいった」
「また奢らせろよ」
「次はお前だ」
二人で歩き出した。
肩が触れる距離。
いつもの距離。
だが今日は、その距離が少しだけ違って感じられた。
何が変わったのか、言葉にできない。
ただ、隣にいる。それだけで、胸の奥が温かい。
記憶はない。過去はない。
だが、今がある。
この手がある。この脚がある。
そして隣に、彼女がいる。
それだけで、俺には十分だった。