宿の食堂は静かだった。
パウロとゼニスが並んで座っている。二人の手は繋がれていた。
テーブルの上には、酒と果実。何の変哲もない食事だ。だがその場の空気は、今までのそれとは違っていた。
「今日で俺たちは黒狼の牙を抜ける」
パウロが言った。
声は穏やかだった。だがその奥には、決意の色があった。
ゼニスが隣で小さく頷く。その顔には、不安と、それ以上の喜びが混じっていた。
「ギレーヌ、エドワード。今まで世話になった」
「礼を言うのはこちらだ。あたしたちは助けられた」
ギレーヌが静かに言った。
パウロは笑った。いつもの軽口を叩く時の笑みではない。何かを決意した男の笑みだった。
「お前たちはどうする。このまま残るか、それとも」
「あたしは抜ける」
ギレーヌが即答した。
俺は横目で彼女を見た。金色の瞳は揺れていなかった。
パウロも同じだった。驚きはなかった。ただ、頷いただけだ。
「そうか。で、どこへ行く」
「まだ決めていない。だが、剣士として生きていく。どこかで雇い主を探す」
「雇い主、か。お前ほどの剣腕ならどこでも歓迎されるだろうな」
「望むところだ」
ギレーヌはそこで言葉を切った。
そして、俺を見た。
「エドワードはどうする」
俺は視線を落とした。
手元の杯。水面に映る自分の顔。三つ編みにした金髪。金色の瞳。
そこに見えるのは、確かに俺だ。だが、記憶はない。俺は俺を知らない。
「俺は」
口を開いた。だが言葉が出てこなかった。
何を続けたいのか。それは分かっている。記憶を取り戻すこと。そして錬金術の研究を続けること。
だが、どこで。どうやって。
「記憶を取り戻したい。それが第一だ」
「分かっている」
ギレーヌの声は静かだった。
責める色はない。ただ、俺の言葉を受け止めている。
「俺には知識がある。錬金術の知識だ。それを使えば、何か分かるかもしれない。だが」
「だが?」
「俺はまだ、この世界のことが分かっていない。魔術と錬金術の違いも、俺がどこで何をしていたのかも。だから、研究が必要だ」
「研究、か」
ギレーヌは顎に手を当てた。考え込む仕草だ。
「どこでやるつもりだ」
「ここでとは限らない。資料が集まる場所がいい。都市か、それとも学問所か」
「学問所か。そんなものがあるのか」
「ある。俺の頭の中には、少なくともその知識はある」
俺は自分の頭を指差した。
中には膨大な知識がある。だがそれがこの世界で通用するかは分からない。
「ギレーヌ。お前はどうなんだ。剣士として生きていくと言ったが、具体的には」
「剣術を教える道もある。だが、まずは戦場で腕を磨きたい。雇い主を見つけ、腕を売る。それがあたしの望みだ」
「戦場、か」
俺は息を吐いた。
俺は戦場に出るつもりはない。いや、出られない。俺には剣術の記憶がない。錬金術はある。だが前衛には立てない。
ギレーヌと一緒に戦場に出れば、俺は足手まといになる。いや、違う。支援はできる。後方から壁を作り、足場を作り、彼女の動きを補助する。それはできる。
だが、それは彼女の望む道なのだろうか。
「エドワード」
ギレーヌが俺を見た。金色の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「何を考えている」
「…俺と一緒にいると、お前の邪魔になるかもしれない」
「邪魔?」
「俺は戦場に出るつもりはない。研究を続けたい。だが、お前は戦場で腕を磨きたいと言った。それは矛盾している」
ギレーヌは少し黙った。
そして、首を横に振った。
「矛盾していない」
「どうしてだ」
「お前が研究を続ける場所を拠点にする。そこから依頼を受ける。剣士としての仕事は、そこから離れて出る」
「往復するのか」
「ああ。あたしは剣士だ。戦場に出る。だが、帰る場所は決めておきたい」
帰る場所。
その言葉が胸に刺さった。
俺は何も言えなかった。
ギレーヌは、俺の帰る場所になりたいと言っているのか。
いや、違う。もっと単純だ。俺と一緒に生きていくために、拠点を決めようと言っているのだ。
「…俺は、資料が集まる場所がいい。都市がいい」
「都市か。どこだ」
「分からない。だが、学問所がある場所がいい。俺の知識が役に立つかもしれない」
「学問所、か。それはどこにある」
「…探さなきゃな」
俺は笑った。情けない笑いだ。知識はある。だが場所が分からない。
「なら、探しに行くか」
「は?」
「学問所を。お前の研究ができる場所を。それが決まれば、そこを拠点にする」
ギレーヌは当然のように言った。
「お前の剣の仕事は」
「依頼を受ければいい。どこにいても、腕を求める者はいる」
「…本当にそれでいいのか」
「あたしがそう決めた」
即答だった。
俺は何も言えなかった。ただ、胸の奥が熱くなった。
「分かった。一緒に探そう。俺の研究ができる場所を」
「ああ。そしてそこを拠点にする。あたしは剣を振り、お前は錬金術を研究する」
「それで生きていく」
「それで生きていく」
二人で頷いた。
パウロが、小さく拍手した。
「決まったか」
「ああ」
「どこへ行くかはまだ決めていないが」
「道は見つかる。お前たちはそういう人間だ」
パウロは立ち上がった。ゼニスの手を取る。
「俺たちは南へ行く。のんびりした田舎で暮らすつもりだ」
「楽しそうだな」
「楽しくなるさ。お前たちも、自分の道を楽しめ」
パウロは笑った。そして、俺とギレーヌに手を振った。
「また会おう」
「ああ」
「またな」
二人は食堂を出ていった。
扉が閉まる音が、どこか遠く聞こえた。
黒狼の牙の時代が、終わった。
俺はギレーヌを見た。
金色の瞳。猫の耳。褐色の頬。
これから、この人と共に歩む。
「出発はいつだ」
「今すぐでもいい」
「資金はあるか」
「多少は。依頼の報酬は溜まっている」
「俺も多少ある。足りなければ、稼ぐ」
「稼げるか」
「錬金術は役に立つ。護衛でも、治療でも、何でもだ」
「治療もできるのか」
「多少は。知識はある」
ギレーヌは頷いた。
「分かった。今すぐ出発する。学問所を探しに」
「ああ」
俺は立ち上がった。
足元の感覚。右腕の重さ。左脚の重さ。
これからどこへ行くのか分からない。
だが、隣に彼女がいる。
それだけで、俺には十分だった。
「行こう」
「うむ」
二人で食堂を出た。
外は晴れていた。空は高く、風は暖かい。
新たな旅の始まりだ。
黒狼の牙とは別の生活へ。
俺とギレーヌの、二人だけの旅へ。