砂煙を抜けた先、岩場の影から複数の人影が近づいてくるのが見えた。
反射的に身を硬くする。さきほどの蛇ほど大きくはない。人の形をしている。だが、俺の知らない人間だ。何者か分からない。
「ギレーヌ殿!」
男の声がした。
恰幅の良い、髪を後ろに流した男であった。年は三十路を幾らか超えたあたりか。鎧姿ではない。旅装だ。だが、その全身から漂う気配は只者ではない。歴戦の匂いというものを俺の本能が感知していた。
その後ろに若い男が二人それから女が一人。いずれも旅装に身を包み、剣や弓を携えている。傭兵か冒険者か。俺の知識が職業を弾き出すが、確証はない。
「ご無事で何よりです」
男はギレーヌの姿を認めると、安堵の表情を浮かべた。その視線が、俺に向いた。
瞬間、男の目がわずかに細められる。
猜疑ではない。警戒。得体の知れないものを見る目だ。
「そちらは…?」
男の問いかけに、ギレーヌは短く答えた。
「助けられた」
それだけの言葉だった。だが、男はそれを聞いて何かを察したらしく、剣呑な雰囲気を幾らか緩めた。
「錬金術を使った」
ギレーヌの補足が、重ねられる。
「壁を作り出し、蛇の動きを制限した。あの一撃は奴の急所を貫く助けとなった」
男は俺をまじまじと見つめた。
背の低い、黒ずくめの少年。金髪を三つ編みにした、見るからに風変わりな姿。猫の耳を持つ女戦士と、それが肩を並べている。さぞ異様な光景であろう。
「錬金術…?」
男は呟いた。聞き慣れぬ単語に戸惑っているらしい。
やがて、俺に向き直る。
「坊主、名前は?」
「エドワード・エルリック」
男は頷いた。
「エドワード。何者だ? どこから来た?」
俺は、詰まった。
何者か。
どこから来たか。
答えはない。
「それは…」
喉の奥で言葉が渋滞を起こした。
錬金術師、という言葉が脳裏を掠める。だが、それを言ったところで説明にはならぬ。出身地を問われているのだ。どこで生まれ、どこで育ちどうしてこの場にいるのか。その根拠となる記憶が、俺の中には一切存在しない。
俺は、口を閉じた。
黙り込んだ俺を見て、男はさらに眉根を寄せた。
怪しんでいる、というよりは困惑している。得体の知れない少年が、まさか答えを持たぬとは思わなかったのであろう。
「…記憶がない」
俺は、ようやく絞り出した。
乾いた声だった。
言い訳じみて響くのが、自分でも分かった。
「自分の名前以外、何も」
嘘ではなかった。
だが、その一言で納得する者などいないことも知っていた。
男の視線が、いっそう重くなる。
「名前以外、何も?」
男は、まるで鸚鵡返しのように呟いた。信じられぬ、という色がありありと浮かんでいた。
当然だ。
俺だって、自分の身に降りかかった理不尽さに、未だに現実感を持てずにいる。
男は、隣の若い男と目配せをした。
この少年をどう扱うか。判断を委ねるような沈黙が、流れる。
ギレーヌは、そんなやり取りを黙って見ていた。
猫の耳が、僅かにぴくりと動いただけで。
そして、誰も、何も言わなかった。
沈黙だけが、岩場に満ちていた。
「行き先も、身寄りもないのか」
男――パウロと名乗った――が、腕を組んで俺を見下ろした。見下ろされるのは慣れていない。腹の底でちくりと痛むものを堪えながら、俺は視線を逸らさずに立っていた。
「ああ、悪いか」
「いや、悪いとは言わんが」
パウロは後ろの若い男に目をやった。二人はまた無言で何かを交わしている。この場にいる全員が、俺という得体の知れない存在をどう扱うかで迷っている。その視線が、剣呑というほどではないにせよ、棘のように肌へ突き刺さる。
「このまま放り出すわけにもいかんだろう」
ようやくパウロが口を開いた。声には、保護者じみた響きがあった。旅の一座か何かか、人の良い顔をしている。だがその瞳の奥で計算が働いているのも見える。無償で人を拾うほど甘くはない、という色だ。
「とりあえず、我々の護衛に加わってはどうだ。目的地までで構わん。飯と寝床は保証する」
「保護ってわけか」
「そう取ってもらっても構わんが」
俺は、そこで口を挟んだ。
「保護はいらねぇ」
パウロの眉が、ぴくりと動いた。
「働いた分の飯は食わせろ」
言ってしまってから、しまったと思った。だが後悔はしなかった。名前以外何も持たない俺が、これ以上誰かの世話になるのは、何か違う気がしたのだ。記憶がないなら、尚更。俺という人間の輪郭がただの「拾われた奴」で固まってしまうような、そんな恐怖があった。
「坊主、それは」
「俺にできることがあるなら、やる。タダで食わせてもらうのは性に合わねぇ」
パウロは黙った。
後ろの若い男が口を挟もうとして、パウロの手で制された。
空気が、妙に重い。
ふいに「面白い」
横から声が飛んだ。ギレーヌだ。猫の耳が、面白がるようにぴんと立っている。
「このチビ、言うではないか」
「誰がチビだ!」
思わず振り返って怒鳴った。ギレーヌは口元を微かに歪めている。笑っているのか、呆れているのか分からぬ表情で、俺を見ていた。
「その心意気や良し。だが、働くと言っても何ができる」
「錬金術」
即答した。
自分でも驚くほど、その言葉は滑らかに口を衝いて出た。ギレーヌが目を細める。
「その錬金術とやら、先ほど見せてもらったが…まあ、悪くはなかった」
「悪くは、だと」
「上出来とは言っておらん」
ギレーヌはそう言って、くるりとパウロへ向き直った。
「パウロ。私も加わる予定だったな」
「ああ、話は聞いている」
「ならば、このチビも一緒だ。何やら分からぬ所があるが、使える手駒は多いに越したことはなかろう」
「手駒って…」
抗議しようとして、やめた。
ギレーヌは俺を見て金色の瞳に僅かな光を宿している。あれは、信頼ではない。だが敵意でもない。ただ、「得体の知れないもの」を面白がる猫の目のような、そんな輝きだ。
パウロはしばらく唸っていたが、やがて肩をすくめた。
「ギレーヌ殿がそう言うなら構わん。エドワード、君を一行に加える。ただし」
「ただし?」
「本当に働いてもらうぞ。ただの戦力としてではない。荷運びでも見張りでも、何でもだ」
「上等だ」
俺は顎を上げて答えた。悔しさも、不安も、恐怖もあった。だがそれ以上に「タダで拾われた奴」にはなりたくなかった。
記憶がない。
自分が何者か分からない。
だが、この身体は動く。この手は錬金術を操る。
それならば、それで食う。それで生きる。
それだけの覚悟は、この場で示した。
ギレーヌが俺の横に並ぶ。猫の耳が、微かに俺の方へ傾いた。
「エドワード」
名前を呼ばれた。ギレーヌはそれだけ言って、前を向いた。
パウロたちが歩き出す。
俺も、歩き出した。
砂利を踏む音が、妙に耳に残った。
自分の歩く音が、自分の足で鳴らしている音がこんなにも心細く、そして確かに感じられたのはこの瞬間が初めてだった。
野営の火が、夜の闇を抉る。
橙の明かりが岩壁に踊る影を落とす。薪の爆ぜる音だけが、しばらくの間、俺の耳を満たしていた。
――錬金術、か。
膝の上に広げた木片に、刃を走らせる。
銀時計に刻まれた日付。名前。そして頭の中にある、膨大な知識の断片。
それらをひとつずつ紡ぎ合わせるように、俺は地面に転がる石や木の枝を拾い集めては、構成を思い出していた。
「おい、それ」
声がした。
顔を上げると、細身の男が俺の手元を覗き込んでいた。ギースだ。
浅黒い顔に浮かぶ目は、いつも何かを値踏みするように動いている。
「その石、面白い色してるな。……もしかして、錬金術の材料か?」
「分からねぇ」
正直に答えた。本当に分からないのだ。知識はある。だがそれがこの世界の何に対応するのか、俺にはまだ確信がない。
「知識はあるんだけどよ、それがここの何に使えるかが俺にも分かんねぇんだ。魔石ってのは聞いたことあるが……」
「魔石? ああ、それならあるぞ。ちょっと待ってろ」
ギースはそう言って、自分の荷物を漁り始めた。
手際の良いことだ。あの細い指が、様々な鉱石や薬草を仕分けていく。俺の知識の中にある「材料」と呼べるものが、次々とゴロゴロと俺の前に転がってきた。
「へぇ、これが……」
思わず声が出た。
俺の頭の中にある知識と、目の前の実物が、少しずつ繋がり始める。この石の成分、この草の性質。知識は知識でしかないが、実物があれば、それが「使える」ものになるかもしれない。
「お前、興味あるんだろ。使えるなら使えばいい。その代わり、何か面白いもんが出来たら見せろよ」
ギースは、歯を見せて笑った。
打算があるのか、ただ好奇心に従っているだけなのか。どちらにせよ、俺にとっては悪くない申し出だった。
「……おい」
低い声が、背後から降ってきた。
振り返ると、岩を背にした男が、腕を組んで俺を見ていた。タルハンドだ。
無口な男だと思っていたが、その目光は鋭い。
「その金属、もういじるな」
「あ?」
「そいつは俺が調整したやつだ。勝手に構成をいじくられても困る」
俺の手から、小さな金属片が奪い取られた。
タルハンドはそれを懐に収めると、じろりと俺を見下ろした。
「……だが」
「だが?」
「お前が作ったあの壁、あれは良い粒度だった。鉱物の選別が上手い。使える石と使えん石を見る目があるらしい」
「……恩に着る」
「恩などいらん。次に壁を作るなら、もっと硬い石を使え。軟らかいと崩れやすい」
そう言って、タルハンドはどすりと腰を下ろした。
会話になっていないようでいて、何かが通じた気がした。職人の目。俺の錬金術を「技術」として認めた上で、改善点を指摘してきたのだ。
俺は小さく頷いた。次に壁を作る時は、硬い石を中心に構成する。そう頭の中でメモを取る。
夜が更けていく。
火が小さくなった頃、ふわりと、影が差した。
「……エド」
柔らかな声が、俺の名を呼んだ。
顔を上げると、女性が立っていた。ゼニスだ。
手に、木の器を持っている。
「ご飯、食べてないでしょ」
言われて、俺は自分の膝を見た。
そこには、石と木片が散らばっている。研究に没頭していた。いつの間にか、周囲の音が消えていた。
「……ああ」
「これ、置いておくから」
ゼニスは器を俺の隣に置いた。あたたかい湯気が、立ち上る。
シチューだ。俺の記憶にある、何か懐かしいような、あたたかいもの。
「ありが……」
礼を言おうとした時、ゼニスは既に背を向けていた。
何も聞かない。俺が何者か、なぜ記憶がないのか、何も。ただ、「食事が必要だ」という事実だけで動いている。
それが逆に、胸に沁みた。
俺は器を手に取った。
熱い。指先に染み入る熱さ。
一口啜る。舌に触れる味。野菜と肉の、素朴な味。
喉が、勝手に動いた。
身体が、食事を求めていた。心が忘れていても、身体は生きている。
「……美味ぇ」
思わず呟いた。
声に、感情が混じった。
分からないことが多すぎる。だが、この味が「美味い」と感じる俺は、間違いなくここにいる。
俺は、ひと通り、器を空にした。
零すまいと、一心に啜った。情けないと自分でも思う。だが、今の俺には、これくらいしか「確かなもん」がない。
「おい坊主」
呼ばれた声に、背筋が伸びた。
パウロだ。
俺は振り返った。
「何だ」
「何だ、じゃねえ。お前、今日の荷運び、どうなってたんだ」
パウロの声に、咎めの色があった。
俺は一瞬、思考を止めた。
荷運び。確かに、今日の俺の持ち分は荷物運びだった。だが、途中から石の構成を思いついて……。
「あー……すんません。つい、夢中になっちまって」
「つい、じゃねえよ。手前、俺が言ったこと聞いてたのか」
「聞いてたけど、手が勝手に動いたんだ」
「手が勝手に動いただぁ? 言い訳が古いぞ」
「言い訳じゃねぇ!」
声が、裏返った。
俺は拳を握った。
「俺は働くって言った。そして働く。だけど、俺は俺が何者か分からねぇんだ。だから手が動く時は、それに従うしかねぇんだよ。悪いか」
パウロは、俺を見ていた。
じっと。無表情で。
俺の呼吸だけが、荒い。
「……おい、お前ら」
パウロは後ろにいた若い男たちに声をかけた。
「この坊主、今日の見張り、交代したか」
「あ、いえ。交代しました。東側の岩場、一応確認してましたが……」
「ふーん」
パウロは、俺を見た。
「見張りはちゃんとしてたんだな」
「……は?」
「俺が怒ってたのは荷運びだ。だが、見張りはちゃんとやってたらしい。じゃあ、働いてはいるんだな」
パウロはそう言って、肩をすくめた。
「次はちゃんと言え。手が勝手に動くなら、動く前に一声かけろ。それが礼儀だ」
「……ああ。次はそうする」
「次はな」
パウロは踵を返した。
背中が、岩壁の闇に溶けていく。
俺はその背中を見送りながら、息を吐いた。
怒られた。だけど、最後に、悪くない言葉が残った。
俺は膝を抱えた。
夜の空気が、冷たく肌を撫でる。
火が小さくなり、影が揺れる。
「……俺、これからどうなんのかな」
声に出したかったが、出さなかった。
口に出せば、答えを求めてしまうから。答えなど、俺には出せないのだ。
ただ、手を合わせて、地を叩いた。
小さな光が、石の上を走る。
何もない、ただの小石が、すいと形を変えた。
小さな、鳥の形をした石。
意味はない。
ただ、作りたかっただけだ。
俺はそれを掌に乗せた。
冷たい石の感触。
確かに、俺の手が作ったもの。