依頼の内容は、至って単純であった。
森道を通る商団の護衛。
とは言え、その道筋が「魔物の出没が確認された」場所である以上、ただの道中にはならぬ。パウロがそう説明した時、その声には実戦を知る者特有の重みがあった。
俺は、隊列の後方に位置していた。
前衛はギレーヌ。そしてパウロ配下の若い剣士が二人。
中衛にギースとタルハンド。後衛に俺とパウロ。
要するに、俺は「よく分からない新人」として一番安全な場所に置かれたのだ。
それが癪に障らないと言えば嘘になる。だが、今の俺が前衛に立って剣を振るえるかと問われれば答えは否だ。錬金術はある。だが剣術の記憶がない。身体が動くかどうかも分からない状態で前線に立てば、足手まといになるだけだろう。
だから黙って従った。悔しさを噛み殺して。
森は深かった。
木々が空を覆い、陽光が斑模様に地面へ落ちる。湿った空気が肌に張り付く。腐葉土の匂い。どこかで鳥が啼いているが、その声すらも何かを警戒しているように聞こえた。
「…気配がある」
パウロの声が、低く響いた。
前衛のギレーヌが、足を止めた。猫の耳が、ぴくりと前に向く。
俺も感じていた。肌を撫でる空気が変わったのだ。粘度が増したような、何かが潛んでいるような、生理的な不快感。
「来る」
ギレーヌが、刀を引いた。
刹那、茂みが爆ぜた。
数は四つ。いや五つか。
黒い毛並みに赤い目。犬に似た形状だが、サイズが規格外である。肩の高さだけで俺の胸を超える。牙が、涎が、陽光を反射して鈍く光る。
魔物だ。
俺の知識の中に、あの種族の名前はなかった。だが「魔物」という概念だけは、何故か確かに存在する。それが何を意味するのか、俺には分からない。ただ、目の前の生物が人を殺すための器官を備えていることだけは、理解できた。
ギレーヌが、動いた。
速い。
あの蛇の時と同じだ。褐色の身体が、一瞬で視界から消える。刀が閃き、先頭の魔物の首が裂けた。
血飛沫が森の空気に混じる。鉄錆の匂いが鼻腔を突いた。
若い剣士たちも動いていた。二人が連携し、二体を相手取る。剣技は荒いが、息は合っている。訓練を受けている証だ。
だが、残りが二体。一つはギレーネが追う。もう一つが、こちらへ向かってきた。
「来た!」
誰かが叫んだ。
俺の目が、魔物の軌道を捉える。直線だ。一直線に、商団の荷馬車を目指して走っている。
その進路上に、タルハンドがいた。
タルハンドは、動かなかった。
動けなかったのか。いや、違う。あの男は自分の役割を知っている。前衛ではない。だが、ここで魔物を通せば荷馬車が襲われる。
タルハンドは、盾を構えた。分厚い鉄の盾。一歩も引かない構え。
だが、魔物の突進は、その盾ごと吹き飛ばす質量を持っていた。
俺の両手が、合わさっていた。
祈りの形ではなく、構築の形。
地面に叩きつける。
光が、走る。
地表を這う青白い脈動が、タルハンドの前方へ奔る。
土が隆起する。
指が五つ。掌の隆起。手首の節。
拳が、突き出た。
魔物の足元から、横から、土の拳がその前脚を払った。
ずドォンッ!!
地鳴りが森を震わせる。
魔物の体勢が崩れた。前脚を打たれ、バランスを失ったのだ。
その隙に、タルハンドが盾で押し返す。
「…おお」
タルハンドの声に、驚きが混じっていた。
だが俺は止まらない。崩れた魔物の背後、その逃げ道となる地面に再び手を叩きつける。
今度は壁だ。
高さ二間、厚さ三尺の土壁が、魔物の退路を塞ぐ。
逃げ場なし。
そこへ、ギレーヌが来た。
いつの間にか己の相手を片付け、こちらへ駆けつけていたのだ。刀が閃く。崩れた魔物の首筋へ、一撃。
ぶちゅり、と肉が裂ける音がした。
魔物が、倒れた。
森が、静まり返った。
鳥の啼き声すら消えている。
ただ、俺の荒い呼吸だけが、耳に響いた。
「…やっぱり便利だな、その術」
ギースが、俺の横から顔を出した。
「魔物の動きを止める壁。足元から拳。いやあ、見てて飽きねえよ」
「大したことしてねぇよ」
「謙遜すんなって。タルハンド、危なかったろ?」
「…助かった」
タルハンドは、短く言った。
それだけだ。だがその短い言葉に、何かが含まれているのを俺は感じ取った。
パウロが、後方から歩いてきた。
手には剣。出番はなかったらしい。だがその目は、戦場全体を見ていた。
「坊主、反応は悪くなかった」
「ありがとよ」
「だが、壁を作るのがワンテンポ遅い。タルハンドが盾を構えてなきゃ、あの一撃は食らってたぞ」
「…分かってる」
「分かってるなら次は早くしろ。いいか、お前の術は強い。だが術が間に合わなきゃ何の意味もない」
反論は、なかった。
正しいからだ。俺の錬金術は確かに威力はある。だが発動までの速度が、まだ身体に馴染んでいない。知識はある。技術もある。だが、俺自身がそれを使いこなしている感覚がない。頭で考えてから手が動く。その「間」が、実戦では致命的になる。
ギレーヌが、血振るいをした。
刀の刃から赤い飛沫が落ち、腐葉土に吸い込まれる。
猫の耳が、ゆるりとこちらを向いた。
「エドワード」
「何だ」
「お前、あの蛇の時もそうだったが、危険に飛び込む癖があるのか」
「…癖、かどうかは分からねぇ。ただ、あの時テメェが食われそうだった。それだけだ」
「それだけ、だと?」
ギレーヌの目が、細くなった。
金色の瞳が、俺を射抜く。
「見ず知らずの相手のために、自らの身を晒す。それは勇気とも言うが、愚かとも言うぞ」
「じゃあ愚かでいい。見殺しにするくらいなら、愚か者の方がマシだ」
俺の口から出た言葉に、俺自身が一番驚いた。
何故そんなことを言ったのか。
何故、そう言い切れたのか。
分からない。ただ、身体の芯から、その言葉が湧き上がってきたのだ。
記憶はない。だが、何かが俺の中に在る。誰かを助けるという行為が、俺にとって何か特別な意味を持っているのではないか。そんな気がしてならなかった。
ギレーヌは、しばらく俺を見ていた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「…変な奴だ」
そう言って、背を向けた。
だがその声に、以前ほどの冷たさはなかった。
猫の尾が、揺れている。愉快そうに。
パウロが、俺の肩を叩いた。
「…ま、今日は上出来だ。次もその調子で頼むぞ、エドワード」
「ああ」
俺は頷いた。
掌を見る。土汚れが付着した、ただの俺の手だ。
だがこの手は、今日も誰かを守った。
記憶がなくとも、この手は動く。
それが、少しだけ誇らしかった。