酒場の空気は、濁っていた。
煤煙と酒の蒸気と、男たちの汗臭い熱気とが混じり合い、天井近くに漂う。木造の梁が黒く煤けているのが、かえってその場の crudeness を際立たせていた。
賑やかだ。
勘弁してほしい。
俺は木の椅子に腰を下ろし、目の前に置かれた皿を眺めていた。
焼いた肉と、煮えたち野菜。それから分厚いパン。
旨そうではある。
いや、むしろこの数日まともな食事にありつけていなかった俺にとっては、御馳走と言っていい。
だが、それ以上に目を引いたのは、テーブルの上に並べられた酒の瓶であった。
「さあ飲め飲め! 今日の報酬でこれだけ奢れるなんざ滅多にねえよ!」
ギースが、既に上機嫌で瓶を掲げた。
琥珀色の液体が、ぐらぐらと揺れる。
パウロがそれを受け取り、ぐいと杯に注ぐ。一息で煽った。
喉仏が上下する。飲み干した杯を、乱暴にテーブルに叩きつける。
「かぁーッ! 生き返る!」
「良い飲みっぷりだ」
タルハンドが、じみに杯を傾けている。
ギレーヌは、俺の向かいに座り、既に二杯目を空けていた。猫の耳が、酒のせいか赤く染まっている。呂律が少し回っていない。
「お前も飲まんか、エドワード」
「…いや俺は」
俺は、手元の水杯を持ち上げた。
「水でいい」
「はぁ? 水? 坊主、酒飲まねぇのか?」
ギースが、目を丸くした。
「飲めねぇんだよ。つーか味が好きじゃねぇ」
「好き嫌いかよ。お前まだガキか」
「ガキじゃねぇ!」
即座に反論した。だが「じゃあいくつだ」と聞かれて、俺は詰まった。
分からない。自分の年齢すら、確信を持てない。見た目は、そう遠くない歳の少年に見える。たぶん十代。だがたぶんでは困るのだ。
「…とにかく酒は飲めねぇんだよ」
誤魔化すように、水を啜った。
冷たい。喉を潤す感覚だけが、俺を落ち着かせた。
パウロは、そんな俺を一瞥し、哂った。
三杯目を注ぎながら、だらりと椅子に背を預けている。鎧を脱いだ姿は随分と隙がある。だが、その隙こそが酔った男の無防備さであり、同時に、何も考えていない証拠でもあった。
「まあ無理強いはせん。…だがなぁ」
パウロが、杯を揺らしながら、俺を見た。
酔いが回っている目。焦点が少しぼやけている。
「しかしまぁ、お前えらいチビだなぁ」
時が、止まった。
俺の全身の毛穴が開いた。
血管の中を、沸騰した鉄が流れたかのような熱が駆け巡る。
脳髄が、焼き切れそうに熱い。
チビ。
チビ。
チビ。
その単語が、俺の意識を白紙に焼き尽くした。
記憶がない。自分が何者か分からない。だが、その言葉に対する反応だけは、脊髄に刻まれていた。如何なる記憶喪失をもってしても消し去ることの出来ぬ、魂の次元に刻み込まれた、不可侵の禁忌。
俺の拳が、動いた。
否。動いたのではない。
放たれたのだ。
「誰が眼鏡で見ないと分からない程のチビじゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ドガァンッ!!
俺の拳が、パウロの顔面を捉えた。
否。正確には、パウロの顔面が俺の拳を捉えたのだ。
椅子が倒れた。パウロが、後ろへひっくり返った。
杯が宙を舞い、酒が放物線を描いて降り注ぐ。
琥珀色の雨が、テーブル上に散った。
静寂。
酒場の喧騒が、一瞬止んだ。
いや違う。止んだのは俺たちの周囲だけだ。酒場の隅では「おんどれ何しとる!」と叫ぶ声が聞こえる。だが、その声が届いているのは遠い。遠すぎる。
ギースの口が開いていた。閉じない。杯を持った手が止まったままだ。
タルハンドの手が、箸を止めていた。
ゼニスが、目を丸くしている。
そして、ギレーヌ。
「ぶっ」
ギレーヌが、噴き出した。
酒を。飲んでいた酒を、口から噴き出した。
猫の耳が、びょんと立っている。
「あはははは! 眼鏡で見ないと分からん! 聞いたかパウロ! 眼鏡じゃ!」
ギレーヌが、テーブルを叩いて笑っている。
尾が、ぶんぶんと振れている。猫じゃない。猫じゃないが、あれは猫のしぐさだ。
「…分からん」
タルハンドが、淡々と言った。
「何がだよ」
「眼鏡とは何だ。そして何故チビと眼鏡が結びつく」
「知らん! 俺だって分からん!」
俺は叫んだ。
だが、分からなくても良いのだ。俺の身体は知っている。俺の魂が知っている。チビと言われた時、全身の細胞が「違う」と叫んだのだ。それで十分だ。
記憶がなくとも、矜持だけはある。
床から呻き声がした。
パウロが、椅子の残骸の中で仰向けになっていた。
鼻が赤い。いや、俺の拳が当たった頬が赤い。
パウロは、ふらりと立ち上がった。
「…おい坊主」
声が低い。
だが、殺気ではない。頬をさすりながら、ぎょっとしたような、呆れたような、何とも言えぬ顔をしている。
「テメェ…酔ってねぇのにこれか」
「酔ってねぇから出来るんだろ! 酔ってたら加減できねぇ!」
「それどういう意味だ」
「そのまんまの意味だ! チビって言わなきゃ済んだことだろ!」
「言っただけでこれかよ! 口なんじゃねえか!」
「口だから悪いんだよ! チビって言葉を存在させる方ょの問題だ!」
「日本語おかしいぞ坊主」
「うるせぇ!」
俺とパウロが、同時に叫んだ。
怒鳴り合い。
酒場の客が、こちらを見て哂っている。ある者は「仲せえな」と哂い、ある者は「喧嘩か」と身を乗り出している。だが、誰も止めない。酒場の客というのは、喧嘩を肴に酒を飲む生き物なのだ。
ギースが、こちらを向いて親指を立てた。
「いやぁ、坊主やるじゃねぇか! パウロに一発食らわすたあ度胸あるな!」
「…ギース、お前静かにしてろ」
パウロが、睨んだ。
だが、目は哂っている。
腹が立ったのかと思いきや、その表情はどうにも憎めない。怒りはあるが、心底嫌だという目ではない。
「だがな、エドワード」
「あんだよ」
「お前チビだろ」
「聞いてんのかテメェ!!」
俺が再び拳を振り上げた。
パウロが、椅子上の支度からひょいと避けた。
速い。酔っているのに。
「ほら見ろ、チビはチビらしく素直に認めろ」
「認めるか! 俺はまだ成長期だ! これから伸びる!」
「成長期かよ。何歳だ」
「…知らん!」
「知らんのかよ!」
パウロが、哂った。
声を上げて哂った。
俺の怒りを察知したのか、それとも俺の反応そのものを楽しんでいるのか。多分、両方だ。
「ははは! 面白い奴だ。チビで酒飲めねぇで記憶もねぇ。お前の中身が空っぽなのは記憶だけじゃなさそうだな」
「中身は詰まってる! 錬金術の知識がギッシリだ!」
「錬金術の知識と身長は関係ねぇだろ」
「関係あるに決まってんだろ! 知識は脳に蓄えられる! 脳のスペースが限界突破してるんだよ!」
「何言ってんだテメェ」
「分からん!」
「分からんのかよ!」
また、同時に怒鳴った。
俺は拳を下ろした。
何かがおかしい。腹が立っているのに、どこかで笑いが込み上げている。記憶がないのに。自分が何者か分からないのに。この男と怒鳴り合っている時だけ、何かが蘇るような気がした。
それは記憶ではない。
感覚だ。
誰かとこうして馬鹿な喧嘩をしていた記憶。いや、記憶ではない。懐かしさ。それだけが、胸の奥に残滓のように残っている。
ギレーヌが、まだ笑っていた。
テーブルに突っ伏して、肩を震わせている。
猫の耳が、ゆらゆらと揺れている。
「眼鏡…眼鏡で見ないと分からん…あははは! パウロ、お前も言われたこたああるまい」
「俺に言うわけねぇだろ! 俺はこんなにある!」
パウロが、自分の身長を強調するように背筋を伸した。
ムカつく。
「テメェ! 背が高いからっていい気になりやがって!」
「事実だ。低いのが悪いんじゃねぇ、低いのがお前だ」
「どういう意味だ!」
「そのまんまだ」
「ふざけんな!」
「ふざけてねぇよ」
「ふざけてんだろ!」
「ふざけてねぇ」
「じゃあなんで笑ってんだよ!」
「テメェが面白いからだ」
「~ッ!」
言葉に詰まった。
悔しいが、反論できない。
パウロが、哂ったまま杯を拾い上げ、新しい酒を注いだ。
そして、俺の方へ押し出した。
「まあ飲め。これなら怒りで酔えるだろ」
「飲まねぇって言ってんだろ!」
「じゃあ水でいい。ほら」
ゼニスが、静かに俺の水杯に水を足した。
俺は、それを奪い取るように飲んだ。
冷たい水が、怒りで熱くなった体を少しだけ冷やしてくれた。
…畜生。
記憶もねぇのに、チビって言葉だけは致命的に効く。
俺は一体何者だったんだ。
いや、それよりも。
「パウロ」
「あ?」
「次チビって言ったら、錬金術でテメェの椅子を床と一体化させる」
「…お前それは脅しか」
「脅しじゃねぇ。予告だ」
パウロが、一瞬、真顔になった。
そして、また哂った。
「やってみろ。その時はテメェの飯を全部酒に変えてやる」
「ズルいぞそれは!」
「戦争だ」
「望むところだ!」
酒場に、俺とパウロの怒鳴り声が響き渡った。