翌朝、頭が割れるような痛みに俺は目を覚ました。
酒場の喧騒がまだ耳の奥に残っているような気がする。
寝床から起き上がると、外の空気が冷たく頬を刺した。空は薄い藍色。夜明けが始まっていた。
昨日の記憶が、断片的に浮かんでは消える。パウロとの怒鳴り合い。酒場の客たちの笑い声。そして……
「あいつ、あの笑いようはなんだ」
俺は頭を掻きながら、宿の入り口へ向かった。頭痛は酒のせいではない。寝不足だ。あの騒ぎの後、結局夜更けまでギースたちにからかわれ続けたのだ。
入り口の柱に、ギレーヌが寄りかかっていた。
刀を腰に差し、腕を組んでいる。猫の耳が、朝の風に微かに揺れていた。
俺の足音に気づいたのか、その金色の瞳がこちらを向いた。
「……お前、昨日は笑いすぎだろ」
口を開いたと同時に、昨日の不快感が蘇った。あの大声で笑い転げた姿を思い出すだけで、顔に熱が上る。
ギレーヌは、ふんと鼻を鳴らした。
「すまん。だがあれはおかしかった。パウロが吹っ飛んだ時の、あの音」
「笑うところじゃねえだろ」
「笑うところだ。お前があれだけ怒鳴ると思わなんだ。それに眼鏡で見ないと分からんとは、何の話だ。お前自身も分かっておらんかったではないか」
「うるせぇ。俺に聞くな」
俺は額を押さえた。あの言葉がどこから来たのか、未だに分からない。ただ、あの時身体が勝手に動いたのと同じように、口が勝手に動いたのだ。
ギレーヌは、それ以上はからかわなかった。
少しだけ、口角が緩んでいる。だがそれは昨日の閧笑とは違う。ただの、朝の空気の中での微かな緩みだ。
俺はそれ以上何も言わず、柱に背を預けた。
空が白んでいく。鳥が啼き始めた。
しばらくの沈黙の後、ギレーヌが口を開いた。
「エド、少し付き合え」
「は?」
「昨日の人を庇った時だ。お前、自分の方が空いていた。壁を作る前に、一瞬判断が遅れた」
俺は黙った。
図星だった。パウロにも指摘された。発動までの速度がまだ身体に馴染んでいない。頭で考えてから手が動く。その間が、実戦では致命になる。
「助けるなとは言っていない。避け方を覚えろ」
ギレーヌの声は、静かだった。昨日の笑い声とは別人のようだ。剣士の目をしている。
「お前のその術は強い。だが間に合わなければ意味がない。自分の身を守れる速度で動けなければ、人を助けるどころか自身が死ぬ」
反論はなかった。
正しいからだ。あの時、もしタルハンドが盾を構えていなかったら。もし俺の錬成が一瞬遅れていたら。
「……で、付き合えってのは」
「訓練だ。お前の術と、あたしの剣。噛み合わせを確認する」
俺はギレーヌを見た。
猫の耳が、真っ直ぐに立っている。冗談ではない。本気だ。
「……分かった」
俺は柱から背を離した。
場所は宿の裏手。岩と土が剥き出しの広場だった。朝露が地面を湿らせている。
ギレーヌが、立つ位置を示した。広場の中央。足元が平らな場所。
「ここから走る。お前はあたしが踏み込む場所に、足場を作れ」
「足場か」
「お前が昨日作った壁は高かった。遮るには良かったが、踏み台にするには使えん。もっと低く、踏み込める高さで」
俺は両手を合わせた。
地面に叩きつける。
光が走り、土が隆起する。
高さ腰ほどの、平らな台。
ギレーヌがそれを一瞥し、実際に足を乗せた。
「……硬いな。これなら踏み込める」
「だろう」
「だが、もう少し低くできるか。これだと膝が曲がる。剣を振る時には邪魔だ」
「どのくらいだ」
「膝より少し上。足を乗せて、体重を預けられる高さ」
俺は頷き、再度手を叩いた。
光が走り、台が低くなる。一段、膝上の高さへ。
ギレーヌが、再度踏み込んだ。
今度は、違った。足を乗せ、体重を預け、そのまま剣を振る体勢へ移行する。自然な流れだ。
「これなら使える」
「だろう」
「だが、その形だと角が鋭い。踏み込む時に足を取られる。面を削れ。角を丸めるんだ」
「……なるほど」
俺は言われた通りに角を丸めた。剣士の目は、足場の精度を正確に見抜いている。
ギレーヌが、再度踏み込んだ。
「わかった。もう一度やれ」
俺はもう一度、手を叩いた。
今度は、ギレーヌが走り込んできた。
速い。
昨日の蛇の時と同じ速度だ。いや、あの時は蛇を眺めていた。今は、直接俺に向かって走ってくる。
足場が出来る。ギレーヌがそれを踏み込む。
剣閃が走る。俺の顔の横を、風が裂ける。
「——ッ!」
身体が勝手に反応した。後ろへ下がる。距離を取る。
ギレーヌが、着地と同時にこちらを向いた。
「反応は悪くない。だが、下がる方向が甘い。右に逃げろ。左だと次の一撃に入る」
「右か」
「ああ。お前の術は地面を叩く必要がある。右手が地面に触れやすい方向へ逃げろ。左に逃がせば、次に手を叩くまでが遅れる」
俺の口が開いた。
こいつ、俺の術の特性をもう見抜いているのか。
「……お前、俺の錬金術の癖、もう分かったのか」
「大まかにはな。お前は右手を先に叩く。そして左手が地面に着く前に光が走る。つまり右側が地面に近い方が、お前にとっては速い」
俺は自分の手を見た。
右手。左手。
確かに、その通りだ。
無意識のうちに右手から動いている。知識はあるが、身体の癖までは自覚していなかった。
「……お前、すげえな」
「剣士だからな。相手の癖を見るのは仕事だ」
ギレーヌは、刀を鞘に収めた。
「なるほど。先に合図があれば使えるな。お前の術は、事前に場所を指定すれば機能する。問題は、咄嗟の時だ」
「ああ。昨日の蛇の時も、結局ギリギリだった」
「だから訓練する。合図なしで合わせられるようになれば、実戦でも間に合う」
俺は息を吐いた。
朝の空気が、少し暖かくなっている。日が昇り始めていた。
「……一つ聞いていいか」
「何だ」
「なんで俺の訓練に付き合う。あたしの時間を潰してまで、だ」
ギレーヌは、俺を見た。
金色の瞳が、朝の光を受けて微かに光る。
「昨日、人を助けに飛び込んだ。あれを見た」
「……それが」
「あたしは、そういう奴を見捨てられん。剣士としてではない。ただ、そういうことだ」
俺は黙った。
言い返す言葉が、なかった。
「……そうか」
「うむ」
朝の光が、広場を照らし始めた。
ギレーヌが、刀の柄に手をかけたままこちらを向いた。
「明日も、同じ時間でいいか」
俺は、一瞬、目を丸くした。
明日も。
つまり、継続するという意味だ。
「……ああ。明日も、同じ時間で」
「わかった。では、また明日だ」
ギレーヌはそう言って、踵を返した。
猫の耳が、朝の風に揺れる。
尾が、ゆったりと揺れている。
俺はその背中を見送りながら、自分の手を見た。
土汚れがついた、ただの手。
だがこの手は、明日もまた何かを作るだろう。
それが何なのかは分からない。だが、少なくとも、明日という日が、俺にはある。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。