装備が足りん。
ギレーヌがそう言ったのは、三度目の依頼を終えた夜のことだった。
「お前、その格好でまだ働くつもりか」
「あ? これがどうした」
俺は自分の赤いコートを見下ろした。黒のズボンに、長い金髪。そしてこの赤いコート。銀時計以外に俺の身元を示すものはないが、このコートだけは何故か手放せなかった。着慣れている。そんな感覚だけがあった。
「どうもこうもない。お前、あの蛇の牙を止めるのに壁を作った。だがもし壁が間に合わなかったら、あの牙はお前の腕を食い破っていた」
「それは」
「刃を受ける備えがない。あのコートは衣服だ。防具ではない」
反論はなかった。正しいからだ。
あの赤喰大蛇との戦い。その後の魔物との戦い。どちらも俺は錬金術で距離を取ることでしか身を守っていない。直接、刃や牙が俺の身体に届くことを想定した装備が、一つもないのだ。
「金はある」
「あるのか」
「多少な。依頼の報酬は溜まってる」
「なら明日、買いに行く。あたしも新しい留め具が必要だ」
ギレーヌはそう言って、刀の柄を軽く叩いた。
翌朝、町の武具店に足を運んだ。
店は狭かった。壁に剣が掛かり、棚に鎧が並び、天井から鎖帷子が吊るされている。油と鉄と革の混じった匂いが鼻腔を突く。俺は何故かその匂いに、得体の知れない懐かしさを感じた。
記憶にはない。だが身体が知っている。この匂いを。
「お前、何を見てる」
ギレーヌの声に、俺は視線を外した。
目の前にあったのは、装飾の施された銀の籠手だ。彫り込みが施され、留め具に宝石が嵌まっている。
「これ、良いんじゃねぇか」
「あ? 飾りか。お前は戦うのか、祭に出るのか」
「うるせぇな。見た目も大事だろ」
「見た目で命は守れん。動けなくては意味がない」
ギレーヌは俺の手から籠手を取り上げ、留め具を確認し、革の裏当てを指で押した。そして、棚から別の籠手を取り出す。
「これだ。留め具が三箇所。革が厚い。軽すぎず重すぎず。お前の手の大きさに合う」
「ああ、そうか」
俺はそれを受け取った。質素な籠手だ。装飾はない。だが手に取った瞬間、指が止まった。
重さ、だ。
掌に収まった時の、その重さが。
何かが、脳の奥を掠めた。分からない。だがこの重さが、俺にとって「正しい」ような気がした。
「どうした」
「いや」
俺は首を振った。
「試着させてくれ」
俺は籠手を右手に着けた。留め具を締める。革が腕に食い込む。指を曲げ、伸ばす。握る。開く。
馴染む、のだ。
まるで最初からそこにあったかのように。この重さが、この位置が。
「もう片方は」
店の親父が聞いた。
「いらない」
俺は即答した。
親父もギレーヌも、少し奇妙な顔をした。籠手は通常、両腕に着けるものだからだ。
「右腕だけでいいのか」
ギレーヌが問うた。
「ああ。左はいらねぇ」
「何故だ」
「何故って言われても。なんとなく、だ」
俺は正直に答えた。本当になんとくなのだ。左腕に籠手を着ける想像が、何故かしっくりこなかった。
「では、脚の方はどうだ」
ギレーヌが棚を指した。
「脚」
「お前、錬金術を使う時に地面を叩くだろう。右手だけでなく脚も地面に触れることがある。あの蛇の時も、踏ん張りが効かんかったら壁は作れまい」
俺は自分の足を見下ろした。
黒のズボン。革の靴。それだけだ。脛が剥き出しだ。
「脛当て、か」
「ああ。これだ」
ギレーヌが取り出したのは、黒い革の脛当てだった。籠手と同じく質素で、装飾のない品。だが革が厚く、留め具がしっかりしている。
「左脚だけでいいのか」
ギレーヌの問いに、俺は一瞬躊躇った。
「…ああ。左だけだ」
「右は」
「いらねぇ」
またしても、右脚には要らなかった。右脚に脛当てを着ける想像が、何故かしっくりこない。左脚だけだ。左脚にだけ、何かが足りないような感覚がある。
俺は脛当てを左脚に着けた。留め具を締める。革が脛に密着する。
立ち上がった。
重心が、変わった。
右腕に籠手。左脚に脛当て。左右が揃っていない。不格好だ。誰が見ても変だ。
なのに。
落ち着く、のだ。
この不揃いの重さが。右腕と左脚にだけ重さがあるこの状態が。何故か、俺の身体がそれを求めていたかのように馴染む。
「動いてみろ」
ギレーヌが言った。
俺は歩いた。止まった。跳んだ。着地した。
「留め具が緩んでいないか」
「緩んでねぇ」
「腕を振ってみろ」
俺は右腕を振った。籠手が動く。指が動く。問題ない。
「次は脚だ。踏み込んでみろ」
左脚を踏み出す。脛当てが動く。重心が移動する。
「…悪くねぇな」
俺は呟いた。
「こちらの方が動きやすい気がする」
「気がする、か。確信はないのだな」
「ああ。ただ、こっちの方がしっくりくる。理由は分からねぇけど」
ギレーヌは俺を見た。
金色の瞳が、右腕の籠手と左脚の脛当てを交互に見る。左右が違う。普通ではない。だがギレーヌはそれを追求しなかった。
「お前の身体がそう覚えているなら、それでいい。だが」
ギレーヌは俺の右腕の籠手を指した。
「その籠手は革と薄い鉄板だ。お前がもし剣を受け止めるつもりでこれを使ったら、腕ごと持っていかれるぞ」
「…剣を止めるつもりはねぇよ」
「ならいい。だが魔物の牙でも同じだ。籠手はあくまで掠った衝撃を和らげるものだ。受け止めるものではない。お前の腕は生身だ。折れれば終わりだ」
生身、という言葉が胸に刺さった。
俺の右腕は、間違いなく肉と骨だ。鋼ではない。折れれば痛い。切り取られれば終わりだ。
「分かってる」
「分かっていないと言うことではない。分かっていても、いざという時に無意識に腕を出すことがある。剣士なら特に。お前は剣士ではないが、その手は何かを作るための手だ。守れ」
俺は自分の右手を見た。
籠手に包まれた右手。
この手は錬金術を操る。地面を叩く。光を走らせる。土を隆起させる。
この手がなければ、俺は何もできない。
「…ああ。守る」
店を出た。
朝の光が、石畳の通りを照らしている。
俺は右手を握った。開いた。握った。
籠手の革が軋む。
「痛むのか」
ギレーヌが、横から聞いた。
「いや」
俺は首を振った。
「痛くねぇ。ただ」
「ただ」
「何かが、あったんだと思う。この手に。この脚に。何かが」
言葉にできなかった。
何があったのか。俺は知らない。記憶にはない。だがこの手は、この脚は、かつて何か別のものだったのではないか。そんな気がしてならなかった。
重さを求める。右腕と左脚にだけ。その重さが、何かを思い出させる。だが思い出せない。
ギレーヌは俺の顔を見ていた。
「思い出せんのか」
「ああ。何も。ただ、これがしっくりくるだけだ」
「…そうか」
ギレーヌはそれ以上聞かなかった。
ただ、俺の右腕の籠手を一瞥し、留め具の位置を直すように顎でしゃくった。
「留め具が少しずれておる。後で直せ」
「ああ」
「それと。その籠手、革の裏当てが厚い。お前の腕が細い。隙間ができる。布を巻いて埋めろ。でないと擦れて血が出る」
「分かった。ありがとう」
「礼はいらん。明日の訓練でずれてなかったらそれでいい」
明日の訓練。
その言葉が、何故か心地よかった。
俺はもう一度右手を握った。
革が軋む。重さが手に伝わる。
分からないことが多すぎる。だがこの重さだけは、今の俺にとって確かなものだった。
理由は分からない。説明もできない。
ただ、右腕と左脚にだけ重さがあるこの状態が、俺の身体を少しだけ俺に返してくれているような、そんな気がしたのだ。
ギレーヌが隣を歩いている。
猫の耳が、朝の風に揺れている。
俺は何も言わず、ただ歩いた。