「腕を上げろ」
武具屋を出たところで、ギレーヌに呼び止められた。
言われるまま右肘を曲げると、籠手の縁が袖を噛む。
「…ちょっと引っ掛かるな」
「貸せ」
返事を待たず、太い指が留め具を外した。
店先には荷車が止まり、通りを歩く連中が次々と俺たちを避けていく。
邪魔にならないよう壁際へ寄った途端、ギレーヌも一歩近づいた。
革紐を引く音が、やけに近い。
「きつければ言え」
「ああ」
腕を預けたまま、指先を眺める。
剣を握る手だ。節には傷があり、爪は短い。
その手が、俺の袖を挟まないよう布を摘まんでいた。
――慣れてんな。
そう思った自分に、苛立ちにも似た何かが芽生える。
誰に慣れているのか。答えはすぐに出た。
俺じゃない。
「緩んだ防具は役に立たん」
いつもどおりの返事だった。
俺が同じことをできるかといえば、怪しい。石や金属の組み方なら頭に入っている。
けれど革紐一本をどれほど締めれば動きを邪魔しないかは、まだ分からない。
「動かしてみろ」
肘を曲げ、掌を開く。今度は袖も引かれなかった。
「お、いいな」
「そうか」
ギレーヌは腕を離すと、その場に片膝をついた。
「次は脚だ」
「そこまで自分で――」
「歩いているうちに、ずれていた」
左の脛当てへ手が伸びる。
俺は持ち上げかけた足を下ろした。
見下ろす位置に、猫の耳がある。
小さく動いた耳の根元で髪が揺れた。
陽に透けた毛先が頬へかかる。
あの大蛇に剣を向けていた時とは、ずいぶん違う角度だった。
「足を引くな」
「引いてねえよ」
「今、引いた」
見られていたらしい。
道の反対へ顔を向ける。干した果物を売る声がしていた。
さっきまで値札を読んでやっていたのに、今は数字を目で追う気にもなれなかった。
革越しに、脛を押さえられる。
「痛むか」
「いや。平気だ」
「なら、じっとしていろ」
買い物に付き合ってもらっただけだ。
そう考えて、余計に落ち着かなくなった。
付き合ってもらっただけなら、なぜそんなことを確かめている。
――指が、温かい。
気がつくと、そればかり考えていた。
剣を振る手。俺の防具を直す手。
誰のために、何度、こうして革紐を締めてきたのか。
「これでいい」
ギレーヌが立ち上がる。反射的に顔を戻して、目が合った。
近い。
いつもなら見上げるのが癪に障る高さなのに、今日は目の置き場に困った。
金色の瞳が、まっすぐ俺を見ている。
何も言わない。ただ、見ている。
その沈黙が、胸の奥を締め付ける。
「どうした」
「何でもねえ」
「顔が赤いぞ」
思わず頬を擦った。籠手の金具が冷たい。
「暑いんだよこのコート」
「脱げばいい」
「今買ったばっかだろ」
ギレーヌは首を傾げたが、それ以上は聞かずに歩き出した。
俺も慌てて隣へつく。
肩が触れるか触れないかの距離。
かすかな獣の匂い。革と鉄の混じった匂い。
それらが混ざり合って、俺の鼓動を少しだけ速めた。
通りの先で焼いた肉の匂いがした。
「あれ、食ってくか」
口にしてから、財布の中身を思い出す。二人分なら、何とかなる。
「腹が減ったのか」
「お前も食うだろ」
「食う」
即答だった。つい笑うと、ギレーヌがこちらを見る。
「何だ」
「いや。手間かけたし、一本くらい奢る」
「頼んではいないぞ」
「俺が食いたいんだよ。一緒に来い」
屋台へ向かって歩き出す。
宿は反対側だったが、そのことは、まだ言わなくてよかった。
隣を歩く足音が、俺の足音と重なる。
そのことが、何故か心地よかった。