金髪お嬢様と銀髪ケモノっ娘メイドの曇らせもの 作:ユッキ〜ゆきゆき
初投稿です。(n回目)
雨の音が、窓の向こうから静かに聞こえていた。
ベルンシュタイン伯爵家の屋敷。その一室に、少女が一人、ベッドに横たわっている。
アリシア・フォン・ベルンシュタイン。
今年で十五歳になる、ベルンシュタイン伯爵家の令嬢だった。
金色の髪は肩のあたりまで伸び、普段なら青いリボンでまとめられている。澄んだ青い瞳と、よく笑う口元。健康的で活発な彼女は、屋敷の中を走り回り、家族を相手に競争を挑んでは、よく母親にたしなめられていた。
しかし、今の彼女は違った。
身体を起こすことさえ難しくなり、白い寝具の上で静かに呼吸をしている。以前は当たり前だった動作も、今では誰かの手を借りなければならないことが増えていた。
ベッドの傍らには、一人の少女が座っていた。
フェリ。
アリシアより一つ年下の、十四歳の狼獣人である。
銀色の髪は少し長く、手入れの行き届いた毛並みの狼耳が頭の上に生えている。腰の後ろには銀灰色の尻尾。琥珀色の瞳は、静かな光を宿していた。
背丈は百四十八センチほど。細身の身体に、屋敷の使用人が着る簡素な服と白いエプロンを身につけている。
表情は控えめで、口数も多くない。
けれど、アリシアが何かを話そうとすると、フェリは必ず耳を傾けた。
かつて、人間を信じることができなかった少女。
そして今、自分の意思で、この部屋に残り続けている少女だった。
「……ねえ、フェリ」
アリシアが、小さな声で呼びかけた。
「はい、お嬢様」
「私たちが初めて会った日のこと、覚えてる?」
フェリは、すぐには答えなかった。
窓を打つ雨音に耳を傾けながら、静かにアリシアの顔を見る。
「……もちろん、覚えています」
「そっか」
アリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「どんな日だったっけ?」
「それは……」
フェリは少しだけ目を伏せた。
忘れるはずがなかった。
あの日のことを。
自分が初めて、この屋敷に連れてこられた日のことを。
そして、初めてアリシアという少女に出会った日のことを。
「……お嬢様は、覚えていないんですか?」
「うーん……。覚えてると思うんだけど、フェリの話も聞きたいな」
アリシアは、まるで昔の楽しい出来事をねだるように言った。
フェリはその表情を見つめた。
今のアリシアは、あの日の彼女とはずいぶん違う。
けれど、こうして何かを知りたがるところは、少しも変わっていなかった。
「……わかりました」
フェリは、そっと目を閉じた。
遠い日の光景が、ゆっくりと浮かび上がる。
「それでは、お話ししますね」
――あの日は、今日みたいに雨は降っていませんでした。
もっと暖かくて、よく晴れた日でした。
ベルンシュタイン伯爵家の屋敷には、朝から柔らかな日差しが差し込んでいた。
「お父様、今日はいつ帰ってくるの?」
階段を駆け下りながら、アリシアは居間に顔を出した。
青いリボンでまとめた金色の髪が、走るたびに揺れる。
十五歳の少女とはいえ、彼女はじっとしていることが苦手だった。面白そうなことがあればすぐに首を突っ込み、思いついたことはすぐに試してみる。負けず嫌いで、特に競争となれば相手が父親でも容赦しなかった。
「昼過ぎには戻る予定だ。どうした、何か約束でもあったか?」
新聞を畳みながら、父親のベルンシュタイン伯爵が尋ねた。
「ううん! 帰ってきたら競走しようと思って!」
「ははは。お前は本当に競走が好きだな」
「だって、勝ったらお父様が何でも一つお願いを聞いてくれるんでしょう?」
「そんな約束をした覚えはないがな」
「えーっ!」
アリシアは頬を膨らませた。
その様子を見て、母親がくすりと笑う。
「アリシア、今日は新しい使用人が来るのよ。あまり屋敷中を走り回って、驚かせないようにね」
「新しい使用人?」
「ええ。あなたと年の近い女の子だそうよ」
「女の子!?」
アリシアの青い瞳が輝いた。
「お友達になれるかな?」
「それは、会ってみないとわからないわね」
「そっか!」
アリシアは嬉しそうに頷いた。
彼女にとって、人と仲良くなることは難しいことではなかった。
自分から話しかければいい。笑いかければいい。一緒に遊ぼうと誘えばいい。
少なくとも、アリシアはそう信じていた。
しかし、その考えが誰にでも通じるわけではないことを、彼女はまだ知らなかった。
屋敷の正門前に、一台の馬車が止まった。
降りてきたのは、商人風の男と、一人の少女だった。
少女は暗い色の服を身につけ、俯いたまま立っていた。
銀色の髪は乱れ、頭の上の狼耳は警戒するように後ろへ倒れている。尻尾も身体に寄せられ、わずかな動きさえ見せなかった。
琥珀色の瞳には、年齢に似合わない警戒心が浮かんでいた。
彼女の名はフェリ。
十四歳の狼獣人だった。
細身で小柄な身体には、これまでの暮らしの厳しさが滲んでいた。誰かに見られるたびに身体を強張らせ、声をかけられるたびに相手の表情を窺う。
相手が笑っているのか。
怒っているのか。
次に何をされるのか。
それを判断することは、フェリが生き延びるために身につけた習慣だった。
「おい、ぼさっとするな。ご挨拶だ」
男がフェリの肩を押した。
少女の身体が小さく揺れる。
「……よろしく、お願いいたします」
かすれた声だった。
男はそれを聞いて鼻を鳴らすと、伯爵に向き直った。
「契約に従い、獣人の娘をお連れしました。仕事については一通り教えてあります。多少扱いづらいところはありますが、命令には従いますので」
フェリは俯いたまま、指先を握りしめた。
扱いやすいかどうか。
人間たちは、いつもそんな話ばかりする。
どれだけ働けるか。どれだけ従順か。どれだけ面倒を起こさないか。
自分が何を思っているのかを尋ねる者は、ほとんどいなかった。
「そうか。ご苦労だった」
伯爵は差し出された書類に目を通した。
「君の名前は?」
フェリの肩がぴくりと動いた。
「……フェリ、です」
「フェリか」
伯爵は名前を繰り返した。
「私はこの屋敷の主人だ。ここで働く以上、規則は守ってもらう。ただし、理由もなく暴力を振るうことは認めない。困ったことがあれば、屋敷の者に申し出なさい」
フェリは返事をしなかった。
そんな言葉を信じて、何になるのだろう。
人間は、最初だけ優しいことがある。
優しくしておけば、相手が逆らわなくなると知っているから。
少女は何も言わず、ただ頭を下げた。
「お父様! その子が新しい使用人?」
玄関から飛び出してきたアリシアが、フェリを見つけて立ち止まった。
フェリは反射的に身構えた。
明るい声。まっすぐ向けられる視線。
どちらも苦手だった。
「そうだ。アリシア、こちらがフェリだ」
「フェリ……」
アリシアは、彼女の顔を覗き込もうとした。
フェリは一歩、後ろへ下がった。
アリシアの動きが止まる。
「あ、ごめんね。びっくりした?」
そう言って、彼女は一歩下がった。
フェリは警戒を解かなかった。
近づけば逃げるとわかったから、今度は離れてみせた。
それだけのことかもしれない。
「私、アリシア! よろしくね!」
アリシアが手を差し出した。
フェリは、その手を見つめた。
白く、傷のない手だった。
自分の手とは違う。
差し出された手を取らなかったとき、何が起きるのか。
相手の機嫌を損ねたら。
無視したと怒られたら。
殴られるかもしれない。
フェリの身体は、答えを出せずに固まっていた。
「……フェリ?」
「アリシア」
母親が静かに声をかけた。
「初めて会ったばかりなのだから、少し時間をあげましょう」
「……うん」
アリシアは差し出していた手を下ろした。
「ごめんね。急に話しかけちゃった」
フェリは顔を上げた。
怒られなかった。
手を取らなかったのに。
それが不思議だった。
けれど、信じる理由にはならない。
フェリは再び俯いた。
その日の夕方。
フェリは使用人用の部屋で、これからの仕事について説明を受けていた。
掃除、洗濯、配膳の手伝い。
屋敷で暮らすために必要なこと。
説明をしてくれた年配の侍女は、フェリの獣耳を見ても、特に反応を示さなかった。
「わからないことがあれば、いつでも聞いてちょうだい」
「……はい」
「それと、食事は食堂の奥に用意してあるからね。今日は疲れたでしょう。しっかり食べて、ゆっくり休みなさい」
侍女が部屋を出ていくと、フェリはようやく息を吐いた。
ベッドの端に腰を下ろす。
柔らかい。
自分が座ってもいいのか、少し迷うほどだった。
部屋には小さな窓と、木製の机がある。
鍵のかかった扉も、鎖もない。
それでも、フェリは自由だとは思えなかった。
契約がある。
自分は、この屋敷に所有されている。
それが変わらない限り、どんな部屋を与えられても同じだった。
しばらくして、廊下から足音が聞こえてきた。
「フェリー! いるー?」
聞き覚えのある声だった。
フェリは慌てて立ち上がる。
「……はい」
扉を開けると、アリシアが立っていた。
両手には、小さな皿がある。
「これ、持ってきたの!」
皿の上には、焼き菓子が二つ載っていた。
「夕食まで、まだ時間があるでしょ? お腹が空いてないかなって」
アリシアは皿を差し出した。
「お母様が焼いてくれたの。私も手伝ったんだよ!」
フェリは菓子とアリシアの顔を交互に見た。
「……どうして」
「え?」
「どうして、私に?」
アリシアは少し考えた。
「どうしてって……お腹が空いてたら、食べたいかなって思ったから」
あまりにも当たり前の答えだった。
フェリには、その当たり前がわからなかった。
「……必要ありません」
口から出たのは、そんな言葉だった。
アリシアの表情が、ほんの少しだけ曇った。
「そっか。ごめんね」
けれど、怒らなかった。
「じゃあ、ここに置いておくね。あとで食べたくなったら食べて!」
アリシアは机の上に皿を置いた。
「おやすみ、フェリ!」
手を振って、廊下を戻っていく。
その足音が遠ざかるまで、フェリは扉の前から動けなかった。
どうして、怒らないのだろう。
どうして、拒まれても笑っていられるのだろう。
どうして、何も求めずに菓子を置いていけるのだろう。
答えはわからなかった。
フェリは扉を閉め、机の上の皿を見た。
焼き菓子は二つ。
どちらも、綺麗な形をしていた。
手を伸ばしかけて、止める。
食べてしまったら、何かを返さなければいけないのではないか。
明日、何かを命令されるのではないか。
そんな考えが頭から離れなかった。
結局、フェリは菓子に手をつけず、ベッドに入った。
翌朝。
机の上には、焼き菓子が一つ残っていた。
もう一つは、皿から消えていた。
フェリはそれを見つめ、しばらくしてから顔を背けた。
誰にも見られていない。
誰にも知られていない。
だから、これは何でもないことだ。
ただ、お腹が空いていただけ。
それだけなのだから。
フェリは扉を開け、廊下へ出た。
今日から、ここで働かなければならない。
人間を信じるつもりはなかった。
友達を作るつもりもなかった。
ただ、余計なことをせず、命令に従い、何事もなく日々を過ごす。
それだけでいい。
そう思いながら歩き出したフェリの耳に、屋敷の向こうから明るい声が届いた。
「フェリ! おはよう!」
アリシアが、こちらへ駆けてくる。
フェリは思わず足を止めた。
そして、昨日と同じように身構えた。
「今日もよろしくね!」
アリシアは、昨日と変わらない笑顔を向けた。
フェリは答えなかった。
まだ、答えられなかった。
けれど、その声は。
昨日よりも、ほんの少しだけ。
怖くない気がした。
高評価だったら続きます。