森で拾った素顔を見せない少女をお世話するうちに、ふたりで堕ちていく話 作:わた飴ちゃん
そこは、光の届かぬ森の奥。
鼻を突く重たい脂の臭いと、ぬちゃり、と肉が蠢く湿り気のある音。
「ぐぅ…Ж…gô…ぁ…ع」
闇の底で、それは濁った呻き声を上げた。まるで、おはよう、と挨拶でもするように。
そっと手を伸ばし、それを優しく、優しく撫でる。あまりに脆くて愛おしい、世界でたったひとつの壊れ物を扱うように。
「おはよう。今日も可愛いね。……いい子、いい子」
「ご…縺…ن…н…gص…ぐش」
「え? なに、キス? キスしたいの? ふふ、どうしよっかな」
「アあ゛…ق…Ж…っ!! …ア縺ذ…Ø」
「あははっ、もう、怒らないでよ。……仕方ないなあ」
焦れったそうに震えるそれに顔を近づけ、かつて唇だったはずのそこへ、ゆっくりと口づけを重ねた。
ふ……と、混ざり合う熱い息。
お互いの粘膜が溶け合う音が、耳から全身を伝う。
「だいすきだよ。……ずっと、ずーっと、一緒だからね」
何も見えない真っ暗闇の中で、静かに微笑んだ。
***
「おはよう、リリアちゃん! 今日もいい天気だねぇ」
石畳の路地に足を踏み入れると、果物屋のおじさんが陽気な声で手を振ってくれた。
「おはようございます、ハリーさん! 本当、お洗濯物がよく乾きそうな日ですね」
「ハハッ、相変わらず元気がいいね。ほら、これ持っていきな!」
「わっ!」
果物屋のおじさんから押し付けられるように渡されたのは重い紙袋。中身を見ると、ツヤツヤと赤く光るリンゴが山盛りで入っている。
(こんなに食べきれないよ……)
心の中ではそう苦笑いが浮かんだ。けれど、「ありがとう!」と笑い返すと、おじさんは嬉しそうに目を細めた。
日差しが降り注ぐ商店街は、今日もたくさんの人で賑わっている。
焼き立てパンの香ばしい匂い、焼鉄を打つカンカンという高い音、走り回る子どもたちの笑い声。
みんな優しくて、あたたかくて、平和な日常。そんな、“ルティカ”という街が好きだった。
私は買い出しの籠と山積みのリンゴを抱えながら、軽やかな足取りで商店街を歩いていく。
***
買い物を終えて家へ帰る途中、ふと強い風が吹き抜けた。
「あっ……!」
紙袋に一杯だったリンゴが、ひとつ、手すりから落ちて転がっていく。コロコロと坂道を転がったリンゴは、町と森を隔てる古い木の柵をすり抜け、影の濃い木立の中へと消えてしまった。
「わっ、待って、落ちちゃう――」
おじさんからもらった大切なリンゴだ。無駄にしたくない。私はそっと柵をくぐり、普段はあまり近づかない森の中へと足を踏み入れた。
木々の葉が重なり合い、太陽の光が途切れる。ひんやりとした空気に包まれながら湿った土を踏みしめていく。
木の根元に、転がっているリンゴが見えた。
「ふう、よかった。あった……」
ホッと胸を撫で下ろし、かがんでリンゴを拾い上げたときだった。
カサ、と小さな音が聞こえた。風の音ではない。もっと弱々しくて、頼りない音。
視線を奥へ向けると、大きな幹の影に、何かが丸まっているのが見えた。
「…………え?」
近づいてみて、思わず息を呑む。そこに倒れていたのは、私よりも背丈が少し小さいぐらいの、ひとりの少女だった。
泥と埃でボロボロに破れた、汚れた白いワンピース。華奢な身体は小さく震えていて、今にも消えてしまいそうだった。
そして何より目を引いたのは、こちらを向いた、その顔だった。
鼻と口元、首までを覆うように、分厚い白い包帯がぐるぐると何重にも巻きつけられている。ぎょっとするぐらい大きなグレーの瞳は澱んでいる。息が浅いようだった。
「え、どうしたの……!? 大丈夫!?」
驚いて駆け寄り、膝をつく。少女はビクッと身体を強張らせ、怯えたように私を見上げた。
「んぅ……っ、ぅ……」
包帯の奥から漏れ出たのは、声にならない苦しげな呻き声。
目元は大きくくぼみ、包帯で口元が見えなくても、顔色が恐ろしいほど悪いのが一目で分かった。ずっと何も食べていないのか、喉がカラカラに乾いているのが伝わってくる。
どうしよう。町のお医者様を呼んでこようか。……でも、この子をここに置いたまま離れるのは危ない気がする。
焦る私の視界に、ふと、手に握りしめていた赤くて丸いリンゴが入った。
「あのね、これ……よかったら、食べて?」
刺激しないよう、できるだけ優しく声をかけながら、リンゴの入った紙袋を女の子の前にそっと差し出した。
その瞬間。少女の澱んでいた瞳が、パッと明るく輝いた。
キラキラとした、可憐で綺麗な丸い目。少女は差し出されたリンゴと私の顔を交互に見つめると、震える小さな手でおずおずと紙袋を受け取った。包帯に包まれた小さな手足。ぎこちない動作だった。
「あげるね」
そう微笑むと、女の子は胸の前で大事そうにリンゴの入った紙袋をぎゅっと抱きしめた。
そして次の瞬間、弾かれたように身を起こすと、私に背を向けて森の奥へと走り出してしまった。
「あ、待って――!」
呼び止める声も届かず、小さな背中はあっという間に深い緑の奥へと消えていく。
追いかけようとした。けれど、彼女の走る足取りは思ったよりもずっと速くて、すぐに姿が見えなくなってしまった。
「……行っちゃった。大丈夫かな」
ポツンと一人残された森の中で、私は自分の手を見つめる。手にはまだ、少女に差し出したときのぬくもりが少しだけ残っていた。
包帯を巻いた、不思議な女の子。
怪我をしていたのかな。でも、リンゴを持って走れるなら大丈夫なのかな。
「まあ、いっか。美味しく食べてくれたらいいな」
深く考えずに、私はスカートの汚れをパンパンと払い、明るい光が差し込む町の方へと歩き出した。
この小さな出会いが、私の人生を大きく変えることになるなんて。
――この時の私は、思いもしなかった。