Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
その春、ロアーヌ地方の森では、妙なことが起きていた。
森の奥に棲む魔物が、西へ移動している。普段なら縄張りを出ない大型の魔獣までが、獣道を越え、同じ方角へ向かっていた。
何かに追われるように。
ロアーヌで反乱が起きる三日前、シノンの宿に一人の女が泊まった。
緩やかに波打つ金髪を後ろで束ねた、すらりとした女だった。琥珀色の瞳に、金糸の刺繍が入った濃紺の上衣。腰には細身の剣を下げている。
夕食を済ませると、女は窓辺の卓に地図を広げた。肩にこぼれた金髪を指先で払い、古い道筋を一つずつ確かめていく。髪を留めた青い宝石が、ランプの明かりを受けて小さく光った。
旅の汚れは落としていたが、地図には何度も折り直した跡があり、細かな書き込みが重ねられている。女は窓の外に目を向けた。雲の切れ間から、いくつかの星がのぞいている。その位置を確かめるように見上げてから、再び地図へ視線を戻した。
宿の主人が皿を下げに来ても、女は地図から目を離さなかった。傍らには、手つかずのまま冷めた茶が残っていた。
「何を調べてるんだい。こんな時間まで」
「この辺りの古い遺構を調べているんです。昔の地図には載っているのに、今の地図にはない場所がいくつかあって」
女は地図を主人の方へ回した。古い街道や、既に使われなくなった道の跡が細かく書き込まれている。
「それで、森へ?」
「ええ。ただ、少し気になることがあって」
女の指が、地図の東側で止まった。
「ここ数日、道中で妙な足跡を見かけたんです。森の魔物が、西へ移動しているようで。種類も縄張りも違うのに、同じ方向へ」
「そりゃ助かる。勝手にいなくなってくれるなら、ありがたいよ」
「そうですね。逃げている理由が分かれば、ですが」
主人の笑いが止まった。
「……もっと大きな魔物とか?」
「かもしれません。でも、それなら何か痕跡が残っているはずです」
女はペンを置き、窓の外へ目を向けた。森に面した窓の向こうでは、風に揺れる梢だけがかすかに音を立てていた。
「明日、少し調べてみます」
「一人で?」
「今のところは」
「やめといた方がいいんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
女はしばらく地図を見つめていた。
「でも、何も分からないまま帰るのも、少し気になるので」
主人は呆れたように首を振った。
女はようやく冷めた茶に手を伸ばした。
*
翌朝、女は川沿いの細い道へ入った。
木々の間には新芽がのぞき、湿った土に幾つもの獣の足跡が残されていた。大きさも形も違う。だが、そのどれもが西へ向かっている。
しゃがみ込んで足跡を確かめていた女は、ふと顔を上げた。
枝の折れる音がした。続いて、藪が大きく揺れる。
現れたのは、獅子ほどもある巨大な猪だった。
赤茶色の剛毛に覆われた太い胴体。地面を踏みしめる四肢。そして何より目を引くのは、下顎から大きく突き出た、異様に長い牙だった。
バーゲスト。
並の猪とは比較にならない巨体と凶暴さを持つ魔物だ。単独の旅人なら、見つけた時点で道を変える相手だった。
女はゆっくりと立ち上がった。
バーゲストはこちらを見ていない。荒い息を吐きながら、何度も背後の森を振り返っている。
「……あなたまで?」
小さな呟きに、獣の頭が向いた。
次の瞬間、巨体が地面を蹴った。
女は剣を抜き、道の脇へ身をかわした。
長い牙が外套の端をかすめ、重い足音がすぐ横を通り過ぎる。束ねた金髪が勢いよく肩へ流れた。
すれ違う一瞬、女の目があるものを捉えた。
魔物の左胸に、古い傷が走っている。厚い剛毛が途切れ、その周囲だけ皮膚が不自然に引きつれていた。
バーゲストが向きを変えた。
女は剣を構え直し、近くの太い木の脇へ移動した。切っ先を低く保ち、巨体の動きを見据える。
再び、バーゲストが突進した。女は木の幹を挟むように身をかわした。
魔物は幹を避けようと、大きく進路を変えた。その瞬間、左の前脚が外へ開き、胸の古傷が引きつれた。
女が一歩踏み込む。狙いは、そこだけだった。
細い剣の切っ先が、古傷の下へ突き込まれ、獣の巨体が跳ねた。
手首に重い衝撃が走る。女はすぐに剣を引き抜き、後ろへ跳んだ。
バーゲストはなお数歩走ったが、やがて前脚が崩れ、土を削りながら倒れ込んだ。
女は剣を構えたまま、その場を動かなかった。しばらく待っても、獣は起き上がらない。
ようやく剣を下ろすと、短く息を吐いた。頬にかかった金髪を払う手には、まだわずかに力が入っていた。
刃の血を拭い、動かなくなった獣に目を落とす。
「ごめんなさい」
低く呟いてから、獣が逃げてきた方角を見た。
風に葉が揺れている。
だが、その奥からは何の声も聞こえなかった。
*
その後、女は川の浅瀬を渡り、森の外縁から北の丘へ抜ける道を確かめた。
丘へ続く道には、先ほどのような大型の魔獣の足跡は見当たらなかった。
夕方、宿へ戻った女は、主人に一枚の紙を差し出した。
昨夜まで広げていた地図とは違う。街道と川筋だけを抜き出した、簡単な略図だった。
本街道から外れ、川の浅瀬を渡って北の丘へ抜ける道に、赤い線が引かれている。途中には浅瀬の位置と、増水した際の迂回路も書き込まれていた。
「ここから北東方面へ行く方がいたら、これを見せてください」
「街道じゃ駄目なのか?」
「北東の森を通る部分は木が倒れていたので避けた方がいいと思います。こちらの道は、今日実際に歩いて確かめました」
「何がいたんだい」
「まだ分かりません。ただ、大きな獣まで何かから逃げていました。」
主人は赤い線を見つめた。
「じゃあ、こっちの道なら安全なんだな?」
「今のところは。夜や雨の後まで保証はできません」
「そこは言い切ってくれないのか」
女は顔を上げた。
「言い切った方が、信用できます?」
主人は苦笑し、略図を受け取った。
女は翌朝、シノンを発った。
*
その翌日の夜、ロアーヌ城の鐘が鳴った。
いつもの時刻より早い。しかも、鳴りやまない。
薔薇色のドレスの裾をつかみ、一人の娘が石の階段を駆け下りていた。
背中まで伸びた長い金髪が走るたびに揺れ、丁寧に切り揃えられた前髪も乱れている。金糸の刺繍が施された衣装は、城の中を駆け回るにはあまりに華やかだった。
廊下の奥から怒声と金属のぶつかる音が響く。衛兵たちが慌ただしく走り回っていたが、誰が味方なのかも分からない。
娘は青い瞳を不安げに揺らしながら、階段を下りきった。
「モニカ様、こちらです!」
角の先から、聞き慣れた声がした。
モニカが顔を上げると、淡い紫を帯びた銀髪の女が、菫色の衣を翻して駆け寄ってきた。その手には、抜き身の剣が握られている。
優美な曲線を描く鍔には紫色の宝石が輝き、磨き上げられた刀身が廊下の灯を映していた。
聖王遺物《マスカレイド》。ロアーヌ侯爵家に伝わる宝剣だった。
女はモニカを柱の陰へ引き入れ、廊下の向こうを確かめてから口を開いた。
「ゴドウィン男爵の兵が城内へ入りました。衛兵の一部も寝返っています」
「兄様は?」
「軍の視察から、まだお戻りではありません」
モニカは息をのんだ。
兄の留守に城を押さえ、妹である自分を捕らえる。戻ってきた兄に何を要求するつもりなのか、考えたくもなかった。
「ミカエル様へ知らせてください。厩舎の裏に、古い通用門があります」
「私が……一人で?」
「はい」
「カタリナは?」
「城に残ります。こちらへ兵を引きつければ、門まで追っ手が回るのを遅らせられます」
カタリナは落ち着いた声で答えた。
だが、モニカには分かっていた。それがどれほど危険な役目なのか。
廊下の向こうで、誰かがモニカの名を呼んだ。
カタリナの表情が引き締まる。剣を握り直し、声のした方へ目を向けた。その動きに合わせて、長い銀髪が肩の上を滑った。
もう、引き止めている時間はなかった。
「シノンを目指してください。そこから北東の演習地へ。土地の者に案内を頼めば、軍の居場所も分かるはずです」
カタリナは腰に差していた小剣を鞘ごと外し、差し出した。
「これも、お持ちください」
モニカは小剣を受け取った。震える指ではうまく扱えず、何度か手間取りながら、ようやく腰の帯へ差し込む。
カタリナはさらに、胸元から小さな革袋を取り出した。
「こちらもお持ちください。二百オーラム入っています」
「でも、カタリナは?」
「私は城に残ります。道中で助けが必要になったら、ためらわず使ってください」
モニカは袋を受け取り、帯の内側へしまった。
「……分かったわ」
「道では、声をかけられても不用意に近づかないでください」
「あなたも、無茶をしないで」
カタリナが、ほんの少し困った顔をした。
「それは、こちらがお願いしたいことです」
モニカは思わずカタリナに抱きついた。
菫色の衣に頬を寄せると、剣を持たない方の腕が、そっと背中に回された。
ほんの短い抱擁だった。
モニカはすぐに腕をほどき、教えられた通路へ走り出す。
角を曲がる時、一度だけ振り返った。
カタリナはもう、兵の声がする方へ向き直っていた。
長い銀髪が背中で揺れ、菫色の裾が石床をかすめる。
その手に握られたマスカレイドだけが、廊下の灯を冷たく映していた。
*
同じ頃、シノンの酒場では、一人の男が二オーラムを巡って店主ともめていた。
「昨日は十だった」
「今日から十二だ。仕入れが上がったんだよ」
「肉が減ってる」
「だから仕入れが上がったって言ってるだろ!」
男は空になった皿を見下ろし、再び店主へ目を向けた。
肩まで伸びた黒い癖毛に、日に焼けた精悍な顔。顎には短い髭を蓄え、切れ長の目には鋭さがあった。黒い上衣に深紅の腰帯を巻き、腰には異国風の曲刀を佩いている。
いかにも腕の立ちそうな旅の剣士だったが、今は二オーラムを巡って一歩も譲る気配がなかった。
店主が帳面を卓へたたきつけても、顔色ひとつ変えない。
「値上げするなら、食う前に言え」
「そこは、まあ……言い忘れたが」
隣の卓から、吹き出す声がした。
「二オーラムでよくそこまで粘るね」
声の主は、鮮やかな赤毛を高い位置で束ねた若い女だった。大きな白いリボンで結んだ長い髪が、笑うたびに肩の上で揺れる。
男が振り向く。
「パンが買える」
「だったら、最初からパン食え!」
店主が言う。
「もう食った」
「だから払えって!」
赤毛の女がとうとう声を上げて笑った。
その隣で、栗色の髪の少女がそっと姉の袖を引く。長い髪を後ろで束ね、赤いリボンが髪を飾っている。
「お姉ちゃん、聞こえてるよ」
「聞かせるつもりで言ったんだけど」
「面白くねえぞ」
男が言うと、赤毛の女は口元を押さえた。
「うん。おいしくなかったんだね」
「味の話じゃない」
「エレン、もうその辺にしとけよ」
向かいに座っていた緑髪の青年が、呆れたように言った。腰には剣を下げている。
「旅人って、みんなああなのか?」
青年が尋ねると、その隣で本を開いていた男が顔を上げた。
濃い茶色の髪に、細い金属縁の眼鏡。落ち着いた物腰は、同じ卓の二人とは少し違っていた。
「店主が先に値段を伝えていれば、済んだ話だね」
眼鏡の青年はそう言って、杯を持ち上げた。
「いや、そういう話してないけど」
「値段の話なら、彼にも言い分はあるよ」
「トーマス、そっちにつくんだ」
エレンが意外そうに言う。
「つくというほどじゃない。僕なら次から、注文する前に聞く」
結局、十一オーラムで話がついた。
男が銀貨を置くと、店主はそれをひったくるように集めた。
「次から先に聞け」
「先に言え」
最後まで譲らない男に、エレンがまた笑いかけた。
暖炉では薪がはぜ、厨房からは煮込み料理の匂いが漂っていた。外では雨が降り始めていたが、酒場の中はいつもと変わらず賑やかだった。
その時だった。
酒場の扉が勢いよく開いた。
雨と冷たい風が吹き込み、入口近くのランプの炎が大きく揺れる。
戸口に、一人の少女が立っていた。
背中まで伸びる長い金髪は雨に濡れ、白い頬に張りついている。金糸の刺繍が施された薔薇色の衣装は泥にまみれ、繊細なレースの裾もところどころ破れていた。
それまで賑やかだった酒場が静まり返った。
店主は手にしていた布巾を置き、エレンも笑うのをやめた。少女の衣装から滴る雨水が、床に小さな染みを作っている。
城の貴婦人を思わせる華やかな装いだったが、今はその面影を残すばかりだった。
少女は扉に手をつき、荒い息を整えようとしていた。腰には、衣装には不釣り合いな小剣が差されている。
「お願い……どなたか、ミカエルお兄様へ……」
その顔を見た店主が、息をのんだ。
「モニカ様……?」
ロアーヌ侯ミカエルの妹、モニカ・アウスバッハ。
少女は店主を見つめ、かすかにうなずいた。
「兄様に……知らせなければ……」
言い終わる前に、膝が折れた。
「大丈夫ですか!」
真っ先に立ち上がったのは、栗色の髪の少女だった。
「ユリアン、手を貸して!」
緑髪の青年が椅子を蹴るように立ち上がり、倒れかけたモニカの身体を支えた。
「おい、しっかりしろ!」
モニカはかすかに目を開いたが、返事をする余裕はなかった。
ユリアンが近くの椅子へ座らせると、少女はその前に膝をつき、濡れた金髪をそっと頬から払った。
「もう大丈夫です。少し休んでください」
トーマスはすぐに店主へ水を頼み、エレンは入口へ向かった。
外を確かめる。雨に煙る街道には、人影が見えない。
ひとまず追っ手の姿はなかった。
エレンは扉を閉め、振り返った。
黒髪の剣士だけは、まだ席を立っていなかった。
だが、その視線はすでに戸口へ向いていた。
窓の位置、少女の泥だらけの靴、そして腰に差された小剣。
それらを順に確かめると、男は静かに卓へ視線を戻した。
*
話を聞き終えた時、酒場の客は誰も杯を動かしていなかった。
ゴドウィン男爵が反乱を起こした。兵が城内へ入り、衛兵の一部も寝返った。ミカエルは軍の視察に出ており、まだ何も知らないかもしれない。
モニカは両手で水の杯を包み込んでいた。冷えきった指先は、まだわずかに震えている。
「行こう。すぐ知らせないと」
ユリアンが立ち上がり、椅子に掛けていた剣帯を引き寄せた。
「北東の演習地だよね?」
エレンの問いに、トーマスがうなずく。
「ただ、本街道は避けたい。男爵の兵が、軍へ通じる道を見張っているはずだ」
眼鏡の位置を直しながら、窓の向こうへ目を向ける。
「それに、この雨だ。森の道も簡単には通れないだろうね」
「なら、川沿いを通れるか聞こう。宿の主人なら、裏道も知ってるかもしれない」
エレンが腰を上げると、隣の少女も立ち上がった。
「私も行く」
エレンは妹を見た。
「サラは、ここで待っててもいいんだよ」
サラは一瞬、視線を落とした。
「……待ってる方が、怖い。お姉ちゃんが帰ってくるか分からないから」
エレンは何か言いかけたが、妹の顔を見て口を閉じた。
それから、椅子に立てかけられた弓へ目を向ける。
「……分かった。じゃあ、一緒に」
サラが小さくうなずいた。
その時、黒髪の剣士が立ち上がった。
隣の椅子に置いていた荷袋を持ち上げる。
「俺は寝る」
ユリアンが振り向いた。
「手伝わないのか?」
「……俺はここの兵士じゃない」
「でも、困ってるだろ」
「困ってる奴は世界中にいる。全部助けて歩けるか」
ユリアンの眉が寄った。
「そういう話じゃないだろ」
「じゃあ、どういう話だ」
男は荷袋の紐を確かめながら答えた。
「城を押さえた反乱軍が相手だ。夜の森を抜けて、軍の居場所を探す。見つかれば殺されるかもしれん。勢いだけでどうにかなる仕事じゃない」
「だからって、放っておけるかよ!」
「放っておけないなら、お前が行けばいい」
ユリアンが言葉を詰まらせた。
二人の間に、険悪な沈黙が落ちる。
「報酬をお支払いします」
その沈黙を破ったのは、モニカだった。
男の手が止まった。
「いくらだ」
「……今ので止まるんだ」
エレンが呆れた声を漏らす。
男は構わず、モニカへ目を向けた。
「夜の森を越える。反乱軍にも会うかもしれん。命を懸ける仕事だぞ」
モニカは杯を卓に置き、まっすぐに顔を上げた。
澄んだ青い瞳には、疲労の色が濃い。それでも、先ほどまでの怯えとは違うものが宿っていた。
「兄のもとへ着くまで、千オーラムでお願いできますか」
男は少し考えた。
それから、卓の周りへ視線を巡らせる。
緑髪の青年の剣。眼鏡の青年が壁に立てかけた槍。赤毛の女の斧。そして栗色の髪の少女の弓。
少なくとも、丸腰の連中ではない。
「前金は?」
エレンが額を押さえた。
「もう、徹底してるね……」
モニカは帯の内側から、カタリナに渡された小さな革袋を取り出した。
金貨を確かめながら、少し申し訳なさそうに言う。
「二百なら、今お渡しできます」
「残り八百は、着いてからだ」
「はい」
「貴方のお名前は何でしょうか?」
モニカが尋ねる。
「ザイン。ザイン・アル=ラシードだ」
短く答えると、男は差し出された袋を受け取った。
重さを確かめてから腰に収め、荷物を肩へ掛ける。
「行くぞ」
ユリアンが目を丸くした。
「さっきまで寝るって言ってたじゃないか」
「今は仕事だ」
「金さえもらえば何でもいいのかよ」
「引き受けた仕事はする。それだけだ」
ユリアンはまだ納得がいかない様子だったが、トーマスが間に入った。
「引き受けた以上は、頼りにしていいんだね」
ザインは振り向いた。
「金を受け取ったな」
「分かった」
トーマスはそれ以上、聞かなかった。
代わりに自分の槍を取り、穂先を覆う布を確かめる。
エレンは小さく肩をすくめた。
「変なおじさん」
ザインは聞こえなかったふりをした。
*
出発の支度が進む頃、エレンとサラが宿の主人を連れて戻ってきた。
主人は一枚の紙を大事そうに抱えている。
「川沿いを通るなら、これが使えるかもしれん。先日泊まった旅人が置いていったんだ」
卓へ広げられたのは、手描きの略図だった。
街道と川筋が描かれ、北の丘へ抜ける道には赤い線が引かれていた。
トーマスが身を乗り出した。
「北東の丘へ抜ける道か。この先なら、演習地へ回れる」
「でも、古い獣道でしょ。今も歩けるの?」
エレンが尋ねる。
「本人は確かめたと言ってたよ。金髪の女でな。星や地図ばかり見てた、ちょっと変わった旅人だった」
「金髪の女の人……」
サラが呟いた。
ザインは卓の向こうから地図を引き寄せた。
赤い線を指で追っていく。
川へ下りる箇所。浅瀬。丘へ上がる斜面。
途中で、指が止まった。
「……歩いて描いてるな」
「どうして分かるの?」
サラが卓の端からのぞき込む。長い栗色の髪が肩からこぼれ、細い三つ編みが揺れた。
「ここだ」
ザインは赤い線の途中を指した。
「丘を真っすぐ越える方が早いのに、一度川の方へ下りてる。地図だけ見て引いた線なら、わざわざ遠回りにはしない」
「上に何かあるってこと?」
ユリアンが尋ねる。
「崖か、倒木か。それとも魔物か。行ってみないと分からんが、通れない理由があったんだろ」
トーマスもうなずいた。
「浅瀬の位置も具体的だね。雨の時の迂回路まである。少なくとも、現地を知らずに描いた地図には見えない」
「今夜は雨が降ってるけど、大丈夫かな」
サラが窓を見た。
雨脚は先ほどより弱まっていたが、まだ細かな雨が降り続いている。
「増水していれば浅瀬は使えない。その時は、こっちへ回る」
ザインが別の線を指した。
「時間はかかるが、無理に川を渡るよりはましだ」
モニカは卓に広げられた地図を見つめていた。
「この方を、信じてもよいでしょうか」
ザインは顔を上げた。
「会ってもない奴のことは知らん」
そう言って、もう一度赤い線を確かめる。
「だが、道は使えそうだ。行って確かめる」
トーマスが地図を畳み、荷物へ収めた。
ユリアンは剣帯を締め直し、エレンは妹の弓を確かめた。
モニカも立ち上がった。濡れた金髪を肩の後ろへ払い、腰に差した小剣へ手を添える。
その手は、もう震えていなかった。
ザインは一同を見渡した。
「準備はいいな」
誰も異を唱えなかった。
扉を開けると、雨の匂いを含んだ夜風が吹き込んできた。
六人は、シノンの酒場を後にした。
*
六人が森へ入る頃には、雨は弱まっていた。
木の葉から落ちる雫が、外套の肩をたたく。足元はぬかるみ、踏み出すたびに靴が湿った土へ沈んだ。
ザインが先頭で地図と道筋を確かめ、トーマスが最後尾を歩く。モニカのそばにはユリアンがつき、少し後ろをエレンとサラが続いていた。
しばらく森を歩いたところで、ユリアンがザインの腰へ目を向けた。
「その剣、変わった形だな」
「そうか?」
「ロアーヌじゃ、あまり見ない。どこで覚えたんだ?」
ザインは前を向いたまま答えた。
「昔だ」
「へえ。どの辺で?」
「護衛に必要な話か?」
ユリアンが少し目を瞬いた。
「いや。珍しかったから、ちょっと気になっただけだ」
「そうか」
ザインはそれ以上、話さなかった。
一つ答えれば、次を聞かれる。
どこの生まれだ。誰に剣を習った。家族はいるのか。
昔のことを聞かれるのは、あまり好きではなかった。
*
一時間ほど進んだところで、サラが足を止めた。
「……静かすぎない?」
全員が立ち止まる。
川の流れる音が聞こえた。風も吹いている。だが、茂みからは獣の動く音ひとつしない。
ザインが道端へしゃがみ込んだ。
ぬかるみには、いくつもの足跡が残されていた。細いもの、蹄のあるもの、彼の手より大きなもの。形も大きさも違う足跡が、同じ方向へ伸びている。
「……逃げてるな」
「何から?」
サラの問いに、ザインは暗い木立へ目を向けた。
「分からん。だが、縄張りの違う獣が揃って移動するのは普通じゃない」
立ち上がり、地図を腰へ戻す。
「固まって歩け。何か出ても、勝手に追うなよ」
ユリアンが剣の柄に手を添え、うなずいた。
それからしばらくして、道の脇に赤い塊が見えた。
大きな魔獣の死骸だった。
「うわ……何、これ」
エレンが近づきかけると、ザインが腕を伸ばして止めた。
「待て」
周囲を見回す。茂みに動くものがないことを確かめてから、ゆっくりと死骸へ歩み寄った。
血は黒く乾き、雨に濡れた赤茶色の剛毛が身体に張りついている。死んでから時間が経っているようだったが、不思議なことに、他の獣が食い荒らした跡はなかった。
ザインは片膝をつき、胸元を調べた。
「……一突きか」
「それだけで、こんなのを?」
ユリアンが横からのぞき込む。
剛毛の下、左胸に古い傷が走っていた。そのすぐ下に、細い刃物で貫かれた跡がある。
「古傷を狙ってる。硬いところを避けて、奥まで通したんだろう」
ザインは傷の角度を確かめた。
真正面から刺したのではない。獣が前脚を踏み込んだ瞬間に、横から刃を入れたように見える。
「よく動きを見てるな」
エレンが獣の牙と胸の傷を見比べた。
「ねえ。宿のおじさんが言ってた金髪の人、細い剣を持ってたんでしょ?」
「そう言ってたね」
トーマスが答える。
「その人が倒したのかな」
サラが尋ねると、ザインは立ち上がった。
「かもしれん。だとしたら、相当な腕だ」
ザインは土のついた指先を払うと、先へ歩き出した。
「行くぞ。ここで時間を使っても仕方ない」
死骸の横を通り過ぎる時、彼はもう一度だけ胸の傷へ目を向けた。
*
モニカの足取りが、次第に重くなっていた。濡れた靴は泥を吸い、歩くたびに裾が足にまとわりつく。
ユリアンが歩調を緩めると、モニカは小さく首を振った。
「大丈夫です。先を急ぎましょう」
川へ下りるにつれ、木々がまばらになった。
雨に濡れた石が月明かりを鈍く返している。浅瀬の向こうには低い岸があり、その先に丘へ続く道が見えた。
「地図では、この辺りだね」
トーマスが川の向こうを指した。
「ここを渡れば、あとは丘沿いに進める。演習地までそう遠くないはずだ」
ザインは川岸へ歩み寄り、水の流れを確かめた。
その時だった。
川面を、大きな影が横切った。
ザインが顔を上げる。
「伏せろ!」
鋭い風切り音とともに、巨大な翼が頭上へ迫った。
ガルダウイング。
猛禽を思わせる頭部に、太い鉤爪。広げた翼は木々の間を覆うほど大きく、獲物を見つけたその目が、まっすぐ一行へ向けられていた。
狙われたモニカは、まだ立ち尽くしていた。
ザインが彼女の肩をつかみ、地面へ引き倒す。
直後、鉤爪が外套を裂いて通り過ぎた。
「きゃっ!」
巻き起こった風にサラがよろめく。エレンが妹の腕を引き、木の幹へ身を寄せた。
魔物は浅瀬を飛び越え、対岸の上空で大きく旋回する。
「くそっ、何だあれ!」
ユリアンが剣を抜いた。
「全員、聞け!」
ザインはモニカを起こし、後ろへ下がらせた。
「俺が前に出る。ユリウスと赤髪は左右に開け。眼鏡は槍で中央を支えろ。サラは後ろで弓を構えろ」
そう言って曲刀を抜く。
「モニカ様はサラの後ろだ。何があっても前へ出るな」
「一人で受ける気?」
エレンが斧を構えながら尋ねる。
「デザートランスだ。敵の目を俺に向ける。お前らは左右から崩せ」
ザインは一行から数歩前へ出た。
ユリアンとエレンが左右に分かれ、その後ろにトーマスとサラが位置を取る。モニカは後方へ下がった。
先頭の一人が敵を引きつけ、後方の四人が攻撃の機会をうかがう。
砂漠の戦士たちが用いる陣形だった。
「また来る!」
ユリアンが叫んだ。
ガルダウイングが翼を畳み、急降下してくる。
ザインは川岸へ一歩出て、刀を低く構えた。
魔物の目が、前に立つ剣士を捉える。
「来い」
巨大な爪が迫った。
ザインは横へ身をかわし、すれ違いざまに曲刀を振るった。刃が脚の外側をかすめる。だが、厚い皮膚に阻まれ、深くは入らない。
すぐに刀を引き戻し、次の攻撃に備える。
ガルダウイングが翼を広げた。風圧で枝が折れ、背後のユリアンが腕で顔をかばう。
その隙に伸びた爪が、彼の肩をかすめた。
「ぐっ!」
「ユリアン!」
「浅い! 動ける!」
ユリアンは袖の裂けた肩を押さえ、すぐに剣を構え直した。
魔物は再び上昇する。
ザインが舌打ちした。
速い。
飛び込んでくる一瞬にしか、こちらの刃は届かない。しかも、一度かわしたところで、あの翼と爪を完全に避けられるとは限らなかった。
このまま繰り返せば、いずれ誰かがつかまる。
「サラ! 翼を狙え!」
呼ばれた少女が顔を上げた。
「私……当てられるかな」
「目や心臓を狙う必要はない。翼ならでかい。飛び方を崩せれば十分だ」
サラは息をのみ、それからうなずいた。
木の陰から半歩出て、弓を引く。
暗い空では距離がつかみにくい。魔物が向きを変えるたび、狙っていた場所もずれていく。
「まだだ」
ザインの声に、サラは指を止めた。
ガルダウイングが川の上を旋回し、右翼をこちらへ向ける。
「今!」
弦が鳴った。
放たれた矢が、右翼の付け根へ突き刺さる。
魔物が甲高い声を上げ、身体を傾けた。
「当たった!」
「もう一本! 同じところだ!」
サラは急いで次の矢をつがえた。
指先が震えていた。
だが、今度はザインの合図を待つまでもなかった。
魔物が再び翼を広げた瞬間、サラは自分で弦を離した。
二本目の矢が、一射目のすぐ近くへ突き立つ。
ガルダウイングの旋回が大きく崩れた。
右翼を引きつらせ、川面すれすれまで高度を落とす。
「よし!」
ザインが叫んだ。
「眼鏡! あいつの脚を止められるか!」
トーマスは川岸へ目を向けた。
雨で緩んだ土。川からせり出した低い斜面。
「……少し時間をくれ!」
槍を片手に持ち替え、もう一方の手を川へ向ける。
短い詠唱とともに、水面が揺れた。
玄武術によって引き上げられた水が、細い流れとなって岸の土へ染み込んでいく。
雨を含んでいた表面が崩れ、斜面の一角が深い泥に変わった。
「ザイン! あそこへ誘い込んで!」
「分かった!」
ザインは木立を離れ、川岸の開けた場所へ走った。
魔物の目が、その動きを追う。
ガルダウイングは傷ついた翼を大きく広げ、低い姿勢のまま突っ込んできた。
ザインは速度を落とさない。
嘴が迫る。
あと数歩。
その瞬間、身体を横へ投げ出した。
獲物を追って脚を下ろしたガルダウイングが、泥に踏み込む。
ずぶり、と太い脚が沈んだ。
巨体が傾き、羽先が地面をこする。
「赤髪! 右翼だ!」
「あたしの名前はエレンだ!!」
「分かった、エレン! 右翼を叩け!」
「最初からそう呼びなさいよ!」
言い返しながらも、エレンはすでに駆け出していた。
高く束ねた長い赤毛が、背中で大きく翻る。
ガルダウイングが体勢を立て直そうと翼を広げた。その付け根には、サラの矢が二本、深々と刺さっている。
エレンは斧を両手で握り、足場の固い場所を選んで踏み込んだ。
腰を回し、全身の力を刃へ乗せる。
「はあっ!」
斧が、翼の付け根を捉えた。
骨を砕く重い感触が、柄を通じて両腕に伝わる。
右翼が不自然な方向へ折れ曲がり、ガルダウイングが甲高い悲鳴を上げた。
だが、まだ倒れない。
残った翼が横薙ぎに振るわれた。
「エレン、下がれ!」
ザインが叫ぶ。
エレンは斧の柄を引き戻して防ごうとしたが、間に合わなかった。
凄まじい衝撃に腕ごと弾かれ、川岸を転がる。
「お姉ちゃん!」
サラが悲鳴を上げた。
魔物の嘴が、倒れたエレンへ向く。
その前に、黒い影が割って入った。
ザインだった。
曲刀が弧を描き、伸びてきた首筋を斬り裂く。
鮮血が散った。
だが、傷は浅い。ガルダウイングは首を振り、今度はザインへ嘴を向けた。
ザインは刀を引き、正面からその動きを受け止めるように構え直した。
その間に、エレンが斧をつかんで這い退く。
「こっちだ!」
反対側から、ユリアンが踏み込んだ。
剣が傷ついた右翼へ食い込む。
ガルダウイングの注意が、一瞬そちらへ逸れた。
「深追いするな!」
ザインの声が飛ぶ。
直後、太い脚が後ろへ蹴り出された。
ユリアンは咄嗟に飛び退いた。爪が胸元をかすめ、上衣の布を引き裂く。
「危なっ……!」
魔物の首が、逃げるユリアンを追う。
その下へ、トーマスが槍を差し込んだ。
嘴の下側に柄を押し当て、両腕で突き上げる。
「今だ!」
魔物が暴れる。
槍が大きくたわみ、トーマスの靴が泥を削った。
「長くは……持たない!」
ザインが駆け寄ろうとした、その時だった。
小さな影が、トーマスの脇から飛び出した。
「モニカ様!」
ユリアンの声が裏返る。
モニカの手には、カタリナから受け取った小剣が握られていた。
青い瞳が、魔物の首に走る傷を捉えている。
ザインがつけた、浅い裂傷。
そこへ、両手で握った切っ先を突き込んだ。
「……っ!」
刃が傷口へ食い込む。
ガルダウイングが苦痛に首をのけぞらせた。
槍へ掛かっていた重みが、わずかに緩む。
「下がれ!」
ザインがモニカの腕をつかんだ。
小剣を引き抜かせ、そのまま後方へ押し戻す。
空いた間合いへ、自ら踏み込んだ。
曲刀を低く構える。
ガルダウイングが首を戻そうとした。
その動きを見切り、ザインは刃を突き入れた。
狙いは、すでに開いた首筋の傷。
踏み込みと同時に、刃を斜め上へ走らせる。
《デミルーン》
三日月を描くような斬撃が、傷口を深く切り裂いた。
ガルダウイングが絶叫した。
残った翼を激しくばたつかせ、脚で土を蹴散らす。
「全員、離れろ!」
ザインの声に、五人が一斉に間合いを取った。
巨体が大きく揺れる。
そして、前のめりに崩れ落ちた。
地面が震え、泥水が跳ね上がる。
川面に幾重もの波紋が広がった。
誰も、すぐには近づかなかった。
ザインは曲刀を構えたまま、倒れた魔物を見据えていた。
一度、翼が痙攣するように動いた。
それきりだった。
しばらくして、ようやく刀を下ろす。
「……終わった」
その声を聞いて、張り詰めていた空気がほどけた。
トーマスが槍を地面へ突き、深く息を吐いた。
ユリアンは膝へ手をつき、肩で息をしている。
サラは弓を握ったまま、しばらく動けなかった。
*
エレンは立ち上がるなり、サラのもとへ駆け寄った。
「怪我は?」
「ないよ。お姉ちゃんこそ、腕……」
サラの視線が、姉の右腕へ向く。
袖が擦り切れ、肘の辺りに血がにじんでいた。
「これくらい平気よ」
「平気じゃないよ。見せて」
サラが水筒を取り出すと、エレンは観念したように腕を差し出した。
先ほどまで震えていた妹の指は、傷を洗う間にはすっかり落ち着いていた。
「……弓、上手くなったね」
エレンが言う。
「ザインが、狙うところを教えてくれたから」
「それでも、二本とも当てたのはサラでしょ」
サラは少し照れたように視線を落とした。
その隣では、トーマスがユリアンの肩へ布を巻いていた。
「傷は浅い。でも、演習地に着いたらもう一度洗った方がいい」
「分かった。助かるよ」
ユリアンは肩を動かし、顔をしかめた。
「……ったく。あんなのが出るなんて聞いてないぞ」
「僕も予想してなかったよ」
トーマスは眼鏡を直した。
「ただ、ザインさんが前に出てくれなければ、もっと被害が出ていたと思う」
ユリアンは少し離れた場所へ目を向けた。
ザインは倒れたガルダウイングのそばで、刃についた血を拭っていた。
その動きには、戦いの前と変わらない落ち着きがある。
「……あの人、やっぱり相当強いな」
「そうだね。それに、戦い慣れている」
トーマスもうなずいた。
少し離れたところで、モニカは小剣を握ったまま立っていた。
ザインが戻ってきて、その手を見る。
「錆びるから刃を拭いてからしまった方が良い」
「……はい」
差し出された布を受け取り、モニカは小剣についた血を拭った。
「それと、次は勝手に前へ出ないでくれ」
モニカの手が止まる。
「守る相手まで動いたら、こちらが追い切れん。今回は運がよかっただけだ」
「……申し訳ありません」
モニカはうつむいた。
ザインは彼女の様子を見て、少しだけ声を落とした。
「…でも助かったのは確かだ。あそこで首が浮かなければ、眼鏡が危なかった」
モニカが顔を上げる。
「だが、次も同じようにいくとは限らん。覚えておいてくれ」
「……はい」
彼女は小さくうなずき、剣を鞘へ収めた。
ザインはそれを見届けてから、荷袋を持ち直した。
そこへエレンが近づいてきた。
「ねえ、さっきの陣形だけど」
「デザートランスか」
「そう。あれ、あんたが前で全部引き受けるつもりだったの?」
「全部は無理だ。だが、俺を狙わせれば、お前らが動きやすくなる」
「それで、あんなところまで飛び出したわけ?」
「空を飛ぶ相手に、後ろで待ってても仕方ないだろ」
エレンは少し考え、それから肩をすくめた。
「まあ、確かにやりやすかったけどさ」
「なら、それでいい」
ザインは彼女の腕へ目を向けた。
「それより赤髪、腕はどうだ」
「だから! あたしの名前はエレンだってば!」
「……エレン。腕は?」
「擦り傷だけ。大丈夫よ」
「ならいい」
あまりにあっさりした返事に、エレンは呆れたように息を吐いた。
エレンは一度だけ、ザインの腰に下がった曲刀へ目を向けた。
倒れた自分に魔物の嘴が迫った時、真っ先に飛び込んできたのは、この男だった。
だが、本人はそんなことなど気にも留めず、荷物を整えている。
「……ほんと、変な人」
ザインは気にする様子もなく、今度はユリアンへ目を向けた。
「ユリウス、お前の肩は?」
「ユリアン!」
「……そうだったな」
「出発前に名乗っただろ!」
「似たようなもんだ」
「全然違う!」
エレンがとうとう吹き出した。
「ちょっと、あんた本当に皆の名前覚えてないの?」
「覚えてるぞ…あいつはトムだろ。」
ザインが眼鏡の青年を指した。
「トーマスです」
「トーマスだったな!術が使えるのは助かる。さっきの泥もよかった」
「それはどうも」
トーマスが苦笑する。
「俺だって剣で助けただろ!」
ユリアンが抗議した。
「覚えてるぞ。翼を斬ってたな」
「だったら名前も覚えろよ!」
「……ユリアンだろ」
「そう!」
エレンが肩を震わせる。
「まったく、戦ってるときはあんなに頼りになるのにね」
サラが小さく笑い、モニカも思わず口元へ手を添えた。
ザインは眉を寄せた。
「何がおかしい」
「全部よ!」
エレンが答える。
ユリアンもつられて笑い出した。
ザインはしばらく三人を見ていたが、やがて地図を取り出した。
「……歩くぞ。明るくなる前に着きたい」
「そこは聞こえないんだ」
エレンの声を背に、彼は川へ目を向けた。
浅瀬の水は冷たく、雨の影響で流れも少し速くなっている。
ザインは先に足を入れ、深さを確かめた。
「ここなら渡れる。滑るなよ。石の上は苔がある」
後ろからユリアンが続く。
モニカは川岸で一度足を止めた。
水の流れを見つめ、それから恐る恐る足を踏み出そうとする。
「モニカ様、手を」
ユリアンが振り返り、手を差し出した。
彼女は少しためらってから、その手を取った。
「ありがとうございます」
「大丈夫。ゆっくり行きましょう」
後ろではエレンがサラの足元を確かめ、トーマスが槍を杖代わりにして川へ入っていく。
水音に混じって、まだ小さな笑い声が聞こえた。
ザインは前を向いた。
千オーラムの仕事。
ただし、無事に送り届けなければ、残りの八百は手に入らない。
まだ先は長かった。
*
夜明け前、丘の向こうに軍の灯が見えた。
幾つもの篝火が薄闇の中に並び、その奥には無数の天幕が広がっている。夜通し歩き続けた六人にとって、ようやくたどり着いた目的地だった。
「止まれ! 何者だ!」
見張りの兵が槍を構えた。
ザインが足を止めると、後ろからモニカが進み出た。
外套の襟を下ろす。雨に濡れた金髪が肩へ流れ、疲れの残る白い顔が明かりに照らされた。
「……モニカ様!?」
兵の表情が変わった。
慌てて槍を下ろし、別の兵へ声をかける。
「侯爵様へ知らせろ! モニカ様がお見えだ!」
すぐに道が開かれた。
案内された本陣では、数人の将校が大きな地図を囲んでいた。
その中央に、一人の若い男が立っている。
肩を越えて流れる長い金髪に、澄んだ青い瞳。端正な顔立ちには冷静さが漂い、紫紺の甲冑の胸元には、青緑色の宝石をあしらった紋章が輝いていた。肩から垂れる外套には金の縁取りが施されている。
華麗な装いだったが、男の注意は目の前の地図へ向けられていた。
「明日の巡察は、この街道から始める。補給部隊には――」
そこまで言いかけて、顔を上げた。
入口に立つ妹を見た瞬間、地図を指していた手が止まる。
「……モニカ」
「お兄様!」
モニカが駆け寄った。
男は一歩踏み出し、妹の両肩へ手を置いた。泥に汚れた衣装と、頬に残る細かな傷を確かめる。
「よく無事で来た」
静かな声だった。
だが、その手が妹の肩をしっかりとつかんでいるのを、ザインは見ていた。
「カタリナが逃がしてくれました。城に、ゴドウィン男爵の兵が……」
「カタリナは?」
「城に残りました。私を逃がすために、兵を引きつけると……」
ミカエルは地図に置いていた手を止めた。
ほんの短い沈黙だった。
「……そうか」
妹の肩に置いた手が、わずかに強くなる。
それ以上は口を挟まず、モニカの話を最後まで聞いてから将校たちへ向き直った。
「城内の衛兵にも寝返った者がいるのだな」
「はい。カタリナがそう言っていました」
男は妹の肩から手を離し、地図へ向き直った。城の位置を示す印に、指先が止まる。
「……早いな」
モニカが顔を上げた。
「男爵が反乱を起こすと、ご存じだったのですか?」
「その動きは警戒していた。まだ、こちらが先に手を打てると見ていたが」
男はそこで言葉を切り、近くの将校へ目を向けた。
「城門と街道の状況を確かめろ。敵の数と配置、それに、どの隊が男爵に従っているのかを知りたい」
「はっ!」
「斥候は城内へ無理に入れるな。各隊長には、城へ戻る準備を進めるよう伝えろ」
将校たちが動き出した。
男は椅子を引き寄せ、妹を座らせた。
「お前は少し休め。よく知らせてくれた」
モニカはうなずいた。張り詰めていた肩が、ようやく下がる。
男はそれを見届けてから、付き添ってきた五人へ向き直った。
「妹を連れてきてくれたこと、礼を言う」
ユリアンが慌てて背筋を伸ばす。
「俺たちは、その……」
「報酬の話をしていいか」
横からザインが口を挟んだ。
「今!?」
エレンが思わず振り向く。
ユリアンも呆れた顔をしたが、ザインは気にする様子もなかった。
金髪の男は、しばらく彼を見つめた。
日に焼けた顔に短い髭。黒い上衣には金糸の刺繍が施され、腰には見慣れない曲刀を佩いている。
軍の兵士には見えなかった。
「……君が妹の護衛を引き受けた剣士か」
「ザイン・アル=ラシードだ」
「ミカエル・アウスバッハだ」
男は短く名乗った。
「妹から、森で魔物に襲われたと聞いた。君が仲間を指揮して撃退したそうだな」
「大したことじゃない。全員が役目を果たしただけだ」
「そうか。ところで、護衛の報酬は千オーラムだったそうだな」
「ああ、二百は受け取った。残り八百だ」
「残り八百ですね。兄様、お願いいたします」
モニカが言う。
ミカエルはうなずき、近くの兵へ支払いを命じた。
ほどなくして運ばれてきた袋を、ザインが受け取る。
袋の口を開き、中の金貨を確かめ始めた。
「……侯爵様の前でも数えるんだ」
エレンが横目で見る。
「後で足りないって言う方が面倒だろ」
「それは、そうだけど……」
ミカエルは二人のやり取りを聞いていたが、不快そうな顔はしなかった。
むしろ、わずかに口元を緩めた。
「構わない。約束した金額を確かめるのは当然のことだ」
ザインが顔を上げる。
「話が分かるな」
「こちらも、約束は守らねばならないのでね」
ザインは最後の硬貨を確かめ、袋の口を閉じた。
「確かに受け取った」
「では、もう一つ仕事を頼みたい」
ミカエルが言った。
「何だ」
「反乱の鎮圧だ。腕の立つ者は、一人でも欲しい」
ザインは彼の後ろに広げられた地図を見た。
「どこまでやる気だ」
「私と共に城へ戻り、奪還まで。君には前線で働いてもらいたい」
「指揮は誰が執る?」
「全体は私が執る。現場での判断は、ある程度君に任せるつもりだ」
「なるほど」
ザインは腕を組んだ。
「報酬と、どこまで任されるかによるな」
「もちろんだ。その話をしよう」
ミカエルは卓の空いた場所を示した。
ザインは荷袋を下ろし、地図の前へ歩いた。
ミカエルが駒を一つ動かす。
「まず、現在の戦況から説明しよう」
ザインは地図へ目を落とした。
城へ続く街道。周囲の丘。川と森。そして、敵が押さえていると思われる地点。
しばらく地図を見つめてから、彼は一か所を指した。
「ここは?」
「旧街道だ。今はほとんど使われていない」
「兵は通れるのか?」
「少数なら可能だろう。だが、城まで進むには――」
二人の会話が、次第に具体的なものになっていく。
その様子を見て、トーマスが小さくうなずいた。
「……話が早そうだね」
ユリアンはまだ納得がいかない様子だった。
「金の話ばっかりしてたのに」
「でも、仕事はちゃんとしてたでしょ?」
エレンが言う。
「それは……まあ、そうだけど」
サラが小さく笑った。
「ザインさん、すごく落ち着いてたよね」
ユリアンは地図を囲む二人へ目を向けた。
確かに、さっきまで二オーラムにこだわっていた男とは思えない。
「……変な人だな、ほんと」
*
モニカは反乱が収まるまで、北のポドールイへ移ることになった。
レオニード伯爵の城なら、ゴドウィン男爵も簡単には手を出せない。
ユリアン、トーマス、エレン、サラの四人が護衛として同行する。森を抜けてきたばかりではあったが、四人ともモニカを送り届けることに異存はなかった。
出発の支度を終えたモニカは、本陣の前でザインを見つけた。
彼は荷袋の紐を締め直していた。
黒い上衣の上から深紅の外套を羽織り、腰にはあの曲刀を佩いている。
「ザインさん」
呼びかけると、男が顔を上げた。
「あなたは、お兄様と行かれるのですね」
「別の仕事を受けた」
「今度も、報酬で?」
「他に何で決める」
あまりに当然のように答えるので、モニカは思わず小さく笑った。
「分かりやすい方ですね」
「そうだろ」
ザインは荷袋を肩へ掛けた。
「……でも、ありがとうございました」
モニカが改めて言った。
「森で助けていただいたことも、ここまで連れてきていただいたことも」
「仕事だからな」
「ええ。それでも、です」
モニカはまっすぐに彼を見つめた。
澄んだ青い瞳には、もう昨夜のような怯えはなかった。
「あなたがいなければ、私はここまで来られなかったと思います」
ザインは少しの間、彼女を見ていた。
それから、腰の荷紐をもう一度確かめた。
「……無事に着いたなら、それでいい」
モニカは微笑んだ。
それ以上は言わなかった。
「じゃあね、ザイン!」
明るい声がした。
振り向くと、エレンが斧を肩へ掛けて立っていた。高く結い上げた赤毛が、朝の風に揺れている。
「ちゃんと帰ってきなよ」
「お前らもな」
「あ、今。名前を使わずに済ませた」
「エレンだろ。覚えてる」
「よし!」
エレンが満足そうにうなずいた。
隣にいたユリアンが口を開きかける。
「じゃあ、俺の――」
「ユリアン、行くよ」
トーマスがその肩を軽くたたいた。
「いや、でもさ……」
「続きは帰ってからにしよう」
ユリアンは不満そうだったが、やがて肩をすくめた。
サラがくすくすと笑っている。
「ザインさん、また会えるといいですね」
「ああ。気をつけて行けよ、サラ」
サラは少し驚いたように顔を上げた。
「……私の名前は、覚えてるんですね」
「そりゃ覚えてる。弓が上手かったからな」
サラの頬が、少し赤くなった。
「……ありがとう」
「ちょっと! 何でサラはちゃんと覚えてるのよ!」
エレンが抗議する。
「何でって言われてもな」
「納得いかないんだけど!」
ユリアンが吹き出した。
「俺なんてユリウスだったからな!」
「まだ言ってるのか」
「お前が間違えたんだろ!」
笑い声が上がった。
モニカも口元へ手を添え、肩を震わせている。
ザインは一同を見回した。
「……そろそろ行け。日が高くなるぞ」
「はいはい。じゃあね!」
エレンが手を振った。
モニカたち五人が、北へ続く道を歩き出す。
先頭をユリアンが歩き、トーマスが地図を確かめる。エレンとサラがその後ろに続き、モニカは何度か振り返りながら、少しずつ遠ざかっていった。
やがて、モニカがもう一度だけ足を止めた。
ザインは片手を上げた。
彼女も小さく手を振り返す。
「ザイン、行くぞ」
背後から声がした。
振り向くと、紫紺の甲冑をまとったミカエルが立っていた。
長い金髪が朝の風に揺れている。
その背後では、兵たちが出陣の準備を進めていた。
「準備は?」
「ああ、できてる」
「では、行こう。ロアーヌを取り戻す」
ザインは一度だけ北の道を振り返った。
五人の姿は、もう丘の向こうへ消えかけている。
彼は荷袋を持ち直し、ミカエルの後に続いた。
ロアーヌへ戻る軍の列が、ゆっくりと動き始めた。
*
その頃、赤い線を地図へ引いた金髪の女は、すでにピドナへ向かっていた。
自分の残した地図が、見知らぬ六人の旅人を導いたことも知らずに。
北へ向かう五人。ロアーヌへ戻る剣士と、軍を率いる若き侯爵。
彼らの道が再び交わるのは、まだ先のことだった。
ただ、ザインにあの夜のことを尋ねれば、きっとこう答えただろう。
――千オーラムの仕事だった、と。
1オーラム≒1ドル位で設定しています。