Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ツヴァイクを出た翌日の午後、四人はキドラントへ着いた。
この村へ寄りたいと言い出したのは、エレナだった。ツヴァイクで見つけた古い天文記録に、キドラント周辺で星を観測したという記述があったらしい。
「街明かりも少ないでしょうし、今夜は星の観測ができればと思いまして」
「そのために、わざわざここまで来たのか?」
「あなたも、行き先はどこでも構わないと仰いましたよね」
「宿と飯があるならな」
町というより、大きな村と呼んだ方が近い。
広い畑の間に低い家々が並び、その向こうでは牛や羊が草を食んでいる。ランスやツヴァイクのような大きな建物はなく、街道を外れればすぐに土の道へ変わった。
「静かなところだね」
サラが言った。
「あたしも嫌いじゃないわ」
エレンは鼻を動かす。
「雨、降るかも」
空はまだ明るい。
エレナが見上げた。
「雲は、それほど出ていませんが――」
「匂いがする」
「匂い?」
「土と草のね。夕方くらいには降ると思う」
エレナは空を見て、それからエレンを見る。
「……覚えておきます」
「信じてないでしょ?」
「観測結果を待っているんです」
「そういうところよ」
少し前を歩いていたザインが振り返った。
「宿はあるのか、ここ」
「最初に気にするのそれ?」
「手頃なら、先に部屋を押さえる」
「高かったら?」
「ほかを探す」
「村に一軒しかなかったら?」
「その時は交渉だ」
エレナが笑った。
「宿の方にも、選ぶ権利はありますよ」
そんな話をしながら村へ入った時、井戸のそばにいた若い女性が四人を見て立ち上がった。
明るい金髪を左右で高く結び、長い巻き毛を揺らしている。赤い身頃と白いスカートには花飾りやフリルがあしらわれていた。
かなり大きな水桶を片手に持っているが、重さを感じている様子はない。
「あの、旅の方ですよね?」
「そうだけど」
エレンが答えた。
「ツヴァイクの方から来ました?」
「来たよ」
女性の表情が少し緊張する。
「その途中で……ポールという人を見ませんでしたか?」
サラが顔を上げた。ザインも足を止める。
「どんな奴だ」
「二十歳くらいで、茶色の髪で……弓を使います。少し前に村を出て、それから帰ってこなくて」
サラがザインを見る。
ザインは迷わなかった。
「いたな」
女性の目が大きくなる。
「本当ですか!?」
「ああ。盗賊団にいた」
「ちょっと!」
エレンがザインの袖を引いた。
「何だよ」
「言い方!」
女性の顔から血の気が引いていた。
「ポールが……盗賊?」
ザインは一度エレンを見てから、少しだけ言葉を足した。
「街道で、俺たちが護衛してた馬車を襲った連中だ」
「そんな……」
「でも」
サラが急いで続けた。
「人質を助けてくれたよ」
女性がサラを見る。
「人質?」
「盗賊たちが捕まえた人を盾にしようとした時、ポールさんが止めたの。それで、閉じ込められていた三人を逃がしてくれた」
女性はしばらく何も言わなかった。やがて胸元で両手を握る。
「……生きてるんですね」
「生きてた。俺たちが最後に見た時はな」
彼女は目を閉じた。
「よかった……」
水桶を置いた手は、まだ小さく震えていた。
「あなたは?」
エレンが少し声を和らげて訊いた。
「ニーナです」
「ポールとは?」
ニーナは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……ただの幼馴染です」
「そう……」
エレンはそれ以上聞かなかった。
キドラントには、小さな宿が一軒だけあった。
ザインが宿代を確認している間、エレンとサラはニーナから村の話を聞いていた。
最近、家畜が頻繁に消えているという。夜になると村の北にある洞窟の方角から妙な鳴き声が聞こえ、村人たちは近づかなくなっていた。
「魔物?」
サラが訊いた。
「多分……」
「前からいたの?」
「小さい魔物はいました。でも、今みたいになったのは最近です」
そこへザインが戻ってきた。
「一泊二十オーラム。二晩なら、一泊十八まで下げるそうだ」
「洞窟の話だったんだけど」
エレンが苦笑する。
その時、年配の男がこちらへ歩いてきた。上等ではないが、この村では少しだけ良い服を着ている。
「旅の方々ですかな」
「はい。何かご用でしょうか」
エレナが答えた。
「私はこのキドラントの町長です」
男は愛想よく頭を下げた。
「ちょうどお願いしたいことがありまして」
ザインが反応した。
「仕事か?」
「ええ」
町長は少し声を落とした。
「村の北に洞窟があります。そこに魔物が住み着き、家畜を襲っているのです」
「報酬は」
「ザイン」
エレンが半分呆れて呼ぶ。
「仕事なら先に聞くだろ」
町長は一瞬だけ戸惑ったものの、五百オーラムでどうかと答えた。
「安い」
「ですが、村も裕福では――」
「家畜の被害はいくらだ。牛一頭でも五百じゃ済まねえだろ」
町長が黙る。
エレナが小声で言った。
「こういう時だけは、話が早いですね」
「こういう時『だけ』って言うな」
交渉の結果、報酬は八百オーラムとなった。魔物を倒せた場合のみ全額支払い。危険すぎると判断して撤退した場合は報酬なし。
ザインは条件を二度確認してから頷いた。
「分かった」
ニーナが不安そうな顔をした。
「あの洞窟に行くんですか?」
「ああ」
「……気をつけてください」
「何か知ってる?」
エレンが訊くと、ニーナは町長をちらりと見た。
「前にも、あそこへ入った人がいたって聞いたことがあります」
町長の表情がわずかに固くなった。
「昔の話だ」
「帰ってきたんですか?」
エレナが訊いた。
「旅人でしたからな。その後どうしたかまでは」
「ほかに出入口はありますか?」
「ありません。北の岩壁を回れば分かります。穴は一つきりです」
「最後に家畜が襲われたのは?」
「三日前です。羊が二頭」
ザインは町長を見た。
「まず中を見る。手に負えなきゃ引き返す。そこは変わらねえな」
「もちろんですとも」
愛想のよい声だった。
ザインはその顔を覚え、ニーナへ向き直った。
「日が落ちても戻らなきゃ、洞窟には入らず、ツヴァイクの役人へ知らせてくれ」
ニーナは町長を一度見てから、頷いた。
*
洞窟は、村から歩いて三十分ほどの場所にあった。
入口は大人が一人通れるほどの狭さだった。脇には丸みを帯びた大岩があり、岩壁との間には古い角材が積まれている。
ザインは頭上に落ちかけた石がないことを確かめてから、地面へ目を向けた。周囲には無数の小さな足跡が残されている。
「これ……全部同じ?」
サラがしゃがみ込む。
「ネズミっぽい」
エレンも覗いた。
「でかくないか?」
ザインが足跡の一つへ靴を並べる。普通の鼠より明らかに大きく、しかも数が多い。
「家畜を襲うには、小さすぎますね」
エレナが言った。
「一匹ならな」
ザインはランタンに火を入れ、洞窟へ入った。
先頭がザイン、最後尾がエレン。その間にサラとエレナが続く。
中は湿っていて、奥へ進むほど動物特有の臭いが強くなった。時折、小さな影が岩の隙間を走っていく。
「いるね」
サラが弓を握った。
「まだ撃つな。ただの鼠かもしれん」
「大きいけど」
「大きい鼠かもしれん」
「基準が教授に近づいてない?」
エレンが言う。
「やめろ」
ザインは本気で嫌そうだった。
しばらく進むと、壁際に壊れた木箱と古い背負い袋が落ちていた。革は湿気で傷み、留め具が錆びている。
「旅人の物でしょうね」
エレナがしゃがんで中を確かめるが、何も残っていない。
少し離れた場所には折れた短剣があり、さらに奥には靴が片方だけ落ちていた。
「一人じゃないね」
エレンの顔が曇った。
ザインも気づいていた。靴にはまだ泥の形が残っているが、短剣の方は折れ口まで赤く錆びている。
「何人か入ってるな」
「ニーナさん、前にも入った人がいるって言ってたよね」
サラが呟いた。
「町長は、帰ったとは言っていませんでした」
エレナが立ち上がる。
ザインはランタンを掲げ、来た通路を確かめた。ここまでは一本道だった。
「鼠だけの穴じゃなさそうだな」
「戻る?」
エレンが訊いた。
その時、奥から何かを引きずる音がした。
「この先が見える所までだ。人がいたら連れ出す。無理なら、そのまま引き返すぞ」
「分かった」
四人はさらに進んだ。
やがて、鼠の鳴き声が聞こえ始めた。最初は一匹だったが、二匹、十匹と重なり、ほどなく数え切れなくなった。
甲高い声が洞窟そのものを震わせているようだった。
「多い……」
サラが小さく言う。
通路の先が広がり、ザインが足を止めた。
「……これは聞いてねえぞ」
巨大な空洞だった。
床一面を、黒や灰色、茶色の鼠が埋め尽くしている。数百匹――いや、それ以上。互いの背を踏み、岩を這い、壁まで群れが広がっていた。
その中心だけが、不自然に空いていた。
「これ全部?」
エレンが斧を握る。
「全部を相手にする気はねえ」
鼠の群れが、一斉にこちらを見た。
次の瞬間、黒い波が動いた。
「来るぞ! 通路へ戻れ!」
エレンが斧を横へ振るい、飛びかかってきた数匹を吹き飛ばした。だが、その後ろからすぐに別の群れが押し寄せる。
「きりがない!」
エレンが一歩下がる。
ザインも剣を走らせた。一匹、二匹、三匹と斬り伏せるが、数が減った気がしない。
「足元!」
エレナの声にザインが飛び退く。直前まで立っていた場所を鼠の群れが覆い、足へ噛みつこうとした。
「壁にもいます!」
エレナはサラを引き寄せ、頭上から落ちてきた鼠を細剣で払った。刃先へ飛びつこうとした次の一匹を突き、すぐに引き抜く。
足元まで追えば、今度は背中が空く。
「下は任せます!」
「サラ、右!」
「うん!」
サラの矢が飛んだ。群れ全体ではなく、上から飛びかかろうとした一匹だけを射落とす。
ザインはその隙に通路への道を空けた。
「入口まで戻るぞ!」
「数が多すぎる!」
エレンが最後尾へ回り、斧を大きく振った。刃先だけでなく柄まで使い、通路の横幅いっぱいに薙ぎ払う。
一度に十数匹が吹き飛んだ。
腰から腕までが、ひと続きに動いた。今までより広く刃が届く。だが確かめる間もなく、次の群れが押し寄せてきた。
「っ……!」
「エレン!」
「大丈夫!」
エレンは斧を引き戻し、足を引いた。今は退く方が先だった。
エレナは逃げながら、何度も群れの奥を振り返っていた。
「……変です」
「何が!」
「動きが、揃いすぎています!」
「鼠が?」
「普通なら、もっと散るはずです!」
ザインが足元の一匹を蹴り飛ばす。
「誰か指揮してるってのか?」
「まだ、分かりません!」
空洞の奥に、一瞬だけほかの鼠とは違う動きをする影が見えた。
仲間が前へ押し寄せる中、その一匹だけが後ろに留まっている。大きさも色もほとんど変わらない。
なのに、その一匹を中心に群れの流れが変わった気がした。
「……」
「エレナ!」
ザインの声で我に返る。
目の前に迫った鼠を細剣で払い、エレナも通路へ駆け込んだ。
「今、行きます!」
入口の光が見えた。
「もう少し!」
サラが叫ぶ。
ザインが先頭へ出た。
外へ。あと少し。
その時、数十歩先で光が消えた。
低い音とともに岩が擦れ、洞窟全体が小さく震える。
「……何?」
エレンが足を止めた。
四人が入口まで駆け寄ると、そこには大きな岩があった。
入口の脇にあったはずの大岩が、口を塞いでいた。
ザインが両手を当てて押す。
動かない。
「あたしがやる」
エレンが場所を代わり、肩を入れる。岩肌がわずかに軋んだものの、それ以上は動かなかった。
「重すぎる!」
「落石?」
サラが青ざめる。
「違います。上は崩れていません」
ザインがランタンを掲げると、エレナは岩と天井の間を確かめた。
「さっきまで入口の脇にあった岩です。外から動かされています」
しばらく誰も口を開かなかった。
ザインの目が細くなる。
「……町長か」
「私たちを閉じ込めた?」
エレンが岩を見る。
「……そういうことになりますね」
背後から鼠の鳴き声が近づいてくる。
「来る!」
サラが振り返った。
ザインは剣を構え直した。表情は変わらなかったが、声だけが少し低かった。
「八百オーラムじゃ割に合わねえな」
*
その頃、洞窟の外では、町長と三人の男が大岩から離れようとしていた。
「これでいい」
町長は額の汗を拭った。
「しばらくは村へ来ないだろう」
若い村人の一人が、不安そうに岩を見る。
「本当に……これでいいんですか」
「仕方ない」
「でも、あの人たちは」
「旅人だ」
「だからって――」
「お前は村の牛が全部食われてもいいのか?」
男が黙る。
町長は踵を返した。
「怪物は腹が満ちれば、しばらく出てこない。それで村が守られる」
「……」
「帰るぞ」
その時、背後から声がした。
「何をしてるんですか」
四人が振り向くと、ニーナが立っていた。
日が傾いても帰ってこない旅人たちを気にして、様子を見に来たらしい。入口を塞ぐ岩と町長たちを見て、顔色が変わった。
「町長さん」
「ニーナ。これは――」
「今、中に誰がいるんですか」
「……」
「旅の人たちですよね」
「村のためだ」
町長はそれだけ答えた。
ニーナはゆっくり岩を見る。
「開けてください」
「できん」
「開けて」
「ニーナ!」
「開けてください!」
町長は苛立った。
「もう動かせん! 男四人でやっと押したんだぞ!」
ニーナは答えず、大岩へ近づいた。
両手を当て、足の位置を変える。腰を落とし、深く息を吸った。
「……っ!」
岩が軋んだ。
町長たちが黙る。
ニーナはもう一度、肩を入れた。
「ん……っ!」
岩が動いた。
ほんの数センチ。だが、確実に。
「嘘だろ……」
村人が呟く。
ニーナは止まらなかった。足を踏ん張り、全身の力を込めると、大岩がゆっくり横へ滑り始めた。
*
洞窟の内側では、鼠の群れが迫っていた。
「ザインさん!」
サラが矢を放ち、一匹を落とす。だが、すぐ次が来る。
エレンは岩を背に斧を構えた。
「もう一回押す?」
「無理だ!」
「でも、このままじゃ!」
エレナが細剣を立てる。
「こちらへ! 通路が狭いので、一度に来られる数は――」
その時、背後で岩が軋んだ。
エレンが振り返ると、岩の縁に細い光が差していた。
「動いてる!」
ザインも岩へ手をかけた。
「外から誰か動かしてる!」
「誰!?」
「知らん! 隙間を広げるぞ!」
ザインが内側から加わると、岩はさらに動いた。
ようやく一人が通れる隙間が開く。
「サラ、先に出ろ!」
サラが身体を滑り込ませる。
「エレナさん!」
「先に行って!」
エレナは細剣を構えたまま後退し、外へ抜けた。エレンが続き、最後にザインも身体を滑り込ませる。
鼠の群れは、その踵まで追ってきていた。
ザインが剣を振り、隙間の前を払う。
「閉めろ!」
エレンとニーナが肩を入れ、岩を押し戻した。エレナも手を添える。
サラが矢をつがえ、隙間を抜けようとした一匹を射落とす。後ろの群れが一瞬詰まった。
その間に岩が滑り、残った隙間も塞がっていく。
ザインが剣を引いた直後、重い音を立てて入口が閉じた。
鼠の鳴き声が、岩の向こうへ遠ざかっていった。
しばらく誰も喋らなかった。
ザインが呼吸を整え、エレンも膝へ手をつく。
「……誰が開けたの?」
サラが訊いた。
ザインとエレンが、同時にニーナを見る。
ニーナは肩で息をしていた。
「私です」
ザインが岩を見る。ニーナを見る。そして、もう一度岩を見る。
「一人で?」
「はい」
エレンが立ち上がった。
「……あたしとザインでも動かなかったよね」
「ああ」
「ちょっと自信なくすんだけど」
ニーナが困った顔をする。
「昔から、重いものを持つのは得意で……」
「得意の範囲を超えてないか…」
ザインが真顔で言った。
サラは素直に目を輝かせている。
「すごい!」
「ありがとう……?」
ニーナ自身も、何を褒められているのか少し分からない顔だった。
町長は逃げていなかった。
少し離れたところに立っている男へ、ザインはゆっくり歩いていった。剣は鞘に収めたままだったが、それでも町長は一歩下がった。
「説明してもらおうか」
「……村を守るためだ」
「あたしたちを餌にして?」
エレンの声は冷たかった。
「旅人が洞窟へ入れば、怪物はしばらく村へ来ない。これまでそれで――」
町長は言いかけて口を閉じた。
ザインの目が変わる。
「これまで?」
町長は黙った。
「洞窟にあった荷物。あれは以前に入れた人たちの物ですか」
エレナが静かに訊いた。
「……」
「何人ですか」
「分からん」
「あなたが、入れたんですか」
「村のために必要だった!」
ニーナが顔を伏せた。
エレンが一歩前へ出ようとする。
ザインが片手で止めた。
「まだだ」
「でも――」
「まだ怪物がいる。こいつの話はその後だ」
ザインは町長と一緒にいた若い男へ目を向けた。
「こいつを一人にするな。お前らが何をしたかも、役人に話してもらう」
男は俯き、頷いた。
町長が少し安堵したような顔をしたが、ザインは見逃さなかった。
「逃げんなよ」
「私はこの町の町長だ」
「そうか」
ザインは一度だけ頷いた。
「なら、責任者はお前だな」
町長の顔から安堵が消えた。
*
その夜、四人はニーナの家で休ませてもらうことになった。
町長が営んでいると聞かされた宿へ、戻る気にはなれなかった。荷物はニーナの知り合いが取りに行ってくれた。
小さな家だったが、食卓には温かいスープと黒パンが並べられている。
「本当にすみません」
ニーナが頭を下げた。
「ニーナさんが謝ることじゃないよ」
サラが言った。
「むしろ助けてもらったし」
「そうそう。命の恩人よ」
エレンも頷く。
ニーナは恐縮していた。
ザインだけはスープを食べながら訊いた。
「この村、あのこと知ってる奴は多いのか」
ニーナの表情が曇る。
「……分かりません」
「知らなかったのか?」
「少なくとも私は知りませんでした。でも、洞窟に誰かが入った後だけ、しばらく被害が減るっていう話は……昔から」
「理由は聞いたことがありますか?」
エレナが訊いた。
「洞窟へ入った人が、追い払ってくれたのだと……子供の頃から、そう聞いていたので」
ニーナは手を握った。
「当たり前だと思っていました」
サラが、冷めかけたスープの椀をニーナへ寄せた。
「ニーナさんも食べよう。ずっと立ったままだよ」
ニーナは少し迷ってから、空いていた椅子へ座った。
食事を終えると、エレナは机の上に簡単な洞窟図を描き始めた。
「問題は、あの鼠です。ただ、数が多いだけではありません」
「何かいた?」
エレンが訊く。
「気になる動きがありました。私たちが退くと、一斉に追ってきましたよね。その前に、奥の一匹が動いたように見えたんです」
「一匹だけ違うの?」
サラが思い出すように訊いた。
「断言はできません。見た目は、ほとんど同じでした」
ザインが腕を組んだ。
「全部倒すのは無理だぞ」
「ええ」
エレナは図の中心に、小さな丸を一つ描いた。
「指揮する個体がいるなら、そちらを狙う方法はあります。ただ、同じように入っても囲まれるだけです」
サラがその丸を見る。
「一匹だけ見つける?」
「見分けられれば。まず、何者なのかを調べたいですね」
しばらく沈黙が続いた。
エレンがふと思い出したように顔を上げる。
「……変な生き物に詳しい人、知ってるよね」
全員が同じ顔をした。
ザインが即答する。
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「分かる」
「相談一回の札、あるよね」
サラが言った。
ザインが腰の荷物へ手をやる。教授からもらった、小さな金属札。表には大きく『教授』と刻まれている。
「こんなに早く使うのかよ」
エレナが笑った。
「役に立ちそうでしょう?」
「まだ役に立ってねえ」
「戻れば、立つかもしれません」
ザインはしばらく札を睨んでいた。
「……現金にしとけばよかった」
ニーナが奥の部屋へ寝具を運んでくれた。
「狭いですけど、皆さんで使ってください」
ザインは部屋を覗き、毛布を一枚受け取った。
「俺は居間で寝る」
「え、どうして?」
エレンが訊いた。
「女三人と雑魚寝する趣味はねえよ」
「へえ。意外と紳士なのね」
「意外とは余計だ」
エレナが小さく笑った。
「では、お言葉に甘えます。おやすみなさい」
「おう」
*
その夜遅く、雨が降り始めた。
屋根を打つ音を聞きながら、エレナは窓辺に立っていた。
「降ったわね」
背後からエレンの声がする。
「何がですか?」
「雨よ」
エレナが振り返ると、エレンは布団に入ったまま少し得意そうな顔をしていた。
「夕方くらいって言ったでしょ」
「夜になりましたけど」
「細かい」
「観測としては、少し誤差が大きいですね」
「素直に認めなさいよ」
エレナは窓を閉めた。
「……確かに、降りましたね」
「でしょ?」
「次から、参考にします」
エレンが満足そうに目を閉じる。その隣ではサラがもう眠っていた。
戸の向こうで、寝返りを打つ音がした。
「明日の朝、ツヴァイクへ戻るぞ」
「寝てなかったの?」
「教授の歌を思い出して寝られねえ」
エレナが吹き出した。
外では雨が強くなっていった。
その向こう、村の北にある洞窟では、無数の鼠が暗闇の中を這っていた。
群れが動くと、その一角だけに隙間ができる。
小さな影が、閉ざされた入口の方を向いていた。