Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
翌朝、雨は上がっていた。
キドラントの道には水溜まりが残り、低い雲の隙間から朝日が差している。ザインたちは、ツヴァイクへ戻る荷馬車に乗せてもらうことになった。
サラは荷台の隅で、小さな金属札を裏返していた。表には大きく『教授』と刻まれている。
「こんなに早く使うと思わなかったね」
「失くしたら相談料を取られるから、落とすなよ」
「そこ気にしてるの?」
エレンが呆れた顔をした。
「無料相談券だぞ」
「無料相談券って言わないでよ。急に安っぽくなるから」
エレナは鞄へ洞窟の図をしまい、札を受け取るザインを見た。
「教授なら、何か分かるかもしれません」
「鼠の専門家なのか?」
「少なくとも、私たちより生き物には詳しいでしょう」
「昨日の群れより変な物なら、飼ってたしね」
エレンが頷く。
「それも含めて相談です」
荷馬車が動き出した。
その揺れに合わせ、隣で太い木槌が傾く。ニーナが片手で支え直した。
金色の巻き毛を左右で高く結び、赤い身頃に白いスカート。昨日と変わらず華やかな姿だったが、今日は肩に大きな木槌を担いでいる。
ザインはそれを見た。
「本当についてくるのか」
「はい。村のことですから」
「戦いは得意じゃねえんだろ」
「はい」
「その槌は?」
「家にあった物です。杭を打つ時に使っています」
エレンが槌の頭を覗き込んだ。
「……それを、一人で振るの?」
「はい」
エレンは自分の斧を見てから、ニーナへ向き直った。
「あたし、この子ちょっと好きかも」
「変なこと教えるなよ」
「まだ何も教えてない!」
サラが笑い、ニーナは少し困ったように微笑んだ。
その手の下で、木槌は荷台へ一度もぶつからなかった。
ニーナは空いた手で、腰の小さな包みを確かめる。紐を締め直し、服の陰へ収めた。
*
ツヴァイクへ着くと、ザインは先に町の詰所へ寄った。
町長に洞窟へ閉じ込められたこと。洞窟内に、以前入った旅人たちのものと思われる荷物が残っていたこと。
ニーナも隣に立ち、自分が見たことを話した。
役人は五人の名前を書き留め、キドラントへ人を出すと約束した。
詰所を出た一行は、その足で西の森へ向かった。
以前と同じ道を進むと、継ぎ足しだらけの館が見えてきた。今日は煙も出ていなければ、爆発音もしない。
「静かだね」
サラが言った。
「逆に怖いな」
「失礼ね」
声が真上から降ってきた。
五人が見上げると、屋根の縁に教授が腰掛けていた。波打つ金髪を風になびかせ、片手に大きな金属筒、もう片方には焼いたパンを持っている。
「何してんだ」
「朝ご飯」
「もう昼過ぎだぞ」
「まだ食べてなかったのよ」
「何で屋根で食うんだ」
「見晴らし、いいでしょう?」
ザインは玄関を指した。
「相談があるからここに来てくれ」
「今行くわ!」
教授は残りのパンを口へ放り込むと、そのまま屋根の端を蹴った。
「えっ」
サラが声を上げる。
教授の腰で金具が跳ね、畳まれていた布の翼が開いた。
ふわり。
とは、いかなかった。
「きゃあああああ!」
翼が開ききるより先に、教授の身体が落ちてくる。
ザインとエレンが反射的に脇へ退いた。その間をニーナが踏み出し、両腕で教授の背と膝を受け止める。
靴が土を擦り、一歩だけ下がった。
「おっと」
教授がニーナの腕の中で瞬きをした。
「あら」
「大丈夫ですか?」
「あなた、力持ちね!」
「よく言われます」
ザインが二人を見た。
「今ので済ませるのか」
教授は地面へ下ろしてもらうと、腰の装置を確かめた。
「開くのが〇・八秒遅いわね」
「飛ぶつもりだったのか?」
「滑空よ」
「落下だろ」
「次は成功するわ」
「今度は地面にクッションでも敷いてくれ」
「それ、いいわね!」
教授は早速、何かを手帳へ書き込んだ。
ザインは頭を抱えたくなった。
館へ入ると、棚の上の檻からマコが顔を出した。ザインが反射的に腰の食料袋を押さえると、マコはつまらなそうに引っ込んだ。
バーニィは餌皿へ鼻を寄せ、奇面草は窓辺に葉を広げている。庭ではムクチャーが昼寝をしていた。
「それで、相談一回、使うの?」
教授が椅子へ座った。
ザインは卓へ金属札を置く。
「使う」
「早かったわね」
「俺もそう思う」
「内容は?」
エレナが洞窟の図を広げた。
「キドラントの北に、大量の鼠型の魔物がいます。家畜を襲っている群れです」
「数は?」
「見えた範囲でも数百。奥にはもっといたと思います」
教授は図の広い部分へ指を置いた。
「ここに?」
「ええ。ただ、数が多いだけではありません」
エレナは入口から奥へ、指を滑らせた。
「私たちが退くと、一斉に追ってきました。壁から飛びかかるものと、足元へ集まるものがいて、動きが妙に揃っていたんです」
「大きさは?」
「普通の鼠より、ずっと大きかったよ。三倍くらいかな」
サラが両手で示す。
「毛色は?」
「黒と、灰色と、茶色」
「鳴き方は?」
「そこまでは……」
サラが言葉を切ると、教授は頷き、エレナへ目を戻した。
「群れの中心は見た?」
「一瞬だけ。ほかと違う動きをする一匹がいたように見えました。見た目は、ほとんど同じです」
教授の指が止まった。
「……へえ」
ザインが顔を上げる。
「知ってるな」
「まだ分からないわ」
「顔が知ってる」
「あなた、人の顔を見るの、意外と上手いわね」
「面倒な奴の顔は覚える」
「褒められた?」
「違う」
教授は立ち上がり、奥の部屋へ消えた。
棚を探る音がして、何か重いものが床を擦る。続いて、がたん、と大きな音が響いた。
「痛っ!」
五人は黙って待った。
やがて戻ってきた教授は、古いノートを一冊抱えていた。表紙には、大きく《A》とだけ書いてある。
「数年前にね、キドラントの近くで、妙に頭のいい鼠を見つけたの」
教授がノートを開いた。
「道を一度見せれば覚える。罠は二度目から避ける。餌の場所を変えると、匂いを嗅ぎ回る前に、私の手を見るのよ」
「捕まえたんですか?」
サラが訊いた。
「もちろん」
「やっぱり」
「褒めてもいいのよ?」
「褒めてないよ」
教授は気にせず頁をめくった。
鼠の絵と、いくつもの迷路。餌箱の位置を変えた図には、細かな書き込みが添えられている。
エレナは椅子を寄せた。
「かなり高い学習能力ですね。薬か術で変化した個体だったのでしょうか」
「最初から変わっていたわ。術の痕跡も見つからなかった」
「教授は、何か与えたんですか?」
教授は少しだけ間を置いた。
「栄養剤は与えた」
ザインの眉が動く。
「何を入れた」
「色々」
「具体的に」
「覚えてない」
「おい」
「全部記録してあるわよ!」
教授は書き込みの並ぶ頁を叩いた。
「でも、頭が良かったのは最初から。私の薬で頭が良くなったとは限らないわ」
ニーナはノートを見つめていた。
「洞窟には、もっと前から人が入っていました。私が子供の頃から」
「その頃も、鼠の群れだった?」
「分かりません。洞窟の怪物としか聞いていなくて」
「そう。なら、今はまだ同じだとは言えないわね」
エレンが卓へ肘をついた。
「その鼠は、どうしたの?」
「逃げた」
「また!?」
「今回は私のせいじゃない!」
「今回『は』って言った!」
教授は真顔で留め具の絵を指した。
「自分で外したのよ。閉めた檻から」
「鼠が?」
サラが図を覗き込む。
「そう」
「名前は?」
教授の指が、表紙の《A》を叩いた。
「アルジャーノン」
エレナはその名を手帳へ書き留めた。
「逃げた後に、見つかったことは?」
「一度も」
「それなら、今回の群れがその個体だとは限りませんね」
「ええ」
教授はすぐに頷いた。
「だから、確認しに行く」
ザインが眉を上げる。
「お前も?」
「当然でしょう?」
「この前は、ペット探しを俺たちに押しつけただろ」
「あれはペットでしょ」
「これは?」
「研究対象」
「その差かよ」
教授は答える代わりに、長い箱を卓へ載せた。
蓋を開けると、射出器の横に細い筒と薬瓶が並んでいた。赤、青、白、黄色。色ごとに用途が違うらしい。
「それ、全部撃つの?」
エレンが覗いた。
「用途によるわ」
「赤は?」
「刺激剤」
「青は?」
「麻酔」
「白は?」
「煙幕」
「黄色は?」
「まだ試してない」
「持ってくるな!」
ザインが即座に言った。
「現地で試せるじゃない」
「やめろ」
教授は残念そうに黄色の瓶を箱へ戻し、代わりに小さな缶を取り出した。
蓋には『ねこいらず』と書かれている。
「猫?」
サラが首を傾げた。
「鼠用よ」
「名前、逆じゃない?」
「猫がいらなくなるくらい鼠に効くから、ねこいらず」
ザインが缶を見た。
「毒か?」
「濃く使えばね。今回は、鼠の反応を見るために使うわ」
教授は小瓶を一本取り、缶の横へ置いた。
「普通の鼠は、この匂いに強く反応するの。近づくものもいれば、嫌がって逃げるものもいる。でもアルジャーノンは、私が仕掛けているところを見たら、絶対に近づかなかった」
「罠だと分かるからですか?」
エレナが訊く。
「そう。餌に混ぜても、すぐには食べない。ほかの鼠がどうするか、先に見るのよ」
サラは缶を見つめた。
「じゃあ、ほかの鼠と違う動きをする一匹を探す?」
「その通り」
教授がサラへ顔を寄せた。
「弓の子。目はいい?」
「サラです。昔から狩りをしていたので、目は良いと思います」
「なら、ちょうどいいわ」
教授は紙へ小さな点をいくつも打った。
「一匹ずつ見ようとしないで。全体を見るの」
「全体を?」
「そう。群れが動く。その中に、匂いとは別のことを気にしている一匹がいる。まず、そこを探して」
サラは点の集まりを見た。
一つに目を留めると、周りが見えなくなる。
「全部当てなくていい」
ザインが言った。
サラが顔を上げる。
「一匹だけ?」
「ああ。見つけるまでは、こっちで止める」
サラはもう一度、紙へ目を落とした。
「……うん」
その時、ニーナが口を開いた。
「私も、洞窟へ行きます」
教授が顔を向ける。
「あなたも戦うの?」
「得意ではありません。でも、村のことを全部、旅の方に任せるわけにはいきませんから」
ザインが何か言う前に、ニーナは続けた。
「それに、岩なら動かせます」
「鼠は岩じゃねえ」
「殴れば同じじゃないですか?」
エレンが、すっとニーナの肩へ腕を回した。
「やっぱり、あたし、この子好き」
「変なこと教えるなよ」
「教えてない!」
教授はニーナの木槌へ手を伸ばした。
「ちょっと持たせて」
「どうぞ」
ニーナが渡すと、教授の両腕がそのまま下がった。
「重っ!」
床へ落ちる前に、ニーナが柄を支える。
「すみません」
「あなた、これ、普通に振るの?」
「はい」
教授の目が輝いた。
「面白い! ねえ、後で筋力測定してもいい?」
「怪物を倒した後なら、いいですよ」
「研究対象を増やすな」
ザインが木槌をニーナへ返させた。
*
教授の支度が整う頃には、森の影が長くなっていた。
その晩はツヴァイクに泊まり、翌朝、六人でキドラントへ向かった。
道中、教授は草の倒れ方や見慣れない足跡を見つけては立ち止まり、その度にエレナが呼び戻す役になった。
村へ着く頃には、また陽が傾いていた。
家々の間から村人が顔を出す。視線は最後を歩く一人へ集まった。
波打つ金髪。青紫の衣装。腰に並べた試験管。そして、肩には見たこともない金属筒。
「……誰ですか、あの人」
近くの男が、ザインへ小声で訊いた。
「俺も、よく分からん」
「教授よ!」
後ろから、すぐに訂正が入る。
「聞こえてるのかよ」
六人は先に町長の家へ向かった。
戸口には、あの日、一緒に岩を動かした若い男が座っていた。六人を見つけると立ち上がり、頭を下げた。
ザインは頷き、中へ入る。
町長の顔色が変わった。
「……戻ったのか」
「残念だったな」
「何のことだ」
「それで通すなら、役人にも同じことを言え。ツヴァイクで話してきた」
町長の手が、卓の縁を掴んだ。
「何をするつもりだ」
「洞窟の怪物を倒す」
「もういい。村には、別の方法が――」
「旅人を餌にする方法?」
エレンが言った。
町長は口を閉じる。
ニーナも、その顔を見つめていた。
「町長さん。今まで何人、洞窟へ入れたんですか」
「村のためだった」
「人数を聞いています」
町長は答えなかった。
ザインが二人の間へ入る。
「その話は、怪物を片づけてからだ」
「まだやるのか。あそこへ行けば死ぬぞ」
「だから、一度引き返した」
「私は忠告した!」
「その後、入口を塞いだだろ」
ザインが一歩近づくと、町長は椅子へぶつかった。
「それとな。契約変更だ」
「何?」
「八百だけじゃ足りねえ。聞いてねえ条件が多すぎる」
エレンが横から見た。
「そこも忘れてなかったんだ」
「忘れるか」
「いくらだ」
町長が恐る恐る訊いた。
「怪物退治とは別に、閉じ込められた分。それと、隠してた話の分だ」
「いくらだ」
「後で決める」
「怖っ」
エレンが思わず漏らした。
エレナは手帳を閉じた。
「少なくとも、これまでの被害を、報酬で済ませることはできませんよ」
町長は卓から手を離さなかった。
*
翌朝、六人は北の洞窟へ向かった。
その間、家畜が襲われることはなかったが、畑の外れで鼠を見た者はいたという。家々の戸は固く閉められ、羊や牛は柵の内側へ寄せられていた。
道端で教授がしゃがみ込む。
「かなり出歩いているわね」
「足跡で分かるの?」
サラも隣へ屈んだ。
「それもだけど、草。何度も同じ場所を通って、下が土になってるでしょう」
ニーナが、その細い筋を見た。
「アルジャーノンが、村へ向かわせているんでしょうか」
「まだ、決めつけない」
教授は立ち上がった。
エレナが横顔を見る。
「慎重なんですね」
「研究者だもの」
「爆発しながら歌っていた方が?」
「それとこれは別!」
エレナが笑った。
「その言葉、ザインもよく使います」
「やめろ」
前から声が返った。
洞窟の入口には、あの大岩が残っていた。
「これが、話していた岩?」
「ああ」
「誰が開けるの?」
全員がニーナを見た。
「私が」
ニーナは木槌をエレンへ預け、岩の縁へ手を掛けた。靴の位置を変え、腰を落とす。
岩が軋んだ。
ゆっくりと横へ動き、奥の暗がりが現れる。
教授は岩とニーナを交互に見た。
「……ねえ」
「何ですか?」
「筋力測定、絶対に約束よ」
「はい。怪物を倒した後で」
エレンが両手で木槌を返すと、ニーナは片手で受け取った。
その時、岩の陰から小さな鼠が一匹走り出した。六人を見ると、すぐに奥へ引き返していく。
教授の笑みが薄れた。
「行きましょう」
ザインが先頭に立った。
「一列だ。俺の後ろにエレン。ニーナは真ん中、サラとエレナはその後ろについてくれ」
「私も前へ――」
「駄目だ。まずは、エレンのやることを見ろ」
ニーナは少し迷ったが、頷いた。
教授が射出器を肩へ担ぐ。
「私は?」
「後ろだ」
「射撃武器の位置としては、合理的ね」
「味方を撃つなよ」
「撃たないわよ!」
「黄色も使うなよ」
「持ってきてない!」
エレンが振り返る。
「本当に?」
「……少しだけ」
「持ってるじゃん!」
教授は瓶を鞄の奥へ押し込み、蓋を締めた。
狭い入口を一人ずつ抜ける。ランタンの灯りが濡れた岩を照らし、少し進むと前と同じ獣臭さが鼻をついた。
ザインが足を止めた。
前方を三つの影が横切る。
「来ます」
サラが弓へ手を添えた。
鼠が一匹、こちらへ向きを変えた。
乾いた音がした。
小さな筒が前へ飛び、鼠の鼻先で弾ける。白い煙が膨らみ、鼠は跳び退いて背後の仲間とぶつかった。
三匹がばらばらに散っていく。
「煙幕弾よ」
教授は得意そうに射出器を引き戻した。
「結構使えるじゃない」
エレンが驚く。
「『結構』?」
教授の眉が上がった。
「すごく使えるでしょう!」
煙の端から、別の鼠が出てきた。
教授が青い筒を取り出す。
「これは麻酔――」
「待て」
ザインが止めた。
「弾がもったいない。こいつらは俺とエレンでやる」
青い筒が戻され、二人が前へ出る。
その横の岩陰から、別の鼠が走り出した。
ニーナの足元へ。
「下がれ!」
ザインが声を上げた。
だが、ニーナは木槌を振らなかった。
腰の包みから何かを取り出し、鼠の鼻先を横切るように投げる。
肉の切れ端が、通路の端へ落ちた。
鼠が向きを変えた。その後ろの二匹も、肉へ飛びついていく。
ニーナは木槌を胸元へ寄せ、三歩下がった。
エレンが彼女の前へ入り、追ってきた一匹を払う。ザインも反対側を塞いだ。
肉を奪い合っていた鼠が、包みを持つニーナへ顔を向ける。
彼女は今度は、奥へ一切れ投げた。
鼠がそちらへ走った。
「進みますか。それとも、戻りますか」
ニーナが訊いた。
ザインは鼠の向こうと帰り道を確かめ、剣を下げた。
「少し退いて、追ってくるか見る」
六人が距離を取ると、鼠は肉を咥え、岩の隙間へ潜っていった。
「……何、それ」
エレンがニーナの包みを指した。
「肉です」
「それは見れば分かるけど」
「家畜を食べるなら、こっちも食べるかと思って。この前は、逃げるだけでも大変そうでしたから」
ニーナは残りを数え、包みを閉じた。
「食べている間なら、逃げられるでしょう?」
ザインが彼女を見た。
「効かなかったら?」
「槌は、最後です」
エレンが少し笑った。
「……力だけじゃないのね」
「だって、噛まれたくありませんもの」
ニーナは何でもないように答え、包みを服の陰へ戻した。
奥へ進むにつれ、鳴き声が増えていった。
ニーナの持つ槌が、わずかに揺れている。
「怖い?」
エレンが振り返った。
「はい」
「正直ね」
「エレンさんは、怖くないんですか?」
エレンは前の暗がりを見た。
「怖いよ」
ニーナが意外そうに顔を向ける。
「でも、怖いのと、動けないのは別かな。無理だと思ったら下がるし」
「……はい」
「それ、大事」
ニーナは頷き、槌を握る位置を直した。
エレンの後ろを、少しだけ確かな足取りで歩き始めた。
*
大空洞は、前に来た時と変わらなかった。
ランタンの光が届く範囲だけでも、床も岩も鼠に覆われている。壁を走るもの、仲間の背を踏むもの。幾重にも重なった鳴き声が、耳の奥へ響いた。
ザインは空洞の入口を確かめ、剣先で左右を示した。
「ハンターシフトでいく。俺とエレンが前だ。真ん中は空ける」
エレンが左へ出た。ザインは右へ寄り、二人の間に奥まで見通せる幅を残す。
「エレナは右。ニーナは左へ下がれ。横から来る奴を通すな。追う必要はねえ」
エレナが細剣を構え、ニーナはエレンの斜め後ろで木槌を握った。
「サラと教授は、後ろの真ん中だ」
「射手の場所に、二人?」
教授が訊いた。
「ああ。並んで入れ。前の四人で時間を作る。そっちは、狙う奴を見つけろ」
サラが後方へ下がり、教授も横へ並んで射出器を構える。
金属筒の先端が、サラの弓へ近づいた。
「……ちょっと、半歩ずれてくれる?」
「教授が、もう少し右へ寄れませんか?」
二人は立ち位置を調整した。
弓を上げても筒とぶつからず、前衛二人の間から空洞の奥まで見通せる。
サラは足元を確かめた。ここからなら、周囲を見ながら待てる。
教授は缶を開け、小瓶の中身を確かめた。
独特の匂いが広がる。
「臭っ!」
エレンが鼻を押さえた。
「これ、大丈夫なの?」
「この使い方なら、人間にはね」
「『には』って言った!」
教授は薬を含ませた布を射出器の先へ取りつけた。
低い音とともに、布が床へ滑る。
間を置いて二つ目、三つ目。
三枚は鼠の群れの手前に、三角形を描くように落ちた。
しばらく何も変わらなかった。
やがて近くの一匹が鼻を上げる。
続いて、何匹も。
布へ寄る群れと、そこから離れる群れがぶつかった。前へ出ようとしていた鼠が足を止め、後ろから押されたものが横へ流れていく。
鳴き声が高くなった。
「サラ」
右側から、エレナが声をかけた。
「まず、全体を」
「……うん」
サラは弓を上げず、空洞を見た。
一匹の背を追うと、隣の背に重なって消える。灰色を探そうとしても、同じ色の鼠はいくらでもいた。
全部、見なくていい。
サラは目の前の一匹から視線を離した。
布を中心に、鼠が流れている。
右へ逃げるもの。その反対へ走るもの。岩へ登ろうとして、仲間に押し戻されるもの。
動いている鼠を一匹ずつ追うのではなく、群れ全体の流れを見る。
右奥の岩の下で、鼠が一匹、頭を上げていた。
灰色の毛。大きさは、ほかと大して違わない。
布へ寄らない。押されても走り出さない。
その一匹が横を向くと、近くの十数匹が同じ方へ顔を向けた。
サラの指が、弓の握りを確かめる。
「いた」
エレナが視線を動かした。
「どこですか?」
「右奥。岩の下」
サラは指を差さず、ゆっくり弓を持ち上げた。
灰色の鼠は、群れの動きを見ていた。布のある方へ鼻を向け、次いで、入口に並ぶ六人を見る。
教授が、サラの弓の向く先へ目を凝らした。
「……アルジャーノン」
その声が届いたのか、灰色の鼠がこちらを向いた。
黒い目が、教授の方で止まる。
「本当に、あの鼠なの?」
エレンが訊いた。
教授は答えなかった。
灰色の鼠が、短く鳴いた。
乱れていた群れの一角が止まる。
岩の上でも、床でも、鼠が向きを変えた。
六人へ。
「来るぞ!」
ザインが曲刀を構える。
エレンが斧を引き、エレナの細剣がランタンの灯りを拾った。教授も射出器へ次の筒を込める。
ニーナは木槌を両手で握った。
「ニーナ。前へ出すぎるな」
「はい」
黒い波が床を覆って迫った。
「アルジャーノンだけを狙って!」
教授が叫ぶ。
「言われなくても、そうする!」
ザインが前へ出た。
その肩越しに、サラは右奥の一点を見ていた。
群れが動いても、もう同じ灰色には見えなかった。
矢をつがえ、弦を引く。
足元で床を蹴る音が重なった。エレンの斧が風を切る。
サラは弓を動かさなかった。
一匹だけ。
灰色の頭が上がる。
その瞬間、指を離した。