Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound —   作:水城 雅

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第15話 アルジャーノン

 矢が、灰色の鼠へ迫った。

 アルジャーノンはわずかに身体をずらし、飛んできた矢をかわした。矢はその脇をかすめ、背後の岩へ当たる。乾いた音が、押し寄せる鼠の鳴き声に呑まれた。

「外した!」

「いえ。見てから避けました」

 エレナは足元へ飛びついた鼠を細剣で払い、群れの奥を見据えた。

 ほかの鼠は弦が鳴ると同時に散ったが、あの一匹だけは、飛んでくる矢へ顔を向けていた。

 教授が射出器を上げる。

「間違いない。アルジャーノンよ」

 黒い目が、教授を捉えた。

 短い鳴き声が響くと、ザインの前へ鼠が幾重にも重なって押し寄せてきた。

「サラ、次を急ぐな! 見失うなよ!」

「はい!」

 ザインは右から、エレンは左から群れを迎え撃った。二人とも中央へ踏み込まず、後方から奥を狙える隙間を残している。

 曲刀と斧に弾かれた鼠の背を、次の鼠が越えてきた。

「多すぎるわよ、これ!」

「今日は、こっちもいるでしょう!」

 教授の射出器が鳴った。

 白い筒が前衛の先へ落ち、煙を噴く。群れの先端が割れた。

「煙幕弾!」

 ザインは煙から抜けてきた一匹を蹴り返した。別の鼠が足元へ跳ね、曲刀を返すと、刃についた血が岩へ散った。

 振るたびに数は減っている。それでも、前方の床は鼠に覆われたままだった。

「教授。薬をもう少し広く撒けますか」

「できるわ。ちょっと待って」

 教授が腰から瓶を二本抜いた。

「今、混ぜるの!?」

 エレンが叫ぶ。

「今だから混ぜるのよ!」

「爆発しないでしょうね!」

「多分!」

 サラの隣で、瓶の蓋が小さく鳴った。

 その少し前では、ニーナがエレンの斜め後ろを守っていた。

 横から鼠が回り込んでくる。一匹、二匹。

 大きく槌を振れば、エレンに当たってしまう。ニーナは柄を短く持ち直し、足元へ来た一匹を押し返した。硬い手応えが肘へ響く。

「そう。それでいい!」

 エレンが前を向いたまま言った。

 だが、今度は五匹いた。

 ニーナは槌を脇へ寄せ、空いた手を腰の包みへ入れた。

「エレンさん。左へ投げます」

「何を?」

「肉です」

「今!?」

 切れ端が二人の左へ飛んだ。

 近くの鼠が鼻を向ける。走り出しかけたところで、奥から鋭い鳴き声が響いた。

 鼠は足を止め、肉とニーナを交互に見た後、再びこちらへ向かってきた。

「……食べさせてもらえないんですね」

「同情してる場合じゃないわよ!」

 エレンの斧が鼠を横へ払った。

 ニーナは床の肉を見た。すぐそばの一匹が、前脚だけをそちらへ向けている。

 奥で灰色の頭が動き、鳴き声が途切れた。

 その途端、一匹が肉へ走った。ほかの鼠も後を追う。

 ニーナはそれを見て、包みを握り直した。

 教授の放った薬を含む布が、鼠の群れへ滑り込んだ。

 鼻を上げるもの。背を丸めて逃げるもの。その上へ、後ろから来た鼠が乗り上げる。

 流れが乱れた。

 サラは弓を下げずに奥を探した。アルジャーノンは、もう右の岩の下にはいない。

 煙の縁、岩と壁の間。その上へ鼠が集まっていた。

「右の岩です。上から二段目!」

「見えた!」

 ザインが右足を踏み出すと、群れがその前へ集まった。

 曲刀を一度振る間に、灰色の身体は隣の岩へ移っている。

「左へ行った!」

 サラの声に、ザインは追うのをやめ、一歩戻った。空いたところを鼠が埋める。

「俺が動くたびに、道を塞ぎやがる」

「ザインを見ていますね」

「好かれてる気はしねえな」

 エレナが岩へ登りかけた鼠を細剣で落とす。

 その先で、灰色の頭がこちらを向いた。エレナの手元を見て、それから後方の二人へ目を移す。

「教授。右へ追えますか」

「少し離れて!」

 教授が赤い筒を込めた。

「何それ!」

 エレンが訊く。

「刺激剤!」

「何を刺激するの!?」

「鼻!」

 筒が岩の左側へ当たり、強い臭いが広がった。ザインが顔をしかめる。

「俺にも効いてるぞ!」

「鼻があるからね!」

「説明になってねえ!」

 鼠が一斉に右へ逃げた。

 アルジャーノンも跳ぶ。だが、着地する前に教授を見た。

 射出器の先が、そちらへ動く。

 灰色の鼠は岩陰へ滑り込み、姿を消した。

 教授の指が、引き金の手前で止まる。

「……覚えた」

「何を?」

 サラが訊いた。

「これの向き」

 教授が射出器を少し傾けると、岩陰から覗いた黒い目が、その先を追った。

「一度で?」

「昔から、物覚えはよかったわ」

 教授は笑わず、次の筒を手に取った。

 その時、鳴き声が変わった。

 正面の群れが二つに割れ、一方がザインへ押し寄せ、もう一方が壁沿いに右へ走る。

 エレナが横へ出た。

 細剣で先頭の一匹を止め、後ろから抜けようとした二匹へ向き直る。だが、岩の隙間からさらに鼠が出てきた。

「後ろへ来ます!」

 教授が振り向き、サラも弓を下げかけた。

「奥を見て!」

 ニーナが左から声を上げた。

 槌を足元へ置き、包みの肉を残らず掴むと、入口の手前へ投げる。

 鼠が走ってくる側とは、反対側だった。

 肉が床へ散り、何匹かが足を止めた。それでも群れは、後方の二人へ向かってくる。

「教授! 鳴かせないでください!」

「何?」

「肉を食べようとすると、あいつが止めるんです!」

 教授が顔を上げ、射出器を岩陰へ向けた。

 灰色の頭が引っ込む。

 白い筒が岩の手前で弾け、煙を噴いた。

 鳴き声が、咳き込むような音に変わる。

 先頭の一匹が肉へ向かった。

 後ろから来た鼠がそれにぶつかり、二匹、三匹と向きを変えていく。サラの足元まで迫っていた一匹も鼻を上げ、肉の方へ走り去った。

 エレナが残った鼠を払い、二人の右側を塞ぐ。

「サラ。そのまま奥を」

「……はい」

 サラは弓を握り直した。

 ニーナも槌を拾う。

 エレンが一瞬だけ振り返った。

「そんなこと考えてたの?」

「止めなければ、食べるかと思って」

「やっぱり、あたしこの子好き!」

「喜んでる場合か!」

 ザインが正面の鼠を押し返した。

 ニーナは包みを逆さにする。もう何も落ちてこない。

「ただ、肉はもうありません」

「好きだけど、早めに言って!」

 エレンは斧を構え直した。

 サラは煙の上へ目を向けた。

 灰色の鼠が、壁際の岩へ登っている。肉へ向かった鼠たちは、まだ床で奪い合っていた。鳴き声に顔を上げても、すぐには戻らない。

「右上。壁のところです!」

 ザインが岩へ足をかけた。

 アルジャーノンが振り向く。

 その目が、曲刀と足元を行き来した。

 ザインは登らず、右へ肩を入れた。

 灰色の鼠が左へ向く。

 次の瞬間、ザインは左側の岩を蹴った。

 アルジャーノンが跳ぶ。

「エレン!」

「分かってる!」

 斧が逃げた先の岩を打ち、欠けた石が飛んだ。

 アルジャーノンは身体をひねり、その手前へ降りる。

 低い岩の上。

 サラからも、教授からも見える場所だった。

 教授が青い筒を込めた。

「止まって!」

 乾いた音がした。

 アルジャーノンの背が沈み、筒は耳の上を抜けて岩へ当たった。

「麻酔まで避けるの!?」

 教授の声に、黒い目が向いた。

 その周りへ、再び鼠が集まり始める。

 ニーナが一歩前へ出た。

 肉の落ちた場所を見てから、槌で床を叩く。残った切れ端に群がっていた鼠が散り、転がった肉へ別の鼠が飛びついた。

 戻りかけていた群れが、またそちらへ引かれる。

 アルジャーノンが鋭く鳴いた。

 教授が赤い筒を上げると、鳴き声が止まった。

 灰色の身体が岩の右へ寄り、射出器の向きから離れていく。

 サラは矢をつがえた。

 あの鼠は、見ている。

 ザインさんが、どちらへ踏み込むか。お姉ちゃんが、どこへ斧を振るか。教授の筒が、どこを向くか。

 矢だって、飛んできてから避ける。

 それでも、跳ぶ直前には背が沈む。前脚が止まり、後ろ脚が縮む。

 身体が向いた方へ、必ず跳ぶわけじゃない。

 床を蹴る脚を見れば――。

「サラ」

 すぐ隣で、教授が言った。

「撃てる?」

 サラは頷いた。

 声にすると、息が乱れそうだった。

 引き絞った弦が、指へ食い込む。

 アルジャーノンの目が、弓へ移った。

 右の後ろ脚が岩を踏みしめる。

 左へ跳ぶ。

 そう分かった瞬間、サラは狙いを変えかけた。

 けれど、今から左を狙えば見られる。

 動かしかけた手を止めた。

 指先から背中まで、張り詰めていたものが一本につながった。

 弓の握りが、ほんのわずかに傾く。

 どうすればいいか、考えるより先に分かった。

 サラは指を離した。

 矢が、淡い赤の軌跡を引く。

 アルジャーノンが左へ跳んだ。

 矢は、その脇を抜けるはずだった。

 赤い線が、一度だけ波打った。

 跳んだ灰色の身体を、矢が捉える。

 短い悲鳴が響き、アルジャーノンは岩の向こうへ落ちた。

 サラは弓を上げたまま、そこを見つめていた。

 自分の指が、まだ弦を引いているようだった。

「……今の、何?」

 エレンが呟いた。

 サラにも、答えられなかった。

 その時、鼠の群れが一斉に走り出した。

「下がれ! 追うな!」

 ザインが岩から降り、前衛へ戻る。エレンも斧を構え直した。

 だが、群れはこちらへ来なかった。

 薬の布を避け、壁の穴へ潜る。隣の鼠とぶつかり、押し合い、散り散りになって逃げていった。

 肉を咥えた一匹が、ニーナの靴の先を抜ける。ニーナは槌を引き、それを通した。

 幾重にも重なっていた鳴き声が、遠ざかっていく。

 やがて、床が見えた。

 割れた筒、散らばった石、倒れた鼠。

 誰も、すぐには武器を下ろさなかった。

 ザインが奥を確かめ、曲刀を引く。

「……終わりだ」

 サラの腕が下がった。

 途端に膝が震え、隣から教授の手が肩へ添えられた。

「よく狙ったわね」

「狙った、んですけど……」

 サラは自分の弓を見る。

「最後、矢が……」

「見えていました」

 エレナが戻ってきた。細剣の血を拭い、サラの顔を見る。

「避けた先まで、追いましたね」

「同じように、もう一回できるかは……」

「今、もう一匹出てきたら困るわよ」

 エレンが斧を下ろした。

 サラが、ようやく小さく笑う。

 ザインは岩の向こうを確かめて戻ってきた。

「《ビーストスレイヤー》だな」

「知ってるの?」

 エレンが訊いた。

「使う奴を見たことがある。獣相手に、妙な曲がり方をしやがる矢だ」

 サラは、空いた指を一度握った。

「……ビーストスレイヤー」

 もう一度、弓の握りへ手を戻す。

 さっきの感触が、少しだけ残っていた。

*

 教授は、岩の向こうでしゃがんでいた。

 アルジャーノンは動かなかった。灰色の小さな身体から矢が伸びている。胸も、もう動いていなかった。

 教授は薬箱から布を出し、その身体をそっと包んだ。

 頭のところで、手が一度止まる。

 サラは少し離れた場所に立った。

「教授……」

「ありがとう。止めてくれて」

 教授が顔を上げる。

 いつものように笑おうとして、途中でやめた。

「持って帰るわ。調べたいことがあるから」

 エレナが隣へしゃがんだ。

「以前の記録も、もう一度見せてください」

「薬の分も?」

「全部です。いつ、どこで捕まえたかも」

「分かったわ」

 教授は布の端を重ね、小さな身体を薬箱とは別の袋へ収めた。

 その間に、ニーナは壁際の古い鞄を見つけていた。

 朽ちた革紐。その下には、錆びた金具が落ちている。

 槌を置き、持ち上げようとしたところで、ザインが声をかけた。

「底が抜けるぞ」

 空いた布袋を広げる。

 ニーナは頷き、両手でそっと鞄を移した。

 エレンも近くに落ちていた短剣を拾う。サラは矢を仕舞い、荷物を運ぶ二人のところへ向かった。

*

 キドラントへ戻った時には、午後の陽が家々の屋根へ傾いていた。

 村の入口には、見慣れない馬が二頭繋がれている。

 荷物を降ろすニーナへ、近所の女性が駆け寄った。

「戻ったのね!」

「はい。怪物は、倒しました」

 周りから声が上がった。戸が開き、畑からも人が戻ってくる。

 ニーナは頭を下げ、それから抱えていた布袋を開いた。

 古い鞄が見えた途端、女性の手が口元で止まった。

 ツヴァイクから来た役人は、町長の家にいた。

 卓の上には、ザインたちが持ち帰った過去の旅人たちの荷物が並んでいる。町長と一緒に岩を動かした男たちも、壁際へ座らされていた。

「こちらのお話は聞きました。洞窟の中も、確認させていただきたい」

「案内する。鼠が戻る前にな」

 ザインが答える。

 役人は頷き、卓の品々へ目を向けた。

 ニーナも鞄を置く。

「ほかにもあります。あの奥に、まだ……」

 町長は、荷物を見ようとしなかった。

「では、怪物はいなくなったのか」

「ええ」

 教授が答えた。

「鼠をまとめていた一匹は倒したわ。残りが全部いなくなったとは言わないけど」

「そうか。それなら、ようやく村も――」

「この鞄に、見覚えは?」

 役人の問いに、町長の口が止まった。

 戸口へ集まっていた村人の間から、一人の老人が出てくる。

「去年、泊まっていった商人のだ。肩紐を、わしが直した」

 老人は鞄の裏へ触れた。

 不揃いな縫い目が残っている。

「北へ発ったと、聞いておったが……」

 町長の視線が窓へ動いた。

 その外にも、村人が立っていた。

 教授は卓の端へ、自分の手帳を置いた。

「鼠のことは、私からも話すわ。以前、飼っていた個体が関わっているかもしれないの」

 町長が顔を上げた。

「ならば! この女が原因ではないか!」

 椅子を引き、勢いよく立ち上がる。

「村をこのような目に遭わせて、よくも平然と――」

「私たちを閉じ込めろと、教授に言われたんですか?」

 エレナが訊いた。

 町長の指が、宙で止まる。

 役人が書きかけの紙から顔を上げた。

「その点については、あなたから聞いています。続きをお願いします」

 教授は手帳を開いた。

「捕まえた場所は、キドラントの近く。その時点で、ほかの鼠より……」

 ザインは戸口を離れ、外へ出た。

 エレンがついてくる。

「あれ、長くなる?」

「なるな」

「あたし、先に何か食べたい」

「食ってこい」

「……あんたは?」

 ザインは家の中を振り返った。

 ニーナが椅子を勧められ、首を振っている。卓へ手をつき、洞窟で見たものを話し始めたところだった。

「こいつらが出てきたらだ」

 エレンも中を見た。

 しばらくして、戸口の横へ腰を下ろす。

「じゃ、あたしも待つ」

*

 翌日、集会所へ村人たちが集まった。

 役人が洞窟から戻るまで、町長は自宅から出ることを許されなかった。入口を塞いだ男たちも一人ずつ呼ばれ、事情を聞かれている。

 押収された荷物には布札が結ばれ、卓に並べられていた。

 村の年長者が、一枚の紙を手に立った。

「これからの村の仕事は、当面、私らで分担する。あなたには、町長を辞めてもらう」

 部屋の後ろで、誰かが小さく息を吐いた。

 町長は座ったまま周囲を見回す。

「待て。勝手に決めるな」

「先ほどから、皆に聞いておる」

「こんなものは認められん!」

 卓を叩く。

 ニーナの肩がわずかに揺れ、その隣でエレンの眉が動いた。

「お姉ちゃん」

 サラが小声で呼ぶ。

「まだ殴らない」

「……もう少し我慢する……」

「私がこの村を守ってきたんだぞ! 私が決めてきた! よそ者に何が分かる!」

 町長が立ち上がった。

 誰も頷かなかった。

 彼は椅子を押し退け、胸を張った。

「私を誰だと思っている!」

 返事はない。

「私が町長なんだぞ!」

 静まり返った部屋で、椅子の脚がきしんだ。

 ザインがエレナを見る。

 エレナも、何とも言えない顔で見返した。

 年長者が少し困ったように口を開く。

「……もう違います」

「…………」

 元町長の顔が固まった。

 エレンが立ち上がる。

「よし」

 サラが顔を上げた。

「何が?」

「今ならいい」

「何が!?」

 エレンは元町長の前へ立った。

「な、何だ」

「洞窟に閉じ込められた分」

 拳を握る。

「サラやエレナを危険な目に遭わせた分」

「おい。一発にしとけよ」

 ザインが口を挟んだ。

「分かってるわよ」

「分かってるなら殴るな」

 元町長が後ずさった。

「暴力は――」

 エレンの拳が走った。

 元町長は尻もちをつき、そのまま背中から転がった。

 しばらく誰も喋らなかった。

 エレンが拳を振る。

「……痛っ……」

「殴った方が言うな」

 ザインは額を押さえた。

 役人が立ち上がる。

「お話を。あなたにも」

「……はい」

 エレンが、少しだけ背筋を伸ばした。

 サラは口を両手で覆っている。その隣ではエレナが目を伏せ、肩を震わせていた。

「笑ってないで、何か言ってよ!」

*

 エレンが戻ってきた時には、昼をとっくに過ぎていた。

 ニーナの家では、温め直した煮込みが卓へ出ている。

「あー、長かった!」

 椅子へ座るなり、エレンが匙を取った。

「だから殴るなって言ったろ」

「最初、一発にしろって言ったじゃない」

「その後で言い直した」

「遅いのよ」

 ニーナがパンの籠を置き、少し笑った。

「私の分も、ありがとうございました」

「……そこは、真似しなくていいからね」

「はい」

 ニーナが椅子を引く。

 ザインは匙を取る前に、小さな金袋を卓の端へ置いた。

「報酬、受け取ってきた。二千だ」

「増えたの?」

 エレンが訊く。

「元の八百に、往復の手間と薬代を足させた。役人の立ち会いで、町長本人に払わせた」

「閉じ込められた分は?」

「金で終わらせたくねえそうだ。あの役人」

 ザインは袋を開いた。

「経費を引いて、残りは四人で分けるぞ」

 エレナが頷いた。

「私たちの話も、書いてもらいましたから」

「殴った分もね」

 サラが小さく付け足した。

「サラまで!」

 卓の向こうで、教授も笑った。

 集会所の前には、ツヴァイクへ向かう馬車が止まっていた。

 元町長は荷台を見て、足を止める。

「私は、いつ戻れるのだ」

「まずはツヴァイクで、お話を伺います」

 役人が答えた。

「あなた方が洞窟へ入れた人たちについても、一人ずつ」

 元町長は振り返った。

 見送りに来た村人は、誰も近づかなかった。

「……私が町長です」

「その話は、もう終わりました」

 馬車の戸が閉まった。

*

 教授は村へ鼠を寄せにくくする薬を残した。

 村人たちと一緒に使う場所を確かめ、家畜小屋の隙間を指さす。ニーナはその後ろで説明を聞き、教えられた場所へ木片を打ちつけていった。

 薬の袋には、エレナが使い方を書いた紙を結んだ。

 以前の旅人の荷物は、役人が引き取ることになった。名前の分かる品を持つ者がいれば、ツヴァイクへ知らせるようにと、集会所の前へ紙が貼られている。

 その横では、村人たちが翌朝の見回りを相談していた。

 ニーナが最後の杭を打ち終えると、教授が近づいてきた。

「さて。約束、覚えてる?」

「筋力測定ですか?」

「そう! すぐ済むわ!」

 教授は待ってましたとばかりに、目盛りのついた器具を取り出した。両端に握りがあり、間を太いばねが繋いでいる。

「これを、左右に引いてみて」

「こうですか?」

 ニーナが握りを引いた。

 針が滑らかに動き、目盛りの端で止まる。

「……もう少し、力を抜いて」

「抜いてますけど」

 教授が器具を覗き込んだ。

 ニーナも手元を見る。

「もっと引きますか?」

「いえ。そのまま、ゆっくり戻して」

 教授は器具を受け取り、目盛りを確かめた。それから近くの石へ目を向ける。

「じゃあ、次はあれを――」

「一回だけです」

「重さを変えて、もう一回!」

「一回です」

 ニーナはにこりと笑い、木槌を拾った。

 教授はその背中を見送り、肩を落とす。

「研究の進まない村ね」

「鼠が減れば、十分だろ」

 ザインが言った。

*

 翌朝、四人は村の入口で荷物を背負った。

 教授はツヴァイクへ向かう荷馬車を待っている。足元には薬箱と、布を掛けた小さな箱があった。

「記録の写し、送っておくわ」

 教授がエレナへ言った。

「お願いします。こちらも、ランスへ戻る時に話してみます」

「また面白いものを見つけたら、持ってきてね」

「面白いだけのものなら、いいんだがな」

 ザインが言った。

「今回の相談は、これで終わりか?」

「ええ」

「次から有料?」

「内容によるわ」

「聞かなきゃよかった」

 教授が笑い、ニーナの方を向く。

「肉の使い方、よかったわよ」

「ありがとうございます」

「次は匂いを強くして――」

「普通の肉にします」

「……そう」

 エレンが吹き出した。

 見送りに来たニーナは、今日は木槌を持っていなかった。いつもの包みだけが、腰へ結ばれている。

「また肉?」

 エレンが指さす。

「今度は、私のお昼です」

「あ、そっちね」

「皆さんの分もありますよ」

 差し出された包みを、エレンが喜んで受け取った。

「ありがとう!」

 ニーナは四人へ頭を下げた。

「本当に、お世話になりました」

「こっちもな。洞窟で二度も助かった」

 ザインが答えた。

 ニーナが顔を上げる。

 サラは少し迷い、それから訊いた。

「ポールさん、帰ってくるかな」

 ニーナは街道へ目を向けた。

「帰ってきたら、話を聞きます」

「ああ。それがいい」

 ザインが頷く。

「あいつ、冒険の話なら、随分あるだろうからな」

「ええ。省かずに、全部」

 ニーナがにこりと笑った。

 エレンがザインの腕を肘でつつく。

「聞こえた? あんたも、報酬のことばっかり喋ってると危ないわよ」

「俺は何も省いてねえだろ」

 ニーナは笑ったまま、何も言わなかった。

 村を離れ、畑の先まで来たところで、サラは振り返った。

 ニーナがまだ手を振っている。

 サラも、空いた手を上げた。

 弦を離した指先には、昨夜も何度か確かめた感触が残っていた。

 矢が放たれ、赤い線が波打った瞬間。

 思い出そうとすると、指が自然に弦を探す。

「サラ。歩きながら引くんじゃないわよ」

 エレンに言われ、慌てて手を戻した。

「引いてないよ」

「あたしに向けないでよ?」

「向けないってば」

「試すなら、開けたところでな」

 ザインが前から言った。

 サラが顔を上げる。

「見てもらっても、いいですか」

「ああ。次に同じのが出た時、知らねえ技じゃ困る」

「もう、あんなに鼠はいらないわよ」

 エレンが言うと、エレナも頷いた。

「教授の新しい薬も、しばらくは遠慮したいですね」

「その二つ、一緒に出てきたからな」

 ザインが鼻を鳴らす。

 サラは笑い、弓の握りを確かめた。今度は指を伸ばしたまま、ゆっくりと。

 前を行く三人へ、歩調を合わせた。

 

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