Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
矢が、灰色の鼠へ迫った。
アルジャーノンはわずかに身体をずらし、飛んできた矢をかわした。矢はその脇をかすめ、背後の岩へ当たる。乾いた音が、押し寄せる鼠の鳴き声に呑まれた。
「外した!」
「いえ。見てから避けました」
エレナは足元へ飛びついた鼠を細剣で払い、群れの奥を見据えた。
ほかの鼠は弦が鳴ると同時に散ったが、あの一匹だけは、飛んでくる矢へ顔を向けていた。
教授が射出器を上げる。
「間違いない。アルジャーノンよ」
黒い目が、教授を捉えた。
短い鳴き声が響くと、ザインの前へ鼠が幾重にも重なって押し寄せてきた。
「サラ、次を急ぐな! 見失うなよ!」
「はい!」
ザインは右から、エレンは左から群れを迎え撃った。二人とも中央へ踏み込まず、後方から奥を狙える隙間を残している。
曲刀と斧に弾かれた鼠の背を、次の鼠が越えてきた。
「多すぎるわよ、これ!」
「今日は、こっちもいるでしょう!」
教授の射出器が鳴った。
白い筒が前衛の先へ落ち、煙を噴く。群れの先端が割れた。
「煙幕弾!」
ザインは煙から抜けてきた一匹を蹴り返した。別の鼠が足元へ跳ね、曲刀を返すと、刃についた血が岩へ散った。
振るたびに数は減っている。それでも、前方の床は鼠に覆われたままだった。
「教授。薬をもう少し広く撒けますか」
「できるわ。ちょっと待って」
教授が腰から瓶を二本抜いた。
「今、混ぜるの!?」
エレンが叫ぶ。
「今だから混ぜるのよ!」
「爆発しないでしょうね!」
「多分!」
サラの隣で、瓶の蓋が小さく鳴った。
その少し前では、ニーナがエレンの斜め後ろを守っていた。
横から鼠が回り込んでくる。一匹、二匹。
大きく槌を振れば、エレンに当たってしまう。ニーナは柄を短く持ち直し、足元へ来た一匹を押し返した。硬い手応えが肘へ響く。
「そう。それでいい!」
エレンが前を向いたまま言った。
だが、今度は五匹いた。
ニーナは槌を脇へ寄せ、空いた手を腰の包みへ入れた。
「エレンさん。左へ投げます」
「何を?」
「肉です」
「今!?」
切れ端が二人の左へ飛んだ。
近くの鼠が鼻を向ける。走り出しかけたところで、奥から鋭い鳴き声が響いた。
鼠は足を止め、肉とニーナを交互に見た後、再びこちらへ向かってきた。
「……食べさせてもらえないんですね」
「同情してる場合じゃないわよ!」
エレンの斧が鼠を横へ払った。
ニーナは床の肉を見た。すぐそばの一匹が、前脚だけをそちらへ向けている。
奥で灰色の頭が動き、鳴き声が途切れた。
その途端、一匹が肉へ走った。ほかの鼠も後を追う。
ニーナはそれを見て、包みを握り直した。
教授の放った薬を含む布が、鼠の群れへ滑り込んだ。
鼻を上げるもの。背を丸めて逃げるもの。その上へ、後ろから来た鼠が乗り上げる。
流れが乱れた。
サラは弓を下げずに奥を探した。アルジャーノンは、もう右の岩の下にはいない。
煙の縁、岩と壁の間。その上へ鼠が集まっていた。
「右の岩です。上から二段目!」
「見えた!」
ザインが右足を踏み出すと、群れがその前へ集まった。
曲刀を一度振る間に、灰色の身体は隣の岩へ移っている。
「左へ行った!」
サラの声に、ザインは追うのをやめ、一歩戻った。空いたところを鼠が埋める。
「俺が動くたびに、道を塞ぎやがる」
「ザインを見ていますね」
「好かれてる気はしねえな」
エレナが岩へ登りかけた鼠を細剣で落とす。
その先で、灰色の頭がこちらを向いた。エレナの手元を見て、それから後方の二人へ目を移す。
「教授。右へ追えますか」
「少し離れて!」
教授が赤い筒を込めた。
「何それ!」
エレンが訊く。
「刺激剤!」
「何を刺激するの!?」
「鼻!」
筒が岩の左側へ当たり、強い臭いが広がった。ザインが顔をしかめる。
「俺にも効いてるぞ!」
「鼻があるからね!」
「説明になってねえ!」
鼠が一斉に右へ逃げた。
アルジャーノンも跳ぶ。だが、着地する前に教授を見た。
射出器の先が、そちらへ動く。
灰色の鼠は岩陰へ滑り込み、姿を消した。
教授の指が、引き金の手前で止まる。
「……覚えた」
「何を?」
サラが訊いた。
「これの向き」
教授が射出器を少し傾けると、岩陰から覗いた黒い目が、その先を追った。
「一度で?」
「昔から、物覚えはよかったわ」
教授は笑わず、次の筒を手に取った。
その時、鳴き声が変わった。
正面の群れが二つに割れ、一方がザインへ押し寄せ、もう一方が壁沿いに右へ走る。
エレナが横へ出た。
細剣で先頭の一匹を止め、後ろから抜けようとした二匹へ向き直る。だが、岩の隙間からさらに鼠が出てきた。
「後ろへ来ます!」
教授が振り向き、サラも弓を下げかけた。
「奥を見て!」
ニーナが左から声を上げた。
槌を足元へ置き、包みの肉を残らず掴むと、入口の手前へ投げる。
鼠が走ってくる側とは、反対側だった。
肉が床へ散り、何匹かが足を止めた。それでも群れは、後方の二人へ向かってくる。
「教授! 鳴かせないでください!」
「何?」
「肉を食べようとすると、あいつが止めるんです!」
教授が顔を上げ、射出器を岩陰へ向けた。
灰色の頭が引っ込む。
白い筒が岩の手前で弾け、煙を噴いた。
鳴き声が、咳き込むような音に変わる。
先頭の一匹が肉へ向かった。
後ろから来た鼠がそれにぶつかり、二匹、三匹と向きを変えていく。サラの足元まで迫っていた一匹も鼻を上げ、肉の方へ走り去った。
エレナが残った鼠を払い、二人の右側を塞ぐ。
「サラ。そのまま奥を」
「……はい」
サラは弓を握り直した。
ニーナも槌を拾う。
エレンが一瞬だけ振り返った。
「そんなこと考えてたの?」
「止めなければ、食べるかと思って」
「やっぱり、あたしこの子好き!」
「喜んでる場合か!」
ザインが正面の鼠を押し返した。
ニーナは包みを逆さにする。もう何も落ちてこない。
「ただ、肉はもうありません」
「好きだけど、早めに言って!」
エレンは斧を構え直した。
サラは煙の上へ目を向けた。
灰色の鼠が、壁際の岩へ登っている。肉へ向かった鼠たちは、まだ床で奪い合っていた。鳴き声に顔を上げても、すぐには戻らない。
「右上。壁のところです!」
ザインが岩へ足をかけた。
アルジャーノンが振り向く。
その目が、曲刀と足元を行き来した。
ザインは登らず、右へ肩を入れた。
灰色の鼠が左へ向く。
次の瞬間、ザインは左側の岩を蹴った。
アルジャーノンが跳ぶ。
「エレン!」
「分かってる!」
斧が逃げた先の岩を打ち、欠けた石が飛んだ。
アルジャーノンは身体をひねり、その手前へ降りる。
低い岩の上。
サラからも、教授からも見える場所だった。
教授が青い筒を込めた。
「止まって!」
乾いた音がした。
アルジャーノンの背が沈み、筒は耳の上を抜けて岩へ当たった。
「麻酔まで避けるの!?」
教授の声に、黒い目が向いた。
その周りへ、再び鼠が集まり始める。
ニーナが一歩前へ出た。
肉の落ちた場所を見てから、槌で床を叩く。残った切れ端に群がっていた鼠が散り、転がった肉へ別の鼠が飛びついた。
戻りかけていた群れが、またそちらへ引かれる。
アルジャーノンが鋭く鳴いた。
教授が赤い筒を上げると、鳴き声が止まった。
灰色の身体が岩の右へ寄り、射出器の向きから離れていく。
サラは矢をつがえた。
あの鼠は、見ている。
ザインさんが、どちらへ踏み込むか。お姉ちゃんが、どこへ斧を振るか。教授の筒が、どこを向くか。
矢だって、飛んできてから避ける。
それでも、跳ぶ直前には背が沈む。前脚が止まり、後ろ脚が縮む。
身体が向いた方へ、必ず跳ぶわけじゃない。
床を蹴る脚を見れば――。
「サラ」
すぐ隣で、教授が言った。
「撃てる?」
サラは頷いた。
声にすると、息が乱れそうだった。
引き絞った弦が、指へ食い込む。
アルジャーノンの目が、弓へ移った。
右の後ろ脚が岩を踏みしめる。
左へ跳ぶ。
そう分かった瞬間、サラは狙いを変えかけた。
けれど、今から左を狙えば見られる。
動かしかけた手を止めた。
指先から背中まで、張り詰めていたものが一本につながった。
弓の握りが、ほんのわずかに傾く。
どうすればいいか、考えるより先に分かった。
サラは指を離した。
矢が、淡い赤の軌跡を引く。
アルジャーノンが左へ跳んだ。
矢は、その脇を抜けるはずだった。
赤い線が、一度だけ波打った。
跳んだ灰色の身体を、矢が捉える。
短い悲鳴が響き、アルジャーノンは岩の向こうへ落ちた。
サラは弓を上げたまま、そこを見つめていた。
自分の指が、まだ弦を引いているようだった。
「……今の、何?」
エレンが呟いた。
サラにも、答えられなかった。
その時、鼠の群れが一斉に走り出した。
「下がれ! 追うな!」
ザインが岩から降り、前衛へ戻る。エレンも斧を構え直した。
だが、群れはこちらへ来なかった。
薬の布を避け、壁の穴へ潜る。隣の鼠とぶつかり、押し合い、散り散りになって逃げていった。
肉を咥えた一匹が、ニーナの靴の先を抜ける。ニーナは槌を引き、それを通した。
幾重にも重なっていた鳴き声が、遠ざかっていく。
やがて、床が見えた。
割れた筒、散らばった石、倒れた鼠。
誰も、すぐには武器を下ろさなかった。
ザインが奥を確かめ、曲刀を引く。
「……終わりだ」
サラの腕が下がった。
途端に膝が震え、隣から教授の手が肩へ添えられた。
「よく狙ったわね」
「狙った、んですけど……」
サラは自分の弓を見る。
「最後、矢が……」
「見えていました」
エレナが戻ってきた。細剣の血を拭い、サラの顔を見る。
「避けた先まで、追いましたね」
「同じように、もう一回できるかは……」
「今、もう一匹出てきたら困るわよ」
エレンが斧を下ろした。
サラが、ようやく小さく笑う。
ザインは岩の向こうを確かめて戻ってきた。
「《ビーストスレイヤー》だな」
「知ってるの?」
エレンが訊いた。
「使う奴を見たことがある。獣相手に、妙な曲がり方をしやがる矢だ」
サラは、空いた指を一度握った。
「……ビーストスレイヤー」
もう一度、弓の握りへ手を戻す。
さっきの感触が、少しだけ残っていた。
*
教授は、岩の向こうでしゃがんでいた。
アルジャーノンは動かなかった。灰色の小さな身体から矢が伸びている。胸も、もう動いていなかった。
教授は薬箱から布を出し、その身体をそっと包んだ。
頭のところで、手が一度止まる。
サラは少し離れた場所に立った。
「教授……」
「ありがとう。止めてくれて」
教授が顔を上げる。
いつものように笑おうとして、途中でやめた。
「持って帰るわ。調べたいことがあるから」
エレナが隣へしゃがんだ。
「以前の記録も、もう一度見せてください」
「薬の分も?」
「全部です。いつ、どこで捕まえたかも」
「分かったわ」
教授は布の端を重ね、小さな身体を薬箱とは別の袋へ収めた。
その間に、ニーナは壁際の古い鞄を見つけていた。
朽ちた革紐。その下には、錆びた金具が落ちている。
槌を置き、持ち上げようとしたところで、ザインが声をかけた。
「底が抜けるぞ」
空いた布袋を広げる。
ニーナは頷き、両手でそっと鞄を移した。
エレンも近くに落ちていた短剣を拾う。サラは矢を仕舞い、荷物を運ぶ二人のところへ向かった。
*
キドラントへ戻った時には、午後の陽が家々の屋根へ傾いていた。
村の入口には、見慣れない馬が二頭繋がれている。
荷物を降ろすニーナへ、近所の女性が駆け寄った。
「戻ったのね!」
「はい。怪物は、倒しました」
周りから声が上がった。戸が開き、畑からも人が戻ってくる。
ニーナは頭を下げ、それから抱えていた布袋を開いた。
古い鞄が見えた途端、女性の手が口元で止まった。
ツヴァイクから来た役人は、町長の家にいた。
卓の上には、ザインたちが持ち帰った過去の旅人たちの荷物が並んでいる。町長と一緒に岩を動かした男たちも、壁際へ座らされていた。
「こちらのお話は聞きました。洞窟の中も、確認させていただきたい」
「案内する。鼠が戻る前にな」
ザインが答える。
役人は頷き、卓の品々へ目を向けた。
ニーナも鞄を置く。
「ほかにもあります。あの奥に、まだ……」
町長は、荷物を見ようとしなかった。
「では、怪物はいなくなったのか」
「ええ」
教授が答えた。
「鼠をまとめていた一匹は倒したわ。残りが全部いなくなったとは言わないけど」
「そうか。それなら、ようやく村も――」
「この鞄に、見覚えは?」
役人の問いに、町長の口が止まった。
戸口へ集まっていた村人の間から、一人の老人が出てくる。
「去年、泊まっていった商人のだ。肩紐を、わしが直した」
老人は鞄の裏へ触れた。
不揃いな縫い目が残っている。
「北へ発ったと、聞いておったが……」
町長の視線が窓へ動いた。
その外にも、村人が立っていた。
教授は卓の端へ、自分の手帳を置いた。
「鼠のことは、私からも話すわ。以前、飼っていた個体が関わっているかもしれないの」
町長が顔を上げた。
「ならば! この女が原因ではないか!」
椅子を引き、勢いよく立ち上がる。
「村をこのような目に遭わせて、よくも平然と――」
「私たちを閉じ込めろと、教授に言われたんですか?」
エレナが訊いた。
町長の指が、宙で止まる。
役人が書きかけの紙から顔を上げた。
「その点については、あなたから聞いています。続きをお願いします」
教授は手帳を開いた。
「捕まえた場所は、キドラントの近く。その時点で、ほかの鼠より……」
ザインは戸口を離れ、外へ出た。
エレンがついてくる。
「あれ、長くなる?」
「なるな」
「あたし、先に何か食べたい」
「食ってこい」
「……あんたは?」
ザインは家の中を振り返った。
ニーナが椅子を勧められ、首を振っている。卓へ手をつき、洞窟で見たものを話し始めたところだった。
「こいつらが出てきたらだ」
エレンも中を見た。
しばらくして、戸口の横へ腰を下ろす。
「じゃ、あたしも待つ」
*
翌日、集会所へ村人たちが集まった。
役人が洞窟から戻るまで、町長は自宅から出ることを許されなかった。入口を塞いだ男たちも一人ずつ呼ばれ、事情を聞かれている。
押収された荷物には布札が結ばれ、卓に並べられていた。
村の年長者が、一枚の紙を手に立った。
「これからの村の仕事は、当面、私らで分担する。あなたには、町長を辞めてもらう」
部屋の後ろで、誰かが小さく息を吐いた。
町長は座ったまま周囲を見回す。
「待て。勝手に決めるな」
「先ほどから、皆に聞いておる」
「こんなものは認められん!」
卓を叩く。
ニーナの肩がわずかに揺れ、その隣でエレンの眉が動いた。
「お姉ちゃん」
サラが小声で呼ぶ。
「まだ殴らない」
「……もう少し我慢する……」
「私がこの村を守ってきたんだぞ! 私が決めてきた! よそ者に何が分かる!」
町長が立ち上がった。
誰も頷かなかった。
彼は椅子を押し退け、胸を張った。
「私を誰だと思っている!」
返事はない。
「私が町長なんだぞ!」
静まり返った部屋で、椅子の脚がきしんだ。
ザインがエレナを見る。
エレナも、何とも言えない顔で見返した。
年長者が少し困ったように口を開く。
「……もう違います」
「…………」
元町長の顔が固まった。
エレンが立ち上がる。
「よし」
サラが顔を上げた。
「何が?」
「今ならいい」
「何が!?」
エレンは元町長の前へ立った。
「な、何だ」
「洞窟に閉じ込められた分」
拳を握る。
「サラやエレナを危険な目に遭わせた分」
「おい。一発にしとけよ」
ザインが口を挟んだ。
「分かってるわよ」
「分かってるなら殴るな」
元町長が後ずさった。
「暴力は――」
エレンの拳が走った。
元町長は尻もちをつき、そのまま背中から転がった。
しばらく誰も喋らなかった。
エレンが拳を振る。
「……痛っ……」
「殴った方が言うな」
ザインは額を押さえた。
役人が立ち上がる。
「お話を。あなたにも」
「……はい」
エレンが、少しだけ背筋を伸ばした。
サラは口を両手で覆っている。その隣ではエレナが目を伏せ、肩を震わせていた。
「笑ってないで、何か言ってよ!」
*
エレンが戻ってきた時には、昼をとっくに過ぎていた。
ニーナの家では、温め直した煮込みが卓へ出ている。
「あー、長かった!」
椅子へ座るなり、エレンが匙を取った。
「だから殴るなって言ったろ」
「最初、一発にしろって言ったじゃない」
「その後で言い直した」
「遅いのよ」
ニーナがパンの籠を置き、少し笑った。
「私の分も、ありがとうございました」
「……そこは、真似しなくていいからね」
「はい」
ニーナが椅子を引く。
ザインは匙を取る前に、小さな金袋を卓の端へ置いた。
「報酬、受け取ってきた。二千だ」
「増えたの?」
エレンが訊く。
「元の八百に、往復の手間と薬代を足させた。役人の立ち会いで、町長本人に払わせた」
「閉じ込められた分は?」
「金で終わらせたくねえそうだ。あの役人」
ザインは袋を開いた。
「経費を引いて、残りは四人で分けるぞ」
エレナが頷いた。
「私たちの話も、書いてもらいましたから」
「殴った分もね」
サラが小さく付け足した。
「サラまで!」
卓の向こうで、教授も笑った。
集会所の前には、ツヴァイクへ向かう馬車が止まっていた。
元町長は荷台を見て、足を止める。
「私は、いつ戻れるのだ」
「まずはツヴァイクで、お話を伺います」
役人が答えた。
「あなた方が洞窟へ入れた人たちについても、一人ずつ」
元町長は振り返った。
見送りに来た村人は、誰も近づかなかった。
「……私が町長です」
「その話は、もう終わりました」
馬車の戸が閉まった。
*
教授は村へ鼠を寄せにくくする薬を残した。
村人たちと一緒に使う場所を確かめ、家畜小屋の隙間を指さす。ニーナはその後ろで説明を聞き、教えられた場所へ木片を打ちつけていった。
薬の袋には、エレナが使い方を書いた紙を結んだ。
以前の旅人の荷物は、役人が引き取ることになった。名前の分かる品を持つ者がいれば、ツヴァイクへ知らせるようにと、集会所の前へ紙が貼られている。
その横では、村人たちが翌朝の見回りを相談していた。
ニーナが最後の杭を打ち終えると、教授が近づいてきた。
「さて。約束、覚えてる?」
「筋力測定ですか?」
「そう! すぐ済むわ!」
教授は待ってましたとばかりに、目盛りのついた器具を取り出した。両端に握りがあり、間を太いばねが繋いでいる。
「これを、左右に引いてみて」
「こうですか?」
ニーナが握りを引いた。
針が滑らかに動き、目盛りの端で止まる。
「……もう少し、力を抜いて」
「抜いてますけど」
教授が器具を覗き込んだ。
ニーナも手元を見る。
「もっと引きますか?」
「いえ。そのまま、ゆっくり戻して」
教授は器具を受け取り、目盛りを確かめた。それから近くの石へ目を向ける。
「じゃあ、次はあれを――」
「一回だけです」
「重さを変えて、もう一回!」
「一回です」
ニーナはにこりと笑い、木槌を拾った。
教授はその背中を見送り、肩を落とす。
「研究の進まない村ね」
「鼠が減れば、十分だろ」
ザインが言った。
*
翌朝、四人は村の入口で荷物を背負った。
教授はツヴァイクへ向かう荷馬車を待っている。足元には薬箱と、布を掛けた小さな箱があった。
「記録の写し、送っておくわ」
教授がエレナへ言った。
「お願いします。こちらも、ランスへ戻る時に話してみます」
「また面白いものを見つけたら、持ってきてね」
「面白いだけのものなら、いいんだがな」
ザインが言った。
「今回の相談は、これで終わりか?」
「ええ」
「次から有料?」
「内容によるわ」
「聞かなきゃよかった」
教授が笑い、ニーナの方を向く。
「肉の使い方、よかったわよ」
「ありがとうございます」
「次は匂いを強くして――」
「普通の肉にします」
「……そう」
エレンが吹き出した。
見送りに来たニーナは、今日は木槌を持っていなかった。いつもの包みだけが、腰へ結ばれている。
「また肉?」
エレンが指さす。
「今度は、私のお昼です」
「あ、そっちね」
「皆さんの分もありますよ」
差し出された包みを、エレンが喜んで受け取った。
「ありがとう!」
ニーナは四人へ頭を下げた。
「本当に、お世話になりました」
「こっちもな。洞窟で二度も助かった」
ザインが答えた。
ニーナが顔を上げる。
サラは少し迷い、それから訊いた。
「ポールさん、帰ってくるかな」
ニーナは街道へ目を向けた。
「帰ってきたら、話を聞きます」
「ああ。それがいい」
ザインが頷く。
「あいつ、冒険の話なら、随分あるだろうからな」
「ええ。省かずに、全部」
ニーナがにこりと笑った。
エレンがザインの腕を肘でつつく。
「聞こえた? あんたも、報酬のことばっかり喋ってると危ないわよ」
「俺は何も省いてねえだろ」
ニーナは笑ったまま、何も言わなかった。
村を離れ、畑の先まで来たところで、サラは振り返った。
ニーナがまだ手を振っている。
サラも、空いた手を上げた。
弦を離した指先には、昨夜も何度か確かめた感触が残っていた。
矢が放たれ、赤い線が波打った瞬間。
思い出そうとすると、指が自然に弦を探す。
「サラ。歩きながら引くんじゃないわよ」
エレンに言われ、慌てて手を戻した。
「引いてないよ」
「あたしに向けないでよ?」
「向けないってば」
「試すなら、開けたところでな」
ザインが前から言った。
サラが顔を上げる。
「見てもらっても、いいですか」
「ああ。次に同じのが出た時、知らねえ技じゃ困る」
「もう、あんなに鼠はいらないわよ」
エレンが言うと、エレナも頷いた。
「教授の新しい薬も、しばらくは遠慮したいですね」
「その二つ、一緒に出てきたからな」
ザインが鼻を鳴らす。
サラは笑い、弓の握りを確かめた。今度は指を伸ばしたまま、ゆっくりと。
前を行く三人へ、歩調を合わせた。