Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ピドナの朝は早い。
パン屋が窯を開ける頃には、通りを荷車が行き交っている。窓の下から届く車輪の音を聞きながら、トーマスは帳簿の同じ行を、もう一度指でなぞった。
「……合わないな」
向かいに座った親戚の商館の手代が、顔を上げる。
「計算違いですか?」
「それなら、よかったのですが」
トーマスは卓にもう一枚の紙を並べた。
「ヤーマスから届く染料が、三か月続けて減っています」
「値上がりしていますからね。買い控えでしょう」
「注文も減っています。ただ、それ以上に届いていない」
注文控えには百樽、船荷の受取書には八十樽。足りない二十樽の欄には『後日納入』と記されていた。翌月も、その翌月も同じだった。
「向こうでは、どれだけ積んだことになっているんです?」
「そこを確かめたいんです。ヤーマスから届いた出荷案内では、これほど減っていません」
トーマスは別の帳簿を開いた。
鉄材、酒、薬草。品物も取引先も違うのに、不足分を後へ回している点はよく似ていた。
「海賊でしょうか」
「それなら、被害を受けた船の話がもっと出るはずです。少なくとも、ここにある書類にはありません」
「では、どこへ?」
「分かりません」
トーマスは紙の端を揃え、必要な箇所を写し取った。
「だから、見に行きます」
*
その日の昼、トーマスは旧市街へ足を運んだ。
ミューズの家の前では、子供たちが地面に線を引いて遊んでいる。戸口にいたシャールへ挨拶すると、奥から明るい声が返ってきた。
「トーマスさん。どうぞ、お入りになって」
ミューズは窓辺の椅子に座っていた。編んだ銀紫の髪には、小さな花が一輪挿してある。以前のように膝へ毛布を掛けてはいなかった。
代わりに、卓の上に一本の木の棒が置かれている。
「……そちらは?」
「杖です」
「訓練用です」
シャールが横から言った。
「歩く時にも使えますわ」
「先ほどは、振っておられました」
「少しだけです」
ミューズは微笑んだが、シャールは笑わなかった。
トーマスは、どちらにも頷かないことにした。
「お身体の具合はいかがですか」
「おかげさまで。今日は裏庭を二周できましたのよ」
「二周で、お休みいただきました」
「シャールが三周目で入口に立ってしまうものですから」
「休んでいただくためです」
「ええ。ですから、今は座っていますでしょう?」
ミューズは椅子の背に行儀よく身体を預けた。言葉だけなら、彼女の方に分がありそうだった。
トーマスは椅子を借り、ヤーマスへ向かうことを伝えた。
「取引の記録に、少し気になるところがありまして」
「またお仕事ですの?」
「今回は確認です」
「トーマスさんの『確認』は、いつもお忙しそうですね」
「帳簿を見て、話を聞くだけですよ」
ミューズとシャールが、揃って彼を見た。
「……何ですか」
「いいえ。お気をつけて、と思いまして」
ミューズは笑いながら立ち上がり、茶器へ手を伸ばした。だが、シャールが先に盆を取る。
「私が」
「では、お願いするわ」
素直に任せたあとで、彼女の手が木の棒へ伸びた。
「ミューズ様」
「立ったついでに、一度だけ。足の運びを忘れないうちに」
シャールは盆を置き、周囲に物がないことを確かめた。
「では、ゆっくりと。肩に力を入れずに」
ミューズが左足を引く。棒の先が窓辺を離れ、腰の動きに合わせてまっすぐ前へ出た。
力強い動きではない。それでも、途中で先端がぶれなかったことは、槍を使うトーマスにも分かった。
シャールが何か言いかけ、口を閉じた。
「……今の足運びは、どちらで?」
「昨日、あなたが見せてくれたでしょう」
「一度だけです」
「ええ。腕から動かすと、足が残ってしまうのでしょう?」
ミューズは同じ位置へ足を戻し、もう一度棒を動かした。今度も先端はすっと止まった。
だが、その直後に小さく息をつく。棒を支える指に力が入り、シャールがすぐに椅子を引いた。
「今日は、ここまでにしましょう」
「……はい」
腰を下ろすと、さすがに言い返さなかった。
トーマスがシャールを見ると、彼は受け取った棒の先をしばらく見つめ、それから壁へ立て掛けた。
「ずいぶん、覚えるのがお早いですね」
「見ている時間は、たくさんありましたもの」
ミューズは両手を膝に重ねた。
「でも、身体を動かすのは別ですのね。もう少しできると思ってしまって」
「少しずつで結構です」
今度のシャールの声は、幾分柔らかかった。
茶を淹れる間、トーマスは窓の下に置かれた浅い皿に気づいた。砂が薄く敷かれ、小石が三つ並んでいる。
「それも、訓練ですか?」
「白虎術を教わっていますの」
「白虎術?」
「近所に使える方がいらっしゃって。お話を伺ったら、基礎だけなら、と」
ミューズは少し嬉しそうに皿を引き寄せた。
「呼吸を整えて、力を通すところからです。こちらは座ったままでもできますから」
「疲れることに変わりはありません」
「分かっているわ。今日は、もうしません」
そう言って、皿には触れず、両手を膝へ戻した。
シャールが茶を置くと、ミューズはその湯気を眺めながら微笑んだ。
「教えていただきたいことが、ずいぶん増えてしまいました」
トーマスは茶碗を取り上げた。
「戻ってきた時のお話が、楽しみですね」
「ええ。トーマスさんも、帳簿だけでは済まなかった時は教えてくださいな」
「帳簿だけで済ませるつもりですが」
今度はシャールも、わずかに口元を緩めた。
*
翌朝、西門へ向かう途中で、トーマスは名前を呼ばれた。
「おーい、トーマス!」
人混みの向こうから、明るい緑色の髪が見えた。
肩に旅袋を掛けたユリアンが、片手を上げて近づいてくる。
「ユリアン。ピドナに来ていたのですね」
「昨日な。お前のところへ行こうと思ってたんだ」
外套の裾には街道の土が残り、背負った袋には食器がぶら下がっていた。
「今度は、どちらを?」
「街道沿いをあちこち。途中で荷運びも手伝った」
「旅費は稼いでいるんですね」
「そこ、最初に確かめる?」
「大事でしょう」
ユリアンはトーマスの旅装を見た。
「お前も出かけるのか」
「ヤーマスへ。少し調べ物です」
「じゃあ、俺も行こうかな」
「ずいぶん早いですね、決めるのが」
「次、どこ行こうかと思ってたところだし。海も見たい」
「仕事ですよ」
「分かってるって。邪魔はしないから」
トーマスは少し考えた。
「では、宿代と食事代は各自で」
「お前までザインみたいなこと言うなよ」
「ザインさんなら、護衛料の話から始まります」
「……確かに」
二人は顔を見合わせ、笑った。
門の前でユリアンが旅袋を担ぎ直す。トーマスも、書類の入った鞄の留め具を締めた。
ヤーマスへ続く街道を、二人で歩き始める。
シノンにいた頃なら、珍しくもない組み合わせだった。だが、今はユリアンが休むたびに剣を確かめ、トーマスは宿へ着くたびに書類を広げる。
二日目の夜も、街道宿の食堂で食事を終えると、トーマスの前には紙が並んだ。
「なあ。旅してても帳簿見るの?」
「見るために来ていますから」
「楽しい?」
「面白いですよ」
「本当に?」
トーマスは一枚の紙を、卓の真ん中へ滑らせた。
「例えば、同じ重さ、同じ等級の鉄材です。ピドナとヤーマスで、一束につき十二オーラムの差がある」
「うん」
「輸送費や途中の手数料を見込んでも、普段なら七、八オーラムほどです」
「うん」
「残りの四、五オーラムは、どこから来たのでしょう」
ユリアンは紙を見つめ、しばらくしてからトーマスを見た。
「……誰かが、余計に取ってる?」
「あるいは、こちらで品薄になっているのか。運ぶための別の費用が増えたのか」
「それを調べるんだ」
「ええ。面白くありませんか?」
「悪いけど、今のところ全然」
「そうですか」
トーマスは紙を引き戻した。
ユリアンが空になった皿を重ねる。
「ザインなら食いつくかな」
「四オーラムなら、確実に」
「だよな」
笑いながら、ユリアンが椅子を寄せた。
「で、どこまで分かってるんだ?」
「興味がないのでは?」
「お前が何しに行くかくらいは、聞いとくよ」
トーマスは鞄へ戻しかけた地図を、もう一度広げた。
*
三日目の午後、街道の先から潮の匂いが届いた。
丘を越えると、青い海と幾重にも並ぶ船の帆柱が見えた。石造りの街は斜面を下り、倉庫の屋根が埠頭に沿って続いている。
「おお……!」
ユリアンが足を止めた。
「船、多いな」
「荷を降ろす順番を待っている船もありますね」
「お前、まずそこを見るのか」
坂を下りるにつれ、荷役人の声が聞こえてきた。
港では樽を積んだ荷車が道を塞ぎ、その横を籠を担いだ女が器用にすり抜けていく。
ユリアンは行き交う荷物を避けながら、倉庫の壁を見上げた。
「なあ。あの印、さっきもなかった?」
黒い犬を模した紋章だった。倉庫の扉だけでなく、荷車の側面にも、通りの先の看板にも同じものがある。
「ドフォーレ商会です」
「有名?」
「かなり」
「いい意味で?」
トーマスは荷車が通り過ぎるのを待ってから答えた。
「大きい、という意味では」
「なるほど」
ユリアンにも、それで伝わった。
港近くの宿に荷物を預けると、トーマスはすぐに取引所へ向かった。
紹介状を見せ、閲覧できる記録を借りる。持参した控えと船名、日付、荷の数を照らし合わせ、必要な箇所を書き留めていった。
ユリアンは最初こそ隣にいたが、三十分ほどで窓の外を見る回数が増えた。
「ちょっと、街を見てきていい?」
「どうぞ。夕方には宿へ来てくださいね」
「危ないことはしないから」
「それは僕ではなく、自分に言ってください」
「信用ないなあ」
「ありますよ」
ユリアンが振り返る。
「困っている人を見たら、放っておけないでしょう」
「……それ、止める気ないだろ」
「戻ってこられなくなる前に、誰かを呼んでくださいね」
トーマスは記録へ目を戻した。
ユリアンは何か言いたそうな顔をしたあと、片手を上げて出ていった。
*
市場は、歩くだけでも面白かった。
氷の上に並ぶ魚、籠いっぱいの果物。聞いたこともない名の香辛料を、店の女がひとつまみ嗅がせてくれる。
ユリアンがくしゃみをすると、女は声を上げて笑った。
林檎を一つ買い、釣り銭を受け取ったところで、路地の方から怒鳴り声が聞こえた。
「払えねえなら、店を畳めって言ってんだ!」
三人の男が、小さな店の主人を囲んでいた。一人は入口を塞ぎ、別の一人は店先の木箱へ足を乗せている。
「今月の分は、もう払った!」
「それは場所代だ」
「今度は何だ!」
「警備代」
「そんなもの、頼んでない!」
「頼まれなくても、俺たちが守ってやってるんだろうが」
ユリアンは林檎を持ったまま立ち止まった。
危ないことはしない。つい先ほど、そう言ったばかりだった。
「おい」
口の方が先に動いていた。
三人が振り返る。
「何だ、てめえ」
「その人、払ったって言ってるけど」
林檎を買った店の女が、そっと商品を奥へ引っ込めた。通りを歩いていた人たちも、目を逸らしながら距離を取る。
男の一人が袖をまくった。
「よそ者か。だったら教えてやるよ。ヤーマスじゃ、余計なことに首を突っ込まねえ方が――」
拳が飛んできた。
ユリアンが半歩下がると、拳が鼻先を通り過ぎる。
「――いいんだよ!」
「最後まで言うんだな」
二人目が棒を振り上げた。
ユリアンは林檎を近くの空箱へ置き、棒が振り下ろされる前に懐へ入った。柄を握る腕を押さえて足を払い、男を背中から石畳へ転がす。
「てめえ!」
三人目の手に、短剣が光った。
ユリアンの顔から笑いが消えた。背後には、まだ店の主人がいる。
「それは駄目だろ」
剣を抜き、踏み込んできた短剣を斜めに受ける。刃を外へ流しながら手首を返すと、短剣は石畳へ落ちた。
靴底で蹴り、男の手が届かないところへ滑らせる。
「まだやる?」
三人は互いの顔を見た。
「覚えてろ!」
転んだ男を引き起こし、路地の向こうへ逃げていった。
ユリアンは息を吐き、剣を納めた。林檎を取り上げ、袖でこする。
「いや、よくやった!」
頭上から声がした。
見上げると、屋根に一人の男が立っていた。
丸々と太った大柄な男だった。立派な口髭を蓄え、目元には青い仮面。額に大きな「R」の文字が入った濃紺の帽子をかぶっている。
金のボタンが並ぶ上着に長いマントを羽織り、細身の剣を颯爽と構えていた。
「誰?」
「弱きを助け、悪を挫く!」
男は胸を張った。
「怪傑ロビン、参上!」
通りにざわめきが広がる。
「ロビンだ!」
「本当だ、ロビンが来た!」
歓声を浴びながら、男は屋根から飛び降りた。
右足を強く踏み込み、腹を少し揺らして着地する。
ユリアンは林檎を握ったまま、しばらく見つめた。
「……いや。今の、俺が全部やったよね?」
「細かいことは気にするな!」
「細かくないよ!」
ロビンは高らかに笑い、逃げた男たちの方を指した。
「悪党どもよ! この街で好き勝手ができると思うな!」
「もういないけど!」
店の主人が笑った。通りにも、ようやく笑い声が戻ってくる。
ロビンは仮面の下からユリアンを見て、短く頷いた。
「助太刀、感謝する!」
「だから、逆だって!」
返事を待たず、怪傑は人垣の向こうへ走り去った。
残されたユリアンの前で、店の主人が頭を下げる。
「ありがとう。本当に助かった」
「ああ、うん。怪我は?」
「ないよ。あんたも気をつけてくれ」
主人は笑うのをやめ、男たちが消えた路地を見た。
「あいつら、ドフォーレの人間だから」
ユリアンは林檎をかじる前に、そちらを振り返った。
*
夕方、宿の部屋へ戻ると、卓が紙で埋まっていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「何かありました?」
「何で?」
トーマスが顔を上げる。
「顔に書いてあります」
「……やっぱり?」
ユリアンは椅子へ座り、市場の一件を話した。
トーマスは途中で眼鏡を外したが、話を遮らなかった。
「店の人に、怪我は?」
「なかった」
「それはよかった」
「あと、ロビンって奴が出た」
眼鏡を拭く手が止まる。
「ロビン?」
「知ってる?」
「噂だけは」
「仮面をしてた」
「そうでしょうね」
「屋根から出てきた」
「そうでしょうね」
「俺が全部終わらせた後に」
「……それは知りません」
ユリアンは背もたれへ身体を預けた。
「そっちは?」
トーマスは眼鏡をかけ直し、卓の紙を三枚選んだ。
「ピドナで待っている荷物の一部が、ここでは別の相手に売られたことになっています」
「途中で売り先を変えた?」
「その可能性はあります。こちらの控えでは、ピドナ向けの注文はまだ取り消されていませんが」
「誰に売ったんだ?」
「小さな商会がいくつか。ただ、所在を確かめると妙なことが分かりました」
トーマスは写した店名の横を指した。
「すでに廃業しているんです。半年以内に、これだけ」
「全部?」
「今日、確認できた範囲では」
ユリアンが椅子を寄せる。
「廃業する前に買ったんじゃないのか」
「それも確かめます。取引の日付と、店を閉めた日が必要です」
別の紙には、倉庫の住所が並んでいた。
「そして、その店が使っていた倉庫は、今はドフォーレ商会のものです」
「……黒いな」
「まだです」
「黒いだろ」
「買い取っただけなら、不正ではありません。代金を払えなくなった店の荷を、引き取った可能性もある」
「お前、思ってないだろ」
「確かめずに決めるわけにはいきません」
トーマスは紙に、確認すべき日付を書き足した。
「記録だけでは分からないこともあります。元の店主や、荷を扱った人の話を聞きたい」
「それなら、俺も手伝えるな」
ユリアンが立ち上がった。
「市場の人に、飯のうまい酒場を教えてもらったんだ。船乗りも来るって」
「ちょうどいいですね」
「一つだけ約束してくれ」
「何でしょう」
「飯が来たら、帳簿はしまってほしい」
トーマスは卓の上を見た。
「……それは、失礼しました」
港近くの酒場は、仕事を終えた人々で混み合っていた。
焼き魚と煮豆を頼み、空いていた卓につく。トーマスが店の名を挙げると、給仕は「あそこなら閉めたよ」と答えた。
「いつ頃でしょう」
「先月の終わりだったかな。詳しいことなら、倉庫にいた連中の方が知ってる」
トーマスは礼を言った。
料理が置かれたので、手帳は膝の上へ戻す。
向かいでユリアンが満足そうに頷いた。
隣の卓から声が聞こえたのは、その時だった。
「聞いたか。またロビンが出たらしいぞ」
「市場だろ? ドフォーレの連中を追っ払ったって」
ユリアンが酒にむせた。
「俺だよ!」
トーマスが、その口を手で塞いだ。
「静かに。聞きましょう」
ユリアンは不満げに眉を寄せたが、頷いた。手が離れると、小声で付け加える。
「本当に、俺なんだけど」
「知っています」
隣の卓では、男たちが声を落としていた。
「ロビンも、よくやるよな。あいつらに目をつけられて」
「あれぐらいやってくれる奴がいなきゃ、やってられねえさ」
「しかし最近、変じゃねえか?」
「何が」
「前より太ったり、痩せたりしてないか」
「飲んだ量で、お前の目が変わるんだろ」
笑い声が起こった。
トーマスは杯を置く。
「昼に会った人は、どんな体格でした?」
「結構、がっしりしてた。いや、がっしりというか――」
その時、酒場の扉が開き、外の声が流れ込んできた。
「ロビンだ!」
何人もの客が立ち上がる。
ユリアンは魚を飲み込み、トーマスと一緒に表へ出た。
通りの向かいの屋根に、濃紺の帽子と目元の仮面が見えた。昼間と同じように片手を掲げ、歓声に応えている。
「あいつだ」
ユリアンが言った。
ロビンは屋根の縁を蹴ると、庇へ一度足を掛け、身を翻して通りへ降りた。
細身の身体が、軽く膝を曲げて止まる。
ユリアンの眉が寄った。
「……あれ?」
「昼と同じ人ですか?」
「服は、同じだと思う」
だが、腹のあたりが違う。
昼間はもっと丸く、着地した時には右足で強く踏ん張っていた。
今、先に地面へ触れたのは左足だった。続く一歩も軽い。
「二人いる?」
ユリアンが呟く。
ロビンは人々へ手を振り、路地へ駆け込んだ。すぐに姿が見えなくなる。
「追うか?」
「いいえ。今は、こちらの調べ物を」
トーマスは港の方へ目を向けた。
暮れ残る空の下に、倉庫の屋根が並んでいる。昼に写した住所の一つも、あの中にあった。
「明日は、店を閉めた人を探しましょう。荷物を受け取ったのか、どうして倉庫を手放したのか。本人に聞きたい」
「分かった。俺も一緒に行く」
「退屈かもしれませんよ」
「今日みたいなのを見た後じゃ、帳簿の話も少しは気になる」
ユリアンは酒場を振り返った。
「その前に、飯の続きだな」
「ええ。冷めてしまいます」
二人は人垣を抜け、店へ戻った。
*
港の外れの倉庫では、市場から逃げ帰った男が机の前に立っていた。
「またロビンか」
「いえ。剣を持った旅人です。若い緑髪の男です」
「一人か?」
「連れがいます。眼鏡をかけた、商人らしい男です」
机の向こうで、帳簿をめくる手が止まった。
「商人?」
「取引所で記録を調べていたそうです。ピドナから来たと」
返事はなかった。
男は落ち着かず、擦りむいた手の甲を外套の陰へ隠した。
机には、倉庫の譲渡証書が何通も積まれていた。その上へ、閉じた帳簿が置かれる。
「調べろ」
「剣の方ですか?」
「眼鏡の方だ。何を見ていたのか、誰と会ったのか。宿も確かめておけ」
男が頭を下げ、部屋を出ていく。
港ではまだ、怪傑を讃える酔客の声が響いていた。