Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
翌朝、一足先に朝食を食べ終わったトーマスは宿の食堂で、三枚の紙を並べていた。
向かいでは、ユリアンが朝食のパンを齧っている。
商品の仕入れ量、販売価格の推移、そして商会の廃業記録。トーマスが集めた三枚の紙には、気になる共通点があった。
トーマスは眼鏡を押し上げた。
「大きな商会が、小さな商会の廃業後に店や倉庫を買い取ること自体は犯罪ではありません」
「じゃあ何が怪しいんだ?」
「順番です」
ユリアンがパンを齧る手を止めた。
「順番?」
「まず、小規模商会に大量の商品が卸される」
一枚目。
「次に、その商会が不自然なほど安い価格で商品を売り始める」
二枚目。
「当然、周辺の店も値下げせざるを得なくなる」
三枚目。
「ところが数ヶ月後、最初に値下げを始めた商会だけが突然倒産する」
「……何で?」
「記録では、仕入れ代金を払えなくなったことになっています」
「安く売りすぎた?」
「おそらく」
「…自分でやってるなら馬鹿じゃないか?」
「自分で決めていれば、ですが」
トーマスは別の紙を出した。
「倒産した商会の債権者を調べました」
ユリアンは紙を見る。
「ドフォーレ?」
「正確には、ドフォーレと関係の深い金融業者です」
「最初から潰すつもりで商品を渡してる?」
「可能性があります」
トーマスは頷いた。
「その後、値下げ競争で弱った周囲の店まで、ドフォーレに買い取られています」
「それで港中にあの黒い犬の看板が増えたのか」
「それもおそらく」
ユリアンはしばらく考えた。
「……剣で殴るより嫌なやり方だな」
「商売は人を豊かにもします」
トーマスは帳簿を閉じた。
「使い方を間違えれば、剣より多くの人を傷つけますけどね」
ユリアンは、しばらく黙っていた。
「……で、これ、全部ドフォーレが仕組んだと思うか?」
「その可能性はあります。ただ、今ある記録だけでは断定できません」
「じゃあ、どうする?」
「当事者に話を聞きます。帳簿には残らない事情もありますから」
トーマスは紙を揃え、鞄へしまった。
「まずは酒屋です。昨夜、元の店主がまだ街にいると聞けました」
「その後は?」
「話の内容次第ですね」
「昼飯は?」
「それも、話の長さ次第です」
「そこだけは決めて行こうぜ」
トーマスは茶碗を持ち上げた。
「では、昼までには一度休憩を」
「よし。今日は付き合う」
「昨日も、そう言っていましたね」
「ちゃんと覚えてるよ」
元の酒屋は、港から坂を上った裏通りにあった。
看板は外され、窓の内側から板が打たれている。脇の戸を叩くと、しばらくして中年の男が顔を出した。
「商売はやめたよ」
「買い物ではありません。ピドナから来ました、トーマス・ベントと申します」
トーマスが紹介状を見せると、男は受け取らず、封の印だけを確かめた。
「取引について、少し伺いたいんです」
「誰との?」
「こちらへ酒を卸していた商会についてです。今はドフォーレの――」
戸が閉まりかけた。
ユリアンが思わず手を伸ばしかける。トーマスはその腕へ軽く触れた。
「あなたのお名前を、勝手に外へ出すことはしません」
「だったら、ここへ来るな」
男は戸の隙間から通りを確かめた。
「まだ、この街で暮らしてるんだ」
トーマスも声を落とした。
「ピドナで、届かない荷を待っている人がいます。こちらで売れたと記録されている品物が、本当に届いていたのか。それを確かめに来ました」
男の目が動いた。
「……何の荷だ」
「葡萄酒です。先月の二十日、二十樽」
「その日には、もう閉めてる」
トーマスは返事を急がず、男を見た。
やがて戸が開いた。
「長居するなよ」
店内は薄暗く、棚には空瓶が数本残っていた。外された値札が床に落ちている。
ユリアンが踏みかけた一枚を拾った。
「一瓶、十九オーラム」
「最後の値段だ」
男は椅子を引かず、卓の縁へ腰を掛けた。
「仕入れは二十一。一瓶売るたび、二オーラムの赤字だ」
「だったら、値段を上げればいいじゃないか」
「向かいの店が同じものを十八で売ってたんだ。値段を上げれば、客が来なくなる」
「じゃあ、売らなきゃいいだろ」
「売らなけりゃ、一オーラムも入ってこない。仕入れた酒の代金も払わなきゃならんし、店の家賃だってある」
ユリアンは値札を見つめた。
「……つまり、値下げしなきゃ売れない。でも、値下げすると赤字になる。どっちにしても苦しいってことか」
「そういうことだ」
男は疲れた顔で頷いた。
トーマスは窓の向こうの店へ目を向けた。そちらも戸は閉ざされ、黒い犬の印が残されている。
「向かいのお店も、閉められたんですね」
「ああ。安い値段で出せば、後から卸値を引いてもらえる。そういう約束だったらしい。だが、精算の時になって話が変わったと聞いた」
「じゃあ、向こうも赤字で酒を売ってたってことだったのか?」
「約束どおり値引きしてもらえなかったなら、そうだろうな」
「その話は、誰から聞いたんですか?」
「向こうの店主だ。最後は、うちへ酒を飲みに来たよ」
男は空になった棚を見た。
「その間、俺たちは値を下げるしかなかった。向こうが閉めても、今度はドフォーレの店が同じ値段で売り続けた」
「仕入れ先を変えることは?」
「船も倉庫も、あそこを通せば早い。別に頼むと、前より高くつく。売値は下がるのに、運ぶ金は上がるんだ」
ユリアンは二つの店を見比べた。
「安売りした店も、それに付き合わされた店も潰れた。残ったのは、ドフォーレの店だけ?」
トーマスが頷いた。
「そうなっています。ただ、それが最初から狙いだったのかは、まだ分かりません」
「……なるほどな」
ユリアンの顔から笑みが消えた。
「もし狙ってやってるなら、ひどい話だ」
トーマスは手帳を開いた。
「最後の納品書は、残っていますか」
「何のために?」
「先月二十日の記録と比べます。届いていない荷を、受け取ったことにされているかもしれません」
男はしばらく動かなかったが、やがて卓の引き出しを開け、紐で括った紙を取り出した。
「なくすなよ」
「写しを取らせてください。原本は、こちらへお返しします」
トーマスは日付と数量を書き留めた。
最後の受け取りは、その月の八日。十二日には店を閉めている。
「名前は出さないんだな」
「お約束します。証言をお願いする時は、改めてお話しします」
男は書類を受け取り、紐を結び直した。
戸口まで来てから、低い声で付け足す。
「若いの。気をつけろ。殴りに来る奴らだけじゃない。荷が来なくなっても、人は食えなくなる」
ユリアンが振り返った。
トーマスは短く礼を言い、外へ出た。
坂を下りる間、二人とも口数が減った。通りの先では荷車が倉庫へ入っていく。その側面にも、同じ黒い犬の印があった。
*
昼前、二人は市場へ戻った。
トーマスが近くの店で運送の料金を尋ねている間、ユリアンは昨日助けた店の主人に呼び止められた。
「兄ちゃん。今日は連れがいるんだな」
「ああ。あいつの調べ物を手伝ってる」
「そうか。これ、持っていけ」
主人は林檎を二つ渡してきた。
「昨日の礼だ。もう一つは、連れに」
「ありがとう」
受け取って振り向いた時、荷車の向こうから女の怒鳴り声が聞こえた。
「それは売り物だよ! 勝手に持っていくんじゃない!」
二人の男が、荷台から布の包みを下ろしていた。一人が女を押しのけ、もう一人が包みを肩へ担ぐ。
「ドフォーレ商会の回収だ。借りた金を返せねえ方が悪い」
「支払いは月末だろ!」
「話が変わったんだよ」
ユリアンは林檎を店の主人へ預けた。
「ちょっと、持ってて」
足を踏み出すより先に、頭上から声が降ってきた。
「待てーい!」
「……また上か」
庇の上でマントが広がった。金のボタンが光り、丸々とした腹が見える。
青い目元の仮面に、立派な口髭。濃紺の帽子には、大きなRの文字。
昨日の昼間に会った方のロビンだった。
「悪事は、この怪傑ロビンが見逃さん!」
大きな身体が宙へ躍り、石畳を踏む音がずしんと響いた。
ロビンは男たちへ向き直る。
「店主が認めていない物を持ち去るとは、強盗ではないか!」
「正式な契約だ!」
「ならば、その契約書を見せろ!」
「てめえに見せる必要は――」
男が腰の棍棒を抜くより前に、ロビンが動いた。
腹が揺れるより先に足が出ていた。棍棒の外側へ踏み込み、細剣の鍔で男の手首を打つ。
棍棒が落ちる。続けて肩を押し込まれ、男は荷車の車輪へ尻餅をついた。
もう一人が布の包みを投げつけた。
ロビンは身を沈めてそれをかわし、低い位置から足を払った。包みと男が、ほとんど同時に地面へ落ちる。
「……強い」
ユリアンは剣の柄から手を離した。
「当然だ!」
ロビンが細剣を向けると、男たちは転がるように立ち上がり、逃げていった。
ユリアンは布の包みを拾った。紐が緩んでいたが、中の布は汚れていない。
「大丈夫か?」
「ああ。ありがとう」
女が包みを受け取ったところへ、トーマスが戻ってきた。
「間に合いませんでしたか」
「今日は俺も、見てただけ」
ユリアンがロビンを指した。
「こっちが、全部やった」
「うむ! そこの青年も、昨日はよく働いた!」
「その場にいたよね?」
「ロビンは、街の出来事を何でも知っている!」
「便利だな」
ロビンが大きな手を差し出した。
「名は?」
「ユリアン・ノールだ」
「そうか、ユリアン! ヤーマスへようこそ!」
握られた手は、思った以上に力強かった。
ロビンはトーマスにも頷くと、拍手を送る人々へ片手を上げ、足早に市場を離れた。
トーマスはその背中を見送り、布を売る女へ向き直った。
「先ほど、支払いは月末だと仰いましたね。差し支えなければ、お話を聞かせていただけませんか」
ユリアンが、横から林檎を一つ差し出した。
「その前に、これ。昼休み」
トーマスは受け取った林檎と女を、順に見た。
女が小さく笑い、店の中から椅子を出してくれた。
夕方、宿の卓には朝より紙が増えていた。
トーマスは聞き取った話を日付の順に並べ直し、ユリアンは向かいで剣帯の金具を締め直している。
「ロビン、やっぱり二人いるよな」
「そう考える方が自然ですね」
「昨夜の方も強そうだけど、今日の方もかなり強かった。見た目で油断したら、普通に負けると思う」
「昨夜の人は、身のこなしが軽かったですし」
トーマスが余白に二つの印をつけた。
「何、それ」
「ロビンA、ロビンB」
「名前つけたの?」
「区別するためです」
「太い方と細い方でいいじゃん」
「本人たちの前で言わないでくださいよ」
「言わないよ!」
トーマスは書いた文字を線で消し、紙を裏返した。
「正体も調べるか?」
「今は必要ありません」
「気にならない?」
「気にはなりますよ。でも、隠しているものを無理に聞いて、協力してもらえなくなる方が困ります」
「もう協力してもらう気なんだ」
「こちらが知らないことを、ご存じでしょうから」
トーマスは今日話を聞いた人の名を、別の紙へ書き足した。
「店を取り返せそうかな?」
ユリアンが訊く。
「すぐには難しいでしょうね。ただ、記録と違うところは見つかりました」
店を閉めた後に届けられたことになっている酒。月末までのはずが、急に返せと言われた借金。安売りの見返りに約束された値引き。
それぞれの店で、似たような問題が起きていた。ただ、今のところは一人ずつの証言に過ぎない。
「向こうの書類と比べたいんです。誰が、どんな条件で動かしているのか」
「貸してくれって言っても、貸さないだろうな」
「ええ。僕たちには貸さないでしょうね」
窓の外が暗くなり始めていた。
トーマスは手帳を閉じ、鞄へしまう。
「今夜も、港で話を聞きましょう」
ユリアンが剣帯を腰へ戻した。
「分かった。でもその前に腹ごしらえだ」
*
酒場では、またロビンの噂が流れていた。
「今日も市場に出たらしいぞ」
「どっちだ?」
ユリアンの手が止まった。
トーマスも、杯を口へ運ぶ途中で動きを止める。
「何が、どっちだよ」
「いや。何でもねえ」
男たちは別の話を始めた。
ユリアンが小声で訊く。
「今、どっちって言ったよな」
「ええ」
「俺たちが思うほど、秘密じゃないのかも」
トーマスは答えず、隣の卓へ料理を運ぶ給仕に場所を空けた。
しばらくして、店の隅にいた老人が二人の卓へやってきた。
「ピドナの商人さんだな」
「はい」
「ドフォーレの荷を調べてると聞いた」
ユリアンが顔を上げた。
「どちらで?」
「あちこちで尋ねて歩いてりゃ、耳にも入る」
老人はトーマスの鞄を見た。
「第三倉庫だ。夜中に、街から荷が入る」
「港からではなく?」
「そうだ。昔は俺も、あの並びで荷を運んでた。今は、夜の連中しか使わねえ」
「中身は?」
「知らん。だが、店を閉めた奴の荷車が入っていくのを見た」
老人は酒を一口飲んだ。
「車輪の片方だけ、色が違うやつだ。直すのを手伝ったから覚えてる」
トーマスが倉庫の位置を訊くと、老人は卓に落ちた水滴で簡単な道筋を描いてくれた。
「俺が言ったことは、忘れろよ」
「お名前は伺っていません」
老人は一度だけ頷き、自分の席へ戻っていった。
深夜、港の灯はまばらになっていた。
トーマスとユリアンは第三倉庫の向かいにある建物の陰に身を潜めていた。人通りは少ないが、時折、酒場から帰る船員が通る。
「お前と、こんなことをするとは思わなかったよ」
「僕もです」
「帰ろうか?」
「せめて、荷車が来るところまでは」
ユリアンが声を殺して笑った。
やがて車輪の音が近づいてきた。
一台目は、片方の車輪だけが明るい色をしていた。続いて二台。いずれも港ではなく、市街地の坂を下ってくる。
倉庫の扉が開き、荷が運び込まれた。
トーマスは箱の側面に目を凝らした。
「……昼に見ました」
「何を?」
「あの印。布の店で扱っていた、近くの織工房のものです」
扉の脇にいた男が、紙と箱を見比べている。運び込まれる荷の数を数え、筆を走らせていた。
「あれが見られれば……」
「入るのか?」
「できれば、帳簿だけ確認したいところですが」
「勝手に入っちゃ駄目だろ」
「……非常に困っています」
「そこは悩むんだ」
その時、倉庫の裏手でかすかな音がした。
二人が身を低くすると、屋根の縁にマントが見えた。細身の人影が壁際の足場へ降り、窓の留め具を外すと、隙間から身体を滑り込ませた。
「ロビン?」
ユリアンが囁いた。
「昨夜の方ですね」
「先を越されたな」
「僕たちは、外を見ていましょう」
「出てくるのを待つ?」
「話を聞けるかもしれません」
「ずるくない?」
「まだ、何も頼んでいませんよ」
トーマスは裏の道を確かめた。
倉庫の脇には空の荷車が一台。海へ向かう道と、市場へ戻る路地がある。
窓の奥で影が動いた。
直後、倉庫の中から何かが倒れる音がした。
「侵入者だ!」
「ロビンだ! 裏へ回れ!」
ユリアンが腰を浮かせた。
窓が大きく開き、ロビンが飛び出してくる。脇には書類の束を抱えていた。
地面へ降りると同時に、裏口から男が二人駆け出してくる。
ロビンの細剣が一人目の剣を流し、二人目の膝へ蹴りを入れる。そのまま路地へ抜けようとしたが、先にも人影があった。
「そっちだ! 挟め!」
正面の男を避けたロビンの背後で、別の男が剣を振り上げる。
ユリアンは飛び出した。
「後ろ!」
抜いた剣で振り下ろされる刃を受け、重さを横へ逃がす。
相手はすぐに剣を引き、もう一度振りかぶった。
ユリアンは右肩をわずかに引いた。男の目と剣先がそちらを追う。
開いた脇腹が見えた。
ユリアンは踏み込みながら、剣の柄頭を叩き込んだ。
男が息を詰まらせ、膝をつく。
「青年!」
ロビンの声に顔を上げる。
「ユリアン!」
二人が背中合わせになった。
裏口と路地の両側に、合わせて六人。倒れた男を除いても、まだ五人いる。
正面から棍棒が来た。
ユリアンは受け流してその腕を肩で押し上げ、懐へ入ると、膝を崩して石畳へ倒す。
横ではロビンの細剣が短く光った。剣を持つ手を浅く打ち、相手が怯んだところへ足を掛ける。
昼間の大柄なロビンとは違い、こちらは一か所に留まらない。男が剣を向け直す頃には、もう横へ抜けていた。
「逃がすな!」
奥の男が、腰の笛へ手を伸ばした。
その足元へ、空の荷車が転がってきた。
「うわっ!」
男が身を避け、笛が指からこぼれる。
荷車の柄を押していたトーマスが、車輪を横へ向けて路地を塞いだ。
「こちらです! 長居はできません!」
ユリアンが最後の一人の剣を弾く。ロビンはその腕を取り、壁際へ投げ倒した。
「よし! 悪は滅びた!」
「気絶してるだけだけど!」
「それでいい!」
「そこは同意する!」
トーマスは二人を急かし、路地へ入った。
背後で、誰かが荷車を蹴る音が響いた。
*
市場の裏まで走り、何度か道を変えた。
追ってくる足音がなくなったところで、トーマスは軒下へ入った。ユリアンも壁へ背を預ける。
「……結局、お前も手伝ったな」
「あの笛を吹かれると、困りますから」
「槍があれば、もっと楽だったんじゃないか?」
「持ってくればよかったと、先ほど思いました」
ロビンが二人を見比べた。
「お前が、噂の眼鏡の商人か」
トーマスの手が止まった。
「私をご存じで?」
「ドフォーレが探している。ピドナから来て、取引所を嗅ぎ回っているとな」
ユリアンが周囲を確かめた。
「宿まで知られてるかな」
「そのつもりで動いた方がよさそうですね」
トーマスはロビンへ向き直った。
「その書類を、見せていただけますか」
ロビンは脇に抱えた束を見下ろし、頷く。
「そのために持ってきた。ここでは暗い」
「どこか、落ち着いて話せるところは?」
「心当たりがある」
ロビンが案内したのは、閉店した小さな店の裏口だった。
二度、間を置いて一度、戸を叩く。
顔を出した女は仮面を見て、何も聞かずに三人を中へ入れた。
「表は閉めてある。声は落としておくれ」
「感謝する」
ロビンが頭を下げると、女は隣の部屋へ戻っていった。
奥の部屋には小さな灯が置かれた。トーマスは卓へ書類を広げる。
倉庫の受払帳、納品書の控え、それに貸付の契約書。
ユリアンは向かいに座るロビンをちらりと見た。室内へ入っても、目元の仮面は外さない。
何か訊きかけたところで、トーマスの指が止まった。
「ありました」
先月二十日。二十樽。
朝訪ねた酒屋の名前が、そこにあった。
「あの人、受け取ってないって言ってたよな」
「ええ。店を閉めた後です」
トーマスは別の控えを横へ並べた。
「ところが、こちらでは同じ荷が、ドフォーレの倉庫へ戻されています。代金を払えなかったため、引き取ったと」
「届いてない物を、取り返したことにしてる?」
「少なくとも、この二枚はそうなっています」
ロビンが身を乗り出した。
「これで訴えられるか」
「記録の日付が事実と違うなら、その点は追えます。ただ、これだけで不正と決めることはできません。店主の控えとも照らし合わせましょう」
トーマスは契約書をめくった。
名義はドフォーレではない。昼に聞いた卸売の商会と、金貸しの名前が並んでいる。
「こちらは、向かいの店でしょうね」
「安売りしてた方か?」
「おそらく。販売価格を指定されています。その代わり、後から仕入れ代金を値引く。ただし――」
小さな文字で書かれた箇所を指した。
「決められた量を、期間内に売れた場合だけです」
「売れなかったら?」
「値引きはなくなり、最初の高い代金を全部払う」
「……つまり、売れれば安く仕入れられるけど、売れなかったら借金が増えるのか」
「ええ。しかも、その借金の担保に店まで入っています」
「それ、商売じゃなくて罠じゃないか?」
「そう疑いたくなる条件ですね。ただ、契約だけで決めつけるわけにはいきません」
トーマスは続く書類を広げた。返済の延長と引き換えに、担保を追加した契約。そこには店と倉庫の住所が記されている。
「返済を延ばすために、倉庫まで担保に加えています」
ロビンの手が、卓の上で握られた。
「断った店には、連中が来る。荷を荒らし、客を追い返すんだ」
「今日の布屋も、その一軒ですね」
「私が行けば逃げる。だが、次の日には別の店へ行く」
トーマスは顔を上げた。
ロビンは書類を見つめている。先ほどまでの大きな身振りは、もうなかった。
「全部の店を、毎日見られるわけではない」
ユリアンも口を閉じた。
隣の部屋から、椅子を動かす音が聞こえた。
トーマスは紙を揃え、鞄から手帳を取り出した。
「脅しや、届いていない荷の請求については、証言と書類を集めましょう。この束だけで全てを証明するのは難しいですが、確かめる先は増えました」
「その間に、また店が潰れるぞ」
「そちらにも、手を打ちたいんです」
トーマスは白い頁へ三つの店名を書いた。
昼に回った食料品店、布屋、そして市場でまだ営業している小さな酒屋。
「明日、この三軒の方に集まっていただけませんか」
「何をする気だ?」
「仕入れと、運送の相談を」
ユリアンが紙を覗き込む。
「そこで商売の話になるのか」
「明日の品物が届かなければ、店は開けませんから」
トーマスは、それぞれが使っている倉庫と運送屋を書き足した。
「一軒ずつでは高くても、三軒分なら変えられるところがあります」
ロビンはしばらく手帳を見つめ、顔を上げた。
「分かった。声を掛けよう」
「お願いします。それから、人前ではあまり大声で名前を呼ばないでくださいね」
「……善処する」
ユリアンが小さく吹き出した。
*
翌朝、三人の店主が集まった。
トーマスは宿から必要な書類を運び、昨夜の店の奥を借りていた。ユリアンは入口の見える場所へ椅子を置く。
卓に着いた店主たちは、隣同士でもどこか遠慮があった。
「まとめて買えば安くなる。それは分かるよ」
酒屋の男が言った。
「だが、まとめて買う金がないんだ」
「今回は買い付けをまとめるのではありません。注文は各店で出していただき、運送を一緒にします」
ユリアンが横から口を挟んだ。
「つまり、仕入れ先は別々でいいんだな。運ぶ時だけ一緒にすれば、馬車代を分けられるってことか」
「ええ。まずはそこからです」
トーマスが紙を回した。
「こちらの運送屋には、昨日話を聞きました。荷車一台を出す料金は決まっています。皆さんの荷なら、一台に載せられる」
「行き先が違うじゃないか」
布屋の女が言う。
「仕入れ先は別でも、この市場へ運んでくる道は同じです。途中で三か所に寄る手間は増えますが、三台出すより安くなります」
「倉庫は?」
「今日届く分は、それぞれの店へ。次の仕入れからは、空いている場所を融通できないでしょうか」
食料品店の男が首を振った。
「魚と布を一緒には置けないぞ」
「置きません。匂いが移るものも、湿気を嫌うものもあります。まずは、場所を貸せる品物だけです」
「うちは酒樽なら置ける。奥の半分が空いてるからな」
酒屋の男が隣を見る。
「瓶なら、うちの棚も余ってるよ」
布屋の女が答えた。
トーマスは二人の間へ紙を置き、保管する量と料金を書き込んだ。
「荷が傷んだ時に誰が確かめるかも、決めておきましょう。後で揉めると、続きません」
「誰かが金を払わなかったら?」
「最初は、それぞれが仕入れる分を先に用意してください。ほかの店の借金を、皆さんが背負う契約にはしません」
店主たちは紙を回し、指で数字を追った。
酒屋の男が、もう一度計算する。
「……運ぶ金は、だいぶ浮くな。これなら何とか続けられそうだ」
「ええ。無理に値下げせず、利益が残る値段で続けてください」
布屋の女がトーマスを見た。
「あんたの取り分は?」
「成立した運送契約の仲介料を、運送屋からいただきます。こちらの金額に含めてあります」
「ただ働きじゃないんだね」
「僕にも、宿代がありますので」
入口の方でユリアンが笑った。
「よかったな。ザインに叱られずに済む」
「働く前に報酬を決めろとは、言われそうです」
店主たちも笑った。
やがて布屋の女が注文を書き込み、二人の男も必要な量を伝え始めた。
トーマスは合計を確かめ、顔を上げる。
「では、一台頼んできます」
昼を過ぎた頃、一台の荷車が市場へ入ってきた。
御者の横にはユリアンが座っていた。曲がり角で一度立ち上がり、荷台が店の庇に当たらないか確かめる。
「もう少し右。そこなら通れる!」
荷台には布の包みと酒樽、それに乾物の木箱が載っていた。
三軒の店主が集まり、それぞれの荷を下ろす。トーマスは納品書を一枚ずつ渡し、品目と数量を照合した。
布屋の女が包みを開き、指で生地を確かめる。
「いつもの品だ」
「同じ工房ですから」
「いつもより、運ぶ金が安い」
トーマスは頷いた。
女は布を店先へ運び、新しい値札をつける。立ち止まった客が端を広げ、色を見比べ始めた。
隣では酒屋の男が樽を転がし、食料品店の男がそれを避けて木箱を運んでいる。
「そっち、先に通ってくれ」
「すまんな。帰りに空箱をまとめておく」
ユリアンは荷台から降り、額の汗を袖で拭った。
「とりあえず、一回はうまくいったな」
「ええ。次も同じようにできるか、確かめないと」
「もう少し喜んでも、いいんじゃないか?」
トーマスは顔を上げた。
布屋の女が最初の客から硬貨を受け取っている。代金を確かめ、品物を包み、笑顔で手渡した。
それを見て、トーマスもようやく口元を緩めた。
「……そうですね。まずは、一回」
*
「共同で運んだ?」
ドフォーレ商会の一室で、男が報告書から顔を上げた。
「はい。三軒分です。こちらの運送も倉庫も通していません」
「三軒だけか」
「今のところは。ただ、周りの店も話を聞きに来ていました」
男の指が、卓を叩いた。
「まとめたのは?」
「ピドナの商人です。トーマス・ベント」
昨夜、第三倉庫でロビンを逃がしたという報告にも、同じ名前があった。
「倉庫からなくなった書類は、まだ戻らんのか」
「捜しています」
「捜すだけで済むと思うな」
男は報告書を伏せた。
「次にどこから荷を入れるのか、確かめろ。誰が協力しているかもだ」
*
夕方、市場の荷下ろしが一段落した頃だった。
「トーマス!」
屋根の上から声が降ってきた。
トーマスが足を止めて見上げると、細身のロビンが片足を屋根の縁へ掛けて立っていた。
「見事だ!」
「ありがとうございます。昨夜のお願いは、覚えておいでですか」
「……何のことだ?」
「大声で名前を呼ばないでください、と」
「ああ、そうだったな!」
ユリアンが横を向いて笑った。
「だが、悪と戦うなら、この怪傑ロビンの力が必要になるだろう!」
「はい。引き続き、お願いしたいことがあります」
トーマスは屋根を見上げたまま続けた。
「明日も荷が入ります。店を開ける人たちと、荷を運ぶ人たち。その両方に目を配りたいんです」
「ドフォーレが邪魔をする、と?」
「今日の布屋のようなことが、また起きるかもしれません。僕たちは、閉めた店の方にも話を聞きに行きたい」
「なるほど。手が足りんわけだな」
「ええ。可能であれば、もう一人のロビンさんにもお願いできますか」
ロビンが一瞬、黙った。
「……もう一人?」
「昨夜と今日の昼では、ずいぶん体格が違いましたので」
ユリアンが頷く。
「着地する足も違ったしな」
ロビンはしばらく二人を見下ろしていたが、やがて胸を張った。
「善処する!」
「ありがとうございます。ただし、二人で同じ場所へ来ていただく必要はありません」
「む?」
「一人が市場を見てくだされば、もう一人には荷車の通る道をお願いしたいんです。その方が、守れる場所が増えますから」
ロビンは腕を組み、しばらく考えた。
「よかろう!」
トーマスは手帳を開き、待ち合わせの場所と時刻を伝えた。
「では、明日の朝に。今度は、なるべく目立たないようにお願いします」
「任せておけ!」
ロビンは声高らかに答えると、屋根伝いに走り去っていった。
ユリアンがその背中を見送り、苦笑する。
「……目立たないのは無理じゃないか?」
「でしょうね」
トーマスは手帳を閉じた。
市場では、布屋の女が入口の灯をともしていた。隣の酒屋からは空箱を借りる声が聞こえ、食料品店の主人が荷の片づけを手伝っている。
昨日まで別々に商売をしていた三軒が、今日は互いに声を掛け合っていた。
「明日も、ちゃんと開くといいな」
ユリアンが言った。
「ええ。そうしたいですね」
トーマスは三軒の店先を眺めた。
港へ続く通りには、黒い犬の紋章を掲げた倉庫や店がいくつも並んでいる。
その中で今日、初めてドフォーレの運送を使わずに荷を届けることができた。
「なあ、トーマス」
「何でしょう」
「お前、ドフォーレに喧嘩売ってるの、分かってる?」
トーマスは少し意外そうにユリアンを見た。
「僕は、商売をしているだけですよ」
「……向こうはそう思わないだろうな」
「でしょうね」
あっさり認められ、ユリアンは眉を上げた。
トーマスは手帳を開いた。今日、荷を受け取った三軒の名前が並んでいる。
「ですが、今日の荷はちゃんと届きました。店も開けられた。なら、明日も続けられるようにしたいんです」
「三軒とも?」
「できれば、もっと」
トーマスはその下に、新しい一行を書き足した。
「明日は、もう一軒増やしたいですね」
ユリアンはしばらく友人の横顔を見ていたが、やがて笑った。
「……剣も抜かずに、あいつらを本気で怒らせる気かよ」
「剣が必要な時は、お願いします」
「俺任せか!」
「得意な方に任せるのが、一番ですから」
トーマスは涼しい顔で手帳を閉じた。
「……お前、時々ザインより怖いな」