Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
翌朝、荷車の横に立っていたロビンは、丸い方だった。
「任せておけ! この荷は、私が守る!」
「ありがとうございます。なるべく、普通に乗っていただけると」
トーマスが言うと、ロビンは荷台の上で腰に手を当てた。
「普通とは?」
「その木箱から降りて、座ってください」
ユリアンが御者の隣で吹き出した。
市場の屋根には、もう一人のロビンがいた。細身の怪傑がこちらへ片手を上げる。荷車が動き出すと、大柄な方も胸を張って応えた。
「……目立たないようにって、言ったよな」
「もう、荷が無事に届けば結構です」
トーマスは見送る手を下ろし、市場の方へ歩き出した。
昨日の三軒に加え、今日は乾物屋が一軒、荷を頼んでいた。
品物を受け取る店が増えるたび、荷台の積み方も、回る順番も変わる。樽の下へ布を押し込もうとした御者を止め、雨に濡らしたくない荷には覆いを足す。昼前には、トーマスの手帳に小さな訂正がいくつも並んだ。
それでも、四軒分の荷は届いた。
三日後には、同じ運送を使う店が七軒になった。
「うちも頼めないか」
そう声を掛けてきた店主へ、トーマスはすぐには頷かなかった。
「品物は何ですか。どちらから、どのくらい?」
「何でも載せればいいんじゃないのか」
横で聞いていたユリアンが言うと、酒屋の男が笑った。
「魚の横に布を積んだら、奥さん方に怒られるぞ」
「それは分かる」
「荷車がもう一台必要なら、その分の運賃も増えます」
トーマスは帳面を開いた。
「一緒に運んだ方が安くなるか、先に確かめましょう」
七軒で巨大な商会に勝てるわけではない。
それでも、店先で品物を受け取る人たちの顔は、初日に会った時とは違っていた。
*
その日の午後、二人は港近くの酒場へ入った。
扉の上では、海鳥と『シーホーク』の文字を描いた看板が揺れていた。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こうで、大柄な男が酒樽を抱えていた。立派な口髭の下に笑みを浮かべ、重そうな樽を台へ置く。
「二人かい。空いてるところへ座んな」
ユリアンは立ち止まった。
「……何だい?」
「いや。どこかで会ったかなって」
「酒場だからな。来たことぐらいあるだろう」
「ここは初めてなんだけど」
「なら、初対面だ!」
男は笑い、奥へ声を張った。
「ライム! 二人、お客さんだ!」
返事は小さかった。
奥から出てきた若者が、二人の卓へ水を置く。細身で、目が合うとすぐに視線を伏せた。
「……ご注文は」
「煮込みを二つ。それとパンをお願いします」
トーマスが答える。
「はい」
若者は短く頷き、厨房へ戻った。
「静かな人だな」
「父親に似なくてな!」
店主が横から口を挟む。
「俺はトラックス。あれは息子のライムだ。料理の腕はいいぞ」
「親子なんだ」
「ああ。顔は母親似だ」
ユリアンはカウンターと厨房を交互に見た。
トーマスは鞄を椅子の下へ置き、水を飲んでいる。
ライムが皿を運んできた時、通りかかった客の肘が盆に触れた。
「あっ」
傾いた椀の縁を、若者の指が押さえる。もう片方の手で盆を支え直し、汁を一滴もこぼさず卓へ置いた。
「……失礼しました」
「いや、今のすごいな」
「慣れていますから」
ライムは目を伏せ、足早に離れた。
ユリアンがトーマスを見る。
友人は、もう匙を取っていた。
「お前、何か気づいてない?」
「煮込みが冷めますよ」
「いつもと立場が逆じゃん」
トーマスは小さく笑った。
食事が済む頃には、船員や荷役人たちが卓を埋め始めていた。誰かがトーマスに気づき、手を上げる。
「共同の荷車を始めた兄ちゃんだろ?」
「ええ」
「こっちの倉庫も借りられないかって、相談が来てるぜ」
男は嬉しそうだったが、隣の客は顔をしかめた。
「やりすぎるなよ。ドフォーレが船を止めたら、この街は食っていけねえ」
「だから、あそこ以外にも運んでもらえるようにしてるんだろ」
ユリアンが言った。
「荷車と船じゃ、話が違う」
「違いますね」
トーマスが頷く。
「ですから、船の仕事についても伺いたいんです。実際に荷を運んでいる方に」
客は少し意外そうに顔を上げた。
話は、船賃や荷役の人数から始まった。ドフォーレの船しか使えない航路もあれば、昔から個人で船を出している者もいる。黒い犬の旗を掲げていても、船そのものは船長の持ち物だという話もあった。
トーマスは手帳へ書き留めながら、途中で一度だけ手を止めた。
「第四倉庫?」
「あそこは別口だ。夜の荷役は、決まった連中にしかやらせねえ」
「第三ではなく?」
「ああ。薬を扱うって話だが、うちの船には載せたことがない」
カウンターで、トラックスが杯を拭く手を止めた。
*
閉店後のシーホークには、二人の客が残っていた。
表の戸を閉めると、トラックスは奥へ向かった。しばらくして戻ってきた腕には、若い荷役人がすがっていた。
男の顔は青白く、卓へ置いた手が小さく震えている。
「ここなら、あいつらは来ねえ。座れ」
トラックスが椅子を引いた。
ライムは黙って水を置き、その隣に立った。
「この人たちに、話してもらえますか」
若者が言うと、荷役人は俯いたまま頷いた。
男は、第四倉庫で働いていた。
初めは普通の荷運びだった。仕事の後に薬を渡され、疲れが取れると言われた。やめようとしても身体が言うことを聞かなくなり、代金は借金になった。
やがて、夜の荷を運ぶよう命じられた。
「……どこへ運んでいたんです?」
トーマスの問いに、男は川沿いの建物と、港外れの小屋の場所を答えた。
「今朝、全部片づけろって言われた。倉庫から紙が盗まれたから、荷も帳面も移すって」
ユリアンがトーマスを見る。
第三倉庫から持ち出された書類。その中に、第四倉庫へ渡す荷の記録が混じっていた。
「いつですか」
「今夜。荷車五台で運んで、夜明け前には船を出す」
男の指が、杯の縁を掻いた。
「もう嫌なんだ。でも、戻らなきゃ……」
トラックスが、その手から静かに杯を取った。
「今日は、ここにいろ」
「金が」
「水の代金を取ったことがあるか?」
男は首を振った。
ライムが裏へ立ち、しばらくすると近所の薬師を連れて戻ってきた。男を奥の部屋へ移す間、ユリアンは椅子に座ったまま、両手を握り合わせていた。
「……あの人が運んでたのは」
「麻薬でしょう。品物を確かめる必要がありますが」
トーマスは眼鏡を外した。
拭く布を取り出してから、何もせず卓へ置く。
「聖王様の時代から、禁じられているものです」
「借金を作らせて、自分たちの薬を運ばせてたのか」
「ええ」
奥の部屋で、トラックスの低い声が聞こえた。
今日は休め、と繰り返している。
「トーマス。行こう」
「その前に、港の役所へ」
「逃げられるぞ」
「だからです。倉庫を押さえても、船や作業場が残れば、また始まります」
トーマスは眼鏡をかけ直し、手帳へ男が話した場所を書きつけた。
「僕たちだけでは、全部には行けません」
*
港務所の責任者は、夜の訪問に眉をひそめた。
だが、第三倉庫の帳面と、荷役人の話を書き留めた紙を読み進めるうちに、卓へ肘をつくのをやめた。
「この男は、証言するのか」
「医者に診てもらっています。落ち着いたら、直接話を聞いてください」
「ドフォーレ相手に、伝聞だけでは船を止められん」
「第四倉庫から出る荷の検査は?」
トーマスは港の記録を示した。
「昨日、閲覧させていただいた出荷の届けです。今夜の五台分は、ここにありません」
「追加の届けが来るかもしれん」
「では、届出と現物を照合してください。何もなければ、出航させればいい」
責任者は紙から目を上げた。
「簡単に言うな。こちらにだって、生活がある」
部屋が静かになった。
トーマスは少し待ってから、手帳を閉じた。
「市場の人にも、同じことを言われました」
責任者の眉が動く。
「一人で名前を出すのが怖い、と。ですから、ほかの店の記録も集めました。今夜も、あなた一人の判断にはしないでください」
倉庫で起きたこと、薬を運ばされた者の話。商人の署名を添えて、市の評議会にも届ける用意があると伝えた。
責任者はしばらく黙り、やがて廊下へ声を掛けた。
「当直の隊長を呼んでくれ。それと、船の出入りを記録する者を一人」
ユリアンが、膝の上で握っていた手をほどいた。
話がまとまった頃、窓の外で帽子の影が動いた。
「準備はできたか!」
「ロビン!」
衛兵が槍を立てる。
トーマスは額へ指を当てた。
「できれば、扉からお願いします」
「扉には見張りがいた!」
「役所だからな」
ユリアンが窓を開けた。
細身のロビンは窓枠へ足を掛け、室内を見渡した。
「第四倉庫へ荷車が集まっている。もう時間がない」
隊長が外套を取り上げる。
「検査官を連れて行く。お前たちは、勝手に荷を持ち出すなよ」
「こちらからお願いしたいくらいです」
トーマスも立ち上がった。今夜は、椅子の脇に立てておいた槍を手に取る。
「持ってきたんだ」
「先日の夜に、後悔しましたから」
ユリアンは頷き、剣帯を締め直した。
*
第四倉庫の前には、五台の荷車が止まっていた。
船着き場へ向かう道を衛兵が塞ぐ。検査官と隊長が正面へ進み、トーマスとユリアンは少し後ろに続いた。
ロビンの姿は、いつの間にか消えていた。
「臨時の荷改めだ。責任者を出せ」
見張りは隊長の顔を見ると、倉庫の中へ引っ込んだ。
代わって現れたのは、上等な上着を着た若い男だった。両側に、剣を下げた男たちがついている。
「こんな時間に、何の騒ぎです?」
「こちらの荷を確かめる」
「医薬品ですよ。急ぎの船に載せるんです」
男は薄く笑った。
「父に話を通しましたか?」
「ドフォーレ殿の荷であっても、届けは必要だ」
隊長が答えると、笑みが消えた。
男の目が、その後ろのトーマスを捉えた。
「……お前か。店を集めて回っているのは」
「トーマス・ベントです」
「名前など聞いていない!」
「では、荷物を見せてください」
ユリアンは横を向いた。笑う場面ではない。
男の肩越しに、人が走るのが見えた。
倉庫の奥へ向かっている。手には灯のついた燭台。
「トーマス」
「見えました」
男が背後へ片手を振った。
「先生方、お願いしますよ」
倉庫の暗がりで、重い物を引きずる音がした。
外套を被った二つの人影が、ゆっくりと前へ出てくる。
片方の裾から、鉤爪のある足が見えた。
「……人じゃないぞ」
ユリアンが剣を抜く。
外套が床へ落ちた。角を持つ悪魔が牙を剥き、隣では翼のある小柄な魔物が床を蹴った。
「下がれ!」
隊長の声より早く、頭上でマントが翻った。
「そこまでだ!」
細身のロビンが庇から降り、飛びかかった魔物の爪を細剣で弾く。
「薬で人を苦しめた挙げ句、今度は魔物か!」
「ロビン! また貴様か!」
「その通り!」
返事は、反対側から聞こえた。
荷車の上に、大柄なロビンが立っていた。
帽子のRを指で押さえ、胸を張る。
「怪傑ロビン、参上!」
若い男の口が開いた。
「……二人?」
「何を驚く!」
「驚くだろ、そりゃ」
ユリアンは剣を構えたまま言った。
細身のロビンが横目で大柄な方を見る。
「市場を見ているはずでは?」
「店は閉まった!」
「だからといって――」
「一人で危ないところへ行くな!」
「今、その話をするな!」
角のある悪魔が腕を振り上げた。
「二人とも、前!」
ユリアンの声に、二本の細剣が同時に上がった。
*
悪魔の腕が、入口の柱を削った。
ユリアンは身を低くして懐へ入り、腹へ刃を走らせた。硬い皮に弾かれ、手首へ重い感触が返る。
浅い。
すぐに退くと、鉤爪が胸の前を通り過ぎた。
「正面は硬い!」
「ならば、横だ!」
大柄なロビンが動いた。
太い身体が、悪魔の腕の外側へ滑り込む。振り下ろされる肘を細剣で誘い、半歩だけ身を引いた。
空振りした腕が床を打つ。
ロビンの剣先が、伸びきった肘の内側を貫いた。
悪魔が吠え、腕を引く。
「今だ、青年!」
「ユリアンだって!」
踏み込んだユリアンが、傷ついた腕の下から斬り上げる。
今度は刃が通った。
悪魔は身を捩り、空いた腕で二人を薙ぎ払った。ユリアンは跳び退いたが、大柄なロビンのマントの裾が裂けた。
「おのれ。直したばかりだぞ!」
その頭上を、翼のある魔物が飛び越えた。
狙いは後方の検査官だった。
トーマスが槍を突き出す。穂先を避けて魔物が浮いたところへ、風の刃が斜めから走った。
片翼が裂け、魔物が壁へ叩きつけられる。
細身のロビンが、掲げていた左手を下ろした。
「奥の者を頼む!」
トーマスは頷いた。
隊長は人間の用心棒を押さえていた。荷運びの男たちは壁際へ身を寄せ、誰も武器を取っていない。
「荷を置いて、外へ! 衛兵のいる方です!」
トーマスが声を掛けると、一人が走った。残りもその後を追う。
逃げる背中へ剣を向けた用心棒の手を、トーマスの槍が払った。
「相手は、こちらです」
穂先を喉元へ止めると、男は剣を落とした。
ユリアンは悪魔の足元を見ていた。
右腕を傷つけられてから、踏み込む前に左肩が上がる。
次の一撃も、同じだった。
剣を高く見せる。悪魔の目が刃を追った瞬間、ユリアンは腰を落とし、低く斬り込んだ。
膝の裏が裂ける。
崩れた身体へ、大柄なロビンの細剣が捻り込まれた。
《スクリュードライバー》
悪魔の喉から濁った声が漏れ、巨体が床へ倒れた。
ユリアンは剣を引き、息を吐いた。
先日の夜、相手の目を誘った時の感覚が、今度は確かに手の内にあった。
「……かすみ二段のコツが分かってきたぞ」
「よい剣だ!」
「そっちもな!」
奥で羽音がした。
壁から起き上がった魔物が、細身のロビンへ飛びかかる。
ロビンは退かなかった。細剣を引き、一歩だけ踏み込む。
《ライトニングピアス》
電光石火の突きが、魔物の胸を一直線に貫いた。
翼が痙攣し、動かなくなる。
ロビンは剣を抜き、二階へ続く足場を見上げた。
「帳簿を燃やす気だ!」
上着の男が、階段を駆け上がっていた。
*
細身のロビンは積まれた樽を踏み、梁へ飛び移った。
「先に回る!」
「任せろ!」
大柄なロビンが続いた。
ユリアンは、樽と丸い腹を見比べた。
「待っ――」
乾いた音がした。
「ぬおっ!」
樽の蓋が抜け、右脚が腿まで沈んでいた。
大柄なロビンが足を引く。樽も一緒についてくる。
ごん、と床が鳴った。
「取れん!」
梁の上から、細身のロビンが振り返る。
「なぜ同じところを踏んだ!」
「お前が踏めたからだ!」
「体重を考えろ!」
「ロビンに体重は関係ない!」
「あるよ!」
ユリアンは樽の縁を押さえた。
中は空だった。割れた蓋が脚に引っかかっている。
「動くな。余計に刺さる」
「酒がなくてよかった」
「まず自分の脚を心配しろ!」
トーマスが通りすがりに、樽の上を指した。
「蓋の破片を外してください。片方を持ち上げれば抜けます」
「分かった。そっちは頼む!」
ユリアンが剣を納めてしゃがむと、トーマスは階段へ走った。
二階の戸口では、燭台を持った男が紙を火へ近づけていた。
トーマスは最後の段から槍を伸ばした。
穂先が燭台を弾く。床へ落ちた蝋燭を踏み消し、振り返った男の脇へ石突きを打ち込んだ。
男が机へ崩れる。
焦げた紙を払い落とすと、その下に分厚い帳面が残っていた。
窓の外から、若い男の悲鳴が聞こえた。
「離せ! 私はドフォーレの息子だぞ!」
「知っている!」
梁から回り込んだロビンが、窓を乗り越えかけた男の襟を掴んでいた。
「窓から逃げるのは感心せんな!」
トーマスは帳面を抱え、そちらを見た。
「先ほど、窓から来た方が仰いますか」
「私は入ったのだ!」
「なるほど」
ロビンが男を室内へ引き戻す。
その手から逃れようとした男は、階段を上がってきた衛兵と鉢合わせた。
今度こそ、逃げ道はなかった。
*
空が白み始める頃、第四倉庫の扉には封がされた。
検査官が箱を数え、薬師が中身を確かめる。荷の包みと帳面には同じ印があり、代金を受け取った者の署名も残っていた。
ドフォーレの息子は縛られたまま、何も知らないと繰り返していた。
彼の上着から出てきた鍵で、帳簿部屋の金庫が開いた。
ユリアンはそれを見て、口を閉じた。
「何か言いたそうですね」
トーマスが小声で言う。
「お前に任せる」
「僕も、今は何も」
金庫の中身を確かめた役人が、別の衛兵を呼び寄せた。
作業場の住所、船の名前、代金の送り先。夜のうちに聞いていた話が、帳面の中でつながっていく。
港に待たせてあった隊が、川沿いへ向かった。
船着き場の衛兵が押さえた船でも、同じ荷札をつけた箱が見つかった。
「これで終わりか」
ユリアンが訊いた。
「この倉庫は。ただ、外へ売った分と、ほかの拠点も確かめなければ」
トーマスは帳面を役人へ渡した。
荷運びの男の一人が、声を上げた。
「俺は、言われたものを運んだだけだ!」
「それは役所で話せ」
衛兵が腕を掴むと、男は怯えて身を縮めた。
トーマスは隊長に近づいた。
「その方にも、薬を渡されていたか聞いてください。治療が必要かもしれません」
隊長は男の顔を見て、掴んでいた衛兵へ頷いた。
「薬師のところへ連れていけ。話はその後だ」
男が何度も頭を下げる。
大柄なロビンが、少し離れたところでその様子を見ていた。
右脚を庇っている。その肘を、細身のロビンがさりげなく支えた。
「歩けるか」
「この程度、何ともない」
「さっきから、右足をついていない」
「観察が細かいな」
「誰のせいだと思っている」
ユリアンが近づくと、二人は急に背筋を伸ばした。
「助かったよ、二人とも」
「当然だ!」
「礼には及ばん!」
声が重なる。
ユリアンは笑い、今度はどちらが本物か訊かなかった。
*
それからの数日、トーマスは港務所と市場を何度も往復した。
川沿いの作業場では、薬を詰める道具と原料が押収された。港外れの小屋からは別の取引帳面が見つかり、荷の手配をしていた幹部たちも拘束された。
各港へ連絡が送られ、出航していた船も寄港先で検査を受けることになった。
麻薬を製造し、運び、代金を集める。ドフォーレが抱えていた一連の組織は、その拠点と責任者を失った。
だが、港では別の騒ぎが始まっていた。
「船を全部止める気か!」
船長たちが役所の前へ集まっていた。
「薬なんぞ運んでねえ! 積んでるのは麦だ。止めたら傷む!」
「一緒に仕事をしていた以上、調べる必要がある」
「だったら早く調べろ! 船員に食わせる金は誰が出すんだ!」
トーマスは輪の外で足を止めた。
ユリアンが横に並ぶ。
「シーホークで言われた通りになっちまうな。船が止まったら、食っていけないって」
「全部を止めなければいいんです」
トーマスは役所へ入り、提出済みの船名と荷の一覧を借りた。
疑いのある船を分け、関係のない荷は検査を終えたものから出せないか。港の役人と船長たちを同じ卓へ集め、その場で記録を照らし合わせた。
一隻目が出航したのは、その翌日だった。
黒い犬の旗は降ろされ、船長が昔使っていた旗に替わっていた。
夕方、シーホークの卓には、運送屋と倉庫の持ち主が集まった。
「ドフォーレとの契約を切れば、次の荷がない」
船長の一人が言った。
「薬を運ばされるのは御免だが、船は空で走らせられん」
トーマスは、商館から預かった控えを広げた。
「ピドナで、まだ待っている荷があります」
「量は?」
「こちらです。まず、取引先に直接引き受けてもらえるか確かめます」
船長が数字を追い、倉庫の持ち主へ紙を回した。
「これなら、うちに置ける」
「埠頭までの荷車は?」
「市場へ来る便の帰りが空いてる。そのまま寄れるぞ」
ユリアンは、卓の端で聞いていた。
最初の三軒の相談と似ている。
ただ、今度は荷車だけでなく、船と倉庫が話の中に入っていた。
「つまり、ドフォーレから仕事をもらわなくても、自分たちで運ぶ相手を探せばいいんだな」
「見つかればな」
船長が言う。
「だから、ここに集まってもらいました」
トーマスは空いている椅子を、卓へ寄せた。
翌日には、別の商会の者も来た。
その次の日には、ドフォーレ傘下の運送屋が契約の控えを持って現れた。
離れたがっていたのは、一軒や二軒ではなかった。仕事を失うのが怖くて動けなかった者たちが、次の取引先を確かめながら、黒い犬の看板を下ろしていった。
不当に増やされた借金や、差し押さえられた店については、役所で調べ直しが始まった。すぐに戻せないものもあったが、証言を拒んでいた元店主たちが、今度は自分で帳面を持ってくるようになった。
*
「私は悪くないですよ。息子が勝手にやったことです」
武器屋の奥で、ドフォーレは繰り返した。
机の上には、取り消された運送契約と、取引を停止するという通知が積まれている。
向かいの役人は返事をせず、もう一冊の帳面を開いた。
「その件はこちらで調べます。まず、この入金について説明を」
「だから、それも息子が」
「こちらは、あなたの署名ですね」
ドフォーレは口を閉じた。
店の外では、長く荷を任せていた船長が、次の契約を断っていた。
叩き潰すための用心棒は捕らえられ、安売りを支える裏の金も止まっている。
ドフォーレの店は、まだ街に残っていた。だが、商人も船長も、もうそこだけを頼る必要はなかった。
*
第四倉庫の摘発後も、各港への連絡や取引記録の照合は数日にわたって続いた。
摘発から十日ほど経った朝、トーマスとユリアンはシーホークで食事をしていた。
「……これで、落ち着いたのか?」
ユリアンが窓の外を見た。
市場へ向かう荷車が通り過ぎる。荷台に怪傑はいない。
「麻薬を扱っていた拠点は、押さえられました。海運の契約も、かなり他へ移っています」
「ドフォーレは?」
「調べを受けています。残った店で普通に商売を続けるにしても、以前のようにはいかないでしょう」
トーマスは鞄の留め具を締めた。
「船の手配は船長たちに、荷車は運送屋に任せられます。僕がいなくても回るところまでは、何とか」
「最初は、届かない荷を見に来ただけだったよな」
「そうでしたね」
「帳簿だけで済んだ?」
トーマスは答えず、水を飲んだ。
厨房から、ライムが皿を二つ運んできた。
「……お待たせしました」
煮込みの横に、大きな肉が一切れ載っている。
「これ、頼んでないけど」
「父からです」
カウンターの向こうで、トラックスが手を振った。
「よく働いたからな!」
その言い方に、ユリアンの眉が上がった。
「店長。脚はもういいの?」
「ああ。ほとんどな」
「樽、痛かったもんな」
「階段だ!」
ライムが、皿を置いたまま固まった。
トーマスだけが匙を取る。
「今日は、どちらも店にいらっしゃるんですね」
「親子でやってる店だからな。当然だろう!」
「先日は、片方ずつ席を外されていたので」
「買い出しだ!」
「……父さん。声が大きい」
「お前まで何だ!」
ユリアンはとうとう笑った。
「分かった。訊かないよ」
ライムが目を上げる。
「何をですか」
「買い出しに、どんな帽子を被っていくのか」
厨房の奥で、鍋の蓋が落ちた。
*
昼の客が来る前に、二人は旅袋を持って席を立った。
代金を払おうとすると、トラックスが手を振る。
「今日はいい」
「肉までいただきましたので」
「俺が出したかったんだ。食わせろ」
トーマスは財布をしまい、頭を下げた。
「ご馳走さまでした」
「また来な。次はちゃんと払ってもらうぞ」
「ええ」
ユリアンが先に戸を開けた。
トーマスも続こうとすると、後ろから声がした。
「トーマスさん」
ライムだった。
客席を拭く布を手にしたまま、少し迷っている。
「……今度、そちらで困ったことがあったら」
トラックスが黙って息子を見た。
「手紙をください。ここへ」
「お店は?」
トーマスが訊くと、カウンターの向こうから返事が来た。
「一人くらい抜けても、俺がいる」
「父さん」
「皿洗いを溜めてから行くなよ」
ライムは俯き、それから小さく笑った。
「はい」
トーマスは二人へ礼を言い、戸口へ向かった。
外で待っていたユリアンが、旅袋を担ぎ直す。
「よかったな。頼れる知り合いが増えて」
「ええ」
「二人とも来たら、店が閉まるけど」
「それは困りますね」
二人の笑い声が、港へ向かう道へ遠ざかっていった。
店内では、トラックスが空の樽の前に立っていた。
ライムが横を通りかかり、その視線を追う。
「……運びますよ」
「俺でも運べる」
「では、持ち上げてください。踏まずに」
「分かってる!」
表の戸が開き、昼の客が顔を出した。
「おう、やってるか?」
親子は同時に振り返った。
「シーホークへようこそ!」
「……いらっしゃいませ」
トラックスは樽を抱え上げ、今度はしっかり床を踏んで歩き出した。