Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound —   作:水城 雅

22 / 23
第17話 一億オーラム

 ピドナへ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 大通りを荷車が行き交い、店先では商人と客が値段を巡って言い争っている。トーマスは道を譲りながら、通り過ぎる樽の印を見た。

 ヤーマスの酒屋で見たものだった。

「届いてるな」

 隣でユリアンが言った。

「ええ」

「見に行く?」

「今日は行きません」

 トーマスは樽から目を離した。

「風呂に入って、食事をして、寝ます」

「帳簿は?」

「明日です」

「本当に?」

「なぜ疑うんです」

「今、荷車を目で追ってたから」

 トーマスは返事をせず、眼鏡を押し上げた。

 親戚の家へ着くと、旅袋を下ろす前に使用人が近づいてきた。

「トーマス様。お客様がお待ちです」

「どなたです?」

「フルブライト様です」

 玄関で足が止まった。

 後ろから来たユリアンが、背中にぶつかりかける。

「誰?」

「……大きな商会の方です」

「ヤーマスで、大きな商会には十分会っただろ」

「今度は、別の方です」

 トーマスは旅袋を使用人へ預け、ユリアンを振り返った。

「一緒に来てください」

「俺も?」

「ヤーマスへ、一緒に行ったでしょう」

「それ、理由になってる?」

「これからなります」

「嫌な予告だな」

*

 応接室には、一人の男が待っていた。

 黄色い帽子をかぶり、明るい金茶色の髪を覗かせた青年だった。裕福な商家の出らしい華やかな装いをしていた。窓の外へ向けていた目を戻すと、トーマスたちへ穏やかに笑いかけた。

「初めまして。トーマス・ベント君ですね」

「フルブライト二十三世様。お待たせしました」

「ご存じでしたか。残念です」

「何がでしょう」

「自分で名乗るところから、考えてきたのですが」

 ユリアンが横で笑いかけ、慌てて口を閉じた。

 男の視線がそちらへ移る。

「あなたがユリアン君?」

「俺も知ってるんですか?」

「ヤーマスの報告に名前がありました。荷車にも乗り、倉庫では剣を振るったとか」

「どっちも、こいつに付き合っただけですよ」

「市場の件は、あなたからでしたね」

 トーマスが言うと、ユリアンは口を尖らせた。

「覚えてなくていいところまで、覚えてるな」

 三人が腰を下ろすと、使用人が茶を運んできた。

 フルブライトは卓へ薄い書類の束を置いた。

「帰ったばかりのところを、申し訳ありません。船の到着に合わせて伺いました」

「ずいぶん、お詳しいんですね」

「港で商売をしておりますので」

 トーマスは一番上の紙を見た。

 ヤーマスの地名と、見覚えのある船長の名前が並んでいる。

「ドフォーレの件ですか」

「ええ。大仕事でしたね」

「摘発したのは、現地の役人たちです」

「彼らを動かした方にも、お会いしたかった」

 フルブライトが紙をめくる。

「ただ、私が特に伺いたいのは、その後です」

「その後?」

「船を出し、店を開け続けたことです」

 トーマスは杯を置いた。

「ドフォーレ海運の麻薬流通を止めることは、私どもにとっても課題でした。ですが、ウィルミントンとヤーマスの都市同盟がありましてね。私が表立って動けば、商売以上の揉め事になる」

「それで、何もできなかったんですか」

 ユリアンが訊いた。

「動きにくかったのは事実です。ただ、それで待たされた人にとっては、言い訳でしょう」

 フルブライトは視線を逸らさなかった。

「君たちは、犯罪の証拠を押さえた。そのうえで、ドフォーレを離れた商人に、次の取引を用意した」

「荷を待っている人がいたんです」

「ええ。その相手を探せる人が、必要でした」

 別の紙が、トーマスの前へ置かれた。

 新しい商会の設立に必要な項目が並んでいた。

 代表者の欄は、空いている。

「商会を作りませんか」

「今日は、お断りします」

 ユリアンが茶にむせた。

「今日は?」

 フルブライトが聞き返す。

「帰ってきたばかりです。大事な話でしたら、なおさら」

「お前、本当に寝たいんだな」

「眠い頭で署名して、後悔したくありません」

 フルブライトは笑い、紙を少し手前へ戻した。

「では、今日は説明だけ。判断は明日以降で結構です」

「説明を聞くと、断りにくくなる類の話でしょう」

「そこまで分かるなら、ぜひ聞いていただきたい」

「やっぱり」

 トーマスは椅子へ座り直した。

 ユリアンが横で小さく笑っている。

「帰っていいですよ」

「ここまで聞いたら、続きが気になるだろ」

「そうなると思いました」

*

 次の紙には、会社の名前が並んでいた。

 醸造所、織工房、水産業者、運送屋。規模も所在もばらばらだったが、欄外には、かつて取引をまとめていた家の名が記されていた。

 クラウディウス。

 トーマスの指が止まった。

「クレメンス様と、取引のあった会社ですか」

「ええ。出資していたところも、輸送や販売で協力していたところもあります。すべてが彼の所有だったわけではありません」

 フルブライトは、古い記録と現在の一覧を並べた。

「亡くなってから、まとまりが失われました。それぞれで続けられた会社もあれば、仕事を失ったところもある」

「もう一度、集める?」

 ユリアンが訊く。

「協力できるところから。ただ、昔の形に戻すことが目的ではありません」

 トーマスは一覧から顔を上げた。

「ミューズ様のお名前を、使うおつもりですか」

「本人が望まれない限り、使いません」

 返事はすぐだった。

「お父上の仕事を、そのまま娘さんへ背負わせる話でもありません」

 トーマスは、もう一度紙へ目を落とした。

 窓辺で木の棒を手にしていたミューズの姿が浮かぶ。できることが増えたと笑っていた、あの声も。

「……なぜ、僕に?」

「最初は、クラウディウス家を訪ねている若い商人がいると聞いたからです」

「それだけで?」

「最初は、と申し上げました」

 フルブライトはヤーマスの報告を指した。

「今は、こちらが理由です」

 ユリアンが身を乗り出した。

「でも、あっちで集めたのは、困ってる店だろ。今度は自分の商会になるんだよな?」

「そうです。契約を取り次ぐだけなら、相手が実行するのを待つしかない。自分で資金を入れ、設備や人を抱えれば、できることは増えます」

「その代わり、失敗したら自分の損になる」

 トーマスが続けた。

「従業員への給金も、仕入れの代金も、払わなければなりません」

「……責任まで引き受けるわけか」

「ええ」

 フルブライトは頷いた。

「ですから、引き受ける相手と条件は、君自身に選んでいただきたい」

 トーマスは一覧を端から読んだ。

 経営が傾いている会社ばかりではなかった。すでに別の商会と安定した取引を続けているところもある。そうした名前には、フルブライトの手で印がつけられていた。

 無理に動かす必要なし。

 その短い注記を見て、トーマスは少しだけ肩の力を抜いた。

「目標は?」

「商会の資産規模で、一億オーラム」

 ユリアンが杯を置いた。

「……一億?」

「はい」

「一万じゃなくて?」

「一億です」

 フルブライトが数字を書いた紙を差し出す。

 ユリアンはそれを見て、トーマスを見た。

「それ、どこに置くんだよ」

「金貨を積む話ではありません」

「違うの?」

「船や倉庫、設備、売るための商品。商会が持つものを金額に直して、合わせます」

「じゃあ、一億になっても、一億使えるわけじゃないんだな」

「使えません。船を売ったら、荷を運べなくなりますから」

 ユリアンは数字を見直した。

「でかい商会なのに、財布は軽いってこともある?」

「あります。だから、資産の額とは別に、支払いに使える現金が足りるかも見ます」

「……大変だな」

「分かっていただけましたか」

 フルブライトは二人のやり取りを、黙って聞いていた。

「評価は、こちらでも確認します。値札だけ高くつけても、達成とはしません」

「借金を増やして、倉庫を買い集めても?」

 ユリアンが訊く。

「それだけでは駄目です。借入も合わせて確認しますし、商売が続くことが条件です」

「抜け道、塞がれてるぞ」

「探していませんよ」

 トーマスは紙を戻した。

「最初の資金は、どうするんです?」

*

 フルブライトが用意していたのは、金貨の袋ではなかった。

 貸付の条件を書いた紙だった。

「上限は百万オーラム。事業の内容を確かめたうえで、必要な分を貸します。利息と返済の時期は、こちらに」

 トーマスは紙を引き寄せた。

「一度に全部、借りる必要は?」

「ありません」

「借りていない分にも、費用がかかりますか」

「この契約では、かかりません」

 ユリアンが首を傾げた。

「百万もらえるんじゃないのか」

「借りた分は返します」

「そっか。そこは、やっぱり商人なんだな」

 フルブライトが笑った。

「私も、商売を続けなければなりませんので」

 トーマスは返済の欄を読み、気になる箇所を二つ指した。最初の売上が入るまでの猶予と、予定より早く返す場合の扱いだった。

 フルブライトは一つずつ答え、修正できるところには線を引いた。

「それと、運営する僕自身の報酬は」

 ユリアンがにやりとした。

「やらないんじゃなかった?」

「やるかどうか、判断するために必要な情報です」

「ザインも同じこと言いそう」

「彼なら、危険手当も要求するでしょうね」

「絶対する。商売にはないって言われたら、作る」

 フルブライトが筆を止めた。

「その方にも、お会いしてみたいですね」

「先に金額を決めておいた方がいいですよ」

 ユリアンは真顔で言った。

 トーマスは経費の扱いまで確かめ、ようやく書類を閉じた。

「明日、候補の会社を見せてください。そのうえで、お返事します」

「もちろんです」

「まだ、設立の署名はしません」

「承知しています」

 フルブライトが立ち上がりかけたところで、ユリアンが訊いた。

「名前は?」

「何のです?」

「商会。作るなら、いるんだろ」

「まだ、考えていません」

「トーマスカンパニーでいいんじゃない?」

 トーマスは少し考えた。

「……候補にはしておきます」

「そこは、もっと悩めよ」

「今は、寝る方が大事です」

 フルブライトは声を上げて笑った。

「では、明朝。最初はピドナ水産を」

 客を見送ると、ユリアンがトーマスの肩を軽く叩いた。

「よかったな。今日は風呂に入れるぞ」

「明日の予定まで決まりましたが」

「寝る前に帳簿を読むなよ」

 トーマスは手元の一覧を見た。

 ユリアンが、黙って手を差し出す。

「……明日の朝、返してください」

「了解」

*

 翌朝のピドナ水産は、想像以上に騒がしかった。

 荷を下ろす男が怒鳴り、木箱が床を滑る。開かれた箱には氷が詰められ、その間から銀色の魚体が覗いていた。

「足元、気をつけてくれ!」

 声を掛けてきた男は、袖を肘までまくっていた。

 フルブライトを見ると手を洗い、布で拭きながら近づいてくる。

「お待ちしていました。そちらが?」

「トーマス君です。今日は、私より彼と話してください」

 トーマスは名乗り、差し出された手を握った。

 大きく、冷たい手だった。

「帳簿を見ても?」

「ああ。ただ、先にこっちを見てくれ」

 店主は出荷口へ案内した。

 木箱が二列に並んでいた。片方には荷札がついているが、もう片方には何もない。

「こっちが、今日届いた分。向こうが、昨日出せなかった分だ」

「売れ残りですか」

「買い手はいる。運べなかった」

 店主は、氷の減った箱の蓋を閉じた。

「船の到着が遅れてな。荷車の出る時刻に間に合わなかった」

「待ってもらえないのか?」

 ユリアンが訊く。

「ほかの店の荷もある。うちの都合だけでは止められんさ。別に一台頼むと、高くつく」

「一日置くと、売れなくなる?」

「全部ではない。だが、同じ値では売れん。氷も足すし、傷んだものは捨てる」

 トーマスは荷札の日付を見た。

「最近、増えていますか」

「船が遅れることは昔からある。前は、もう少し融通が利いたんだ」

 店主が箱を開けると、ユリアンも中を覗いた。

「これ、まだうまそうだけどな」

「今、食うならな。明日、客の皿に載るまで考えなきゃならん」

「……そりゃ、そうか」

 ユリアンは蓋を戻す手を手伝った。

 トーマスは、帳簿のある小部屋へ案内してもらった。

*

 売上はあった。

 仕入れも続いている。長く付き合っている漁師や料理屋の名前が、何度も出てきた。

 だが、月の終わりに残る金は減っていた。

 トーマスは輸送費と、値を下げて売った商品の欄を交互に見た。

「臨時の荷車を頼めば、その分高くなる。頼まなければ、魚の値段が下がる」

「そういうことだ」

 店主が椅子を引いた。

「間に合わせるために借りた金もある。その返済で、また仕入れの金が足りなくなる」

「荷車の出る時刻を変えるだけじゃ、駄目なのか?」

「相手にも、次の仕事がありますから」

 トーマスは運送屋の名を書き留めた。

「ただ、どうしてもその時刻でなければならないのかは、聞けます」

 店主が少しだけ笑った。

「昔は、そういう話をしてくれる人がいたよ」

「クレメンス様ですか」

「ああ」

 男は古い帳面を棚から下ろした。

「荷を一緒に運ぶだけじゃない。先に出すものと、待てるものを分けてくれた。魚の到着が遅れりゃ、近くの店へ声を掛けて、先に引き取ってもらうこともあった」

「亡くなられてからは?」

「それぞれの都合で、契約を結び直した。悪気があったわけじゃない。自分の商売だけで、手いっぱいだったんだ」

 古い頁には、現在とは違う出荷の時刻が記されていた。

 トーマスはそれを写し、今の運送契約と並べた。

「少し、時間をください」

「どのくらい?」

 ユリアンが訊く。

「まずは、運送屋に会うところまで」

「昼飯は?」

「その前に食べましょう」

「よし。成長したな」

 フルブライトが窓辺で笑っていた。

*

 答えは、その場では出なかった。

 運送屋は、今の便を遅らせることには首を振った。次に運ぶパンが、店の開く時刻に間に合わなくなるという。

「魚のために、パンが売れなくなるのも困るな」

 ユリアンが言うと、御者は大きく頷いた。

 ただ、昼前に港へ戻ってくる便には、空きがあった。

 帰りの荷台を洗い、魚箱を載せられるようにすれば、臨時に一台出すより安くなる。毎日ある程度の荷を約束してもらえるなら、という条件がついた。

 トーマスは料金を書いてもらい、今度はピドナ水産の取引先へ足を運んだ。

 昼に届くなら買える店もあった。朝の仕込みに必要な店は、それでは遅い。朝の分を優先して残し、ほかを昼へ回せば、すべてを一度に急いで運ぶ必要はなかった。

 夕方、三人は水産の小部屋へ戻った。

 トーマスは卓へ二枚の紙を置いた。

「全部をまとめるのは、無理でした」

「だろうな」

 店主が頷く。

「ですが、こちらの分は昼の便に移せます。残りを朝に出す。船が遅れた時も、昼までなら引き受ける店がありました」

「安く買い叩かれるんじゃないのか」

「多少の値引きは必要です。ただ、一晩置いた後の値段よりはいい」

 店主は紙を手に取った。

 取引先の名前と、必要な量を指で追う。

「……自分で聞いてきたのか」

「まだ、約束ではありません。実際に運んで確かめたいんです」

 ユリアンが横から言った。

「魚を安く買う話より、早く届ける話ばっかりしてたよな」

「買う値段を下げても、ここで傷ませたら意味がありませんから」

 トーマスは昨日の在庫を見た。

 売れずに残った箱のうち、一つはすでに空になっていた。捨てた、と店主が言った。

「一週間、試せますか。その間、今までの費用と比べます」

「運賃は誰が払う?」

「うちの商会から、試す分を出しましょう」

 フルブライトが答えた。

「ただし、君が考えた案の費用として記録します。続けられるかどうかも、君が見てください」

 トーマスは頷いた。

「お願いします」

*

 その一週間、トーマスは朝になると港へ通った。

 予定どおり届いた日もあれば、船が遅れた日もあった。

 昼の便が来るまでの間に氷が減り、箱の詰め直しが必要になった。運送屋へ頼む洗浄の費用も、最初の見積もりには入っていなかった。

 トーマスが帳面へ数字を書き足すたび、ユリアンが横から覗く。

「また増えた?」

「費用です」

「嬉しくない方か」

「見落としたままよりは、いいですよ」

 ユリアンは市場へ回り、届いた魚について店の人に訊いた。

 遅くなったという苦情を持ち帰る日もあった。だが、傷んでいたという返品は減った。

 七日目の夕方、トーマスは店主と帳簿を挟んで座った。

「これだけなら、続けられる」

 男が言った。

 利益が急に倍になったわけではない。船が遅れる問題も、なくなってはいない。

 それでも、捨てる魚と臨時の運賃は減っていた。

「ただ、荷車を待つ場所は直した方がいい。雨が吹き込むと、箱を動かす手間がかかる」

「見積もりを取りました」

 トーマスが紙を出す。

 店主はそれを受け取り、しばらく黙って読んだ。

「……買う気なんだな。ここを」

「引き受けたいと思っています」

 トーマスは膝の上で手を重ねた。

「ただし、あなたに残っていただくことが条件です」

「俺に?」

「漁師との交渉も、魚の見極めも、僕にはできません」

「覚えりゃいい」

「覚えます。でも、明日から全部任せられますか」

 店主が笑った。

「無理だな」

「でしょうね」

 トーマスも少し笑い、契約の案を広げた。

「仕入れと販売は、引き続きお願いします。僕は資金と運送の手配、ほかの会社との調整を。帳簿は一緒に確認させてください」

「店の名前は?」

「ピドナ水産のままです」

「俺が辞めたくなった時は?」

「次の方へ仕事を渡す時間をいただきたいです。ずっと縛る契約にはしません」

 店主は頷き、代金の欄へ目を落とした。

「最初の話より、高いぞ」

「一万オーラム、上げました」

「買う側が上げるのか?」

 ユリアンも顔を上げた。

「安く買えるなら、その方が得じゃないの?」

「先週の数字だけでつけた値段では、ここを低く見すぎていました」

 トーマスは一週間の記録を示した。

「売る相手も、仕入れる相手もいる。届く時刻が変わっても、取引を続けてくれました。借金だけを見て、値段を決めたくありません」

「それで、二十万か」

「はい」

 店主は、すぐには手を出さなかった。

「借入の残りも、分かってるんだな」

「貸し手に確かめました。会社に残る債務として、こちらへ記しています」

「……なら、いい」

 男は自分でも読み直し、分からない箇所を訊いた。

 給金の支払日、仕入れに使える金額、運送屋へ何を任せるか。窓の外が暗くなる頃、ようやく紙の余白が埋まった。

「頼む」

 差し出された手を、トーマスは握った。

「こちらこそ」

 机の端で、フルブライトが筆を置いた。

*

 正式な契約書を整えるため、三人は商館へ戻った。

 フルブライトは、貸付の書類をトーマスの前へ置く。

「最初は、二十二万五千オーラムでよろしいですね」

「ええ。二十万を買収代金に。残りの二万五千と、僕自身の五千は修繕と当面の支払いに充てます」

 ユリアンが指を折った。

「店を買ったら、手元は三万か」

「そこから修繕費も出ます」

「……一億、遠いな」

「今は、次の仕入れができる方が大事です」

 トーマスは借入額と返済の条件を確認した。

 自分の金を足しても、使える分には限りがある。今後の売上も、そのまま全部を使っていいわけではない。

 支払日を書き出した紙を、契約書の横へ置く。

「残りの七十七万五千は、必要になったら改めて相談します」

「分かりました」

 フルブライトが別の用紙を出した。

「では、商会の名前を」

 トーマスは筆を取った。

 トーマスカンパニー。

「本当にそれにした!」

 ユリアンが叫んだ。

「ほかに、よい案がありましたか」

「一週間あっただろ!」

「魚のことを考えていました」

「もっともらしい理由をつけるなよ!」

 フルブライトは咳払いをした。笑うのを堪えているのは、明らかだった。

「分かりやすくて、よろしいと思います」

「そういうことです」

 トーマスは署名を済ませ、筆を置いた。

 これで、来月の給金も、次の仕入れも、自分に関わることになった。

 紙を返す前に、支払日の一覧をもう一度確かめた。

 フルブライトは、急かさず待っていた。

*

 外へ出ると、ピドナの街には夕食の匂いが漂っていた。

 ユリアンが両腕を伸ばす。

「終わったー」

「始まったんですよ」

「それ、今言う?」

 トーマスは鞄を持ち直した。

 ユリアンが隣へ並ぶ。

「なあ。俺にも、そろそろ何か出る?」

「何がです?」

「市場を回って話を聞いたり、荷を下ろしたり。一週間、結構働いたぞ」

 トーマスは足を止めた。

「……そうですね。すみません」

「いや、そんな真面目に謝らなくても」

「市場への聞き取りと荷役の分、精算しましょう。日数と、何を手伝ったかを」

「覚えてるよ。帳簿の代わりに、そこはちゃんと」

「助かります」

 ユリアンは笑った。

「ザインに言われる前でよかったな」

「君にも、働く前に決めろと言うでしょうね」

「……二人で叱られるか」

 そのまま帰りかけて、トーマスは道を曲がった。

「どこ行くんだ?」

「旧市街へ。報告しておきたい方がいます」

 ユリアンは頷き、一緒に歩き出した。

*

 ミューズは、二人の話を最後まで聞いた。

 窓辺の卓には砂を入れた皿があったが、今は布が掛けられている。シャールが茶を運び、トーマスの前へ置いた。

「ヤーマスで、そんなことが」

「帳簿だけでは、済みませんでした」

「ええ。そうだろうと思っていました」

 ミューズが微笑む。

 ユリアンが横から口を添えた。

「それで、今度は商会まで作ったんです」

「まあ。何というお名前ですの?」

「トーマスカンパニーです」

 トーマスが答えると、ユリアンが彼を見た。

「そのままだろ?」

「誰の商会か、すぐ分かるじゃないか」

「そりゃ、分かるけどさ」

 ミューズは二人を見て、微笑んだ。

「私は、いいお名前だと思いますわ。トーマス様のお名前なら、安心してお買い物ができますもの」

 トーマスは少し照れたように眼鏡を直した。

「……その信用を損なわないようにしないといけませんね」

「よかったな。もうお客さんが一人できたぞ」

 ユリアンが笑うと、シャールの口元も少し緩んだ。

 トーマスは笑みを返してから、ピドナ水産のことを話し始めた。

「クレメンス様と、以前お付き合いがあったそうです」

 ミューズの手が、茶碗の脇で止まった。

「お父様と?」

「ええ。船が遅れた時にも、売り先を探してくださったと。その頃の帳簿も、残っていました」

 ミューズはしばらく窓へ目を向け、それから小さく頷いた。

「忙しい方でした。帰ってきても、食事の途中で呼ばれることがあって」

 トーマスは口を開きかけ、やめた。

「魚の到着を待っていた日も、あったのかもしれませんね」

 ミューズが言った。

「そうかもしれません」

 父の仕事を継いでほしいとは、言わなかった。

 ただ、これから訪ねる会社でも、昔の話を聞くことがあると思う。その時は伝えに来たいと話すと、彼女は嬉しそうに笑った。

「ぜひ、聞かせてくださいな。私の知らないお父様のお話も」

「はい」

「ただし、トーマスさん」

「何でしょう」

「食事の途中に呼ばれても、少しくらいは召し上がってから、お出かけになってね」

 ユリアンが、深く頷いた。

「俺も、それは何度も言ってるんです」

「もう、気をつけていますよ」

「今日の昼は?」

 トーマスは思い返した。

 水産の小部屋で、契約の条件を詰めていた。途中でパンを受け取った記憶はある。

 その後、どこへ置いたのか。

 ミューズがシャールを見た。

「何か、お出しできるかしら」

「すぐに」

「……すみません」

 トーマスは鞄を椅子の下へ置いた。

 今度は、食べ終わるまで開かなかった。

*

 夜、自室へ戻ったトーマスは、机に一枚の紙を広げた。

 ピドナ水産。

 その下へ、翌朝の支払いと、修繕を頼む職人の名前を書く。

 フルブライトから預かった一覧は、机の端にあった。

 まだ会っていない商人も、訪ねていない町もある。一億オーラムという数字は、相変わらず遠かった。

 それでも、今日引き受けた店のことは分かる。

 明日は船が入る。氷が要る。昼の便には、魚箱を載せる場所を空けてもらわなければならない。

 トーマスは運送屋への伝言を書き、朝に渡す書類へ重ねた。

 戸が叩かれ、ユリアンが顔を出した。

「まだ起きてると思った」

「今、終わるところです」

「それ、信じていい?」

 トーマスは筆を置いた。

「ええ」

 ユリアンが机の紙を見る。

「明日も港か」

「朝だけ、確かめに」

「お前の『確かめる』、長いんだよな」

「では、朝食の時刻を決めておきましょう」

「それなら付き合う」

 トーマスは笑い、帳簿を閉じた。

 戸口へ向かいかけて、机の端の書類を振り返る。

 自分で書いた商会の名前が見えた。

「……やっぱり、少し考えるべきでしたかね」

「今さら!?」

 廊下に、ユリアンの笑い声が響いた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。