Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ピドナへ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
大通りを荷車が行き交い、店先では商人と客が値段を巡って言い争っている。トーマスは道を譲りながら、通り過ぎる樽の印を見た。
ヤーマスの酒屋で見たものだった。
「届いてるな」
隣でユリアンが言った。
「ええ」
「見に行く?」
「今日は行きません」
トーマスは樽から目を離した。
「風呂に入って、食事をして、寝ます」
「帳簿は?」
「明日です」
「本当に?」
「なぜ疑うんです」
「今、荷車を目で追ってたから」
トーマスは返事をせず、眼鏡を押し上げた。
親戚の家へ着くと、旅袋を下ろす前に使用人が近づいてきた。
「トーマス様。お客様がお待ちです」
「どなたです?」
「フルブライト様です」
玄関で足が止まった。
後ろから来たユリアンが、背中にぶつかりかける。
「誰?」
「……大きな商会の方です」
「ヤーマスで、大きな商会には十分会っただろ」
「今度は、別の方です」
トーマスは旅袋を使用人へ預け、ユリアンを振り返った。
「一緒に来てください」
「俺も?」
「ヤーマスへ、一緒に行ったでしょう」
「それ、理由になってる?」
「これからなります」
「嫌な予告だな」
*
応接室には、一人の男が待っていた。
黄色い帽子をかぶり、明るい金茶色の髪を覗かせた青年だった。裕福な商家の出らしい華やかな装いをしていた。窓の外へ向けていた目を戻すと、トーマスたちへ穏やかに笑いかけた。
「初めまして。トーマス・ベント君ですね」
「フルブライト二十三世様。お待たせしました」
「ご存じでしたか。残念です」
「何がでしょう」
「自分で名乗るところから、考えてきたのですが」
ユリアンが横で笑いかけ、慌てて口を閉じた。
男の視線がそちらへ移る。
「あなたがユリアン君?」
「俺も知ってるんですか?」
「ヤーマスの報告に名前がありました。荷車にも乗り、倉庫では剣を振るったとか」
「どっちも、こいつに付き合っただけですよ」
「市場の件は、あなたからでしたね」
トーマスが言うと、ユリアンは口を尖らせた。
「覚えてなくていいところまで、覚えてるな」
三人が腰を下ろすと、使用人が茶を運んできた。
フルブライトは卓へ薄い書類の束を置いた。
「帰ったばかりのところを、申し訳ありません。船の到着に合わせて伺いました」
「ずいぶん、お詳しいんですね」
「港で商売をしておりますので」
トーマスは一番上の紙を見た。
ヤーマスの地名と、見覚えのある船長の名前が並んでいる。
「ドフォーレの件ですか」
「ええ。大仕事でしたね」
「摘発したのは、現地の役人たちです」
「彼らを動かした方にも、お会いしたかった」
フルブライトが紙をめくる。
「ただ、私が特に伺いたいのは、その後です」
「その後?」
「船を出し、店を開け続けたことです」
トーマスは杯を置いた。
「ドフォーレ海運の麻薬流通を止めることは、私どもにとっても課題でした。ですが、ウィルミントンとヤーマスの都市同盟がありましてね。私が表立って動けば、商売以上の揉め事になる」
「それで、何もできなかったんですか」
ユリアンが訊いた。
「動きにくかったのは事実です。ただ、それで待たされた人にとっては、言い訳でしょう」
フルブライトは視線を逸らさなかった。
「君たちは、犯罪の証拠を押さえた。そのうえで、ドフォーレを離れた商人に、次の取引を用意した」
「荷を待っている人がいたんです」
「ええ。その相手を探せる人が、必要でした」
別の紙が、トーマスの前へ置かれた。
新しい商会の設立に必要な項目が並んでいた。
代表者の欄は、空いている。
「商会を作りませんか」
「今日は、お断りします」
ユリアンが茶にむせた。
「今日は?」
フルブライトが聞き返す。
「帰ってきたばかりです。大事な話でしたら、なおさら」
「お前、本当に寝たいんだな」
「眠い頭で署名して、後悔したくありません」
フルブライトは笑い、紙を少し手前へ戻した。
「では、今日は説明だけ。判断は明日以降で結構です」
「説明を聞くと、断りにくくなる類の話でしょう」
「そこまで分かるなら、ぜひ聞いていただきたい」
「やっぱり」
トーマスは椅子へ座り直した。
ユリアンが横で小さく笑っている。
「帰っていいですよ」
「ここまで聞いたら、続きが気になるだろ」
「そうなると思いました」
*
次の紙には、会社の名前が並んでいた。
醸造所、織工房、水産業者、運送屋。規模も所在もばらばらだったが、欄外には、かつて取引をまとめていた家の名が記されていた。
クラウディウス。
トーマスの指が止まった。
「クレメンス様と、取引のあった会社ですか」
「ええ。出資していたところも、輸送や販売で協力していたところもあります。すべてが彼の所有だったわけではありません」
フルブライトは、古い記録と現在の一覧を並べた。
「亡くなってから、まとまりが失われました。それぞれで続けられた会社もあれば、仕事を失ったところもある」
「もう一度、集める?」
ユリアンが訊く。
「協力できるところから。ただ、昔の形に戻すことが目的ではありません」
トーマスは一覧から顔を上げた。
「ミューズ様のお名前を、使うおつもりですか」
「本人が望まれない限り、使いません」
返事はすぐだった。
「お父上の仕事を、そのまま娘さんへ背負わせる話でもありません」
トーマスは、もう一度紙へ目を落とした。
窓辺で木の棒を手にしていたミューズの姿が浮かぶ。できることが増えたと笑っていた、あの声も。
「……なぜ、僕に?」
「最初は、クラウディウス家を訪ねている若い商人がいると聞いたからです」
「それだけで?」
「最初は、と申し上げました」
フルブライトはヤーマスの報告を指した。
「今は、こちらが理由です」
ユリアンが身を乗り出した。
「でも、あっちで集めたのは、困ってる店だろ。今度は自分の商会になるんだよな?」
「そうです。契約を取り次ぐだけなら、相手が実行するのを待つしかない。自分で資金を入れ、設備や人を抱えれば、できることは増えます」
「その代わり、失敗したら自分の損になる」
トーマスが続けた。
「従業員への給金も、仕入れの代金も、払わなければなりません」
「……責任まで引き受けるわけか」
「ええ」
フルブライトは頷いた。
「ですから、引き受ける相手と条件は、君自身に選んでいただきたい」
トーマスは一覧を端から読んだ。
経営が傾いている会社ばかりではなかった。すでに別の商会と安定した取引を続けているところもある。そうした名前には、フルブライトの手で印がつけられていた。
無理に動かす必要なし。
その短い注記を見て、トーマスは少しだけ肩の力を抜いた。
「目標は?」
「商会の資産規模で、一億オーラム」
ユリアンが杯を置いた。
「……一億?」
「はい」
「一万じゃなくて?」
「一億です」
フルブライトが数字を書いた紙を差し出す。
ユリアンはそれを見て、トーマスを見た。
「それ、どこに置くんだよ」
「金貨を積む話ではありません」
「違うの?」
「船や倉庫、設備、売るための商品。商会が持つものを金額に直して、合わせます」
「じゃあ、一億になっても、一億使えるわけじゃないんだな」
「使えません。船を売ったら、荷を運べなくなりますから」
ユリアンは数字を見直した。
「でかい商会なのに、財布は軽いってこともある?」
「あります。だから、資産の額とは別に、支払いに使える現金が足りるかも見ます」
「……大変だな」
「分かっていただけましたか」
フルブライトは二人のやり取りを、黙って聞いていた。
「評価は、こちらでも確認します。値札だけ高くつけても、達成とはしません」
「借金を増やして、倉庫を買い集めても?」
ユリアンが訊く。
「それだけでは駄目です。借入も合わせて確認しますし、商売が続くことが条件です」
「抜け道、塞がれてるぞ」
「探していませんよ」
トーマスは紙を戻した。
「最初の資金は、どうするんです?」
*
フルブライトが用意していたのは、金貨の袋ではなかった。
貸付の条件を書いた紙だった。
「上限は百万オーラム。事業の内容を確かめたうえで、必要な分を貸します。利息と返済の時期は、こちらに」
トーマスは紙を引き寄せた。
「一度に全部、借りる必要は?」
「ありません」
「借りていない分にも、費用がかかりますか」
「この契約では、かかりません」
ユリアンが首を傾げた。
「百万もらえるんじゃないのか」
「借りた分は返します」
「そっか。そこは、やっぱり商人なんだな」
フルブライトが笑った。
「私も、商売を続けなければなりませんので」
トーマスは返済の欄を読み、気になる箇所を二つ指した。最初の売上が入るまでの猶予と、予定より早く返す場合の扱いだった。
フルブライトは一つずつ答え、修正できるところには線を引いた。
「それと、運営する僕自身の報酬は」
ユリアンがにやりとした。
「やらないんじゃなかった?」
「やるかどうか、判断するために必要な情報です」
「ザインも同じこと言いそう」
「彼なら、危険手当も要求するでしょうね」
「絶対する。商売にはないって言われたら、作る」
フルブライトが筆を止めた。
「その方にも、お会いしてみたいですね」
「先に金額を決めておいた方がいいですよ」
ユリアンは真顔で言った。
トーマスは経費の扱いまで確かめ、ようやく書類を閉じた。
「明日、候補の会社を見せてください。そのうえで、お返事します」
「もちろんです」
「まだ、設立の署名はしません」
「承知しています」
フルブライトが立ち上がりかけたところで、ユリアンが訊いた。
「名前は?」
「何のです?」
「商会。作るなら、いるんだろ」
「まだ、考えていません」
「トーマスカンパニーでいいんじゃない?」
トーマスは少し考えた。
「……候補にはしておきます」
「そこは、もっと悩めよ」
「今は、寝る方が大事です」
フルブライトは声を上げて笑った。
「では、明朝。最初はピドナ水産を」
客を見送ると、ユリアンがトーマスの肩を軽く叩いた。
「よかったな。今日は風呂に入れるぞ」
「明日の予定まで決まりましたが」
「寝る前に帳簿を読むなよ」
トーマスは手元の一覧を見た。
ユリアンが、黙って手を差し出す。
「……明日の朝、返してください」
「了解」
*
翌朝のピドナ水産は、想像以上に騒がしかった。
荷を下ろす男が怒鳴り、木箱が床を滑る。開かれた箱には氷が詰められ、その間から銀色の魚体が覗いていた。
「足元、気をつけてくれ!」
声を掛けてきた男は、袖を肘までまくっていた。
フルブライトを見ると手を洗い、布で拭きながら近づいてくる。
「お待ちしていました。そちらが?」
「トーマス君です。今日は、私より彼と話してください」
トーマスは名乗り、差し出された手を握った。
大きく、冷たい手だった。
「帳簿を見ても?」
「ああ。ただ、先にこっちを見てくれ」
店主は出荷口へ案内した。
木箱が二列に並んでいた。片方には荷札がついているが、もう片方には何もない。
「こっちが、今日届いた分。向こうが、昨日出せなかった分だ」
「売れ残りですか」
「買い手はいる。運べなかった」
店主は、氷の減った箱の蓋を閉じた。
「船の到着が遅れてな。荷車の出る時刻に間に合わなかった」
「待ってもらえないのか?」
ユリアンが訊く。
「ほかの店の荷もある。うちの都合だけでは止められんさ。別に一台頼むと、高くつく」
「一日置くと、売れなくなる?」
「全部ではない。だが、同じ値では売れん。氷も足すし、傷んだものは捨てる」
トーマスは荷札の日付を見た。
「最近、増えていますか」
「船が遅れることは昔からある。前は、もう少し融通が利いたんだ」
店主が箱を開けると、ユリアンも中を覗いた。
「これ、まだうまそうだけどな」
「今、食うならな。明日、客の皿に載るまで考えなきゃならん」
「……そりゃ、そうか」
ユリアンは蓋を戻す手を手伝った。
トーマスは、帳簿のある小部屋へ案内してもらった。
*
売上はあった。
仕入れも続いている。長く付き合っている漁師や料理屋の名前が、何度も出てきた。
だが、月の終わりに残る金は減っていた。
トーマスは輸送費と、値を下げて売った商品の欄を交互に見た。
「臨時の荷車を頼めば、その分高くなる。頼まなければ、魚の値段が下がる」
「そういうことだ」
店主が椅子を引いた。
「間に合わせるために借りた金もある。その返済で、また仕入れの金が足りなくなる」
「荷車の出る時刻を変えるだけじゃ、駄目なのか?」
「相手にも、次の仕事がありますから」
トーマスは運送屋の名を書き留めた。
「ただ、どうしてもその時刻でなければならないのかは、聞けます」
店主が少しだけ笑った。
「昔は、そういう話をしてくれる人がいたよ」
「クレメンス様ですか」
「ああ」
男は古い帳面を棚から下ろした。
「荷を一緒に運ぶだけじゃない。先に出すものと、待てるものを分けてくれた。魚の到着が遅れりゃ、近くの店へ声を掛けて、先に引き取ってもらうこともあった」
「亡くなられてからは?」
「それぞれの都合で、契約を結び直した。悪気があったわけじゃない。自分の商売だけで、手いっぱいだったんだ」
古い頁には、現在とは違う出荷の時刻が記されていた。
トーマスはそれを写し、今の運送契約と並べた。
「少し、時間をください」
「どのくらい?」
ユリアンが訊く。
「まずは、運送屋に会うところまで」
「昼飯は?」
「その前に食べましょう」
「よし。成長したな」
フルブライトが窓辺で笑っていた。
*
答えは、その場では出なかった。
運送屋は、今の便を遅らせることには首を振った。次に運ぶパンが、店の開く時刻に間に合わなくなるという。
「魚のために、パンが売れなくなるのも困るな」
ユリアンが言うと、御者は大きく頷いた。
ただ、昼前に港へ戻ってくる便には、空きがあった。
帰りの荷台を洗い、魚箱を載せられるようにすれば、臨時に一台出すより安くなる。毎日ある程度の荷を約束してもらえるなら、という条件がついた。
トーマスは料金を書いてもらい、今度はピドナ水産の取引先へ足を運んだ。
昼に届くなら買える店もあった。朝の仕込みに必要な店は、それでは遅い。朝の分を優先して残し、ほかを昼へ回せば、すべてを一度に急いで運ぶ必要はなかった。
夕方、三人は水産の小部屋へ戻った。
トーマスは卓へ二枚の紙を置いた。
「全部をまとめるのは、無理でした」
「だろうな」
店主が頷く。
「ですが、こちらの分は昼の便に移せます。残りを朝に出す。船が遅れた時も、昼までなら引き受ける店がありました」
「安く買い叩かれるんじゃないのか」
「多少の値引きは必要です。ただ、一晩置いた後の値段よりはいい」
店主は紙を手に取った。
取引先の名前と、必要な量を指で追う。
「……自分で聞いてきたのか」
「まだ、約束ではありません。実際に運んで確かめたいんです」
ユリアンが横から言った。
「魚を安く買う話より、早く届ける話ばっかりしてたよな」
「買う値段を下げても、ここで傷ませたら意味がありませんから」
トーマスは昨日の在庫を見た。
売れずに残った箱のうち、一つはすでに空になっていた。捨てた、と店主が言った。
「一週間、試せますか。その間、今までの費用と比べます」
「運賃は誰が払う?」
「うちの商会から、試す分を出しましょう」
フルブライトが答えた。
「ただし、君が考えた案の費用として記録します。続けられるかどうかも、君が見てください」
トーマスは頷いた。
「お願いします」
*
その一週間、トーマスは朝になると港へ通った。
予定どおり届いた日もあれば、船が遅れた日もあった。
昼の便が来るまでの間に氷が減り、箱の詰め直しが必要になった。運送屋へ頼む洗浄の費用も、最初の見積もりには入っていなかった。
トーマスが帳面へ数字を書き足すたび、ユリアンが横から覗く。
「また増えた?」
「費用です」
「嬉しくない方か」
「見落としたままよりは、いいですよ」
ユリアンは市場へ回り、届いた魚について店の人に訊いた。
遅くなったという苦情を持ち帰る日もあった。だが、傷んでいたという返品は減った。
七日目の夕方、トーマスは店主と帳簿を挟んで座った。
「これだけなら、続けられる」
男が言った。
利益が急に倍になったわけではない。船が遅れる問題も、なくなってはいない。
それでも、捨てる魚と臨時の運賃は減っていた。
「ただ、荷車を待つ場所は直した方がいい。雨が吹き込むと、箱を動かす手間がかかる」
「見積もりを取りました」
トーマスが紙を出す。
店主はそれを受け取り、しばらく黙って読んだ。
「……買う気なんだな。ここを」
「引き受けたいと思っています」
トーマスは膝の上で手を重ねた。
「ただし、あなたに残っていただくことが条件です」
「俺に?」
「漁師との交渉も、魚の見極めも、僕にはできません」
「覚えりゃいい」
「覚えます。でも、明日から全部任せられますか」
店主が笑った。
「無理だな」
「でしょうね」
トーマスも少し笑い、契約の案を広げた。
「仕入れと販売は、引き続きお願いします。僕は資金と運送の手配、ほかの会社との調整を。帳簿は一緒に確認させてください」
「店の名前は?」
「ピドナ水産のままです」
「俺が辞めたくなった時は?」
「次の方へ仕事を渡す時間をいただきたいです。ずっと縛る契約にはしません」
店主は頷き、代金の欄へ目を落とした。
「最初の話より、高いぞ」
「一万オーラム、上げました」
「買う側が上げるのか?」
ユリアンも顔を上げた。
「安く買えるなら、その方が得じゃないの?」
「先週の数字だけでつけた値段では、ここを低く見すぎていました」
トーマスは一週間の記録を示した。
「売る相手も、仕入れる相手もいる。届く時刻が変わっても、取引を続けてくれました。借金だけを見て、値段を決めたくありません」
「それで、二十万か」
「はい」
店主は、すぐには手を出さなかった。
「借入の残りも、分かってるんだな」
「貸し手に確かめました。会社に残る債務として、こちらへ記しています」
「……なら、いい」
男は自分でも読み直し、分からない箇所を訊いた。
給金の支払日、仕入れに使える金額、運送屋へ何を任せるか。窓の外が暗くなる頃、ようやく紙の余白が埋まった。
「頼む」
差し出された手を、トーマスは握った。
「こちらこそ」
机の端で、フルブライトが筆を置いた。
*
正式な契約書を整えるため、三人は商館へ戻った。
フルブライトは、貸付の書類をトーマスの前へ置く。
「最初は、二十二万五千オーラムでよろしいですね」
「ええ。二十万を買収代金に。残りの二万五千と、僕自身の五千は修繕と当面の支払いに充てます」
ユリアンが指を折った。
「店を買ったら、手元は三万か」
「そこから修繕費も出ます」
「……一億、遠いな」
「今は、次の仕入れができる方が大事です」
トーマスは借入額と返済の条件を確認した。
自分の金を足しても、使える分には限りがある。今後の売上も、そのまま全部を使っていいわけではない。
支払日を書き出した紙を、契約書の横へ置く。
「残りの七十七万五千は、必要になったら改めて相談します」
「分かりました」
フルブライトが別の用紙を出した。
「では、商会の名前を」
トーマスは筆を取った。
トーマスカンパニー。
「本当にそれにした!」
ユリアンが叫んだ。
「ほかに、よい案がありましたか」
「一週間あっただろ!」
「魚のことを考えていました」
「もっともらしい理由をつけるなよ!」
フルブライトは咳払いをした。笑うのを堪えているのは、明らかだった。
「分かりやすくて、よろしいと思います」
「そういうことです」
トーマスは署名を済ませ、筆を置いた。
これで、来月の給金も、次の仕入れも、自分に関わることになった。
紙を返す前に、支払日の一覧をもう一度確かめた。
フルブライトは、急かさず待っていた。
*
外へ出ると、ピドナの街には夕食の匂いが漂っていた。
ユリアンが両腕を伸ばす。
「終わったー」
「始まったんですよ」
「それ、今言う?」
トーマスは鞄を持ち直した。
ユリアンが隣へ並ぶ。
「なあ。俺にも、そろそろ何か出る?」
「何がです?」
「市場を回って話を聞いたり、荷を下ろしたり。一週間、結構働いたぞ」
トーマスは足を止めた。
「……そうですね。すみません」
「いや、そんな真面目に謝らなくても」
「市場への聞き取りと荷役の分、精算しましょう。日数と、何を手伝ったかを」
「覚えてるよ。帳簿の代わりに、そこはちゃんと」
「助かります」
ユリアンは笑った。
「ザインに言われる前でよかったな」
「君にも、働く前に決めろと言うでしょうね」
「……二人で叱られるか」
そのまま帰りかけて、トーマスは道を曲がった。
「どこ行くんだ?」
「旧市街へ。報告しておきたい方がいます」
ユリアンは頷き、一緒に歩き出した。
*
ミューズは、二人の話を最後まで聞いた。
窓辺の卓には砂を入れた皿があったが、今は布が掛けられている。シャールが茶を運び、トーマスの前へ置いた。
「ヤーマスで、そんなことが」
「帳簿だけでは、済みませんでした」
「ええ。そうだろうと思っていました」
ミューズが微笑む。
ユリアンが横から口を添えた。
「それで、今度は商会まで作ったんです」
「まあ。何というお名前ですの?」
「トーマスカンパニーです」
トーマスが答えると、ユリアンが彼を見た。
「そのままだろ?」
「誰の商会か、すぐ分かるじゃないか」
「そりゃ、分かるけどさ」
ミューズは二人を見て、微笑んだ。
「私は、いいお名前だと思いますわ。トーマス様のお名前なら、安心してお買い物ができますもの」
トーマスは少し照れたように眼鏡を直した。
「……その信用を損なわないようにしないといけませんね」
「よかったな。もうお客さんが一人できたぞ」
ユリアンが笑うと、シャールの口元も少し緩んだ。
トーマスは笑みを返してから、ピドナ水産のことを話し始めた。
「クレメンス様と、以前お付き合いがあったそうです」
ミューズの手が、茶碗の脇で止まった。
「お父様と?」
「ええ。船が遅れた時にも、売り先を探してくださったと。その頃の帳簿も、残っていました」
ミューズはしばらく窓へ目を向け、それから小さく頷いた。
「忙しい方でした。帰ってきても、食事の途中で呼ばれることがあって」
トーマスは口を開きかけ、やめた。
「魚の到着を待っていた日も、あったのかもしれませんね」
ミューズが言った。
「そうかもしれません」
父の仕事を継いでほしいとは、言わなかった。
ただ、これから訪ねる会社でも、昔の話を聞くことがあると思う。その時は伝えに来たいと話すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「ぜひ、聞かせてくださいな。私の知らないお父様のお話も」
「はい」
「ただし、トーマスさん」
「何でしょう」
「食事の途中に呼ばれても、少しくらいは召し上がってから、お出かけになってね」
ユリアンが、深く頷いた。
「俺も、それは何度も言ってるんです」
「もう、気をつけていますよ」
「今日の昼は?」
トーマスは思い返した。
水産の小部屋で、契約の条件を詰めていた。途中でパンを受け取った記憶はある。
その後、どこへ置いたのか。
ミューズがシャールを見た。
「何か、お出しできるかしら」
「すぐに」
「……すみません」
トーマスは鞄を椅子の下へ置いた。
今度は、食べ終わるまで開かなかった。
*
夜、自室へ戻ったトーマスは、机に一枚の紙を広げた。
ピドナ水産。
その下へ、翌朝の支払いと、修繕を頼む職人の名前を書く。
フルブライトから預かった一覧は、机の端にあった。
まだ会っていない商人も、訪ねていない町もある。一億オーラムという数字は、相変わらず遠かった。
それでも、今日引き受けた店のことは分かる。
明日は船が入る。氷が要る。昼の便には、魚箱を載せる場所を空けてもらわなければならない。
トーマスは運送屋への伝言を書き、朝に渡す書類へ重ねた。
戸が叩かれ、ユリアンが顔を出した。
「まだ起きてると思った」
「今、終わるところです」
「それ、信じていい?」
トーマスは筆を置いた。
「ええ」
ユリアンが机の紙を見る。
「明日も港か」
「朝だけ、確かめに」
「お前の『確かめる』、長いんだよな」
「では、朝食の時刻を決めておきましょう」
「それなら付き合う」
トーマスは笑い、帳簿を閉じた。
戸口へ向かいかけて、机の端の書類を振り返る。
自分で書いた商会の名前が見えた。
「……やっぱり、少し考えるべきでしたかね」
「今さら!?」
廊下に、ユリアンの笑い声が響いた。