Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
荷車の車輪が、深い轍にはまった。
御者の舌打ちに、ユリアンが荷台から飛び降りる。トーマスも地図を鞄へ戻し、反対側へ回った。
「せーの!」
ユリアンは傷めた腕を庇い、無事な方の手と肩で荷台を押した。
トーマスと御者も力を込める。泥を噛んでいた車輪が持ち上がった。
馬が踏み出し、押していた荷台が、するりと前へ動いた。
「助かった。少し先で待ってるぞ」
御者が手を上げた。
ユリアンは泥のついた掌を見下ろし、服で拭こうとしてやめた。
「……水、ある?」
「飲む分しかありません」
「だよな」
草で泥を落とす隣へ、トーマスもしゃがんだ。
ファルスを出てから、二度検問を受けている。通行証と積荷を調べる兵士たちの手は、腰の剣から離れなかった。
戦いは止まった。それでも、道を行く荷車はまだ少ない。
「なあ。工房に着いたらさ」
ユリアンが草を捨てた。
「俺たちがどっちにいたか、話す?」
「……聞かれたら、答えるつもりでした」
「うん」
「でも、ファルスとの取引を持ちかけるなら、その前に話すべきでしょうね」
トーマスは紹介状の入った鞄を見た。
造船所の主人から預かった一通。それがあれば話を聞いてもらえると、少し期待していた。
相手にとっては、敵方の町から来た二人でしかないかもしれない。
「断られたら?」
「帰ります」
「……そっか」
ユリアンは立ち上がった。
荷車の御者が、道の先でこちらを振り返っている。
「とりあえず、乗ろう。置いてかれる」
「あなたが走れば、待ってくれると思います」
「一緒に走れよ!」
トーマスも鞄を抱え直し、足を速めた。
*
スタンレーでは、勝利を祝う旗は見当たらなかった。
町の入口にある建物から、腕を吊った兵士が出てきた。傍らの女性が何かを言い、その肩を支える。
ユリアンは道の端へ寄った。
若い兵士だった。顔を見ても、戦場にいたかどうかは分からない。
通り過ぎるまで、二人とも口を開かなかった。
市場は開いていた。野菜を売る声もするし、子供が走れば店先から叱る声も飛ぶ。
ただ、空いた台が目立った。荷車を停める場所には、馬のいない車だけが並んでいる。
「馬が戻らなきゃ、運びようがないだろ」
「軍に言ってくれ。こっちも待ってるんだ」
商人たちの声を聞きながら、トーマスは店先の値札へ目を向けた。
塩も油も、ファルスより高い。
その隣では、白い皿が何枚も積まれていた。
「これは安いな」
ユリアンが一枚を手に取った。
「ファルスで見たやつ?」
「底を見てもらえますか」
裏返した皿に、同じ刻印があった。
店主が二人を見上げる。
「まとめてなら、もう少し引くぞ」
「ずいぶんありますね」
「町の中で売るにも限りがある。割らないことには、そう何枚も買わんからな」
店主は、隣の空いた台を顎で示した。
「前はあそこに荷受けの奴がいた。今は来ない」
ユリアンが皿を戻した。
トーマスは工房への道を尋ね、礼を言った。
歩き出してから、ユリアンが振り返る。
「皿を運べれば、あの店も助かるんだな」
「ええ。ただ、買う人のところまで届けないと」
「道は通れたぞ」
「僕たちは。荷車を何台も通すとなると、条件を確かめる必要があります」
検問の兵士は、紹介状を何度も読み返していた。
あの道へ荷を出すと言った時、ここの人たちがどんな顔をするか。
それはまだ、帳簿には書けなかった。
*
スタンレー陶器の工房では、窯の煙が細く上がっていた。
入口の脇に、乾燥中の鉢が並んでいる。奥では年配の職人が土を練り、別の男が轆轤を回していた。
トーマスは足を止め、声をかけた。
「すみません。ご主人はいらっしゃいますか」
「俺だが」
箱に縄をかけていた男が顔を上げた。五十代ほどだろう。袖をまくった腕には、乾いた土が白く残っている。
「トーマス・ベントと申します。ピドナで商会を始めました」
「買い付けか?」
「お話を伺えればと。ファルス造船のご主人から、紹介をいただいています」
男の手が止まった。
「……あいつから?」
トーマスは紹介状を差し出した。
工房主は受け取ったが、すぐには開かなかった。
「道が開いた途端、商売の話か」
「ご都合が悪ければ、出直します」
「出直せばよくなる話でもない」
工房主は封を切った。短い文面を読み、二人へ視線を戻す。
「何を聞きたい」
「以前の輸送についてです。ただ、その前にお伝えしておくことがあります」
トーマスの隣で、ユリアンが背を伸ばした。
「僕たちは先日の戦いで、ファルス側の仕事を受けました」
工房の奥で、木の板を置く音がした。
「……何だと?」
「俺もだ」
ユリアンが口を開く。
「兵士を運びに行って、剣も使った」
工房主の視線が、ユリアンの腰へ落ちた。
そのまま、長い間動かなかった。
「うちの若いのが、三人戻らなかった」
トーマスは息を止めた。
「一人は、そこの窯場の息子だ」
奥の職人は土を練っていた。
さっきと同じ動きだった。ただ、掌で押した土を、もう一度同じ場所から折り返している。
「それで、何を話す?」
紹介状が差し戻された。
トーマスは受け取った。
「……今日は、失礼します」
「ああ」
ユリアンが頭を下げる。
工房主は何も言わず、箱の縄を握り直した。
結び目がうまく締まらず、もう一度解く。その音を背に、二人は外へ出た。
*
しばらく歩いてから、ユリアンが足を止めた。
「三人か」
トーマスも立ち止まった。
「……ええ」
あの戦場で、誰がどこにいたのか。
工房の若者たちが、どんな顔をしていたのか。
二人とも知らなかった。
ユリアンは腰の剣へ触れかけ、手を下ろした。
「帰る?」
「今は、これ以上話を聞いてもらうのは難しいですね」
「町は?」
トーマスは市場の方を見た。
皿を売っていた男が、敷物の端を引いている。積み上がった皿は、さっきとほとんど変わっていなかった。
「……もう少し、見ていきたいです」
「分かった」
ユリアンはそれ以上訊かなかった。
宿を取って荷物を置き、二人は市場へ戻った。
トーマスは皿を売る店主に、普段どこへ荷を出していたのか尋ねた。工房へ行ったことも、断られたことも話した。
「あそこはなあ」
店主は顔を曇らせた。
「今は、そっとしといてやれ」
「はい」
「売り物なら、うちにもある。買う分には歓迎だが」
そう言って、棚から帳面を取り出す。
以前は陶器を荷車でファルスまで運び、そこから船へ積み替えていたという。帰りの荷には、塩や油、窯で使う資材もあった。
通行税が上がり、検問が長引き、荷を出す商人が減った。最後には、馴染みの運び手も来なくなった。
「ほかの道は?」
ユリアンが訊いた。
「あるさ。遠いがな」
店主が道順を説明する横で、トーマスは地図を広げた。
迂回すれば日数も馬の餌代も増える。陶器は重く、乱暴に積めば割れる。数箱だけ運んでも、運賃に呑まれてしまう。
「それで、こんなに残ってるのか」
「安く売っても、道は短くならんからな」
店主が苦笑した。
トーマスは地図に書き込む手を止め、積まれた箱へ目を向けた。
「その道を使って、こちらへ来る荷車はありますか」
「たまにな。食い物やら油やらを積んでくる」
「帰りは?」
「さあ。運び屋に聞いてみな」
店主が示した通りへ、ユリアンは先に目を向けた。
「また、帰りの荷台か」
「空いていれば、ですが」
「見てこようぜ」
トーマスは頷き、地図を畳んだ。
*
「空いてるぞ」
運び屋は、あっさり言った。
ユリアンがトーマスを見た。
「よかったな」
「ただし、安くはならん」
「早かったな」
運び屋は椅子に座ったまま、二人を見上げた。
「帰りが空なのも込みで、運賃を取ってる。荷を積めば馬は疲れるし、割れ物なら積み替えにも手間がかかる」
「それは承知しています。いくらになりますか」
提示された額を、トーマスは手帳へ書き込んだ。
少し計算する。
線を引いた。
ユリアンが横から覗く。
「駄目?」
「このままだと」
「そういうことだ」
運び屋は椅子を軋ませた。
「荷を探して待つくらいなら、さっさと帰って次を積みたい。こっちに着いてから何日も待たされるのが、一番困る」
トーマスが顔を上げた。
「着く前に、帰りの荷が決まっていたら?」
「何を、どれだけ」
「陶器です。今、量を調べています。箱詰めを済ませ、指定の日に積めるようにしておきます」
「帰りだけじゃなく、次にこっちへ来る荷も頼めるのか」
「確認が必要です。ピドナから食料品を運べないか、当たってみます」
ユリアンが横から口を挟んだ。
「行きに食い物を運んで、帰りに陶器を積むんだな」
「ええ。両方の荷が決まれば、運び屋にとっても無駄が減ります」
運び屋はようやく椅子から身を起こした。
「なら、両方決まってから来い。日程もな」
「もう一つ。途中で積み替えるなら、どこが使えますか」
地図を見せると、太い指が道の分かれ目を叩いた。
そこからは、鉛筆を休める暇がなくなった。
*
宿へ戻る頃には、ユリアンの腕にパンの包みが増えていた。
トーマスは机へ地図を広げ、聞いてきた運賃を書き写している。
「食べながらでいいからさ」
「ありがとうございます」
差し出されたパンを受け取り、皿の脇へ置く。
ユリアンはその手元を見ていた。
「今の返事、絶対聞いてないだろ」
「聞いていますよ」
「じゃあ食べろ」
トーマスはようやく一口かじった。
硬い皮が音を立てた。
「……思ったより硬いですね」
「だから、煮込みが冷める前に食べろって」
ユリアンが椀を押しやった。
匙を取り、数口食べる。その間も、トーマスの視線は紙の端へ戻っていた。
「行けそうなのか?」
「まだ分かりません。こちらへ運ぶ品と、ピドナでの売り先を確かめないと」
「魚も運ぶ?」
「この日数だと、鮮魚は無理です」
「着いた時、すごいことになるな」
「想像しなくていいです」
ユリアンが顔をしかめ、トーマスは手帳を一枚めくった。
農場の穀物と、製粉所で扱う粉。保存の利く品なら候補になる。ただし、向こうにも既に決まった注文がある。
こちらの都合だけで、勝手に積むわけにはいかなかった。
「明日、ピドナへ手紙を出します。こちらでは必要な量と、払える額を聞いておきます」
「皿の方は?」
「まず市場の在庫から。工房へ頼むのは、その後です」
ユリアンは少し黙った。
「それでも、断られるかもしれないぞ」
「ええ」
トーマスは匙を置いた。
「その時は、受け入れます」
窓の外で、荷車の音が遠ざかった。
ユリアンは椀の底に残った煮込みを、パンで拭った。
「分かった。明日は俺も、運び屋の方に行くよ」
「お願いします」
「荷を積む話なら、俺にも分かるし」
トーマスが頷き、また紙へ手を伸ばす。
その上に、残りのパンが置かれた。
「先にこっち」
「……はい」
*
返事を待つ間、二人は町を歩いた。
食料を必要としていても、一度に大金を払える店は少ない。注文をまとめ、支払える時期も確かめた。
帰りに積む陶器は、最初から荷車いっぱいにはしなかった。市場の店主に売れ筋を聞き、日用の皿や鉢を中心に選ぶ。
ユリアンは運び屋に箱の積み方を教わった。
「上へ重ねすぎるな。揺れるぞ」
「縄を締めればいいんじゃないのか?」
「箱が潰れたら、中の皿も終わりだ」
「なるほど」
持ち上げた箱を下ろし、藁を足した。
トーマスはその横で、割れた場合の負担を書き加える。
日が暮れると、宿で計算をやり直した。
翌朝、ユリアンが目を覚ますと、まだ机に向かっていた。
「寝た?」
「少し」
「どれくらい」
「……三十分ほど」
「それ、居眠りだろ」
ユリアンは窓を開けた。朝の風が紙をめくり、トーマスが慌てて押さえる。
「もう少しで終わります」
「それ聞くの、三回目」
返す言葉がなく、トーマスは眼鏡を外して目元を押さえた。
ユリアンが紙を覗く。
「儲かる?」
「運ぶ分の費用は、何とか。ただ、僕の取り分はほとんどありません」
「駄目じゃん」
「今回は少量で、売れ行きと破損の具合を確かめます。次もこの条件で続けるつもりはありません」
「でも、宿代はかかってるぞ」
トーマスの手が止まった。
「……それは、別に計算しています」
「してるんだ」
「しています」
ユリアンは空いた椀を片づけた。
「じゃあ、赤字を増やす前に寝よう。今日は俺が聞いてくる」
トーマスは何か言いかけ、閉じた。
「お願いします」
寝台へ腰を下ろすと、急に身体が重くなった。
頭の中に残った数字が、途中から繋がらなくなった。
*
ピドナから返事が届いたのは、それから数日後だった。予定していた品が、すべて揃うわけではない。トーマスは注文の一部を減らし、運び屋と日程を合わせた。
陶器の売り先は、取引先の紹介で二軒見つかった。まずは見本と少量を、という返事だったが、売り先が求めた鉢は、市場の在庫だけでは数が足りなかった。
大きな契約ではない。
それでも、最初の荷を出せるところまで来た。
市場で仕入れる分を押さえ、トーマスは工房へ向かった。
ユリアンは入口から少し離れた場所で足を止める。
「俺、ここにいる」
「ええ」
工房主は二人に気づいた。顔をしかめたが、怒鳴りはしなかった。
「まだいたのか」
「はい。今日は、商品の注文をお願いできるかと思って」
「ファルスへ出す荷か」
「いいえ」
トーマスは紙を差し出したが工房主は受け取らなかった。
トーマスは紙を手に持ったまま、品名と数量を伝えた。続いて、ファルスを経由せず、迂回路でピドナへ運ぶと説明する。
「……待て。その道で運ぶのか?」
「運び屋と話をつけています。こちらへ来る荷も、一緒に手配しました」
「運賃だけで、いくらかかると思ってる」
「分かっています」
「売値をいくらにする気だ」
答えると、工房主は初めて紙を受け取った。
数字を追う目が止まり、トーマスを見る。
「儲からんぞ」
「ほとんどは、運び賃です」
「なら、もっと買値を下げろと言えばいいだろう」
「その値段では、次を焼けませんよね」
工房主は黙った。
奥で轆轤の回る音がする。
「……窯を止めないためです、とでも言う気か」
トーマスは口を開きかけた。
工房主は、もう一度紙へ目を落とした。
「止めるかどうかは、こっちで決める」
「はい」
「若い商人に、気の毒がられたいわけでもない」
「それも、分かっています」
言ってから、トーマスは少し首を振った。
「……分かっているつもりです。ただ、この皿はピドナで売れます。売れれば、また注文できます」
指で品名を示す。
「今回の数は少ないですが、この値段で仕入れたい。それが、お願いです」
工房主は紙の端を親指で擦った。
紹介状を返された時と同じくらい、長く感じた。
「前金は」
「半分。残りは、検品して引き取る時に」
「割れた後で、値切るなよ」
「積み込む前に、一緒に確かめましょう」
工房主は作業台へ向かい、紙を置いた。
「この鉢は、今あるのより口が広い型だ。そっちでいいんだな」
「見せていただけますか」
男は返事の代わりに、棚から一つ取り出した。
入口で待っていたユリアンが、ようやく肩を下ろした。
*
荷を出す朝、ピドナからの穀物と油を降ろした荷車が、工房の前へ回ってきた。今度は、その荷台へ陶器を積む。
トーマスは工房主と品数や欠けの有無を確かめた。確認を終えた箱から蓋が閉じられ、最後に受取書へ署名する。
ユリアンは運び屋と荷台を整えていた。覚えた通りに藁を挟み、縄を締める前に箱の位置を見る。
「そこでいい」
運び屋が頷いた。
工房の奥から、年配の職人が最後の箱を運んできた。
ユリアンが手を出しかける。
職人はその前に、荷台へ箱を置いた。
二人の目が合った。
ユリアンは手を下ろし、小さく頭を下げた。
返事はなかった。
男は工房へ戻っていった。
トーマスは受取書を畳み、鞄へしまった。
支払いを終えても、言えることが増えたわけではなかった。
「これで全部だ」
工房主が言った。
「ありがとうございます。到着したら、知らせを出します」
「ああ」
荷車が動き出す。
以前ならファルスへ向かった角を、今日は反対へ曲がった。
二人も歩き出そうとした時、背後から声がかかった。
「ベント」
トーマスは振り返った。
「ファルス造船の親父は……まだ、自分で船を見てるのか」
「ええ。造船所にいました」
「そうか」
工房主は頷いた。
それきり口を閉じる。
トーマスも黙って待った。
「伝えることは、ない」
「分かりました」
今度こそ歩き出した。
数歩進んだところで、また呼び止められる。
「……窯は、まだ動いてる」
振り返ると、工房主は既にこちらを見ていなかった。
「それだけ言っとけ」
トーマスは頷いた。
「確かに、お伝えします」
*
ファルスへ戻る道にも、検問は残っていた。
荷を運ぶ迂回路とは別に、二人は来た街道を引き返した。通行証を確かめられ、鞄を開け、ようやく町へ入る。
造船所では、槌の音が響いていた。
「どうだった」
主人が作業台から顔を上げた。
「陶器を仕入れました」
「工房は?」
「買っていません」
「そうか」
男は少し笑った。
「お前なら、買う話まで始めるかと思ってた」
「そこまで急ぐつもりはありません」
トーマスは預かった言葉を伝えた。
窯は、まだ動いている。
主人の手が止まった。
木材に置いた指が、一度だけ表面を撫でる。
「……そうか」
しばらく、槌の音だけが続いた。
「荷は、どっちから出した」
「迂回路です。ピドナへ向かっています」
「高くつくだろう」
「ええ」
「こっちの街道も、そのうち荷を通せるようになる。今、町の連中が条件を詰めてるところだ」
主人は作業台の図面を押さえた。
「話が決まったら、知らせてやる」
「お願いします」
「ただし、運ぶ奴が見つかるとは限らんぞ」
「それは、こちらでも探します」
主人は頷き、道具を手に取った。
トーマスは礼を言って、その場を離れた。
隣でユリアンが小声を出す。
「自分で手紙書けばいいのにな」
「……今は、僕宛てでいいんだと思います」
ユリアンは造船所を振り返り、それから前を向いた。
*
ピドナへ戻ってからも、すぐに次の便が決まったわけではなかった。
陶器は予定どおり届いた。ただ、二枚は縁が欠けていた。トーマスは破損分を記録し、梱包を変えるよう運び屋と相談した。
売れた品もあれば、まだ棚に残っている品もある。
追加注文をまとめている時、ファルス造船から手紙が届いた。
街道を通る商用の荷車について、両町の取り決めができたという。指定の日に限り、積荷を届け出て通行できる。
その下に、港で船を出す商人の名と、空いている荷室の広さが書かれていた。
「ファルスまで運べば、船に積めるってことか」
ユリアンが机を覗いた。
「ええ。運賃を聞いて、工房に送ってみます」
「使ってくれるかな」
「分かりません」
トーマスは、迂回路の見積もりも隣へ置いた。
「選べるようにはしておきたいです」
返事が届いたのは、さらに数日後だった。
小口の荷を一度だけ、ファルス経由で出す。
工房主の署名の下に、太い字で付け足してあった。
勝手に次の約束をするな。
トーマスは読み終え、少しだけ笑った。
「何て?」
「まず一回、だそうです」
「一回でも、通るんだな」
「ええ」
ユリアンは壁の地図へ目を向けた。
「線、引かないの?」
トーマスは鉛筆を手に取った。
スタンレーから、ファルスへ。途中まで伸ばしていた線を少し延ばし、先を止める。
「まだ、荷が着いていませんから」
「着いたら?」
「それから、次も使うか聞きます」
鉛筆を置いた。
工房主の手紙を、造船所からの知らせと重ねる。
二通とも、宛名は自分だった。
「いつか二人で直接、次の荷の相談ができるといいですね」
「じゃあ、伝言係の仕事は終わりだな」
「そのときは別の仕事を探しますよ」
「好きだなあ、商売」
トーマスは否定しなかった。
*
「では、その別の仕事のお話をしましょう」
戸口から声がした。
トーマスが振り向くと、黄色い帽子を手にしたフルブライト二十三世が立っていた。
「いつから、そこに?」
「別の仕事を探す、とおっしゃったあたりから。声はかけたのですが」
「……すみません。気づきませんでした」
「ユリアン君には、どうぞと言っていただきましたよ」
トーマスは隣を見た。
「言いました?」
「言った」
フルブライトは椅子を借り、机に帳簿を置いた。
「運送の経過は聞きました。工房そのものを買う話には、しなかったのですね」
「商品を売っていただくところからです」
「結構。取引先が増えるのも、大事なことです」
トーマスは少し肩の力を抜いた。
フルブライトが、帳簿を開く。
「それでは、一億オーラムへの進捗を」
肩の力が戻った。
「……今、その話ですか」
「その話をしに来ましたので」
「ファルスまで行ったんですよ」
「はい。旅費も確認しましょう」
ユリアンが横を向いた。
肩が揺れている。
「笑うところではありません」
「ごめん。帰ってきたなって思って」
「何がですか」
「いつものやつ」
トーマスは帳簿へ向き直った。
手元にある金を、そのまま積み上げればいいわけではない。借りている分、預かっている分、共同事業で他の出資者に属する分。フルブライトは、それぞれを分けて確かめていった。
最後に残った額を見て、トーマスは眼鏡を押し上げた。
「……遠いですね」
「一億ですから」
「ええ。何度も伺っています」
「では、そろそろ少し大きな案件を」
差し出された紙に、トーマスは目を落とした。
ツヴァイク。
その名の下へ、商談相手と扱う品が書き添えられている。
「今度も、遠いですね」
「船の手配については、ご相談できます」
「戦争はしてないよな?」
ユリアンが訊いた。
フルブライトは頷く。
「ええ。ただ、武術大会の時期ですから、宿は早めに押さえた方がいいでしょう」
ユリアンの顔が上がった。
「武術大会?」
トーマスは、その声だけで嫌な予感がした。
「僕は商談に行くんですよ」
「分かってる。分かってるけど、見られるだろ?」
「日程によります」
「じゃあ、日程を見よう!」
紙を引き寄せようとする手を、トーマスが押さえた。
「先に商談です」
「まだ何も言ってないだろ!」
「顔に書いてあります」
フルブライトが笑いながら、もう一枚、日程表を取り出した。
トーマスは工房主の手紙を折り、返事を書くための箱へしまった。
それから机の上を空け、北へ向かう船の予定を広げた。