Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
翌朝、宿の食堂には、パンをちぎる音と食器の触れ合う音が静かに響いていた。
ユリアンは脇腹を庇いながら椅子へ座り、エレンは卓の下で右脚を伸ばしている。エレナの外套は椅子の背に掛けられ、焦げた端を内側へ折り込んであった。
その横で、ザインが大金貨を数えていた。
一枚。二枚。三枚。
トーマスが見ている。
「何だ」
「昨日も数えていたよね」
「昨日は昨日だ」
「増えないよ」
「減ってるかもしれねえ」
エレンが匙を置いた。
「誰が盗るのよ」
「宿の食堂で広げていたら、盗る人も出てくるかもしれませんね」
エレナに言われ、ザインは残りを数えて袋へ戻した。
十枚。五千オーラム。
昨夜、六人で分けたときと同じだった。
サラは小さな帳面に金額を書き込み、財布を鞄の奥へしまった。
「銀行に預けられるかな」
「窓口は商館の並びにあるよ。僕も交渉が済んだら寄る」
トーマスが答えた。
ユリアンは器を空にし、椅子の脇から上着を取った。
「じゃ、先に仕事だな」
「本当に来るの?」
「昨日も言っただろ。座って話を聞くくらいなら平気だ」
立ち上がるとき、上着が椅子に引っかかった。
トーマスが外してやる。
「荷物は僕が持つよ」
「そこは頼む」
エレンが二人を見上げた。
「頑張ってね。あたしは休む」
「珍しく素直だな」
「階段が思ったより痛かったのよ」
ザインが鼻を鳴らす。
エレンは睨んだが、すぐに食事へ戻った。
トーマスは書類を鞄へ収め、サラへ顔を向ける。
「戻ったら、一緒に窓口へ行こうか」
「うん。待ってるね」
二人が食堂を出ると、エレナは鞄から針と糸を取り出した。
エレンが外套の焦げ跡を見る。
「それ、まだ着るの?」
「端を少し切って縫い直せば、使えます」
「新品買えるじゃない」
「買えることと、買い替えることは別ですから」
向かいでザインが頷いた。
エレンは二人を見比べた。
「こういうときは、妙に気が合うのね」
*
ツヴァイクキャラバンの商館では、荷車が二台、門を出るところだった。
御者が手綱を引き、歩き出した馬の後ろで樽が揺れる。車輪についた泥は、まだ乾ききっていなかった。
主人は門の脇に立っていた。
トーマスたちに気づくと、口元を緩める。
「本当に優勝しやがったな」
「僕は一人倒しただけです」
「その一人は、うちの甥よりよほど頑丈だ。見てたぞ」
「ありがとうございます」
「今朝は走ってきたのか?」
隣でユリアンが吹き出した。
トーマスは眼鏡を直した。
「……歩いてきました」
「そうか。まあ、座れ」
奥の部屋には、前回と同じ地図が広げられていた。
その横に、新しい紙が一枚置いてある。
日付と荷車の台数。その下に、樽や箱の数が細かく書き込まれていた。
「荷をまとめて預ける話だが」
主人が椅子へ腰を下ろした。
「うちでも、空いた荷台に載せるものは探してる。毎回半分空けて走ってるわけじゃない」
「承知しています」
「問題は、埋まる日と埋まらん日がばらばらなことだ。客の都合に全部付き合うと、出発が遅れる」
トーマスは紙を手元へ引き寄せた。
同じ日の欄に、荷主の名がいくつも並んでいる。小さな荷が積み重なり、車一台を埋めていた。
その隣の日付には、空白が多かった。
「こちらで荷を集め、決めた日までに倉庫へ入れます。御社には、そこから運んでいただきたい」
「間に合わなかった荷は?」
「次の便へ回します。荷車を待たせるつもりはありません」
「客が怒るぞ」
「その条件で預けてもらいます」
主人は指で卓を叩いた。
「倉庫に入るまでが、お前の仕事か」
「はい。荷主との連絡も、こちらでまとめます」
ユリアンが地図を見ながら言った。
「荷車が店を一軒ずつ回る代わりに、店の方から荷物を集めるんだな」
「そういうことだ」
主人が頷く。
「ただし、集めた荷が毎回違うなら、積み方も変わる。陶器の上に酒樽は載せられん」
「陶器は別にします。最初は、日持ちのする穀物や加工品から」
トーマスは持参した一覧を広げた。
ピドナ水産の加工品。ハンス商会が扱う品。農場と製粉所から出せる荷。
数字の入っていない欄も多かった。
「これは確約ではありません。戻って、必要な量と出荷できる日を確認します」
「じゃあ、今日何を決める?」
「最初の二便について、荷台の一部を押さえる条件を」
主人の指が止まった。
「埋まらなくても払うんだな」
「最低の運賃は払います。ただ、その分を試せる大きさにしておきたい」
一台を丸ごと押さえるつもりはなかった。
自分の手元で用意できる荷と、すでに取引のある相手が欲しがっている品。その範囲で積める量を確かめる。
増やすのは、実際に運んでからでいい。
主人は出発予定の紙を引き戻した。
「この便なら、まだ余裕がある」
指された日付までには、ピドナへ戻る時間があった。
トーマスが頷きかけたところで、ユリアンが口を開いた。
「帰りの荷物が遅れたら、こっちへ戻る車も遅れるのか?」
「いや。出発は変えん」
「だったら、乗り継ぎが一日ずれただけで、荷物だけ置いていかれるな」
トーマスは日付を見直した。
ピドナから送り出した荷が、途中で積み替えを待つこともある。
出発当日に届けば間に合う、では危ない。
「集める締め切りを、もう少し前にします」
「保管料が増えるぞ」
「最低運賃だけ払って、荷を載せられないよりはいい」
主人が笑った。
「そいつはそうだ」
紙の端へ、倉庫の場所と締め切りが書き足された。
*
話は、荷の量だけでは終わらなかった。
濡れた袋を誰が受け取り、破れた箱をどこで調べるか。途中で街道が使えなくなった場合、誰へ知らせるか。
トーマスは一つずつ確かめた。
ファルスの港と、スタンレーへ続く道が地図に見えていた。
だが、その二つを今回の契約へ足すことはしなかった。
あちらには、まだ確かめるべき試験便がある。ここで新しい約束を重ねれば、また誰かが待つことになる。
「南へ回す話は、いずれできますか」
「できる。だが、便が揃ってからだな」
「僕もそう思います」
主人は、トーマスの顔を見た。
「前より、線を引くのが遅くなったな」
トーマスは地図へ目を落とした。
「引いたところで、荷車が通れるとは限りませんから」
隣でユリアンが頷いた。
昼前には、二通の書類が出来上がった。
まず二便を試す。運ぶ品と量は、出発前の定めた日までに知らせる。運賃、倉庫代、受け渡しの場所。
次の契約は、その結果を見て決める。
トーマスは最後まで読み、署名した。
主人も名前を書く。
「じゃあ、頼むぞ」
「こちらこそ」
握手を交わす。
ユリアンが、二人の手を見ていた。
「今回は、買わないんだな」
「売らんぞ。うちは売るとも言ってない」
主人が先に答えた。
トーマスは笑った。
「必要な便を使わせてもらえるなら、まずはそれで十分です」
「一億は?」
「遠いね」
すぐに返ってきた答えに、ユリアンも笑った。
「そこは正直だな」
「この契約を結んだからといって、相手の荷車まで僕の資産になるわけじゃない」
「なるなら、馬も欲しいところだな」
「御者もつけてくれと言いそうだ」
「つけんぞ」
主人が言った。
それから、二人を門まで送ってくれた。
今度は、荷を積んだ車が商館へ入ってきた。御者が予定より遅れた理由を告げ、主人が受け取りの者を呼ぶ。
トーマスはそのやり取りを見届けてから、鞄の留め具を閉じた。
次にここへ来るときには、自分が集めた荷も、あの車のどこかに載っているはずだった。
*
宿へ戻ると、エレンは食堂の窓際に座っていた。
右脚を伸ばし、斧の刃へ布を当てている。
「終わった?」
「ひとまずね」
トーマスが答えた。
エレナは外套を膝へ置き、最後の糸を切ったところだった。ザインはその隣で革の留め具を直している。
サラが帳面を閉じた。
「買えたの?」
「買ってはいないよ。一緒に荷を運ぶ契約を結んだ」
「じゃあ、一億には?」
トーマスが黙った。
ユリアンが笑う。
「さっきも聞いた。それはまだ遠いって」
「でも、商売は進んだんだよね」
「うん。帰ったら、さっそく荷を集めないと」
サラは嬉しそうに頷いた。
「よかった」
トーマスが鞄を置くと、ザインが顔を上げた。
「金は入るのか」
「荷を集めて、運んで、売れれば」
「まだ遠いな」
「一億よりは近いよ」
エレンが声を上げて笑った。
遅めの昼食の後、トーマスとサラは銀行の窓口へ向かった。ザインも、椅子の脇へ置いた鞄を取る。
「あなたも預けるんですか?」
エレナが訊いた。
「持ってても邪魔だからな」
「数える楽しみが減りますね」
「そのために持ってるんじゃねえ」
エレナは笑い、縫い直した外套を広げた。
ユリアンが戸口で振り返る。
「エレン、何か買ってくるか?」
「帰りに果物。あと、包帯も少し」
「分かった」
「あたしも行けるけど」
「階段が痛かったんだろ」
朝の言葉を返され、エレンは椅子へ座り直した。
*
商館の並びを抜けた先で、一台の荷車が道を塞いでいた。
車輪が石畳の溝にはまり、御者が馬をなだめている。荷台には木箱が積まれ、その後ろに、空き箱を抱えた若い男が立っていた。
「引くな。車輪が欠けるぞ」
男は箱を下ろし、車輪の脇へしゃがみ込んだ。
溝の深さを確かめ、道端の板へ手を伸ばす。
「少し浮かせて、これを噛ませれば……」
「持ち上げればいいの?」
金髪をおさげにした女が、荷台へ近づいた。
「ああ。だが、荷を下ろしてから――」
女は両手を荷台の下へ掛けた。
膝を曲げ、腰を落とす。
「よいしょ」
荷車の後ろが、持ち上がった。
はまっていた車輪が溝を抜け、そのまま宙へ浮く。
荷台の木箱がかたんと鳴った。
男は板を持ったまま、手を止めていた。
御者も、手綱を握って振り返る。
「……ニーナ。そこまで上げなくていい」
「そうなの?」
「もう抜けてる。ゆっくり下ろしてくれ。ゆっくりな」
女が頷く。
男は急いで車輪の下へ板を差し込んだ。
「いいぞ」
荷車が静かに下りた。
御者が恐る恐る馬を進ませると、車輪は板を越え、石畳へ戻った。
「助かったよ……。あんた、すごい力だな」
「いえ。動いてよかったです」
女は手についた埃を払い、笑った。
男は荷台の縄を確かめ、木箱のずれを直している。
「腰、痛めてないか」
「平気よ。ポールこそ、指を挟まなかった?」
「俺の心配はいいんだよ」
少し離れたところで、ユリアンが足を止めていた。
「……今、荷物ごと上げたよな」
「ああ」
ザインも荷車を見ていた。
馬は一頭。木箱は、どう見ても空ではない。
ユリアンは、動き出した荷車をまだ見ていた。
サラが二人の脇から顔を出した。
「……ポールさん?」
男が振り向いた。
サラを見て、次にザインを見る。荷縄を確かめていた手が止まった。
「ニーナさんも!」
女の方は、ぱっと顔を明るくした。
「サラ! 久しぶり!」
「知り合いか?」
ユリアンが訊く。
「うん。キドラントで助けてくれた人」
「ああ、話してた――」
「お前もいたのか」
ザインの声で、ユリアンは口を止めた。
ポールは逃げなかった。
道の端へ箱を寄せ、ザインへ向き直る。
「……ああ」
「今度は、載せる方か」
「そうだよ」
短く答え、それからサラを見る。
「あの時は、悪かった」
サラの指が、鞄の肩紐を握った。
坑道の細道へ消えていった背中を覚えている。人質を助けたことも、その前に馬車へ弓を向けていたことも。
「あれから、どうしたの?」
「村へ帰った。ニーナに、話した」
隣で、ニーナが頷いた。
「全部?」
ザインが訊いた。
「全部だ」
「私に話して終わりにしようとしたから、それじゃ困るって言ったの」
ニーナは穏やかな声で続けた。
「それで、番所へ一緒に行った」
ポールは腰の袋から、折り畳んだ紙を出した。
「襲った馬車のことも、盗賊団のことも話した。あの坑道で捕まった連中の話とも、突き合わせて調べられた」
「人を逃がした件は?」
「それも調べてもらった。捕まってた人と、あんたらの話が記録に残ってたって」
サラは紙へ目を向けた。番所の印と、いくつもの書き込みがあった。
「街道の片づけと補修に出た。それが済んでからは、働いて弁済することになってる。まだ残ってるけどな」
ザインは差し出された紙を確かめ、返した。
「だから、この荷運びか」
「護衛もやってる。雇い主には話してある。仕事先が変われば、番所にも知らせることになってる」
ポールは紙を畳み直した。
「盗賊の手口を知ってる奴が一人いてもいいってさ。……荷に触る時は、別の奴もついてくるけど」
「そりゃそうだろ」
「分かってるよ」
少しむっとした顔に、ニーナが笑った。
「今日は仕事が終わったから、一緒に歩いてたの。大会も、間に合えば見たかったんだけど」
「昨日までだったな」
ユリアンが言うと、ニーナは肩を落とした。
「やっぱり。宿の人に聞いたの。女の人が竜を倒したって」
サラが姉のいない方を、思わず振り返った。
「お姉ちゃんだよ」
「……エレンが?」
ニーナとポールの声が重なった。
ザインが頷く。
「今は宿で座ってる」
「座ってる?」
「勝ったが、無傷とはいかなかったんだ」
ユリアンが自分の脇腹を押さえた。
「俺もだけど」
ニーナは二人を見比べた。
「じゃあ、お見舞いも持っていかないとね」
ポールが足元の箱を拾う。
「これ返したら、俺も行っていいか」
「エレンたちに会うんだろ。俺に訊くな」
ザインが答えた。
サラはポールを見た。
「あの時、三人を逃がしてくれて、ありがとう」
ポールの手が止まった。
少しして、箱を抱え直す。
「……目の前で、連れていかれそうになってたからな」
サラは頷いた。
「今度は、ちゃんと話せるね」
「ああ」
ポールが頷き、箱を抱え直した。
ユリアンは、荷車が去った通りへ一度目を向けた。
「……それで、一つ聞いていいか?」
ニーナが顔を向ける。
「さっきの荷車、荷物を下ろさずに持ち上げたよな」
「ええ」
「よく持てたな、あんなの」
「重かったわよ」
ユリアンは返事に詰まった。
隣でポールが頷く。
「分かる。俺も最初、そうなった」
「二人して、何よ」
ニーナが腰へ手を当てる。
ユリアンは笑って首を振った。
「いや。頼りになるなって」
「それなら、そう言ってくれればいいのに」
ニーナも笑った。
ポールは箱を抱え、店の方へ歩き出す。
「じゃあ、これを返してくる」
「果物も買うから、先に宿へ行かないでね!」
*
宿の食堂で、エレンはニーナを見るなり立ち上がりかけた。
すぐにサラが肩へ手を置く。
「座ってて」
「分かってるわよ。……久しぶり、ニーナ!」
「うん。今度は、洞窟じゃなくてよかった」
「ほんとよ」
ニーナは果物の包みを卓へ置いた。
その後ろからポールが顔を出すと、エレンの目が細くなる。
「そっちも、久しぶりね」
「ああ」
「もう、人の荷物に手を出してないでしょうね」
「出してねえよ」
「さっきまで、触ってたじゃない」
ニーナに言われ、ポールが振り返った。
「仕事でな!」
ザインが、街道で聞いた話を伝えた。
「……なら、いいわ。続けなさいよ」
「言われなくても」
トーマスが椅子を二つ寄せた。
「改めて。トーマス・ベントです。サラから、キドラントでのことは聞きました」
「ポールだ」
「ニーナです」
ポールは頷き、ユリアンへ顔を向けた。
「そっちも、まだ名前を聞いてなかったな」
「ユリアン・ノール。エレンたちと同じ、シノンの出だ」
「冒険者か?」
「今は、こいつと商売をしながら旅してた」
トーマスへ親指を向ける。
「商人には見えねえな」
「俺もそう思う」
「交渉では、ずいぶん助けてもらったけどね」
トーマスが言った。
ユリアンは少し照れたように杯を取る。
「分からないことを聞いてただけだよ」
「聞けるのはいいことよ」
ニーナが頷いた。
「ポールは、とりあえず分かった顔をすることがあるから」
「余計なこと言うなよ」
「後で困るでしょう?」
「……分からなくなったら聞いてるだろ」
ユリアンが吹き出した。
ポールがそちらを見る。
「あんたは、そんなことねえのか」
「ある。大体、トーマスにばれる」
「だろ?」
二人が笑うと、ニーナも呆れたように笑った。
「じゃあ、二人とも気をつけてね」
卓へ運ばれてきた杯を、ポールがユリアンの方へ一つ押した。
ポールが杯を持ち上げた。
「よろしくな、ユリアン」
「ああ。ポール、ニーナも」
サラがニーナの隣へ座り、町長が連れていかれた後の村のことを訊く。
畑は変わらず忙しいこと。生贄のために集められていた食べ物を、家々へ返したこと。夜に外へ出る子供が、ようやく増えてきたこと。
エレンは黙って聞き、最後に大きく息を吐いた。
「そっか。よかった」
ニーナは頷いた。
「ポールも、その頃に帰ってきたの」
宿の主人が湯を足しに来て、ユリアンの前で足を止めた。
「そうだ。あんた、ユリアン・ノールだったね」
「ああ」
「ロアーヌの方が訪ねてきてる。名前を確かめてくれって」
杯を取ろうとした手が止まった。
「……俺に?」
*
入口に立っていたのは、旅装の男だった。
外套の下にロアーヌの紋章が見える。
「ユリアン・ノール殿でしょうか」
「はい」
「ロアーヌ侯ミカエル様より、お渡しする書状を預かっています」
男は封書と、身分を示す札を出した。
ユリアンが封書へ手を伸ばしかけると、トーマスが横へ来た。
「こちらの宿は、どなたから?」
「大会の受付です。名簿にユリアン殿のお名前がありましたので、宿泊先を伺いました」
「いつ、ロアーヌを出たんですか」
「大会が始まる前です。こちらで見つからなければ、ピドナへ向かうつもりでした」
トーマスは札を確かめ、使者へ返した。
ユリアンは封書を受け取った。
封には、ロアーヌ侯の印が押されている。
「……俺、何かしたか?」
「モニカ様を送り届けたでしょ」
エレンが言った。
「あれで何か、やり残したのかなって」
「まず、読んでみたらどうだい」
トーマスに促され、ユリアンは封を切った。
最初の数行に目を走らせる。
モニカの護衛について、直接話をしたい。
都合をつけ、ロアーヌを訪ねられたい。
旅費は侯家が負担すること。来訪を承諾するなら、使者へ出発の見込みを伝えること。
「護衛……?」
読み返していると、ザインが顔を上げた。
「城の護衛は、どうした」
「引き続き務めています。ただ、詳しいお話は、侯爵様から直接と承っています」
使者は答えた。
ユリアンは顔を上げた。
「モニカ様に、何かあったんですか」
「私が出発した時点では、お怪我も、ご病気もありません」
それを聞いて、ようやく息が吐けた。
使者は一礼した。
「お返事は、明朝にでも。私は向かいの宿におります」
男が出ていくと、食堂の音が戻ってきた。
皿を重ねる音。隣の卓で、追加の酒を頼む声。
ユリアンは手元へ目を戻した。
短い書状だった。
それでも、もう一度初めから読んだ。
*
夕食の前に、トーマスは商館へ出かけた。
戻ってきた時には、手に小さな紙を持っていた。
「使者の名と、ロアーヌを出た日を確かめてもらった。こちらの商館へも、取次ぎを頼む知らせが来ていたよ」
「悪いな」
「行くにしても、確かめてからの方がいい」
ユリアンは書状を畳んだ。
窓際では、エレンが脚に冷たい布を当てている。ニーナがその脇に座り、サラと果物を切っていた。
ポールは荷運びの雇い主へ話をしに戻り、まだ帰ってきていない。
「お前は、ピドナだよな」
「うん。荷を集める約束をしたからね。三日後に出る」
「……俺も行くつもりだったんだけど」
「荷物なら、あとから送れる。ミューズ様たちには、僕から話しておくよ」
「まだ、行くって言ってないぞ」
トーマスはユリアンを見た。
「じゃあ、どうしたい?」
ユリアンは書状の縁を指でなぞった。
ロアーヌを離れる時、モニカは城門まで見送りに来てくれた。
元気で、と言っていた。
自分も、またな、と返した。
あれから何をしているのか、ちゃんと聞いたことはなかった。
「……会って、話を聞きたい」
「うん」
「護衛をやれるかは、その後だ。城の決まりなんて、ろくに知らないし」
「それも、聞いてくればいい」
トーマスは笑った。
「商談と同じだね。引き受ける前に、何を頼まれているのか確かめる」
「最後まで商売の話かよ」
「君も、少し慣れただろう」
「……それは、まあ」
ユリアンも笑い、封書を上着の内側へ入れた。
その動きを見て、ザインが椅子を引いた。
「行くのか」
「ああ。ロアーヌへ」
「なら、俺たちもそこまで行くか」
ユリアンが目を丸くした。
「いいのか?」
「ゴドウィンが逃げた後、どうなったかも聞いてねえ。城の連中に訊くなら、ちょうどいい」
エレナが手帳を閉じる。
「私も、ロアーヌへは行ったことがありません。道中で調べたい場所もありますし、ご一緒してよろしいですか」
「もちろん」
「あたしたちも、モニカ様の顔を見たいしね」
エレンが言った。
サラも頷く。
「元気だといいね」
「だから、病気じゃないって――」
ユリアンは言いかけて、止めた。
「……ああ。そうだな」
入口から、ポールが戻ってきた。
ニーナへ小さく頷いてから、卓の端に座る。
「ロアーヌへ行くんだって?」
「ああ。お前らは?」
「明後日で、今の荷運びは終わる。次はまだ決まってない」
ポールはザインを見た。
「俺たちも、一緒に行っていいか。道中なら、弓も先の道を見るのも役に立てる。城に仕事があるなら、話を聞きたいんだ。今度は、最初に全部話してから」
ニーナが隣へ椅子を寄せた。
「私も、ロアーヌを見てみたい。村の外に出たと思ったら、ずっと荷車と倉庫ばかりだったから」
「俺のせいみたいに言うなよ」
「誰も言ってないでしょ」
エレンが笑った。
ユリアンは二人を見てから、ザインへ目を向ける。
「道は、一緒でいいだろ?」
「互いの荷物を持てるならな」
「持つわよ」
エレンがすぐに答えた。
「お前は、まず歩け」
「分かってる!」
サラが笑い、ニーナも口元を緩めた。
トーマスは卓へ地図を広げた。
「出発する日と、乗り継ぎは確かめておこう。エレンもユリアンも、歩き通しは無理だよ」
「今度は、俺も行き先を知ってるぞ」
ユリアンが言った。
「そうだね」
トーマスは筆を渡した。
ユリアンは少し考え、ロアーヌの名の横へ印をつけた。
その脇へ、明朝、使者に返事、と書き足す。
紙を戻そうとすると、トーマスが首を振った。
「そっちは持っていって。僕には、もう一枚ある」
「……分かった」
ユリアンは地図を折った。
上着の内側では、封書がかすかに音を立てた。
今度は自分で、返事を書かなければならない。