Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound —   作:水城 雅

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第2話 ロアーヌの反乱

 モニカたちが北へ発った後も、軍営では兵の往来が続いていた。

 馬へ鞍を載せる者、矢束を運ぶ者、焚き火のそばで最後の食事をかき込む者。朝の冷たい空気に、革と鉄と煙の匂いが混じっている。

 ザインは本陣の卓へ、小さな革袋を置いた。

「一万オーラム。城を取り戻すまでだな」

「そうだ」

 ミカエルは地図から顔を上げた。

 紫紺の甲冑をまとい、長い金髪を背へ流している。妹を見送った時の表情は、もう残っていなかった。

「前金は三割」

「二割だ」

「昨日から寝てない。少しは考慮しろ」

「君が寝不足なのと、前金の割合に何の関係がある」

 ザインは黙って侯爵を見た。

 ミカエルも目をそらさない。

「……二割五分」

「いいだろう」

 会計官が二千五百オーラムを渡すと、ザインは中身を確かめ、袋を荷物へ収めた。

 モニカを送り届けた千オーラムとは、別の仕事だ。残り七千五百オーラムは、城を奪還してから受け取る。

「それと、命令を一つ」

 ミカエルが言った。

「降伏した兵は殺すな。城へ入ってからも同じだ」

「抵抗した奴は?」

「必要なら戦え。だが、武器を捨てた相手にまで剣を向けるな」

「随分、親切なことだ」

「兵を一人育てるにも、金と時間がかかる」

 ミカエルは地図の上へ駒を置いた。

「従った理由も調べねばならん。自ら加担した者と、脅された者を同じには扱えない」

「戦いながら、そこまで見分けろと?」

「だから、武器を捨てたら拘束しろと言っている」

 ザインは少し笑った。

「なるほど。話が早い」

 天幕の入口で、将校が一礼した。

「全隊、出立の準備が整いました」

 ミカエルが立ち上がる。

「では、取り戻しに行こう」

 ザインは曲刀の鞘を確かめ、その後へ続いた。

*

 ロアーヌ平原へ出ると、遠くに騎兵の旗が見えた。

 先頭の兵が速度を落とし、槍を立てる。後続の歩兵も足を止め、旗の向きを待った。

「ゴドウィンの騎兵か」

 ザインが馬上から尋ねる。

「ラドムの隊だ。こちらの動きを確かめに来たのだろう」

 ミカエルは側近へ使者を出すよう命じた。

「迎え撃たないのか」

「まだ敵とは決まっていない」

 向こうの隊にも、こちらの旗が見えたらしい。

 ほどなく、一騎が列から離れて走ってきた。

 近くで馬を止めた男は、兜を外して頭を下げた。

「ミカエル様。ご無事で何よりです」

「ラドム。城の様子は」

「ゴドウィンが門を押さえました。我らにも、侯爵の命令であるとして、平原の警戒に出るよう伝達が」

「私の命令ではない」

「はい。モニカ様を捕らえろという指示まで届き、疑いを持ちました」

 男の目が、侯爵の背後へ動いた。

「モニカ様は……」

「無事だ。北へ避難させた」

 ラドムが短く息を吐く。

「我が隊をお使いください」

 ミカエルはうなずき、平原の東を指した。

「森から出てきた魔物が、街道へ集まっている。斥候の報告では、ゴブリンの群れだ」

「こちらでも確認しております。指揮を執る大型の個体が一体。数は少なくありません」

「街道を空ける。君の隊は、左の丘を回れ」

 ミカエルが手短に配置を伝えた。ラドムは二度ほど尋ね、頷くと隊へ戻っていく。

 ミカエルはその背を見送り、低く呟いた。

「……兵を集めきる前に動いたか」

 ザインが横を向いた。

「男爵が動くのは、読んでたのか」

「その可能性は考えていた。こちらも備えてはいたが、決起するには、まだ兵が足りないと見ていた」

「自前で揃える前に、お前の兵を使ったわけだ」

「ああ。城内の協力者も、思ったより多かった」

 ザインは侯爵の顔を見た。

「城を空けたのは、誘うためじゃないんだな」

「違う。視察は予定していたものだ。男爵が兵を揃えるまでに、手を打てると考えていた」

「それで、妹まで危うく捕まるところだった」

 ミカエルはすぐには答えなかった。

 城へ続く街道へ目を向ける。

「モニカも、カタリナも危険にさらした。読み違えたのは私だ」

 ザインはしばらく黙っていた。

「……なら、反省は取り戻してからだな」

「……そのつもりだ」

 ミカエルは側近へ向き直った。

「ラドムの隊が丘を回る。歩兵にも合図を伝えろ」

 兵が走っていく。

 ザインも馬を進め、侯爵の隣へ並んだ。

*

 昼前、街道の向こうから太鼓の音が聞こえた。

 ゴブリンが道を埋めていた。

 革や鉄の切れ端を身につけ、小さな盾と槍を握っている。その後方では、ひときわ大きな個体が斧を振り上げ、甲高い声を上げていた。

 群れは散らばっていない。

 前へ出すぎた個体が引き戻され、盾の列が揃えられていく。街道を中心に横へ広がり、ロアーヌ軍を待ち構えていた。

「ただの群れじゃないな」

 ザインが言った。

「ああ。偶然にしては、道を塞ぐ時機がよすぎる」

 ミカエルは街道の両側へ目を向けた。

 右手には、春の雨を含んだ低地が広がっている。左手は緩やかな丘で、その向こうにはまばらな木立が続いていた。

 先に左へ回したラドムの騎兵隊は、ここからは見えない。

「騎兵の合図は?」

「まだです」

 旗手のそばにいた兵が答えた。

 ミカエルはうなずき、歩兵の隊長たちへ指示を伝えた。

「歩兵、前進。左右を広げすぎるな。弓兵は距離を保て」

 旗が上がり、太鼓が鳴った。

 ロアーヌ兵の盾が並ぶ。靴音を揃え、列がゆっくりと前へ出た。

 ザインは馬を預け、歩兵の右翼へ向かった。

 正面で敵を引きつけ、その間に騎兵を背後へ回すつもりだろう。

 問題は、それまで持ちこたえられるかだった。

 最初の矢が飛んだ。

 ゴブリンの盾に矢が突き立ち、何体かが倒れる。だが、後ろの個体がすぐに穴を埋めた。

 長が斧を振り上げる。

 太鼓が速くなり、槍を構えたゴブリンが一斉に駆け出した。

「弓兵、射撃を止めろ!」

「歩兵、受けろ!」

 盾と盾がぶつかった。

 ザインは盾兵のすぐ後ろに立ち、大盾の間から伸びた槍を曲刀で払った。踏み込んできたゴブリンの首筋へ刃を入れ、足元へ潜ろうとした別の一体を柄頭で押し戻す。

 隣の兵が追おうとした。

「追わなくていい。盾の列を離すな」

 兵がうなずき、足を戻した。

 中央では、押し寄せる群れの重みに盾の列がたわんでいた。後列の兵が槍を突き出し、取りつこうとするゴブリンを押し返す。

 ザインが丘を見上げると、ミカエルの旗が動いた。

「歩兵、後退!」

 盾の列が少しずつ下がる。

 中央に合わせ、左右も足を引いた。負傷した兵が後列へ運ばれ、その穴にはすぐ別の兵が入る。

 ゴブリンが勢いづき、さらに押し寄せた。

「あと二歩! 隣を見ろ!」

 隊長の声が響く。

 中央の旗手が、街道脇の白い道標と並んだ。

 そこは道がわずかに盛り上がり、雨水の抜けた硬い砂利が広がっていた。

「止まれ! 盾を寄せろ!」

 兵たちが踏ん張った。

 ゴブリンが再びぶつかる。盾の列が大きく揺れた。

 だが、今度は下がらなかった。

 後方にいた長が、前列のすぐ後ろまで出てきた。斧の柄で仲間の背を叩き、進めとばかりに吠え立てる。

 ザインは再び丘を見た。

 稜線の向こうに、小さな旗が現れていた。

*

 左手から、馬の蹄の音が近づいてきた。

 丘を回り、ゴブリンの後方へ出たラドムの騎兵隊だった。

 ラドムが槍を上げる。

 丘の上で、それに応じてミカエルの旗が振られた。

「歩兵、前進!」

 踏みとどまっていた盾の列が、今度は前へ出る。

 ゴブリンの長が後ろを振り返った。

 蹄の音に気づいた後列が、慌てて盾を向け直そうとする。正面ではロアーヌ兵が押し返し、背後からは騎兵が迫っていた。

 前を向く者と、後ろを向く者。互いの盾がぶつかり、列が乱れる。

 そこへ騎兵が突入した。

 後列の盾が弾かれ、槍が倒れる。逃れようとしたゴブリンが仲間へぶつかり、群れはたちまち混乱した。

「押せ! 離れるな!」

 ロアーヌ軍の隊長が叫ぶ。

 ザインは逃げる個体を追わず、崩れた列の内側へ踏み込んだ。

 ゴブリンの長がいた。仲間を押し戻しながら、なおも大斧を振り上げている。

 ザインが近づくと、長は牙をむき、斧を頭上へ掲げた。

 振り下ろされる刃を横へかわす。

 斧が地面を叩く間に、曲刀を膝の外側へ走らせた。長が片膝をつく。

 それでも、斧は離さなかった。

 低い位置から振り直そうとした柄を、ザインが外へそらす。

 向こうから、一騎が迫っていた。

 ラドムだった。

 低く構えられた槍を見て、ザインは長の脇から身を引いた。

 空いたところへ、穂先が伸びる。

 槍が長の胸を貫いた。

 大きな身体がのけぞり、斧を落とす。ラドムが槍を引くと、長はその場へ崩れ落ちた。

 太鼓の音が途切れた。

 指揮を失ったゴブリンたちは、盾や槍を捨てて逃げ始めた。なお抵抗する個体もいたが、群れの端から次々に列を離れ、丘の向こうの木立へ退いていく。

 ロアーヌ兵が追おうとした。

 すぐに停止の旗が上がる。

「追うな! 街道を押さえろ!」

 ミカエルの命令だった。

 ラドムも騎兵を呼び戻した。

 やがて、街道での抵抗が止んだ。

 道には折れた槍と盾が散らばり、その間に倒れたゴブリンが横たわっていた。

*

 ザインは刃を拭い、侯爵のそばへ戻った。

 後方では負傷者の手当てが始まっている。兵たちは盾や槍を確かめ、隊長の指示で列を整え直していた。

「騎兵が出るまで、押し切る気はなかったんだな」

「歩兵だけで押し切る必要はない。街道が空けば、それでいい」

 ミカエルが答えた。

「城までは、まだ先がある」

 ザインは、白い道標の立つ場所へ目を向けた。

「よく、あそこで止めたな」

「下がる歩数は、先に伝えてあった。あの石を目印に列を揃え、騎兵を待てと」

「だから、誰も走らなかったのか」

「退く理由が分からなければ、兵は不安になる。何のために下がるのかも話してある」

 中央にいた兵が、水筒を両手で持っていた。指が震え、口へ運ぶ前に少し水をこぼす。

 それでも、隊長に呼ばれると水筒をしまい、隣の兵と位置を確かめながら列へ戻っていった。

 ザインは曲刀を鞘へ収めた。

「……大したもんだ」

「まだ、城へは着いていないぞ」

 ミカエルは街道の先へ目を向けた。

 負傷者を荷車へ乗せ、前列の兵を入れ替える。騎兵が馬に水を与え終えると、軍は再び進み始めた。

*

午後、ロアーヌの城壁が見える場所で、ゴドウィン軍と向かい合った。

 今度は、人間の兵だった。

 同じロアーヌの装備を身につけ、違う旗の下で槍を構えている。中央には盾と槍が幾重にも並び、その後ろに弓兵が控えていた。

 相手の中央で、白髪の混じった男が馬を進めた。

 前へ出すぎた兵を下がらせ、左右の旗へ腕を振る。乱れていた槍の列が、少しずつ揃っていった。

「ゴドウィンか」

「ああ」

 ミカエルは馬を止めた。

「長く軍を率いてきた男だ。戦い方を知らぬ相手ではない」

「それでも、勝てるんだろ」

「勝つ。そのために、君にも働いてもらう」

 ザインは両軍の間へ目を向けた。

 街道の左には雑木林が迫り、右には昨夜の雨でぬかるんだ窪地が広がっている。

 まとまった兵を動かせるのは、街道と、その両脇の乾いた地面くらいだった。

 ラドムの騎兵は後方に控えている。午前のように、敵の背後へ大きく回り込むことは難しい。

 ミカエルは歩兵の配置を確かめた。

 中央には盾兵と槍兵。左翼は林の縁に寄せ、横から回り込まれないようにする。

 右翼はやや薄かった。

 その後ろ、中央寄りの斜面の陰には、一隊が控えている。

 ミカエルは右翼の隊長を呼んだ。

「押し合いになったら、列を保って下がれ。走るな。窪地へも入るな」

「どこまで下がりますか」

「斜面の裾までだ。合図までは押し返すな」

 隊長は位置を確かめ、うなずいた。

 次に、ミカエルがザインを見る。

「君は予備隊と待て。相手の左翼が前へ伸びたところを、内側から叩く」

「中央との間へ入るんだな」

「ああ。早く動けば、向こうも止まる。合図までは出るな」

 こちらの右翼が下がれば、敵の左翼はそれを追って中央より前へ出る。

 外側にはぬかるみがある。敵が乾いた足場を選ぶほど、その列は街道沿いに長く伸びるはずだった。

「右翼が耐えられるか」

「そのために、隊を選んだ」

 ミカエルの声に迷いはなかった。

 ザインはそれ以上聞かず、斜面の陰へ向かった。

 やがて、使者が両軍の間へ進み出た。

「ロアーヌ侯ミカエル様より告げる! 武器を置き、投降せよ! 降った兵の命は保障する。負傷した者も収容する!」

 ゴドウィン軍の列で、いくつかの顔が上がった。

 だが、槍は下がらない。

 ゴドウィンが腕を振ると、隊長たちの怒声が響いた。兵は再び盾を構える。

 使者が戻ってきた。

「投降するおつもりはないようです」

「分かった。下がっていろ」

 男爵の旗が前へ傾いた。

 敵の弓兵が矢をつがえる。

「全隊、盾!」

 号令が列を伝わった。

 矢が降り、盾と地面を叩く。

 ザインは予備隊の盾兵の陰で身を低くした。すぐ前の盾に矢が突き立ち、その腕がわずかに沈む。

 味方の弓兵も矢を返した。

 短い射合いの後、敵の槍兵が進み始める。

 やがて、両軍の盾がぶつかった。

*

 木と鉄が軋んだ。

 中央では、盾と槍が押し合っている。

 左翼も林の縁を離れず、敵を受け止めていた。

 こちらの右翼だけが、少しずつ下がっていた。

 ゴドウィン軍の左翼が追う。

 男爵は馬上でその動きを見ていた。兵がぬかるみへ広がりかけると、すぐに旗を振って乾いた地面へ戻させる。

「……ぬかるみには、踏み込まないか」

 ザインが呟いた。

 ゴドウィンは地形をよく見ている。窪地へ兵を踏み込ませるつもりはないらしい。

 だが、その分、敵の列は街道沿いに長く伸び始めた。

 味方の右翼で、一人の兵が膝をついた。

 後列の兵が駆け寄り、負傷者を引きずり出す。その穴には、すぐ別の兵が入った。

 ザインは曲刀の柄へ手を置いた。

 右翼が退いているのは、命令どおりだった。

 傷を負っているのも、本当だった。

 待つほど、負傷者は増える。

 それでも、ミカエルの旗は動かない。

 ゴドウィンのもとへ伝令が駆け寄った。

 男爵は報告を聞き、こちらの右翼と中央を見比べた。

 やがて、後方に控えていた一隊を左翼へ向かわせる。

「増やしてきたぞ」

「ああ。だが、まだだ」

 ミカエルは動かなかった。

 敵の増援が前線へ続く。

 右翼を追う先頭と、その後ろから続く兵。列はさらに長く伸び、中央との間にも隙間が生まれ始めた。

 敵の隊長が振り返り、兵の位置を揃えようとしている。

 ミカエルが手を上げた。

「右翼、止まれ。予備隊、前へ!」

 旗が振られた。

 ザインは斜面の陰から駆け下りた。

 背後には、まだ戦っていない兵たちが続く。

「走りすぎるな! 列を崩すな!」

 味方中央の右端を抜ける。

 そこから、敵の左翼が見えた。

 敵兵は皆、味方右翼へ盾を向けている。こちらから見えるのは、槍を構えた正面ではなく、その横腹だった。

「なるほど。ここを叩くのか」

 ザインは曲刀を抜いた。

「俺についてこい!」

 敵の隊長が気づいた。

「右だ! 盾を向けろ!」

 反応は早かった。

 近くの兵が向きを変え、槍を突き出してくる。

 ザインは穂先を曲刀で払い、隣の盾兵とともに踏み込んだ。

 盾がぶつかり、激しい音が響く。

 だが、一度では崩せなかった。

 敵も踏みとどまり、後列から兵が加わる。槍が盾の上を越え、味方の兵が一人、腕を押さえて下がった。

「押し返せ! 横を抜かせるな!」

 敵の隊長が声を張る。

 側面を守ろうと、さらに兵が向きを変えた。

 その分だけ、味方右翼に向けられていた盾が減っていく。

 ミカエルの二度目の旗が振られた。

「右翼、前進!」

 退き続けていた右翼が、一斉に押し返した。

 敵兵が慌てて正面へ盾を戻す。

 すると今度は、ザインたちが側面から踏み込んだ。

 正面を守れば横を突かれ、横を守れば正面を押される。

 敵の隊長が号令を飛ばすが、二方向から押される隊列を立て直せない。

 後退した兵が窪地の縁で足を滑らせ、隣の盾へぶつかった。支えようとした後列の兵も、ぬかるみに足を取られる。

「押せ!」

 ザインは味方の盾兵に並んで踏み込んだ。

 敵の列が傾いた。

*

 ゴドウィンは中央から兵を回そうとした。

 だが、その前でミカエルの旗が上がった。

「中央、前へ。列を崩すな!」

 ロアーヌ軍の槍兵が進む。

 敵の中央も受け止めたが、そこを薄くすれば突破される。左翼へ向かいかけた兵は、すぐに呼び戻された。

 ゴドウィンが別の旗へ腕を振った。

 前へ出すぎた左翼に、撤退を命じる合図だった。

「下がれ! 中央へ戻るぞ!」

 敵の隊長が叫ぶ。

 命令は届いていた。

 だが、兵はすぐには動けなかった。

 正面と横から押され、後ろには増援の兵が詰まっている。前列が退こうとするたび、後列へぶつかった。

「道を空けろ!」

「前が退いてくるぞ!」

 怒声が重なる。

 ザインの前で、若い兵が槍を落とした。

 足元には、腿を押さえて動けない男がいた。若い兵はその肩を抱き、盾だけをこちらへ向けている。

 こちらと戦うつもりは、もうないらしい。

「……本当に、殺さねえんだな」

 ザインは曲刀を止めた。

「盾も置け」

 兵がためらう。

「そいつを運ぶんだろ。片手じゃ無理だ」

 若い兵はゆっくりと盾を下ろした。

 ザインは隣の盾兵へ目を向ける。兵がうなずき、まだ槍を構えている敵の方へ盾を寄せた。

「二人、引き取れ。怪我人がいる」

 後ろの兵へ声をかけた。

 若い兵は仲間を持ち上げようとしたが、うまくいかない。

 ロアーヌ兵の一人が、もう片方の肩を担いだ。

 もう一人が先へ立ち、二人を後方へ連れていく。

 その背に、刃を向ける者はいなかった。

 近くで戦っていた敵兵が、その様子を見ていた。

「投降する者は武器を置け!」

 ザインの後ろで、隊長が叫ぶ。

「侯爵様の命令だ。降った者には手を出さん!」

 槍が、もう一本落ちた。次に、盾も落ちた。

「勝手に下がるな!」

 ゴドウィン方の隊長が怒鳴った。

 その声に従い、槍を構え直す兵もいた。

 だが、彼らが振り返った先に、援軍の姿はない。

 中央もまた、ロアーヌ軍に押されていた。

 ザインは剣を構えたまま、前へ進むのを止めた。

「武器を置くなら、追わん」

 なお抵抗する兵もいた。ザインは伸びてきた槍を払い、盾兵とともに押し返す。

 だが、戦列から抜ける者は少しずつ増えていった。

 残された兵の間隔が広がり、やがて一つの旗が下がった。

 敵の左翼が、崩れ始めた。

*

 ゴドウィンは左翼を見た。

 救援に回せる兵は、もう中央から抜けなかった。

 左翼の崩れを見た弓兵が下がり始める。中央の槍兵はまだ踏みとどまっていたが、このままでは側面へもロアーヌ軍が回り込む。

 男爵が腕を振った。

 退却の旗が上がる。

 側近の騎兵が集まり、中央の一隊が盾を揃えて後退を始めた。その陰で、ゴドウィンが馬首を返す。

 城へ向かって、馬が走り出した。

「男爵が逃げるぞ!」

 味方の兵が叫んだ。

 ラドムの騎兵が、街道へ進み出ようとしている。

 だが、ミカエルは城壁を見た。

 上には人影が増え、開いた城門へ敗走する兵が集まり始めていた。

「ラドム、そこまでだ! 城壁の下へ入るな!」

 停止の旗が上がる。

 ラドムが槍を立て、騎兵を止めた。

 追いかけようとする歩兵にも、命令が伝わる。

「列を崩すな! 城門まで追うな!」

 ザインは、遠ざかっていく男爵の騎兵を見た。

 その後ろでは、一隊がなおも盾を揃え、城門へ逃げ込む仲間を守りながら後退している。

 追えば、あの隊と城壁の両方を相手にすることになる。

 ザインは曲刀を下ろした。

「街道を押さえろ。投降兵は武器を集めて後方へ。負傷者は敵味方を問わず運べ!」

 ミカエルの命令が届いた。

 兵たちが動き出す。

 ザインの周囲では、武器を置いた兵が座り込んでいた。兜を脱いだ顔は、どれも汗と土に汚れている。

 少し離れたところで、さっきの若い兵が、負傷した仲間のそばへ膝をついていた。

 手当ての布を渡され、何度もうなずいている。

 街道の向こうから、ミカエルが馬を寄せた。

「よく押さえた」

「右翼の連中に言ってやれ。あそこが崩れたら、俺も横から入れなかった」

 ミカエルは、斜面の裾で息を整える兵たちを見た。

「ああ。私から伝える」

 ザインは城門へ目を向けた。

 最後の騎兵が、その中へ消えていく。

「男爵は取り逃がしたな」

「まだ城の中だ」

 ミカエルは馬上で向き直った。

 街道に残る男爵の旗は、もうなかった。

「兵を整える。次は、あの門だ」

*

 日が傾く頃には、城へ続く街道をロアーヌ軍が押さえていた。

 ミカエルは城壁から距離を取り、軍を休ませた。正門と通用路へ見張りを送り、残りの兵には食事を取らせる。

 捕虜から武器を集め、隊ごとに人数を確かめる作業は、暗くなっても続いていた。

 篝火のそばでは、負傷者の手当てが進んでいる。

 ミカエルは右翼を率いた隊長を呼び、しばらく話していた。やがて隊長とともに兵の間を歩き、一人ずつ顔を確かめていく。

 ザインはそれを横目で見ながら、硬いパンを噛んだ。

 城門は閉じたままだった。

 壁の上にも灯がある。あの向こうに、男爵がいる。モニカを逃がした女剣士も、まだ城のどこかにいるはずだった。

 今は、こちらから見えることが少なすぎる。

 食事を終えると、ザインは曲刀を手の届くところへ置き、荷袋を枕に横になった。

 兵の足音と、低く交わされる声が聞こえる。

 目を閉じると、盾のぶつかる音がまだ耳の奥に残っていた。

 城を取り戻すまでの仕事だ。

 明日も働くなら、今のうちに眠っておくしかなかった。

*

 ザインが起こされたのは、空の端が白み始めた頃だった。

「城内から、人が出てきました」

 ザインが身を起こすと、将校に連れられて、一人の女が本陣へ入ってきた。

 淡い紫を帯びた長い銀髪を後ろでまとめ、菫色のドレスを着ている。黒い手袋には土がつき、袖口が裂けていた。腰には、鞘へ収めた細剣がある。

 ミカエルが立ち上がった。

「カタリナ」

「ミカエル様。お戻りをお待ちしておりました」

 彼女は膝を折りかけたが、侯爵が手を上げた。

「礼はいい。モニカは無事だ」

 細剣の柄へ添えられていた指から、力が抜けた。

 カタリナは一度、目を伏せた。

「……ありがとうございます」

 声を整えるのに、ほんの少し時間がかかった。

「君は、どうしていた」

「モニカ様を逃がした後、捕らえられました。マスカレイドは、先に隠しておきましたので」

 カタリナは腰のマスカレイドへ手を添えた。

「幸い、城内にはミカエル様への忠誠を捨てなかった衛兵もおります。その一人が、牢の鍵を届けてくれました」

「すぐに逃げなかったのか」

「城内の警戒が厳しく、動けば協力者まで疑われかねませんでしたので」

 野戦に敗れた兵が戻ってからは、城内が混乱し、見張りの交代も乱れた。その隙に牢を抜け出し、隠しておいたマスカレイドを取り戻したという。

「ゴドウィンは、まだ城にいるか」

「玉座の間に。ですが、気になるものを連れ込んでいます」

「何だ」

「悪魔系の魔物です。兵舎の廊下を通る姿を見ました。人の言葉で、兵に道を空けさせていました」

 ミカエルの表情が変わった。

 ザインも荷袋から手を離す。

「平原のゴブリンだけじゃなかったか」

「あれを放置して、城は取り戻せんな」

 侯爵は地図を引き寄せた。

 カタリナが東側の通用門を指す。

「ここを守る衛兵とは、連絡がついています。まだミカエル様に従う者たちです。合図をすれば、内側から開けられます」

「人数は」

「多くありません。門を開けたと知られれば、すぐに兵が集まってきます」

「正門へ圧力をかける。その間に、東から入る」

 ミカエルは将校を呼び、配置を伝えた。正門へ向かう隊と、東の通用門へ続く隊。指示を受けた将校たちが、次々と天幕を出ていく。

カタリナは一瞬だけ侯爵を見た。

「こちらの方は?」

「ザイン・アル=ラシード。モニカをここまで送った剣士だ。今は城の奪還に協力してもらっている」

 彼女がザインへ向き直る。

「カタリナ・ラウランです。モニカ様を助けていただき、ありがとうございました」

 改めて頭を下げられ、ザインは荷紐を締め直した。

「無事に着いた。それでいい」

 ザインは立ち上がり、カタリナの腰へ目を向けた。

 細い鞘の上で、紫の宝石をあしらった鍔が朝の薄明かりを返していた。

「それが、噂のマスカレイドか」

「ご存じなのですか?」

「名だけは。随分、細いな」

「見た目だけで、お決めにならない方がよろしいかと」

 落ち着いた返事だった。

 ザインは彼女へ視線を戻した。

「なら、働くところを見せてもらう」

「そちらも、お願いできますね」

「金はもらってる」

ミカエルが卓を離れた。

「行くぞ」

*

 正門の前で太鼓が鳴り、ロアーヌ軍の盾が並び始めた。

 城壁の上で兵が走る。旗と槍が正門側へ集まり、弓兵がこちらの動きをうかがっていた。

 東の通用門が、細く開いた。

 カタリナが駆け寄り、身体を横にして隙間を抜ける。内側の衛兵とともに扉を引くと、ザインも外から肩を当てた。

 歪んだ蝶番が鳴った。

 隙間が少しずつ広がっていく。

 その時、門番詰所から反乱兵が駆け出した。

「何をしている!」

 槍が、開きかけた門の間へ突き込まれる。

 ザインは肩を離し、曲刀を抜きながら身をかわした。突き出された穂先を、足元へ払う。

「今、忙しいんだ」

 槍の柄を踏みつけ、引き戻そうとした兵の腕へ柄頭を叩き込んだ。

 兵が武器を放す。

 内側から回り込んだカタリナがその腕を取り、門脇の地面へ引き倒した。衛兵がすぐに取り押さえる。

 ザインは再び門へ肩を当てた。

 蝶番が軋み、ようやく兵が並んで通れるだけの幅が開く。

「城の手入れくらい、しておけ」

「その苦情は、ミカエル様へ」

「追加料金もか?」

「苦情だけです」

 ロアーヌの兵が二人の横を通り、城内へ入った。

 中庭へ進んだミカエルは、すぐに隊を分けた。兵舎と武器庫へ兵を送り、抵抗する者には投降を呼びかけさせる。

 侯爵の旗を見て、武器を下ろす者もいた。

 それでも、すべてが止まったわけではない。建物の陰から怒声が上がり、剣のぶつかる音が続いていた。

 ザインとカタリナは、兵を数人連れ、広間へ続く階段を先に上った。

 踊り場で、反乱兵が長剣を抜く。

 カタリナが半歩、身を引いた。

 刃が衣の前を通り過ぎる。その腕が伸びきったところへ細剣の鍔を当て、手首を外へ押さえる。

 空いた胸元へ、ザインが肩を入れた。

 兵が壁へぶつかり、剣を落とす。

 後続の兵へ拘束を任せ、二人は先へ進んだ。

「器用だな」

「ありがとうございます」

「ああいう崩し方もあるんだな」

「力で押し切るのは、あまり得意ではありませんので」 

廊下の先で、重いものが倒れる音がした。

 続いて、低い笑い声。

 人の声に似ていたが、胸の奥へ響くような濁りがある。

 ザインは足を止めた。

 背後から、ミカエルが来る。

「兵舎は押さえた。武器庫からも投降が出ている」

 カタリナが廊下の奥へ目を向けた。

「この先が、玉座の間です」

 重い扉は閉じていた。その向こうで、何かが床を擦る音がする。

 ミカエルは兵の一人から盾を受け取り、左腕へ通した。

「廊下と階段を確保しろ。使用人は中庭へ誘導する。魔物が出たら、無理に突っ込むな」

 兵が配置につく。

 三人は、扉を開いた。

*

 ゴドウィンは、玉座の前に立っていた。

 野戦に敗れた時と同じ衣装のまま、剣を握っている。周囲の側近は、こちらを見るなり一歩下がった。

 その背後に、魔物がいた。

 人間の倍近い巨体が玉座に腰を据え、肘掛けへ片腕を預けている。太い角と、口からのぞく牙。厚い胸と肩には古い鎧が食い込み、赤黒い指が肘掛けの紋様をなぞっていた。

 悪鬼。

 まるで、自分のために用意された席であるかのように、魔物は三人を見下ろしていた。

 赤い目がミカエルへ向き、口が歪む。

「これが、城の主か」

「ゴドウィン。兵は投降し始めている。剣を捨てろ」

 ミカエルは魔物から目を離さずに言った。

「お前に命じられる筋合いはない」

 男爵の声は硬かった。

「先代から、この国を支えてきたのは誰だ。何もかも変えてよいと思うな」

 ゴドウィンは玉座へ目を向けた。

 そこには、自分が招き入れた悪鬼が座っていた。

 男爵はすぐに視線を戻した。

「だから、城を奪い、妹を捕らえようとしたのか」

「お前が聞こうとしないからだ!」

 ゴドウィンが剣を上げた。

 だが、自分では踏み込まない。

「奴を殺せ」

 悪鬼は動かなかった。

 玉座の背へ身体を預けたまま、肘掛けを太い指で叩く。

「この玉座、聖王の重臣フェルディナントがあつらえた物だな。なかなか座り心地がいい」

 ミカエルの目が細まった。

「……その由来を、誰から聞いた」

「お前の問いに答えるつもりはない。この城に詳しいのが、自分だけだと思ったか?」

 悪鬼が牙を見せる。

 ミカエルはエストックを抜いた。

「まず、そこからどいてもらおう。ロアーヌの栄光ある玉座を、貴様にけがさせるつもりはない」

「お前の力で、オレをどかせるかな?」

 ザインが、侯爵の前へ半歩出た。

「ここへ出す。二人とも、少し下がれ」

 玉座の段から距離を取り、広間の右手へ移る。

 カタリナが右後方へ、ミカエルが左後方へ回った。ザインを先頭に、二人が左右から支える形になる。

 クローズデルタ。

「正面は俺が取る。奴が片方へ向いたら、もう片方が入れ」

「承知しました」

 カタリナが細剣を構えた。

「無理に受け止めるな。あれは重い」

 ミカエルが言った。

「見れば分かる」

 悪鬼は三人を見比べ、ゆっくりと玉座から立ち上がった。

「三人まとめて、潰してやろう」

 巨体が段を下り、深く膝を曲げる。

 ザインはその肩の動きを見ていた。

 次の瞬間、悪鬼が床を蹴った。

 《ぶちかまし》。

 巨体が石床を震わせながら迫る。

「左右へ!」

 ザインが叫んだ。

 三人が散る。ザインは目前に迫った肩をかわし、追って伸びた腕を曲刀で払った。

 刀身が鳴り、掌が痺れる。

 勢いを止められなかった悪鬼が、背後の柱へ激突した。石が砕け、白い粉が舞う。

 腕を払っただけで、この重さか。

 まともに受ければ、剣ごと押し潰されていただろう。

「よく、かわす」

 悪鬼が笑った。

 ザインは返事をせず、柱から離れようとする巨体へ踏み込んだ。

 低い位置から曲刀を振り上げる。

 《デミルーン》。

 三日月の軌跡が脇腹を裂き、黒ずんだ血が散った。

 だが、悪鬼は怯まない。

 太い腕が振り下ろされる。

 ザインが身を沈めると、拳は背後の壁を砕いた。

 その隙に、ミカエルが横から踏み込んだ。

 エストックが肘の内側を突く。

 悪鬼が振り向く。ミカエルは拳を盾で受け流し、すぐに間合いを外した。

 さらに蹴りが飛ぶ。

 侯爵は半歩退き、引き戻される膝裏へ切っ先を通した。

 悪鬼の脚が沈む。

 低くなった首へ、カタリナの細剣が走った。

 刃は首筋を裂いたが、深くは入らない。

 カタリナは追撃せず、すぐに距離を取った。

 ザインはミカエルへ目を向けた。

 盾を構え直した侯爵の切っ先は、少しも揺れていなかった。

「剣も、使えるんだな」

「抜いただけだと思っていたのか。それより前を見ろ」

 悪鬼が踏み込んだ。

 今度はザインを狙うと見せて、途中で身体をひねる。

 標的はカタリナだった。

 彼女は拳を横へかわしたが、魔物はさらに追ってくる。菫色の裾を翻しながら、カタリナは大きく間合いを取った。

「ミカエル様。少し、間を」

「作る」

 侯爵が即座に答えた。

 ザインが前へ出て、悪鬼の胸へ切っ先を突き出す。

 魔物がそれを払い、こちらへ顔を向けた。

 その横から、ミカエルのエストックが目元へ伸びる。

 悪鬼が腕を上げて顔を守った。

 カタリナは、細剣を胸の前へ掲げた。

「――目覚めよ」

 《ウェイクアップ》。

 鍔に埋め込まれた紫の宝石が、淡い光を放った。

 細い刀身の輪郭が揺らぐ。

 刃が伸び、幅を増し、優美な細剣が一振りの大剣へ姿を変えていく。

 ザインは思わず目を見開いた。

 持ち替えたわけではない。

 同じ剣が、まったく別の姿になっていた。

 カタリナは柄を両手で握り、切っ先を下げる。

 悪鬼が彼女を見た。

「その剣……」

 声から笑いが消えた。

 魔物が腕を振り上げる。

 カタリナは、その内側へ踏み込んだ。

 《ムーランルージュ》。

 身体の回転に乗せた大剣が、赤い弧を描いた。

 刃が脇から肩へ斬り上がり、古い鎧を割る。厚い皮膚が裂け、悪鬼の巨体が大きくよろめいた。

 背中が柱へぶつかり、石の粉が落ちる。

 悪鬼は傷口を押さえ、カタリナの剣を睨んだ。

 彼女も大剣を引き戻し、短く息を整えた。

*

 ゴドウィンの顔から血の気が引いていた。

 男爵は玉座の背後にある小さな扉へ目を向けた。私室へ続く扉だった。

 側近へ何かを告げ、少しずつ後ずさる。

 ミカエルが気づいた。

「男爵を追え! 玉座の奥だ!」

 入口に控えていた兵が動いた。

 ゴドウィンは身を翻し、側近とともに扉の向こうへ消えた。

 ザインも追おうとしたが、悪鬼が腕を振った。

 近くの長椅子が砕け、木片が入口へ飛ぶ。兵たちが身を伏せた。

「こいつを先に倒す!」

 ミカエルが叫んだ。

「広間から出すな。男爵は兵に任せる!」

 ザインは悪鬼へ向き直った。

「雇い主は逃げたぞ」

「あの男なぞ、どうでもいい」

 悪鬼は牙をむいた。

「お前たちが死ねば、この城は空く」

 傷を負いながらも、その巨体にはまだ力が残っていた。

 赤い目が、入口の大扉へ向く。

 廊下の先では、使用人を避難させる兵の声が聞こえていた。

 悪鬼が低く身を沈める。

 ザインは進路へ出た。

 正面から受け止めるつもりはない。

 踏み出そうとする魔物の目元へ、曲刀の切っ先を突き出す。

 悪鬼が顔を引き、腕で払おうとした。

 ザインは横へ抜ける。

「脚!」

 ミカエルが踏み込んだ。

 傷ついた膝裏へエストックが深く入る。

 巨体が沈んだ。

 だが、悪鬼は拳を振り抜いた。

 ザインは身をひねった。拳が左肩をかすめ、外套が裂ける。

 熱い痛みが走る。

 それでも足は止めなかった。

 振り抜かれた腕の下へ踏み込み、曲刀を返す。

 《デミルーン》。

 三日月の刃が、カタリナの開いた傷へ重なった。

 悪鬼が吠え、胸をかばおうとする。

 その腕を、ミカエルのエストックが突き上げた。

 胸元が開く。

 カタリナは迷わず踏み込んだ。

 マスカレイドが、再び赤い弧を描く。

 《ムーランルージュ》。

 裂けた鎧の間を、大剣が通り抜けた。

 悪鬼の口から、掠れた息が漏れる。

 太い腕が垂れた。

 巨体は膝から崩れ、石床へ倒れ込んだ。

 重い音が、広間に響いた。

 三人は、すぐには剣を下ろさなかった。

 悪鬼の指が一度だけ動く。

 それきりだった。

 ザインが深く息を吐いた。

「……終わりだ」

 カタリナが大剣を下げる。

 刀身の輪郭が静かに細くなり、マスカレイドは元の細剣へ戻っていった。

 彼女は血を拭い、鞘へ収めた。

「見た目だけで決めるな、だったな」

 ザインが言った。

「ご納得いただけましたか」

「ああ十分だ」

 ミカエルが盾を下ろした。

 玉座の奥の扉から、兵が一人、息を切らして戻ってくる。

「ゴドウィンはどこだ」

「私室の奥から、旧通路へ逃げ込んでいます。追っておりますが、まだ姿を確認できておりません」

 カタリナが眉を寄せた。

「あそこは、石壁で塞いであったはずですが」

「取り除かれていました。通路には支え木も組まれています。今朝、慌てて開けたものには見えません」

 ミカエルは一瞬、口を閉じた。

「外の出口へ騎兵を回せ。男爵領へ続く道にも見張りを出せ」

 兵が駆けていく。

 ザインは、玉座の奥の扉へ目を向けた。

「逃げ道まで、先に用意してたか」

「城内に、手を貸した者がいる。そちらも調べる」

 ミカエルは将校を呼び寄せた。

「町の門と街道へ知らせろ。側近の人数と服装を確認し、追跡隊へ伝えろ。通路には城の構造に詳しい者をつける。むやみに兵を奥へ入れるな」

「はっ!」

「玉座の間は奪還した。全隊へ知らせろ」

 将校が走り去った。

 ザインは開いたままの扉を見る。

「城まで捨てていったか」

「追跡は続ける」

 ミカエルは玉座へ目を向けた。

 肘掛けには、舞い落ちた石の粉が薄く積もっていた。だが、刻まれた紋様にも、背もたれにも傷はない。

 段を上り、片手で粉を払う。

 それから、座ることなく兵たちへ向き直った。

「負傷者の手当てを急げ。城内に取り残された者も捜せ」

*

 朝の光が、中庭へ届いていた。

 投降した兵が武器を積み、負傷者が順に運ばれてくる。使用人たちは、湯と布を持って走り回っていた。

 城壁にも門にも傷が残った。

 野戦で倒れた者もいる。城へ戻れた兵の全員が、無事だったわけではない。

 それでも、町へ戦火が広がる前に、城内の抵抗は収まった。

 カタリナは中庭で手当てを手伝っていた。

 兵へ布を渡し終えたところへ、ミカエルが来る。

「休め。牢を出てから、動き続けているだろう」

「私は、牢で待っていた時間もあります」

「休んだうちには入らん」

 カタリナは手袋についた血を見た。

「……もう少しだけ。こちらが済みましたら」

 ミカエルは何か言いかけ、口を閉じた。

 彼女の肩と、裂けた袖へ目を移す。

「無事でよかった」

 カタリナの手が止まった。

「モニカ様にも、そうお伝えください」

「君のことを言っている」

 彼女は顔を上げた。

 ミカエルは既に、負傷者を運ぶ兵へ目を向けていた。

「……ありがとうございます」

 小さな返事だった。

 侯爵はうなずき、会計官のいる棟へ歩いていった。

 カタリナはしばらくその背を見送った後、腰のマスカレイドに触れた。

 それから、兵へ渡す布をもう一枚手に取った。

*

 昼、ポドールイへ使者が出された。

 反乱が鎮圧され、兄とカタリナも無事であることを、モニカへ知らせるためだった。

 ゴドウィンの行方は、まだ分かっていなかった。城の外へ抜ける古い通路が見つかり、追跡隊は街道へ出ていた。

 ザインは城の階段に座り、手当てされた左肩を軽く回した。

 擦れたところがひりつく。

 腕を上げ下げしてから、裂けた外套の肩口へ目を落とした。

 その膝へ、革袋が置かれる。

「残り七千五百オーラムだ」

 ミカエルが言った。

 ザインは袋の口を開け、中身を確かめる。

「男爵は逃げたが、城は取り戻した」

「その契約だった。減らすつもりはない」

「話が分かるな」

 数え終えると、ザインは袋を閉じた。

 カタリナが隣に立っていた。

「怪我はいかがですか」

「腕は動く。外套は繕わんといかんが」

「正面を引き受けていただいて、助かりました」

「そっちも、腕が立つな」

カタリナが少し目を見開いた。

「ありがとうございます」

「剣に振り回されてない。あれだけの得物を、よく使ってる」

「長い付き合いですから」

「そうか。なら、剣より使い手を褒めるべきだったな」

 ザインは荷袋へ報酬を収め、ミカエルを見上げた。

「追加料金」

 侯爵の眉が動いた。

「何のだ」

「東の門を押した。こいつが、お前に言えと」

「苦情を、と申し上げました」

 カタリナがすぐに訂正した。

「五十オーラム」

「値段をつけないでください」

 ミカエルは二人を見ていたが、やがて口元を緩めた。

「門を開けるのは、城の奪還に必要な仕事だったな」

「ああ」

「その仕事には、一万オーラム払った」

 ザインは口を閉じた。

「……そういう言い方もある」

「契約は確認したのだろう」

 カタリナが横を向いた。肩が、少し揺れている。

 ザインは侯爵を睨んだ。

「お前、結構性格悪いな」

「約束した金額は払ったぞ」

「そこじゃない」

 ミカエルは笑った。

 階段の下で、兵が侯爵を呼んだ。捕虜の名簿が揃ったらしい。

 ミカエルの表情が戻る。

「行かねばならん」

「妹を迎えには行かないのか」

 ザインが尋ねた。

「まだ離れられない。投降兵の扱いと、町への説明が残っている」

 侯爵は中庭を見渡した。

 怪我人を運ぶ兵。壊れた扉を調べる職人。主人の戻った城で、いつもの仕事を取り戻そうとする使用人たち。

「城を取り戻しただけで、終わりにはできん」

 ザインは荷袋へ目を落とした。

「偉い奴は、大変だな」

「君は、これからどうする」

「ピドナへ行く。しばらく、あそこで腰を落ち着ける」

「次の仕事を探すのか」

「ああ。だが、その前に寝る。寝床と飯代は、今もらった」

 ミカエルがわずかに笑った。

「なら、今夜は城で休んでいけ。部屋を用意させる」

「使わせてもらう」

 侯爵はうなずき、カタリナを伴って階段を下りていった。

 途中で立ち止まり、ザインを振り返る。

「助かった。妹のことも、今日のことも」

「受け取った金の働きをしただけだ」

 侯爵は兵の待つ方へ歩いていった。

 ザインは荷袋を右肩へ掛け、立ち上がった。

 城の外へ出ると、町では店の戸が開き始めていた。市場へ向かう荷車が、壊れた石を避けて進んでいく。

 今夜は城で眠り、明日ピドナへ向かおう。

 宿を取り、外套を繕い、足りない道具を買い足す。次の仕事を探すのは、それからでいい。

 道の先から、肉を焼く匂いが流れてきた。

 まずは、食事だ。

 今度は注文する前に、値段を聞くことにした。

*

 翌日の夕方、ポドールイからの一行がロアーヌへ戻った時には、ザインはもう城を発っていた。

 城門には修繕の足場が組まれ、中庭には新しい板や石材が運び込まれている。兵の数は多かったが、槍を突きつけてくる者はいなかった。

 階段の上にカタリナの姿を見つけると、モニカは足を速めた。

「カタリナ!」

 駆け寄った彼女を、カタリナが迎える。

「お帰りなさいませ、モニカ様」

 その袖には、新しく縫い直した跡があった。

 モニカはそれを見てから顔を上げ、何か言おうとした。けれど言葉にならず、そのままカタリナへ抱きついた。

 少し離れたところで、ミカエルが足を止めた。

 妹と目が合うと、静かにうなずく。

 ユリアンは階段の下で、その様子を見ていた。

 ようやく、送り届けた。

 肩から力が抜けると、長く歩いた足の重さが戻ってきた。

「そういえば、ザインは?」

 エレンが尋ねた。

 ミカエルが五人へ歩み寄る。

「今朝、出発した。ピドナに行くと言っていたな」

「もう出て行ったの?」

 エレンは少し驚いた顔をした。

「もう一度くらい、顔を見てから別れると思ってたんだけど……」

「また会うこともあるだろう」

 ミカエルはそう答え、一人ずつ顔を見た。

「妹の護衛、ご苦労だった。まずは休め。話は、それから聞こう」

*

 帰還から二日後、シノンの四人はロアーヌの酒場で卓を囲んでいた。

 城で手当てを受け、十分に眠ると、ようやく身体が普段の調子を取り戻し始めていた。ユリアンの脇腹も、椅子から立つたびに顔をしかめるほどではなくなっている。

 エレンが空になった皿を脇へ寄せた。

「そろそろ、シノンへ帰ろうか。家のことも気になるし」

 サラがうなずきかけた時、トーマスが杯を置いた。

「僕は、ピドナへ行くことになった」

「ピドナ?」

 エレンが顔を上げる。

「祖父から、向こうで勉強してくるように言われていたんだ。親戚にも話を通してある。反乱で出発が延びてしまったけど、もう行けるから」

「勉強って、何の?」

「商売や、町の仕組み。それに、術も。家にいて本を読むだけでは分からないことを、見てこいと」

 ユリアンが感心したように息をついた。

「いかにも、お前のじいさんが言いそうだな」

「そうだね」

 トーマスは苦笑した。

「明日、ミュルスへ向かう。そこから船に乗るつもりだ」

「明日か。急だね」

 エレンは卓の木目へ目を落とした。

「……寂しくなるね」

 短い沈黙が落ちた。

 サラが杯を両手で包み直した。

「私も、ピドナへ行ってみたい」

 エレンが妹を見る。

「遊びに行くんじゃないんだよ」

「分かってる」

「トーマスは、勉強しに行くんでしょ。あんたの面倒まで見てもらうわけには――」

「自分のことは、自分でする」

 思ったより、はっきりした声だった。

 エレンの言葉が止まる。

 サラも少し驚いたように唇を結んだが、目はそらさなかった。

「一人で宿を取ったこともないでしょ。知らない町で、何かあったらどうするの」

「それは、調べたり、人に聞いたり……」

「そんな簡単なことじゃないよ」

「じゃあ、いつならいいの?」

 エレンは答えかけて、口を閉じた。

 サラの指が、杯の縁から離れる。

「お姉ちゃんが一緒じゃなかったら、私はどこにも行けないの?」

 隣の卓から、客の笑い声が聞こえた。

 こちらの四人は、誰も笑わなかった。

 トーマスが静かに尋ねる。

「サラは、ピドナで何をしたい?」

「……まだ、ちゃんとは決めてない」

 サラは少し考えた。

「でも、ポドールイには、シノンと全然違う暮らしがあった。城も、町の人たちの話も、行くまで知らなかったから」

「うん」

「ピドナにも、知らないものがたくさんあるんでしょう。そういうのを、見てみたい」

 そこまで話してから、姉へ目を戻す。

「シノンへ帰りたくないんじゃないの。ただ、帰ったらそれで終わりにしたくなくて」

 エレンは、妹の椅子に立てかけられた弓を見た。

 森では、ザインの指示に従って矢を放っていた。洞窟では、敵が次に跳ぶ場所を、自分で考えて狙っていた。

 その二本目が当たった時、エレンは確かに助けられていた。

「……心配するなっていう方が、無理だからね」

「うん」

 サラはうなずいた。

「私も、怖くないわけじゃない」

「だったら」

「でも、行きたい」

 今度は、声を強めなかった。

 エレンはしばらく妹を見ていた。

 それから、椅子の背へ身体を預け、長く息を吐いた。

「まず、家へ戻る」

「お姉ちゃん」

「旅の支度をする。家のこともちゃんと話す。その後でいい?」

「……行ってもいいの?」

「あたしも行く」

 サラが目を丸くする。

「知らない町を見に行くんでしょ。あたしも見てみたくなった」

 エレンはそう言って、卓の上の杯を引き寄せた。

「ただし、道も宿も一緒に考えること。全部あたし任せはなし」

「うん」

 サラの顔に、ようやく笑みが戻った。

「ちゃんと、調べる」

「その前に、船の乗り方からかな」

「それは、教えて」

 エレンが小さく笑った。

 トーマスは荷物から紙を取り出し、卓の上へ広げた。

「僕は先に行っているよ。親戚の家の場所を書いておく。支度ができたら訪ねてきて」

「泊まるところまで頼っていいの?」

「まずは親戚に聞いてみる。部屋が難しければ、宿を紹介してもらえると思う」

「助かる。急いで追いかけるより、その方がよさそうだね」

 トーマスが紙へ書き込む横で、サラは身を乗り出していた。

 エレンがその横顔を見る。

「そんなに行きたかったんだ」

「……うん」

「もっと早く言えばよかったのに」

「今、初めて言えたから」

 エレンは何も返さず、妹の前へ紙を寄せた。

「ユリアンは?」

 行き先を書き終えたトーマスが尋ねた。

「一緒にピドナへ来ないか」

「そのうち、寄ると思う。でも、今回は少し別のところを歩いてみたい」

 ユリアンは腰の剣へ目を落とした。

「俺も、しばらく旅に出ようと思ってる」

「あんたまで?」

 エレンが眉を上げた。

「どこへ?」

「まずは街道をたどって、行ったことのない町へ。まだ、遠くまでは決めてない」

「随分、ざっくりしてるね」

「出る前には調べるよ」

 ユリアンは少し考え、言葉を続けた。

「森じゃ、ザインに言われてから動いてた。洞窟でも、トーマスが助けてくれなきゃ、あの大剣に潰されてた」

「それは、お互い様だよ」

 トーマスが言った。

「一人で戦ったわけじゃない」

「分かってる。だから、次は俺も、もっと周りを見て動けるようになりたい」

 卓の下で、剣帯を握っていた手を離す。

「技が一つ出たからって、急に何でもできるようになったわけじゃないんだよな」

「もう一度、使えたの?」

 サラが尋ねた。

「何度か。けど、最初の時みたいには、うまくいかない」

 ユリアンは肩をすくめた。

「もっと、いろんな奴の剣を見てみたい。旅をしながら、仕事も探してみる」

「いきなり怪しい依頼を受けないでよ」

 エレンが言う。

「分かってる」

「お金も、先に確かめるんだよ」

「それは、もう嫌ってほど聞いた」

 四人が笑った。

 トーマスは、もう一枚の紙にも同じ行き先を書いた。

「ピドナへ来たら、僕のところへ。困った時も、知らせて」

「ああ」

 ユリアンは受け取り、丁寧に折った。

 エレンが彼の顔をのぞき込む。

「モニカ様には、話した?」

「……これから」

「そっちを先にしてきなよ」

「分かってるって」

 返事だけが、少し早かった。

*

 その日の午後、ユリアンは城の中庭を訪ねた。

 壊れた石を片づける音が、離れたところから聞こえていた。日差しの届く回廊に、モニカがいる。

 膝の上には、布に包まれた細剣が置かれていた。

「ポドールイで拾った――じゃなくて、洞窟の剣か」

 ユリアンが言い直すと、モニカが笑った。

「ええ。ナイチンゲールです」

「もう、使えそう?」

「まだです。握っているだけでは、何も起きなくて」

 彼女は布を閉じ、隣へ座るように少し場所を空けた。

「何か、お話が?」

 ユリアンは腰を下ろす前に、一度息を吸った。

「しばらく、旅に出ようと思ってる」

 モニカの手が止まった。

「ロアーヌを、離れるのですか」

「ああ。一度シノンへ戻って、支度をしてから」

 モニカは少し黙っていた。

 中庭を、木材を抱えた職人が横切っていく。

「……そうですか」

 小さな返事だった。

「もう少し、お話を聞けると思っていました」

「俺も、まだ話したいことはあるんだけど」

 ユリアンは頭をかいた。

「城へ送り届けて、それで俺まで何かできるようになった気になるのは、違うと思ってさ。もう少し、外を歩いてみたい」

 モニカが顔を上げた。

「私は、何度も助けていただきました」

「でも、一人でできたわけじゃないから」

「ええ。それでも、ユリアンがいてくださって、よかったです」

 まっすぐに言われ、ユリアンは返事に詰まった。

 モニカは膝の上の布包みを持ち直した。

「お引き止めはしません。でも、お願いしてもいいですか」

「何?」

「行き先が決まったら、手紙をください」

 ユリアンが瞬きをする。

「手紙?」

「ご無事だと分かれば、安心できますから」

「俺、あんまりうまく書けないよ」

「長くなくても、構いません」

 モニカは少し考えてから、微笑んだ。

「どこにいて、お元気なのか。それだけでも」

「……それなら、書けると思う」

「お待ちしています」

 ユリアンはうなずいた。

 剣のことを話すより、短い手紙を約束する方が、なぜか落ち着かなかった。

「また来るよ」

「はい」

 モニカが答える。

「今度は、追っ手のいない時に」

「それがいいですね」

 二人は顔を見合わせ、笑った。

 立ち上がったユリアンを、モニカが呼び止める。

「それと、旅に出る前に、脇腹をもう一度診てもらってくださいね」

「……分かってる」

 そう答えた後で、ユリアンも笑った。

「そこまで、忘れてくれないんだな」

「まだ、忘れるほど前のことではありませんもの」

*

 翌朝、最初にロアーヌを発ったのは、トーマスだった。

 ミュルスへ向かう荷車に荷物を積み、御者と道中のことを確かめている。乗り合いの客が揃うまで、まだ少し時間があった。

 エレンとサラ、ユリアンが、門のそばまで見送りに来ていた。

「着いたら、シノンにも知らせるよ」

 トーマスが言った。

「僕の方が先に落ち着くだろうから」

「お願い。こっちも、長くは待たせないつもり」

 エレンが答える。

 姉妹はこれから一度シノンへ戻り、家の用事を済ませ、旅の荷物を整える。その間に、トーマスは海を渡ってピドナへ入ることになる。

 ユリアンも、旅支度のためにシノンへ戻るつもりだった。ただ、その後に向かう先は、姉妹とは別の道になる。

「本は積みすぎてないか?」

 ユリアンが荷車を見る。

「重くなったら、向こうから送るよ」

「行く前から増える気なんだ」

「勉強しに行くからね」

 トーマスが笑った。

 御者が手綱を持ち直し、出発を告げる。

「じゃあ、また」

 トーマスが荷車へ乗った。

「元気でね」

「二人も。ユリアン、無茶はしないように」

「お前まで言うなよ」

 車輪が回り始めた。

 トーマスが片手を上げる。三人も手を振り、荷車が街道の人波へ入っていくのを見送った。

 しばらくして、エレンが妹へ向き直った。

「行き先を書いた紙、持ってる?」

「うん」

 サラは鞄を開き、折り畳んだ紙を見せた。

「なくさないでよ。着いてから、トーマスを捜して町中歩くのは嫌だから」

「大丈夫」

 サラはもう一度、紙に書かれた文字を確かめた。

 ピドナ。

 今までは、トーマスの話や地図の上でしか知らなかった町だった。

 その紙を、姉へ預けることなく、自分の鞄の奥へ収める。

「ほら、帰るよ」

 エレンが歩き出した。

 サラも弓を持ち直し、隣へ並ぶ。

 一度シノンへ帰る。

 次の旅に持っていくものは、自分で選ぶつもりだった。

 

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