Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ユリアンがロアーヌ城で暮らし始めて、二週間あまりが過ぎた。
朝の交代に遅れたことはない。
モニカの部屋へ続く廊下を、間違えずに歩けるようにもなった。
ただし、厨房から中庭へ出る近道については、今もよく分からない。
「また、こっちから来たのか」
廊下で顔を合わせた護衛の男が言った。
カタリナからモニカの警護を任された、三人のうちの一人だった。
「厨房に寄ってきたんです」
「朝食なら食堂だろう」
「モニカ様の分です。今日は庭で食べたいって」
「ああ、それか」
男はユリアンの持つ籠を見て頷いた。
「なら、厨房の奥から出た方が早い」
「奥の扉、洗い場につながってません?」
「洗い場を通るんだ」
「通っていいんですか」
「先に声を掛ければな」
ユリアンは少し黙った。
城の連中は、訊かなくても知っていると思って話す。
ザインが帰り際に言っていたことは、こういう意味だったのかもしれない。
「……次からそうします」
「今日は東の庭だ。西は植木の手入れが入る」
「分かりました」
男は小さな帳面を開き、昨夜の出入りについて伝えた。
誰が来たか。誰が帰ったか。廊下の灯りが一つ切れ、交換を頼んであることまで。
初めは、そこまで覚えるのかと思った。
今は、知らないまま立っている方が落ち着かない。
引き継ぎを終え、ユリアンは庭へ向かった。
朝の光が、低い生垣を照らしていた。
モニカは丸い卓の前に座り、膝に薄い本を開いている。向かいではニーナが、風に飛ばされないよう卓布の端を押さえていた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
モニカが本を閉じた。
ユリアンが籠を置くと、ニーナが中を覗き込む。
「今日は多いね」
「俺の分も入ってるんだ」
「また?」
「またって何だよ」
厨房の女たちは、ユリアンを見ると何かしら持たせたがった。
最初は気を遣って断っていたが、近頃は籠に入れられてから気づくこともある。
ニーナがパンを一つ取り出した。
「こっちは肉が挟まってる」
「そっちが俺のだと思う」
「どうして分かるの?」
「毎回そうだから」
モニカが笑った。
「皆さん、ユリアンがよく働くことをご存じなのですね」
「荷運びを手伝ったくらいですよ」
「大事なことですわ」
「でも、パンの数は増える一方なんです」
ニーナは少し考えた後、籠へもう一度手を入れた。
「ポールの分もある?」
「あるよ。どこ行ったんだ?」
「西門。昨日の巡回で、気になるところがあったんだって」
ユリアンは庭の向こうへ目を向けた。
城壁の上を、二人の兵が歩いていた。
ポールの仕事先への照会は、数日前に返ってきていた。
仕事を投げ出したことも、預かった荷を失くしたこともない。弁済の支払いも、決められた日に続けている。
それで過去がなくなるわけではなかった。
けれど、見張られる側だった男が、少しずつ見張りを任されるようになっていた。
「戻ったら、一つ残しておいてやるか」
「二つにしてあげて」
「俺の分が減るんだけど」
「朝から歩いてるもの」
ニーナはそう言いながら、包み布を広げた。
モニカはパンをちぎり、楽しそうに二人を見ていた。
「ニーナ」
モニカが声を掛けた。
「はい。何か足りませんか?」
「いいえ。ただ、私にも、今のように話してくださらない?」
ニーナは包み布を畳む手を止めた。
「今のように、ですか?」
「ユリアンと話している時のように」
ニーナがユリアンを見る。
彼も少し困った顔で、モニカを見た。
「でも、侍女長に叱られませんか」
「皆だけでいる時なら、構わないでしょう? 名前も、モニカでいいわ」
ニーナは少し迷ってから、頷いた。
「……じゃあ、モニカ。もう一つ食べる?」
籠からパンを取り、皿のそばへ差し出す。
モニカの顔がほころんだ。
「ええ。半分いただこうかしら」
「なら、残りは私が」
ニーナがパンを二つに割った。
モニカは差し出された片方を受け取り、嬉しそうに口へ運んだ。
*
その日の昼前、ミカエルの執務室へ、補修費の書類が一枚届いた。
ユリアンが翌日の外出予定を報告している最中だった。
文官が卓の端へ書類を置く。ミカエルは目を通し、眉を寄せた。
「荷車か」
「はい。厨房への搬入中に、車軸が折れまして」
「怪我人は」
「おりません。ニーナ殿が支えてくださいましたので」
壁際に立っていたニーナへ、ミカエルの目が向く。
彼女は外出時の持ち物について、侍女から確認を受けるために来ていた。自分の話が出るとは思っていなかったらしく、少し背筋を伸ばした。
「荷台の下に、人がいたんです」
「よく支えた」
「ありがとうございます」
「それで、側板も交換するとあるが」
ニーナの視線が、書類へ落ちた。
「……持ったところが、少し」
「割れたのか」
「はい」
隣でポールが口を開いた。
「板は割れましたけど、荷は落としてません」
「庇うところは、そこなのか」
「本人も気にしてるんで」
ミカエルはニーナを見た。
それから書類へ署名した。
「人を助けたのなら、構わん。次は、できれば下の枠を持て」
「はい」
ニーナは真面目に頷いた。
ユリアンは、そこで笑ってはいけない気がして、手元の予定表へ目を戻した。
「明日は南の市場と、布屋です。帰りに、城壁沿いの道を通ります」
「滞在は」
「昼の鐘までには戻ります」
「ポールは」
「朝の巡回を終えてから合流します」
ミカエルは地図の上で道を確かめた。
ユリアンが選んだ帰路は、店の密集した通りを一つ外れた道だった。城壁と商家の裏手に挟まれ、広くはないが、人混みを抜けるより歩きやすい。
「北側の坂は、まだ荷車が多い。そちらへは回るな」
「はい」
「もう一人、護衛に加えるつもりだ。返事を待っている」
「城の方ですか」
「旅をしている。着くまでに少しかかるだろう」
それ以上は言わず、ミカエルは予定表を返した。
「明日は、その予定でよい」
「ありがとうございます」
ユリアンが頭を下げる。
退出する間際、ミカエルがもう一度ニーナを呼んだ。
「手は痛めていないな」
「大丈夫です」
「ならよい」
ニーナは少し驚いたように彼を見て、それから笑った。
「はい」
*
翌朝、市場へ出る前に、モニカは鏡の前で髪を整えていた。
以前ほど華やかな衣装ではない。
淡い青の服に、歩きやすい靴。金髪は肩の後ろへまとめ、小さな髪飾りで留めている。
それでも、廊下へ出ると自然に目を引いた。
ニーナが鞄の紐を締め直す。
「水も入れたし、布もある。あとは……」
「お金は、私が持っています」
「じゃあ大丈夫」
ユリアンは二人の足元を見た。
「今日は、靴は痛くなさそうですか」
「ええ。この前教えていただいたので」
「途中で痛くなったら、言ってください」
「我慢して歩く方が困るのでしょう?」
「分かってもらえて助かります」
モニカが笑った。
前の外出では、帰城してから踵が擦れていると分かった。平気な顔で歩いていたので、ユリアンは最後まで気づかなかった。
ニーナが鞄を軽く叩く。
「今日は、痛くなっても大丈夫。貼る布も持ってきたから」
「痛くならないのが一番だけどな」
「それはそう」
門へ向かうと、ポールが待っていた。
弓は背に負い、矢筒の口を布で覆っている。
「通りは?」
「いつもどおり。布屋の前に荷車が一台いるけど、昼には出るってさ」
「分かった」
門番が四人を見送り、帰る時刻を帳面へ書いた。
門の外では、朝の商いが始まっていた。
焼きたてのパンを運ぶ少年が、籠を抱えて走っていく。
魚屋の前には水が撒かれ、石畳が黒く濡れている。店先で布を広げていた女が、モニカを見つけて深く頭を下げた。
モニカは立ち止まり、挨拶を返した。
その右へ、ユリアンが寄る。
左からはニーナ。後ろにはポール。
モニカが一歩進む。
三人も進んだ。
もう一歩。
また三人が動く。
「……ユリアン」
「はい」
「少し、近いです」
「ここは人が多いので」
「分かっています。でも、腕が上がりません」
ユリアンは自分の位置を確かめた。
確かに、モニカが店先を指そうとすると、その肘が自分へ当たりそうだった。
「あ、すみません」
半歩離れると、ニーナも反対側へずれた。
後ろでポールが笑う。
「囲んで運んでるみたいだな」
「お前もその一人だろ」
「俺は後ろにいただけだ」
「十分近かったよ」
ニーナに言われ、ポールも一歩下がった。
モニカはようやく手を上げ、店先の布を指した。
「あれを、見てもよろしいですか」
「どうぞ。ただ、向こうの角までは行かないでください」
「ええ」
ユリアンは店の両脇と、通りの向こうを見た。
ポールが少し離れた場所へ立つ。ニーナはモニカと一緒に布を広げた。
ずっと横について歩くだけが、護衛ではない。
城の三人から言われたことを、ようやく身体で覚え始めていた。
*
市場の奥には、細い組紐や髪飾りを並べた店があった。
ニーナが先に足を止めた。
卓の上には、色の違う小さな花が幾つも並んでいる。薄い布を重ねて作られたもので、中央に小さな木の玉が縫いつけられていた。
「これ、可愛い」
「お好きな色はありますか」
「私は、こっちかな」
ニーナが淡い黄色の花を取る。
モニカは白いものを手にした。
「こちらも素敵ですね」
「髪につけてみたら?」
店の女が小さな鏡を差し出した。
ニーナはモニカの髪飾りの横へ、白い花を添えた。
少し位置を変える。
もう一度、鏡を見る。
「うん。こっち」
「どうでしょう」
モニカが振り向いた。
ユリアンは通りを見ていた。
呼ばれて顔を戻し、彼女を見た。
「いいと思います」
「どこが変わったか、分かってる?」
ニーナが訊いた。
ユリアンは一瞬だけ黙り、モニカの髪へ目を向けた。
「花」
「それは見れば分かるでしょ」
「見たから言ったんだよ」
モニカが笑った。
店の女も口元を緩める。
「白いのを、一つお願いします」
支払いを済ませると、ニーナが花を留め直した。
モニカは指先でそっと触れ、落ちないことを確かめた。
その間に、ポールがユリアンの隣へ来た。
「少し、いいか」
「何だ」
ポールは店先の鏡へ目を向けたまま、小さく言った。
「向こうの果物屋。茶色の帽子」
「見てるのか」
「さっきは布屋にいた。その前は橋のところ」
「同じ奴?」
「右足を、少し外へ向けて歩く」
ユリアンはすぐには振り向かなかった。
店の女へ礼を言うモニカを待ち、歩き始めてから、通りの先を見た。
茶色の帽子の男が、果物を手に取っている。
顔は半分、棚の陰になっていた。
「城の者じゃないな」
「少なくとも、朝の巡回にはいなかった」
ユリアンは頷き、モニカへ声を掛けた。
「予定より少し早いですが、戻りませんか」
「何かありました?」
「同じ人を何度か見かけたそうです。念のために」
モニカの目が、ポールへ向いた。
彼は小さく頷いた。
「……分かりました」
「菓子屋は、次にしましょう」
「ええ。まだ、また来られますもの」
そう答えたものの、モニカは一度だけ菓子屋のある方を見た。
ニーナが隣へ並ぶ。
「次は、最初に寄ろう」
「そうですね」
帰りは人通りの多い道を選んだ。
ポールは途中で何度か足を止め、店先を見るふりをして後ろを確かめた。
茶色の帽子は、もう見えなかった。
その日は、何も起きなかった。
*
城へ戻った後、ポールは男の特徴を巡回兵へ伝えた。
布屋にも果物屋にも、知り合いはいなかった。
ただ、商品の値段を尋ねていただけだという。
「気づかれたか」
ユリアンが訊くと、ポールは肩をすくめた。
「最初から、買い物に来ただけかもしれない」
「三回も?」
「だから報告したんだよ。決めつけるわけにもいかないだろ」
ユリアンは頷いた。
怪しいと思った者を、片端から捕まえるわけにはいかない。
まして、自分たちは城の外を歩く人間すべての顔を知っているわけではなかった。
それから五日間、外出の時刻や道を変えてみた。
門の外まで歩くだけの日もあった。
別の巡回兵が先に通りを確かめることもあった。
同じ男は現れなかった。
その間に、ポールは街道で崩れかけた路肩を見つけ、荷車を止めた。
ニーナは厨房から頼まれる仕事が増え、ユリアンはようやく洗い場を通る近道を覚えた。
モニカは、カタリナへの手紙を書いた。
新しい護衛が来たこと。
城下で白い花の髪飾りを買ったこと。
ニーナが荷車を支えたことまで書くと、紙が足りなくなった。
書き終える前に、少し考える。
以前は、無事です、心配しないでくださいと書くことが多かった。
今は、書きたいことを選ぶ方が難しい。
モニカは新しい紙を一枚取り、続きを書き始めた。
窓の外では、ユリアンとポールの声がしていた。
「だから、そっちの扉は閉めるなって」
「何で」
「戻る時に、鍵がいる」
「お前、前に閉めたのか」
「……一回だけな」
モニカは筆を止め、笑った。
*
次の外出の日、空には薄い雲が広がっていた。
朝の巡回から戻った兵は、予定の道に異常はなかったと報告した。
ユリアンは帰る時刻を伝え、ポールと目を合わせた。
「今日は菓子屋からだ」
「覚えてるよ」
モニカは白い花を髪につけていた。
ニーナが留め具を確かめ、四人は門を出た。
菓子屋の店先には、小さな焼き菓子が並んでいた。
蜜を塗ったもの。木の実を載せたもの。薄い生地を幾重にも折り重ねたもの。
モニカはしばらく眺めてから、店主へ尋ねた。
「こちらは、日持ちしますか」
「三日ほどなら。湿気には気をつけてくださいね」
「では、こちらを包んでください」
ユリアンが数を聞き、少し驚いた。
「そんなに買うんですか」
「皆さんの分も」
「俺たちですか?」
「城で待ってくださっている方々にも。今日は、私たちだけ出かけていますから」
包みは、ニーナの鞄へ収まった。
「帰るまでに潰さないようにしないと」
「俺が持とうか」
「大丈夫。重くないもの」
「そういう心配じゃなくて」
ポールが笑い、ニーナに軽く肘でつつかれた。
布屋で頼まれた糸を受け取り、井戸端で知り合いの侍女の母親と話す。
昼の鐘には、まだ余裕があった。
帰り道へ入る前に、ポールが少し先を歩いた。
曲がり角を覗き、戻ってくる。
「荷車はいない。城壁沿いは通れる」
「分かった」
城壁沿いの道は、表通りより静かだった。
右手には高い石壁が続き、左手には商家の裏口や荷置き場が並んでいる。ところどころに古い石段があり、壁の上では兵が持ち場を移っていた。
ユリアンは前を歩いた。
モニカとニーナが続き、ポールが後ろにつく。
あと二つ角を曲がれば、門へ出る大通りだった。
商家の裏手で、小さく口笛が鳴った。荷運びの合図だと思った。
次の瞬間、前方で木の裂ける音がした。ユリアンが足を止めた。
荷置き場の陰で、板張りの箱が倒れる。
黒い縞のある腕が、箱の縁へ掛かった。
「下がって」
ユリアンは剣を抜いた。
箱の向こうから、人虎が身を起こした。黄色い目がこちらを捉え、長い腕の先で鋭い爪が開く。
背後で、別の悲鳴が上がった。
ポールが振り向く。
通りの入口で、もう一つの箱が開いていた。
荷を運んでいた男が逃げ出す。そのすぐ後ろへ、もう一頭の人虎が飛び出してきた。
「後ろにもいる!」
弓を取る音がした。
ユリアンはモニカの位置を確かめた。
前後を挟まれている。左の裏口は閉じられ、その先には荷が積まれていた。
「壁へ寄ってください。ニーナ、離れるな!」
「分かってる!」
ニーナがモニカの腕を取り、右へ動く。
前の人虎が走った。
ユリアンは一歩踏み出し、伸びてきた腕を剣で弾いた。
硬い爪が刃を滑る。相手の肩が前へ出たところへ、斜めに斬りつける。
刃が入った。
だが、人虎は下がらない。
裂けた腕を振り回し、ユリアンの顔を狙う。
彼は身を屈め、剣の柄で顎を突き上げた。
後ろで弦が鳴った。
「一体、止めた!」
ポールの声がする。
ユリアンが魔物を押し返した、その背後で、石を擦る音がした。
ニーナが振り向く。
モニカのすぐ後ろで、壁の一部が内側へ開いていた。
石積みに見えたのは、薄い石を貼りつけた扉だった。その向こうに、暗い通路が口を開けている。
中から男が身を乗り出した。
片手の布でモニカの口を塞ぎ、もう一方の腕を肩へ回す。そのまま通路へ引きずり込もうとした。
「モニカ!」
ニーナが男の手首を掴んだ。
モニカの口元から引き剥がし、通りへ向かって引く。
「うわっ!」
男は敷居につまずき、石畳へ転がり出た。
だが、ニーナがモニカを抱き寄せるより早く、奥から別の男が腰へ腕を回した。
モニカの身体が、入口の向こうへ引かれる。
ニーナは倒れた男から手を離し、モニカの上腕を袖ごと掴んだ。
踏みとどまり、引き戻そうとする。
入口の脇から、三人目が短い棍棒を振り下ろした。
ニーナの腕へ、鈍い音を立てて当たる。
それでも、指はほどけなかった。
「離して!」
ニーナが足を踏ん張る。
モニカを抱えた男まで、こちらへ引きずられた。
だが、斜めになったモニカの肩が、入口の石の縁へぶつかった。
「――っ!」
モニカの顔が苦痛に歪む。
腰は奥へ引かれ、肩だけが入口に引っ掛かっていた。このまま力を込めれば、腕を傷めてしまう。
ニーナは引く力を緩め、身体を入口へ寄せた。
肩を石の縁から外そうと、空いた手を伸ばす。
その一瞬に、男がモニカを奥へ引いた。
袖の縫い目が裂けた。
ニーナの手に、布だけが残った。
「ニーナ!」
ユリアンが振り向きかけた。
人虎の爪が肩をかすめ、熱い痛みが走る。
歯を食いしばり、踏みとどまった。
伸びきった腕の内側へ入り、剣を首筋へ叩き込む。
人虎が崩れた。
同時に、後方で弦が鳴った。
ポールの矢が、入口で棍棒を構えていた男の腕へ突き立つ。
男が叫び、通路の中へよろめいた。
ニーナがモニカを追おうとした時、頭上で鎖が鳴った。
「下がれ!」
ポールの声に、ニーナが身を引く。
入口のすぐ内側へ鉄格子が落ち、石畳を叩いた。
「モニカ様!」
ユリアンが駆け寄った。
格子の向こうで、男がモニカを抱え直していた。
口を手で塞がれたまま、モニカがこちらを向く。
目が合った。
ユリアンが格子へ手を伸ばす。
だが、淡い青の服は、男とともに通路の角へ消えた。
「くそっ……!」
格子を持ち上げようとする。
動かない。
「私も!」
ニーナが隣で腰を落とし、下側の横棒を掴んだ。
二人で力を込めると、格子がわずかに浮いた。
すぐに、硬い音がして止まる。
「何かに当たってる!」
「両脇だ!」
ポールが指した。
壁から突き出た鉄の爪が、格子の横棒に引っ掛かっている。
ユリアンは剣の柄で爪を叩いた。
一度、二度。
びくともしない。
その背後で、足音が近づいてきた。
「何があった!」
「モニカ様が攫われた! この中だ!」
駆けつけた二人の兵へ、ユリアンが叫ぶ。
ポールは、石畳で起き上がりかけた男を押さえ込んでいた。
ニーナが引きずり出した男だった。
「こいつは攫った連中の一人だ。逃がすな!」
腕を捻り上げ、兵へ引き渡す。
「城へ知らせてくれ。俺たちは追う」
「分かった!」
一人が男へ縄を掛け、もう一人が警笛を吹いた。
ニーナは格子から手を離した。
縦に並ぶ鉄棒を見て、その中央の一本へ両手を掛ける。
「ユリアン、離れて」
「ニーナ?」
返事はなかった。
片足を下の横棒へ当て、歯を食いしばる。
鉄棒が、通り側へしなった。
ユリアンは息をのんだ。
ニーナは一度力を緩め、握る位置を変える。今度は曲がった部分を横へ押した。
鉄が軋んだ。
隣の棒との間が、少しずつ広がっていく。
棍棒で打たれた腕が震えていた。
それでもニーナは手を止めず、身体ごと押し込んだ。
「……通れるか」
ユリアンが膝をつき、隙間を確かめる。
「もう少し」
「分かった」
ニーナが短く息を吐いた。
もう一度、鉄が鳴る。
ポールが横向きになり、片肩を隙間へ入れた。
弓と矢筒を先に通し、身体を滑り込ませる。
向こうへ抜けると、すぐに弓を取り、通路の奥を確かめた。
「来い!」
ユリアンが続いた。
内側から手を伸ばし、ニーナの鞄を受け取る。
最後にニーナが格子を抜けた。
暗い通路には、湿った土と古い木の匂いがこもっていた。
ユリアンは鞄を返すと、奥へ向かって走り出した。
「モニカ様!」
返事はない。
奥から、車輪の音が聞こえたので三人は走った。
途中でポールが一瞬だけ足を止めた。
床を見てすぐにしゃがむと白い花が落ちていた。
布の花びらが泥に汚れ、留め具が外れている。
「それ――」
ニーナが息をのんだ。
ポールは花を拾い、彼女へ渡した。
「こっちだ」
通路は二度折れ、下り坂になっていた。
その先に、外の光が見える。
三人が飛び出したのは、城壁の外側にある古い作業場だった。
崩れた石材。
使われなくなった木の滑車。
草に覆われた荷車の跡。
その向こうを、幌の掛かった馬車が走っていた。
「いた!」
ポールが弓を引いた。
御者台の男が振り返る。
矢がその肩へ刺さった。
男が手綱を落としかける。
だが、隣にいた別の男が身を乗り出し、手綱を奪い取った。
馬車が大きく揺れた。
ポールは二本目をつがえかけ、止めた。
馬車はすでに曲がり角へ差しかかっている。
幌の向こうに、モニカがいる。
ユリアンが駆け出した。
馬車の後ろへ、手を伸ばす。
届かない。
石畳を蹴り、さらに走る。
車輪が土を巻き上げ、曲がり角の向こうへ消えた。
「ユリアン!」
ポールの声がした。
「追える。先に馬だ!」
ユリアンは立ち止まった。
息が、喉へ引っ掛かっていた。
さっきまで、隣にいた。
自分のすぐ後ろに。
剣を握った手が震える。
「……俺が、壁へ寄れって」
「馬を借りるぞ」
ポールが隣へ来た。
強い声ではなかった。
ただ、ユリアンの目を見ていた。
「西へ出た。御者には当てた。まだ、見失ってない」
「でも」
「今なら追える」
ユリアンは息を吐いた。
ニーナが白い花を握って立っていた。
片方の袖が裂け、腕に赤い痕が浮いている。
その手には、まだモニカの服の切れ端が絡んでいた。
ユリアンは剣を鞘へ戻した。
「……行こう」
*
馬車の中は暗かった。
床板が揺れるたび、モニカの肩へ痛みが走った。
両手は前で縛られている。
口元の布は外されたが、隣の男が短剣を見せたまま座っていた。
「声を出すな」
モニカは答えなかった。
外から、男の呻き声が聞こえる。
御者台で何か言い争っているようだった。
「だから、こんな近くを――」
「黙れ。先へ行け」
「矢が抜けねえんだよ」
「止まるな!」
ポールの矢だろうか。
モニカは目を閉じかけ、すぐに開いた。
ユリアンは来ていた。
格子の向こうにいた。
ニーナも、手を離したのではなかった。
自分を引こうとしてくれた。
それで、肩が石へ当たった。
袖の裂け目を見る。
指先が冷たい。
息を吸っても、胸の上の方にしか入らない。
泣きそうになり、唇を噛んだ。
白い花を落とした。
男に髪を掴まれた時、指で留め具を外して、床へ押しつけた。
見つけてくれただろうか。
馬車が曲がった。
身体が横へ傾き、男の膝へぶつかる。
「大人しくしていろ」
腕を掴まれ、座り直された。
モニカは幌の隙間へ目を向けた。
光が細く差している。
車輪の音が変わった。
石の硬い響きがなくなり、土を踏む重い音になる。
しばらくして、水の流れる音が聞こえた。
橋を渡ったのか、床が何度も細かく跳ねる。
覚えておこうとした。
けれど、何を覚えれば役に立つのか分からない。
せめて、眠らない。
目を閉じない。
モニカは縛られた手を膝へ置き、幌の隙間を見続けた。
*
西門の詰所から、三頭の馬が出された。
兵はすでに騒ぎを聞いていた。
ポールが馬車の特徴を伝えると、一人が街道を指した。
「灰色の幌なら、さっき門の前を西へ走っていった。二頭立てだ」
「御者は二人?」
「ああ。一人、具合が悪そうだったが」
「矢を受けてる。モニカ様が乗せられてるんだ」
兵の顔色が変わった。
「追跡の兵を――」
「頼む。俺たちが先に行く」
ユリアンが馬へ乗ろうとすると、ニーナがその腕を掴んだ。
「肩」
「後でいい」
「血が出てる」
「動くから大丈夫だ」
「今、止める」
有無を言わせず、ニーナが鞄から布を出した。
上衣の裂け目を開き、傷へ押し当てる。
鋭い痛みに、ユリアンは歯を食いしばった。
ニーナの手も震えていた。
だが、布を巻く動きは止まらない。
城で教わったとおりに結び、きつすぎないか指を入れて確かめた。
「これでいい」
「……ありがとう」
「剣、落とさないでね」
ユリアンは頷いた。
ポールは門番へ、最後に見た馬車の位置を伝えていた。
「分かれ道には印を残す。道端に矢を立てて、羽根の方へ曲がる」
「分かった」
「城にも、その通り伝えてくれ」
ニーナが馬へ乗った。
白い花は、鞄の内側へしまわれていた。
三人は西へ向かった。
*
ミカエルが報告を受けた時、卓には昼食が運ばれたばかりだった。
「モニカが?」
駆け込んだ兵が、膝をついた。
息を整える間もなく、襲撃の場所と、魔物が放たれたことを伝える。
ミカエルは椅子から立ち上がった。
「ユリアンたちは」
「追跡しております。西門で馬を出しました」
「犯人は」
「一人を拘束。城壁の古い搬入路から連れ出されたとのことです」
ミカエルの視線が、壁の地図へ向いた。
古い搬入路。
今は使われていないものが、城壁の補修記録に残っていた。
塞いだ時期までは、すぐに思い出せなかった。
「現場を押さえろ。通路を調べる者と、追跡する者を分ける。西の街道へ騎兵を出せ」
「はっ」
「門を全部閉めるな。荷車が滞れば、犯人も騒ぎの大きさを知る。出入りを確認し、怪しいものだけ止めろ」
兵が走り出す。
ミカエルは別の将校を呼んだ。
街道の分岐と、馬車を隠せる場所を確かめる。
大人数を一か所へ集めず、知らせを受けて動けるよう、少人数ずつ出すことにした。
「拘束した男から、行き先と仲間の数を聞き出せ。傷の手当てもさせろ。口を利けなくされては困る」
「承知しました」
部屋から人が出ていく。
ミカエルは卓へ手をついた。
昼食の湯気が、まだ上がっていた。
今朝、モニカは菓子を買ってくると言っていた。
兄の分も、と。
ミカエルは一度だけ目を閉じた。
開くと、古い城壁の図面を持ってくるよう命じた。
*
西の街道を外れるまで、馬車の跡ははっきりしていた。
二頭の馬が、急いで走っている。
荷車を避けた場所では、轍が道の端へ大きく寄っていた。
ポールが先を進み、時折馬を止める。
ユリアンとニーナは、その少し後ろを追った。
小さな橋の手前で、ポールが手を上げた。
「ここから、速度を落としてる」
「何で分かる?」
「曲がり角で、外へ膨らまなくなった。馬も、ずっと走らせっぱなしにはできない」
ユリアンは橋の向こうを見た。
畑の間を道が延び、その先には低い林があった。
「追いつけるか」
「向こうは馬車だ。こっちは三頭とも身軽だろ」
ポールはそう答えてから、ユリアンの肩を見た。
「傷は」
「平気だ」
「剣は振れるか」
「振れる」
「ならいい」
それ以上は訊かなかった。
林へ入る手前で、道が二つに分かれていた。
一方は村へ続く広い道。
もう一方は、草の伸びた細い道だった。
ポールが馬を降りた。
地面へしゃがむ。
草の折れ方を確かめ、土を指で払った。
ニーナが馬上から尋ねる。
「こっち?」
「ああ。細い方だ」
ポールは矢を一本抜き、広い道の脇へ立てた。
羽根が細道の方へ傾くよう、土を踏み固める。
「追ってくる兵に分かるようにする」
「もっと目立つものの方がよくない?」
「向こうにも見つかるだろ」
「そっか」
ニーナが頷いた。
再び馬へ乗ろうとした時、ポールの目が彼女の腕で止まった。
棍棒を受けた場所が、青く腫れ始めていた。
「痛むか」
「少し」
「手は動く?」
「動くよ」
ニーナは指を開いてみせた。
ポールがその手へ触れた。
ほんの一瞬だった。
「無理するな」
「ポールも」
二人はそれだけ言い、馬を進めた。
ユリアンは前を向いた。
城へ戻ったら、話さなければならないことが幾つもある。
あの通路を知らなかったこと。
壁へ寄せたこと。
もっと早く魔物を倒していれば、という考えも、何度も浮かんだ。
だが、馬を止める理由にはならなかった。
今は、見つける。
それから、連れて帰る。
*
モニカは馬車から降ろされた。
足元は石と土だった。
周りには木が茂り、城壁はもう見えない。
前方に、古い小屋があった。
屋根の半分が落ち、入口には蔓が絡んでいる。
男たちはその脇を抜け、岩の間へ進んだ。
「歩け」
背を押される。
モニカはよろめき、片膝をついた。
立ち上がろうとして、肩に痛みが走る。
「早くしろ」
「……少し、待ってください」
男が苛立ったように舌打ちした。
御者台から降りた男は、肩へ布を押し当てていた。
矢は折られていたが、傷口から血が滲んでいる。
「追ってきてるぞ」
「分かってる」
「格子も、長くはもたねえ」
「あれを開けられるものか」
「見ただろ、あの女!」
ニーナのことだ。
モニカは顔を上げた。
男に腕を引かれ、立たされる。
岩陰に、暗い穴が開いていた。
洞窟だった。
入口の近くに、消えかけた焚き火がある。
そばには水袋と、空になった木箱が置かれていた。
箱の内側には、深い爪痕が幾つも走っている。
モニカの足が止まった。
「入れ」
男が先に進んだ。
別の男が後ろへ回る。
モニカは洞窟へ入る前に、一度だけ振り返った。
木々の間から、薄い空が見えた。
*
馬車が止まっていたのは、林の奥の小さな窪地だった。
ポールは道の手前で馬を止めた。
すぐには近づかず、木の陰から様子を見る。
灰色の幌。
二頭の馬。
御者台には誰もいない。
「同じだ」
ユリアンは馬から降りた。
「モニカ様は」
「ここからじゃ見えない」
ポールも降り、手綱を低い枝へ結んだ。
三人は木々の間を抜け、足音を抑えて近づく。
馬車の後ろには、泥のついた靴跡が幾つも残っていた。
その中に、小さな足跡がある。
ニーナがしゃがんだ。
「この靴だと思う」
「分かるのか」
「今朝、靴底の泥を落としたときに踵の縁が片方だけ欠けていたを見ていたから」
ポールは足跡の先を見た。
古い小屋の向こうへ続いている。
その途中に、膝をついたような跡があった。
少し離れたところにある石には、赤いものが擦れている。
ユリアンの呼吸が止まりかけた。
「血は、御者のかもしれない」
ポールが言った。
「まだ、分からない」
「……ああ」
ユリアンは頷いた。
頷いてから、ようやく息を吐いた。
小屋の横を抜けると、岩の間に入口が見えた。
低く、暗い。
近くに置かれた木箱には、内側から引っ掻いた跡があった。
ユリアンが箱を見た。
「魔物を、ここで飼ってたのか」
「少なくとも、運んできたんだろうな」
ポールは地面を確かめた。
人の出入りは多い。今ついたばかりの足跡が、その上へ重なっている。
洞窟の奥で、何かが鳴った。
金属が触れ合うような、短い音だった。
三人は動きを止めた。
しばらく待つ。
続いて、男の声がかすかに聞こえた。
言葉までは分からなかった。
だが、人がいる。
ポールがユリアンへ顔を向けた。
「兵を待つか」
ユリアンは入口を見た。
馬車はここにある。
だが、別の出口があれば、また連れ出されるかもしれない。
こちらが追っていることも、相手は知っている。
「待てない。ただ、突っ込むのはやめよう」
「ああ」
ポールは小屋の前まで戻り、折れた板を拾った。
石で短く文字を刻む。
洞窟。
三人、先行。
それを馬車の御者台へ置き、矢を一本、入口の方へ向けて重ねた。
ニーナは鞄を下ろし、中を確かめた。
包帯。水。小さな灯りと火口箱。
その下から、菓子の包みが出てきた。
角が潰れていた。
ニーナは一度だけそれを見て、鞄の底へ戻した。
「戻ったら、また買おう」
ユリアンが言った。
ニーナは顔を上げた。
「……うん」
ポールが入口のそばへ戻ってきた。
弓を手にし、矢を一本、指へ挟んでいる。
「俺が先を見る。奥まで追いかけるなよ」
「分かってる」
「ニーナは、俺たちの後ろ」
「狭いところがあったら、言って」
「壊す前に、相談してくれ」
「するよ」
その返事に、ユリアンの口元がわずかに動いた。
すぐに、洞窟へ向き直る。
昼の光は、入口から数歩で途切れていた。
奥から流れてくる空気は冷たく、湿っている。
ユリアンは剣の柄を握った。
肩が痛んだが、指には力が入った。
「迎えに行こう」
ポールが頷いた。
ニーナも、鞄を背負い直した。
三人は、洞窟へ入った。