Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
洞窟へ入ると、外の風が急に遠くなった。
壁際には、使いかけの松明が差してあった。
その下に、まだ新しい靴跡が重なっている。床には藁が散らばり、木箱を引きずった跡が奥へ続いていた。
ポールが足を止めた。
片手を上げ、振り返らずに指を二本立てる。
ユリアンは剣を抜いた。
ニーナも鞄の紐を短く締め直す。
曲がり角の向こうで、男たちが話していた。
「外を見てこい」
「さっき見ただろ」
「馬車を置いたままだ。跡を辿られたら、ここだと分かる」
「だったら、お前が――」
ポールが角から身を出した。
「動くな」
引き絞った弓の先で、男たちが固まる。
一人は腰の剣へ手を伸ばしかけていた。
もう一人は、木箱に座ったままだった。
「手を離せ」
「何だ、お前――」
「聞こえただろ」
ユリアンがポールの脇から踏み込んだ。
男が剣を抜く。
抜ききる前に、その手首へ剣の鍔を押し当てた。身体を寄せ、壁へ押しつける。
木箱の男も立ち上がった。
ニーナが、その上着を後ろから掴んだ。
「座ってて」
男が木箱へ戻った。
箱が軋み、底が抜ける。
「……っ!」
腰から落ちた男へ、ポールの矢が向いた。
「静かにしてろ」
ユリアンは押さえた男から剣を奪った。
「連れてきた女の人は、どこだ」
「知ら――」
言いかけた男の腕を、背中へ回す。
「青い服だ。馬車で連れてきただろ」
「奥だ! 奥にいる!」
「何人いる」
ポールが訊いた。
「六人……いや、戻ってきた奴を入れたら」
「数えろ」
「八人だ。俺たちも入れて八人!」
ユリアンはポールを見た。
彼は小さく首を振る。今の答えを、そのまま信じるつもりはないらしい。
男たちの手を後ろで縛り、柱へ固定する。
ニーナは壊れた箱の中から縄を引き出し、残りを鞄へ入れた。
「魔物は?」
ユリアンが訊くと、男の目が入口へ動いた。
「運び出した。今朝、全部」
「誰が命じた」
「……男爵様だ」
ポールの手が止まった。
「ゴドウィンか」
「そうだよ。だから、俺たちは――」
ユリアンはそれ以上聞かなかった。
松明を一本取り、男たちから離れる。
ゴドウィンがいる。
あの夜、モニカを追い立てた男が、今度は彼女をここへ連れてきた。
剣を握る手に力が入る。
肩の傷が痛んだ。
「ユリアン」
ポールが低い声で呼んだ。
「先に、モニカ様だ」
「……分かってる」
三人は奥へ進んだ。
*
洞窟の奥は、木の板でいくつかの区画に仕切られていた。
壁には古い工具が掛かっている。
錆びた鎖。柄の折れた槌。木の枠に据えられた巻き上げ機。
かつて石を切り出していた場所なのか、足元には角の揃った石材も残っていた。
モニカは低い椅子に座らされていた。
縛られた手が、膝の上にある。
右の肩を動かすと、強く痛んだ。
男に掴まれた腕には指の痕が残り、裂けた袖から冷たい空気が入ってくる。
卓の向こうで、男が書状を読んでいた。
ゴドウィン男爵。
以前、城で見た時よりも頬が痩せていた。
上衣の袖口は擦れ、長靴には泥がついている。それでも、書状を置く仕草や、返事を待たずに人を動かす声は変わっていなかった。
「署名しろ」
紙が差し出された。
モニカは目を落とした。
自分の身柄と引き換えに、ゴドウィンと従者たちの通行を認めること。
追跡する兵を引き、奪われた所領について再び協議すること。
その下には、別の文章があった。
自分は男爵の保護を受けている。
兄の処置を改めるよう、妹として願う。
モニカは紙から顔を上げた。
「これは、私の言葉ではありません」
「お前が書けば、お前の言葉になる」
「書きません」
ゴドウィンが椅子へ背を預けた。
「ミカエルは、お前のためなら譲る。何も難しいことを頼んでいるのではない」
「それなら、私の署名は要らないはずです」
「物事を知らぬ娘が、口を挟むな」
低い声だった。
モニカは膝の上で指を握った。
爪が掌へ食い込む。
怖かった。
少し前まで、菓子屋で何を買うか迷っていたことが、ひどく遠い出来事に思えた。
ゴドウィンが立ち上がった。
「お前には、分からんのだ。あの若造が、何を壊しているのか」
「兄に言ってください」
「言えるものなら、ここにはおらん!」
卓を叩く音に、モニカの肩が跳ねた。
男爵はそれを見た。
ゆっくりと、紙を彼女の前へ押し戻す。
「手を解いてやる。書け」
モニカは紙を見た。
お兄様は、これを読んだらどう思うだろう。
本当に自分がそう願ったのかと、考えるだろうか。
顔を上げる。
「嫌です」
声は小さかった。
だが、言い直すつもりはなかった。
ゴドウィンの顔から、表情が消えた。
その時、外の通路で男の声がした。
「誰だ!」
続いて、剣のぶつかる音。
ゴドウィンが扉へ向き直った。
*
ポールが先に見つけた男は、肩へ血のついた布を巻いていた。
馬車を操っていた御者だった。
水袋を取りに来たらしく、木桶のそばへしゃがんでいる。
その向こうに、二人。
一人は短い槍を持ち、もう一人は剣を腰へ差していた。
ポールがユリアンへ合図する。
だが、その直前に、御者が顔を上げた。
「誰だ!」
槍の男が振り向いた。
弦が鳴る。
矢が男の太腿へ刺さった。
踏み出しかけた脚が崩れ、槍が床を叩く。
ユリアンはその横を抜けた。
剣の男が、刃を抜きながら斬りつけてくる。
受ける。
肩の奥が痛んだ。
ユリアンは押し合わず、半歩横へずれた。
相手の剣を滑らせ、肘へ柄を打ち込む。
「ぐっ!」
剣が落ちた。
膝の裏を蹴り、倒れた男の武器を遠くへ弾く。
御者は逃げようとしていた。
ニーナが前へ回る。
「どいてくれ!」
「どかない」
男が左手で短剣を抜いた。
ニーナは近くの木桶を持ち上げた。
水が床へ溢れる。
短剣が桶へ突き立った。
そのまま押す。
男が壁へぶつかり、息を吐いた。
ニーナは桶を押しつけたまま、ポールを見た。
「縄!」
「今、出す!」
ユリアンは奥を見た。
板張りの扉の向こうで、慌ただしい足音がしている。
「モニカ様!」
返事はなかった。
代わりに、何かが倒れる音がした。
陶器が割れ、床を転がる。
ユリアンが扉へ駆け寄る。
取っ手を引いた。
開かない。
「中だ!」
肩を入れかけ、痛みに顔をしかめる。
ニーナが隣へ来た。
ポールは縛った男たちを壁際へ寄せ、通路の奥を警戒している。
「ユリアン、退いて」
「開けられるか」
「たぶん」
ニーナは取っ手を掴んだ。
一度、軽く引く。
扉は動かない。
「内側から、棒を掛けてるみたい」
「なら、蹴って――」
「壊していい?」
「いい!」
ニーナが両足を踏ん張った。
木が軋む。
取っ手の周りに、細い亀裂が走った。
彼女は引く方向を少し変えた。
金具が外れた。
扉の端が割れ、その向こうから横木が覗く。
ニーナは割れ目へ手を入れ、木の端を掴んだ。
「……よいしょ!」
横木が外れ、扉がこちらへ倒れた。
ユリアンが受け止めようとして、途中でやめる。
ニーナがそのまま脇へ立て掛けた。
「開いたよ」
「助かった!」
剣を構え、部屋へ入った。
*
モニカは、音を聞いていた。
ユリアンの声。
剣がぶつかる音。
その後で、扉の向こうから聞こえたニーナの声。
助けに来てくれた。
そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
だが、背後の男が腕を掴んでいた。
腰には短剣がある。
ゴドウィンは卓の上の書類をまとめ、別の扉へ向かっていた。
「連れてこい」
男に引かれ、モニカは立ち上がった。
足元には、先ほど自分が倒した水差しの破片が散らばっている。
逃げようとして倒したのではなかった。
どこにいるか、知らせたかった。
もう、声は届いている。
モニカは足を止めた。
「歩け!」
強く引かれる。
その時、入口の扉が大きく軋んだ。
男が振り向いた。
モニカは反対へ身体を捻った。
腕を抜こうとする。
だが、力が違った。
すぐに引き戻され、背中へ男の胸が当たった。
「大人しくしろ!」
短剣が抜かれる。
扉が倒れた。
「モニカ様!」
ユリアンが入ってきた。
肩に巻かれた布が、赤く染まっている。
それでも、剣先は揺れていなかった。
モニカは息を吸った。
「来るな!」
男が短剣を構えた。
刃がモニカの横顔へ近づく。
ユリアンの足が止まった。
「離せ」
「剣を捨てろ!」
ユリアンは剣を下ろさなかった。
男の腕と、モニカの足元を見た。
モニカも、彼を見ていた。
カタリナから教わったことがある。
腕を掴まれた時には、相手の指が開く方へ動かすこと。
力だけで引き合わないこと。
先ほどは、できなかった。
背後の男が、また叫んだ。
「捨てろと言ってるだろ!」
短剣を持つ腕が、わずかに前へ出る。
モニカはその手首へ、縛られた両手を押し当てた。
刃を遠ざけながら、身体を低くする。
同時に、踵で男の足を踏んだ。
「っ!」
男の腕が緩んだ。
ほんの少しだった。
モニカは肘を後ろへ入れたが、硬い腹へ当たっただけだった。
それでも、ユリアンは動いていた。
踏み込みながら、短剣の腕を外へ弾く。
モニカの肩を引き寄せ、自分の後ろへ回した。
男が剣を拾おうとする。
その手の前へ、ユリアンの刃が落ちた。
「動くな!」
男は止まった。
ニーナがモニカを抱きとめた。
「モニカ!」
「……ニーナ」
声がうまく出なかった。
ニーナの腕が背中へ回る。
強く抱かれ、ようやく、自分が震えていることに気づいた。
「怪我は?」
「肩が、少し」
「見せて。縄も解くから」
ポールが部屋へ入り、男から短剣を取り上げた。
その向こうで、ゴドウィンが奥の扉へ手を掛けていた。
「男爵!」
ユリアンが呼んだ。
ゴドウィンが振り向く。
腰の剣を抜いた。
「シノンの小僧か」
「剣を置け」
「命令する相手を間違えているぞ」
ゴドウィンが前へ出た。
剣が鋭く走る。
ユリアンは受けた。
思ったより重い。
傷のある肩へ衝撃が抜け、腕が下がりかける。
ゴドウィンは見逃さなかった。
剣を引き、同じ側へもう一度打ち込む。
ユリアンは後ろへ退いた。
刃が目の前を通った。
「守りたいのだろう?」
ゴドウィンの目が、モニカへ向いた。
「なら、そこを動くな」
ユリアンは足を止めた。
ポールが弓を上げる。
ゴドウィンが卓を蹴った。
積まれていた紙と、水差しの破片が床へ散った。
倒れかけた卓の向こうで、扉が開く。
ポールの矢が、その縁へ突き立った。
上衣の端が裂け、黒い布が木へ縫い止められる。
ゴドウィンは布を引き裂いた。
「待て!」
ユリアンが踏み出す。
ゴドウィンが逃げ込もうとした奥の通路から、盾を持った男が現れた。
「男爵様、先へ!」
男は主を背に庇い、剣を振るった。
ユリアンが受け止める。
ポールが横へ回ろうとすると、盾がそちらへ向いた。狭い通路の入口を塞ぎ、二人を通そうとしない。
その間に、ゴドウィンの姿が奥へ消えた。
背後で、ニーナがモニカの縄を切った。
「立てる?」
「はい」
モニカは腕を押さえながら頷いた。
ユリアンはその声を聞き、男の剣を押し返した。
「ポール、出口へ戻る!」
「分かった!」
ゴドウィンを追えば、またモニカから離れる。
今度は、離れない。
ポールが来た道へ走る。
ニーナがモニカの手を取り、その後を追った。
ユリアンは三人を背に庇い、剣を構えたまま退いた。
*
盾の男も前へ出てきた。
ユリアンが下がるたびに間合いを詰め、背を向けさせない。
奥から、鎖を引く音がした。
出口へ続く通路の手前で、ポールが足を緩める。
頭上の木組みが軋んでいた。
古い支柱の間に、新しい縄が渡されている。
その縄が張り、支柱の根元を横へ引いていた。
上に積もった石屑が、ぱらぱらと落ちた。
「罠だ! 天井が落ちる!」
ポールが叫んだ途端、盾の男が退いた。
ユリアンへ盾を突き出して距離を取り、ゴドウィンの消えた通路へ駆け戻る。
追っている暇はなかった。
「ニーナ、モニカ様を!」
ニーナがモニカの手を引き、出口側へ走った。
先に木組みを抜けたポールが振り返る。
「早く、こっちへ!」
支柱が外れた。
ニーナの頭上で、太い梁が傾く。
彼女はモニカの手を放し、後ろへ押し戻した。
「下がって!」
両腕を上げ、落ちてきた梁を肩で受ける。
膝が沈み、靴底が土を削った。
梁は止まった。
だが、その上から石がこぼれ始めていた。
「ニーナ!」
出口側から、ポールが引き返す。
二人の間へ石が落ち、砕けた。
モニカは梁の手前で足を止めていた。
ユリアンが追いつき、その身体を引き寄せる。
もう、下をくぐらせる余裕はない。
すぐ脇の壁に、工具置き場らしい横穴があった。
ユリアンはモニカをそこへ押し込み、自分も身を屈めて飛び込んだ。
「ニーナ、離せ! こっちだ!」
ポールの声がした。
ニーナは出口側へ身を投げた。
伸ばされたポールの手が、その腕を掴む。
次の瞬間、梁が落ちた。
轟音が洞窟を満たす。
ユリアンはモニカの頭を抱え、横穴の奥へ身体を寄せた。
背中へ小石が当たった。
入口を石が埋めていく。
脇へ置いた松明が衝撃で転がり、落ちてきた石に潰された。
光が消えた。
ユリアンはモニカを抱えたまま、動かなかった。
すぐ背後で、まだ石の落ちる音が続いていた。
*
「……モニカ様」
返事がなかった。
ユリアンは彼女の肩を探った。
衣服の下で、身体が小さく震えている。
「モニカ様」
「……はい」
細い声だった。
ユリアンは詰めていた息を吐いた。
「頭、ぶつけてませんか」
「分かりません……でも、痛くは」
「腕は?」
「動きます」
彼女の手が、ユリアンの上衣を掴んだ。
彼は身体を少し起こそうとした。
すぐに背中が天井へ触れる。
低い横穴だった。
モニカから離れることも、立ち上がることもできない。
「少し、窮屈ですが」
「……大丈夫です」
ユリアンは入口へ手を伸ばした。
指先が、崩れた石に触れる。
さっきまで開いていた場所は、塞がっていた。
手の届く石を押してみたが、動かない。
「ユリアン!」
石の向こうから、くぐもった声がした。
「ここだ!」
叫んだ途端、咳が出た。
袖で口元を覆い、もう一度声を張る。
「モニカ様もいる! 二人とも生きてる!」
少し間があった。
「動くな! 今、開ける!」
ポールの声だった。
その後ろで、ニーナが何か言っている。
二人とも無事だ。
ユリアンは壁へ背を預けた。
「聞こえましたね」
「はい」
「二人がいます。ここで待ちましょう」
暗闇の中で、モニカが頷く気配がした。
ユリアンは水袋を探った。
腰にはない。
ニーナの鞄だったことを思い出す。
できることを探して、何も見つからない。
外で石が動いた。
細かな土が、頭の上へ落ちる。
モニカの手が強くなった。
「大丈夫です。今、どかしてくれてます」
「……ええ」
声は、まだ震えていた。
ユリアンは彼女の手へ触れた。
冷たかった。
「寒いですか」
「少し」
上衣を脱ごうとして、肩に痛みが走った。
息を止める。
「ユリアン?」
「何でもありません」
「怪我を、しているでしょう」
暗くて顔は見えない。
それなのに、言い逃れができない気がした。
「肩だけです。動けます」
「その肩を、私が掴んでしまって」
「大丈夫です」
言ってから、ユリアンは口を閉じた。
モニカが靴擦れを隠して歩いた時、自分は困ったと言った。
同じことをしている。
「……少し、痛みます。でも、血は止めてもらいました」
モニカの手が、そっと下へ移った。
上腕から肘へ。
最後に、彼の手を探り当てる。
「では、こちらを」
「はい」
ユリアンは握り返した。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
外では、石を運ぶ音が続いていた。
ニーナの息遣い。
ポールが何かを支える声。
ユリアンはそれを数えるように聞いていた。
「……怖かったです」
モニカが言った。
ユリアンは隣を向いた。
「馬車の中で、どこへ連れていかれるのか、分からなくて」
「はい」
「花を落としたのですが……見つけていただけるかも、分からなくて」
「見つけました」
すぐに答えた。
「ニーナが持ってます。ちゃんと、こっちだって分かりました」
モニカが息を吸った。
その息が、途中で震えた。
ユリアンは握った手を離さなかった。
「申し訳ありません。俺が――」
「助けに来てくれました」
小さな声が、彼を遮った。
「何度も、そう思おうとしたんです。きっと来てくださるって。でも……」
言葉が途切れた。
ユリアンは何か言おうとした。
必ず助ける。
もう大丈夫だ。
どちらも、今の暗闇では軽く聞こえる気がした。
「います」
それだけ言った。
「今は、ここにいます」
モニカの指が、彼の手へ絡んだ。
「……はい」
肩が触れた。
ユリアンは動かなかった。
少しして、モニカがまた口を開いた。
「ユリアン」
「はい」
「今は、モニカと呼んでいただけませんか」
ユリアンは返事をし損ねた。
外で、石が擦れる音がした。
それが妙にはっきり聞こえた。
「今、ですか」
「ええ」
モニカの声に、ほんの少しだけ、いつもの調子が戻っていた。
「二人だけですから」
ユリアンは暗闇を見た。
顔が見えないのは、助かった気もした。
困る気もした。
「……モニカ」
隣で、小さく息が漏れた。
「はい」
返事が、すぐ近くにあった。
*
ニーナは、石を持ち上げていた。
格子を曲げた時とは違う。
力を込めれば済むものではなかった。
一つ動かすたび、その上の石も動いた。
無理に引けば、奥へ崩れる。
「そこは待て」
ポールが、細い隙間へ灯りを寄せた。
折れた梁の下を覗き込む。
「上の石が乗ってる。先に支える」
「どれ?」
「右。そいつを少し持っててくれ」
ニーナが指を掛けた。
腕の痣が痛んだが、ゆっくりと持ち上げる。
ポールが角材を差し込んだ。
石が止まる。
「いいぞ。下のやつからだ」
ニーナは頷いた。
急ぎたかった。
全部まとめて押し退けたかった。
けれど、向こうにはモニカとユリアンがいた。
ポールの声を聞き、一つずつ動かした。
やがて、入口側から足音がした。
「誰かいるか!」
兵の声だった。
「こっちだ!」
ポールが振り向いた。
松明の光が増えた。
三人の兵が走ってくる。その後ろにも、足音が続いていた。
「モニカ様は」
「この奥。ユリアンも一緒だ。返事はある」
兵の一人が、崩れた通路を見た。
「支えを持ってこい。入口に木材があった」
「捕まえた奴らは?」
「手前で確保した。奥にもいるのか」
「何人か。ゴドウィンは別の道へ逃げた」
兵の表情が変わった。
ポールは奥の扉を指した。
「追うなら気をつけろ。こっちも仕掛けてあった」
兵が頷き、後ろへ指示を飛ばす。
捜索に回る者と、石をどかす者に分かれた。
ニーナはもう一度、腰を落とした。
「これを動かします」
「一人では――」
石が持ち上がった。
兵が口を閉じる。
ポールが角材を差し込んだ。
「驚くのは後で頼む」
「あ、ああ」
ニーナは石を脇へ置き、土のついた手で額を拭った。
隙間が広がっていた。
「モニカ!」
声を掛けると、奥から返事がした。
「ここです!」
ニーナは目を閉じた。
一度だけ、大きく息を吐く。
「もう少しだから!」
*
最初に見えたのは、細い光だった。
石の隙間から差し込み、モニカの髪を照らした。
頬には土がつき、目元が濡れている。
ユリアンは、それを見なかったふりをした。
「モニカ様、先に」
握っていた手を離し、出口へ身体を向ける。
ニーナの顔が覗いた。
「出られる?」
「はい」
モニカが膝をつき、狭い隙間へ進む。
ユリアンは背中を支えた。
向こうで、ニーナが両腕を伸ばしていた。
モニカを受け止め、そのまま抱き寄せる。
「よかった……」
ユリアンも後から這い出した。
ポールが腕を取る。
立ち上がろうとして、膝が折れかけた。
「おい」
「大丈夫」
「それ、さっきも言ってた」
ポールは肩を貸した。
ユリアンはしばらく言い返せなかった。
通路には兵がいた。
松明が幾つも灯り、入口へ続く道が見える。
モニカはニーナの腕の中で、こちらを見ていた。
ユリアンと目が合う。
今度は、間に格子がなかった。
「帰りましょう」
ユリアンが言った。
モニカは頷いた。
「はい」
*
洞窟の外へ出ると、日が傾き始めていた。
空の明るさに、ユリアンは目を細めた。
同じ光を浴びながら、モニカが立ち止まる。
ニーナが隣へ並んだ。
「眩しいね」
「……ええ」
モニカは顔を上げたまま、しばらく動かなかった。
兵が馬車を調べ、安全を確かめていた。
捕まえた男たちは別にまとめられ、負傷した者には手当てが行われている。
奥を調べに行った兵が戻ってきた。
「西の斜面へ抜ける出口がありました。馬を置いていた跡も」
「ゴドウィンは」
ユリアンが訊く。
兵は首を振った。
「捜索は続けます。ただ、もうかなり先へ行っているかと」
ユリアンは洞窟を振り返った。
追えたかもしれない。
あの扉へ、そのまま踏み込んでいれば。
だが、モニカはまだ敵の手から戻ったばかりだった。
彼は顔を戻した。
「お願いします」
ニーナが鞄を開いた。
水袋をモニカへ渡し、白い花を取り出す。
「これ」
モニカの目が、花へ止まった。
布の花びらは潰れ、土で汚れていた。
留め具も曲がっている。
「見つけてくださったのですね」
「うん。ポールが拾ったの」
ポールは、弓の弦を確かめていた。
顔を上げ、頷く。
「落ちてた。通路の途中に」
「わざと、落としました」
「そうだろうと思った」
モニカが両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、こっちだよ。道が合ってるって分かった」
ポールはそれだけ言い、矢筒を背負い直した。
ニーナがモニカを馬車へ乗せた。
その隣へ座り、鞄を膝に置く。
中で、紙の包みが鳴った。
二人の目が合った。
「……お菓子」
モニカが呟いた。
ニーナが包みを出す。
開くと、焼き菓子は半分ほど割れていた。
「ちょっと、潰れちゃった」
「ちょっとでは、ないかもしれませんね」
モニカの声が、少しだけ和らいだ。
ニーナは欠けた一つを手に取った。
「でも、食べられるよ」
「ええ」
モニカも、小さな欠片を取った。
口へ運ぶ。
甘さが舌へ広がった。
飲み込もうとして、喉が詰まった。
ニーナは何も言わなかった。
ただ、隣へ少し寄った。
モニカは菓子を持ったまま、俯いた。
ニーナの肩へ、額が触れた。
*
ロアーヌへ戻った時、ミカエルは城門の内側で待っていた。
馬車が止まる。
ユリアンが先に降り、モニカへ手を差し出した。
彼女はその手を取り、ゆっくりと地面へ降りた。
ミカエルが歩み寄る。
モニカの裂けた袖。
腕の痕。
土のついた髪。
順に目を向け、それから顔を見た。
「モニカ」
「お兄様」
ミカエルの手が、彼女の肩へ伸びかけた。
モニカがわずかに身を強張らせる。
その動きに気づき、手を止めた。
「痛むのか」
「少し。でも、大きな怪我は」
「医師に診せる」
モニカは頷いた。
ミカエルは侍女へ目を向けた。
すぐに二人が寄ってくる。
モニカが連れられていく前に、ユリアンは一歩進んだ。
「ミカエル様。申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる。
「俺が、守りきれず」
「顔を上げろ」
ユリアンは動かなかった。
「ユリアン」
もう一度呼ばれ、顔を上げた。
ミカエルは彼の肩を見た。
その隣のポールと、ニーナにも目を向ける。
「三人とも、先に手当てを受けろ。報告は、その後で聞く」
「ですが」
「モニカを連れ戻したことには、礼を言う」
ユリアンは口を閉じた。
ミカエルの声は静かだった。
「何が起きたかは、これから確かめる。今ここで、誰か一人の失態にして終わらせるつもりはない」
モニカが振り返った。
ユリアンは彼女を見た。
小さく頷くと、モニカも頷き返した。
*
その夜の報告は、長くなった。
ユリアンたちの話と、捕らえた男の話。
街道の兵の証言。
古い搬入路を調べた者の報告。
並べると、少しずつ形が見えてきた。
通路は、城壁の修繕時に石材を運ぶために使われていた。
使わなくなった後、街側の口は板と石材で覆われていたが、内側には古い格子が残っていた。
犯人たちは外側の作業場から入り、覆いを裏から外していた。
表には石を貼った板を戻し、遠目には塞がれたままに見えるようにしていた。
「数日は掛けているな」
ミカエルが図面を見ながら言った。
ユリアンは卓の向かいに座っていた。
肩には新しい包帯が巻かれている。
「朝に通った時は、何も」
「巡回の者も同じことを言っている」
ミカエルは顔を上げた。
「昔、この補修を指揮した者の中に、ゴドウィンがいる」
「知っていたんですね」
「ああ」
ポールが口を開いた。
「道を変えた日には、仕掛けてこなかった。俺たちが、あそこを通るまで待ってたんだと思います」
「見張っていた男か」
「同じかどうかまでは。ただ、外出のたびに、荷車を置くことはできたはずです」
ミカエルは頷いた。
「通路は両側から押さえた。同じ時期の工事箇所も調べる」
「外出は」
ユリアンが訊いた。
「当面は控える。ただし、調査が済んだ道から使えるようにする」
ユリアンは卓の地図を見た。
自分が選んだ道だった。
壁があれば、片側を気にしなくて済むと思っていた。
「俺は、壁へ寄るように言いました」
「挟まれていたのだろう」
「はい」
「では、その場で取れる手を話せ。後から仕掛けを知った今の話ではなく、あの時、何が見えていたかだ」
ユリアンは少し黙った。
前後の魔物。
閉じた裏口。
荷の積まれた脇道。
モニカの横にいたニーナ。
一つずつ話した。
ミカエルは最後まで聞いた。
途中で将校が問い、ポールが位置を補った。
すべてが終わる頃には、卓の灯りが二度替えられていた。
「今後、三人だけで対応しきれない時の合図も決める。巡回が来るまで、こちらの動きが見えなかった」
ミカエルが言った。
ユリアンは頷いた。
「はい」
「それと、応援の到着を待てず先行した件。理由は分かった。残した印も役に立った。ただし、次も必ず間に合うとは限らん」
「分かっています」
「分かっているなら、次のやり方を考えろ」
責めるだけの声ではなかった。
慰める声でもなかった。
ユリアンは背筋を伸ばした。
「はい」
*
翌朝、モニカは庭へ出なかった。
部屋の窓を開け、椅子に座っていた。
医師からは、肩と腕をしばらく休めるように言われている。
ニーナが朝食を運んできた。
籠を卓へ置き、皿を並べる。
「今日は、ここで食べる?」
「ええ」
「分かった」
それ以上は訊かなかった。
モニカは窓の外を見た。
庭では、職人が倒れかけた支柱を直している。
木槌の音がした。
肩が動いた。
自分でも分かるほど、小さく跳ねた。
ニーナの手が止まる。
モニカは膝の上で指を組んだ。
「……驚いただけです」
「うん」
ニーナは窓を少し閉めた。
「パン、切ろうか」
「お願いします」
刃がパンへ入る音がした。
いつもの朝だった。
いつもの朝に戻るには、まだ少し時間が要りそうだった。
廊下では、ユリアンが立っていた。
交代の護衛が来る。
引き継ぎを終えても、ユリアンは部屋の扉を見ていた。
「少し寝ろ」
「寝ました」
「どのくらい」
「……少し」
男がため息をついた。
「ここは任せろ。何かあれば呼ぶ」
「分かりました」
ユリアンはようやく廊下を離れた。
角を曲がる前に、一度だけ振り返る。
護衛の男が、顎で先へ行くよう促した。
*
その翌日、ユリアンは中庭でポールと馬具を片づけていた。
ニーナも、外出用の鞄へ布を補充している。
門の方から、よく通る声がした。
「よー、ミカエルに呼ばれて来たんだが」
「ただいま、お取次ぎを」
「ああ、頼む。急がなくていいぞ」
ユリアンが振り返ると、兵に連れられた大柄な男が歩いてきた。
まず目に入ったのは、羽飾りのついた真っ赤なシルクハットだった。
その下から、黒い巻き髪が肩まで広がっている。目元には青緑のレンズが光るゴーグル。分厚い肩当てと胸甲まで赤と金で彩られ、背には大剣を負っていた。
三十代半ばほどだろうか。ユリアンより頭一つ近く背が高く、鎧を着込んだ肩幅も広い。
ずいぶん目立つ格好だったが、男は周囲の視線など気にせず、三人の前で足を止めた。
包帯の巻かれたユリアンの肩へ、顔を向ける。
「お前がユリアンか」
「そうですけど」
「俺はウォード。ミカエルに呼ばれたんだが、話は聞いてるか?」
ポールも立ち上がった。
「護衛に来るっていう」
「おう。どうやら、その話らしいな」
「らしいって」
ウォードは肩をすくめた。大きな肩当てが揺れる。
「詳しくは着いてからだとよ。来てみりゃ、姫が攫われただの、もう戻っただの。道中より話を聞く方が忙しいぞ」
ユリアンは顔を伏せかけた。
その前に、ウォードが続ける。
「三人で連れ戻したんだってな」
「兵も来てくれました」
「そうか。無事に戻れたなら、何よりだ」
強かったのか、敵は何人いたのか。そういうことは訊かなかった。
ニーナが鞄を持ち上げた。
「今からミカエル様のところへ?」
「ああ。案内してもらえるか」
「はい。こちらです」
「助かる」
ウォードは歩きかけ、通路へはみ出した木箱に気づいた。
手を伸ばそうとしたところで、ニーナが先に抱え上げる。
「これは、こっちね」
脇へ置くと、中で金具が重い音を立てた。
ウォードの手が止まった。
「おいおい。それ、空じゃなかったのか」
「馬具が入ってます」
男は箱を見下ろした。隙間から、鎖や鐙がのぞいている。
それから、ニーナへ顔を戻した。
「……ほう」
ニーナが首を傾げる。
「何か?」
「いや。頼もしいのがいるじゃあねえかと思ってな」
「箱を退けただけですよ?」
ポールが、小さく笑った。
*
ミカエルは、ウォードを見ると短く言った。
「遅い」
「手紙が着いた日に出たぞ」
「なら、道が長かったのだろう」
「そういうことにしとけ」
ユリアンは二人を見比べた。
侯爵へそう返す者を、ザイン以外で初めて見た。
部屋にはモニカもいた。
肩へ薄い布を掛け、椅子に座っている。
「ウォード様、お久しぶりです」
「様はいらん」
「ですが」
「会うたび同じ話をしてるな」
モニカが小さく笑った。
その笑顔を見て、ユリアンは少し息を吐いた。
ミカエルがウォードへ椅子を勧めた。
事件の経緯を簡潔に話し、三人の役割を伝える。
ウォードは黙って聞いた。
途中で一度だけ、ゴドウィンの逃げた道を訊いた。
説明が終わると、ミカエルが言った。
「モニカの護衛に加わってもらう」
「三人じゃ足りんか」
「人数だけの話ではない。旅先や、予想外の事態に対応できる者が要る」
「留守中の兵は?」
「今の三人を残す。交代と城内の警護は、引き続き任せる」
ウォードが頷いた。
それから、モニカを見た。
「お前は、どうしたい」
モニカはすぐには答えなかった。
窓の外で、鳥が鳴いていた。
「……また、外へ行きたいです」
膝の上で指を重ねる。
「今すぐ、遠くへは行けないかもしれません。でも、ずっと部屋にいるのも」
「ああ」
ウォードは頷いた。
「じゃあ、行けるようにしよう」
大げさな約束ではなかった。
明日の天気を確かめるような言い方だった。
ミカエルが地図を広げた。
「門の近くと、南の大通りは調査が済んだ」
「なら、最初はそこだな。距離は短くていい」
ウォードはユリアンを見た。
「歩く速さは、お前がよく知ってるだろ」
「はい」
「俺に教えろ。いきなり連れ出して、疲れさせても仕方ない」
ユリアンは少し驚いた。
仕事を取り上げられるのではなかった。
新しく来た男へ、自分が知っていることを渡すのだ。
「分かりました」
モニカがこちらを見ていた。
ユリアンは、今度は迷わず頷いた。
*
数日後、五人は城門を出た。
行き先は、門からほど近い菓子屋だった。
前と同じ店ではない。
帰る時刻も決めてあり、途中で疲れたら引き返すことになっている。
ユリアンはモニカの隣を歩いた。
ニーナが反対側につき、ポールは少し前へ出る。
ウォードは後ろを歩いていた。
剣の柄へ、つい手が触れる。
ユリアンは気づいて離した。
その動きを、モニカも見ていた。
横の路地で、大きな音がした。
木箱が倒れたのだった。
モニカの足が止まる。
ユリアンも、剣の柄へ手を掛けていた。
ポールが路地を覗き、すぐに戻ってきた。
「荷崩れだ。誰も怪我してない」
「そうか」
ユリアンは手を離した。
モニカは路地を見ていた。
息が少し速い。
「戻りますか」
ユリアンが訊いた。
モニカは迷った。
それから、通りの先へ目を向ける。
店先に、小さな看板が見えた。
焼き菓子の形が描かれている。
「お店まで、もう少しですよね」
「はい」
「では、そこまで」
ニーナが隣へ並んだ。
「売り切れてないといいね」
「今日は、まだ早いですもの」
モニカが一歩進んだ。
ユリアンも歩き出す。
ウォードは何も言わず、その後へ続いた。
店では、木の実を載せた菓子を買った。
ニーナが包みを受け取り、今度は鞄の一番上へ入れる。
「今日は潰さないようにしないと」
「俺が持つか?」
ポールが訊いた。
「いい。私が持つ」
「分かったよ」
城へ戻るまで、何も起きなかった。
門番が五人を見つけ、扉の脇へ退く。
モニカはその前で、少しだけ足を緩めた。
振り返ると、通りにはいつもの人の往来があった。
荷車が進み、店先で誰かが笑っている。
「……ただいま戻りました」
門番が頷いた。
「お帰りなさいませ」
中庭の卓へ、菓子の包みが置かれた。
ニーナが紙を開く。
五つとも、形は崩れていなかった。
「よし」
小さく言ったニーナに、ポールが笑った。
ウォードは椅子を引き、ユリアンは水を取りに行こうとした。
「ユリアン」
モニカが呼んだ。
振り返る。
「今日は、一緒に食べてくださいね」
「……はい」
ユリアンは隣の椅子へ座った。
モニカは菓子を一つ取り、今度はゆっくりと口へ運んだ。