Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ロアーヌを発ったザインたちがピドナへ戻り、数日が過ぎていた。
港には船が並び、通りには荷車が溢れている。
大きな荷を背負って歩いていても、誰も振り返らない。町へ入る時に、一人ずつ名を確かめられることもなかった。
ノーラの工房には、以前より物が増えていた。中へ入ると、炉の熱と油の匂いが四人を迎えた。
壁際には削りかけの柄が並び、奥では若い職人が鉄を打っている。入口に積まれた木箱を避けて入ると、ノーラは顔を上げるなり手を差し出した。
「見せな」
「まだ何も言ってないわよ」
「そのために来たんだろ」
ノーラは早速エレンが差し出したフランシスカを見る。
「使ってるな」
「使いやすいもの。振った後、戻しやすいのよね。前のより、次へつなげやすい」
「そりゃよかった」
刃へ顔を近づけ、角度を変える。
光の当たり方で、細かな欠けが浮かんだ。
「何を斬った?」
「いろいろ」
「いろいろじゃ分からないだろ」
「魔物とか、竜とか」
ノーラの手が止まった。
「竜?」
「ツヴァイクで」
「ああ、あの大会か。お前ら、出たのか」
「出た。勝った。こいつが大分使い込んだ」
ザインが言うと、エレンは彼を見た。
「あんたも剣、使い込んだでしょ」
「俺の剣は、ここまで欠けてねえ」
「竜の相手してないからよ」
ノーラは二人を見比べ、斧を作業台へ置いた。
口元が、少しだけ緩んでいた。
「話は聞いてやるから、順番に出せ」
ノーラは次にザインが差し出したファルシオンを持った。
刃を指で弾いて音を聞き、刃先を少しずつ傾ける。
途中で手が止まった。
「硬いもんに当てたね」
「剣とか、盾とか」
「そこは分かるよ」
「なら聞くな」
ノーラは鼻を鳴らし、刃の小さな傷を指した。
「ここ。横から力が掛かってる」
「受け流した時だな」
「受け流した後も、無理に押しただろ」
「……よく分かるな」
「作ったの、私だからね」
ノーラはファルシオンも作業台へ置くと、エレナのエストックを受け取った。
「柄の具合は、とてもいいです。長く持っていても、前ほど指が痛くなりません」
「あんたは手首を返す時、そこを押す癖があるからね。緩んでないか見ておくよ」
「お願いします」
「サラは?」
「弓を、少し。弦を替えた方がいいのか分からなくて」
ノーラは受け取った弓を、丁寧に眺めた。
指先で弦に触れ、張りを確かめる。
「よく使ってるね」
「はい」
「手入れもしてる。すぐ替えなくてもいいけど、予備は持っときな」
「分かりました」
サラは肩の力を抜いた。
褒められたことに気づいたらしく、口元が少し上がる。
ザインが作業台の端へ肘を置いた。
「で、いくらだ」
「まだ見てる途中」
「先に聞いとかねえと、後から増える」
「増えるような使い方をするな」
エレンが笑った。
奥から、金槌を置く音がした。
若い職人が入口へ顔を向ける。
「親方、あれ、今日からでしたっけ」
「あれ?」
「広場の。見世物小屋」
サラが振り向いた。
「見世物小屋?」
「昨日から天幕を張ってたろ。昼から開くってさ」
ノーラが顎で通りの向こうを示した。
「行ってきたらどうだい。こっちは夕方まで掛かる」
「何がいるんですか」
「大蛇だの、珍しい獣だの。妖精もいるって聞いたよ」
サラの目が丸くなった。
「妖精?」
「看板には描いてあったね」
「本物かな」
「私に聞かれてもねえ」
エレンがサラを見る。
「行く?」
「うん」
二人の視線が、エレナへ向いた。
彼女はすでに興味を持った顔をしていた。
「妖精なら、見てみたいですね」
最後に、三人がザインを見た。
彼は作業台から肘を離した。
「いくらだ」
「まだ看板も見てないでしょ」
エレンが言った。
*
広場の外れには、三つの天幕が並んでいた。
赤と黄色の布。
風に揺れる長い旗。
入口では笛と太鼓が鳴り、派手な上着の男が、通りを歩く人々へ声を張り上げている。
「さあさあ、お立ち会い! 世界の不思議、世にも珍しい獣たち! 遠い国まで旅をせずとも、ここでご覧になれますぞ!」
大きな看板には、金色の文字が躍っていた。
《グレート・フェイク・ショー》
ザインが見上げる。
「フェイクって書いてあるぞ」
「先に言ってくれるなんて、親切じゃない」
エレンが返した。
「それで金を払うのか、お前は」
「面白ければいいのよ」
サラは看板の絵を見ていた。
角のある獣と、大きな蛇。その隣に、小さな羽を持つ人影が描かれている。
「これ、妖精だよね」
「そのようですね」
エレナが看板へ近づいた。
絵の妖精は花の上に立ち、にこやかに片手を振っていた。
足元には、南の密林で発見、と書かれている。
呼び込みの男が、四人を見つけた。
「ようこそ! 本物の妖精をご覧になったことは?」
「ないよ」
サラが答えると、男は大きく頷いた。
「ならば、ぜひ! 世にも稀な、空飛ぶ小人! 人の言葉まで喋ります!」
ザインは入口の札を見た。
一人、十オーラム。
「三つ全部か」
「もちろんでございます」
「途中で、別に払えとは言わねえな」
「ございませんとも!」
エレンが財布を出した。
「ほら。入るんでしょ」
「まだ払うとは言ってねえ」
「一人だけ外で待つ?」
「……見る」
四人分の入場料が、それぞれの財布から出された。
*
最初の天幕では、曲芸が行われていた。
張り渡した綱の上を、若い男が歩いている。
足元の綱が揺れても、上体はほとんど動かなかった。
サラが息を止めた。
男は途中で足を止め、ゆっくりと腰を落とした。
片手を綱へ掛ける。
観客が静まったところで、身体が逆さになった。
「うわ」
エレンが声を漏らした。
逆さのまま揺れを止め、男が笑いかける。
拍手が起きた。
サラも手を叩いた。
エレナは、綱を留めている支柱へも目を向けていた。
「よくあれだけ揺れを抑えられますね」
「下も見てるのか」
ザインが訊く。
「ええ。仕掛けも含めて、見事だと思いませんか」
「やってる奴の腕だろ」
「もちろん、それもです」
男は最後に一度宙返りをし、再び綱へ降りた。
大きな歓声が上がった。
エレンがザインを見る。
「できる?」
「何で俺がやるんだ」
「できそうだから」
「曲芸師を雇え」
火を使った芸もあった。
男が口元へ松明を寄せ、大きく息を吐くと、炎が天幕の高いところまで伸びた。
エレナが真剣な顔で見ている。
「何を口に含んでいるのでしょう」
「やるなよ」
「まだ何も言っていません」
「考えただろ」
「仕組みが気になっただけです」
エレンが二人の間から顔を出した。
「で、何を使ってるの?」
「匂いからすると――」
「お前も聞くな」
サラが笑った。
右側の天幕へ向かう途中、出てきた男が口元を押さえていた。
「……あれは、飯の前に見るもんじゃないな」
エレンが眉を上げる。
「何がいたの?」
「見りゃ分かる」
見て、分かった。
天幕の奥に、鉄の囲いがあった。
その中で、薄桃色の肉の塊が動いていた。
胎児とも蛸ともつかない異形の魔物だった。
膨れた頭部には赤い目のようなものが幾つも並び、節のある長い尾と細い触手が、地面を這うようにうごめいていた。
顔らしきものがこちらを向いた。
サラが一歩下がった。
「……生きてる」
「そりゃ、動いてるもの」
エレンも近づこうとはしなかった。
男が看板を叩いた。
「これぞ、魂を吸う怪物、ソウルサッカー! その名を聞いただけで、泣く子も黙る!」
「泣くと思うけど」
エレンが小声で言った。
怪物の口元から、液体が一筋垂れた。
床板へ落ちる。
白い煙が上がった。
ザインの目が細くなる。
囲いの下には、何枚も板が敷かれていた。
そのうち一枚は黒く変色し、金具の周りが崩れかけている。
飼育係らしい男が、長い柄の桶を引き寄せた。
「支配人。こっちの留め具、やっぱり替えないと」
「後にしろ。客がいる」
「でも、昨日も」
「終わってからだ」
派手な上着の男は、観客へ笑顔を向け直した。
ザインは囲いをもう一度見た。
ソウルサッカーが動くたび、傷んだ金具が小さく鳴っていた。
「離れろ」
「言われなくても、もう出るわ」
エレンがサラの肩へ手を添えた。
天幕を出ると、外の空気が妙に清々しかった。
「あれは、もういい」
「私も」
サラが頷いた。
エレナは振り返っていた。
「あの液体、木だけではなく金属も傷めているようでした」
「近づかねえ方がいい」
「ええ」
中央の天幕から、太鼓が聞こえた。
次の見世物が始まるらしい。
入口へ人が集まっていく。
サラが看板を見上げた。
そこには、羽のある小さな姿が描かれていた。
*
中央の天幕には、大勢の客が入っていた。
前の方で、子供が父親の肩へ乗っている。
立ち並ぶ背中の隙間から、小さな檻が見えた。
サラが背伸びをする。
「あそこかな」
「見える?」
「少しだけ」
舞台の上で、興行師が長い棒を持っていた。
「さて、お待ちかね! 南方の密林、そのまた奥より連れてまいりました、世にも珍しい妖精でございます!」
赤い布が引かれた。
檻の中で、何かが動いた。
小さな手足。
鮮やかな髪。
背中には、薄く透き通る羽があった。
人形ではなかった。
細い指が鉄格子を掴み、こちらへ顔を向ける。
「こっち見てー!」
前の子供が声を上げた。
「見てるよ!」
檻から返事が飛んだ。
観客が沸いた。
エレンも思わず目を丸くする。
「本当に喋った」
「だから、喋るって言ってるでしょ!」
妖精が立ち上がった。
だが、すぐに背中を気にするように身体を捻った。
羽が小さく震え、顔をしかめる。
サラの笑みが消えた。
「……何か、引っ掛かってる?」
エレナが人の肩越しに檻を見る。
格子の内側に、細いものが張り渡されていた。
灯りを受けた時だけ、わずかに光る。
妖精が手を伸ばした。
それを見た興行師が、棒で檻を軽く叩く。
「さあ、羽を見せておくれ。皆さん、お待ちかねだ」
「出してくれたら、見せてあげる!」
「ほら、お喋りも達者でしょう?」
観客が笑った。
「出してってば!」
また笑いが起こる。
サラは周りを見た。
誰も、檻へ近づこうとはしない。
妖精が格子の間から手を伸ばした。
興行師は棒の先をその手へ押し当て、檻の中へ戻した。
サラが、前の客の間へ踏み出しかけた。
ザインが肩へ手を置き、引き止める。
「待て」
「でも、あんなこと……」
「分かってる」
低い声だった。
ザインは檻から目を離し、舞台袖に立つ男を見た。それから、客の間を抜けられる場所と、出口の位置を確かめる。
エレンの手も、斧を探して腰へ動いた。
何もないところで止まる。工房へ預けたままだった。
「……あれ、嫌がってるわよね」
「ああ」
檻の中で、妖精が押し戻された手を胸元へ引き寄せていた。
「芸じゃないよ、あんなの」
サラの声が震えた。
ザインは肩に置いた手を緩めたが、まだ離さなかった。
妖精が顔を上げる。
サラと目が合った。
サラは何か声をかけようとした。
その時、前の客が身を乗り出し、二人の間を遮った。
背伸びをしても、もう妖精の顔は見えなかった。
見世物が一区切りつくと、サラは興行師へ近づいた。
「あの子を、出してあげられませんか」
男は愛想よく笑った。
「逃げてしまいますので」
「帰りたいって言ってました。あれ、芸じゃ――」
ザインが、サラの肩へ手を置いた。
「行くぞ」
「でも」
舞台袖にいた大柄な男が、こちらを見ていた。
腰には棍棒を差している。
ザインはサラを促し、出口へ向かった。
天幕を離れたところで、サラが足を止めた。
「……置いていくの?」
「客が帰ってからだ」
サラが顔を上げた。
ザインは興行場の裏手へ目を向けていた。
「今、騒ぎになったら、あの檻ごとどこかへ運ばれる」
「じゃあ、夜に?」
「ああ」
エレンが息を吐いた。
「なら、先に武器を受け取りに行きましょ」
「その前に、裏の出入りだけ見ておく」
ザインが歩き出す。
サラも、その後を追った。
*
夜、興行場の灯りが一つずつ消えていった。
最後の客が広場を離れ、入口の幕が下ろされる。
工房から受け取ったファルシオンの鞘を押さえ、ザインは荷車の陰で待っていた。
見回りの男が天幕の角を曲がる。
足音が遠ざかった。
「行くぞ」
四人は足音を抑え、中央の天幕へ向かった。
布の隙間を抜けると、藁と湿った土の匂いがした。
どこかで獣が動き、鎖が鳴る。
小さな檻は、舞台裏の台に置かれていた。
上に布が掛けられ、中から音はしなかった。
サラが近づく。
「……いる?」
布が動いた。
「いる」
昼より小さな声だった。
サラが布を上げる。
妖精は檻の底に座っていた。
膝を抱え、片方の羽を不自然に畳んでいる。
サラを見た。
次に、その後ろの三人へ目を向ける。
「あんたたち、昼間いたよね」
「うん」
サラが頷いた。
妖精の目が、ザインで止まった。
「ひげも」
「他に覚え方ねえのか」
「見れば分かるでしょ」
声には、まだ棘があった。
けれど、格子へ伸ばした手は少し震えていた。
サラが檻の前へしゃがむ。
「助けに来たよ」
妖精はすぐには答えなかった。
小さな指が格子を握り直す。
「本当に、出してくれるの?」
「そのために来たんだよ」
格子を握る指が、少し緩んだ。
「……じゃあ、早く」
「うん。今、開けるから」
*
檻の正面には、小さな錠がついていた。
エレンが覗き込む。
「鍵は?」
「大きい男が持ってる」
「昼間、出てきた奴か」
エレナは横へ回っていた。
小さな灯りを寄せ、格子の間から中を見る。
「背中を、少し見せてもらえますか」
「出してくれたら見せる」
「出すために、確かめたいんです」
妖精は顔をしかめた。
それでも、ゆっくり身体を動かす。
透明に近い糸が、内側の枠へ何本も結ばれていた。
羽の縁が、その中へ引っ掛かっている。
格子を押そうと腕を上げると、背中の糸まで張った。
「それ以上は、動かさないでください」
「分かってる。痛いもん」
「最初から、こうなっていたんですか」
「違うよ。ここ、広げようとしたら引っ掛かった」
妖精が格子を指した。
二本の鉄棒が、途中から外へ曲がっている。
「……これ、自分で?」
エレンが訊いた。
「開かなかったから」
ザインは曲がった鉄と、小さな両腕を見比べた。
「小せえのに、力あるな」
「小さいのは関係ないでしょ!」
「声」
ザインが言った。
妖精は口を閉じた。
閉じてから、不満そうに頬を膨らませる。
エレナが檻の横へ手を添えた。
「こちらは外せそうです。糸も、この枠へ結ばれています」
「正面じゃないの?」
サラが訊く。
「世話をするための口でしょう。今、開けます」
ザインが枠へ手を掛けた。
エレナはすぐに止めた。
「待ってください。先に糸を緩めないと、羽が引かれます」
「どこからだ」
「こちらを支えていてください」
エレナは鞄から鋏を出した。
妖精の背中から離れたところで、糸を一本切る。
羽が、わずかに下がった。
妖精が息を吐く。
サラは檻へ手を差し入れ、ほどけた糸を持ち上げた。
「痛くない?」
「そこは大丈夫」
「こっちは?」
「待って。少し引っ張ってる」
「ごめん」
エレンは入口を見張っていた。
隣の天幕で、金属の弾ける音がした。
続いて、悲鳴。
全員が動きを止めた。
「誰か! こっちへ――!」
声が途切れた。
何かが床を叩き、重いものを引きずる音が続く。
ザインは入口へ向かった。
「外を見るぞ」
「分かった」
右の天幕が、内側から大きく膨らんでいた。
その足元から、白い煙が這い出している。
ザインが曲刀を抜いた。
「……あの金具か」
布が裂けた。
薄桃色の身体が、暗い通路へ転がり出た。
*
ソウルサッカーは、昼間より大きく見えた。
細い触手が地面を掻き、口が大きく開いた。
そのすぐ前で、飼育係が倒れていた。
片脚を引きずり、後ろへ下がろうとしている。
しかし、怪物の触手が男の衣服を掴み、引き寄せようとしていた。
ザインが走り、曲刀を伸びた触手へ斬りつける。
刃がぬめる皮膚へ入り、男の服が裂けた。
「引け!」
エレンが飼育係の襟を掴んだ。
怪物から引き離し、後ろへ下がる。
ソウルサッカーの口が、空を噛んだ。
湿った音がした。
ザインは刃を引いた。
切ったはずの触手が、まだ動いている。
「しぶといな」
怪物が顔を上げる。
口元が膨らんだ。
ザインは横へ跳んだ。
液体が地面へ飛び散る。
すぐ脇の木箱へ掛かり、白い煙が上がった。
「溶解液を吐くぞ! 正面に立つな!」
エレンは飼育係を荷車の陰へ運んだ。
「立てる?」
「脚が……」
「そこにいて!」
戻ってくる足音を聞きながら、ザインは怪物の進路へ入った。
表通りは、天幕の間を抜けた先だった。
このまま出せば、人のいるところへ行く。
ソウルサッカーが、地面を這った。
見た目に反して速い。
ザインは横から斬った。
胴へ刃が入る。
だが、曲刀が抜けきる前に、尾が振られた。
彼は刃を引き、身を沈めた。
頭上を、湿った風が通った。
エレンの斧が反対側から入る。
怪物の肩口へ食い込んだ。
身体が大きく揺れる。
それでも、倒れない。
「何よ、こいつ!」
斧を引き抜き、後退する。
ソウルサッカーの口から、また液体が垂れた。
*
中央の天幕で、サラは最後の糸を持ち上げていた。
外から、剣と斧の音が聞こえる。
姉の声もしている。
妖精がそちらを見ようとする。
「あと一本です。動かないで」
エレナが言った。
「外に何がいるの?」
「昼間、隣にいた魔物だと思います」
鋏が糸へ入る。
張っていたものが切れた。
羽がゆっくりと広がる。
「取れた!」
サラは切れた糸を引き出し、檻から手を抜いた。
エレナが鋏をしまい、横枠の留め具へ手を伸ばす。
「では、ここを――」
「もう大丈夫」
妖精が格子を掴んだ。
「少し離れて」
エレナが手を引く。
小さな両腕に力がこもった。
鉄が軋んだ。
横枠の留め具が弾け、格子が外へ押し開かれる。
サラは目を丸くした。
「……開いちゃった」
「羽が引っ張られなければ、これくらい」
妖精は開いた枠を乗り越え、一度、大きく羽ばたいた。
風が起きた。
サラの前髪が揺れ、目の前から小さな姿が消える。
次の瞬間には、天幕の高いところにいた。
妖精は一周飛び、入口へ向かった。
そこで止まる。
外では、ザインがソウルサッカーの尾をかわしていた。
エレンが斧を構え、天幕から離れた場所へ誘導しようとしている。
妖精は裂けた布の向こうを見た。
その先には、夜空が広がっていた。
どこへでも飛べた。
「今のうちに逃げて」
サラが言った。
「外は危ないから、上へ――」
「槍!」
妖精が振り向いた。
「私の槍、そこの台にある!」
エレナは台へ目を向けた。
丸めた布の横に、細長い木の枝が置かれている。緩く曲がった柄には節があり、鉄の穂先は見当たらなかった。
「この枝ですか?」
「それ!」
持ち上げると、妖精が両手で受け取った。
柄を握り直す。
枝の先へ淡い光が集まり、細く尖った刃の形を取った。
エレナの目が、その先端へ止まる。
「……これは」
妖精はもう、入口へ向いていた。
だが、飛び出す前に一度だけ振り返った。
「サラ、だっけ」
「うん」
「さっきの、ありがと!」
小さな身体が、夜の空気へ飛び出した。
*
ザインが半歩退いた時、頭上から声がした。
「どいて!」
何かが、すぐ横を通った。
槍の穂先がソウルサッカーの尾を捉える。
ぬめる肉が裂け、尾が地面へ叩きつけられた。
怪物の身体が横へ傾く。
ザインは槍の主を見た。
妖精が空中で止まっていた。
自分の身体ほどもある槍を、軽々と引き戻す。
「……お前」
「これで、貸し一つ!」
「助けたばかりだろ」
「今度は私が助けた!」
ソウルサッカーが動いた。
妖精へ向けて、口が開く。
「横!」
ザインが叫ぶより早く、妖精は飛んでいた。
溶解液が空を切り、後ろの地面へ散った。
「当たらないよ!」
高く上がり、怪物の背後へ回る。
エレンが目で追った。
「速っ……」
その間に、エレナとサラが出てきた。
サラは弓を構えた。
狙いを定めた瞬間、妖精が目の前を横切る。
サラは慌てて矢先を上げた。
「勝手に飛び込むな! 矢が当たるぞ!」
ザインが声を飛ばした。
「当たらないよ!」
「サラが撃つのをやめたんだよ」
妖精が振り返った。
サラは弓を引いたまま、狙い直せずにいた。
「……じゃあ、どこ?」
「左から回れ。こっちは俺が押さえる」
妖精は少し口を尖らせたが、槍を構え直し、左へ飛んだ。
空いた射線へ、サラが矢を放った。
矢が口元へ突き立ち、ソウルサッカーが顔を背けた。
エレナが怪物を見ていた。
傷はついている。
尾も、胴も。
それでも、厚い身体が動くたび、傷口が肉の間へ隠れてしまう。
口元が膨らむ。
「また、吐きます!」
五人が散った。
溶解液が、今度は低く飛んだ。
エレンの足元をかすめ、草を黒く変える。
ソウルサッカーが、そのまま前へ出る。
吸いつくような口が、エレンの腕へ向かった。
彼女は斧の柄を横にして押し返した。
細い触手が柄へ絡む。
「触るな!」
踏み込み、怪物の身体を横へ押す。
ザインがその触手へ斬り込んだ。
エレンが斧を取り戻す。
柄には、ぬらぬらとした液体がついていた。
彼女は一瞬だけ顔をしかめた。
「手入れしたばっかりなのに!」
「後で拭け!」
ザインが返す。
エレナが手を上げた。
風が集まる。
《ウインドダート》
鋭い風の刃が、怪物の身体へ走った。
膨れた皮膚が裂け、ソウルサッカーが身を縮める。
その動きを、サラが見た。
口の下が、一瞬だけ伸びた。
すぐに細い触手が寄り、その部分を覆い隠した。
「下からなら、届くかも」
妖精がサラを見た。
「どこ?」
「あの触手の向こう。私がこっちを狙うから、反対から行ける?」
「行ける!」
即答だった。
サラは弓を引いた。
左へ回った妖精が、槍を身体に沿わせる。
今度は、まだ飛び込まなかった。
ソウルサッカーが口を開く。
弦が鳴った。
矢が右肩へ突き立ち、怪物の顔がそちらへ振れる。
その横へ、エレンが踏み込んだ。
「こっちも、いるのよ!」
腰を捻り、斧を叩き込む。
膨れた胴が傾き、地面を支えていた触手が潰れた。口元を庇っていた触手まで、体勢を戻そうと外へ広がる。
サラには、その隙間が見えた。
「今!」
妖精が飛んだ。
羽ばたきが土埃を巻き上げる。
地面すれすれを駆け抜けた小さな身体が、怪物の懐で跳ね上がった。
《チャージ》
穂先が、口の下を捉えた。
飛翔の勢いを乗せた槍が深々と突き入り、怪物の頭を下から突き上げる。
巨体がのけぞった。
妖精は柄を捻って槍を抜き、翼を広げた。勢いを殺しきれず、そのまま怪物の脇を飛び抜ける。
一拍遅れて、ソウルサッカーが地面へ崩れ落ちた。
重い音が響いた。
土埃の中で、長い尾が一度跳ねた。
妖精は空中で向き直り、槍を構えた。
ザインも曲刀を下ろさない。
まだ、触手が地面を掻いていた。
その動きが次第に鈍り、やがて止まる。
開いた口から、最後の雫が落ちた。
エレンが長く息を吐く。
「……何で、こんなの見世物にしてるのよ」
ザインは倒れた怪物を確かめてから曲刀を下ろし、妖精を見た。
「今のは、よかった」
「ちゃんと待ったでしょ!」
妖精が胸を張った。
「ああ。あれなら、こっちも合わせられる」
妖精はサラへ向き直った。
「あそこ、よく見えたね」
「一瞬だけだったけど」
「私には見えなかった。次も教えて」
サラは少し驚き、それから弓を下ろした。
「うん」
妖精が笑う。
サラも、笑い返した。
広場の方から、灯りが近づいてきた。
騒ぎを聞きつけた夜警だった。
興行の者たちも集まってくる。
飼育係は荷車の陰に座っていた。
エレナが脚を確かめ、サラが水を運ぶ。
「触られましたか」
「服だけだ……引っ張られて、捻った」
「では、まず動かさずに」
興行師が、倒れたソウルサッカーを見ていた。
その目が、頭上の妖精へ向く。
「こいつらが、勝手に――」
「俺、言いましたよね」
飼育係の声がした。
男は顔を上げていた。
「留め具、替えないと駄目だって。昨日も、今日も」
興行師の口が止まった。
夜警が二人を見比べ、次にザインたちへ目を向けた。
「話を聞かせてもらおうか」
ザインは曲刀の血を拭った。
鞘へ戻してから、頷く。
「長くなるぞ」
妖精がザインの肩の後ろへ下がった。
「また、檻?」
「ならねえように話すんだ。お前も喋れ」
「喋っていいの?」
「自分の話だろ」
妖精は彼を見た。
それから、夜警の前へ飛んだ。
「私、果物を食べたら眠くなって、起きたら閉じ込められてた!」
夜警は妖精へ向き直った。
「誰に、その果物をもらった?」
「知らない男。森に来たの」
「待ってください。それは我々が――」
口を挟んだ興行師を、夜警が手で制した。
「あんたの話も後で聞く。今は、この子からだ」
妖精は口を閉じ、夜警の顔を見た。
「続けてくれ」
今度は、ザインを振り返らなかった。
小さな手で身振りを交えながら、檻に入れられるまでのことを話し始めた。
次に四人も順に事情を聞かれた。
宿の名を伝え、翌日も話を聞くと言われて、ようやく帰ることを許された。
*
宿へ戻った時には、夜もずいぶん更けていた。
エレンとサラは、その夜はエレナの部屋へ泊まることにした。
遅くなると伝える使いは、夕方のうちにトーマスの親戚宅へ頼んであった。
妖精は宿の窓へ飛ぼうとして、ザインに呼び止められた。
「羽、見せろ」
「何で」
「糸が残ってねえか、見てもらえ」
「飛べたよ」
「飛んだから、もう一回見るんだ」
妖精は不満そうにしたが、エレナの方へ戻った。
部屋に灯りをつける。
エレナが椅子へ座ると、妖精は卓の上へ降りた。
片方ずつ羽を広げる。
サラが灯りを持ち、エレンは窓を閉めた。
「こちらに、一本だけ」
エレナは羽の端へ残った糸を、指先でそっと外した。
妖精は身じろぎしなかった。
「傷は少し擦れた程度ですね。今夜は休んでください」
「もう治ったよ」
「治ったかどうかは、明日見ましょう」
「……はーい」
妖精はエレナを見て、羽を畳んだ。
エレナは、卓へ立てかけられた枝を見た。
先ほどの刃は、もう消えている。
「その槍、どこで手に入れたんですか」
「森。いい枝だったから、持ってた」
「最初から、刃が出たのですか?」
「最初は出なかったよ。刺そうと思ったら、出た」
エレナは少し黙った。
「……ウィルスピア。記録にある槍と、特徴が似ています」
「そういう名前なんだ」
「知らずに使っていたんですか」
「刺せるから、槍でしょ?」
サラが水を入れた小さな器を置く。
「飲める?」
「飲める」
両手で持ち、少しずつ飲んだ。
エレンは寝台の端へ座った。
「あんた、あんなに速いのに、寝てるところを捕まったのね」
「寝てる時は、飛ばないもん」
「まあ、そうだけど」
「起きてたら、捕まらなかった!」
「分かったわよ」
ザインは戸口にもたれていた。
「次から、知らねえ奴の食い物を食うな」
「あんたたちは、もう知ってるよ」
妖精が空の器を持ち上げた。
「これには、薬なんか入れないでしょ」
ザインは一瞬黙った。
「……入れねえよ」
「じゃあ、大丈夫」
サラが小さく笑った。
ザインは四人を見た後、戸を開けた。
「寝ろ。明日、どうするか考える」
「ひげは、隣?」
「俺の名前はザインだ」
戸が閉まる。
妖精は器の縁を撫でていた。
しばらくして、小さく言った。
「……ありがと」
サラが顔を上げた。
エレナも、手を止める。
「糸、痛かったから」
サラは隣へ椅子を寄せた。
「取れてよかったね」
妖精は一度頷いた。
今度は、何も言い返さなかった。
*
翌朝、ザインが宿の食堂へ下りると、自分の皿からパンが浮き上がった。
いや、パンを抱えた妖精が飛んでいた。
卓の向かいでは、エレンが肩を震わせている。
サラは困った顔で、別のパンを差し出しかけていた。
「それ、俺のだぞ」
妖精が空中で止まった。
「ちょっとだけ」
「自分のを食え」
「こっちは何が挟まってるの?」
「見るな」
「肉だ」
嬉しそうな声だった。
ザインは皿を引き寄せた。
妖精も、パンを抱えたまま近づいてくる。
「離せ」
「一口」
「先に聞け」
妖精はサラのパンを見た。
少し考え、そちらへ移る。
ザインのパンが戻ってきた。
端が、一口分なくなっていた。
エレンがとうとう笑い出した。
「もう食べてるじゃない!」
「戻したよ」
「そういう話じゃねえ」
エレナは茶を飲んでいた。
妖精がそちらへ飛ぶ。
「それ、苦い?」
「少し。飲んでみますか」
「やめとく」
「賢明ですね」
ザインは椅子へ座った。
妖精はサラの隣へ降り、パンを食べ始めた。
昨夜より羽がよく動いている。
「家へは、帰れそう?」
サラが訊いた。
「帰れるよ」
「どこなの?」
「南の森」
「アケの方ですか」
エレナが訊くと、妖精は顔を上げた。
「川のそばに、人間の家があるとこ?」
「おそらく、そこです」
「その奥!」
エレナは手帳から地図を取り出した。
妖精がパンを抱えたまま、紙の上へ降りようとする。
「待ってください」
「何?」
「足に、蜜が」
「あ」
サラが布を渡した。
妖精は足を拭き、今度は地図の横へ降りる。
エレナが南方を指した。
「アケの南にあるこちらの森でしょうか」
「その川、こんな曲がり方じゃないよ」
「そうなのですか?」
「途中で二つに分かれる。片方は、上から落ちてくる」
「滝ですね」
エレナが別の紙へ書き始めた。
妖精は地図を覗き込む。
「そこから先は、木がいっぱい」
「それは分かるわ」
エレンが言った。
「上を飛べば、すぐ分かるよ」
「私たちは飛べないの」
「……そうだった」
妖精が四人を見回す。
ザインはパンを食べながら言った。
「昨日、帰り道一緒に歩いたろ」
「遅かった」
「お前に合わせたら、走りっぱなしだ」
「じゃあ、途中で休めば?」
「そういうことじゃないでしょ」
エレンに返され、妖精は槍を肩へ担いだ。
「でも、案内はできるよ」
「人が歩く道も?」
サラが訊く。
「歩けるところを通ればいいんでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ、できる」
エレナが顔を上げた。
「ご一緒しても構いませんか」
「森に?」
「はい。妖精の暮らす場所を、見てみたいんです」
「来るの?」
「迷惑でなければ」
妖精は彼女の顔を見た。
次に、エレンとサラを見る。
「暑いよ」
「今から、そんなに?」
「虫もいる」
「シノンにもいたよ」
サラが言った。
「大きいよ」
「どのくらい?」
「これくらい」
妖精が両腕を広げた。
サラの笑みが、少しだけ止まる。
エレンが横から訊いた。
「話を盛ってない?」
「いるもん」
「……いるのね」
「いる」
エレナは筆を止めた。
「森の様子は、以前と変わっていませんか」
「何が?」
「魔物が増えたり、住む場所を変えたり。こちらへ来る途中で、気になることがありましたので」
妖精の羽が止まった。
パンを置く。
少し考えた。
「……最近、奥が暑い」
「暑い?」
「火のあるところは、前からあったよ。でも、前より広い」
「火事?」
サラが訊く。
妖精は首を振った。
「燃えてる場所だけじゃない。近くの木が元気なくなったり、知らないのが歩いてたり」
「魔物か」
ザインが訊く。
「たぶん。前はいなかった、大きいの」
エレナとザインの目が合った。
魔物の移動。
ランスでも話したことだった。
ただ、遠い南の森で起きていることまで、同じ原因とは限らない。
エレナは地図へ目を戻した。
「まず、アケで話を聞きたいですね」
「森へ行く前にか」
「ええ。こちらの地図も古いですし、道を確かめておきたいです」
ザインは妖精を見た。
「お前は、その森へ帰るんだな」
「うん」
「なら、途中までは同じだ」
エレンが彼の顔を覗き込む。
「あんたも行くの?」
「森の話が気になる。案内がいるうちに見ておく」
ザインは妖精の槍へ目を向けた。
「それに、昨日の動きだ。この速さに合わせて戦えりゃ、やれることが増える」
「私、強いでしょ!」
妖精が飛び上がる。
ザインは顔を上げたまま答えた。
「だから、勝手に飛び込むな」
「サラが言った時は、待ったよ」
「毎回そうしろ」
「じゃあ、毎回ちゃんと言って」
ザインは少し黙った。
それから頷く。
「ああ」
サラが妖精を見ていた。
目が合うと、妖精が笑った。
「また、昨日のやつできるね」
「うん。でも、あんな魔物ばかりじゃないといいな」
「もっと大きいのもいるよ」
「……いるんだ」
エレンが立ち上がった。
「まず、船でしょ。出る日を聞かないと」
エレンが立ち上がった。
「その前に、夜警の詰所だ。昨日の話を済ませる」
ザインが言った。
「そうだったわね」
妖精は窓へ飛んだ。
「早く行こう!」
ザインが皿を見下ろす。
「まだ食ってる」
「食べながら歩けば?」
「お前じゃねえんだ」
妖精は窓枠へ座り、足を揺らした。
外の通りを見て、すぐに振り返る。
「ねえ」
「何よ」
エレンが答えた。
「港って、どっち?」
エレンは右を見て、左を見た。
どちらにも指を向けなかった。
サラが笑い、席を立つ。
「私たちが案内するよ」
「じゃあ、お願い!」
妖精は窓から戻ってきた。
サラの肩のすぐ上で止まる。
エレナが地図を畳む。ザインは残ったパンを食べ、勘定を確かめた。
最後に、卓の上の小さな器へ目を落とす。
妖精の皿から、木の実が一つ分けてあった。
「これは?」
ザインが訊いた。
妖精が振り返る。
「さっきの分」
「一口、食ったやつか」
「それ、美味しかったから」
ザインは木の実を見た。
妖精へ目を戻す。
「……次は、先に聞け」
「分かった!」
今度は素直な返事だった。
エレンが戸を開け、サラが通りへ出た。
妖精も飛び出しかけ、入口のところで止まる。
振り返って、待っていた。
ザインは木の実を口へ放り込み、荷袋を肩へ掛けた。
「行くぞ」
妖精の羽が、朝の光を受けた。