Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound —   作:水城 雅

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第28話 羽のない旅人たち

 ピドナの港では、朝から荷車が列を作っていた。

 帆柱の間を鳥が飛び、濡れた板の上を船員たちが行き交う。魚を詰めた籠の隣では、木箱を抱えた男が、伝票を片手に声を張り上げていた。

 その頭上を、小さな影が横切った。

「いっぱいある!」

 妖精が船を指す。

 ザインは荷車を避けながら、その後を歩いた。

「前を見ろ」

「見てるよ!」

「お前じゃねえ。荷車を押してる奴の前だ」

 妖精が振り返る。

 すぐ下を、樽を積んだ荷車が通っていった。押している男は空を見上げ、危うく岸壁の杭へぶつかりかける。

「あ」

 妖精は少し高度を落とし、サラの隣へ戻った。

「人間、前しか見てないね」

「前も見てねえ時がある」

「ザインも?」

「お前が目の前を飛ぶ時はな」

 エレンが笑った。

 出がけに、宿の主人から昨夜の興行の話を聞いた。

 グレート・フェイク・ショーは、魔物の管理を調べるため、当面の興行を止められたという。助け出した飼育係も、檻の修繕を求めていたことと、ザインたちに救われたことを話したらしい。

 夜警には、勝手に忍び込んだ件で散々小言を言われた。

 それでも最後には、名前と宿を確かめたうえで帰された。今朝、出発する旨を伝えに寄った時も、引き止められはしなかった。

「昨日、あんなに怒られたのに、よく普通に話せるわね」

 エレンが言うと、ザインは前を向いたまま答えた。

「聞かれたことに答えただけだ」

「途中から、檻の留め具の話してたじゃない」

「見たからな」

 妖精はサラの肩の近くを飛んでいた。

 昨夜の話になると、少しだけ口数が減る。

 サラが横を向いた。

「羽、痛くない?」

「もう平気」

 妖精は左右の羽を広げ、その場で一回転した。

 薄い羽が朝日に透ける。

「ほら」

「うん。よかった」

 サラが笑うと、妖精も笑った。

 エレナは岸壁に並ぶ船を見比べていた。

 帆を畳んだ大型船。その横の、荷を積み込んでいる平底の船。行き先を記した板の前で足を止め、近くの船員へ声をかける。

「南へ向かう船を探しているのですが」

「南なら、そっちだ。グレートアーチ行き」

「船賃は?」

 ザインが訊いた。

「一人、千オーラム」

 彼の足が止まった。

 エレンは、その横顔を見た。

「今、帰ろうとした?」

「してねえ」

「顔はしてたわよ」

 エレナが地図を広げた。

「目的地はアケです。途中から陸路で向かえる便はありませんか」

「ああ、それなら話が違う」

 船員は地図をのぞき込み、太い指で南側を示した。

「木材を積み出す船着き場がある。そこからアケへ道が通ってるよ。グレートアーチまで乗ったら、かえって遠い」

「その船は?」

「俺たちのだ。昼前に出る。荷の具合で少し遅れるかもしれんがな」

 ザインも地図を見る。

「降りてから、どのくらいだ」

「普通に歩いて半日。雨が降れば、もう少しかかる」

「道は使えるのか」

「昨日来た荷運びは、何も言ってなかったぞ」

 エレナと目が合った。

 彼女が小さく頷く。

「船賃は」

「甲板でよければ一人百五十。食事は別だ」

 ザインは船へ目を向けた。

 船縁の板は新しく継ぎ直され、太い綱がきちんと巻かれている。荷は多いが、通り道まで塞いでいるわけではなかった。

「五人だ」

 船員は四人を見た。

 それから、サラの隣に浮いている妖精を見る。

「……その子もか」

「私も!」

 妖精が手を上げた。

「寝床は?」

「いらない!」

「食事は別だぞ」

「持ってる!」

 サラが鞄を少し持ち上げた。

 朝、宿で包んでもらったパンと果物が入っている。

 船員は顎を掻いた。

「邪魔なところを飛ばないなら、その子はいいよ。帆や綱には触るなよ」

「やった!」

 妖精がザインへ向き直った。

「私、ただだって!」

「聞こえた」

「ザインより安い!」

「比べるところか、それ」

 エレンが吹き出した。

 エレナは地図を畳みながら、船員へ頭を下げる。

「では、お願いします。出発までに戻ります」

「ああ。鐘を鳴らすから、聞き逃すなよ」

 港の通りへ戻ると、サラは便りを扱う店へ立ち寄った。

 トーマスたちへ、アケに向かうことを知らせておくためだった。親戚の家には昨夜泊まらなかった事情も伝えてあるが、行き先までは決まっていなかった。

 エレンがその間に水と食料を買い足す。

 エレナは店先で、南の道についてもう一度尋ねていた。

 妖精は、皆を順番に見ていた。

「人間って、出かけるまで長いね」

「水も飯もいるんだよ」

「森にあるよ?」

「そこへ着くまでの分だ」

 ザインが水袋の口を確かめる。

 妖精は少し考え、サラの鞄を見た。

「じゃあ、そのパンは今食べちゃ駄目?」

「さっき食っただろ」

「さっきは朝ご飯」

「まだ朝だ」

 妖精が不満そうに頬を膨らませた。

*

 船が岸を離れると、港の声は急に遠くなった。

 綱が軋み、帆が風を受けて膨らむ。

 水面に落ちた船の影が、細かな波に崩れていった。

 サラは船縁へ手を置いた。

 ピドナの建物が、少しずつ小さくなっていく。その向こうには、街を見下ろす高い建物の屋根が重なっていた。

「また船ね」

 エレンが隣へ来た。

「今度は、降りるところ間違えないでね」

「……あれは、分かりにくかったのよ」

「まだ何も言ってねえぞ」

 荷物を足元へ置いていたザインが言う。

「顔に書いてある」

「読めるのか」

「読めるわよ。そのくらい」

 エレナが口元を緩めた。

「今回は、皆で降りますから」

「そうして。あたしだけ悪いみたいになるから」

「前は、お姉ちゃんが先に降りたんだよ」

「サラまで!」

 妖精がサラの横へ飛んできた。

「降りるところって、決まってるの?」

「船が止まる場所があるんだよ」

「好きなところで降りればいいじゃん」

「私たちは飛べないから」

「あ、そっか」

 妖精は船の外を見下ろした。

 岸までは、もうかなり離れている。

「泳げる?」

「そこまでして降りねえよ」

 ザインに言われ、妖精は甲板へ戻った。

 帆の下に張られた綱を見つけると、そこへ腰を下ろしかける。

「触るなって言われただろ」

「座るだけ!」

「同じだ」

「じゃあ、どこならいいの?」

 ザインは近くの木箱を指した。

 妖精はそこへ降り、槍を横に置いた。

 しばらくは足を揺らしていた。

 やがて立ち上がり、船の進む方を見て、また座る。

 今度は後ろを向いた。

「遅い」

「風に言え」

「飛んだ方が速い」

「なら、先に着いて待ってろ」

 妖精は羽を動かした。

 だが、飛び上がりはしなかった。

「……一人で待ってても、つまんない」

「じゃあ座ってろ」

 そのまま座り直す。

 サラが隣へ腰を下ろすと、少しだけ場所を空けた。

 水面を滑る鳥を、二人で目で追う。

 鳥が魚を捕らえ、遠くへ飛んでいった。

「村にも、ああいう鳥いる?」

「もっと大きいのがいるよ」

「どのくらい?」

「サラくらい」

「……大きいね」

「魚も大きい」

「食べるの?」

「食べる!」

 エレンが振り返った。

「あんたが?」

「鳥が!」

 サラが声を出して笑った。

 午後になると、船は小さな船着き場へ寄った。

 荷を下ろし、新しい樽を積む。ザインたちは船員に言われた側へ寄り、作業の邪魔にならないよう待っていた。

 岸から、二人の男が太い板を運んでくる。

 一人が足を滑らせ、板の端が傾いた。

 サラが身を引くより早く、妖精が下へ潜り込んだ。

「こっち?」

 板の端が持ち上がる。

 男は慌てて握り直した。

「あ、ああ。助かった」

 妖精は二人が板を置くまで支え、それから飛び退いた。

 船員が彼女を見た。

 今度は、板を見た。

「……力があるんだな」

「あるよ!」

 得意そうに胸を張る。

 エレンがザインへ小声で言った。

「あの船員さん、船賃以上に助かったんじゃない?」

「働かせるために乗せたんじゃねえだろ」

 だが船員は、昼の残りの果物を一つ持ってきた。

「礼だ」

「くれるの?」

 妖精が手を伸ばしかける。

 途中で止まり、サラを見た。

 サラは果物と船員を見て、微笑んだ。

「私と半分にする?」

「うん!」

 受け取った果物を両手で抱える。

 今度は、すぐにはかじらなかった。

 エレナが小さなナイフを出して二つに切ると、妖精はその片方をサラへ渡した。

*

 翌日、日が高くなる前に、船は目的の船着き場へ着いた。

 岸には丸太が積み上げられ、樹皮を剥ぐ音が響いていた。

 ピドナのような石造りの建物はない。屋根を高く張った作業小屋と、荷車の向きを変えるための広場。その奥から、一本の道が森へ延びている。

 空気が違った。

 水の匂いに、湿った土と青い葉の匂いが混じっている。

 妖精が高く飛び上がった。

「あっち!」

 槍を持たない方の手で、森を指す。

 船員も同じ方角を示した。

「道を外れなければアケだ。日が暮れるまでには着くだろう」

「帰りの船は?」

 ザインが訊く。

「何日かおきには来る。ここで荷を見てる男に聞いてくれ」

「ああ。世話になった」

 荷物を背負い直す。

 妖精も船員へ手を振った。

「果物、おいしかった!」

「またな。今度は板を持つ前に声をかけろよ。こっちが腰を抜かす」

 妖精は笑い、四人の先へ飛んでいった。

 道は、荷車が通れるほどの幅があった。

 轍に水が残り、日陰には大きな葉が重なっている。幹の途中から根を垂らす木もあった。

 エレナが足を止めた。

「変わった形ですね」

「エレナ」

 

 ザインに呼ばれ、顔を上げる。

「見ているだけです」

「足が止まってる」

「今、歩きます」

 少し先では、サラが鳥の声に耳を澄ませていた。

 妖精がその周りを飛ぶ。

「今、鳴いたのは何?」

 サラが木々を見上げた。

「鳥だよ」

 妖精が答えた。

「何ていう鳥?」

「名前は知らない。でも、雨の前によく鳴くんだ」

「雨?」

 エレンが空を見上げた。木々の間には、まだ青空がのぞいている。

 風の匂いを確かめるように、鼻をひくつかせた。

「……確かに、降りそうね」

「お姉ちゃんも分かるの?」

「土の匂いが変わったのよ」

 エレナも一度息を吸い、首を傾げた。

「私には、まだ分かりませんね」

「ここは草の匂いが強いから。シノンとはちょっと違うわ」

 妖精がエレンの前へ戻ってきた。

「鼻で分かるんだ!」

「あんたは耳で分かるんでしょ?」

「うん!」

 ザインが荷袋の口を締めた。

「この先、雨を避けられる場所は?」

「小屋があるよ!」

「よし。そこまで行くぞ」

 半刻ほど後、本当に雨が降り始めた。

 大きな葉が一斉に鳴る。

 一行は道端の小屋へ駆け込み、エレンは外套についた水を払った。

「思ったより早かったわね」

「だから、鳥が鳴いてたじゃん!」

 妖精が得意そうに胸を張る。

「あたしにも教えて。その鳴き方」

「いいよ!」

 エレナも手帳を取り出した。

「私にも教えていただけますか? 雨の前には、いつも同じように鳴くんですか?」

「短く、何回も鳴くよ。こんなふうに!」

 妖精が喉を鳴らすような声を出した。

「あ、似てる!」

 サラが笑った。

 エレナはその音を書き留めようとして、手を止めた。

「……文字にするのは難しいですね」

「エレナも鳴いてみれば?」

「私が、ですか?」

「うん!」

 エレナは少し迷ってから、口を開きかけた。

 その時、ザインと目が合った。

「……何ですか?」

「いや。続けろよ」

「後にします」

「今なら先生がいるぞ」

「ずいぶん楽しそうですね」

 ザインは口元を隠すように、水袋を持ち上げた。

*

 アケに着いた時には、雨は上がっていた。

 木立の間に家々が並んでいる。

 深く張り出した軒の下では、籠を編む女と、刃物を研ぐ男が話していた。道の脇には切った木材が積まれ、裸足の子供が水たまりを跳び越えていく。

 その一人が、妖精を見つけた。

「あ、妖精」

 妖精が手を振った。

 子供も振り返す。

 それだけだった。

 エレンが少し拍子抜けした顔をした。

「普通なのね」

「たまに来るよ」

 妖精は答えた。

「果物、あるから」

「……あんた、どこでもそれね」

 宿を兼ねた家で部屋を頼むと、主人は妖精を見るなり、戸口に吊るしてあった果物の籠を奥へ移した。

「勝手に持っていくなよ」

「まだ何もしてない!」

「前に来たのは、そう言って持っていった」

「私じゃないもん!」

 サラが笑いを堪えながら口を挟む。

「食べる時は、ちゃんと払います」

「ならいい。夕飯にも出すから、それまで待ちな」

 荷物を置き、四人は濡れた靴を乾かした。

 妖精は窓辺へ腰を下ろし、森の方を見ている。

「ここからは近いのか」

 ザインが訊いた。

「近いよ」

「歩いて」

「……ちょっと遠い」

 エレンが肩を落とした。

「最初から、そっちで言って」

「飛べば近いの!」

 夕食には、魚と野菜を煮た汁物が出た。

 湯気の中に、ピドナでは嗅がなかった香草の匂いがする。エレンは一口食べ、しばらく黙ってから、もう一口食べた。

「どう?」

 サラが訊く。

「おいしい。ちょっと辛いけど」

「ちょっと?」

「後から来る」

 サラが水へ手を伸ばした。

 妖精は約束どおりに出された果物を食べていた。

 その横で、エレナが主人へ森の道を尋ねる。

「南の方は、最近どうですか」

「奥まで入るのかい?」

「この子の村へ」

「ああ。それなら、その子から離れないことだね。人の通る道は、途中までしかない」

 主人は窓の外を見た。

「この頃は、木を切る連中も奥へ行きたがらない」

「魔物ですか」

「それもある。いつも使ってた水場に、妙なものが居ついたって話だ。それに、風が変だと言ってたな」

「風?」

「時々、奥から熱いのが吹くんだと。私は行ってないから、詳しくは知らないが」

 妖精の手が止まった。

 エレナは、彼女へ目を向けた。

 すぐに問い詰めることはしなかった。

「明日は、村へ向かう道だけにしておきましょう」

「ああ」

 ザインが頷いた。

「分からねえ場所へは入らん」

「分かるよ。私がいるもん」

 妖精は果物を置いた。

「村までは、ちゃんと連れていける」

「なら頼む」

 ザインが答える。

 妖精は一度頷き、それから残りの果物を口へ運んだ。

*

 翌朝、道は家々の間を抜け、森の中へ続いていた。

 最初は、木材を運び出すための轍があった。

 やがてそれも細くなり、切り株と踏み固められた土だけになる。最後の作業小屋を過ぎると、頭上の葉が重なり、朝の光が緑色に変わった。

「ここから、私についてきて」

 妖精が言った。

 昨日までとは違い、高く飛んではいなかった。

 ザインの顔より少し上で止まり、四人が揃ったのを見てから進む。

 根が道を横切っていた。

 その向こうには、腰ほどもある草が茂っている。

 エレンが斧の柄へ手を掛けた。

「切っていい?」

「そっちは駄目」

「どうして?」

「葉の端、痛いよ。あと、その下、水」

 ザインが足元を見た。

 草の隙間に、薄く光るものがある。

 枝を拾って差し入れると、思ったより深く沈んだ。

「……踏むところだったな」

「こっち」

 妖精が右へ移る。

 木の根が盛り上がった場所を越えると、乾いた地面が続いていた。

 エレンは斧から手を離した。

「案内、上手いじゃない」

「さっきからそうしてる!」

 少し得意そうな声に戻った。

 森の中は静かではなかった。

 葉の上を何かが走り、見えない場所で鳥が鳴く。水滴が落ちる音に混じって、遠くから低い唸り声も聞こえた。

 サラが弓へ手を添える。

「今の、近い?」

「遠い。こっちには来ないよ」

「分かるの?」

「近かったら、あっちの鳥がもっと騒ぐ」

 妖精が横の枝を指した。

 青い鳥が二羽、並んで羽を繕っている。

 サラは弓から手を離した。

 その鳥を、もう一度見た。

 道らしいものは、とっくになくなっていた。

 同じような木と蔦が続き、振り返っても、自分たちがどこから来たのか分かりにくい。

 エレナは時々立ち止まり、地形と方角を手帳に残した。

 妖精はそのたびに戻ってくる。

「何してるの?」

「帰り道の目印を」

「私がいるよ?」

「はぐれた時に困りますから」

 妖精は手帳をのぞいた。

 木の形と、根元の岩が簡単に描かれている。

「その木だけじゃ、分かんないよ」

「似た木が多いですか」

「いっぱいある。岩の後ろに白い花があるでしょ。そっちも」

 エレナが顔を上げた。

 言われた場所に、小さな白い花がまとまって咲いていた。

「こちらですね」

「うん。あれは、乾いたところにしか咲かないから」

 エレナは絵を描き足した。

「助かります」

「もっと聞いていいよ!」

 妖精が胸を張る。

 しばらく進んだところで、エレンが足を止めた。

「……待って」

 目の前の幹に、何かが張りついていた。

 褐色の背中は樹皮と同じ色をしている。だが、その端から伸びた六本の脚が、ゆっくり動いた。

 サラが姉の肩越しにのぞく。

「虫?」

「そうだと思うけど」

 エレンは半歩下がった。

「あたしの顔より大きくない?」

 妖精が引き返してきた。

「ああ、それ。踏まなければ平気」

「踏める大きさじゃないでしょ」

 エレナは幹の横へ回った。

 顔を近づけすぎないようにしながら、虫の背を眺める。

「見事ですね。動かなければ、木の一部にしか見えません」

「エレナ、あんまり近づかない方が――」

 サラが言い終える前に、褐色の背中が割れた。

 薄い羽が広がる。

 低い羽音とともに、大きな身体が幹を離れた。

「飛ぶの!?」

 エレンが身を引いた。

 エレナも素早く顔をそらす。虫は二人の間を抜け、ザインの肩へ止まった。

 誰も動かなかった。

 ザインが、ゆっくり横を向く。

 長い触角が頬に触れた。

「……取れ」

「動かなければ平気だよ」

「分かったから、取れ」

 妖精が虫を両手で持ち上げ、隣の木へ移した。

 六本の脚が樹皮を掴むと、虫は何事もなかったように動かなくなった。

 エレンが息を吐いた。

「あんたでも嫌なのね」

「頬を撫でられて喜ぶ奴がいるか」

 サラが笑いを堪えながら、彼の肩についた木屑を払った。

 エレナは虫の移された幹へ目を向けていた。

「羽の下は、綺麗な青でしたね」

「よく見てたわね、あの一瞬で」

 妖精が振り返る。

「もう一回、飛ばそうか?」

「そのままでいい」

 今度は、三人の声が揃った。

*

 昼を過ぎた頃、小さな流れに出た。

 水は澄んでいたが、ザインはすぐには水袋を浸さなかった。

 妖精が上流側を指す。

「あっちから汲んで。そこは足を入れるところ」

「使い分けてるのか」

「泥が入るじゃん」

 四人は荷物を下ろした。

 サラが腰を下ろすと、妖精も隣の石へ降りた。

 彼女の足は水面まで届かない。少し考えてから飛び上がり、浅いところへ降り直した。

「冷たい!」

 水を蹴る。

 サラの靴へ雫が飛んだ。

「ちょっと」

「ごめん」

 口では謝りながら、笑っている。

 サラも笑い、靴を少し遠ざけた。

 エレンは包みを開いた。

 アケの宿で用意してもらった食事が、厚い葉にくるまれている。

「便利ね、これ。皿になる」

「捨てる時は持って帰るよ」

 妖精が言った。

「葉っぱなのに?」

「匂いにつられて来るから」

 エレンは包みを見直した。

「なるほど。分かった」

 食事が終わる頃、黄色い蝶が一匹、水辺へ降りてきた。

 サラの膝に止まり、羽を開いたり閉じたりしている。

「動かない方がいい?」

「動いたら飛ぶだけ」

 サラはそっと指を近づけた。

 蝶はその指先へ移り、少しして木々の間へ舞い上がった。

 追って顔を上げた妖精が、ふと動きを止めた。

 流れの向こうを、別の蝶が飛んでいた。

 赤い羽だった。

 一匹。

 少し離れて、もう一匹。

 妖精は、水から足を上げた。

「どうした」

 ザインが訊く。

「……こっちにもいる」

 エレナが赤い蝶を目で追った。

「普段はいないんですか」

「もっと奥。熱いところにいるの」

「昨日、宿で聞いた風と関係が?」

「分かんない」

 妖精は首を振った。

 先ほどまで足を浸していた水を見下ろす。

「ここは、まだ冷たいよ」

 ザインも流れへ手を入れた。

 冷たい水が指の間を抜けていく。

 それだけで、森の奥まで同じだとは言えなかった。

「村まで、あとどのくらいだ」

「もう少し」

「歩いて」

「歩いて、もう少し」

 今度は、はっきり答えた。

 ザインは立ち上がり、荷物を背負った。

「じゃあ行くぞ。向こうで話を聞く」

「うん」

 妖精が飛び上がる。

 赤い蝶とは違う方へ、進路を取った。

 木々の間が、急に明るくなった。

 サラは目を細めた。

 森を抜けたのかと思ったが、違った。

 大きな木があった。

 何人で囲めば届くのか分からないほど太い幹。

 地面からせり上がった根の間には人が立てる空間があり、その上へ、枝が幾重にも広がっている。

 花が咲いていた。

 幹に絡む蔦にも、枝の先にも。

 そして花の間を、小さな影が飛び交っていた。

 一人や二人ではない。

 サラが足を止めた。

「……みんな、妖精?」

 隣でエレンも上を見ていた。

「そうみたいね」

 頭上から、声がした。

「あれ?」

「帰ってきた」

「どこ行ってたの?」

 案内してきた妖精が、一気に高く飛び上がった。

「帰ってきた!」

 何人もの妖精が集まってくる。

 触れそうなほど近くを飛び、彼女の周りを回った。

「長かったね」

「人間がいる」

「四人もいる」

「連れてきた!」

 妖精は下の四人を指した。

「助けてもらったの!」

 ザインは根元から見上げていた。

 高い。しかも、上へ続く階段らしいものはない。

 妖精が手を振る。

「上がってきて!」

 彼は黙って見返した。

 エレンが腰へ手を当てる。

「どうやって?」

「……あ」

「これで、何回目だ」

 ザインが言った。

 サラがとうとう吹き出した。

 上にいた妖精たちも、何がおかしいのか分からないまま笑い始める。

 案内役の妖精だけが頬を膨らませていた。

「待ってて! 今、何とかする!」

 木の上へ飛んでいく。

 話し声が重なり、やがて太い蔓が二本、するすると下りてきた。

 その先には、板が括りつけられている。

 ザインは板を見た。

 蔓を見上げた。

「……これに乗れってか」

「一人ずつ!」

 上から返事が来る。

 彼は結び目を確かめ、板へ片足を乗せた。

 少し体重をかける。軋みはしたが、割れはしなかった。

「俺から行く」

 両足を乗せ、蔓を掴む。

 次の瞬間、身体が浮いた。

「おい、速え!」

 地面が遠ざかる。

 枝が目の高さを通り過ぎ、ザインは慌てて顎を引いた。

 下から、エレンの笑い声が追いかけてきた。

「飛べてよかったじゃない!」

「飛んでねえ!」

 太い枝の上へ引き上げられた時には、彼は両手で蔓を握り締めていた。

 妖精が目の前に浮いている。

 

「着いた!」

「見りゃ分かる」

「次、呼んでいい?」

「もう少しゆっくり上げろ」

「分かった!」

 返事だけはよかった。

 ザインは板を降り、枝に組まれた足場へ移った。

 足の下は思ったよりしっかりしている。

 葉の陰に、小さな家がいくつもあった。

 開いた窓から、妖精たちがこちらを見ている。花を乾かしている棚も、木の実を盛った器もある。

 案内役の妖精は、すぐ近くの家へ飛んでいった。

 戸を開ける。

 中をのぞき、一度だけ動きを止めた。

 それから槍を持って入り、窓の内側へ立てかける。

 すぐにまた出てきたが、今度は何も持っていなかった。

「そこか」

 ザインが訊いた。

「うん」

 妖精は家を振り返った。

「私の」

 ザインは小さく頷いた。

 そのうちに、サラが上がってきた。

 足場へ移る時だけ、ザインが腕を貸す。

 サラは周囲を見渡し、窓辺に立てかけられた槍に気づいた。

「ここが、お家?」

「そう!」

 妖精が戸を開けてみせる。

 サラは屈んで中をのぞいた。

 葉を重ねた寝床。

 小さな器。

 窓辺に並べた、色の違う木の実。

「よかったね」

 サラが言うと、妖精は頷いた。

「うん」

 今度は、すぐに別の話を始めなかった。

 戸口へ手を置いたまま、もう一度部屋の中を見た。

 やがてエレンとエレナも上がってきた。

 足場は四人が立つと少し狭く、ザインは皆を幹に近い側へ寄せた。

 エレナは上を見ていた。

 枝から枝へ渡された蔓と、そこに吊るされた小さな灯り。木を削りすぎずに組まれた家々へ、忙しく視線が動いている。

「……少し、見せていただいても?」

「いいよ!」

 妖精が答える。

「泊まっていくでしょ?」

「人間が寝られる場所、あるの?」

 エレンが訊いた。

「ある!」

 今度は迷わなかった。

 妖精は太い幹の裏側へ回り、四人を手招きした。

 そこには、枝と枝の間に広く組まれた床があった。

 頭上には大きな葉が重なり、雨を避けられるようになっている。端には、畳まれた敷物が積んであった。

「ここ!」

 エレンが荷物を下ろした。

「いいじゃない。風も通るし」

「落ちるなよ」

 ザインが言う。

「あんたこそ」

 サラは床へ座り、幹にもたれた。

 葉の隙間から、歩いてきた森が見える。

 妖精がその前へ降りた。

「明日、村を見せてあげる」

「うん」

「おいしい実があるところも」

「それも楽しみ」

 エレナが手帳を閉じた。

「森のことも、教えてください」

「いいよ。いっぱい知ってる!」

 ザインは荷袋を床へ置き、肩を回した。

 妖精がその顔をのぞき込む。

「どう? ちゃんと着いたでしょ」

「ああ」

「案内、上手かった?」

「最後に吊るされたの以外はな」

「歩くより早かったじゃん」

「それは認める」

 妖精が笑った。

 木の上から、食事に呼ぶ声がした。

 彼女は反射的に飛び上がり、すぐに戻ってくる。

 四人を見た。

 それから、歩いて渡れる枝の方を指す。

「こっち。今度は歩けるよ」

 エレンが立ち上がる。

「やっと覚えたわね」

「最初から知ってた!」

 サラが笑いながら後を追った。

 エレナも荷物を置き、枝へ足を踏み出す。

 ザインは最後に一度だけ、家の窓を見た。

 窓辺には、節のある枝が立てかけられていた。

 昨夜、怪物を貫いた槍には、とても見えなかった。

「ザイン!」

 先で妖精が呼んでいる。

 もう急かすようには飛び回っていなかった。

「今行く」

 彼も、四人の後へ続いた。

 

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