Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ピドナの港では、朝から荷車が列を作っていた。
帆柱の間を鳥が飛び、濡れた板の上を船員たちが行き交う。魚を詰めた籠の隣では、木箱を抱えた男が、伝票を片手に声を張り上げていた。
その頭上を、小さな影が横切った。
「いっぱいある!」
妖精が船を指す。
ザインは荷車を避けながら、その後を歩いた。
「前を見ろ」
「見てるよ!」
「お前じゃねえ。荷車を押してる奴の前だ」
妖精が振り返る。
すぐ下を、樽を積んだ荷車が通っていった。押している男は空を見上げ、危うく岸壁の杭へぶつかりかける。
「あ」
妖精は少し高度を落とし、サラの隣へ戻った。
「人間、前しか見てないね」
「前も見てねえ時がある」
「ザインも?」
「お前が目の前を飛ぶ時はな」
エレンが笑った。
出がけに、宿の主人から昨夜の興行の話を聞いた。
グレート・フェイク・ショーは、魔物の管理を調べるため、当面の興行を止められたという。助け出した飼育係も、檻の修繕を求めていたことと、ザインたちに救われたことを話したらしい。
夜警には、勝手に忍び込んだ件で散々小言を言われた。
それでも最後には、名前と宿を確かめたうえで帰された。今朝、出発する旨を伝えに寄った時も、引き止められはしなかった。
「昨日、あんなに怒られたのに、よく普通に話せるわね」
エレンが言うと、ザインは前を向いたまま答えた。
「聞かれたことに答えただけだ」
「途中から、檻の留め具の話してたじゃない」
「見たからな」
妖精はサラの肩の近くを飛んでいた。
昨夜の話になると、少しだけ口数が減る。
サラが横を向いた。
「羽、痛くない?」
「もう平気」
妖精は左右の羽を広げ、その場で一回転した。
薄い羽が朝日に透ける。
「ほら」
「うん。よかった」
サラが笑うと、妖精も笑った。
エレナは岸壁に並ぶ船を見比べていた。
帆を畳んだ大型船。その横の、荷を積み込んでいる平底の船。行き先を記した板の前で足を止め、近くの船員へ声をかける。
「南へ向かう船を探しているのですが」
「南なら、そっちだ。グレートアーチ行き」
「船賃は?」
ザインが訊いた。
「一人、千オーラム」
彼の足が止まった。
エレンは、その横顔を見た。
「今、帰ろうとした?」
「してねえ」
「顔はしてたわよ」
エレナが地図を広げた。
「目的地はアケです。途中から陸路で向かえる便はありませんか」
「ああ、それなら話が違う」
船員は地図をのぞき込み、太い指で南側を示した。
「木材を積み出す船着き場がある。そこからアケへ道が通ってるよ。グレートアーチまで乗ったら、かえって遠い」
「その船は?」
「俺たちのだ。昼前に出る。荷の具合で少し遅れるかもしれんがな」
ザインも地図を見る。
「降りてから、どのくらいだ」
「普通に歩いて半日。雨が降れば、もう少しかかる」
「道は使えるのか」
「昨日来た荷運びは、何も言ってなかったぞ」
エレナと目が合った。
彼女が小さく頷く。
「船賃は」
「甲板でよければ一人百五十。食事は別だ」
ザインは船へ目を向けた。
船縁の板は新しく継ぎ直され、太い綱がきちんと巻かれている。荷は多いが、通り道まで塞いでいるわけではなかった。
「五人だ」
船員は四人を見た。
それから、サラの隣に浮いている妖精を見る。
「……その子もか」
「私も!」
妖精が手を上げた。
「寝床は?」
「いらない!」
「食事は別だぞ」
「持ってる!」
サラが鞄を少し持ち上げた。
朝、宿で包んでもらったパンと果物が入っている。
船員は顎を掻いた。
「邪魔なところを飛ばないなら、その子はいいよ。帆や綱には触るなよ」
「やった!」
妖精がザインへ向き直った。
「私、ただだって!」
「聞こえた」
「ザインより安い!」
「比べるところか、それ」
エレンが吹き出した。
エレナは地図を畳みながら、船員へ頭を下げる。
「では、お願いします。出発までに戻ります」
「ああ。鐘を鳴らすから、聞き逃すなよ」
港の通りへ戻ると、サラは便りを扱う店へ立ち寄った。
トーマスたちへ、アケに向かうことを知らせておくためだった。親戚の家には昨夜泊まらなかった事情も伝えてあるが、行き先までは決まっていなかった。
エレンがその間に水と食料を買い足す。
エレナは店先で、南の道についてもう一度尋ねていた。
妖精は、皆を順番に見ていた。
「人間って、出かけるまで長いね」
「水も飯もいるんだよ」
「森にあるよ?」
「そこへ着くまでの分だ」
ザインが水袋の口を確かめる。
妖精は少し考え、サラの鞄を見た。
「じゃあ、そのパンは今食べちゃ駄目?」
「さっき食っただろ」
「さっきは朝ご飯」
「まだ朝だ」
妖精が不満そうに頬を膨らませた。
*
船が岸を離れると、港の声は急に遠くなった。
綱が軋み、帆が風を受けて膨らむ。
水面に落ちた船の影が、細かな波に崩れていった。
サラは船縁へ手を置いた。
ピドナの建物が、少しずつ小さくなっていく。その向こうには、街を見下ろす高い建物の屋根が重なっていた。
「また船ね」
エレンが隣へ来た。
「今度は、降りるところ間違えないでね」
「……あれは、分かりにくかったのよ」
「まだ何も言ってねえぞ」
荷物を足元へ置いていたザインが言う。
「顔に書いてある」
「読めるのか」
「読めるわよ。そのくらい」
エレナが口元を緩めた。
「今回は、皆で降りますから」
「そうして。あたしだけ悪いみたいになるから」
「前は、お姉ちゃんが先に降りたんだよ」
「サラまで!」
妖精がサラの横へ飛んできた。
「降りるところって、決まってるの?」
「船が止まる場所があるんだよ」
「好きなところで降りればいいじゃん」
「私たちは飛べないから」
「あ、そっか」
妖精は船の外を見下ろした。
岸までは、もうかなり離れている。
「泳げる?」
「そこまでして降りねえよ」
ザインに言われ、妖精は甲板へ戻った。
帆の下に張られた綱を見つけると、そこへ腰を下ろしかける。
「触るなって言われただろ」
「座るだけ!」
「同じだ」
「じゃあ、どこならいいの?」
ザインは近くの木箱を指した。
妖精はそこへ降り、槍を横に置いた。
しばらくは足を揺らしていた。
やがて立ち上がり、船の進む方を見て、また座る。
今度は後ろを向いた。
「遅い」
「風に言え」
「飛んだ方が速い」
「なら、先に着いて待ってろ」
妖精は羽を動かした。
だが、飛び上がりはしなかった。
「……一人で待ってても、つまんない」
「じゃあ座ってろ」
そのまま座り直す。
サラが隣へ腰を下ろすと、少しだけ場所を空けた。
水面を滑る鳥を、二人で目で追う。
鳥が魚を捕らえ、遠くへ飛んでいった。
「村にも、ああいう鳥いる?」
「もっと大きいのがいるよ」
「どのくらい?」
「サラくらい」
「……大きいね」
「魚も大きい」
「食べるの?」
「食べる!」
エレンが振り返った。
「あんたが?」
「鳥が!」
サラが声を出して笑った。
午後になると、船は小さな船着き場へ寄った。
荷を下ろし、新しい樽を積む。ザインたちは船員に言われた側へ寄り、作業の邪魔にならないよう待っていた。
岸から、二人の男が太い板を運んでくる。
一人が足を滑らせ、板の端が傾いた。
サラが身を引くより早く、妖精が下へ潜り込んだ。
「こっち?」
板の端が持ち上がる。
男は慌てて握り直した。
「あ、ああ。助かった」
妖精は二人が板を置くまで支え、それから飛び退いた。
船員が彼女を見た。
今度は、板を見た。
「……力があるんだな」
「あるよ!」
得意そうに胸を張る。
エレンがザインへ小声で言った。
「あの船員さん、船賃以上に助かったんじゃない?」
「働かせるために乗せたんじゃねえだろ」
だが船員は、昼の残りの果物を一つ持ってきた。
「礼だ」
「くれるの?」
妖精が手を伸ばしかける。
途中で止まり、サラを見た。
サラは果物と船員を見て、微笑んだ。
「私と半分にする?」
「うん!」
受け取った果物を両手で抱える。
今度は、すぐにはかじらなかった。
エレナが小さなナイフを出して二つに切ると、妖精はその片方をサラへ渡した。
*
翌日、日が高くなる前に、船は目的の船着き場へ着いた。
岸には丸太が積み上げられ、樹皮を剥ぐ音が響いていた。
ピドナのような石造りの建物はない。屋根を高く張った作業小屋と、荷車の向きを変えるための広場。その奥から、一本の道が森へ延びている。
空気が違った。
水の匂いに、湿った土と青い葉の匂いが混じっている。
妖精が高く飛び上がった。
「あっち!」
槍を持たない方の手で、森を指す。
船員も同じ方角を示した。
「道を外れなければアケだ。日が暮れるまでには着くだろう」
「帰りの船は?」
ザインが訊く。
「何日かおきには来る。ここで荷を見てる男に聞いてくれ」
「ああ。世話になった」
荷物を背負い直す。
妖精も船員へ手を振った。
「果物、おいしかった!」
「またな。今度は板を持つ前に声をかけろよ。こっちが腰を抜かす」
妖精は笑い、四人の先へ飛んでいった。
道は、荷車が通れるほどの幅があった。
轍に水が残り、日陰には大きな葉が重なっている。幹の途中から根を垂らす木もあった。
エレナが足を止めた。
「変わった形ですね」
「エレナ」
ザインに呼ばれ、顔を上げる。
「見ているだけです」
「足が止まってる」
「今、歩きます」
少し先では、サラが鳥の声に耳を澄ませていた。
妖精がその周りを飛ぶ。
「今、鳴いたのは何?」
サラが木々を見上げた。
「鳥だよ」
妖精が答えた。
「何ていう鳥?」
「名前は知らない。でも、雨の前によく鳴くんだ」
「雨?」
エレンが空を見上げた。木々の間には、まだ青空がのぞいている。
風の匂いを確かめるように、鼻をひくつかせた。
「……確かに、降りそうね」
「お姉ちゃんも分かるの?」
「土の匂いが変わったのよ」
エレナも一度息を吸い、首を傾げた。
「私には、まだ分かりませんね」
「ここは草の匂いが強いから。シノンとはちょっと違うわ」
妖精がエレンの前へ戻ってきた。
「鼻で分かるんだ!」
「あんたは耳で分かるんでしょ?」
「うん!」
ザインが荷袋の口を締めた。
「この先、雨を避けられる場所は?」
「小屋があるよ!」
「よし。そこまで行くぞ」
半刻ほど後、本当に雨が降り始めた。
大きな葉が一斉に鳴る。
一行は道端の小屋へ駆け込み、エレンは外套についた水を払った。
「思ったより早かったわね」
「だから、鳥が鳴いてたじゃん!」
妖精が得意そうに胸を張る。
「あたしにも教えて。その鳴き方」
「いいよ!」
エレナも手帳を取り出した。
「私にも教えていただけますか? 雨の前には、いつも同じように鳴くんですか?」
「短く、何回も鳴くよ。こんなふうに!」
妖精が喉を鳴らすような声を出した。
「あ、似てる!」
サラが笑った。
エレナはその音を書き留めようとして、手を止めた。
「……文字にするのは難しいですね」
「エレナも鳴いてみれば?」
「私が、ですか?」
「うん!」
エレナは少し迷ってから、口を開きかけた。
その時、ザインと目が合った。
「……何ですか?」
「いや。続けろよ」
「後にします」
「今なら先生がいるぞ」
「ずいぶん楽しそうですね」
ザインは口元を隠すように、水袋を持ち上げた。
*
アケに着いた時には、雨は上がっていた。
木立の間に家々が並んでいる。
深く張り出した軒の下では、籠を編む女と、刃物を研ぐ男が話していた。道の脇には切った木材が積まれ、裸足の子供が水たまりを跳び越えていく。
その一人が、妖精を見つけた。
「あ、妖精」
妖精が手を振った。
子供も振り返す。
それだけだった。
エレンが少し拍子抜けした顔をした。
「普通なのね」
「たまに来るよ」
妖精は答えた。
「果物、あるから」
「……あんた、どこでもそれね」
宿を兼ねた家で部屋を頼むと、主人は妖精を見るなり、戸口に吊るしてあった果物の籠を奥へ移した。
「勝手に持っていくなよ」
「まだ何もしてない!」
「前に来たのは、そう言って持っていった」
「私じゃないもん!」
サラが笑いを堪えながら口を挟む。
「食べる時は、ちゃんと払います」
「ならいい。夕飯にも出すから、それまで待ちな」
荷物を置き、四人は濡れた靴を乾かした。
妖精は窓辺へ腰を下ろし、森の方を見ている。
「ここからは近いのか」
ザインが訊いた。
「近いよ」
「歩いて」
「……ちょっと遠い」
エレンが肩を落とした。
「最初から、そっちで言って」
「飛べば近いの!」
夕食には、魚と野菜を煮た汁物が出た。
湯気の中に、ピドナでは嗅がなかった香草の匂いがする。エレンは一口食べ、しばらく黙ってから、もう一口食べた。
「どう?」
サラが訊く。
「おいしい。ちょっと辛いけど」
「ちょっと?」
「後から来る」
サラが水へ手を伸ばした。
妖精は約束どおりに出された果物を食べていた。
その横で、エレナが主人へ森の道を尋ねる。
「南の方は、最近どうですか」
「奥まで入るのかい?」
「この子の村へ」
「ああ。それなら、その子から離れないことだね。人の通る道は、途中までしかない」
主人は窓の外を見た。
「この頃は、木を切る連中も奥へ行きたがらない」
「魔物ですか」
「それもある。いつも使ってた水場に、妙なものが居ついたって話だ。それに、風が変だと言ってたな」
「風?」
「時々、奥から熱いのが吹くんだと。私は行ってないから、詳しくは知らないが」
妖精の手が止まった。
エレナは、彼女へ目を向けた。
すぐに問い詰めることはしなかった。
「明日は、村へ向かう道だけにしておきましょう」
「ああ」
ザインが頷いた。
「分からねえ場所へは入らん」
「分かるよ。私がいるもん」
妖精は果物を置いた。
「村までは、ちゃんと連れていける」
「なら頼む」
ザインが答える。
妖精は一度頷き、それから残りの果物を口へ運んだ。
*
翌朝、道は家々の間を抜け、森の中へ続いていた。
最初は、木材を運び出すための轍があった。
やがてそれも細くなり、切り株と踏み固められた土だけになる。最後の作業小屋を過ぎると、頭上の葉が重なり、朝の光が緑色に変わった。
「ここから、私についてきて」
妖精が言った。
昨日までとは違い、高く飛んではいなかった。
ザインの顔より少し上で止まり、四人が揃ったのを見てから進む。
根が道を横切っていた。
その向こうには、腰ほどもある草が茂っている。
エレンが斧の柄へ手を掛けた。
「切っていい?」
「そっちは駄目」
「どうして?」
「葉の端、痛いよ。あと、その下、水」
ザインが足元を見た。
草の隙間に、薄く光るものがある。
枝を拾って差し入れると、思ったより深く沈んだ。
「……踏むところだったな」
「こっち」
妖精が右へ移る。
木の根が盛り上がった場所を越えると、乾いた地面が続いていた。
エレンは斧から手を離した。
「案内、上手いじゃない」
「さっきからそうしてる!」
少し得意そうな声に戻った。
森の中は静かではなかった。
葉の上を何かが走り、見えない場所で鳥が鳴く。水滴が落ちる音に混じって、遠くから低い唸り声も聞こえた。
サラが弓へ手を添える。
「今の、近い?」
「遠い。こっちには来ないよ」
「分かるの?」
「近かったら、あっちの鳥がもっと騒ぐ」
妖精が横の枝を指した。
青い鳥が二羽、並んで羽を繕っている。
サラは弓から手を離した。
その鳥を、もう一度見た。
道らしいものは、とっくになくなっていた。
同じような木と蔦が続き、振り返っても、自分たちがどこから来たのか分かりにくい。
エレナは時々立ち止まり、地形と方角を手帳に残した。
妖精はそのたびに戻ってくる。
「何してるの?」
「帰り道の目印を」
「私がいるよ?」
「はぐれた時に困りますから」
妖精は手帳をのぞいた。
木の形と、根元の岩が簡単に描かれている。
「その木だけじゃ、分かんないよ」
「似た木が多いですか」
「いっぱいある。岩の後ろに白い花があるでしょ。そっちも」
エレナが顔を上げた。
言われた場所に、小さな白い花がまとまって咲いていた。
「こちらですね」
「うん。あれは、乾いたところにしか咲かないから」
エレナは絵を描き足した。
「助かります」
「もっと聞いていいよ!」
妖精が胸を張る。
しばらく進んだところで、エレンが足を止めた。
「……待って」
目の前の幹に、何かが張りついていた。
褐色の背中は樹皮と同じ色をしている。だが、その端から伸びた六本の脚が、ゆっくり動いた。
サラが姉の肩越しにのぞく。
「虫?」
「そうだと思うけど」
エレンは半歩下がった。
「あたしの顔より大きくない?」
妖精が引き返してきた。
「ああ、それ。踏まなければ平気」
「踏める大きさじゃないでしょ」
エレナは幹の横へ回った。
顔を近づけすぎないようにしながら、虫の背を眺める。
「見事ですね。動かなければ、木の一部にしか見えません」
「エレナ、あんまり近づかない方が――」
サラが言い終える前に、褐色の背中が割れた。
薄い羽が広がる。
低い羽音とともに、大きな身体が幹を離れた。
「飛ぶの!?」
エレンが身を引いた。
エレナも素早く顔をそらす。虫は二人の間を抜け、ザインの肩へ止まった。
誰も動かなかった。
ザインが、ゆっくり横を向く。
長い触角が頬に触れた。
「……取れ」
「動かなければ平気だよ」
「分かったから、取れ」
妖精が虫を両手で持ち上げ、隣の木へ移した。
六本の脚が樹皮を掴むと、虫は何事もなかったように動かなくなった。
エレンが息を吐いた。
「あんたでも嫌なのね」
「頬を撫でられて喜ぶ奴がいるか」
サラが笑いを堪えながら、彼の肩についた木屑を払った。
エレナは虫の移された幹へ目を向けていた。
「羽の下は、綺麗な青でしたね」
「よく見てたわね、あの一瞬で」
妖精が振り返る。
「もう一回、飛ばそうか?」
「そのままでいい」
今度は、三人の声が揃った。
*
昼を過ぎた頃、小さな流れに出た。
水は澄んでいたが、ザインはすぐには水袋を浸さなかった。
妖精が上流側を指す。
「あっちから汲んで。そこは足を入れるところ」
「使い分けてるのか」
「泥が入るじゃん」
四人は荷物を下ろした。
サラが腰を下ろすと、妖精も隣の石へ降りた。
彼女の足は水面まで届かない。少し考えてから飛び上がり、浅いところへ降り直した。
「冷たい!」
水を蹴る。
サラの靴へ雫が飛んだ。
「ちょっと」
「ごめん」
口では謝りながら、笑っている。
サラも笑い、靴を少し遠ざけた。
エレンは包みを開いた。
アケの宿で用意してもらった食事が、厚い葉にくるまれている。
「便利ね、これ。皿になる」
「捨てる時は持って帰るよ」
妖精が言った。
「葉っぱなのに?」
「匂いにつられて来るから」
エレンは包みを見直した。
「なるほど。分かった」
食事が終わる頃、黄色い蝶が一匹、水辺へ降りてきた。
サラの膝に止まり、羽を開いたり閉じたりしている。
「動かない方がいい?」
「動いたら飛ぶだけ」
サラはそっと指を近づけた。
蝶はその指先へ移り、少しして木々の間へ舞い上がった。
追って顔を上げた妖精が、ふと動きを止めた。
流れの向こうを、別の蝶が飛んでいた。
赤い羽だった。
一匹。
少し離れて、もう一匹。
妖精は、水から足を上げた。
「どうした」
ザインが訊く。
「……こっちにもいる」
エレナが赤い蝶を目で追った。
「普段はいないんですか」
「もっと奥。熱いところにいるの」
「昨日、宿で聞いた風と関係が?」
「分かんない」
妖精は首を振った。
先ほどまで足を浸していた水を見下ろす。
「ここは、まだ冷たいよ」
ザインも流れへ手を入れた。
冷たい水が指の間を抜けていく。
それだけで、森の奥まで同じだとは言えなかった。
「村まで、あとどのくらいだ」
「もう少し」
「歩いて」
「歩いて、もう少し」
今度は、はっきり答えた。
ザインは立ち上がり、荷物を背負った。
「じゃあ行くぞ。向こうで話を聞く」
「うん」
妖精が飛び上がる。
赤い蝶とは違う方へ、進路を取った。
木々の間が、急に明るくなった。
サラは目を細めた。
森を抜けたのかと思ったが、違った。
大きな木があった。
何人で囲めば届くのか分からないほど太い幹。
地面からせり上がった根の間には人が立てる空間があり、その上へ、枝が幾重にも広がっている。
花が咲いていた。
幹に絡む蔦にも、枝の先にも。
そして花の間を、小さな影が飛び交っていた。
一人や二人ではない。
サラが足を止めた。
「……みんな、妖精?」
隣でエレンも上を見ていた。
「そうみたいね」
頭上から、声がした。
「あれ?」
「帰ってきた」
「どこ行ってたの?」
案内してきた妖精が、一気に高く飛び上がった。
「帰ってきた!」
何人もの妖精が集まってくる。
触れそうなほど近くを飛び、彼女の周りを回った。
「長かったね」
「人間がいる」
「四人もいる」
「連れてきた!」
妖精は下の四人を指した。
「助けてもらったの!」
ザインは根元から見上げていた。
高い。しかも、上へ続く階段らしいものはない。
妖精が手を振る。
「上がってきて!」
彼は黙って見返した。
エレンが腰へ手を当てる。
「どうやって?」
「……あ」
「これで、何回目だ」
ザインが言った。
サラがとうとう吹き出した。
上にいた妖精たちも、何がおかしいのか分からないまま笑い始める。
案内役の妖精だけが頬を膨らませていた。
「待ってて! 今、何とかする!」
木の上へ飛んでいく。
話し声が重なり、やがて太い蔓が二本、するすると下りてきた。
その先には、板が括りつけられている。
ザインは板を見た。
蔓を見上げた。
「……これに乗れってか」
「一人ずつ!」
上から返事が来る。
彼は結び目を確かめ、板へ片足を乗せた。
少し体重をかける。軋みはしたが、割れはしなかった。
「俺から行く」
両足を乗せ、蔓を掴む。
次の瞬間、身体が浮いた。
「おい、速え!」
地面が遠ざかる。
枝が目の高さを通り過ぎ、ザインは慌てて顎を引いた。
下から、エレンの笑い声が追いかけてきた。
「飛べてよかったじゃない!」
「飛んでねえ!」
太い枝の上へ引き上げられた時には、彼は両手で蔓を握り締めていた。
妖精が目の前に浮いている。
「着いた!」
「見りゃ分かる」
「次、呼んでいい?」
「もう少しゆっくり上げろ」
「分かった!」
返事だけはよかった。
ザインは板を降り、枝に組まれた足場へ移った。
足の下は思ったよりしっかりしている。
葉の陰に、小さな家がいくつもあった。
開いた窓から、妖精たちがこちらを見ている。花を乾かしている棚も、木の実を盛った器もある。
案内役の妖精は、すぐ近くの家へ飛んでいった。
戸を開ける。
中をのぞき、一度だけ動きを止めた。
それから槍を持って入り、窓の内側へ立てかける。
すぐにまた出てきたが、今度は何も持っていなかった。
「そこか」
ザインが訊いた。
「うん」
妖精は家を振り返った。
「私の」
ザインは小さく頷いた。
そのうちに、サラが上がってきた。
足場へ移る時だけ、ザインが腕を貸す。
サラは周囲を見渡し、窓辺に立てかけられた槍に気づいた。
「ここが、お家?」
「そう!」
妖精が戸を開けてみせる。
サラは屈んで中をのぞいた。
葉を重ねた寝床。
小さな器。
窓辺に並べた、色の違う木の実。
「よかったね」
サラが言うと、妖精は頷いた。
「うん」
今度は、すぐに別の話を始めなかった。
戸口へ手を置いたまま、もう一度部屋の中を見た。
やがてエレンとエレナも上がってきた。
足場は四人が立つと少し狭く、ザインは皆を幹に近い側へ寄せた。
エレナは上を見ていた。
枝から枝へ渡された蔓と、そこに吊るされた小さな灯り。木を削りすぎずに組まれた家々へ、忙しく視線が動いている。
「……少し、見せていただいても?」
「いいよ!」
妖精が答える。
「泊まっていくでしょ?」
「人間が寝られる場所、あるの?」
エレンが訊いた。
「ある!」
今度は迷わなかった。
妖精は太い幹の裏側へ回り、四人を手招きした。
そこには、枝と枝の間に広く組まれた床があった。
頭上には大きな葉が重なり、雨を避けられるようになっている。端には、畳まれた敷物が積んであった。
「ここ!」
エレンが荷物を下ろした。
「いいじゃない。風も通るし」
「落ちるなよ」
ザインが言う。
「あんたこそ」
サラは床へ座り、幹にもたれた。
葉の隙間から、歩いてきた森が見える。
妖精がその前へ降りた。
「明日、村を見せてあげる」
「うん」
「おいしい実があるところも」
「それも楽しみ」
エレナが手帳を閉じた。
「森のことも、教えてください」
「いいよ。いっぱい知ってる!」
ザインは荷袋を床へ置き、肩を回した。
妖精がその顔をのぞき込む。
「どう? ちゃんと着いたでしょ」
「ああ」
「案内、上手かった?」
「最後に吊るされたの以外はな」
「歩くより早かったじゃん」
「それは認める」
妖精が笑った。
木の上から、食事に呼ぶ声がした。
彼女は反射的に飛び上がり、すぐに戻ってくる。
四人を見た。
それから、歩いて渡れる枝の方を指す。
「こっち。今度は歩けるよ」
エレンが立ち上がる。
「やっと覚えたわね」
「最初から知ってた!」
サラが笑いながら後を追った。
エレナも荷物を置き、枝へ足を踏み出す。
ザインは最後に一度だけ、家の窓を見た。
窓辺には、節のある枝が立てかけられていた。
昨夜、怪物を貫いた槍には、とても見えなかった。
「ザイン!」
先で妖精が呼んでいる。
もう急かすようには飛び回っていなかった。
「今行く」
彼も、四人の後へ続いた。