Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ミアが戻ってきた時、ザインは水袋の栓を確かめていた。
「西の泉、冷たかった!」
枝へ降りるなり、彼女は言った。
槍の先には、どこでつけたのか白い花びらが一枚引っ掛かっている。
「北の実も、まだ大丈夫だって。皆、今日はそっちへ行く」
「一人で行ったのか」
「三人! サラにも言ってから行ったよ」
「ならいい」
ミアは得意げに胸を張った。
「ふふん。私だって、そのくらい考えてるんだから」
「ああ。遠くまで行く時だけは気をつけろよ」
「分かってる!」
ミアは頷き、それからザインの荷物をのぞき込んだ。
「水、多いね」
「お前の分もある」
「重くない?」
「重い」
「じゃあ、一つ持つよ」
差し出された水袋を受け取り、肩へ掛ける。
小さな身体に対して大きすぎる袋だったが、ミアは平然と浮き上がった。
エレンがその姿を見た。
「そんな大きいの、よく持てるわね」
「えへへ。エレンの分も持とうか?」
「あたしのは大丈夫。でも、ありがと」
「じゃあ、疲れたら言ってね」
「その時はお願いするわ」
ミアは満足そうに羽を揺らした。
エレンが笑った。
少し離れたところでは、エレナが地図を畳んでいた。
今日進む西側の道と、昨日通った道。二本の線の間には、まだ何も描かれていない。
サラが弓弦を確かめ、立ち上がる。
「準備できたよ」
「では、行きましょう」
出発を見送る妖精たちへ、ミアが手を振った。
「暗くなる前に戻る!」
「実、残しておくね」
「甘いやつ!」
いつもの調子で答え、先へ飛ぶ。
ザインがその後を追った。
*
西の道は、昨日より歩きやすかった。
ミアが言っていた倒木は、二つの岩に引っ掛かり、その下に人の通れる隙間を残していた。
ザインは頭を下げて抜け、向こう側の地面を踏み確かめる。
乾いている。
大きな獣の足跡もない。
「ここまでは使えるな」
「この先も、大きな根を越えれば――」
ミアが指した先で、木々が途切れていた。
谷だった。
底は深くない。
斜面を下り、向こう側を登れば渡れそうだったが、その間を流れる細い川から、白い湯気が立ち上っていた。
サラが足を止める。
「ここも?」
「近づかないでください」
エレナが岸へしゃがんだ。
水へは触れず、流れの周りを見渡す。
倒れた草が茶色く変色している。
水際の根はむき出しになり、その先の木にも枯れた葉が残っていた。
「昨日より、城に近いですね。こちらから下流へ熱い水が流れているのでしょう」
ミアは川の上へ浮いた。
途中で顔をしかめ、引き返してくる。
「ここ、前は雨の後しか水がなかった」
「今は城から流れてきてるのか」
「たぶん」
ザインは斜面に沿って目を動かした。
少し上流に、石が積まれている。
蔦に隠れていたが、形が揃っていた。
「橋か」
近づくと、崩れた石橋だった。
中央は落ちていたが、片側の縁だけが両岸を繋いでいる。
ザインは靴先で石を押した。
揺れはしない。
「荷物を渡せ。一人ずつ行く」
「私が運ぶ!」
ミアが手を上げた。
「一度に全部持つなよ」
「分かってるって」
彼女が水袋を運び、その間にザインが渡る。
向こう岸で縄を木へ回し、こちらへ投げ返した。
エレンが受け取り、サラへ渡す。
「足元だけ見て」
「うん」
サラが縄を握って進む。
続いてエレナ、最後にエレンが渡った。
ミアは崩れた石橋を見下ろしていた。
「ふふん。こういう時は、飛べると楽でしょ」
「そうだな。だが、俺たちは帰りもここを通る」
ザインは橋のたもとにある大きな木へ目を向けた。
「目印を覚えておかねえとな」
「もう覚えたよ!」
「お前は飛べるだろ。俺たちの話だ」
ザインが言うと、エレナは手帳から顔を上げた。
「描いています」
「早えな」
「今度は褒めているんですね」
「ああ」
彼女は少しだけ笑い、石橋の位置へ印をつけた。
*
橋を越えた先には、古い石畳が残っていた。
土に埋もれ、根に持ち上げられている。
だが、道幅は人が二人並んで歩けるほどあった。
ミアが低く飛び、敷石を見ている。
「これ、ずっと草で隠れてた」
「枯れて見えるようになったんですね」
エレナが道の脇へ目を向けた。
茶色く縮れた蔓が、石の上へ垂れていた。
道は城の西側へ続いていた。
正面で見た黒い岩場とは違い、こちらには低い石壁と、水路の跡がある。
壁の一部が崩れ、その奥に屋根のない通路が見えた。
五人は木陰で止まった。
風は熱い。
それでも、昨日の正面ほどではなかった。
ザインが壁の陰へ手を当てる。
石は温まっていたが、触れられない熱さではない。
「こっちは近づけそうだな」
「水路も続いています」
エレナが崩れた壁の向こうを見た。
浅い溝を、水が流れていた。
城の内側へ続く途中に、石造りの枠と、錆びた鉄の軸が見える。
「あれは?」
エレンが訊いた。
「水門かもしれません。流れを変える仕組みが残っていれば、下の川への影響を減らせる可能性があります」
「止められる?」
ミアが訊く。
「調べてみないと。出口だけ塞いでも、別の場所へ溢れてしまいますから」
ザインは通路を見渡した。
天井はない。
戻る道も見えている。
奥から物音はしなかった。
「帰り道を確かめながら行く。熱さが増したら戻るぞ」
「ああいう大きな影が出たら?」
エレンが訊く。
「道を空けて引く。追ってくるなら、広いところで迎える」
ミアが槍を握り直した。
ザインが先に壁を越える。
後ろを振り返り、四人を手招きした。
*
通路の石は、ところどころ赤く変色していた。
古い壁面には模様が刻まれている。
エレナは一度だけ目を向けたが、足を止めなかった。
「見なくていいのか」
エレンが小声で訊く。
「今は、水の方が先です」
「帰りに見る?」
「余裕があれば」
ザインが前を向いたまま言った。
「余裕は残して帰るもんだ」
「分かっています」
通路の先は、中庭になっていた。
四方を壁に囲まれているが、空は見える。
中央には石で縁取られた大きな水槽があり、内側の壁から出た水が、そこを通って外へ流れていた。
水門らしいものは、その出口にあった。
鉄の軸が曲がり、石の板が斜めに噛み込んでいる。
エレナが近づこうとして、足を止めた。
水槽の周りに、骨が散らばっていた。
小さなものばかりではない。
太い脚の骨も、牙のついた顎もある。
「ザイン」
「ああ」
彼は手を上げた。
水が揺れた。
水槽の奥から、赤黒い鱗に覆われた長い首が持ち上がる。一本、二本。さらに何本もの頭が、沈んでいた巨体から伸びてきた。
「パイロヒドラかよ」
ザインが曲刀を抜いた。
「強い?」
槍を構えたミアが尋ねる。
「ああ、かなりな。火を吐く。固まるな」
ヒドラの前脚が水槽の縁に掛かった。石が砕け、水が流れ出す。
「戻るぞ」
だが、一つの頭が低く沈み、喉の奥が赤く染まった。
「横へ!」
炎が通路を走った。
枯れ蔓が燃え上がり、退路が塞がれる。エレナがサラを石柱の陰へ引き込んだ。
ザインは迫る巨体を見据えた。
「ここで止める!」
ザインが前へ出た。エレンはその後ろで斧を構える。
ミアが左へ飛び、エレナは右の石柱へ回る。サラは二人の間から、水槽を見据えた。
一つの頭がザインを追う。
だが、残る首は左右へ分かれた。
「こっちも見てる!」
ミアが槍を構え直した。
「全部は引きつけられん! エレン、右を支えろ!」
エレンが右の前脚へ回る。
その頭上から、別の顎が襲いかかった。
「そっち見すぎ!」
長い首が中央を横切ったところへ、ミアの槍が突き入った。
頭が彼女を追い、別の首まで伸びてくる。
「ミア、下!」
サラの声に、妖精が急降下した。
その頭上を矢が抜け、追ってきた頭の目元へ突き立つ。
「上じゃないの!?」
「上にもいたから!」
その間に、ザインが胴へ迫った。
中央の頭が口を開く。喉が赤く膨らんだ。
「右へ!」
エレナの声にザインが身をかわす。
入れ替わるように、彼女が踏み込んだ。
《星穿ち》
細剣が開いた顎の下を貫いた。
ヒドラの頭が跳ね上がり、吐き出された炎が頭上を走る。
エレナはすぐに刃を抜き、後退した。
「エレン、今だ!」
ザインが曲刀を振り抜く。
《デミルーン》
弧を描く斬撃が首を裂き、ヒドラの注意が逸れた。
その隙にエレンが踏み込む。
《大木断》
斧が前脚の関節へ食い込んだ。
骨の砕ける音が響き、巨体が石床へ沈む。
ヒドラが首を一斉に持ち上げた。
傷ついた中央の頭が、大きく口を開く。
サラは、エレナがつけた傷へ狙いを定めた。
《ビーストスレイヤー》
矢が喉へ突き立ち、吐きかけた炎が途切れる。
「ミア!」
ザインの声に、小さな影が低く飛んだ。
倒れた胴の脇へ潜り込み、槍を構える。
《チャージ》
飛翔の勢いを乗せた穂先が、前脚の後ろ、鱗の隙間へ深く突き入った。
巨体が大きく跳ね、いくつもの首が石床を叩いた。
ミアは槍を引き抜いて離れた。
尾が一度、壁へぶつかる。
それきり、動かなくなった。
誰も近づかなかった。
燃える蔓の音だけが、中庭に残った。
ミアは石柱の上へ降りた。
槍を抱え、肩を上下させている。
サラは弓を下ろした。
指が少し震えていたが、次の矢は落とさず矢筒へ戻せた。
エレナが水袋を差し出す。
「ひと口ずつ」
「ありがとう」
ザインは水を飲み、倒れたヒドラへ目を戻した。
首も、尾も動かない。
やがて、帰りの通路に残っていた火が消えた。
焦げた蔓から、細い煙だけが上がっている。
「水門を見たら、戻るぞ」
エレナが頷いた。
水槽の出口には、錆びた鉄の軸が突き出していた。
その下で、石板が斜めに噛み込んでいる。
彼女は動かそうとはせず、横へ回った。
曲がった軸と石板の隙間を確かめ、小さく首を振る。
「ここを動かすのは難しそうです。道具が要ります」
「押しても駄目?」
ミアが訊いた。
「割れて水がこちらへ流れたら、困ります」
「ああ」
熱い水を見て、ミアは手を引っ込めた。
水門の脇には、模様が刻まれていた。
丸い紋から、炎に似た線が外へ伸びている。
「……朱鳥」
「何だ」
ザインが顔を上げる。
「この紋様です。朱鳥の術に使うものに似ています」
同じ紋様が、水路に沿って並んでいた。
ヒドラが倒れた後も、流れ込む水の熱さは変わっていない。
「こいつが水を熱くしてたわけじゃねえんだな」
「ええ。上流から来ています」
エレナは内側の入口へ目を向けた。
その脇を、水路が奥へ延びている。
高い窓から光の差す廊下に、もう一つ石造りの枠が見えた。
鉄の軸も残っている。
「あちらにも、水門があるようです」
「使えそうか」
「ここからでは。ただ、脇に別の溝があります。流れを変えるためのものかもしれません」
エレナは手帳を開き、見える範囲を書き留めた。
ミアが廊下の奥を見た。
「あっちの水門も見てくる?」
「今日は戻るぞ」
ザインが答えた。
「すぐそこだよ?」
「今の戦いで、水も矢も使った。奥でまた何か出たら、帰りがきつくなる」
ミアは、サラの矢筒へ目を向けた。
「……明日?」
「ああ。水を補充して、あそこまで確かめに来る」
ミアは、まだ廊下の奥を見ていた。
エレンは水袋の残りを確かめた。
「あたしも、今日は帰りたい。思ったより飲んだわ」
「……分かった」
ミアが中庭へ戻る。
ザインは曲刀を収めかけ、ヒドラの胴へ目を留めた。
熱い湯に浸かり、炎を吐いていたというのに、赤黒い鱗には焦げ跡一つない。
斧の入った脚の付け根から、厚い皮の断面がのぞいていた。
彼は荷袋から小刀を取り出した。
「何してるの?」
「皮を剥ぐ」
「帰るんじゃないの?」
「持って帰るんだよ」
ミアが首を傾げる。
エレンもヒドラを見た。
「売るの?」
「これだけでかい奴だ。高く売れるだろ」
ザインは傷口の端をつまんだ。
引いても裂けない。鱗の下には、しなやかな厚い皮があった。
「それに、あの湯に浸かって平気だった。何かには使えそうだ」
「何かって?」
「ノーラに見せる」
「まだ決まってないのね」
エレナが隣へしゃがみ、皮の断面を見た。
「背と腹では、厚さが違いますね。持ち帰るなら、両方ある方がよさそうです」
「だろ」
「そこで張り切らないでよ」
エレンは言いながら、斧を置いた。
ザインが帰りの通路を指す。
「サラ、そっちを見ててくれ。エレナは奥だ。何か来たら、作業はやめる」
「うん」
「分かりました」
サラが弓を持って石柱のそばへ移る。
エレナも、廊下の見える位置へ立った。
ザインが傷口から小刀を入れた。
エレンが切り離した端を掴み、彼の手元に合わせて引く。
ミアは剥がした皮を受け取り、帰りの通路の手前へ運んだ。
一枚。
もう一枚。
大きな皮が、石床の上へ重なっていく。
「……ねえ。まだ取るの?」
エレンが訊いた。
「こっちも傷が少ねえ」
「そういう話じゃなくて」
ザインは、持ち上げた皮と、残った胴を見比べた。
少し迷ってから、小刀を抜く。
「この辺にしとくか」
「十分よ」
切り出した皮を畳み、縄で縛る。
厚い束が幾つもできた。
ミアが一つ持ち上げた。
顔が、その向こうへ隠れる。
「持てるよ!」
「前、見えてないぞ」
少し下げると、得意そうな顔が現れた。
エレンも一束を肩へ載せた。
縄の位置を直し、息を吐く。
「あたしたち、何しに来たんだっけ」
「水を調べに」
「今は?」
「皮を運ぶ」
ザインが答えると、ミアが笑った。
「帰ったら、皆びっくりするね!」
「でしょうね。この量だもの」
サラの分は小さくまとめ、弓を使う腕が空くようにした。
エレナは束を背負い、手帳をすぐ取り出せる場所へ移す。
最後にザインが、一番大きな束を担いだ。
「行くぞ」
*
村へ戻った時には、日が傾き始めていた。
頭上から、妖精たちが降りてくる。
「何、それ?」
「獲ってきたの?」
「食べ物?」
ミアが皮の向こうから顔を出した。
「違う! これ、高く売れるんだって!」
ザインが彼女を見る。
「まだ売ってねえぞ」
エレンは木の根元へ荷物を下ろした。
肩を回し、その隣へ腰を下ろす。
「売れなかったら、あんたの寝床にするからね」
「悪くなさそうだな」
「少しは困りなさいよ」
サラが笑い、縄で赤くなった肩をさすった。
妖精たちに場所を借り、皮は根元にある雨の入らない作業場へ広げた。
ここなら、上の枝へ引き上げる必要もない。
エレナは手を洗ってから、手帳を開いた。
壊れた水門。
その奥に見えた、もう一つの枠。
脇へ延びていた溝。
ザインが隣へしゃがむ。
「そっちは、どこへ流れる」
「まだ分かりません。外から見えた水路へ繋がるなら、森へ出る前に流れを分けられるかもしれません」
ミアも紙をのぞいた。
「水、止められる?」
「調べてみないと。ただ、今日の水門よりは仕組みが残っていそうでした」
ザインは、帰り道の線を指で追った。
「明日は水を増やす。荷物は少なくして、あの水門までだ」
「皮は?」
「置いていく」
「それは安心したわ」
エレンが、作業場いっぱいに広がった皮を見た。
頭上から、夕食に呼ぶ声がした。
ミアが飛び上がる。
すぐに振り返り、四人を待った。
「今日はいっぱい働いたから、いっぱい食べていいよね」
「それはいいんじゃない?」
「ザインより?」
「食えるならな」
彼女は嬉しそうに笑い、枝の上へ声を張った。
「魚、残しておいて!」
*
翌朝、石橋の向こう岸に足跡があった。
昨日、自分たちがつけたものではない。
泥の上へ、爪の跡が深く食い込んでいる。
ザインは縄を握ったまま、岸辺を見た。
「昨日はなかったな」
「夜に通ったのかな」
サラが弓へ手を添える。
足跡は川沿いへ続き、木々の間へ消えていた。
五人の進む石畳とは、別の方向だった。
ミアが低く飛び、少し先を見て戻ってくる。
「道にはいない」
「上には出るなよ」
「分かってる」
昨日より小さな声で答えた。
橋を越え、木々の間から城をうかがう。
西の崩れた壁は、そのままだった。
ただ、外側の水路に魔物がいた。
長い尾を水へ浸し、壁へ背を寄せている。
エレンが幹の陰へ身を寄せた。
「あれも、昨日はいなかったわね」
「ああ」
ザインは城壁の上を見た。
別の影が、一つ動いた。
「見張りか」
「私たちが来たから?」
ミアが訊く。
「かもしれん。昨日と同じつもりでは入れねえな」
エレナが地図を開いた。
昨日の中庭と、水門の位置を指す。
「こちらの壁沿いなら、水路へ下りずに行けます。奥の水門も、廊下の手前から見えていました」
「そこまでの道を見て、駄目なら戻る」
ザインが顔を上げる。
「数が多けりゃ戦わん。ミア、枝の陰から見えるか」
「うん」
彼女は槍を身体へ寄せ、木々の間を抜けた。
城壁より高くは上がらず、崩れた壁のそばまで進む。
戻ってくるまで、四人は口を開かなかった。
「中庭にはいない。昨日の大きいのが、倒れてるだけ」
「廊下は?」
「ここからじゃ見えない」
「なら、全員で確かめる。先へ飛ぶなよ」
「分かった」
水路の魔物が頭を下げるのを待ち、五人は壁沿いに移動した。
*
中庭には、ヒドラが横たわっていた。
昨日燃えた蔓は黒く縮れ、通路の石には煤がついている。
ザインは奥の入口を見た。
影は動かない。
エレナが、その横へ並ぶ。
「あそこです」
廊下の先に、石造りの枠が見えた。
昨日と同じ場所だった。
五人は足音を抑え、入口を越えた。
厚い壁が日差しを遮り、高い窓から風が抜けている。
水路には石の蓋がかかっていた。
ザインが水門の先を確かめる。
廊下はすぐ奥で曲がっていたが、そこまでに姿は見えなかった。
彼が頷くと、エレナが軸のそばへしゃがんだ。
ミアは左側の柱へ寄り、エレンはザインの後ろにつく。
サラは最後尾から、中庭と廊下を交互に見た。
エレナが水門の内側へ灯りを寄せた。
鉄の軸は残っていた。
だが、その先の石板が砕けている。
欠片が隣の溝へ詰まり、水はその上を越えて流れていた。
「……これも使えません」
「壊れてるのか」
ザインが訊く。
「ええ。奥の板が割れています。外からは見えなかったんですが」
エレナは手を伸ばさず、灯りの角度を変えた。
石板の中央が大きくえぐれている。
「何かを、強くぶつけたような跡ですね」
「直せそう?」
「私たちだけでは無理ですね。直すなら戻って装備を整える必要があります」
手帳を閉じた時だった。
低い唸り声がした。
廊下の角から、三つの頭が現れる。
それぞれの口から牙がのぞき、中央の喉には赤い光が灯っていた。
「ケルベロスだ。火を吐かせるな」
ザインが曲刀を抜く。
エレナは灯りを壁際へ置き、右へ開いた。
エレンが斧を構え、サラは半歩ずれて矢をつがえる。
獣が床を蹴った。
中央の頭がザインを狙う。
その口へ矢が飛び、牙の間へ突き立った。
炎が漏れる。
ザインは横へかわし、曲刀で顎を斬り上げた。
踏み込みを止められた獣へ、左からミアの槍が入る。
右の頭が彼女へ向き直ったところで、エレナが反対側から目元を突いた。
首が跳ね上がる。
ザインの後ろから、エレンが踏み出した。
斧が前脚の付け根を捉える。
巨体が沈んだ。
低くなった首へ、ザインが曲刀を振り下ろす。
獣は石床へ倒れ、しばらく脚を掻いた。
やがて、ケルベロスの脚が止まった。
ミアは槍を構えたまま待っていた。
ザインが動かないことを確かめ、頷く。
「よし」
「今度は、前に出すぎなかったでしょ」
「ああ。そのままでいい」
エレナが刃を拭い、水門の脇へ目を向けた。
砕けた石板の欠片が、隣の溝に詰まっている。
「こちらへ流すはずだったんですね」
「別の川へか?」
ザインが訊いた。
「そこまでは。ただ、溝は壁の向こうへ続いています」
脇に、低い入口があった。
扉は外れ、壁へ立てかけられている。その向こうから風が来た。
ザインは入口の横へ寄り、中を見た。
狭い部屋だった。
錆びた工具が壁に掛かり、床には長い鉄の棒が転がっている。反対側には、外の光が差していた。
「奥は外か」
「見てくる!」
ミアが羽を動かす。
「一緒にだ。先へ行くなよ」
彼女は空中で止まり、四人を待った。
部屋を抜けると、城壁沿いの細い足場へ出た。
低い石段が斜面へ下り、その先には森がある。
ミアが枝の位置を見比べた。
「ここ、さっきの橋より下だ」
「村へ戻れるか」
「川へ下りなければ。あの大きな木の向こうに、通れるところがある」
ザインも斜面を見た。
草は枯れていたが、足を置ける岩は続いている。
「覚えておけ。来た道が使えなけりゃ、こっちへ出る」
エレナが手帳へ道筋を描き足した。
作業室へ戻ると、エレンが壁を指した。
「これも、水路?」
剥がれた壁土の下に、線が刻まれていた。
四角い枠から何本もの溝が延び、その一つが、今いる部屋の床と同じ形に分かれている。
エレナは灯りを近づけた。
「設備の図のようですね。ここが、先ほどの水門で……」
指を触れずに動かし、線をたどる。
その上流に、もう一つ大きな枠があった。
「水を溜める場所でしょうか」
「止める仕組みもあるの?」
サラが訊いた。
「分かりません。ですが、水はここを通ってから二つの水門へ送られています」
ザインが図と廊下を見比べた。
「遠いか」
「隣の部屋の位置です」
「そこまで確かめる。何か動かすのは、見てからだ」
ミアが小さく頷いた。
廊下を少し進むと、水音が大きくなった。
壁の開口部から、広い石槽が見えた。
窓は高く、差し込む光の中を白い湯気が流れている。
水は、奥の壁から何本もの細い溝へ分かれていた。
その底を、赤い光が走っている。
エレナは敷居の手前で止まった。
「触らないでください」
ミアが伸ばしかけた手を引く。
「石も?」
「ええ。光っているところには、特に」
壁には、中庭と同じ紋様が刻まれていた。
丸い紋から伸びた線が水槽の底へ続き、隣の紋へ繋がっている。
光が強まった。
直後、溝の水面に細かな泡が浮く。
エレンが眉を寄せた。
「今、熱くなった?」
「……水を通しながら、熱を加えているようです」
エレナは周囲を見渡した。
水門を動かす軸も、流れを止める板も見当たらない。
「水門を直しても、熱い水は来るのね」
「ああ。流す先が変わるだけだな」
ザインが答えた。
ミアは湯気の向こうを見ていた。
「この光を消せば?」
「どこまで繋がっているのか分かりません。途中を壊すのは危険です」
エレナは手帳に紋様を写した。
筆先が一度止まり、奥の壁へ目が戻る。
赤い線は、壁を越えて続いていた。
石槽の部屋を離れると、低い音が聞こえた。
ザインが手を上げる。
四人が止まった。
重いものを、床へ引きずるような音だった。
少しして途切れ、それきり聞こえなくなる。
ミアが槍を身体へ寄せた。
「……ここ、虫もいない」
「熱いから?」
サラが小声で訊く。
「さっきの水場にはいたよ」
誰も口を開かなかった。
廊下の先で、赤い光が揺れていた。
大きな扉が半ば開いている。壁を走る紋様は、その両脇へ集まっていた。
ザインは、その場から隙間の奥を見た。
太い柱。
広い石床。
さらに奥に、炎を映す大きな刃があった。
動かなかった。
だが、誰かが持っている。
ザインは曲刀の柄を握り直した。
「戻るぞ」
四人へ手を振る。
エレナが手帳を閉じ、サラを帰りの方へ促した。
その時、声がした。
「そこまで来て、立ち去るか」
大きくはなかった。
それでも、廊下の端まではっきり届いた。
ザインは四人へ、その場に留まるよう合図した。
曲刀を抜き、扉の脇まで進む。敷居を越えずに中を見た。
太い柱が両側に並び、その向こうに数段の階がある。
壁際の溝には赤い光が走り、広間の奥へ集まっていた。
その階の上で、巨大な刃が炎を映していた。
鎌だった。
長い柄の先で、黒い刃が大きく弧を描いている。縁には鈍い金色の装飾が絡み、内側へ向いた切っ先が、眼下の床を指していた。
それを握る腕は、ザインの腿ほども太かった。
黒い手甲の上から、盛り上がった筋肉が肩へ続いている。炎に照らされた胸板は厚く、その下には、深く割れた腹筋が浮かんでいた。
大鎌を片手で支えている。
柄が傾いても、腕はわずかにも震えなかった。
サラの視線が、さらに上がった。
床に立てば、人の倍近い背丈になるだろう。
壇上から見下ろす顔は、炎の揺らぎの中にあった。
張り出した顎。吊り上がった目。
口元からは鋭い牙がのぞいている。頭上には、ねじれた角を束ねたような黒金の冠がそびえていた。飾りなのか、頭そのものから伸びているのか、見分けがつかない。
その目が、ゆっくりと五人を見渡した。
腰から下を覆う炎が揺れた。
髑髏を思わせる飾りの下には、筋肉の盛り上がった太い両脚が伸びていた。
尖った足先は床すれすれまで垂れている。だが、石床には触れていない。
その巨体は、炎の中に浮かんでいた。
大鎌が、わずかに傾いた。
火が巻き上がり、広間の柱へ長い影を投げる。
これほどの炎に照らされているのに、その背後の壁は見えなかった。
ザインは敷居で止まり、曲刀の柄を握り直した。
「ここの主か」
髑髏じみた顔が、ゆっくりと彼へ向いた。
「我が番犬では、足りなかったようじゃな」
ミアがザインの肩の横へ出た。
「ここの水、あんたが熱くしてるの?」
男が彼女を見た。
「森の羽虫か」
「花が枯れてる。魔物も増えてる。村の方まで、熱い風が来るんだよ」
ミアの声が、広間に響いた。
「止めて」
男は答えなかった。
鎌の石突きを、床へ下ろす。
乾いた音がした。
その足元から、細い炎が石の継ぎ目を走った。
「ここは火術要塞。我が炎の満ちるところじゃ」
ミアが槍を握り締める。
「森まで、あんたのものじゃない!」
ザインが半歩、前へ出た。
ミアを止めるためではなかった。
男の視線が、彼女から動かなかったからだ。
「俺たちは、森で何が起きてるか調べに来た。魔物は襲ってきたから倒した。それだけだ」
男が、ようやくザインを見た。
目が合った瞬間、喉が乾いた。
ヒドラとは違う。
大きさでも、武器でもない。
階の上まで踏み込み、剣を振るう。
その途中のどこで斬られるのか、見当がつかなかった。
ザインは息を吐き、柄を握る指の力を緩めた。
「話が通じるなら、聞きてえ。あの水を止める気はあるか」
男の口元が動いた。
「止める?」
笑ったのだと分かるまで、一瞬かかった。
「ようやく、ここまで満ちた炎をか」
エレナが息をのんだ。
朱鳥の紋様。
熱を帯びる水と風。
炎をまとい、鎌を手にした姿。
ランスの部屋が、脳裏をよぎった。
卓に積まれた観測記録。
ヨハンネスの指が、星図の一点を示していた。
アビスゲートが開いている。
あの時は、まだ遠い話だった。
古い記録に残る名と、夜空の変化が、どう結びつくのかを考えていた。
今は、目の前にいる。
「……アウナス」
その名が、口からこぼれた。
男の目が、彼女へ向く。
「我を知るか」
サラがエレナを見た。
エレンも、その名を覚えていた。
ランスで聞いた、四つの名の一つ。
「四魔貴族の……?」
誰も、笑わなかった。
アウナスが鎌を持ち上げる。
刃の先で、炎が長く尾を引いた。
ザインは一歩退いた。
「全員、下がれ」
エレンが動く。
エレナがサラの背へ手を添えた。
ミアも後ろへ飛ぶ。
アウナスは、階を下りてこなかった。
空いている方の手を、ゆっくりと開いた。
壁の紋様が光った。
エレナが振り返る。
「廊下から離れて!」
水路の蓋の隙間から、炎が噴き上がった。
左右の壁を火が走り、五人の背後で重なる。
サラが身を縮め、エレンがその腕を引いた。
全員が、敷居の内側へ押し戻された。
帰り道が、炎の向こうへ消えていた。
「定めじゃ……」
階段の上から、低い声が落ちた。
アウナスは五人を見下ろしている。
逃げ道を塞いだことを誇るでもなく、ただ、当然の結果を告げたようだった。
ザインはアウナスから目を離さなかった。
相手は、まだ同じ場所に立っている。
鎌を構えさえしていなかった。
「エレナ。後ろを頼む」
彼女が頷き、扉と壁の紋様へ目を走らせる。
ザインが曲刀を構え直した。
すぐ後ろで、エレンが斧を握る。左にはミア。右には退路を確かめ終えたエレナが戻った。
最後尾で、サラが矢をつがえる。
五人で動きを確かめた、あの位置だった。
「倒せるなら倒す。だが、勝つために死ぬ気はねえ」
ザインは、階段の上で揺らめく炎を見据えた。
「全員で生きて帰るぞ」