Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ピドナへ着いて五日目の朝、雨が降った。
港へ続く坂道を、荷車が水を跳ね上げながら下りていく。軒先に並んだ商人たちは、空と荷物を交互に見ていた。沖には帆を畳んだ船が幾つも停まり、その向こうの岸は雨にかすんでいる。
ザインは宿の食堂で、二十オーラムと書かれた札を見ていた。
「昨日まで十八だったろ」
「雨の日は薪を余計に使うんだよ」
主人は皿を拭く手を止めなかった。
「洗濯物も乾かないし、泥を落とす手間も増える」
「俺の部屋の暖炉は使ってない」
「部屋の外にも暖炉はあるんだ」
食堂では火が燃えていた。ザインの外套も、その脇で乾かしている。
彼は札から目を離した。
「朝飯は?」
「ついてる」
「パンをもう一つ」
主人はしばらく彼を見た後、籠からパンを取り出した。
「持っていけ。仕事が見つかったら、明日の分も先に払ってくれよ」
「泊まるならな」
反乱鎮圧の報酬は、まだ十分に残っていた。
それでも、寝床と食事に金はかかる。曲刀の刃を研ぎ、裂けた外套を繕い、旅で傷んだ靴の底を直せば、袋の中の硬貨は目に見えて減った。
しばらくは、この町を拠点にするつもりだった。港には人も荷物も集まり、護衛や用心棒の仕事もある。条件を選べるうちに、次の仕事を見つけておきたい。
ザインはパンを食べ終え、乾いた外套を肩へ掛けた。
*
昼前、港近くの酒場へ入った。
濡れた上着が入口の壁に並び、船乗りの卓からは、出航が遅れたという愚痴が聞こえていた。奥では商人が帳簿を広げ、給仕がその間を皿を持って通り抜けている。
ザインは壁際の席を取った。
「煮込みとパン。いくらだ」
「十五オーラム」
「肉は入ってるな」
「入ってるよ。昨日より多いかは、運んでから自分で確かめて」
給仕の女が先に言った。
ザインは黙って銀貨を出した。
煮込みが届いたところで、入口の方が少し静かになった。
船乗りの一人が顔を上げ、その隣も同じ方を見る。ザインも匙を持ったまま目を向けた。
金髪を後ろで束ねた女が、外套の雨を払っていた。
すらりとした身体に、金糸の刺繍が入った濃紺の上衣と、同じ色の細身のズボン。
白い立ち襟の上には、色白の端正な顔があった。
髪を留める青い宝石が揺れ、琥珀色の瞳が店内を一巡する。
その視線は、空いた席よりも先に、入口脇の依頼札へ止まった。
女は数枚を確かめ、店の主人と短く話した。主人がザインの方へ顎を向ける。
女の視線が、一度ザインの腰の曲刀へ落ちた。
それから顔へ戻る。
何かを確かめたように小さく頷くと、女は奥の卓へ向かった。
椅子を引く前に腰の細剣をずらし、邪魔にならない位置へ直してから腰を下ろす。
鞄から地図を取り出し、卓の上へ広げた。
旅慣れている。
ザインは煮込みへ目を戻した。
肉は、昨日と同じくらいだった。
*
煮込みを半分ほど食べた時、卓のそばに人影が立った。
「少し、お話をしてもよろしいですか」
先ほどの女だった。
「何の話だ」
「護衛をお願いしたいんです。ご主人に、あなたが仕事を探していると伺いました」
ザインは匙を置いた。
女は、向かいの椅子へ目を向ける。
「座っても?」
「どうぞ」
彼女は地図を卓へ置いた。煮込みの皿から少し離し、角を指で押さえる。
「ここです。街道から北へ入った丘に、古い天文観測所があります」
「今も使ってるのか」
「いいえ。屋根の一部が落ちて、道も荒れているそうです」
「何をしに行くんだ」
「残っている星図や観測記録を調べます。明日の朝に出て、日暮れまでには町へ戻るつもりです」
ザインは地図へ顔を寄せた。
街道を歩く部分は長くない。その先は森を抜けて丘へ上る。古い道が通れれば、片道二刻ほどだろう。
「魔物は」
「森にはいるそうです。観測所の中は、最近入った人が見つからなくて、確かなことが分かりません」
「分からん、か」
「いないと言った方が、お引き受けになります?」
「いや」
「では、正直にお伝えしてよかったですね」
女は穏やかな顔で言った。
ザインは彼女を見る。それから、もう一度地図へ目を落とした。
「報酬は」
「二百オーラム。往復の護衛と、調査中の見張りをお願いします」
「二百五十だ。雨上がりの森で、廃墟も歩く」
「足場の悪さまで別料金ですか」
「足を折った依頼人を担いで帰ることになったら、二百じゃ安い」
「折らないように気をつけます」
「気をつけて折る奴もいる」
女は少し考えた。
「二百二十五でお願いします。予定にない場所へ入る時は、先に相談します。それでは?」
ザインは頷いた。
「前金百。残りは町へ戻ってからだ」
「分かりました」
女は革袋から金貨を一枚取り出した。
ザインが受け取り、表と裏を確かめる。
「目の前で出したのですが」
「見てた」
「それでも、確かめるんですね」
「今日会ったばかりだろ」
「そうでした」
責めるでもなく、彼女は頷いた。
硬貨を袋へ収め、ザインは顔を上げた。
「名前を聞いてなかったな」
「エレナ・ヴァルティエです。エレナで構いません」
「ザイン・アル=ラシード。ザインでいい」
「では、ザイン。明朝、北門で」
エレナが差し出した手を、彼は握った。
指は細かったが、掌には剣を使う者の硬さがあった。
*
翌朝、雨は止んでいた。
ザインが北門へ着くと、エレナは門番と話していた。鞄に外套を括り、小さな筒を脇へ挟んでいる。
彼に気づくと、門番へ礼を言って歩いてきた。
「観測所の道を通った人が、昨秋はまだいたそうです。入口までは行けると思います」
「中は?」
「入っていないそうです。幽霊の噂を、随分詳しく教えてくださいましたが」
ザインが彼女を見る。
「幽霊?」
「夜、塔の窓に青い光が見えるとか。崩れた屋根の向こうで、誰かが動いていたとか」
「昨日は聞いてないぞ」
「私も、今聞きました」
エレナは門の向こうの空へ目を向けた。
「雨の日の光なら、見間違いもあります。確かめるまでは、何とも」
「本当に出たら?」
「頼りにしています」
「幽霊まで斬れるかは知らん」
「私も知りたいところです」
「調査を増やすな」
彼女が小さく笑った。
二人は街道へ出た。
道の端には水たまりが残り、荷車の轍を避けて歩く。低い雲の下で、麦畑の新しい葉が風に揺れていた。
エレナは時折地図を確かめたが、歩くたびに話しかけてくることはなかった。ザインが道の先を見ている間は、彼女も自分の見るものへ目を向けている。
その静かさは、悪くなかった。
畑が途切れたところで、ザインは彼女の筒を指した。
「それは?」
「小さな望遠鏡です。遠くの目印を確かめる時にも使えます」
「星を見るんじゃないのか」
「星も見ます。でも、今夜の空を見るためだけなら、崩れた観測所まで行く必要はありません」
「昔の星を調べるのか」
「昔の人が、何を見ていたのかを」
エレナは歩きながら、鞄の留め具を直した。
「同じ空を見ても、記録に残すものは人によって違います。毎晩の位置を細かく書いた人もいれば、普段と違うことだけを書いた人もいる。何枚か比べると、一枚では分からなかったことが見つかるんです」
「金にはなるのか」
「写しを欲しがる方はいます。ただ、この調査だけで旅費を賄えるほどではありません」
「それで護衛を雇うのか」
「必要な費用です。資料を見つけても、持ち帰れなければ困りますから」
彼女は当然のように答えた。
ザインも、それには異論がなかった。
*
街道を外れ、森へ入った。
道は草に覆われていたが、石を敷いた跡が所々に残っている。木の枝から大粒の雫が落ち、鞄や肩を濡らした。
ザインは少し先を歩き、道が狭くなるところで止まった。
「待て」
エレナも足を止める。
泥の上に、大きな四足の跡があった。すぐそばには細い蹄の跡があり、どちらも道を横切って西へ向かっている。
ザインがしゃがむと、エレナは一歩離れたところから覗いた。
「新しいですか」
「雨の後だな。こっちは、その前か」
崩れた足跡の縁を指した。水が溜まり、その上を別の獣が踏んでいる。
エレナは鞄から紙を出し、方角と場所を書き留めた。
「シノンでも、同じことがありました」
ザインの指が止まった。
「…それは、いつだ」
「反乱が起きる少し前です。森の魔物が、西へ移動していました。種類も違うのに、同じ方角へ」
彼は立ち上がり、エレナの紙へ目を向けた。
細い字の横に、小さく署名がある。
「お前、シノンの宿に地図を残したか」
エレナが顔を上げた。
「ええ。川沿いの道を調べて、略図を一枚」
「北の丘へ抜ける線が引いてあった」
「使ったんですか?」
「ああ。ロアーヌのお姫様を軍営へ連れていく時にな」
エレナは驚いたように瞬きをした。
「あの夜、森を抜けたのですね」
「あの地図があったからな。街道へ出ずに済んだ」
「そう……。残しておいてよかったです」
その声には、先ほどまでの交渉の調子がなかった。
ザインは腰の細剣を見る。
「川のそばで、黒い魔獣も死んでた。熊と猪を混ぜたような奴だ」
「あれも見たんですね」
「お前がやったのか」
「急に向かってきたので。逃げるには、道が狭くて」
「胸に、一か所だけ刺し傷があった」
エレナは剣の柄へ軽く触れた。
「古傷の下を狙いました。正面からでは、刃が届きません」
「よく入れたな」
「もう少し浅ければ、私があそこに倒れていたかもしれません」
言ってから、彼女は紙を畳んだ。
「ですから、今日は護衛をお願いしています」
ザインは彼女を見た。それから森の先へ目を戻す。
「なら、離れるなよ」
「そのつもりです」
足跡のある場所を避け、二人は再び歩き始めた。
*
倒木が道を塞いでいた。
ザインは幹の右側へ回りかけ、足を止めた。
藪の奥から、低い唸り声がした。
黒い獣が二頭、木の間に立っている。狼に似ていたが、脚が太く、毛の薄い背には硬い皮膚が露出していた。片方の口元から、唾液が糸を引いて落ちる。
ザインは曲刀を抜いた。
「左の木まで下がれ。背後を取られるな」
エレナが動く。その手にも、細剣があった。
一頭目が走った。
ザインは牙の届く直前に横へずれ、曲刀を前脚の付け根へ走らせた。刃が皮膚を裂いたが、深くは入らない。
獣は地面へ爪を立て、すぐに向きを変えた。
もう一頭が、その横を抜ける。
エレナを狙っていた。
「そっちへ行くぞ!」
彼女は木を背にして待っていた。
獣が跳ぶ。エレナは幹に沿って半歩動き、伸びた前脚の下へ切っ先を入れた。
《星穿ち》
細い刃が、一瞬で引き抜かれる。
獣の腹が木の幹へぶつかった。着地した前脚が折れ曲がり、身体が泥へ崩れる。
エレナはすぐに剣を構え直した。
ザインの方では、一頭目が爪を振っていた。
曲刀を斜めに当てて流す。硬い爪が刃を滑り、獣の肩が前へ出た。
「前脚の後ろです。皮膚が薄い」
エレナの声がした。
ザインは身を沈めた。横を通った獣の腹へ切っ先を向け、脚の陰へ突き込む。
今度は深く入った。
獣が身体をひねり、曲刀を持っていこうとする。ザインは柄を両手で支えて刃を引き、距離を取った。
黒い身体が二度よろめき、倒れる。
エレナも自分の相手から離れたまま、その動きが止まるのを待っていた。
森の奥から、別の唸り声は聞こえなかった。
ザインは血を拭い、彼女の剣へ目を向けた。
「シノンの奴も、今の技で?」
「ええ。ただ、同じところへ刺せばいいわけではありません。あれには古傷がありましたから」
「……お前、護衛いるのか?」
エレナは倒れた二頭へ目を向けた。
「二頭いたでしょう?」
「いたな」
「一人なら、片方を相手にしている間にもう片方に食べられていました」
「なるほど」
「それに、調査中は地図や紙を広げます。剣を持ったまま文字は書けません」
「そっちが本音か」
「どちらも本音です」
「よく見てるな」
「あなたも。声を掛けただけで、狙う場所を変えたでしょう」
「届きそうだったからな」
エレナは頷き、刃を鞘へ収めた。
「一人なら、引き返せよ」
「そうします」
返事が早かったので、ザインは彼女を見た。
「本当だな」
「そこまで疑われると、少し心外ですね」
エレナは言いながら、倒れた獣の足跡を調べていた。
観測所へ向かう跡も、戻る跡もある。獣道の途中には、古い骨が散らばっていた。
「こちらは、ここに棲んでいたようですね」
「ああ。さっき道を横切ってた奴とは違う」
「どれも移動している、と決めるわけにはいきませんね」
彼女は手帳にもう一行足した。
ザインは待っていた。書き終わると、彼女はすぐに手帳を閉じ、彼の後へついてきた。
*
丘の上の観測所は、丸い石造りの塔だった。
上の階は崩れ、屋根の代わりに空が見えている。入口には腐った扉が倒れ、蔦の絡んだ壁の下に、石材が積もっていた。
ザインが先に中へ入った。
濡れた木の匂いがする。棚はほとんど倒れていたが、窓の下には、輪を幾つも組み合わせた金属の器具が残っていた。
エレナがその前へしゃがむ。
「天球儀ですね。軸が折れていますが、刻んだ目盛りは読めそうです」
「持って帰るのか」
「持てます?」
「無理だ」
「では、写します」
彼女は小さく笑い、道具を取り出した。
ザインは窓と階段を確かめた。奥に骨や寝床はなく、先ほどの獣が塔の中まで入り込んだ様子もない。
二階へ上がる石段は、端が欠けていた。
「先に見る。まだ来るな」
剣の鞘で段を叩き、一段ずつ上がった。途中で石がぐらつく。
ザインはそこを避け、上からエレナへ指を向けた。
「三段目の端は踏むな。荷物を寄こせ」
鞄を受け取り、彼女が上がるのを待つ。
エレナは指示された段をまたぎ、壁へ手をついて登った。
「ありがとうございます」
鞄を返すと、もう部屋の中央を見ていた。
石の台に、円形の星図が嵌め込まれている。
雨の入らない場所だった。埃を払うと、細かな点と、それを結ぶ線が現れた。
エレナは布を動かす手を止めた。
「……残っていた」
指先が、刻まれた星の一つをたどる。
彼女は一度、息を吐いた。それから、すぐに鞄へ手を伸ばした。
取り出したのは二枚の紙だった。
片方は古い写本の切れ端、もう片方には、彼女自身の字で説明が添えてある。
ザインには、点の多い図にしか見えなかった。
ただ、三つを並べると、一か所だけ、同じように欠けているのが分かった。
紙では墨が重なり、別の写しでは線が途中で切れている。石の星図には、その場所に黒い染みのようなものがあった。
「汚れか」
「そう思って拭いたんですが」
エレナは布の汚れていないところを見せた。
「取れません。周りの線も、ここへ近づくと途切れています」
「同じ場所が消えてるのか」
「少なくとも、そう見えます。作られた場所は別々なのに」
彼女は指先を黒い部分の手前で止めた。
「誰かが消したのか、写す時に省いたのか。それも確かめたいんです」
雲が薄れ、窓から光が差した。
刻まれた星の縁が白く浮く。その中で、黒い部分だけは、石の表面より奥へ沈んで見えた。
ザインは眉を寄せた。
見る角度を変える。今度は、ただの黒い染みに見える。
「今のは?」
エレナも目を離さずにいた。
「あなたにも、そう見えましたか」
「何だと思う」
「まだ、分かりません」
彼女は顔を上げた。
「触らないでください。調べ方を考えます」
ザインは、伸ばしかけていた手を引いた。
エレナは周囲の星と文字を写し始めた。黒い場所へ道具を当てることはせず、定規を脇へ置き、距離を測っている。
時折、書いた文字を消してやり直した。その顔から笑みはなくなっていたが、焦っている様子もなかった。
ザインは窓際へ移った。
森を見下ろす。日暮れまでには、まだ時間がある。
背後では、紙を擦る音が続いていた。
*
一刻ほどして、ザインは床の傷に気づいた。
入口から壁際へ、石を擦った跡が続いている。その先だけ、埃が薄かった。
「エレナ。こっちだ」
彼女が来る。二人で壁を確かめると、石組みの間に、細い継ぎ目があった。
「扉か」
「そのようですね」
エレナは壁の模様を見比べ、周囲と少しずれた金属の輪へ指を掛けた。
ゆっくり回す。
石の向こうで、何かが噛み合う音がした。
壁がわずかに開き、冷たい空気が流れ出した。
奥には、下へ続く細い階段があった。
エレナは身を乗り出しかけ、止まった。
「ここから先は、予定にありませんでした」
「そうだな」
「入口だけ、確かめてもらえますか。危なければ、今日は戻ります」
ザインは階段へ灯りを向けた。
上の部屋よりも、石の傷みが少ない。だが、下の壁には新しい引っかき傷があった。
何かが、そこを通っている。
「扉を閉めて待て。下は見るだけだ」
そう言った時、暗がりの奥で青い光が動いた。
ザインはすぐに下がった。
「離れろ!」
長い腕が、階段の手すりへ伸びた。
爪が石を掴む。続いて、黒灰色の身体が壁を這って上がってきた。人に似ていたが、肘に当たる部分が二つある。胸の中心から、青白い光が漏れていた。
エレナが灯りを床へ置き、細剣を抜く。
怪物は扉の枠を押し広げて出てきた。
ザインが曲刀を振る。首へ向けた刃が硬い表面を滑り、耳障りな音を立てた。
横から腕が来る。
彼は身を引いた。爪が壁を削り、破片が頬へ当たる。
「入口へ戻れ。ここは狭い!」
エレナが先に動いた。
ザインも階段へ向かうが、怪物の腕が床を叩き、その間へ割り込んだ。
石の台を挟んで、二人が左右へ分かれる。
青い光が、エレナの方を向いた。
彼女は床の石片を跨ぎ、怪物が腕を伸ばすのを待った。切っ先を胸へ出しかけ、すぐに引く。
腕が空を切った。
その脇から、ザインが踏み込む。
曲刀を肩へ入れたが、今度も浅い傷しかつかない。怪物が向きを変え、彼へ両腕を伸ばした。
ザインは一方を刃で外へ流し、もう一方を身を屈めてかわした。
「ザイン、左の腕を!」
エレナが声を上げた。
「付け根に継ぎ目があります。今、動いた時に開きました!」
彼は怪物の左側へ回り込んだ。
相手の腕が追ってくる。
踏みとどまって曲刀を当て、斜めに滑らせる。爪が頭の横を通った。その一瞬、肩の外殻が浮く。
曲刀の切っ先を、そこへ突き込んだ。
硬いものが割れた。
内部から青い光が漏れ、怪物の左腕が垂れ下がる。
ザインは柄をひねり、刃を引いた。
「開いたぞ!」
エレナが入る。
割れ目の奥へ細剣が伸びた。深く刺し、そのまま引き抜く。
怪物の身体が強く震えた。
胸の光が膨らみ、割れた肩からも青い筋が噴き出す。
ザインはエレナの上腕を掴んだ。
「伏せろ!」
石の台の陰へ飛び込む。
背後で光が弾けた。台の向こうへ何かがぶつかり、細かな破片が頭の上を通って壁を叩く。
ザインは頭を低くしたまま待った。
石片が転がり終えると、エレナが彼の腕へ手を添えた。
「……もう、大丈夫です」
彼は身体を起こした。
彼女はすぐ隣にいた。解けた髪が頬へかかり、上衣の袖には白い埃がついている。
「怪我は」
「ありません。あなたは?」
「頬だけだ」
ザインは手の甲で血を拭った。
「少し、見せてください」
「これくらいなら――」
「血が目に入ったら、帰り道で困ります」
エレナが指先を傷の近くへかざした。
淡い光が一度だけ揺れ、焼けるようだった痛みが薄れる。
ザインが頬へ触れた。
「術も使えるのか」
「多少は。傷を塞いだだけですけれど」
「十分だ」
「ただし、泥までは消えていません。町へ戻ったら洗ってください」
「……分かった」
怪物は、黒い殻を床へ散らしていた。胸にあった光も消えている。
エレナは立ち上がりかけ、ザインを見る。
「待った方がいいですね」
「ああ」
彼は石を拾い、残骸へ投げた。
反応はない。もう一つ投げ、それから距離を保って回り込んだ。
地下の入口にも、動くものは見えなかった。
ザインは剣を下ろした。
「幽霊じゃなかったな」
「夜、あの光を見たら、そう思うかもしれません」
「噂も、聞いておくもんだ」
エレナは残骸と隠し階段を見比べた。
「ここにいた理由は、調べたいですが……」
「今日は下りるなよ」
「ええ。今のを見て、平気で下りるほど無謀ではありません」
ザインの視線が、彼女の顔から地下へ動いた。
エレナが僅かに眉を上げる。
「残念そうな顔はしていないと思いますが」
「下を見てたろ」
「見てはいけないとは、言われていません」
ザインは短く息を吐いた。
笑ったのだと気づき、エレナも口元を緩めた。
*
地下へ続く扉を閉じ、二人は塔を出た。
エレナの鞄には、星図と文字の写しが入っている。怪物の殻も、光が消えた小さな一片だけ、別の容器へ収めていた。
空は明るくなっていたが、丘を下りる時には、西の雲が赤く染まり始めていた。
森を抜け、街道へ戻る。
エレナが肩の力を抜いた。
「町で、あの入口のことを知らせておきます。噂を聞いて見に行く人がいると、危ないですから」
「場所の説明もな。幽霊が出ると言うだけじゃ、見に行く奴はいる」
「ええ。私のように」
自分で言い、彼女は苦笑した。
しばらく歩いてから、ザインが尋ねた。
「あいつと、黒い星図は関係あるのか」
「今は、何とも言えません。近くにいたから、そう考えたくはなりますが」
「森の魔物もか」
「それも。今日だけで全部分かったなら、楽なのですが」
エレナは鞄へ目を落とした。
「まず、持ち帰ったものを比べます。現地で見ることばかりに気を取られると、書いたものを読む時間がなくなりますから」
「自分でも分かってるんだな」
「人から言われることもあります」
「だろうな」
「あなたも、休む前に次の仕事を探し始める方に見えますが」
ザインは返さなかった。
エレナも、それ以上は言わなかった。
彼女は故郷を聞かなかった。曲刀の使い方を、どこで覚えたのかも尋ねない。
話すのは今日見たものと、これから確かめたいことだった。
ザインは鞄を肩へ掛け直した。二人の間に会話が途切れても、歩く速さは変わらなかった。
*
北門へ戻った時には、灯りが点き始めていた。
エレナは門番に観測所のことを話し、地図に場所を書き添えた。塔の地下には入らないよう、近くを通る者へ知らせてほしいと頼んでいる。
その間、ザインは門の脇で待っていた。
戻ってきた彼女が、革袋を差し出す。
「残りの報酬です。それから、予定にない入口を調べてもらった分を、五十」
ザインは袋を受け取った。
「増やせとは、まだ言ってないぞ」
「相談すると約束しましたから。あの時、金額までは決められなかったでしょう」
彼は中身を確かめた。
百七十五オーラム。
「妥当だな」
「そう言っていただけて、何よりです」
エレナは鞄を持ち直した。
「今日は、ありがとうございました。まずは写しを整理します」
「ああ」
これで仕事は終わりだった。
エレナは持ち帰った資料を調べ、ザインは次の依頼を探す。
明日、同じ門で待ち合わせる約束はない。
エレナが坂道の方へ向きかけたところで、ザインは声を掛けた。
「今日の星図、調べれば何か分かるのか」
彼女が振り返る。
「他の写しと比べてみます。同じ場所が欠けているものが、まだあるかもしれません」
「分かったら?」
「まず、記録が意図的に消されたのかを確かめます。それから、地下にあったものとの関係も」
ザインは少し頷いた。
「まだ続きそうだな」
「ご興味が?」
「次の仕事になるかと思っただけだ」
エレナがわずかに笑う。
「では、何か分かればお知らせします。ただ、その時もお願いするとは限りませんよ」
「条件次第だな」
「お互いに、ですね」
灯りの下で、琥珀色の瞳が細くなる。
酒場で彼女へ目を向けていた船乗りたちのことを、ザインは少し思い出した。
見ているだけでは、分からない女だった。
「どこへ行けば会える」
「港の坂を上がったところの宿です。青い屋根の」
「あそこか。俺は二軒隣だ」
「近いですね」
二人は同じ坂を上り始めた。
港から、綱を引く船員の掛け声が聞こえる。雨で止まっていた荷車も動き出し、坂の途中で一台が二人を追い越していった。
ザインが道の端へ寄る。
エレナも、その隣へ並んだ。
「その頬、宿へ戻ったら洗ってくださいね」
「分かってる」
「泥のついた手で拭いていましたから」
「見てたのか」
「ええ。見張りをお願いした方を、こちらも見ておかないと」
ザインは彼女を見る。
エレナは前を向いたまま、僅かに笑っていた。
坂の上には、夕食の支度をする店の灯りが並んでいる。
「飯は、もう決めたのか」
「まだです」
「なら、あっちはやめとけ。煮込みの肉が少ない」
「昨日と今日、両方確かめたんですね」
彼は答えず、別の店へ顎を向けた。
エレナはそちらの看板を見る。
「そちらは?」
「まだましだ」
「では、試してみましょうか」
結局、二人は同じ店へ入った。
*
店の奥に、小さな卓が空いていた。
二人は向かいに座り、焼いた肉とパンを注文する。
ザインが値段を確かめている間に、エレナは鞄から紙を取り出した。
星図の写しと、壁に刻まれていた文字の控え。
店の灯りへかざし、読みにくかった一文字を確かめる。
その指が止まった。
「……ああ。こっちですね」
「何だ」
ザインが水の杯を置いた。
「地下へ続く扉の脇にあった文字です」
エレナは紙をこちらへ向ける。
「『保存庫』と読めそうです。最後の一文字を、別の字だと思っていました」
「あいつが出てきたところか」
「ええ」
エレナはもう一枚の紙を並べた。
「星図とは書かれていません。でも、あそこが観測記録を保管する場所だったのなら、まだ何か残っている可能性があります」
地下の階段は、上の階より傷みが少なかった。
屋根からの雨も入りにくい。棚が倒れ、ほとんど何も残っていなかった一階とは違う。
ザインは紙から彼女へ目を移した。
「戻るつもりだな」
「はい」
返事は早かった。
「ただし、今日の怪物が一体だけだったとは限りません」
エレナは紙を置いた。
「ですから、もう一度、護衛をお願いできますか」
ザインはすぐには答えなかった。
空いている方の手で頬に触れた。傷の痛みは、もうなかった。
「灯りは二つ。油も余分に持て。縄と、足場を確かめる長い棒もいる」
エレナが頷く。
「明日は道具を揃えて、写しも整理します。明後日の朝に出て、日暮れ前には戻る。それでどうでしょう」
「奥が深ければ、途中でも引き返すぞ」
「分かりました」
「帰り道を塞がれそうなら、その前に戻る」
「ええ。見つけたものを持ち帰るためですから」
彼女は紙を卓の上へ置いた。
「今日も、下りるのを止めていただいて助かりました。気になるものがあると、もう少しだけ、と考えてしまうので」
「分かってるなら、自分でも止まれ」
「努力します。でも、止める必要がある時に、遠慮される方ではなさそうですから」
ザインは彼女を見た。
丁寧に頼んでいるはずなのに、褒められた気はしなかった。
「報酬は?」
「今回と同じ二百二十五オーラム。道具は私が用意します」
「分かった。前金は五十でいい」
エレナが少し首を傾げた。
「……五十で?」
「今日で仕事ぶりは分かった。約束は守るだろ」
「ええ。あなたも、守ってくださいましたから」
「なら決まりだ」
「前金は、明後日出る前でいい」
「では、その時に」
エレナは新しい紙へ道具を書き出した。ザインが帰りの刻限を添え、彼女もそれを確かめる。
皿が運ばれてきた。
エレナは紙を畳んだが、文字の控えだけは脇へ残した。
ザインがその端を指す。
「飯が冷めるぞ」
「あと一文字だけ」
彼は黙って見た。
エレナはペンへ伸ばしかけた手を止める。それから小さく笑い、最後の一枚も鞄へ戻した。
ザインはそれを見てから、自分の皿へ目を戻した。
「明後日も、よろしくお願いします」
「朝、同じ門で待ってる」
彼女が頷いた。
ザインは肉を切り、口へ運んだ。ここは、値段に見合う分があった。
「どうです?」
「確かに悪くない」
エレナも一口食べた。今度は、紙へ目を戻さなかった。
卓の端には、二人で確かめた道具の覚え書きが置いてある。
明日は、それを揃える。
明後日は、また二人で観測所へ行く。
ザインは帰りの刻限を書いた箇所を確かめ、紙を彼女の方へ寄せた。
《星穿ち》
本小説オリジナル細剣技
消費:WP4
威力:小〜中
対象:敵単体
特殊効果:防御力無視・ディレイなし・必中ではない
解説:
敵の構えや装甲の隙を瞬時に見極め、急所を狙って鋭い一突きを放つ。
命中すれば相手の防御力を無視してダメージを与えるが、回避や受け流しは可能。