Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
約束の朝、エレナは北門の前で縄を巻き直していた。
足元には油の小瓶が二つと、布をかぶせた灯り。肩に掛けた鞄は、先日より膨らんでいる。
ザインはその脇に置かれた長い棒を拾った。
「これも持って歩くのか」
「足場を確かめる棒です。必要だと言ってたでしょう」
「長すぎるな」
「短いと、先まで届きませんよ」
「枝に引っ掛かるぞ」
エレナも棒を見上げた。
「……では、少し切りましょうか」
門番から鋸を借りて長さを詰めると、ようやく荷物がまとまった。
エレナは前金の五十オーラムをザインへ渡し、そのまま門番のところへ向かう。
「古い観測所へ行ってきます。日暮れ前には戻る予定です」
門番が顔をしかめた。
「あそこか。今日は何も出ないといいな」
ザインが灯りを一つ持ち上げる。
「出ても、持って帰らない」
門番は眉を上げた。
「そりゃ頼む」
エレナは残った灯りを自分の荷物へ収めた。
空は晴れていた。
道の窪みに残った水を避けながら、二人は丘へ向かった。
*
観測所の扉は、閉めた時のままだった。
ザインが先に中へ入り、床と窓際を確かめる。倒れた棚にも、奥の机にも、動いた跡はない。
ただ、怪物が砕けた場所には、細かな破片が残っていた。
エレナがそこへ視線を落とす。
「昨日、持ち帰っていた欠片を調べました。表面は石に似ていますが、内側は違うようです」
「何でできてる」
「まだ分かりません。削っただけでは、判断できませんでした」
「なら、こっちを先に済ませるぞ」
「ええ」
隠し扉の向こうへ棒を差し込み、床を押す。ザインが灯りを掲げると、石の階段が下へ延びていた。
彼は三段目まで下り、足元から奥へ光を動かした。
「止まれ」
エレナの靴音が止む。
下の踊り場を、細い溝が横切っていた。溝の端には、欠けた金具が突き出している。
ザインは階段から棒を伸ばし、その先へ触れた。
乾いた音がした。
壁の穴から短い鉄の刃が出て、途中で引っ掛かる。錆びた刃先が、踊り場の上で小さく震えていた。
「まだ動くんですね」
「感心してる場合か」
「感心はしていません。困っています」
彼は刃を見たまま、棒で床の縁を探る。溝を避け、壁際を押してから下りた。
「ここを通れ。真ん中は踏むな」
エレナは足を置く場所を確かめ、一段ずつ下りてきた。
通路の先に、半開きの石扉があった。先日の怪物は、ここを通って上がってきたらしい。扉の下に溜まった砂が、幅広く押しのけられている。
ザインが横から棒を入れて扉を押した。
重い音が響く。
向こうで何かが動く気配はなかった。
灯りを差し入れると、壁沿いに石の棚が並んでいた。木の箱は潰れ、中身の大半は床へ落ちている。奥には、蓋のついた細長い筒が数本残っていた。
「待ってろ」
ザインは一人で中へ入り、棚の裏と天井を確かめた。もう一つ扉があったが、その先は崩れた石で塞がれている。
戻って手を振ると、エレナが灯りを持って入ってきた。
彼女は筒へ飛びつかず、まず入口から部屋全体を見た。それから床へ膝をつき、箱の破片に刻まれた文字を読む。
「ここでよさそうです」
「保存庫か」
「観測した日の記録を、分けて置いていたようですね」
エレナは手袋をはめた。
すぐには筒へ触れず、まず棚の位置と並びを手帳へ写す。一本目、上段、東側。蓋に傷。横に小さな欠け。
「そこまで書くのか」
「戻ってから、どこに何があったか分からなくなる方が困りますから」
記録を終えてから、棚から一本の筒を下ろした。
蓋は固く閉じている。無理に回さず、布で砂を落としてから少しずつ動かす。
中には、薄い板が重ねて収められていた。
エレナは板を灯りへ向けた。
「……状態は悪くありません」
「読めるか」
「数字は。文字も、一部なら」
「全部は?」
「ここで始めると、帰れなくなります」
そう言いながら、まだ見ている。
「……幾つか、すぐ読めそうな箇所はありますけれど」
「読むのは町へ戻ってからにしてくれ」
エレナがようやく顔を上げた。
「持ち出せる状態なら、そのつもりです。このまま置いておくより、保管できる場所へ移した方がいいでしょう」
「なら、包んでくれ。ここで日が暮れる方が面倒だ」
「はい」
ザインが鞄を彼女の前へ置く。
エレナは板のあった位置を手帳へ記し、それから一枚ずつ布で包み始め、それぞれに短い印を付けて収めた。
別の筒は、蓋の継ぎ目まで割れていた。中の板も欠け、刻まれた図の端が失われている。
エレナはそれを、無傷の板の横へ置いた。
似た配置の星が並んでいる。だが、上の部屋の星図で削られていた辺りまで来ると、残った線は板の割れ目で途切れていた。
「こちらも同じか」
ザインが尋ねる前に、彼女は首を振った。
「まだ、比べ切れていません。年代が違えば、描き方も変わりますから」
筆を取り、板の端と文字を写す。破損した筒も、そのまま描き留めた。
「欠けているから、消されたとは限りません。箱も棚も、これだけ傷んでいますし」
「こっちも持ち出すのか」
「ええ。破損の状態も含めて比較したいので。場所は記録しました」
彼女は二つを別々の布で包んだ。
ザインは入口へ戻り、通路を照らした。踊り場の刃は、引っ掛かったまま動いていない。
その下の埃に、怪物のものらしい擦れた跡が続いていた。何度も上を通ったように見える。
あれが残っていた間、この部屋へ入れた者はいたのだろうか。
「ザイン」
呼ばれて振り返る。
エレナは荷物をまとめ、立っていた。
「戻りましょう」
「もういいのか」
「奥は塞がれています。残った筒の場所も写しました。今日できるのは、ここまでです」
彼は頷いた。
入口までの道を二人で確認し、来た時と同じ壁際を通った。階段の上へ出ると、窓から日が差していた。
まだ昼前だった。
*
丘を下り、街道へ出る分かれ道で、エレナは残りの百五十オーラムを渡した。
「これで、今回の分です」
ザインは数えてから、革袋へ収めた。
「次も、ここか」
「しばらくは、持ち帰った記録を読みます。分からない文字を、知人に尋ねる必要もありそうです」
「知人?」
「ランスに、星を調べている知人がいます。妹さんとも、資料をやり取りしているんです」
エレナは鞄の肩紐を掛け直した。
「まずは手紙ですね。何を訊くのか、整理してから」
「なら、明日は空くな」
「毎日、怪物に会いたいんですか?」
「毎日、仕事が欲しいだけだ」
「今日の分を、今お渡ししたばかりですが」
彼は答えず、街道の方へ顔を向けた。
エレナも足を止める。
坂の下から、獣の唸り声が聞こえた。続いて、何かを叩く鈍い音。
ザインは荷物を木の根元へ置いた。
「ここにいろ」
「様子だけでも見ます。近づくなら、声を掛けてください」
二人は低木の間を抜け、街道を見下ろす斜面へ出た。
道を外れた草地で、二人の旅人が戦っていた。
赤い髪を高く結んだ女が、斧の柄で獣の牙を受けている。後ろの少女は黄色い服を着て、弓を構えていた。
女が獣を押し返す。横から回り込んだ別の一頭へ、少女の矢が飛んだ。
前脚に当たる。
足がもつれたところへ、斧が振り下ろされた。
ザインは曲刀の柄へ手を掛けた。
「知り合いですか」
「ああ、シノンでな」
草地には五頭の獣がいた。二頭は倒れている。残りの三頭が、二人を囲むように動いていた。
赤髪の女―エレンが斧を引き抜き、こちらに気づく。
「ザイン!」
「右へ寄れ!」
彼は斜面を駆け下りた。
エレンは少女を背に庇いながら右へ動く。追って踏み込んだ獣の脇へ、ザインが入った。
曲刀が腹の下を斬る。
獣が身を捻ると、すぐ横から斧が落ちた。
彼は刃の届く場所から一歩退いた。
「近いぞ」
「退くと思ったから!」
もう一頭が少女へ向かう。
「サラ、左!」
エレンの声に、サラが身を引いた。獣が地を蹴る直前、その首の横へ細い剣先が伸びる。
斜面を下りてきたエレナだった。
深くは踏み込まず、獣がこちらへ顔を向けたところで下がる。追おうとした前脚に、サラの矢が刺さった。
動きが鈍った。
ザインが背後から斬り、獣を倒す。
最後の一頭は街道へ走ろうとしたが、赤髪の女が進路へ回った。斧を横から叩き込み、草地へ押し戻す。
獣が転がり、動かなくなった。
エレンは息を吐いた。
「助かった。さすがに、二人だと――」
「まだいる」
ザインが遮った。
草地の向こう、林の縁にもう一頭、黒い獣が立っていた。
先ほどの獣より一回り大きい。狼に似た身体は筋肉で太く、黒い毛並みの下から古い傷跡が覗いている。
獣は低く唸り、四人を見回した。
やがて、黄色い目がサラのところで止まる。
「お姉ちゃん……」
「下がって」
エレンが斧を構えた。
黒い獣が走り出す。
ザインが間へ入り、曲刀を振った。
刃が肩を裂く。だが、獣は止まらなかった。身を低くして彼の脇を抜け、サラへ向かう。
「こいつ!」
ザインが追う。
サラは後退しながら矢をつがえた。獣が跳ぶ直前、前脚へ放つ。
矢が刺さり、獣の身体が傾いた。
そこへエレナが踏み込む。
細剣の切っ先が首筋をかすめた。獣は牙を剥いて彼女へ向き直ったが、すぐに横へ跳んだ。
再び、サラの方へ。
「何で、そっちばっかり!」
エレンが走った。
獣は振り返り、斧をかわそうと身を沈める。そのままエレンの横を抜け、サラとの距離を詰めた。
「サラ、下がれ!」
ザインが叫ぶ。
サラはもう一本、矢を放った。
獣の肩に刺さる。
それでも、前へ出てくる。
エレンが斧を振り上げかけた。
だが、今から上へ振りかぶっていては間に合わない。
サラまで、あと数歩。
このままでは、妹に牙が届く。
エレンは踏み込む足を変えた。
木の幹を断つ時のように、腰を深く回す。腕だけではなく、身体の重みを斧へ乗せる。
その瞬間、振り方が一つに繋がった。
《大木断》
斧が、真横から獣の肩口を捉えた。
重い音とともに刃が深く食い込み、その身体を横へ弾き飛ばす。
獣は草地を転がり、地面へ爪を立てた。
立ち上がろうとしたところへ、ザインが踏み込む。
曲刀が首の付け根を斬った。
黒い身体が崩れ落ちる。
四人はしばらく構えを解かなかった。
獣の脚が一度だけ動き、それきり止まった。
草の上には、黒い血が広がっていた。
ザインは剣先で身体を確かめ、ようやく刃を下ろした。
「……今の技、前から使えたのか」
エレンは、自分の斧を見た。
「ううん。今、初めて」
「そうか。大したもんだ」
「……ありがと」
エレンは少し驚いたようにザインを見たが、すぐに妹へ向き直った。
「サラ、大丈夫?」
「うん。怪我はしてないよ」
「よかった……」
エレンは大きく息を吐いた。
*
サラは黒い獣のそばに落ちていた矢を拾った。
矢尻には血がついていた。いつもの矢だった。
「あれ、私を狙ってたよね」
姉が頷いた。
「うん。何度も、あんたの方へ行こうとしてた」
「どうして、私に……」
エレンも答えられなかった。
最初は偶然だと思った。だが、ザインが斬っても、獣はサラへ向かおうとしていた。
妹が握る矢の先に、まだ血がついている。
エレンはその手を見たが、何も言わなかった。
ザインは倒れた獣を見た。
大柄ではあるが、ほかの獣と大きく変わるところはない。鋭い牙に厚い毛皮。傷口からは血が流れている。
「後ろで弓を構えてたからじゃないのか」
「でも……」
サラは矢を握り直した。
「ザインさんが斬っても、こっちへ来た」
エレナが獣のそばへしゃがみ込んだ。
身体についた傷を確かめ、周囲の足跡へ目を向ける。
「弓を持つ相手を先に狙ったのかもしれません。ただ、それだけで説明できるかは分かりませんね」
「そうなの?」
「ええ。少なくとも、あなたへ向かっていたのは確かです」
サラは黒い獣を見下ろした。
もう動かない。
それでも、最後まで自分へ向かってきた黄色い目が、頭から離れなかった。
エレナが立ち上がった。
「怪我はありませんか」
「私は、大丈夫。お姉ちゃんは?」
「平気。袖を少しやられただけ」
エレンが腕を上げた。袖の裂け目から、浅い擦り傷が見える。
「少し、見せてください」
エレナが歩み寄る。
「このくらい、放っておいても平気だけど」
「すぐに済みますから」
エレナは水筒の水で傷についた泥を流し、指先をかざした。
淡い光が一度だけ揺れる。
赤く擦りむけていた皮膚が、ゆっくりと塞がっていった。
「へえ、術も使えるんだ」
「多少は。もう大丈夫ですよ」
エレンは腕を曲げ伸ばししてから、エレナへ笑いかけた。
「ありがとう。あなたは――」
「俺の雇い主だ」
ザインが口を挟んだ。
「そうじゃなくて、名前を聞いてるの」
エレンは彼へ向き直った。
「そっちも、あたしの名前は覚えてるでしょうね」
「シノンの斧女だろ」
「名前!」
「エレ――」
ザインは途中で口をつぐんだ。
金髪の女を見る。
エレナはきょとんとした顔で、彼を見返した。
「……私ですか?」
「……お前ら、名前が似すぎだろ」
「あたしのせいじゃないでしょ!」
赤髪の女は腰へ手を当てた。
「エレン。シノンで名乗ったでしょ」
「ああ、そうだったな」
「絶対、今思い出したでしょ」
「エレナ・ヴァルティエです。初めまして」
金髪の女が続ける。
ザインは二人を見比べた。
「エレンと、エレナ」
「そう」
「はい」
「一文字しか違わねえ」
「最後まで聞けば分かるでしょう」
エレンが即座に返した。
エレナも頷く。
「最後まで呼んでいただければ、こちらも返事ができます」
「赤い方がエレン。金の方がエレナ」
「髪の色で覚えるな!」
「区別はつくだろ」
「名前で呼びなさいよ」
エレナが口元へ手を添えた。
「間違えたら、一オーラムいただくことにしましょうか」
ザインの眉が寄る。
「何でだ」
「覚える気になっていただけそうなので」
「あ、それいい。あたしも一オーラム」
エレンが乗った。
「二人して、勝手に決めるな」
「間違えなければ払わなくていいでしょ」
「仕事で稼いだ分を、名前で取る気か」
「では、正確にお願いしますね」
エレナの声は、少しも強くならなかった。
ザインは黙った。
サラが弓を背に掛け、小さく笑う。
「私はサラ。私の名前は似てないよ」
「覚えてる。さっき呼んだだろ」
「うん」
彼女は安心したように頷いた。
エレンは斧の刃を拭き、背の留め具へ戻す。
「よし。じゃあ、水場へ案内して。エレナ、荷物は?」
「坂の上です。少し重くなりました」
「取りに行くわ。サラはここで待ってて」
「私も持つよ」
サラは姉の横へ並んだ。
ザインは、二人が上っていく斜面を見た。
「お前は、もう覚えたのか」
「エレナでしょ?」
エレンが振り返る。
「今、名乗ったじゃない」
*
街道沿いの水場には、荷車を止める広場と小さな屋根があった。
エレンは袖についた泥を洗い流した。サラが裂けた布を整える間、ザインは四人分の水を汲む。
休んでいた荷運びの男へ魔物のことを伝えると、男はこれから通る道を訊いた。
ザインが場所を教える。男は同行の二人と相談し、別の道を選んだ。
エレナは屋根の下へ荷物を置いた。
「お二人も、ピドナへ?」
「幼馴染のトーマスを訪ねるの。先に行って、家にいるはずだから」
エレンが答える。
「同じ村の仲間。ザインも知ってるわよね」
「槍と眼鏡のやつだろ」
「名前も覚えてあげてよ」
サラは鞄から紙を取り出した。折り目を開き、風で飛ばないよう両手で持つ。
「住所、書いてもらったの。ピドナに着けば、探せると思う」
エレナが紙を覗く。
「この通りなら、港から上がる途中ですね。近くまでなら、案内できます」
「本当? 助かる」
エレンは水を飲み、息をついた。
「朝から歩きっぱなしだったから」
ザインが革袋の口を閉じる。
「ミュルスから、船が出てるだろ」
「乗ったわよ」
「船で来て、何で歩いてる」
エレンの手が止まった。
サラが紙を畳みながら、そっと言った。
「一つ手前で降りちゃったの」
ザインはエレンを見た。
「……大きな港だったから」
「名前は見なかったのか」
「見たわよ。降りた後に」
エレナは杯を口へ運びかけ、戻した。
「直行便では、なかったんですね」
「寄港する船だったの。直行便は、出たばっかりで」
「船の人は何も言わなかったのか」
「ここで降りますって言ったら、荷物を渡してくれたわ」
「そりゃ渡すだろうな」
エレンは彼を睨んだ。
サラが続ける。
「私も、お姉ちゃんが降りたから、着いたんだと思って。住所を見た時には、船が出ちゃってて」
「次の船まで待ってもよかったけど、歩ける距離だって聞いたの。だったら、明るいうちに着こうと思って」
エレンは濡れた布を絞った。
「まさか、魔物に囲まれるとは思わなかったけどね」
ザインは少し考えた。
「この先は、人も増える。さっきの場所よりはましだ」
「今度は、街の名前を確かめてから入りますね」
エレナが言った。
「……そこまで間違えないわよ」
エレンはサラへ目を向けた。
「次は、あんたも言って。私が降りるって言っても、ちゃんと見てから」
「うん。次は先に、船の人に訊く」
「それがいい」
ザインは屋根の柱へ背を預けた。
エレンが包帯の端を確かめ、エレナを見る。
「そっちは、何をしてたの?」
「古い観測所を調べていました。地下に記録が残っていて」
「星を見てた場所?」
「ええ。残った星図や文字を、読んでいます」
エレナは鞄を軽く叩いた。
エレンはふと、エレナの顔を見た。
「……ねえ、シノンに行ったことある?」
「ええ。少し前に滞在しましたが」
「もしかして、宿のおじさんに地図を預けなかった? 川沿いを通って、北の丘へ抜ける道が描いてあるやつ」
「……はい。私が描きました」
エレンがサラを振り返った。
「やっぱり!」
「お姉ちゃん、あの時の!」
二人の声が重なり、エレナは少し驚いた顔をした。
「私たち、その地図を使ったのよ。ロアーヌで反乱が起きた夜、モニカ様を連れて森を抜けたの」
「……ええ。ザインから伺いました。あの時のお仲間だったんですね」
「そう! 雨も降ってたし、あの地図がなかったら大変だったと思う。本当にありがとう」
サラも頷いた。
「浅瀬の場所も、ちゃんと描いてあったから。モニカ様を無事に送り届けられたの。ありがとう、エレナさん」
エレナは二人を見て、柔らかく微笑んだ。
「お役に立てたなら、よかったです」
ザインが杯を置いた。
「俺はもう礼を言ったぞ」
「えっ、いつ?」
「一昨日だ。あの地図のおかげで街道に出ずに済んだってな」
「それ、お礼じゃなくて報告じゃない?」
エレンが呆れたように言う。
「伝わりましたよ」
エレナが答えた。
「ほらな」
「……二人とも、そういうところは気が合うのね」
サラが小さく笑った。
エレンの視線がザインへ移る。
「ずっと一緒に回ってるの?」
「一昨日と、今日。間の一日は、準備と資料の整理です」
「そうなんだ」
「何だ」
ザインが訊くと、エレンは首を振った。
「別に。ちゃんと護衛するんだなと思って」
「シノンから、お前らも護衛しただろ」
「そうだけど」
彼女は少し笑った。
「お金の話ばっかりしてたから」
「仕事の話だ」
「ちゃんと、止めてくださいますよ」
エレナが言う。
ザインはそちらを見た。
「それも仕事だ」
「ええ。今日も、読むより先に持ち帰れと」
「地下で一日潰す気だったろ」
「一日までは、かからないと思います」
「日暮れまでか」
エレナは返事をせず、杯を取った。
エレンが笑い出す。
「なるほど。二人とも、ちゃんと仕事してるわけね」
サラも笑ったが、すぐに自分の弓へ目を落とした。
エレナはそれに気づき、隣へ腰を下ろす。
「矢を、見せていただけますか」
サラが頷き、さっき拾った二本を渡した。
エレナは木の軸と矢尻を確かめた。刺さった時に付いたものは、見当たらない。
「自分で手入れしているんですね」
「うん。村にいた時から」
「よく狙えましたね。あれだけ近くで」
「怖かったけど……脚なら、止まるかなって」
サラはザインを見た。
「シノンから出た時、飛んでくる魔物に、そう教えてもらったから」
「落とすより、飛び方を崩せってやつか」
「うん。走ってくるのも、同じかなって思ったの」
ザインは頷いた。
「止まった。助かったぞ」
サラの肩が、少し下がった。
エレナは二本の矢を返す。
「気になったことは、記録しておきます。ただ、今はこれ以上、確かなことを言えません」
「分かったら、教えてくれる?」
「もちろん」
サラは矢をしまった。
エレンはその横顔を見てから、立ち上がった。
「じゃあ、行こうか。街に着いてから考えましょ」
*
出発前に、エレンが荷物を持ち上げた。
旅の着替えと食べ物が詰まった袋だった。斧と一緒に担ぎ、肩へ掛け直す。
ザインは自分の鞄を拾った。
「エレナ、その袋は――」
「私ですか?」
金髪の女が振り返る。
彼は止まった。
赤髪の女も、こちらを見ていた。
「今、あたしに言ったよね」
「……エレン」
「訂正は受け付ける。でも、一オーラムね」
「まだ出発もしてねえぞ」
「場所は関係ないでしょ」
エレナは灯りの取っ手を持ち、穏やかに言った。
「私の分も、間違えたらお願いします」
「徴収係が増えたな」
「最初から二人よ」
エレンが手を出す。
ザインは革袋を開き、銀貨を一枚載せた。
「これで終わりだ」
「そうね。もう間違えなければ」
彼は袋の口を、さっきより強く締めた。
サラが顔を伏せる。笑いを堪えようとして、肩が揺れていた。
四人は街道へ出た。
エレンがサラの歩幅へ合わせる。ザインは曲がり角ごとに道の先を見て、エレナは鞄の中の板がぶつからないよう肩紐を押さえていた。
街道に荷車が増え始めると、エレンが彼の隣へ来た。
「ねえ。さっきの黒いの、また来ると思う?」
「分からん」
「うん。それは分かってる」
彼女は後ろへ目を向けた。サラがエレナと話している。
声を少し落とした。
「もし来たら、最初からサラの前に立つ。さっき、普通の魔物ばっかり見てたから」
「背中側も見とけ。道に近い方から来るとは限らん」
「そうね」
エレンは歩きながら、林の縁を見た。
「……さっきは、ありがとう」
「お前らだけでも、普通のやつは倒せてた」
「黒いのは、分からなかったじゃない」
「俺も、最初は外した」
「でも、来てくれたでしょ」
ザインは前へ顔を戻した。
「声が聞こえたからな」
「そんなにうるさかった?」
「斧もな」
「そっちか」
エレンは笑い、サラを待つために少し速度を落とした。
後ろから、エレナが呼び掛ける。
「エレン、次の分かれ道を右です」
「右ね。今度は確認してから曲がるわ」
ザインが振り返った。
「お前らは、間違えないのか」
「名前ですか?」
エレナが訊く。
「あたし、そんなに似てるとは思わないけど」
エレンも首を傾げた。
「お互いに呼んでみると、そうでもありませんね」
「だってさ。ザイン、練習したら?」
「歩きながら何の練習だ」
「無料のうちに」
彼は前を向いた。
サラが今度は、声を出して笑った。
*
夕方、ピドナの門へ着いた。
ザインは門番へ観測所から戻ったことを伝え、途中で魔物に出会った場所も教えた。門番は書き留め、街道へ出ようとしていた商人を呼び止める。
エレナも、普通の獣とは違う一体がいたことを付け加えた。
説明を終えると、四人は街へ入った。
サラが住所の紙を広げる。
「この先?」
「坂を上がって、二つ目の通りです」
エレナが答える。
エレンは門の内側に掲げられた街の名を、念入りに見ていた。
「ピドナ。よし」
「それで違ってたら、もう船のせいにはできんな」
「まだ言う?」
ザインは口を閉じた。
坂を上がる途中、パン屋の窓から焼けた匂いが流れてきた。
エレンが足を止める。
「少し買っていこうか。お腹すいたでしょ」
「トーマスのところ、すぐじゃない?」
「留守だったら困るもの」
彼女はサラへ答え、窓の向こうの籠を指した。
「四つください」
受け取ったパンを一つずつ配る。
ザインは差し出されたものを見た。
「俺の分もか」
「さっき、助けてもらったから」
彼が受け取ると、エレンは少し笑った。
「あと、これなら一オーラムで二つ買えるし」
ザインが彼女を見る。
エレナもパンを受け取り、礼を言った。その肩が、僅かに揺れている。
「有効に使っていただけたようですね」
「俺の金だろ」
「もうあたしのよ」
サラはパンを割り、まだ温かい中身を見た。
「お姉ちゃん、先に行こう。トーマス、待ってるかもしれないから」
「そうね」
エレンは袋を抱え直した。
二つ目の通りへ入り、サラが紙の文字と家の表札を見比べる。エレナは少し後ろで待ち、ザインも足を止めた。
サラが一軒の前で振り返った。
「ここだ」
姉が頷く。
サラは紙を畳んで鞄へ収め、自分で扉を叩いた。
中から足音が近づく。
扉が開き、眼鏡を掛けた青年が顔を出した。
「サラ? エレンも――着いたのか」
「うん。ちょっと、遠回りしたけど」
サラが答える。
トーマスは二人の肩越しに、後ろの旅人を見た。
「ザインさんまで。一緒だったんですね?」
「途中で拾った」
「拾われてないわよ」
エレンがすぐに返した。
サラの顔が明るくなった。
「あっ、トーマス! 紹介したい人がいるの」
サラは金髪の女を振り返った。
「こちら、エレナさん。シノンの宿に地図を残してくれた人なんだよ。それに、ここまで道も教えてくれたの」
「あの地図を?」
トーマスが少し驚いた顔をした。
「ええ。ちょうどあの辺りを調べていたので」
エレナが微笑む。
「それは助かりました。トーマス・ベントです」
「エレナ・ヴァルティエです。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「もちろん。二人がお世話になりました」
トーマスは笑い、扉を大きく開ける。
「さあ、みんな入って。夕食の用意もできてるよ」
エレンとエレナが順に家へ入る。
ザインはその後ろで、二人の名前を口の中で確かめた。
赤い髪の方が振り返る。
「何か言った?」
「何も」
「それなら無料ね」
中から、金髪の方の笑い声が聞こえた。
ザインは曲刀の鞘を押さえて敷居を越えた。二人を呼ぶ時は、最後の一文字まで気をつけなければならない。
今夜の食事を高くつかせる気はなかった。