Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound —   作:水城 雅

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第5話 旧市街の灯

 トーマスが椅子を二脚運んでくる間に、サラは食卓の皿を並べ直した。

「そこは空けておいてくれ。鍋を置くから」

「ここでいい?」

「ああ。ありがとう」

 エレンは切ったパンを籠へ移し、エレナは戸口へ置いた鞄を椅子の下へ収めた。石板の入った包みだけは、足が当たらないよう壁際へ寄せる。

 ザインは卓に並んだ皿を見た。

「急に増えて、足りるのか」

「足りなければ、卵を焼くよ」

 トーマスは鍋敷きを置いた。

「まず座ってくれ。話は食べながら聞こう」

 煮込みには豆と肉が入っていた。ザインが一口食べ、黙って二口目を運ぶ。その向かいで、サラがようやく肩から力を抜いた。

 エレンが船を降り間違えた話をすると、トーマスは匙を止めた。

「住所は渡しただろ?」

「港の名前も書いておいてほしかったわね」

「ピドナって、最初に書いてある」

 サラが小声で言った。

 エレンはパンをちぎった。

「……次は間違えないから」

 トーマスは笑いかけたが、魔物の話に移ると表情を改めた。

 サラを狙った黒い獣。斬られても、ほかの三人へ向き直ろうとしなかったこと。

 エレナは見た順に話し、確かめられなかったことは付け加えなかった。

「街道で、そんなものが」

「普通のやつも、五頭いた」

 ザインが言った。

「荷運びの連中と、門番には伝えてある」

「明日、こちらでも訊いてみる。あの道を使う商人は多いから」

 トーマスはサラへ顔を向けた。

「怪我はないんだな」

「うん。お姉ちゃんたちが、止めてくれたから」

「あんたの矢も当たったでしょ」

 エレンが言い、妹の空いた皿へ煮込みを足した。

 サラは何か言いかけてから、匙を取り直した。

*

 食事が終わる頃には、通りの店も戸を閉め始めていた。

 エレンとサラは、トーマスの家に泊まることになった。親戚の家なので部屋の都合はあるが、二人なら迎えられるという。

「明日は、旧市街へ行く予定なんだ」

 トーマスが空いた皿を重ねた。

「祖父と縁のある方が住んでいてね。こちらへ来た挨拶には伺ったけれど、届けたい物もある」

「どんな人?」

「ミューズ様という方だ。子供たちの世話もしている。よければ、一緒に来ないか」

 サラが姉を見る。エレンは頷いた。

「あたしは行く。サラは?」

「私も」

 エレナは鞄を引き寄せていたが、トーマスへ視線を戻した。

「旧市街には、古い建物が多いと聞きました」

「ええ。修繕されずに残っているものも多いですが」

「差し支えなければ、私もご一緒していいですか。朝は資料を整理したいので、その後なら」

「もちろん。昼前に、ここから出ましょう」

 トーマスはザインを見た。

「あなたもどうです?」

「明日の仕事は、まだ決めてねえ」

「では、仕事が見つからなければ、ぜひ一緒に」

 押しつける言い方ではなかった。

 ザインは立ち上がり、椅子を卓へ戻した。

「気が向いたらな」

 帰り道、エレナが隣を歩いた。

 港から吹く風は冷たく、彼女は鞄を持ち替えて襟元を押さえる。

「今日は、ごちそうになりましたね」

「ああ」

「明日も行きますか」

「仕事次第だって言ったろ」

「そうでしたね」

 分かれ角で、エレナは足を止めた。

「では、また明日」

 ザインは返事をしてから、明日会う約束はしていなかったな、と思った。

 呼び止めるほどのことでもない。彼女はもう、自分の宿の戸を開けていた。

*

 翌日、ザインがトーマスの家へ来た時には、玄関に二つの籠が置かれていた。

 乾いた豆と小麦粉、布、石鹸。トーマスが中身を確認し、紙へ短く書きつけている。

「仕事は?」

「船荷の見張りがあった。三日間、夜通しだ」

「受けなかったんですね」

「二人分の仕事を、一人分の金でやらせる気だったからな」

 エレンが籠を持ち上げた。

「それは断っていいわ」

「お前に許される話でもねえ」

 少し遅れて、エレナが現れた。今日は大きな鞄を置いてきたらしく、肩には薄い革の袋だけが掛かっている。

 五人は港へ向かう通りを途中で折れ、旧市街へ入った。

 大通りの荷車の音が遠くなる。道の石はところどころ剥がれ、窓を板で塞いだ家もあった。それでも軒先には洗濯物が揺れ、鍋を抱えた女が隣家へ声を掛けている。

 石鹸の入った籠を持つサラが、道の窪みを避けた。

「近いのに、ずいぶん違うんだね」

「港の仕事で暮らしている人も多い。毎日、荷があるとは限らないけれど」

 トーマスは狭い道で足を止め、手押し車を先に通した。

 車輪の片方が軋んでいた。押している男と短く挨拶を交わし、再び歩き出す。

 エレンが尋ねた。

「ミューズ様も、ずっとここに?」

「事情があって、こちらへ移られたんだ。詳しい話は、ご本人が話したい時に」

 彼女は頷き、それ以上は訊かなかった。

 通りの先で、子供の声がした。

古い家の前に、小さな腰掛けが置かれている。そこに座る少年の膝へ、若い女性が布を当てていた。

 淡い銀紫色の髪をゆるく編み、薔薇の花で飾っている。陽の薄い旧市街でも、その髪はやわらかな光を含んだように見えた。

 ほっそりとした顔立ちは驚くほど整っており、顔にわずかな疲れをにじませていても、少年の話を聞いて微笑むだけでその場の空気がやわらぐ。育ちのよさと穏やかな気品が、隠そうとしても隠しきれない。

 袖口の繕われた服も、その人が着ていると不思議と粗末には見えなかった。古びた家並みの前にいてなお、彼女だけは別の明るい場所からそのまま歩いてきたように見えた。

「石には勝てなかったのですね」

「転んだだけだよ」

「ええ。次は、足元も見て走りましょう」

 少年が頷くまで、彼女は急かさずに待った。

 トーマスが声を掛ける。

「ミューズ様」

 女性が顔を上げた。

「あら、トーマス。今日は皆さんもご一緒なのですね」

 立とうとした彼女へ、戸口にいた男が半歩近づいた。

 白い髪と日に焼けた顔。片腕を身体へ寄せ、右手には水の入った鉢を持っている。女性が自分で立てるのを見て、その場に止まった。

 ザインは男の腰の剣と、動かない左腕へ目を向けた。

 男もこちらの曲刀を見ていた。

「昨日、シノンの友人たちが着きまして」

 トーマスが一人ずつ紹介する。

 ミューズは名前を確かめながら挨拶し、最後に皆の持つ籠へ目を落とした。

「こんなに。いつも、ありがとうございます」

「今日は人数がいるので、まとめて運べました」

「では、中へどうぞ。シャール、お茶をお願いできますか」

「はい」

 白髪の男が鉢を台へ置いた。

「シャールです。荷物はこちらへ」

 右手だけで籠を受け取ろうとするのを見て、ザインはそのまま家へ入った。

「どこだ」

「奥の棚の下へ」

 籠を置くと、近くにいた少女が布と石鹸を取り分け始めた。サラも隣へしゃがみ、棚の場所を教わっている。

 小さな部屋だった。椅子の数も揃っていないが、床は掃かれ、窓辺には水差しと花が置かれていた。

 ミューズが子供へ名前を呼ばれる。その一人に返事をしている間に、別の一人が袖を引く。

 彼女は困ったように笑い、腰掛けへ座り直した。

*

 お茶が行き渡る前に、外から少女が駆け込んできた。

「ミューズさま!」

 声が裏返っていた。

 ミューズは手にしていた布を置く。

「どうしたのミッチ、落ち着いて」

「ゴンが、帰ってこないの」

 シャールが戸口へ出た。ミッチの後ろに、もう一人、少年が立っている。

「どこで別れた」

 少年は地面を見た。

「……魔王殿」

 部屋が静かになった。

「入ったのか」

 シャールが訊く。少年は頷いた。

「入口で遊んでただけなんだ。ゴンが、奥まで行けるって。呼んだけど、戻ってこなくて」

「いつだ」

「鐘が鳴るより、前」

 トーマスが窓の外へ目を向けた。昼の鐘は、少し前に鳴っていた。

 ミューズが立ち上がる。

「案内してくれる?」

「ミューズ様、私が参ります」

 シャールはすでに壁の剣を取っていた。

「でも、あの子が――」

 言葉の途中で咳が出た。ミューズは口元を押さえ、椅子の背へ手を置く。

 シャールは駆け寄りかけたが、彼女が顔を上げるのを待った。

「戻ってきた時、ここにいてください」

 彼の声が少し低くなった。

「必ず、連れて戻ります」

 ミューズは戸口の子供たちを見た。少女は泣くのを堪え、少年はまだ顔を上げられずにいる。

 自分が迎えに行けないことが、何よりもどかしかった。

「……分かりました。お願いします」

 トーマスがザインへ向き直った。

「力を貸してもらえませんか。魔王殿の中で子供を捜します。正式に、あなたを雇いたい」

「魔物は」

「出ます。入口近くまで来ることもある」

「子供は一人か」

「中に残っているのは、ゴンだけのはずです」

 ザインは戸口へ行き、少年の前で膝を折った。

「どこまで一緒だった」

「階段を下りたところ。柱が、いっぱいある部屋」

「ゴンは何を着てた」

「茶色の上着。袖が、こう……ほつれてて」

 少年が自分の袖をつまむ。ザインは頷いて立った。

 トーマスが槍を取る。

「報酬は、戻ってからでも――」

「いらん」

 短い返事だった。

「ですが、危険な場所です。こちらから頼む以上は」

「子供を拾ってくるだけだ。金の話はいい」

 ザインは剣帯を締め直した。

「灯りはあるか」

 トーマスは一度口を閉じ、それから頷いた。

「用意します。縄と、手当ての道具も」

 エレンは背の斧を外して握った。

「あたしも行く」

 サラが弓を持ち、姉の横へ立つ。

 エレナは革袋から手帳を取り出し、空いた場所へ包帯を収めていた。

「エレナ、今日は調査じゃねえぞ」

「分かっています。だから、手帳は置いていきます」

 彼女はミューズへそれを預けた。

 シャールが五人を見渡す。礼を言うために口を開きかけたところで、ザインが先に戸へ手を掛けた。

「道を頼む」

「こちらです」

 ミューズは戸口まで見送りに来た。

「どうか、皆さんもお気をつけて」

 ザインは片手を上げ、そのまま歩いた。

*

 魔王殿は、旧市街の外れに大きな石の影を落としていた。

 崩れた壁の間に草が伸び、入口の階段には泥の付いた小さな靴跡が残っている。シャールは足を止めずに進んだ。

「近くの部屋は、捜したことがあるのか」

 ザインが訊く。

「何度か。子供が入り込むことがありました」

「なら、そっちが道を見ろ。俺は前を見てる」

 シャールが頷いた。

 二人が先に下り、エレンとサラが続いた。エレナが灯りを持ち、最後をトーマスが守る。

 階段の下には、少年の言った通り、太い柱の並ぶ部屋があった。

 シャールが名を呼ぶ。

「ゴン!」

 声が天井へ反響した。

 返事はない。

 ザインはしゃがみ込み、床の泥を見た。いくつも重なった足跡が、奥の通路へ向かって減っていく。

 エレナが灯りを低くした。

「ここから先は、一人分ですね」

「戻った跡がねえ」

 ザインは立ち上がった。

 奥へ進むと、外の明るさが消えた。壁に残る浮彫も、灯りが通るたびに顔を現しては暗闇へ戻る。

 エレナが一度だけ目を向ける。歩みは緩めなかった。

 右の通路から、何かが擦れる音がした。

 シャールが剣を抜く。

 床を這うように、二体の骨の獣が出てきた。長い顎が開き、歯がかちりと鳴る。

「後ろにも来ます」

 トーマスの声がした。

 天井近くを、大きな蝙蝠が旋回していた。

 ザインは骨の獣の爪を避け、横から首を斬った。骨が飛び散る。もう一体は、それを踏み越えてシャールへ跳んだ。

 シャールは右足を引き、剣を短く突き入れた。顎を逸らされた獣が床へ落ちる。

 左腕は動かない。その代わりに身体ごと向きを変え、右手の刃で、起き上がる前の首を断った。

 背後で弦が鳴った。

 サラの矢に翼を貫かれ、蝙蝠が低く落ちる。トーマスは穂先で追わず、槍の柄を回して床へ押さえつけた。

「エレン」

「任せて」

 斧が落ちた。

 音が止むと、ザインは通路の先へ耳を向けた。

 遠くで、小さな声がした。

「……たすけて」

 シャールが顔を上げる。

「ゴン!」

 今度は返事があった。

「シャール! こっち!」

 彼が駆け出す。ザインも続き、曲がり角の手前で肩を押さえた。

「待て。見てからだ」

 シャールの息が荒い。

 それでも、足は止まった。

 ザインが角から覗くと、広い部屋の奥に、壊れた石の棚が見えた。その隙間から、少年の顔が覗いている。

 棚の前に三体の魔物がいた。

 灰色の皮膚と、長い腕。指の先で石を掻き、棚の下へ手を差し込もうとしていた。

 ゴンが身体を縮める。

 シャールの右手が、剣の柄を握り直した。

「声を掛けて、こっちを向かせる」

 ザインは低く言った。

「その間に、子供を頼む」

「分かりました」

 エレンが彼の横へ来た。サラは入口から弓を構え、エレナは灯りを壁際の窪みへ置く。

 トーマスが戻る道を確かめた。

 ザインは剣の峰で、入口の石を叩いた。

「こっちだ」

 三つの顔が振り向いた。

*

 最初の一体が、床へ手をつくようにして走ってきた。

 ザインは入口の正面を空け、右へ動く。追ってきた腕を曲刀で払うと、横からエレンの斧が叩き込まれた。

 魔物が倒れる。

 残る二体のうち、一体がこちらへ向かった。もう一体は棚の前を離れない。

「シャール、右から!」

 トーマスが槍を構えて進む。魔物の長い爪が穂先を払い、石床へ火花が散った。

 彼は槍を引き戻し、突くと見せて足元を払った。

 体勢が崩れる。

 その脇をシャールが抜けた。

「ゴン、動かずにいろ!」

 棚の前の魔物が振り向く。長い腕がシャールの左側へ回った。

 彼は避けたが、爪が袖を裂いた。

 剣を振り抜くには、棚が近すぎる。後ろにはゴンがいる。

 シャールは右手を上げた。

 小さな炎が魔物の顔の前で弾けた。そいつが仰け反った隙に、刃を喉へ突き入れる。

 灰色の身体が床へ落ちた。

 シャールは剣を抜き、すぐに棚へ膝をついた。

「出られるか」

「足が……」

 少年の靴が、倒れた板と石の間に挟まっていた。

 シャールが右手で板を引く。動かない。

 左肩がわずかに持ち上がり、それきり止まった。

 ザインは最後の魔物へ目を戻した。トーマスが槍で押さえているが、長い腕が柄を掴もうとしていた。

 エレナがその横へ踏み込む。

 細剣が伸ばされた手を刺した。魔物が彼女へ顔を向けた瞬間、サラの矢が太腿へ刺さる。

「エレン、押し込め」

 名前は迷わずに出た。

 エレンが斧の柄を胸へぶつけ、壁際へ押す。ザインはその肩越しに曲刀を突き入れた。

 魔物の力が抜けた。

「こっちは済んだ!」

 エレンが声を掛け、棚へ走る。

 ザインは倒れた魔物を確かめてから、後を追った。

 板の下へ斧の柄を入れかけたエレンを、シャールが止める。

「上の石が落ちます」

 エレナが屈み、灯りを隙間へ向けた。

「靴だけですね。足首は挟まっていません」

 ゴンが泣きながら頷く。

 ザインは剣を鞘へ戻し、少年の足元へ手を伸ばした。

「靴は置いてくぞ」

「でも……」

「足まで置いていく気か」

 ゴンは首を振った。

 シャールが少年の身体を支える。ザインが靴紐を解き、踵を押さえると、小さな足が抜けた。

 ゴンはシャールへしがみついた。

「ごめんなさい」

「後で聞く。今は、ここを出よう」

 シャールは右腕で少年を抱き寄せた。その背を支えようとした左手は、服の横から上がらなかった。

 ザインが屈んだ。

「背中へ乗れ」

 ゴンが顔を上げる。

「この人は前で剣を使う。俺が運ぶから、手を離すな」

 少年はシャールを見た。頷いてもらうと、恐る恐るザインの肩へ腕を回した。

 エレンが下から支え、彼が立ち上がる。

「苦しくない?」

 サラが尋ねた。

 ゴンは首を振り、ザインの上着を強く掴んだ。

 エレナが灯りを拾う。

 その時、部屋の奥から低い音が聞こえた。

 風が、石の隙間を通ったような音だった。

 サラが振り返る。

「今、何か……」

 奥の壁には、大きな扉があった。二枚の石が隙間なく閉じ、その中央だけが灯りを鈍く返している。

 ――指輪を……。

 エレナの手が止まった。

 誰も口を動かしていなかった。

 ゴンの腕が、ザインの首へ食い込む。

「開けないで」

 小さな声だった。

「開けねえよ」

 ザインは扉から背を向けた。

「帰るぞ」

 エレナは一瞬だけ中央の形を見て、それから灯りを出口へ向けた。

*

 階段を上がると、外の明るさが目にしみた。

 シャールが先に出て、道を確かめる。ザインはゴンを背負ったまま、旧市街へ戻った。

 少年は途中から話さなくなっていたが、上着を掴む手には力がある。

 トーマスが横へ並ぶ。

「代わりましょうか」

「もう着くんだろ」

「ええ」

「ならいい」

 角を曲がると、ミューズの家が見えた。

 戸口に立っていた彼女が、こちらへ歩いてくる。

「ゴン」

 少年の顔が上がった。

「ミューズさま……」

 ザインが屈むと、ゴンは背から下りて彼女へ抱きついた。

 ミューズは両手で受け止め、その頭へ頬を寄せた。すぐには何も言わなかった。

 ゴンが泣き出す。

 彼女は背を撫でながら、片方だけの靴と、汚れた足先を見た。

「痛いところは?」

「ない」

「よかった」

 それから、顔を見られるように少し身体を離した。

「怖かったでしょう」

 ゴンは頷いた。

「私たちも、怖かったのですよ。あなたが帰ってこなかったらと思うと」

 少年は鼻をすすり、俯いた。

「……ごめんなさい」

「お話は、落ち着いてからにしましょう。まず、足を洗わないと」

 家から子供たちが出てきた。知らせに来た少年も、その中にいる。

 ゴンを見るなり何か言いかけたが、口を結び、一緒に家へ入っていった。

 ミューズは六人へ向き直った。

「ありがとうございました。皆さんのおかげです」

 深く頭を下げようとするのを、シャールが止めた。

「中へ。風が出てきました」

「あなたも、袖が破れていますね」

「傷は浅いものです」

「それでも、見せてください」

 シャールは短く頷いた。

 ザインは二人が家へ入るのを見て、自分の肩を払った。黒い上着に、ゴンの握っていた跡が残っている。

 土は、払っても全部は落ちなかった。

*

 サラが湯を運び、エレンは庭先で使った布を洗った。

 エレナはシャールの傷を確かめ、指先をかざした。淡い光が消え、血が止まってから、裂けた袖を留めるための布を求める。破れた服までは戻らない。

 ミューズは裁縫箱を出しながら、彼女の指先を見た。

「旅先でも、そうして手当てを?」

「自分の分が多いですけれど」

「ご無理をなさるのですね」

 ザインが戸口で鼻を鳴らした。

 エレナはそちらを見ず、包帯を切った。

「止めてくださる方もいますので」

 手当てが済むと、トーマスが彼を外へ呼んだ。

 路地には、夕餉の支度をする匂いが漂い始めている。

「改めて、助かりました」

「もう聞いた」

「報酬を受け取らないという話ですが」

 ザインは腕を組んだ。

「まだ言うのか」

「次に仕事を頼む時まで、同じつもりではいません。そのことだけ、伝えておきたくて」

 彼はトーマスを見た。

 若い商人は真面目な顔をしていた。値切りたいわけでも、気前のよさを試したいわけでもないらしい。

「次は、内容を聞いてから決める」

「ええ。その時は、きちんと相談します」

 家の中で、子供が笑った。

 ゴンの声だった。

 ザインは戸口へ一度目を向けた。

「今日は、あれでいい」

 トーマスも声のした方を見る。

 それ以上、金の話はしなかった。

*

 ミューズは皆に食事を勧めたが、五人増えては鍋が足りなかった。

 エレンが中を覗き、袖をまくった。

「何か足せる物、ある?」

「じゃが芋でしたら」

「じゃあ、あたしが剥く。サラ、お水お願い」

「うん」

 トーマスは近くの店へパンと卵を買いに行った。戻ってきた袋を受け取り、ザインがパンを切る。

 エレナは卓を壁から離し、椅子を寄せた。小さな子供には、座面の高いものを選ぶ。

 ミューズが礼を言うたび、別の場所から用事を訊かれた。ついには笑って、皆に任せることにしたらしい。

 台所の隅へ座り、ゴンの靴下を繕い始めた。

 夕食には時間がかかった。

 ゴンはザインの隣に座りたがり、椅子を自分で引いてきた。何度も顔を見上げるので、ザインは匙を止めた。

「何だ」

「重かった?」

「ああ」

「……ごめん」

「次は、自分の足で帰れるところにしとけ」

 ゴンは頷いた。

 向かいでエレンが笑いかけたが、何も言わずにスープを飲んだ。

 食器を片づける頃には、子供たちの声も小さくなっていた。

 ミューズが咳をし、シャールが湯を持ってくる。

「今日は、もうお休みください」

「ええ。少し、疲れましたね」

 窓辺の小箱から、ミューズが薬包を一つ取った。サラが水差しを手にする。

「お水、いる?」

「ありがとう。こちらの杯へ、少しだけ」

 エレナは預けていた手帳を受け取り、机の端の薬包へ目を留めた。

「お薬ですか」

「眠りが浅いので、先生から。ここ数日、飲んでいるのです」

 ミューズは包みを小箱の上へ置いた。

「皆さんが帰られたら、私も休みます」

「お大事になさってください。今日は、こちらまでごちそうになりました」

 エレナが言うと、ミューズは首を振った。

「皆さんで作ってくださった食事でしょう。子供たちも、楽しかったようです」

 シャールが戸を開けた。

 外は暗くなっていた。家々の窓に、小さな灯りがともっている。

 ザインは最後に剣帯の位置を直し、戸口を出た。

「おじさん」

 呼ばれて振り返ると、ゴンが立っていた。

「ありがとう」

「もう寝ろ」

 少年は笑い、家の中へ戻っていった。

*

 トーマスと姉妹は、坂の途中で別れた。

 エレンが肩越しに手を振る。

「明日も来るなら、朝ご飯までにね」

「飯を食いに来てるみたいに言うな」

「今日は違った?」

 ザインが黙ると、サラまで笑った。

 三人を見送ってから、エレナが歩き出した。

 宿へ戻る道は、昨夜と同じだった。昼間の荷車が消えた石畳を、二人の靴音だけが進んでいく。

「指輪、って言いましたね」

「あの扉か」

「ええ。どこから聞こえたのかは、分かりませんでしたが」

「調べるのか」

「まず、記録を探します。何も分からないまま、あそこへ戻るつもりはありません」

 ザインは頷いた。

 今日は子供を連れ戻した。それで十分だった。

 角を曲がる前に、エレナが少し速度を落とした。

「明日は、資料を読む日にします」

「今日も、そのはずだったんじゃねえのか」

「旧市街を見て帰るつもりでした」

「ずいぶん奥まで見たな」

 エレナが小さく息を漏らした。

 笑ったのだと分かって、ザインも口元を緩めた。

 別れ際、彼女が袖の後ろを指した。

「そこ、まだ土がついていますよ」

 ザインは肩を捻った。少年の手の形に、薄く泥が残っていた。

「明日でいい」

「そうですね。今日は、お疲れさまでした」

 エレナは手帳を抱え直し、宿へ入っていった。

 ザインはもう一度だけ肩を見た。

 小さな手は、帰り道の間、ずっとそこを掴んでいた。

 彼は上着を脱がずに、自分の宿の戸を開けた。

*

 翌朝、シャールは台所で湯を沸かしていた。

 鍋には昨夜のスープが少し残っている。温め直し、パンを添えれば、ミューズも口にできるだろう。

 いつもなら、この頃には部屋から声がかかる。

 今朝はまだ、戸が閉じたままだった。

 昨日は子供の心配をし、客を迎え、遅くまで起きていた。もう少し休んでもらおうと、シャールは先に食器を並べた。

 やがて湯が沸いた。

 杯に注ぎ、右手で持って寝室へ向かう。

「ミューズ様。朝のお湯をお持ちしました」

 返事はなかった。

 戸を軽く叩き、少し待ってから開ける。

 薄いカーテンを通した朝日が、寝台の足元まで差し込んでいた。ミューズは横を向き、静かに眠っている。

 シャールは枕元に杯を置いた。

 その脇に、昨夜の薬包が開かれたまま残っていた。

「ミューズ様」

 呼びかけながら、寝台のそばへ膝をつく。

 顔色は悪くない。掛け布も、呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。

 肩にそっと触れる。

「朝です。お加減はいかがですか」

 瞼は動かなかった。

 シャールは眉を寄せた。肩をもう一度、今度は少し強く揺する。

「ミューズ様」

 額に触れても、熱はない。

 それでも、目を覚まさない。

 廊下で足音がした。

 寝癖のついたゴンが、戸口から顔を覗かせる。

「シャール様。ミューズ様、まだ寝てるの?」

 シャールはすぐには答えなかった。

 寝台から目を離せずにいると、ミューズの唇がかすかに動いた。

「……お父様」

 息に紛れるほど、小さな声だった。

 その口元に、淡い微笑みが浮かぶ。

「ミューズ様。私です。シャールです」

 身を寄せて呼んだ。

 けれど、次の言葉はなかった。ミューズは微笑んだまま、穏やかな寝息を立てている。

 シャールは戸口を振り返った。

「ゴン。先生を呼んできてくれ」

「……具合、悪いの?」

「目を覚まされない。急いでくれ」

 少年の顔から眠気が消えた。

 頷くと、裸足のまま駆け出しかけ、慌てて玄関へ向かう。ほどなく、外へ飛び出していく音がした。

 シャールはミューズの手を取った。

 昨夜、ゴンの頭を撫でていた手は、今も温かい。

「ミューズ様」

 今度こそ握り返してくれるのを待った。

 窓の外では、子供たちが朝の挨拶を交わしていた。

 

 

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