Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
トーマスが椅子を二脚運んでくる間に、サラは食卓の皿を並べ直した。
「そこは空けておいてくれ。鍋を置くから」
「ここでいい?」
「ああ。ありがとう」
エレンは切ったパンを籠へ移し、エレナは戸口へ置いた鞄を椅子の下へ収めた。石板の入った包みだけは、足が当たらないよう壁際へ寄せる。
ザインは卓に並んだ皿を見た。
「急に増えて、足りるのか」
「足りなければ、卵を焼くよ」
トーマスは鍋敷きを置いた。
「まず座ってくれ。話は食べながら聞こう」
煮込みには豆と肉が入っていた。ザインが一口食べ、黙って二口目を運ぶ。その向かいで、サラがようやく肩から力を抜いた。
エレンが船を降り間違えた話をすると、トーマスは匙を止めた。
「住所は渡しただろ?」
「港の名前も書いておいてほしかったわね」
「ピドナって、最初に書いてある」
サラが小声で言った。
エレンはパンをちぎった。
「……次は間違えないから」
トーマスは笑いかけたが、魔物の話に移ると表情を改めた。
サラを狙った黒い獣。斬られても、ほかの三人へ向き直ろうとしなかったこと。
エレナは見た順に話し、確かめられなかったことは付け加えなかった。
「街道で、そんなものが」
「普通のやつも、五頭いた」
ザインが言った。
「荷運びの連中と、門番には伝えてある」
「明日、こちらでも訊いてみる。あの道を使う商人は多いから」
トーマスはサラへ顔を向けた。
「怪我はないんだな」
「うん。お姉ちゃんたちが、止めてくれたから」
「あんたの矢も当たったでしょ」
エレンが言い、妹の空いた皿へ煮込みを足した。
サラは何か言いかけてから、匙を取り直した。
*
食事が終わる頃には、通りの店も戸を閉め始めていた。
エレンとサラは、トーマスの家に泊まることになった。親戚の家なので部屋の都合はあるが、二人なら迎えられるという。
「明日は、旧市街へ行く予定なんだ」
トーマスが空いた皿を重ねた。
「祖父と縁のある方が住んでいてね。こちらへ来た挨拶には伺ったけれど、届けたい物もある」
「どんな人?」
「ミューズ様という方だ。子供たちの世話もしている。よければ、一緒に来ないか」
サラが姉を見る。エレンは頷いた。
「あたしは行く。サラは?」
「私も」
エレナは鞄を引き寄せていたが、トーマスへ視線を戻した。
「旧市街には、古い建物が多いと聞きました」
「ええ。修繕されずに残っているものも多いですが」
「差し支えなければ、私もご一緒していいですか。朝は資料を整理したいので、その後なら」
「もちろん。昼前に、ここから出ましょう」
トーマスはザインを見た。
「あなたもどうです?」
「明日の仕事は、まだ決めてねえ」
「では、仕事が見つからなければ、ぜひ一緒に」
押しつける言い方ではなかった。
ザインは立ち上がり、椅子を卓へ戻した。
「気が向いたらな」
帰り道、エレナが隣を歩いた。
港から吹く風は冷たく、彼女は鞄を持ち替えて襟元を押さえる。
「今日は、ごちそうになりましたね」
「ああ」
「明日も行きますか」
「仕事次第だって言ったろ」
「そうでしたね」
分かれ角で、エレナは足を止めた。
「では、また明日」
ザインは返事をしてから、明日会う約束はしていなかったな、と思った。
呼び止めるほどのことでもない。彼女はもう、自分の宿の戸を開けていた。
*
翌日、ザインがトーマスの家へ来た時には、玄関に二つの籠が置かれていた。
乾いた豆と小麦粉、布、石鹸。トーマスが中身を確認し、紙へ短く書きつけている。
「仕事は?」
「船荷の見張りがあった。三日間、夜通しだ」
「受けなかったんですね」
「二人分の仕事を、一人分の金でやらせる気だったからな」
エレンが籠を持ち上げた。
「それは断っていいわ」
「お前に許される話でもねえ」
少し遅れて、エレナが現れた。今日は大きな鞄を置いてきたらしく、肩には薄い革の袋だけが掛かっている。
五人は港へ向かう通りを途中で折れ、旧市街へ入った。
大通りの荷車の音が遠くなる。道の石はところどころ剥がれ、窓を板で塞いだ家もあった。それでも軒先には洗濯物が揺れ、鍋を抱えた女が隣家へ声を掛けている。
石鹸の入った籠を持つサラが、道の窪みを避けた。
「近いのに、ずいぶん違うんだね」
「港の仕事で暮らしている人も多い。毎日、荷があるとは限らないけれど」
トーマスは狭い道で足を止め、手押し車を先に通した。
車輪の片方が軋んでいた。押している男と短く挨拶を交わし、再び歩き出す。
エレンが尋ねた。
「ミューズ様も、ずっとここに?」
「事情があって、こちらへ移られたんだ。詳しい話は、ご本人が話したい時に」
彼女は頷き、それ以上は訊かなかった。
通りの先で、子供の声がした。
古い家の前に、小さな腰掛けが置かれている。そこに座る少年の膝へ、若い女性が布を当てていた。
淡い銀紫色の髪をゆるく編み、薔薇の花で飾っている。陽の薄い旧市街でも、その髪はやわらかな光を含んだように見えた。
ほっそりとした顔立ちは驚くほど整っており、顔にわずかな疲れをにじませていても、少年の話を聞いて微笑むだけでその場の空気がやわらぐ。育ちのよさと穏やかな気品が、隠そうとしても隠しきれない。
袖口の繕われた服も、その人が着ていると不思議と粗末には見えなかった。古びた家並みの前にいてなお、彼女だけは別の明るい場所からそのまま歩いてきたように見えた。
「石には勝てなかったのですね」
「転んだだけだよ」
「ええ。次は、足元も見て走りましょう」
少年が頷くまで、彼女は急かさずに待った。
トーマスが声を掛ける。
「ミューズ様」
女性が顔を上げた。
「あら、トーマス。今日は皆さんもご一緒なのですね」
立とうとした彼女へ、戸口にいた男が半歩近づいた。
白い髪と日に焼けた顔。片腕を身体へ寄せ、右手には水の入った鉢を持っている。女性が自分で立てるのを見て、その場に止まった。
ザインは男の腰の剣と、動かない左腕へ目を向けた。
男もこちらの曲刀を見ていた。
「昨日、シノンの友人たちが着きまして」
トーマスが一人ずつ紹介する。
ミューズは名前を確かめながら挨拶し、最後に皆の持つ籠へ目を落とした。
「こんなに。いつも、ありがとうございます」
「今日は人数がいるので、まとめて運べました」
「では、中へどうぞ。シャール、お茶をお願いできますか」
「はい」
白髪の男が鉢を台へ置いた。
「シャールです。荷物はこちらへ」
右手だけで籠を受け取ろうとするのを見て、ザインはそのまま家へ入った。
「どこだ」
「奥の棚の下へ」
籠を置くと、近くにいた少女が布と石鹸を取り分け始めた。サラも隣へしゃがみ、棚の場所を教わっている。
小さな部屋だった。椅子の数も揃っていないが、床は掃かれ、窓辺には水差しと花が置かれていた。
ミューズが子供へ名前を呼ばれる。その一人に返事をしている間に、別の一人が袖を引く。
彼女は困ったように笑い、腰掛けへ座り直した。
*
お茶が行き渡る前に、外から少女が駆け込んできた。
「ミューズさま!」
声が裏返っていた。
ミューズは手にしていた布を置く。
「どうしたのミッチ、落ち着いて」
「ゴンが、帰ってこないの」
シャールが戸口へ出た。ミッチの後ろに、もう一人、少年が立っている。
「どこで別れた」
少年は地面を見た。
「……魔王殿」
部屋が静かになった。
「入ったのか」
シャールが訊く。少年は頷いた。
「入口で遊んでただけなんだ。ゴンが、奥まで行けるって。呼んだけど、戻ってこなくて」
「いつだ」
「鐘が鳴るより、前」
トーマスが窓の外へ目を向けた。昼の鐘は、少し前に鳴っていた。
ミューズが立ち上がる。
「案内してくれる?」
「ミューズ様、私が参ります」
シャールはすでに壁の剣を取っていた。
「でも、あの子が――」
言葉の途中で咳が出た。ミューズは口元を押さえ、椅子の背へ手を置く。
シャールは駆け寄りかけたが、彼女が顔を上げるのを待った。
「戻ってきた時、ここにいてください」
彼の声が少し低くなった。
「必ず、連れて戻ります」
ミューズは戸口の子供たちを見た。少女は泣くのを堪え、少年はまだ顔を上げられずにいる。
自分が迎えに行けないことが、何よりもどかしかった。
「……分かりました。お願いします」
トーマスがザインへ向き直った。
「力を貸してもらえませんか。魔王殿の中で子供を捜します。正式に、あなたを雇いたい」
「魔物は」
「出ます。入口近くまで来ることもある」
「子供は一人か」
「中に残っているのは、ゴンだけのはずです」
ザインは戸口へ行き、少年の前で膝を折った。
「どこまで一緒だった」
「階段を下りたところ。柱が、いっぱいある部屋」
「ゴンは何を着てた」
「茶色の上着。袖が、こう……ほつれてて」
少年が自分の袖をつまむ。ザインは頷いて立った。
トーマスが槍を取る。
「報酬は、戻ってからでも――」
「いらん」
短い返事だった。
「ですが、危険な場所です。こちらから頼む以上は」
「子供を拾ってくるだけだ。金の話はいい」
ザインは剣帯を締め直した。
「灯りはあるか」
トーマスは一度口を閉じ、それから頷いた。
「用意します。縄と、手当ての道具も」
エレンは背の斧を外して握った。
「あたしも行く」
サラが弓を持ち、姉の横へ立つ。
エレナは革袋から手帳を取り出し、空いた場所へ包帯を収めていた。
「エレナ、今日は調査じゃねえぞ」
「分かっています。だから、手帳は置いていきます」
彼女はミューズへそれを預けた。
シャールが五人を見渡す。礼を言うために口を開きかけたところで、ザインが先に戸へ手を掛けた。
「道を頼む」
「こちらです」
ミューズは戸口まで見送りに来た。
「どうか、皆さんもお気をつけて」
ザインは片手を上げ、そのまま歩いた。
*
魔王殿は、旧市街の外れに大きな石の影を落としていた。
崩れた壁の間に草が伸び、入口の階段には泥の付いた小さな靴跡が残っている。シャールは足を止めずに進んだ。
「近くの部屋は、捜したことがあるのか」
ザインが訊く。
「何度か。子供が入り込むことがありました」
「なら、そっちが道を見ろ。俺は前を見てる」
シャールが頷いた。
二人が先に下り、エレンとサラが続いた。エレナが灯りを持ち、最後をトーマスが守る。
階段の下には、少年の言った通り、太い柱の並ぶ部屋があった。
シャールが名を呼ぶ。
「ゴン!」
声が天井へ反響した。
返事はない。
ザインはしゃがみ込み、床の泥を見た。いくつも重なった足跡が、奥の通路へ向かって減っていく。
エレナが灯りを低くした。
「ここから先は、一人分ですね」
「戻った跡がねえ」
ザインは立ち上がった。
奥へ進むと、外の明るさが消えた。壁に残る浮彫も、灯りが通るたびに顔を現しては暗闇へ戻る。
エレナが一度だけ目を向ける。歩みは緩めなかった。
右の通路から、何かが擦れる音がした。
シャールが剣を抜く。
床を這うように、二体の骨の獣が出てきた。長い顎が開き、歯がかちりと鳴る。
「後ろにも来ます」
トーマスの声がした。
天井近くを、大きな蝙蝠が旋回していた。
ザインは骨の獣の爪を避け、横から首を斬った。骨が飛び散る。もう一体は、それを踏み越えてシャールへ跳んだ。
シャールは右足を引き、剣を短く突き入れた。顎を逸らされた獣が床へ落ちる。
左腕は動かない。その代わりに身体ごと向きを変え、右手の刃で、起き上がる前の首を断った。
背後で弦が鳴った。
サラの矢に翼を貫かれ、蝙蝠が低く落ちる。トーマスは穂先で追わず、槍の柄を回して床へ押さえつけた。
「エレン」
「任せて」
斧が落ちた。
音が止むと、ザインは通路の先へ耳を向けた。
遠くで、小さな声がした。
「……たすけて」
シャールが顔を上げる。
「ゴン!」
今度は返事があった。
「シャール! こっち!」
彼が駆け出す。ザインも続き、曲がり角の手前で肩を押さえた。
「待て。見てからだ」
シャールの息が荒い。
それでも、足は止まった。
ザインが角から覗くと、広い部屋の奥に、壊れた石の棚が見えた。その隙間から、少年の顔が覗いている。
棚の前に三体の魔物がいた。
灰色の皮膚と、長い腕。指の先で石を掻き、棚の下へ手を差し込もうとしていた。
ゴンが身体を縮める。
シャールの右手が、剣の柄を握り直した。
「声を掛けて、こっちを向かせる」
ザインは低く言った。
「その間に、子供を頼む」
「分かりました」
エレンが彼の横へ来た。サラは入口から弓を構え、エレナは灯りを壁際の窪みへ置く。
トーマスが戻る道を確かめた。
ザインは剣の峰で、入口の石を叩いた。
「こっちだ」
三つの顔が振り向いた。
*
最初の一体が、床へ手をつくようにして走ってきた。
ザインは入口の正面を空け、右へ動く。追ってきた腕を曲刀で払うと、横からエレンの斧が叩き込まれた。
魔物が倒れる。
残る二体のうち、一体がこちらへ向かった。もう一体は棚の前を離れない。
「シャール、右から!」
トーマスが槍を構えて進む。魔物の長い爪が穂先を払い、石床へ火花が散った。
彼は槍を引き戻し、突くと見せて足元を払った。
体勢が崩れる。
その脇をシャールが抜けた。
「ゴン、動かずにいろ!」
棚の前の魔物が振り向く。長い腕がシャールの左側へ回った。
彼は避けたが、爪が袖を裂いた。
剣を振り抜くには、棚が近すぎる。後ろにはゴンがいる。
シャールは右手を上げた。
小さな炎が魔物の顔の前で弾けた。そいつが仰け反った隙に、刃を喉へ突き入れる。
灰色の身体が床へ落ちた。
シャールは剣を抜き、すぐに棚へ膝をついた。
「出られるか」
「足が……」
少年の靴が、倒れた板と石の間に挟まっていた。
シャールが右手で板を引く。動かない。
左肩がわずかに持ち上がり、それきり止まった。
ザインは最後の魔物へ目を戻した。トーマスが槍で押さえているが、長い腕が柄を掴もうとしていた。
エレナがその横へ踏み込む。
細剣が伸ばされた手を刺した。魔物が彼女へ顔を向けた瞬間、サラの矢が太腿へ刺さる。
「エレン、押し込め」
名前は迷わずに出た。
エレンが斧の柄を胸へぶつけ、壁際へ押す。ザインはその肩越しに曲刀を突き入れた。
魔物の力が抜けた。
「こっちは済んだ!」
エレンが声を掛け、棚へ走る。
ザインは倒れた魔物を確かめてから、後を追った。
板の下へ斧の柄を入れかけたエレンを、シャールが止める。
「上の石が落ちます」
エレナが屈み、灯りを隙間へ向けた。
「靴だけですね。足首は挟まっていません」
ゴンが泣きながら頷く。
ザインは剣を鞘へ戻し、少年の足元へ手を伸ばした。
「靴は置いてくぞ」
「でも……」
「足まで置いていく気か」
ゴンは首を振った。
シャールが少年の身体を支える。ザインが靴紐を解き、踵を押さえると、小さな足が抜けた。
ゴンはシャールへしがみついた。
「ごめんなさい」
「後で聞く。今は、ここを出よう」
シャールは右腕で少年を抱き寄せた。その背を支えようとした左手は、服の横から上がらなかった。
ザインが屈んだ。
「背中へ乗れ」
ゴンが顔を上げる。
「この人は前で剣を使う。俺が運ぶから、手を離すな」
少年はシャールを見た。頷いてもらうと、恐る恐るザインの肩へ腕を回した。
エレンが下から支え、彼が立ち上がる。
「苦しくない?」
サラが尋ねた。
ゴンは首を振り、ザインの上着を強く掴んだ。
エレナが灯りを拾う。
その時、部屋の奥から低い音が聞こえた。
風が、石の隙間を通ったような音だった。
サラが振り返る。
「今、何か……」
奥の壁には、大きな扉があった。二枚の石が隙間なく閉じ、その中央だけが灯りを鈍く返している。
――指輪を……。
エレナの手が止まった。
誰も口を動かしていなかった。
ゴンの腕が、ザインの首へ食い込む。
「開けないで」
小さな声だった。
「開けねえよ」
ザインは扉から背を向けた。
「帰るぞ」
エレナは一瞬だけ中央の形を見て、それから灯りを出口へ向けた。
*
階段を上がると、外の明るさが目にしみた。
シャールが先に出て、道を確かめる。ザインはゴンを背負ったまま、旧市街へ戻った。
少年は途中から話さなくなっていたが、上着を掴む手には力がある。
トーマスが横へ並ぶ。
「代わりましょうか」
「もう着くんだろ」
「ええ」
「ならいい」
角を曲がると、ミューズの家が見えた。
戸口に立っていた彼女が、こちらへ歩いてくる。
「ゴン」
少年の顔が上がった。
「ミューズさま……」
ザインが屈むと、ゴンは背から下りて彼女へ抱きついた。
ミューズは両手で受け止め、その頭へ頬を寄せた。すぐには何も言わなかった。
ゴンが泣き出す。
彼女は背を撫でながら、片方だけの靴と、汚れた足先を見た。
「痛いところは?」
「ない」
「よかった」
それから、顔を見られるように少し身体を離した。
「怖かったでしょう」
ゴンは頷いた。
「私たちも、怖かったのですよ。あなたが帰ってこなかったらと思うと」
少年は鼻をすすり、俯いた。
「……ごめんなさい」
「お話は、落ち着いてからにしましょう。まず、足を洗わないと」
家から子供たちが出てきた。知らせに来た少年も、その中にいる。
ゴンを見るなり何か言いかけたが、口を結び、一緒に家へ入っていった。
ミューズは六人へ向き直った。
「ありがとうございました。皆さんのおかげです」
深く頭を下げようとするのを、シャールが止めた。
「中へ。風が出てきました」
「あなたも、袖が破れていますね」
「傷は浅いものです」
「それでも、見せてください」
シャールは短く頷いた。
ザインは二人が家へ入るのを見て、自分の肩を払った。黒い上着に、ゴンの握っていた跡が残っている。
土は、払っても全部は落ちなかった。
*
サラが湯を運び、エレンは庭先で使った布を洗った。
エレナはシャールの傷を確かめ、指先をかざした。淡い光が消え、血が止まってから、裂けた袖を留めるための布を求める。破れた服までは戻らない。
ミューズは裁縫箱を出しながら、彼女の指先を見た。
「旅先でも、そうして手当てを?」
「自分の分が多いですけれど」
「ご無理をなさるのですね」
ザインが戸口で鼻を鳴らした。
エレナはそちらを見ず、包帯を切った。
「止めてくださる方もいますので」
手当てが済むと、トーマスが彼を外へ呼んだ。
路地には、夕餉の支度をする匂いが漂い始めている。
「改めて、助かりました」
「もう聞いた」
「報酬を受け取らないという話ですが」
ザインは腕を組んだ。
「まだ言うのか」
「次に仕事を頼む時まで、同じつもりではいません。そのことだけ、伝えておきたくて」
彼はトーマスを見た。
若い商人は真面目な顔をしていた。値切りたいわけでも、気前のよさを試したいわけでもないらしい。
「次は、内容を聞いてから決める」
「ええ。その時は、きちんと相談します」
家の中で、子供が笑った。
ゴンの声だった。
ザインは戸口へ一度目を向けた。
「今日は、あれでいい」
トーマスも声のした方を見る。
それ以上、金の話はしなかった。
*
ミューズは皆に食事を勧めたが、五人増えては鍋が足りなかった。
エレンが中を覗き、袖をまくった。
「何か足せる物、ある?」
「じゃが芋でしたら」
「じゃあ、あたしが剥く。サラ、お水お願い」
「うん」
トーマスは近くの店へパンと卵を買いに行った。戻ってきた袋を受け取り、ザインがパンを切る。
エレナは卓を壁から離し、椅子を寄せた。小さな子供には、座面の高いものを選ぶ。
ミューズが礼を言うたび、別の場所から用事を訊かれた。ついには笑って、皆に任せることにしたらしい。
台所の隅へ座り、ゴンの靴下を繕い始めた。
夕食には時間がかかった。
ゴンはザインの隣に座りたがり、椅子を自分で引いてきた。何度も顔を見上げるので、ザインは匙を止めた。
「何だ」
「重かった?」
「ああ」
「……ごめん」
「次は、自分の足で帰れるところにしとけ」
ゴンは頷いた。
向かいでエレンが笑いかけたが、何も言わずにスープを飲んだ。
食器を片づける頃には、子供たちの声も小さくなっていた。
ミューズが咳をし、シャールが湯を持ってくる。
「今日は、もうお休みください」
「ええ。少し、疲れましたね」
窓辺の小箱から、ミューズが薬包を一つ取った。サラが水差しを手にする。
「お水、いる?」
「ありがとう。こちらの杯へ、少しだけ」
エレナは預けていた手帳を受け取り、机の端の薬包へ目を留めた。
「お薬ですか」
「眠りが浅いので、先生から。ここ数日、飲んでいるのです」
ミューズは包みを小箱の上へ置いた。
「皆さんが帰られたら、私も休みます」
「お大事になさってください。今日は、こちらまでごちそうになりました」
エレナが言うと、ミューズは首を振った。
「皆さんで作ってくださった食事でしょう。子供たちも、楽しかったようです」
シャールが戸を開けた。
外は暗くなっていた。家々の窓に、小さな灯りがともっている。
ザインは最後に剣帯の位置を直し、戸口を出た。
「おじさん」
呼ばれて振り返ると、ゴンが立っていた。
「ありがとう」
「もう寝ろ」
少年は笑い、家の中へ戻っていった。
*
トーマスと姉妹は、坂の途中で別れた。
エレンが肩越しに手を振る。
「明日も来るなら、朝ご飯までにね」
「飯を食いに来てるみたいに言うな」
「今日は違った?」
ザインが黙ると、サラまで笑った。
三人を見送ってから、エレナが歩き出した。
宿へ戻る道は、昨夜と同じだった。昼間の荷車が消えた石畳を、二人の靴音だけが進んでいく。
「指輪、って言いましたね」
「あの扉か」
「ええ。どこから聞こえたのかは、分かりませんでしたが」
「調べるのか」
「まず、記録を探します。何も分からないまま、あそこへ戻るつもりはありません」
ザインは頷いた。
今日は子供を連れ戻した。それで十分だった。
角を曲がる前に、エレナが少し速度を落とした。
「明日は、資料を読む日にします」
「今日も、そのはずだったんじゃねえのか」
「旧市街を見て帰るつもりでした」
「ずいぶん奥まで見たな」
エレナが小さく息を漏らした。
笑ったのだと分かって、ザインも口元を緩めた。
別れ際、彼女が袖の後ろを指した。
「そこ、まだ土がついていますよ」
ザインは肩を捻った。少年の手の形に、薄く泥が残っていた。
「明日でいい」
「そうですね。今日は、お疲れさまでした」
エレナは手帳を抱え直し、宿へ入っていった。
ザインはもう一度だけ肩を見た。
小さな手は、帰り道の間、ずっとそこを掴んでいた。
彼は上着を脱がずに、自分の宿の戸を開けた。
*
翌朝、シャールは台所で湯を沸かしていた。
鍋には昨夜のスープが少し残っている。温め直し、パンを添えれば、ミューズも口にできるだろう。
いつもなら、この頃には部屋から声がかかる。
今朝はまだ、戸が閉じたままだった。
昨日は子供の心配をし、客を迎え、遅くまで起きていた。もう少し休んでもらおうと、シャールは先に食器を並べた。
やがて湯が沸いた。
杯に注ぎ、右手で持って寝室へ向かう。
「ミューズ様。朝のお湯をお持ちしました」
返事はなかった。
戸を軽く叩き、少し待ってから開ける。
薄いカーテンを通した朝日が、寝台の足元まで差し込んでいた。ミューズは横を向き、静かに眠っている。
シャールは枕元に杯を置いた。
その脇に、昨夜の薬包が開かれたまま残っていた。
「ミューズ様」
呼びかけながら、寝台のそばへ膝をつく。
顔色は悪くない。掛け布も、呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。
肩にそっと触れる。
「朝です。お加減はいかがですか」
瞼は動かなかった。
シャールは眉を寄せた。肩をもう一度、今度は少し強く揺する。
「ミューズ様」
額に触れても、熱はない。
それでも、目を覚まさない。
廊下で足音がした。
寝癖のついたゴンが、戸口から顔を覗かせる。
「シャール様。ミューズ様、まだ寝てるの?」
シャールはすぐには答えなかった。
寝台から目を離せずにいると、ミューズの唇がかすかに動いた。
「……お父様」
息に紛れるほど、小さな声だった。
その口元に、淡い微笑みが浮かぶ。
「ミューズ様。私です。シャールです」
身を寄せて呼んだ。
けれど、次の言葉はなかった。ミューズは微笑んだまま、穏やかな寝息を立てている。
シャールは戸口を振り返った。
「ゴン。先生を呼んできてくれ」
「……具合、悪いの?」
「目を覚まされない。急いでくれ」
少年の顔から眠気が消えた。
頷くと、裸足のまま駆け出しかけ、慌てて玄関へ向かう。ほどなく、外へ飛び出していく音がした。
シャールはミューズの手を取った。
昨夜、ゴンの頭を撫でていた手は、今も温かい。
「ミューズ様」
今度こそ握り返してくれるのを待った。
窓の外では、子供たちが朝の挨拶を交わしていた。