Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound —   作:水城 雅

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第6話 夢の中の令嬢

 ザインが朝食のパンを割ったところで、宿の戸が開いた。

 入ってきたエレナは、手帳を持っていなかった。

「ミューズさんが、目を覚まさないそうです」

ザインは割りかけたパンを皿へ戻した。

「誰から聞いた」

「トーマスさんの使いです。先生が診ているそうですが……」

 ザインは椅子から立ち、壁に立てかけていた曲刀を取った。

「行くぞ」

*

 旧市街の家では、子供たちが台所に集められていた。

 サラがゴンの隣に座っている。エレンは寝室の戸口から二人を見つけ、黙って道を空けた。

 ミューズは昨日と同じ寝台にいた。

 頬に朝日が当たり、胸元の掛け布がゆっくりと上下している。声をかければ、いつもの微笑みが返ってきそうだった。

 そのそばで、シャールが片膝をついていた。

 右手でミューズの手を包み、わずかな動きも見逃すまいと顔を見つめている。

「……呼べば、必ずお返事をくださる方なのです」

 誰に言ったのか分からない声だった。

 ザインは戸口で足を止めた。

 シャールの親指が、握った手の甲を一度だけ撫でた。それきり動かなくなる。

 ザインの右手も、腰の脇でわずかに開いた。

 そこにない手を、受け止めようとするように。

 喉まで上がった名を飲み込み、指を閉じる。

「先生。何が分かった」

 枕元の老人が顔を上げた。

「夢草だ。眠るための薬に使うが、これは強すぎる」

 医師は机に並べた二つの薬包を指した。

「私が調合を頼んだものとは違う。昨夜の包みには、普通の処方では入れぬ量が混じっておる」

「誰かが間違えたんですか」

 エレンの問いに、トーマスが首を振った。

「そこはまだ分からない。薬局から届くまでを調べる必要がある」

「それは後だ。起こせるのか」

 ザインが訊くと、医師はミューズへ目を戻した。

「身体への手当てだけでは、今のところ反応がない」

 エレナが寝台の脇へ進んだ。

「夢から戻れなくなる、という記録を読んだことがあります。夢草で意識が深く沈むと」

「その状態に近い。待つうちに戻ることもあるが、この方の体力で何日も待つのは危うい」

 シャールの肩が動いた。

「方法があるなら、教えてください」

 医師はしばらく彼を見た後、薬箱から蓋つきの香炉を取り出した。

「眠っている者の夢へ、こちらから入る方法がある」

「入れるのですか」

「私の師が使っていた術だ。夢草をごく少量、香にして眠りをつなぐ。深く眠らせるのではなく、あの方の夢へ入るためにな。そこで本人を見つけ、帰るよう促す」

 エレナが香炉の縁に刻まれた文字へ目を落とした。

「呼びかけるだけで、戻れますか」

「本人が帰ろうと思えば。ただ、夢の奥には別のものが入り込むこともある。無事に戻せるとは約束できん」

「入った者も、ですか」

「そうだ」

 トーマスが口を閉じた。

 シャールはミューズの手を掛け布の上へ戻した。指先を揃え、布を少し引き上げる。その手つきだけは、いつも通りだった。

「私が行きます」

「一人で決めるな」

 ザインの声に、シャールが振り返った。

「ですが」

「お前まで戻れなくなったら、誰があの子らに説明する」

 戸の向こうから、小さな咳払いが聞こえた。

 シャールは視線を落とした。

 ザインは寝台の反対側へ椅子を引いた。

「道に迷うなら、探す手は多い方がいい。俺も行く」

「……あなたには、そこまでしていただく理由が」

「帰ってから聞け」

 腰の曲刀を外し、椅子の横へ置く。

 エレナが向かいへ座った。

「夢の中でも、一緒に行動できるとは限りません。はぐれた時に誰を探すか、決めておきましょう」

「行く気か」

「あなた一人で、知らない屋敷の扉を全部蹴って回るおつもりですか」

「まだ屋敷とは言ってねえだろ」

「では、蹴る方は否定されないのですね」

 エレンが戸口から離れた。

「あたしも行く。中に何かいるなら、話だけじゃ済まないんでしょ」

「私も」

 サラが戻ってきていた。

 姉が何か言う前に、寝台の方を見る。

「昨日、ミューズさんに椅子を持っていったら、自分が座るより先に、私の分があるか聞いてくれたの」

 声は小さかったが、そこで止まらなかった。

「また、話したい。私にも、探すのを手伝わせて」

 エレンは妹を見つめた。

「離れないでよ」

「うん。お姉ちゃんも」

 トーマスは椅子を五つ並べ、窓を少し閉めた。

「僕は残ります。先生の手伝いと、子供たちのことを。薬の届け先も、使いを出して確かめます」

 ザインが頷く。

「頼む」

「ええ。こちらは任せてください」

*

 香炉から、細い煙が立ち上った。

 甘い草の匂いがする。

 ザインは背もたれへ身体を預けた。眠れと言われて眠れるほど、気楽な状況ではない。

「ミューズ殿の姿を思い浮かべなさい。私の声が聞こえなくなっても、慌てぬように」

 昨日の食卓を思い出す。

 子供の靴下を繕っていた横顔。鍋を覗くエレンに、じゃが芋の場所を教える声。

 シャールが、もう一度ミューズの名を呼んだ。

 声が遠ざかる。

 足の裏にあった床の感触が消え、次に踏んだのは、濡れた石畳だった。

*

 噴水の水が、陽を受けて光っていた。

 その向こうに白い屋敷がある。窓は高く、庭の薔薇には枯れた花びら一つなかった。

 ザインは自分の足元を見た。

 椅子はない。外したはずの曲刀が腰にある。

「……剣までついてきたか」

「助かりましたね。扉を蹴らずに済みます」

 隣にエレナがいた。細剣を確かめながら、屋敷を見上げている。

 エレンとサラも噴水の脇に立っていた。

 シャールだけが、門の前から動かなかった。

「ここを知ってるのか」

「クラウディウス家の屋敷です」

 答えるまでに、少し間があった。

「焼ける前の」

 庭の奥で笑い声がした。

 十歳ほどの少女が、薔薇の間を駆けてくる。銀紫色の髪が背で弾み、白い靴が石畳を軽やかに踏んだ。

「シャール!」

 少女は彼の前で止まった。

「どこへ行っていたのです。お父様がお待ちですよ」

「ミューズ様……」

 ザインは少女の顔を見た。

 幼くなっていても、目元には面影があった。昨日のような疲れも、息切れもない。

 屋敷の玄関から、一人の男が歩いてきた。

 整えた髭に、仕立てのよい上着。娘が駆け寄ると、男は目を細めてその肩を抱いた。

「戻ったか、シャール」

 シャールの背が伸びた。

「クレメンス様」

「客人も一緒か。入りなさい」

 男は扉を開けたまま待っている。

 ザインは剣の柄へ手を置きかけ、やめた。

 ミューズが男の袖を握っていた。

*

 応接室には、茶と菓子が用意されていた。

 ミューズは父の隣に座り、皿を一つずつ客の前へ押し出した。

「こちら、おいしいのですよ」

 サラが皿を受け取る。

「ありがとう。……ねえ、ミューズさん」

「はい?」

「ゴンが待ってるよ」

 少女は首を傾げた。

「ゴン?」

「昨日、みんなで迎えに行ったでしょう。靴が脱げなくなってて」

 ミューズの指が、皿の縁で止まった。

 クレメンスがその手に自分の手を重ねる。

「疲れる話はよしなさい。ようやく元気になったのだ」

「元気なら、帰れるでしょ」

 エレンが言った。

「この子は家にいる。どこへ帰れと言うのかね」

 男は静かに微笑んでいた。

 エレンが言い返そうとすると、シャールが前へ出た。

「ミューズ様。お迎えに上がりました」

「私、ここにいますよ」

「存じています」

 シャールは膝をついた。少女と目の高さが揃う。

「ですが、ここには長くいられません」

 ミューズは父を見上げた。

 クレメンスの手が、彼女の髪を撫でる。

「お前も休むといい、シャール。十分に働いた」

 男の視線が、シャールの左腕へ落ちた。

「その腕も、ここなら戻る」

 シャールの左手が動いた。

 長く曲げられなかった指が、何の痛みもなく握られる。

 彼は息を止めた。

「もう、不自由をすることはない」

 クレメンスは穏やかに言った。

 シャールは左手を見つめ、それを右手で押さえた。

 ザインは男を見た。

「気前がいいな」

「お前にも、会いたい者がいるはずだ」

クレメンスがこちらを向く。

 ザインは口を閉じた。

「ここなら――」

「俺の話はしてねえ」

 低い声が、男の言葉を切った。

 エレナがザインへ一度だけ目を向けた。何も訊かず、ミューズの見える位置へ移る。

「あなたを待っている人たちがいます。昨日、一緒に食事をした人たちです」

「……昨日」

 少女が呟く。

 サラが頷いた。

「じゃが芋のスープ。お姉ちゃんが、たくさん剥いたの」

「皮を厚く剥きすぎだって、うるさい人もいたけどね」

 エレンがザインを見る。

「厚かっただろ」

 ミューズの唇が、少しだけ緩んだ。

 すぐに父の袖を握り直す。

「でも……お父様が」

 シャールは俯いた。

 しばらくして、顔を上げる。

「クレメンス様は、亡くなられました」

 噴水の音が止まった。

 窓の外では、水が弧を描いたまま宙に留まっている。

「やめてください」

「ミューズ様」

「ここにいらっしゃるでしょう」

 少女の声が震えた。

 シャールが伸ばしかけた右手を、膝へ戻す。

「……はい。私にも、見えています」

 ミューズの目に涙がたまった。

「だったら」

「私も、お会いしたかった」

 それ以上、シャールは言えなかった。

 クレメンスが娘を抱き寄せる。

「何も思い出さなくていい。お前はここにいればいいのだ」

「何も……?」

「つらいことは、もう考えなくていい。これからは私に任せなさい」

 ミューズは父の顔を見つめた。

 涙が頬へ落ちても、拭かなかった。

「……おかしいです」

「何がだ」

「お父様は、私がお勉強を嫌がると、どうして嫌なのか、お訊きになりました」

 男の手が止まる。

「分からないと答えたら、分からないところまで戻って、また初めから」

 ミューズは小さく息を吸った。

「忘れてしまえばいいなんて、おっしゃいませんでした」

「ミューズ」

「お茶をこぼした時も、私が机を拭こうとしたら、先に書類を、と」

 口元がわずかに動いた。笑おうとして、うまくいかなかった。

「怖い顔でお叱りになって。あとから、一緒に拭いてくださった」

 クレメンスは黙っていた。

 ミューズは袖を握った自分の手を見た。

「会いたかったです」

「ならば、ここにいなさい」

 幼い指が、一本ずつほどけた。

「でも――お父様は、もういないのよ」

 窓に亀裂が走った。

 ミューズが立ち上がる。白い子供服の裾が光の中へ薄れ、淡い緑の衣装へ変わっていった。

 シャールが顔を上げる。

 目の前に、今のミューズが立っていた。

 涙を拭い、彼女は一歩、父の姿から離れた。

 背後で、小さな金属音がした。

 壁に入った亀裂の奥に、扉があった。

 応接室には似つかわしくない、飾りのない木の扉。幼い頃、何度もその前で父の仕事が終わるのを待った。

「……お父様の書斎」

 ミューズは扉へ手を伸ばした。

「そこへ行く必要はない」

 父の声がした。

 けれど今度は、振り返らなかった。

 扉の向こうには、机だけが残っていた。

 書類も、椅子もない。その上に、小さな箱が置かれている。

 蓋に触れた瞬間、別の声が蘇った。

『預かっていてくれるか』

 いつも書類を追っていた父が、その時は自分を見ていた。

 何が入っているのか尋ねても、教えてはくれなかった。ただ、幼い手に箱を載せた時だけ、ひどく真剣な顔をしていた。

「私……お預かりしていたのですね」

 蓋を開ける。

 古い布の上に、銀色の手甲が収まっていた。

 指の一本一本まで覆う、精巧な細工。その甲に刻まれた模様を見て、シャールが息を呑んだ。

「銀の手……」

 彼の左腕は、再び動かなくなっていた。

 右手で支えたまま、箱の中を見つめている。

 背後で、床が軋んだ。

「返せ」

 父と同じ声だった。

 ミューズは箱を胸へ抱き寄せた。

「これは、お父様からお預かりしたものです」

 振り返った先で、クレメンスの顔が歪んでいた。

 頬が内側へ落ち、上着の縫い目から黒い腕が伸びる。四本の手が椅子を掴み、背の高い身体を持ち上げた。

 白い仮面のような顔に、口だけが残っていた。

「伏せろ!」

 ザインがミューズの前へ出る。

 曲刀と爪がぶつかり、茶器が床へ飛び散った。

 エレンの斧が横から入り、もう一本を弾く。サラは椅子を退け、弓を引いた。

「夢に入り込むっていうのは、こいつか!」

「たぶん。でも、話を聞ける相手ではなさそうです!」

 エレナが床へ身を低くする。頭上を黒い腕が通り、背後の扉を砕いた。

 木片が落ちる前に消えた。

 床は残っていたが、その先は闇になっていた。壁も天井も剥がれるように失われ、卓と椅子だけが浮かぶ広間へ変わっていく。

 サラの矢が白い顔を抜いた。

 手応えなく、向こうへ飛ぶ。

「外れた……?」

「いや、今のは当たってる」

 ザインが切り返す。曲刀も顔をすり抜けた。

 左から爪が来る。

 反射的に身を引いたが、袖が裂けた。腕に熱い痛みが走る。

「見えてる場所と違うぞ!」

 エレナは倒れた茶卓の陰へ下がった。

 割れた茶器を一つ拾い、魔物の足元へ投げる。

 破片は何もない場所へぶつかり、横に跳ねた。

「右です。姿より、半歩右!」

 サラがすぐに矢を放った。

 今度は闇の中で止まる。黒い肩が浮かび上がり、そこから白い顔が追いつくようにずれた。

 エレンが踏み込んだ。

「こっちね!」

 斧が肩へ食い込む。

 悲鳴とともに魔物が後退した。四本の腕が床を叩くと、足元から別の手がいくつも生えてきた。

 エレンがサラを押し戻す。

 シャールはミューズを庇って二本を斬った。さらに伸びた一本が、その左側を抜ける。

 ミューズの手首が掴まれた。

「ミューズ様!」

 シャールが剣を返そうとする。だが、正面の腕が邪魔をした。

 ミューズの足が滑る。

「腰を落として!」

 シャールが叫んだ。

「引き合わないでください。足を横へ!」

 ミューズは足を開いた。引かれる方へ身体を半分向け、掴まれた手首を捻る。

 昔、庭で教わった動きだった。

 黒い指の隙間から、手が抜けた。

 よろめきながらも、ミューズは踏みとどまる。

 シャールの剣が、空を掴んだ腕を斬り落とした。

「お怪我は」

「ありません。……教えていただいて、よかったです」

 シャールが頷きかけた時、夢魔が顔をこちらへ向けた。

 裂けた口が大きく開く。

「戻れば、その腕は動かぬままだ」

 クレメンスの声だった。

 シャールの剣先が、わずかに下がる。

「また守れぬぞ」

 ミューズが彼の袖に触れた。

「昨日、ゴンを連れて帰ってくださったのは、今のあなたです」

 シャールは彼女を見た。

 ミューズは夢魔から目を逸らさなかった。

「帰りましょう。子供たちが待っています」

「……はい」

 夢魔が飛びかかった。

 ザインが間に入り、爪を受け流す。

「帰り支度は、こいつを片づけてからだ!」

*

 夢魔の姿が三つに分かれた。

 さらに六つへ増える。傷の位置も、顔の傾きも同じだった。

「今度は数かよ」

 ザインは下がった。ミューズを中心に、皆を見渡せる位置へ寄る。

 エレナが細剣を構えたまま、短く息を吐いた。

「少し、風を通します。足元を見ていてください」

 彼女の足元から風が広がる。

 茶器の破片と、床に散った薔薇の花びらが滑った。

 六つの影へ、同じように流れていく。

 五つは、そのまま通り抜けた。

 一か所だけ、花びらが足のないはずの場所で渦を巻く。

「左から二番目!」

 サラの矢が刺さった。

 夢魔が仰け反る。残りの姿が揺れ、ザインはその間を抜けた。

 低く踏み込み、曲刀を斜めに走らせる。

《デミルーン》

 弧を描いた刃が、夢魔の腕をまとめて斬り上げた。

 エレンが逆側へ回り込む。上体を捻り、斧を腰から振り抜いた。

 《大木断》

 胴へ深く刃が入る。

 夢魔は倒れなかった。床に残した手で身体を支え、ミューズへ最後の腕を伸ばす。

 シャールがその前に立った。

 右手の剣で突きを入れる。刃は胸を貫いたが、頭上から爪が落ちてくる。

 ミューズは足元に置いた箱から、銀の手を掴んだ。

「シャール、左手を!」

 動かない腕を取り、手甲を押し当てる。

 銀が指を包み、手首に沿って閉じた。

 シャールが左腕を上げた。

 落ちてきた爪を、銀の指が掴む。

 衝撃に足が沈んだ。

 それでも、腕は下がらなかった。

 夢魔の腕を押し上げ、右の剣をさらに深く突き込む。

 シャールが短く息を吐く。刃に火が灯った。

 炎が黒い胸を内側から照らし、白い顔へ亀裂を走らせる。

 クレメンスの声が、意味のない叫びに変わった。

 シャールは掴んでいた爪を放し、ミューズを背後へ庇った。

 夢魔が崩れ落ちる。

 黒い身体は床へ届く前に散り、最後に白い顔が砕けた。

*

 噴水の音が戻った。

 庭があった。屋敷も、薔薇も、光の向こうに薄く見える。

 玄関の前に、クレメンスが立っていた。

 シャールは剣を構えかけた。

 ミューズが、その腕にそっと触れる。

 父の姿は何も言わなかった。

 彼女も呼びかけなかった。ただ、しばらく見つめてから、深く頭を下げた。

 顔を上げた時には、玄関に誰もいなかった。

「帰りましょう」

 ミューズはシャールへ手を差し出した。

 彼は銀の手を一度見てから、右手で受け止めた。

 庭が白い光に溶けていく。

 ザインは二人から目を外し、後ろを確かめた。

 エレンとサラがいる。エレナも、細剣を下ろしていた。

「全員いるな」

「ええ」

 エレナが頷く。

 ザインは光の方へ歩き出した。

*

 最初に戻ったのは、椅子の硬さだった。

 ザインは目を開け、身体を起こした。

 首が痛い。腕も痛む。

 袖を捲ると、裂けてはいなかった。その下に薄い赤い筋だけが残っている。

「戻りましたね」

 トーマスが水を差し出した。

 ザインは受け取りかけ、寝台を見た。

「ミューズは」

 シャールはまだ動いていなかった。

 右手が、ミューズの手を握っている。

 その指が、かすかに曲がった。

「……シャール?」

 シャールが顔を上げた。

 ミューズの瞼が開いていた。

「はい」

 声が掠れた。

 もう一度、彼は頷いた。

「ここにおります」

 医師が寝台へ寄り、脈を確かめる。エレンが大きく息を吐き、サラは両手で口元を覆った。

 ザインは杯を受け取った。

 飲まずに、しばらく持っていた。

 ミューズが部屋を見回す。

「皆さんも……来てくださったのですね」

「ええ。ずいぶん立派なお宅でした」

 エレナは額を押さえながら答えた。

「次は、起きている時にお茶をご一緒したいです」

 ミューズが小さく笑った。

 その目から、涙が一筋落ちた。

「お父様に、お会いしました」

 シャールが頷く。

「はい」

「声を、忘れていませんでした」

 彼女は目元を拭い、握られた手へ視線を落とした。

 その隣に、銀色の指があった。

「シャール。その手……」

 全員の視線が集まった。

 シャールの左手を、銀の手甲が覆っていた。

 夢へ入る前には、なかったものだ。

 彼はゆっくりと指を曲げた。

 五本とも動いた。

 開き、もう一度握る。金属の擦れる音が、静かな寝室に響いた。

「持って帰ってきたの?」

 エレンが言った。

 エレナもすぐには答えなかった。椅子から立ち、手甲に触れずに模様を見る。

「夢の品が、どうして……」

「先生」

 トーマスに目を向けられ、老人は首を振った。

「こんなものは、私も知らん」

 シャールは銀の指を見つめていた。

 その手を、ミューズが両手で包んだ。

「動きますか」

「……はい」

 彼女の指を傷つけないように、そっと握り返す。

 シャールは俯いた。

 ミューズは何も言わず、彼が顔を上げるまで待っていた。

*

 医師に休むよう言われ、ミューズは寝台へ横になった。

 今度は声をかければ返事があった。それを確かめてから、皆は隣の部屋へ移った。

 サラが子供たちへ知らせに行くと、廊下の向こうで歓声が上がった。

「ミューズ様、起きたの!?」

 真っ先に駆けてきたのはゴンだった。ミッチも、その後ろから顔を覗かせる。

「うん。でも先生が、今は休ませてあげてって」

「じゃあ、あとで会える?」

「もちろん」

 ゴンは寝室の戸を見つめたまま、小さく鼻をすすった。

「……よかった」

「ゴン、また泣いてる」

「泣いてない!」

「二人とも、静かにね!」

 追いかけてきたエレンに言われ、二人は慌てて口を押さえた。

 それでも、顔は笑っていた。

 トーマスは机に薬包を並べた。

「薬局に残っていた分は、先生の処方通りだったそうです。届けた人を、引き続き確認します」

「昨夜の包みは残してください。ほかのものと混ざらないように」

 エレナが紙へ受け取った日時を書き留める。

「夢の中で倒したものと、この薬がどうつながっているのかも、まだ分かりません」

「ええ。ミューズ様が助かったからといって、終わったことにはできない」

 トーマスは紙と薬包を箱へ収めた。

 ザインは窓辺の椅子に腰を下ろし、水を飲み干した。

 寝室の戸が開き、シャールが出てくる。

「礼を、申し上げます」

 深く頭を下げた。

 ザインは空の杯を置いた。

「あいつが自分で帰るって決めたんだろ」

「あなた方がいなければ、私は……」

 シャールが言葉を止める。

 ザインは左手へ目を向けた。

「まだ動くか」

 銀の指が曲がった。

「はい」

「なら、今はそっちを喜んどけ」

 寝室から、ミューズがシャールを呼んだ。

 彼はすぐに顔を向ける。

「ただいま」

 戸を開けて戻っていく背を、ザインは見送った。

 エレナが隣へ来た。

「何か、食べますか。朝、パンを置いて出てきたでしょう」

 そういえば、腹が空いていた。

「温かいものがいい」

「では、そうしましょう」

 エレナは台所へ向かった。

 ザインは椅子に背を預け、右手を開いた。一度握り、膝に置く。

 隣の寝室から、声が聞こえた。

「シャール。お水をいただけますか」

「はい。ただいま」

 戸が開き、シャールが出てきた。

 水差しを右手に持ち、左手で杯を取る。銀の指が、危なげなく杯を支えた。

 シャールは一度だけ、自分の左手を見下ろした。

 開いた戸の向こうで、ミューズが身体を起こしていた。

「ありがとう、シャール」

 杯を受け取り、水を一口飲む。

 それから、彼女はシャールの左手へ目を向けた。

「その手を、少し見せていただけますか」

「はい」

 シャールが銀の手を差し出す。

 ミューズはその手を、両手でそっと包んだ。

 銀の指が、彼女の手に重なる。

 今度は、確かに握り返された。

 

 

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