Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
ザインが朝食のパンを割ったところで、宿の戸が開いた。
入ってきたエレナは、手帳を持っていなかった。
「ミューズさんが、目を覚まさないそうです」
ザインは割りかけたパンを皿へ戻した。
「誰から聞いた」
「トーマスさんの使いです。先生が診ているそうですが……」
ザインは椅子から立ち、壁に立てかけていた曲刀を取った。
「行くぞ」
*
旧市街の家では、子供たちが台所に集められていた。
サラがゴンの隣に座っている。エレンは寝室の戸口から二人を見つけ、黙って道を空けた。
ミューズは昨日と同じ寝台にいた。
頬に朝日が当たり、胸元の掛け布がゆっくりと上下している。声をかければ、いつもの微笑みが返ってきそうだった。
そのそばで、シャールが片膝をついていた。
右手でミューズの手を包み、わずかな動きも見逃すまいと顔を見つめている。
「……呼べば、必ずお返事をくださる方なのです」
誰に言ったのか分からない声だった。
ザインは戸口で足を止めた。
シャールの親指が、握った手の甲を一度だけ撫でた。それきり動かなくなる。
ザインの右手も、腰の脇でわずかに開いた。
そこにない手を、受け止めようとするように。
喉まで上がった名を飲み込み、指を閉じる。
「先生。何が分かった」
枕元の老人が顔を上げた。
「夢草だ。眠るための薬に使うが、これは強すぎる」
医師は机に並べた二つの薬包を指した。
「私が調合を頼んだものとは違う。昨夜の包みには、普通の処方では入れぬ量が混じっておる」
「誰かが間違えたんですか」
エレンの問いに、トーマスが首を振った。
「そこはまだ分からない。薬局から届くまでを調べる必要がある」
「それは後だ。起こせるのか」
ザインが訊くと、医師はミューズへ目を戻した。
「身体への手当てだけでは、今のところ反応がない」
エレナが寝台の脇へ進んだ。
「夢から戻れなくなる、という記録を読んだことがあります。夢草で意識が深く沈むと」
「その状態に近い。待つうちに戻ることもあるが、この方の体力で何日も待つのは危うい」
シャールの肩が動いた。
「方法があるなら、教えてください」
医師はしばらく彼を見た後、薬箱から蓋つきの香炉を取り出した。
「眠っている者の夢へ、こちらから入る方法がある」
「入れるのですか」
「私の師が使っていた術だ。夢草をごく少量、香にして眠りをつなぐ。深く眠らせるのではなく、あの方の夢へ入るためにな。そこで本人を見つけ、帰るよう促す」
エレナが香炉の縁に刻まれた文字へ目を落とした。
「呼びかけるだけで、戻れますか」
「本人が帰ろうと思えば。ただ、夢の奥には別のものが入り込むこともある。無事に戻せるとは約束できん」
「入った者も、ですか」
「そうだ」
トーマスが口を閉じた。
シャールはミューズの手を掛け布の上へ戻した。指先を揃え、布を少し引き上げる。その手つきだけは、いつも通りだった。
「私が行きます」
「一人で決めるな」
ザインの声に、シャールが振り返った。
「ですが」
「お前まで戻れなくなったら、誰があの子らに説明する」
戸の向こうから、小さな咳払いが聞こえた。
シャールは視線を落とした。
ザインは寝台の反対側へ椅子を引いた。
「道に迷うなら、探す手は多い方がいい。俺も行く」
「……あなたには、そこまでしていただく理由が」
「帰ってから聞け」
腰の曲刀を外し、椅子の横へ置く。
エレナが向かいへ座った。
「夢の中でも、一緒に行動できるとは限りません。はぐれた時に誰を探すか、決めておきましょう」
「行く気か」
「あなた一人で、知らない屋敷の扉を全部蹴って回るおつもりですか」
「まだ屋敷とは言ってねえだろ」
「では、蹴る方は否定されないのですね」
エレンが戸口から離れた。
「あたしも行く。中に何かいるなら、話だけじゃ済まないんでしょ」
「私も」
サラが戻ってきていた。
姉が何か言う前に、寝台の方を見る。
「昨日、ミューズさんに椅子を持っていったら、自分が座るより先に、私の分があるか聞いてくれたの」
声は小さかったが、そこで止まらなかった。
「また、話したい。私にも、探すのを手伝わせて」
エレンは妹を見つめた。
「離れないでよ」
「うん。お姉ちゃんも」
トーマスは椅子を五つ並べ、窓を少し閉めた。
「僕は残ります。先生の手伝いと、子供たちのことを。薬の届け先も、使いを出して確かめます」
ザインが頷く。
「頼む」
「ええ。こちらは任せてください」
*
香炉から、細い煙が立ち上った。
甘い草の匂いがする。
ザインは背もたれへ身体を預けた。眠れと言われて眠れるほど、気楽な状況ではない。
「ミューズ殿の姿を思い浮かべなさい。私の声が聞こえなくなっても、慌てぬように」
昨日の食卓を思い出す。
子供の靴下を繕っていた横顔。鍋を覗くエレンに、じゃが芋の場所を教える声。
シャールが、もう一度ミューズの名を呼んだ。
声が遠ざかる。
足の裏にあった床の感触が消え、次に踏んだのは、濡れた石畳だった。
*
噴水の水が、陽を受けて光っていた。
その向こうに白い屋敷がある。窓は高く、庭の薔薇には枯れた花びら一つなかった。
ザインは自分の足元を見た。
椅子はない。外したはずの曲刀が腰にある。
「……剣までついてきたか」
「助かりましたね。扉を蹴らずに済みます」
隣にエレナがいた。細剣を確かめながら、屋敷を見上げている。
エレンとサラも噴水の脇に立っていた。
シャールだけが、門の前から動かなかった。
「ここを知ってるのか」
「クラウディウス家の屋敷です」
答えるまでに、少し間があった。
「焼ける前の」
庭の奥で笑い声がした。
十歳ほどの少女が、薔薇の間を駆けてくる。銀紫色の髪が背で弾み、白い靴が石畳を軽やかに踏んだ。
「シャール!」
少女は彼の前で止まった。
「どこへ行っていたのです。お父様がお待ちですよ」
「ミューズ様……」
ザインは少女の顔を見た。
幼くなっていても、目元には面影があった。昨日のような疲れも、息切れもない。
屋敷の玄関から、一人の男が歩いてきた。
整えた髭に、仕立てのよい上着。娘が駆け寄ると、男は目を細めてその肩を抱いた。
「戻ったか、シャール」
シャールの背が伸びた。
「クレメンス様」
「客人も一緒か。入りなさい」
男は扉を開けたまま待っている。
ザインは剣の柄へ手を置きかけ、やめた。
ミューズが男の袖を握っていた。
*
応接室には、茶と菓子が用意されていた。
ミューズは父の隣に座り、皿を一つずつ客の前へ押し出した。
「こちら、おいしいのですよ」
サラが皿を受け取る。
「ありがとう。……ねえ、ミューズさん」
「はい?」
「ゴンが待ってるよ」
少女は首を傾げた。
「ゴン?」
「昨日、みんなで迎えに行ったでしょう。靴が脱げなくなってて」
ミューズの指が、皿の縁で止まった。
クレメンスがその手に自分の手を重ねる。
「疲れる話はよしなさい。ようやく元気になったのだ」
「元気なら、帰れるでしょ」
エレンが言った。
「この子は家にいる。どこへ帰れと言うのかね」
男は静かに微笑んでいた。
エレンが言い返そうとすると、シャールが前へ出た。
「ミューズ様。お迎えに上がりました」
「私、ここにいますよ」
「存じています」
シャールは膝をついた。少女と目の高さが揃う。
「ですが、ここには長くいられません」
ミューズは父を見上げた。
クレメンスの手が、彼女の髪を撫でる。
「お前も休むといい、シャール。十分に働いた」
男の視線が、シャールの左腕へ落ちた。
「その腕も、ここなら戻る」
シャールの左手が動いた。
長く曲げられなかった指が、何の痛みもなく握られる。
彼は息を止めた。
「もう、不自由をすることはない」
クレメンスは穏やかに言った。
シャールは左手を見つめ、それを右手で押さえた。
ザインは男を見た。
「気前がいいな」
「お前にも、会いたい者がいるはずだ」
クレメンスがこちらを向く。
ザインは口を閉じた。
「ここなら――」
「俺の話はしてねえ」
低い声が、男の言葉を切った。
エレナがザインへ一度だけ目を向けた。何も訊かず、ミューズの見える位置へ移る。
「あなたを待っている人たちがいます。昨日、一緒に食事をした人たちです」
「……昨日」
少女が呟く。
サラが頷いた。
「じゃが芋のスープ。お姉ちゃんが、たくさん剥いたの」
「皮を厚く剥きすぎだって、うるさい人もいたけどね」
エレンがザインを見る。
「厚かっただろ」
ミューズの唇が、少しだけ緩んだ。
すぐに父の袖を握り直す。
「でも……お父様が」
シャールは俯いた。
しばらくして、顔を上げる。
「クレメンス様は、亡くなられました」
噴水の音が止まった。
窓の外では、水が弧を描いたまま宙に留まっている。
「やめてください」
「ミューズ様」
「ここにいらっしゃるでしょう」
少女の声が震えた。
シャールが伸ばしかけた右手を、膝へ戻す。
「……はい。私にも、見えています」
ミューズの目に涙がたまった。
「だったら」
「私も、お会いしたかった」
それ以上、シャールは言えなかった。
クレメンスが娘を抱き寄せる。
「何も思い出さなくていい。お前はここにいればいいのだ」
「何も……?」
「つらいことは、もう考えなくていい。これからは私に任せなさい」
ミューズは父の顔を見つめた。
涙が頬へ落ちても、拭かなかった。
「……おかしいです」
「何がだ」
「お父様は、私がお勉強を嫌がると、どうして嫌なのか、お訊きになりました」
男の手が止まる。
「分からないと答えたら、分からないところまで戻って、また初めから」
ミューズは小さく息を吸った。
「忘れてしまえばいいなんて、おっしゃいませんでした」
「ミューズ」
「お茶をこぼした時も、私が机を拭こうとしたら、先に書類を、と」
口元がわずかに動いた。笑おうとして、うまくいかなかった。
「怖い顔でお叱りになって。あとから、一緒に拭いてくださった」
クレメンスは黙っていた。
ミューズは袖を握った自分の手を見た。
「会いたかったです」
「ならば、ここにいなさい」
幼い指が、一本ずつほどけた。
「でも――お父様は、もういないのよ」
窓に亀裂が走った。
ミューズが立ち上がる。白い子供服の裾が光の中へ薄れ、淡い緑の衣装へ変わっていった。
シャールが顔を上げる。
目の前に、今のミューズが立っていた。
涙を拭い、彼女は一歩、父の姿から離れた。
背後で、小さな金属音がした。
壁に入った亀裂の奥に、扉があった。
応接室には似つかわしくない、飾りのない木の扉。幼い頃、何度もその前で父の仕事が終わるのを待った。
「……お父様の書斎」
ミューズは扉へ手を伸ばした。
「そこへ行く必要はない」
父の声がした。
けれど今度は、振り返らなかった。
扉の向こうには、机だけが残っていた。
書類も、椅子もない。その上に、小さな箱が置かれている。
蓋に触れた瞬間、別の声が蘇った。
『預かっていてくれるか』
いつも書類を追っていた父が、その時は自分を見ていた。
何が入っているのか尋ねても、教えてはくれなかった。ただ、幼い手に箱を載せた時だけ、ひどく真剣な顔をしていた。
「私……お預かりしていたのですね」
蓋を開ける。
古い布の上に、銀色の手甲が収まっていた。
指の一本一本まで覆う、精巧な細工。その甲に刻まれた模様を見て、シャールが息を呑んだ。
「銀の手……」
彼の左腕は、再び動かなくなっていた。
右手で支えたまま、箱の中を見つめている。
背後で、床が軋んだ。
「返せ」
父と同じ声だった。
ミューズは箱を胸へ抱き寄せた。
「これは、お父様からお預かりしたものです」
振り返った先で、クレメンスの顔が歪んでいた。
頬が内側へ落ち、上着の縫い目から黒い腕が伸びる。四本の手が椅子を掴み、背の高い身体を持ち上げた。
白い仮面のような顔に、口だけが残っていた。
「伏せろ!」
ザインがミューズの前へ出る。
曲刀と爪がぶつかり、茶器が床へ飛び散った。
エレンの斧が横から入り、もう一本を弾く。サラは椅子を退け、弓を引いた。
「夢に入り込むっていうのは、こいつか!」
「たぶん。でも、話を聞ける相手ではなさそうです!」
エレナが床へ身を低くする。頭上を黒い腕が通り、背後の扉を砕いた。
木片が落ちる前に消えた。
床は残っていたが、その先は闇になっていた。壁も天井も剥がれるように失われ、卓と椅子だけが浮かぶ広間へ変わっていく。
サラの矢が白い顔を抜いた。
手応えなく、向こうへ飛ぶ。
「外れた……?」
「いや、今のは当たってる」
ザインが切り返す。曲刀も顔をすり抜けた。
左から爪が来る。
反射的に身を引いたが、袖が裂けた。腕に熱い痛みが走る。
「見えてる場所と違うぞ!」
エレナは倒れた茶卓の陰へ下がった。
割れた茶器を一つ拾い、魔物の足元へ投げる。
破片は何もない場所へぶつかり、横に跳ねた。
「右です。姿より、半歩右!」
サラがすぐに矢を放った。
今度は闇の中で止まる。黒い肩が浮かび上がり、そこから白い顔が追いつくようにずれた。
エレンが踏み込んだ。
「こっちね!」
斧が肩へ食い込む。
悲鳴とともに魔物が後退した。四本の腕が床を叩くと、足元から別の手がいくつも生えてきた。
エレンがサラを押し戻す。
シャールはミューズを庇って二本を斬った。さらに伸びた一本が、その左側を抜ける。
ミューズの手首が掴まれた。
「ミューズ様!」
シャールが剣を返そうとする。だが、正面の腕が邪魔をした。
ミューズの足が滑る。
「腰を落として!」
シャールが叫んだ。
「引き合わないでください。足を横へ!」
ミューズは足を開いた。引かれる方へ身体を半分向け、掴まれた手首を捻る。
昔、庭で教わった動きだった。
黒い指の隙間から、手が抜けた。
よろめきながらも、ミューズは踏みとどまる。
シャールの剣が、空を掴んだ腕を斬り落とした。
「お怪我は」
「ありません。……教えていただいて、よかったです」
シャールが頷きかけた時、夢魔が顔をこちらへ向けた。
裂けた口が大きく開く。
「戻れば、その腕は動かぬままだ」
クレメンスの声だった。
シャールの剣先が、わずかに下がる。
「また守れぬぞ」
ミューズが彼の袖に触れた。
「昨日、ゴンを連れて帰ってくださったのは、今のあなたです」
シャールは彼女を見た。
ミューズは夢魔から目を逸らさなかった。
「帰りましょう。子供たちが待っています」
「……はい」
夢魔が飛びかかった。
ザインが間に入り、爪を受け流す。
「帰り支度は、こいつを片づけてからだ!」
*
夢魔の姿が三つに分かれた。
さらに六つへ増える。傷の位置も、顔の傾きも同じだった。
「今度は数かよ」
ザインは下がった。ミューズを中心に、皆を見渡せる位置へ寄る。
エレナが細剣を構えたまま、短く息を吐いた。
「少し、風を通します。足元を見ていてください」
彼女の足元から風が広がる。
茶器の破片と、床に散った薔薇の花びらが滑った。
六つの影へ、同じように流れていく。
五つは、そのまま通り抜けた。
一か所だけ、花びらが足のないはずの場所で渦を巻く。
「左から二番目!」
サラの矢が刺さった。
夢魔が仰け反る。残りの姿が揺れ、ザインはその間を抜けた。
低く踏み込み、曲刀を斜めに走らせる。
《デミルーン》
弧を描いた刃が、夢魔の腕をまとめて斬り上げた。
エレンが逆側へ回り込む。上体を捻り、斧を腰から振り抜いた。
《大木断》
胴へ深く刃が入る。
夢魔は倒れなかった。床に残した手で身体を支え、ミューズへ最後の腕を伸ばす。
シャールがその前に立った。
右手の剣で突きを入れる。刃は胸を貫いたが、頭上から爪が落ちてくる。
ミューズは足元に置いた箱から、銀の手を掴んだ。
「シャール、左手を!」
動かない腕を取り、手甲を押し当てる。
銀が指を包み、手首に沿って閉じた。
シャールが左腕を上げた。
落ちてきた爪を、銀の指が掴む。
衝撃に足が沈んだ。
それでも、腕は下がらなかった。
夢魔の腕を押し上げ、右の剣をさらに深く突き込む。
シャールが短く息を吐く。刃に火が灯った。
炎が黒い胸を内側から照らし、白い顔へ亀裂を走らせる。
クレメンスの声が、意味のない叫びに変わった。
シャールは掴んでいた爪を放し、ミューズを背後へ庇った。
夢魔が崩れ落ちる。
黒い身体は床へ届く前に散り、最後に白い顔が砕けた。
*
噴水の音が戻った。
庭があった。屋敷も、薔薇も、光の向こうに薄く見える。
玄関の前に、クレメンスが立っていた。
シャールは剣を構えかけた。
ミューズが、その腕にそっと触れる。
父の姿は何も言わなかった。
彼女も呼びかけなかった。ただ、しばらく見つめてから、深く頭を下げた。
顔を上げた時には、玄関に誰もいなかった。
「帰りましょう」
ミューズはシャールへ手を差し出した。
彼は銀の手を一度見てから、右手で受け止めた。
庭が白い光に溶けていく。
ザインは二人から目を外し、後ろを確かめた。
エレンとサラがいる。エレナも、細剣を下ろしていた。
「全員いるな」
「ええ」
エレナが頷く。
ザインは光の方へ歩き出した。
*
最初に戻ったのは、椅子の硬さだった。
ザインは目を開け、身体を起こした。
首が痛い。腕も痛む。
袖を捲ると、裂けてはいなかった。その下に薄い赤い筋だけが残っている。
「戻りましたね」
トーマスが水を差し出した。
ザインは受け取りかけ、寝台を見た。
「ミューズは」
シャールはまだ動いていなかった。
右手が、ミューズの手を握っている。
その指が、かすかに曲がった。
「……シャール?」
シャールが顔を上げた。
ミューズの瞼が開いていた。
「はい」
声が掠れた。
もう一度、彼は頷いた。
「ここにおります」
医師が寝台へ寄り、脈を確かめる。エレンが大きく息を吐き、サラは両手で口元を覆った。
ザインは杯を受け取った。
飲まずに、しばらく持っていた。
ミューズが部屋を見回す。
「皆さんも……来てくださったのですね」
「ええ。ずいぶん立派なお宅でした」
エレナは額を押さえながら答えた。
「次は、起きている時にお茶をご一緒したいです」
ミューズが小さく笑った。
その目から、涙が一筋落ちた。
「お父様に、お会いしました」
シャールが頷く。
「はい」
「声を、忘れていませんでした」
彼女は目元を拭い、握られた手へ視線を落とした。
その隣に、銀色の指があった。
「シャール。その手……」
全員の視線が集まった。
シャールの左手を、銀の手甲が覆っていた。
夢へ入る前には、なかったものだ。
彼はゆっくりと指を曲げた。
五本とも動いた。
開き、もう一度握る。金属の擦れる音が、静かな寝室に響いた。
「持って帰ってきたの?」
エレンが言った。
エレナもすぐには答えなかった。椅子から立ち、手甲に触れずに模様を見る。
「夢の品が、どうして……」
「先生」
トーマスに目を向けられ、老人は首を振った。
「こんなものは、私も知らん」
シャールは銀の指を見つめていた。
その手を、ミューズが両手で包んだ。
「動きますか」
「……はい」
彼女の指を傷つけないように、そっと握り返す。
シャールは俯いた。
ミューズは何も言わず、彼が顔を上げるまで待っていた。
*
医師に休むよう言われ、ミューズは寝台へ横になった。
今度は声をかければ返事があった。それを確かめてから、皆は隣の部屋へ移った。
サラが子供たちへ知らせに行くと、廊下の向こうで歓声が上がった。
「ミューズ様、起きたの!?」
真っ先に駆けてきたのはゴンだった。ミッチも、その後ろから顔を覗かせる。
「うん。でも先生が、今は休ませてあげてって」
「じゃあ、あとで会える?」
「もちろん」
ゴンは寝室の戸を見つめたまま、小さく鼻をすすった。
「……よかった」
「ゴン、また泣いてる」
「泣いてない!」
「二人とも、静かにね!」
追いかけてきたエレンに言われ、二人は慌てて口を押さえた。
それでも、顔は笑っていた。
トーマスは机に薬包を並べた。
「薬局に残っていた分は、先生の処方通りだったそうです。届けた人を、引き続き確認します」
「昨夜の包みは残してください。ほかのものと混ざらないように」
エレナが紙へ受け取った日時を書き留める。
「夢の中で倒したものと、この薬がどうつながっているのかも、まだ分かりません」
「ええ。ミューズ様が助かったからといって、終わったことにはできない」
トーマスは紙と薬包を箱へ収めた。
ザインは窓辺の椅子に腰を下ろし、水を飲み干した。
寝室の戸が開き、シャールが出てくる。
「礼を、申し上げます」
深く頭を下げた。
ザインは空の杯を置いた。
「あいつが自分で帰るって決めたんだろ」
「あなた方がいなければ、私は……」
シャールが言葉を止める。
ザインは左手へ目を向けた。
「まだ動くか」
銀の指が曲がった。
「はい」
「なら、今はそっちを喜んどけ」
寝室から、ミューズがシャールを呼んだ。
彼はすぐに顔を向ける。
「ただいま」
戸を開けて戻っていく背を、ザインは見送った。
エレナが隣へ来た。
「何か、食べますか。朝、パンを置いて出てきたでしょう」
そういえば、腹が空いていた。
「温かいものがいい」
「では、そうしましょう」
エレナは台所へ向かった。
ザインは椅子に背を預け、右手を開いた。一度握り、膝に置く。
隣の寝室から、声が聞こえた。
「シャール。お水をいただけますか」
「はい。ただいま」
戸が開き、シャールが出てきた。
水差しを右手に持ち、左手で杯を取る。銀の指が、危なげなく杯を支えた。
シャールは一度だけ、自分の左手を見下ろした。
開いた戸の向こうで、ミューズが身体を起こしていた。
「ありがとう、シャール」
杯を受け取り、水を一口飲む。
それから、彼女はシャールの左手へ目を向けた。
「その手を、少し見せていただけますか」
「はい」
シャールが銀の手を差し出す。
ミューズはその手を、両手でそっと包んだ。
銀の指が、彼女の手に重なる。
今度は、確かに握り返された。