Romancing SaGa 3 — Destinies Unbound — 作:水城 雅
翌朝ピドナのトーマスの家では、朝から旅支度が始まっていた
サラは持ち物を確かめ、帳面に書きつけていた
エレンは新しい斧を腰へ下げ、鏡の前で位置を確かめていた。
「旅費は足りるのか」
ザインが訊くと、エレンは振り返った。
「何よ、急に」
「ランスまでは近所じゃねえ。途中の宿代もかかるぞ」
「大丈夫よ。モニカ様を送り届けた時に、ミカエル様から五千オーラムずつ頂いたんだから」
「……一人五千か?」
「そうよ。命懸けだったんだから、それくらい貰ってもいいでしょ」
「そりゃそうだな」
ザインは素直に頷いた。
「こっちに来てからは、トーマスの親戚の家に泊めてもらってるし。あたしたち、そんなにお金使ってないわよ」
「私は、ほとんど残ってるよ」
サラが帳面から顔を上げた。
「……あたしだって、ちゃんと残してるわよ」
「お姉ちゃん、昨日も買い物してたでしょ」
「必要なものよ!」
ザインが鼻を鳴らした。
「まあ、自分の金だ。好きに使えばいい」
「あら。おじさんにしては珍しいこと言うじゃない」
「その代わり、金がなくなったって俺に借りに来るなよ」
「……やっぱりケチなおじさんね」
サラが笑いながら、帳面に最後の一行を書き足した。
扉が開き、エレナが入ってくる。肩の鞄は膨らんでいたが、留め具はきちんと閉じられていた。
「何のお話ですか」
「宿代」
ザインは短く答え、彼女の鞄を見た。
「そっちは荷物が増えてねえか」
「必要なものです」
「ほら。エレナも言ってる」
エレンがすかさず口を挟んだ。
「私は、買ったものの言い訳までは頼まれていませんけれど」
「味方してよ」
エレナは笑って卓へ地図を広げた。その上へトーマスが調べてくれた船の出発時刻を書いた紙を置く。
「船で行けるところまで行って、そこからは街道です。宿泊費と食費は、各自で。調査のためにお願いする仕事があれば、その都度、別に相談する。それでどうでしょうか」
ザインは地図を見たまま、指で街道を辿った。
「俺が勝手についてく分には、それでいい」
「では、ランスまではご一緒に」
「危ない道へ寄る前には言えよ」
「ええ。隠し扉を開ける前にも言います」
「分かってるならいい」
エレンが鏡の前から離れた。
「じゃあ、あたしたちも一緒ね」
サラは帳面を閉じ、鞄へしまう。誰に払ってもらうかを書く欄は、初めからなかった。
そこへ、トーマスが包みを抱えて戻ってきた。
「船は昼前に出ます。途中で食べられるものを少し。宿の人に頼んでおきました」
「ありがとう。お家の人にも、よろしく言ってね」
エレンが受け取り、サラも頭を下げる。
トーマスはエレナへ、宛先を書いた紙を渡した。
「知らせはここへ。僕からミューズ様たちにも伝えます」
「分かりました。薬の件で何か分かった時も、お願いします」
「もちろん」
玄関へ運んだ荷物の横で、トーマスがサラの弓を見た。
「もう、手に馴染んだ?」
「うん。前のより、持っていて疲れないの」
サラは弓の握りをそっと撫でた。
「帰ってきたら、ノーラさんにもちゃんと話せるように、使ってみる」
「無理に試す必要はないよ」
「分かってる」
そう答えてから、サラは顔を上げた。
「トーマスも、仕事ばかりしないでね」
彼は少し驚いたように目を瞬かせ、頷いた。
「気をつけるよ」
*
港では、船員が最後の荷を積み込んでいた。
帆の下で出港先を確かめると、エレンが腕を組む。
「四人とも確認したわね」
「まだ降りる時が残ってる」
「おじさん、しつこい」
サラが笑い、エレナは船員から聞いた到着の目安を手帳へ書き留めた。
岸壁のトーマスに手を振る。船が離れると、工房の煙も旧市街の屋根も、少しずつ港の向こうへ隠れていった。
エレンはしばらくそれを見ていたが、やがて海へ向き直った。
「ランスって、どんなところ?」
「聖王廟があります。観測の資料も、古い町の記録も」
「エレナが好きそうなものばっかりね」
「ええ。調べたいことが多くて」
「……何日いるつもり?」
「それは、着いてから考えましょう」
「嫌な予感がするわ」
ザインは舷側へ肘を置いた。
「知り合いには、知らせてあるのか」
「出発前に手紙を出しました。ただ、私たちとどちらが先に着くかは」
「いきなり四人で押しかけるかもしれねえのか」
「アンナなら、まずお茶を出してから怒ります」
「怒るんだ」
エレンが笑った。
「ええ。片づけてから来ればよかったのに、と」
エレナは鞄の口を押さえた。
「私にではなく、兄に」
*
上陸する港は、四人で確かめた。
街道へ出てからは、馬車の轍を辿って歩いた。畑の脇には若い麦が並び、溝を流れる水に春の空が映っている。
宿へ着くと、サラはその日の支払いを帳面につけ、エレンは斧の具合を確かめた。エレナは翌日の道を調べ、ザインは宿の主人に水場と魔物の情報を訊いた。
ある宿場では、羊を襲われたという話を聞いた。
「いつもは森の奥にいるやつが、柵まで来たんだ。二度も」
主人は椀へ煮込みをよそいながら言った。
「追い払えたのか」
「近くの者でな。だから今は、夕方になったら門を閉めてる」
エレナは場所と日付を尋ねた。主人が覚えていないところは、空欄にしておく。
翌朝、町を出る時、サラがその手帳を見た。
「ここにも、いるんだね」
「ただ、あの黒い魔物と同じものではなさそうです」
「うん」
サラは弓の革紐を握り直した。
エレンは何も訊かず、隣に並んだ。
しばらく歩くうちに、サラは前を向き、姉の半歩後ろから離れた。
*
ランスが見えたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
緩やかな丘に白い石の建物が並び、その奥には、町を見下ろすように聖王廟が建っている。
サラが足を止めた。
「あれが、聖王様の?」
「ええ」
エレナは頷いた。
「今日は、先に知人のところへ行きます」
「廟には入らねえのか」
「閉まるまでに、ゆっくり見られませんから」
「ゆっくりが、どれくらいか分からんがな」
「少なくとも、夕食には間に合わせます」
「今の、覚えたからね」
エレンが言い、四人は門をくぐった。
市場には野菜と布が並び、通りの向こうから焼き菓子の匂いが流れてくる。エレンが店先を覗き込むと、サラも隣へ寄った。
立札には、《聖王様も愛した蜂蜜菓子》とある。
ザインは、その下の小さな文字を見た。
「四十年前創業」
「味は受け継いでいるんです!」
店主が胸を張った。
エレンは笑いながら二つ買い、片方をサラへ渡した。
「美味しければ、いいじゃない」
「そこは否定しねえよ」
*
エレナが足を止めたのは、通りを一本入った家の前だった。
二階の窓から細い筒が突き出し、その下の庭には、測量に使うらしい木枠が置かれている。
戸を叩くと、中で足音がした。
顔を出した若い女性は、エレナを見るなり目を丸くした。
赤茶色の巻き毛を大きな白いリボンでまとめ、丸眼鏡をかけた女性だった。薔薇模様の桃色のドレスに白い前掛けを重ねている。
「……手紙より先に来たわね」
「やっぱり」
「やっぱり、ではありません」
女性は笑いながら戸を大きく開けた。
「お帰り、エレナ。今度はずいぶん賑やかね」
「ただいま、アンナ。紹介しても?」
エレナが三人へ向き直る。
「こちらがアンナです。術式の検討や、観測記録の整理を一緒にしていました」
「兄の字を読める人が増えるだけでも助かるのよ」
アンナは一人ずつ名を聞き、奥へ招いた。
エレンが階段の壁に貼られた図を見る。星をつないだ線の横に、細かな数字が並んでいた。
「これ、全部二人で?」
「観測は主に兄ね。私は記録と照合、それから術の方を。エレナには、外で見つけたものを送ってもらっているの」
「今日は、その荷物が少し多くて」
エレナが鞄へ触れる。
アンナの視線が、彼女の手を捉えた。
「その指、どうしたの?」
「剣の握りが合わなくなって。工房で直してもらいました」
「剣の話が先に出るような旅だったのね」
「遺跡には、少し事情がありまして」
アンナはザインたちを見た。
「止めても、見に行ったでしょう?」
「扉があればな」
ザインが答える。
「ほらね」
「アンナ。まだ、何も説明していません」
「知っているから言ってるの」
エレンが肩を揺らした。
階段の上から、声が落ちてくる。
「アンナ、誰だい?」
「エレナよ。お客さんも三人」
「ああ。ちょうどよかった」
男が紙の束を持って下りてきた。赤茶色の髪を無造作に伸ばし、丸眼鏡をかけた男だった。赤橙色の長衣に暗い色の外套を羽織り、身なりにはあまり頓着していない様子だった。視線は紙へ落ちたままで、最後の段に足をかけてから、ようやく顔を上げる。
「南の観測所の写しを持っているかい。前に送ってくれたものの、欠けていた右端なんだが」
「ご無沙汰しています、ヨハンネス。ええ、あります。よく覚えていましたね」
「あの部分があれば、年を確かめられるかもしれない」
「その前に、ご挨拶」
アンナが兄の紙を少し下げた。
ヨハンネスは三人を見ると、気まずそうに笑った。
「すみません。妹から聞いていると思いますが、星を調べています」
「ヨハンネスさんも、エレナと似てるね」
エレンが言った。
「どの辺りが?」
「会ったばっかりなのに、もう調べる話してるところ」
アンナが頷き、エレナだけが少し不服そうに鞄を下ろした。
*
お茶が置かれても、ヨハンネスはすぐには杯を取らなかった。
エレナが広げた星図の写しを、自分の記録へ重ねる。向きを変え、欄外の日付を指で追った。
「この数字は、原本でもこうだった?」
「ええ。隣の記録とも照らしました」
「なら、誤写ではないね」
アンナが薄い紙を持ってくる。二枚を重ねると、別々の時代に記された星の位置が、窓の光に透けた。
ザインには、違いが分からなかった。
「何が合ったんだ」
ヨハンネスは一度、紙から目を離した。
「星の動きを計算するための基準です。古い観測と今の観測を比べるには、まず同じ物差しに揃えないといけない」
「揃えると?」
「今、起きているずれが、以前にもあったものか調べられます」
エレナが鞄から手帳を出した。
「そのことで、伺いたかったんです。各地で、魔物が普段と違う場所へ出ています」
彼女はロアーヌで見たこと、ピドナへの街道で遭遇したことを話した。途中の宿場で聞いた話は、自分たちが見たものと分けて伝える。
ヨハンネスの指が止まった。
アンナも杯を置く。
「こちらにも、知らせが来ているわ」
彼女は机の引き出しから、幾通かの手紙を出した。
「狩場に入れなくなった村。いつもは越えてこない川のこちら側で、魔物を見たという話。全部が同じ原因かは、まだ分からないけれど」
エレナが手紙の日付を見る。
「こちらで観測されている変化と、時期は?」
「重なっている」
ヨハンネスは、紙の束から一枚を抜いた。
何度も計算し直したらしく、余白まで数字が詰まっている。その端を指で押さえ、四人を見た。
「父の記録も、聖王の時代の記録も調べました。今の変化は、アビスゲートが活動していた頃のものに近づいています」
エレンが背を起こした。
「聖王様が閉じた、あの?」
「ええ。再び開きつつあると、僕は考えています」
ヨハンネスは紙の端を押さえた。
「ゲートは、こちらの世界とアビスをつなぐ裂け目です。そこから力が流れ込んでいるなら、魔物の動きにも影響が出るでしょう」
「だから、普段いねえ場所まで魔物が出てくるのか」
「その可能性はあります。そして、影響がそれだけで済むとも限りません」
ヨハンネスは四人を見た。
「かつて聖王が退けた四魔貴族。ビューネイ、フォルネウス、アラケス、アウナス。彼らも、再びこちらへ力を及ぼすかもしれない」
「あ。その名前、子供の頃に聞いたわ」
エレンがサラを見る。
「悪いことすると連れていかれるって。ね?」
「うん。森へ一人で入った時も、言われた」
サラは小さく頷き、卓の上の記録へ目を戻した。
「でも、お話の中だけだと思ってました」
「聖王の伝承と一緒に、昔話として残っている土地は多いですね」
エレナが言った。
「ただ、今の観測にも、その頃と同じ変化がある、と」
「ええ。何度も計算し直しましたが、結果は同じでした…」
エレンの笑みが薄れた。
ザインはしばらく紙を見てから、椅子の背へ身を預けた。
「……昔話の続きが始まるかもしれねえ、ってことか」
「そうならないうちに、異変を確かめる必要があります」
「それで、俺たちにゲートを閉じてこいって話か」
ヨハンネスは首を振った。
「いいえ。まずは観測を続け、各地の知らせを集めます。危険が及びそうな場所へも、伝えなければ」
「なら、道中で見たことは送る。閉じ方も知らねえ門に、首を突っ込む気はねえぞ」
「私も、今日はお話を伺いに来たんです」
エレナが手帳を手元へ引いた。
エレンは彼女を見る。
「行くつもりで聞いてたんじゃないの?」
「私を何だと思っているんですか」
ザインとエレンが顔を見合わせた。
「……何です、その間は」
「いや。先に聞いといてよかった」
ザインは地図へ目を戻した。
「どこで魔物が増えてるか分かれば、道も選べるからな」
「そのためにも、皆さんが通ってきた道を教えていただけると助かります」
ヨハンネスは地図を広げた。
「星だけでは、地上の様子までは調べきれません。何も起きていない場所も、分かれば欲しい」
「なら、通ってきた街道の分は話せるぞ」
ザインが椅子を寄せた。
エレンも地図を覗き、途中で休んだ場所を示す。
「ここは普通だった。畑で働いてる人もいたし」
「宿の人も、魔物は出ていないって」
サラが続けた。
アンナは二人の話を書き留め、エレナが日付を補った。やがて、地図の上に四人が通った道ができた。
*
「もう一つ、聞きたいことがある」
ザインが言うと、サラは膝の上で指を重ねた。
彼は先にサラを見た。
「あの黒い奴の話だ」
サラが頷くのを待ってから、ザインは口を開いた。
「ピドナの近くで、こいつを狙った。でかい狼みてえな魔物だ。人間を襲うだけなら、目の前の俺に来りゃよかった」
エレンの斧を受けても、弓を持つサラへ向かい直したこと。追う相手を変えなかったこと。エレナが見た範囲も加え、ヨハンネスは途中で二度、位置を確かめた。
「その前に、何か触れたり、持ち出したりは?」
アンナの問いに、サラは首を振った。
「森を歩いていただけです。変わったものも、持ってないと思う」
「魔物が来る前に、音や匂いで気づいた?」
「枝が折れる音がして……それから、お姉ちゃんが振り向いて」
サラはそこで言葉を止めた。
牙の間から落ちた唾液と、こちらへ向いた目を思い出す。握った指をほどこうとしたが、うまくいかなかった。
アンナは質問を続けず、杯を近くへ寄せた。
「ありがとう。今のお話だけでは、あなたを狙った理由までは分からないわ」
サラが顔を上げる。
「分からない、んですね」
「ええ。同じような例がないか、こちらでも探してみます」
ヨハンネスが頷いた。
「ゲートの異変と関係がある可能性はあります。ただ、それで全部を説明したことにはできない」
サラは杯を持った。まだ温かかった。
何かが分かると思って、ここまで来た。答えを聞けば、森で追われた時のことも、少し違って思い出せる気がしていた。
けれど、隣を見ると、姉も同じように難しい顔をしている。
サラは小さく息を吐いた。
「もし、何か分かったら、教えてください。私も、覚えていることがあったら書きます」
「お願いするわ」
アンナが新しい紙を一枚渡した。
サラはそれを畳み、自分の帳面に挟んだ。
ザインは地図を畳まず、通ってきた道の脇へ指を置く。
「理由が分からんなら、次も警戒する。それだけだ」
「うん」
エレンがサラの背を軽く叩いた。
「次は、もっと早く見つけるわよ」
「追っかけんなよ」
「分かってる。あたしも、サラから離れない」
エレナは三人を見てから、ヨハンネスへ向き直った。
「宿の宛先を置いていきます。こちらからも、次に立ち寄る町をお知らせします」
ヨハンネスはその紙を、観測の記録とは別の箱へしまった。
*
銀の手について、アンナはエレナの写しを長く見ていた。
「術式は、内側にも重なっているかもしれないわ。今は分解せず、使った時の熱や疲れ方を記録して」
エレナは頷いた。
「分かりました。シャールさんへ伝えます」
立ち上がった時、彼女の手帳から、小さな紙が落ちた。
アンナが拾い上げる。
「『指輪を』?」
「魔王殿の奥で聞いた声です。閉じた扉の前で」
ヨハンネスが顔を上げた。
「それなら、町の記録院で古い調査記録を見たことがあります。王家の印環についてだったと思う」
ザインはエレナの顔を見た。
彼女の目が、もう少し明るくなっている。
「今日は閉まってるぞ」
「明日があります」
「そうね。だから今日は、夕食にしなさい」
アンナが窓の外を示した。
いつの間にか、通りの店に灯が入っている。
エレンがすぐに立ち上がった。
「今度は、あたしが宿まで案内する。途中で止まらないように」
「まだ宿を取っていませんよ」
「じゃあ、取るところから」
ヨハンネスが何か言いかけたが、アンナに袖を引かれた。
「あなたも食事よ」
エレナとヨハンネスは同じように紙を見た。
ザインが鼻を鳴らす。
「似てるな」
「そこだけです」
エレナは写しをしまった。
*
翌日、記録院では、窓際の卓が一つ空けられていた。
アンナが話を通してくれていたらしく、管理人はエレナの名を聞くと、古い調査報告の箱を出してくれた。
「聖王様の遠征記録も、ご一緒に?」
「ええ。物資の出入りが分かるものがあれば」
ザインは椅子を引いた。
「閉館までか」
「まず、探している報告から読みます」
「まず、がついたな」
エレンは笑い、サラと隣り合って座った。
魔王殿の記録は、すぐには見つからなかった。
箱ごとに年代が違い、調査した者の名が題になっている。エレナがそれを読む間、三人は年の書かれた札を揃えた。
ザインが一枚を裏返すと、羊の数が並んでいた。
「魔王殿で羊でも飼ってたのか」
「そちらは遠征の物資台帳です」
「混じってるじゃねえか」
「別に置いてください。後で見ます」
「見るのかよ」
エレンがサラの前へ箱を寄せた。
「日付を探せばいいのね。細かいところは任せるわ」
しばらくして、サラが革表紙の薄い冊子を見つけた。
「これ、扉の絵がある」
エレナが手を止める。
頁の隅に、両開きの扉が描かれていた。上部には紋章らしいものがあり、その下の文字は水に濡れたように滲んでいる。
エレナは窓へ向きを変えた。
「……『王家の印環なくして、魔王殿深部へ入るべからず』」
「印環って、指輪?」
サラが訊いた。
「印を刻んだ指輪です。文書や物の持ち主を確かめる時に使います」
「あの扉に、見せるのか」
ザインが絵を指す。
「あるいは、触れさせるのかもしれません。この記録では、持っていなかったので戻った、と」
「王家って、どこの?」
エレンの問いに、エレナは前の頁を開いた。
「この町で管理していたもののようです。今も同じ家にあるかは、確かめないと」
管理人が卓の向こうから覗き込んだ。
「その辺りの古い品なら、聖王家の方へ尋ねるといい。こちらでは、引き継いだ後のことまで残っておらん」
エレナは礼を言い、冊子の題と文面を写した。
「扉の声と、つながったね」
サラが言った。
「ええ。何を求められていたのかは、少し分かりました」
ザインは背もたれへ身を預ける。
「今度は、指輪の場所か」
「その前に、持ち主へ事情をお話しするところからです」
「勝手に借りるなよ」
「しません」
エレンが二人を見て笑った。
脇へ寄せていた物資台帳を、エレナがもう一度開いた。
短い記録だった。出発した者の名と、支給した食糧、馬具、寝具の数。
エレナの指が、名の列で止まった。
「十二人」
「聖王十二将?」
サラが覗き込む。
「ここに名があるのは、その方々です。ただ、こちらは十三人分になっています」
エレナは食糧の欄を示し、隣の寝具の欄へ指を移した。
エレンが首を傾げる。
「誰か、ついてきたんじゃない?」
「その可能性はあります。あるいは予備を一人分用意したのかも」
「なら、それでいいだろ」
ザインが言った。
エレナは否定せず、余白を確かめる。削られた跡も、名前を書き足した形跡もなかった。
「ええ。これだけでは決められません」
手帳へ台帳の番号を書き留め、それから表紙を閉じた。
サラは箱を元へ戻した。英雄の名が並ぶ記録の下にも、食糧の受け取りを確かめた小さな印がある。
「昔の人も、旅支度してたんだね」
「そりゃ、飯も食うし寝るだろ」
ザインが答えた。
「うん。そうなんだけど」
サラは自分の帳面へ目を落とした。
やがて四人は資料を返し、記録院を後にした。
*
昼食を済ませた四人は、午後から聖王家の屋敷に向かった。
聖王家の屋敷は、廟へ続く通りに面していた。
エレナが用件を告げると、四人は小さな応接室へ通された。壁には古い風景画が掛かり、窓際の花瓶には白い花が挿してある。
やがて、落ち着いた身なりの年配の男が入ってきた。
「魔王殿について、お尋ねとのことですが」
エレナは立ち上がり、頭を下げた。
「はい。閉じた扉の前で、指輪を求める声を聞きました。こちらの記録院にも、王家の印環について記された調査報告がありまして」
許しを得てから、写しを卓へ広げる。
男は椅子へ腰を下ろし、文面を確かめた。扉の絵へ目を移した時だけ、指がわずかに止まる。
「その声は、皆様がお聞きに?」
「ああ。扉の向こうから聞こえた」
ザインが答えた。
男は頷き、写しをエレナへ返した。
「王家の指輪は、当家でお預かりしております」
エレナが姿勢を正す。
「では、その指輪で扉を開けられるのですね」
「そのために伝えられてきた品です」
「奥の構造を調べたいのですが、お借りすることは可能でしょうか。持ち出す期間や、扱いについては――」
「何のために、奥へ?」
穏やかな問いに、エレナは言葉を止めた。
「……魔王殿に残る記録や、封印の仕組みを確かめたいと考えています」
「なるほど」
男は四人の顔を見た。
「皆様は、魔王殿で何をなさっていたのですか」
「迷い込んだ子供を捜してたのよ」
エレンが答えた。
「扉を見つけたのは、その途中。子供はちゃんと連れて帰ったわ」
「それは、何よりでした」
男の表情が少し和らいだ。
「では今、あの扉を開けなければ助けられない方が、いらっしゃるわけではないのですね」
エレナは写しへ目を落とした。
「はい」
「封じられた場所には、封じられた理由がございます。調査のためというだけでは、指輪をお預けすることはできません」
サラが隣で小さく身じろぎした。
エレナはしばらく考えてから、もう一度顔を上げる。
「封印について分かる資料を、拝見することはできますか」
「ええ。廟でお見せできるものを、係の者に確かめさせましょう」
男は卓の脇から紙を取り、短く書きつけた。
「まずは、こちらからお調べになるのがよろしいかと」
差し出された紙を、エレナは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「ほかに、何か?」
男は微笑んで待っていた。
エレナは指輪のことをもう一度尋ねかけ、口を閉じた。写しを畳み、手帳へ挟む。
「……今日は、これで」
*
屋敷を出ると、エレンが背伸びをした。
「上手に帰されたわね」
「資料は見せていただけます」
「指輪は?」
「……見せていただけません」
エレンが笑い、サラも少しだけ口元を緩めた。
ザインは廟へ向かう通りを見た。
「開けた後にどうするか、考えてから来いってことだろ」
「調べなければ、分からないこともあります」
「そりゃそうだ。だが、分からねえから貸してくれじゃ、向こうも困る」
エレナは返事をせず、紹介の紙を鞄へしまった。
サラが屋敷を振り返る。
「でも、指輪がある場所は分かったね」
「ええ」
エレナは返された写しを鞄へ収めた。
紙の角が少し折れていた。指で伸ばしてから、留め具を閉じる。
「扉の前で途方に暮れるよりは、進みました」
「じゃあ、今日はそこまで」
エレンが歩き出す。
エレナは少し名残惜しそうに廟を見たが、今度は素直に頷いた。
*
夕方、四人は兄妹の家へもう一度寄った。
エレナが台帳のことを話すと、ヨハンネスは記録の番号を控えた。アンナはサラが書いた黒い魔物の覚え書きを受け取り、途中で言葉が途切れているところも、そのままでいいと言った。
帰り際、二階の窓が開いていた。
サラが立ち止まって見上げる。
「今日は、星を見るんですか」
「晴れたらね。今はまだ、暗くなるのを待っているところ」
アンナは階段を指した。
「少し見ていく?」
サラが姉を見る。エレンは頷いた。
二階には、窓へ向けた観測の筒と、時刻を測る道具が置かれていた。サラが近づくと、ヨハンネスは台の高さを変えた。
「これでいいかな。強く掴まなくて大丈夫」
覗いた先には、夕空の中で光る星が一つあった。
肉眼で見るより、ずっと明るい。
「……見えます」
サラは顔を離し、窓の外を見た。さっきまで気づかなかった光が、今はそこにあると分かる。
「毎日、これを見てるんですね」
「毎日、同じようには見えないからね」
ヨハンネスは記録帳を開いた。
「今夜の場所を、ここへ書きます。明日も見て、次の日も。エレナが持ってくる遠い土地の記録とも、比べていく」
サラはもう一度、筒を覗いた。
下の通りで、子供を呼ぶ声がした。誰かが返事をし、戸の閉まる音がする。
星は、その上で静かに光っていた。
「私も、見たことを書いておきます」
「頼みます」
ヨハンネスが答えた。
ザインは戸口で待っていた。サラが戻ると、階段の下へ顎を向ける。
「飯にするぞ」
「うん」
サラは弓の革紐を掛け直し、今度は自分から階段へ向かった。
*
翌朝、宿の食堂で、ザインは依頼板の前に立っていた。
エレンが後ろから覗く。
「仕事?」
「見りゃ分かるだろ」
「お金、まだあるでしょ」
「あるうちに稼ぐんだよ」
指が、一枚の紙で止まった。
商品輸送護衛。ランス発、ヤーマス行き。報酬、千オーラム。
ちょうど降りてきたエレナがその行き先を見た。
「ヤーマスですか」
「寄りたい場所でもあるのか」
「先日の記録と照らしたい碑文があります。急ぎではありませんが」
エレンが笑う。
「じゃあ、ちょうどいいじゃない」
サラは依頼書を読み、脇に小さく書かれた注意を指した。
「最近、盗賊が出るって」
「だから千オーラムなんだろ」
ザインが言った。
エレナは杯を卓へ置いた。
「先に詳しい話を聞きましょう。」
*
依頼主の店には、二台の荷車が用意されていた。
布、酒、乾かした薬草、日用品。商人が品目を読む間、ザインは車輪と荷を縛る縄を見た。
「四人分で千だな」
「はい。商品と荷車を、無事にヤーマスの店まで届けていただければ」
「途中の宿代は」
「こちらで。食事も、普段のものなら」
「なら、報酬は経費を引かずに四等分だ」
ザインは三人を見た。
エレンが頷き、サラも少し遅れて頷く。エレナは日数を訊き、商人の答えを手帳へ記した。
「前金は三割」
「三割ですか。できれば、到着してから――」
「道中で依頼を取り消されても、歩いた分は戻らねえ」
商人は帳簿を見た。
「二百でしたら、今すぐに」
ザインは少し考えた。
「残り八百は、店に着いた時。受け取る相手の名も書いといてくれ」
「分かりました」
商人が書付を整える間、エレンが小声で言った。
「三割じゃないじゃない」
「全部通すもんじゃねえ」
「そこは、折れるのね」
「払う気がある相手ならな」
エレナは書付を読み、三人にも見せた。
前金をザインが4等分すると、サラは自分の分を受け取り、帳面を開く。
エレンが隣から覗いた。
「もう書くの?」
「忘れないうちに」
「見習えよ」
「余計な事を言わなくていいの」
荷車の上で、縄が締まる音がした。
*
出発前、エレナは兄妹の家へ短い手紙を預けた。
次の行き先と、ランスへ戻った時に調べたいこと。アンナはそれを読み、引き出しへしまった。
「銀の手の方も、進めておくわ」
「お願いします。トーマスにも、手紙を出しました」
「今度は手紙より後に来てね」
「なるべく」
アンナが笑い、二人は別れた。
門の外では、エレンが荷車の脇に立っていた。サラは商人と歩く位置を確かめ、ザインは街道の先を見ている。
「遅かったかしら」
「まだ出てねえ」
ザインは書付を畳み、上着へしまった。
車輪が動き出す。
サラが振り返ると、丘の上に聖王廟が見えた。
「あそこ、まだ行ってないね」
「戻ったら、見ましょう」
エレナが答える。
エレナが答える。
サラは帳面を鞄へしまった。
まだ書くことは、いくらでもありそうだった。
四人を乗せた荷車が、ヤーマスへ向かって街道を進んでいく。