「結婚しないか」
雲一つない夜空を月光が照らし、月明かりが差し込む縁側で、凛とした声が透き通った。
枯山水を展望し和を重んじる木目調の床材に正座するのは虚ろ狩る剣豪、
三つ編みを頭の後ろで結んだ、紺色に近い黒の長髪。
その長髪の上で一対に並ぶ、大きな狐耳。
深紅色に重い意思が宿る、濃く朱い瞳。
人類の英雄と持て囃される彼女の婚姻の願いが届けられた男の反応はまさに混乱。その一言であった。
一瞬耳を疑い。
雅の変わらない、僅かに朱に染まる表情筋を見て口をつぐみ。
眉間に皺を寄せると、咀嚼するように重い溜め息を吐く。
「順序を飛ばしすぎだろ……」
ようやく口にできた言葉は、彼の心境をそのまま吐き出したものだった。
★★★★★★
男の名前は、
雅と彼の関係性を一言で片付けるなら、仕事の上司と部下である。
対ホロウ特別行動部第六課。
雅を長と為した、人類の脅威であるホロウを排除するための遊撃部隊。それが雅と要が席を連ねる組織であった。
そして、それだけである。決して、二人が恋仲だったり、或いは古きよき慣習で契ったりしているわけではない。少なくとも、要にとっては。
「……確認しとくんだが、俺たち付き合ってたりしないよな……?」
「……?そうだな。契るのはこれからだろう」
不思議そうに首肯する雅に、要は天を見上げて顔を覆った。
男女の交際を肯定しないということはつまり、そういった時期無しの0日婚というわけである。意味が分からない。要は益々混乱に陥った。
何よりも要が混乱する理由の大半を占める、目の前にいる彼女の婚姻宣言が本気であるという点が、一番頭を悩ませていた。
星見雅という人間は浮世離れした口調と変化の薄い表情筋に加え、類い稀なる戦功からクールでミステリアス、仕事のできる組織人といった印象を受け、実際に大衆にはそう思われているのだが、その本性はこの通り狐の耳をした猪である。
頭はお世話にも長を預かるものとは言えず。
嫌いなことからは簡単に逃げだす足の速さを発揮し。
初対面の相手に殴り愛いを仕掛ける非常識人で。
これと意思に定めたことなら搦め手だって使う、超が付く頑固者なのだ。融通が効かないわけではない。むしろ効く方であるのが、今回の事件の厄介さを物語っていた。
要に発したプロポーズも、順序を数段すっ飛ばして相手の反応を想像していないだけで、雅なりの考えがあるのだと要自身も長い付き合いで理解していた。理解してしまっていた。
故に要は、その結論に至った理由を聞くことにした。
「一先ず、いきなりプロポーズしてきた理由を聞かせてくれ」
返答を先延ばしするのはビビっていたりへたれているからではない。訳も効かずYesorNOの判断を行う方が、要からすれば誠実に欠ける認識であった。
「好きだから。では駄目なのか」
「結婚はそんな軽いものじゃないくらい分かってるだろ。お前が俺と一緒にいる。いや、俺じゃないといけない理由が知りたいんだよ」
好きだから一緒にいたい。それ自体は間違いではないだろう。しかし、雅はすでに成人した女性で、数個上の要もいい年した大人である。感情で夢見るためには少しばかり年を食い過ぎていて、もう一度手にするには失った存在が大きすぎた。
「俺も雅の事は好きだ。人として。女性としてな。だが愛しているかと言われたら……まぁ、違う」
要は星見雅という女性を好いている。それは紛れもない本音だった。
負けず嫌いなところも。
眼を輝かせてメロンに舌鼓をうつ表情も。
足りない部分を誰かに預けれる精神性も。
失ってもなお、見えない誰かのために立ち上がれる姿も。
だが、それだけなのだ。
好いた者に向けるべき執着といった感情が、要には欠けていた。
「良い悪いの話じゃない。相互理解と妥協の話だ……俺はお前ほど雅のことを大切にしてやれない」
柊要を構成する要素の大部分を占めるのは、今は亡き母親の存在だった。
天才。
神童。
怪物。
幼い要を見た皆はそう嘯いた。人でありながら人の枠から逸脱した彼を、母親だけが恐れず、贔屓せず、時には手を上げる喧嘩を持って親愛を注いだのである。
母親の死はとっくに受け入れている。それでも、彼にとっての無二は母であり、そこに誰かの存在が並ぶことはないのだろうと悟っていた。
例えば雅を受け入れたとして、何かしらの理由で彼女を失うことがあっても、要が失意に沈むことはないだろう。それがどれだけ酷なことか要はよく理解していて、想像できてしまう自分が嫌いだった。
結婚し、家庭を持ち、喜怒哀楽の一端を共有し。けれど、一方だけが思慕を偏らせる状況が健全であるわけがない。そしてそんな日常を良しとしようとも、雅に押しつけようとも思わなかった。
「お前の気持ちだけで作る関係が長続きするわけないだろう。俺の方が先に折れる」
雅の好意を軽んじてるわけでもない。甘く見ているわけでもない。ただ、一方的な想いは澱みのように沈殿し、精神を苛む。
幼少より願った対等である存在を、一番信じていないのは要自身なのだ。
「だから教えてくれ。お前じゃなくていい俺に、俺じゃないと駄目で……寄りかかっていい理由をよ」
母と並ぶような存在が欲しいのではない。対等でなくとも受け入れられるような、負担を押しつけても大丈夫だと安心でき、信頼を預けたいと思えるに値する理由が欲しかった。
「要でなければいけない理由など、数えきれないほどあるのだがな」
そう言って雅は小さな唇を柔らかく薄く伸ばした。そして、遠いどこかを見るように帳を照らす満月に眼を向ける。
「……お前はたまに、溜め息を吐くだろう」
輝く月に向かって返答を求めない独白を続ける。
「とても小さく、薄く、見ても分からないような溜め息だ。それでいて、諦めたように冷たい何かが入り交じっている。
何を諦めたのか。何がお前を冷ましてしまったのか。何が要に、諦観を受容させたのか。
足りない頭で考える内に、気付けばその溜め息を吐かせたくないと思うようになっていた」
雅の眼に映るのは眩しいくらいの満月ではなく。
犬や猫に逃げられ。
事件が起こる直前に顔をしかめ。
見えず、聞こえない何かに手を引かれて。
持つものが故の苦労を強いられる要の姿。
ただ生まれもった才能と言えば聞こえはいい。しかしその実態は、普通から遠ざかるを得ない奇々怪々を招き、生き物の根源的恐怖を無理矢理呼び覚ます、一人の人間が持つには過ぎた代物だった。
常軌を逸した生物的強度は人として生きるために縛りを課し、要は死ぬその時まで全力を解放する爽快感を知らずに過ごすのだろう。
天からの贈り物というには暴力的で融通の効かないそれを、私利私欲を満たすために使わない彼を雅は心の底から尊敬している。
悪に墜落しこの世に理不尽と混沌を撒き散らした方が簡単にも関わらず、理由と立場があれば人のために行使するのを躊躇わない善性を愛している。
あぁそうだとも。星見雅は柊要を愛しているのだ。
「愛しているからこそ、お前が顔を歪めると私もささくれだち、どうにかできないかと考えてしまう。要の側にいて、溜め息を吐く暇がないほどに私という情報で押し潰したいと願ってしまう。
要がこぼす溜め息にすらも、私が関与したいんだ」
人が人である限り、要の悩みを解決することは出来ないだろう。そうであるならば、悩みにだって雅自身の存在を押しつけたい。
人の好い彼はそれだけで、温もりのある諦観に変わるだろうから。
「要じゃないといけない理由はきっとないのだと思う。ただ、愛した人に笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。そして、お前をそうさせるのは私でありたくて、誰にも譲りたくない」
順番は逆なのだ。星見雅が好いた男がたまたま柊要という男で。たまたま、生きるのに苦慮に苦慮を重ねる人間だったのだ。
どこを好きになったかなど、墨で起こして額縁に飾ってやってもいい。子供のころから夢に見る、壁一面をコレクションで埋め尽くした部屋の、一番目立つ場所に置くのだって躊躇いやしない。
「結婚しないか、要」
雅の顔が彼に向き直り、その表情が月光に照らされて露になる。
普段の仏頂面からは想像できないほど柔らかく、たおやかな微笑みを浮かべ、慈愛を持って要を見つめていた。
「対等であることも。等価であることも出来やしないだろう。それでも、要が愛したいと願っていることを信じている。お前が私に対して葛藤を抱く度に、大切にされていると証明しよう」
決意表明というには柔らかい声で。
言葉にするには些か過分な口説き文句で。
けれど、今の雅が口にできる精一杯の告白。
「だから、私と幸せになってくれないか」
子供を諭すような声色が溶けて、小さな風が枯山水を横切る。冷えた夜に吹き込むそれはどうしてか幾分暖かいものだった。
空間を包む静寂が居座り、諦めたような要の溜め息で霧散する。
「……条件がある」
雅の耳がぴくりと反応する。いつかの過去を焼くような既視感を覚えたからだ。
「………………嫁に来てくれ」
──だからこそ、既視感を裏切った言葉に雅は眼を見開いた。
「俺が入る墓はもう決まってる。母さんを一人にはできないからな。結婚するなら、骨まで一緒に埋まってくれ」
ほとんど異形となって息耐えた母親が残したものなど欠片もありはしない。しかし、要が永く眠るなら柊を刻んだ墓標以外あり得なかった。何よりも、自己満足でいいから母に繋げたものがあるのだと口にしたかった。
震えそうになる唇と上ずりそうな喉を必死に抑えて、雅はどこまでも傲慢で身勝手な願いを噛みしめながら首肯する。
「それでいいのなら、喜んで頷こう。死ぬまで。死んだあともずっと一緒だ」
無理だというなら諦めるつもりだった。
どこかで弱腰な自分がいるのも自覚していた。
けれど、あぁどうして。こんなにも嬉しいことを言うのだろう。そんなことを言われてしまったら、どう証明すればいいか分からないではないか。
息を吸えば喉が震えて、熱い何かが胸の奥から込み上げてくる。
枯れると分かっていた花が、息を吹き返したような気分だった。
今にも泣きそうな顔で手を組む彼女に、要はバツが悪そうな表情をしながらもそっと寄り添う。
「雅」
不慣れさを隠せない様子で要が両腕を伸ばせば、雅はすとんと胸の中に収まる。そして、彼女からも背中に腕を回すと強く、強く抱擁を返した。
月に照らされる僅かな光源の中で。