鍛錬を終えたあとも、俺は先ほどの動作を考えていた。
狙いと実際の動きの間に生じる、わずかなズレ。
気づけば修正できる。
だが、気づくまでに時間がかかれば、その間に状況は変わってしまう。
ならば、もっと早く気づけるようになればいい。
単純な話に思える。
しかし、実際に何をすればいいのかは分からなかった。
身体を鍛えれば、動きは速くなる。
技を繰り返せば、動作の精度も上がる。
それでも、認識や判断そのものを変えるには、別の工夫が必要なのではないか。
俺はダブルを具現化した。
目の前に立つ分身に、腕を上げ、拳を握るよう指示する。
動作そのものは難しくない。
だが、俺自身の身体も同時に動かそうとすると、意識を向ける先が増える。
分身の腕を動かす。
本体の足を踏み出す。
それぞれの動きを確認し、必要に応じて修正する。
一つひとつの動作に問題がなくても、複数を同時に扱えば、注意を配る余裕は減っていく。
鍛錬を重ねれば改善するだろう。ダブルを使いこなすためには、避けて通れない課題でもある。
だが、今考えているのは、それとは少し違う。
そもそも、動作を認識し、判断するための余裕を増やすことはできないのか。
俺は分身を消した。
念能力は、必ずしも外へ何かを具現化するだけのものではない。
自分の身体に働きかける形も考えられる。
腕の力を増せば、より強い打撃を放てるかもしれない。
脚の機能を強化すれば、踏み込みや足捌きを鋭くできるかもしれない。
では、頭の働きを強化した場合はどうなるのか。
目に入った動きを、より細かく捉えられるのか。
複数の情報を整理し、次に取るべき行動を選ぶまでの時間を短縮できるのか。
あるいは、身体を動かすための指示を、より正確に組み立てられるのか。
どれも可能性の段階にすぎない。
頭を強化すると言っても、視力が上がるとは限らない。聞こえる音が増えるわけでも、未来が見えるわけでもない。
強化する機能と、それによって得られる効果は分けて考える必要があった。
俺は腕を組み、考え込んだ。
もし、目に入った情報を処理する働きが強化されるなら。
相手の肩が動き始めたこと。
踏み込む足の位置が変わったこと。
攻撃に移る直前の、ほんのわずかな身体の変化。
そうした情報を、今より細かく捉えられるかもしれない。
同じ一秒でも、その間に起きた変化をより細かく認識できるのなら、相手の動きを追う精度も変わるはずだ。
ただし、見えたものを正しく解釈できるかどうかは別の問題だった。
経験がなければ、変化の意味を判断できない。
知識がなければ、選択肢を思いつけない。
そして、正しい判断ができても、身体が動かなければ意味がない。
頭だけを強化すれば、すべてが解決するわけではなかった。
それでも、認識と判断は、ほかの機能を活かすための土台になり得る。
相手の動きを捉えられなければ、どれほど速く動けても対応は遅れる。
正しい判断ができなければ、どれほど強い攻撃も有効な場面で使えない。
何をすべきか分かっていても、身体が追いつかなければ、その判断は結果につながらない。
認識、判断、動作。
それぞれがつながっている。
俺はゆっくりと拳を握った。
まずは、そのつながりのどこに手を加えるべきなのかを見極める必要がある。
頭の働きを強化することに意味があるのか。
それとも、身体へ指示を伝える働きや、実際に動くための機能を優先すべきなのか。
答えを出すには、まだ早い。
ただ、ようやく考えるべき方向が見えてきた。
ダブルを捨てるかどうか。
それだけを考えていた頃とは、少し違う。
何を残すかではなく、何を強化すれば、俺自身が今より強くなれるのか。
その問いに向き合う段階に来ていた。
俺はもう一度、構えを取った。
次の鍛錬では、動作の速さだけでなく、動き始める前に何を認識し、どのように判断しているのかも確かめてみよう。
まだ能力を変える必要はない。
まずは、自分が何をしているのかを知らなければならなかった。