ダブルを発動させたまま、俺は分身を眺めていた。
自分と同じ顔。
自分と同じ身体。
戦闘能力として考えれば、悪くない。
攻撃の手数を増やし、相手の意識を分散させ、本体とは別の方向から攻める。一人では作れない隙を生み出せることは、これまでの検証でも分かっている。
それなのに、こいつを見ていると、時々、別のことを考えてしまう。
――あのとき、もし。
思い浮かぶのは、天空闘技場でヒソカと初めて対面したときのことだった。
二百階に到達したばかりの頃。
俺はまだ、念の存在すら知らなかった。
ヒソカが近づいてきたとき、最初に感じたのは違和感だった。
何かがおかしい。
そう思った瞬間、身体が強張った。
呼吸が浅くなる。
心臓が嫌な音を立てている。
目の前にいる男は、ただ立っているだけだった。
それなのに、目を離せない。
いや、正確には、目を離すことすら怖かった。
視線を逸らした瞬間に何かをされる。
根拠などない。ただ、そう感じた。
ヒソカの周囲には、何かがあった。
目には見えない。
触れられたわけでもない。
それなのに、そいつがこちらへ向けられていることだけは、嫌というほど分かった。
逃げろ。
頭のどこかで、そんな声がしていた。
近づくな。関わるな。今すぐ、この場から離れろ。
だが、身体は思うように動かなかった。
足に力が入らない。
拳を握ろうとしても、指先がうまく動かない。
目の前の相手に対して、何かをしなければならないという考えすら、まともに浮かばなかった。
勝てるかどうか以前の問題だった。
戦うという選択肢そのものが、頭の中から消えていく。
目の前にいるのは、自分とは違う生き物なのではないか。
そんな考えが浮かぶほど、圧倒的な何かを感じていた。
それでも、ヒソカは何もしていない。
こちらを見ているだけだ。
なのに、怖い。
どうしようもなく、怖かった。
俺は強くなるために天空闘技場へ来たはずだった。
自分の実力を試し、上を目指すために。
けれど、そのときの俺は、そんな目的さえ忘れかけていた。
ただ、この男に近づきたくない。
関わりたくない。
できることなら、今すぐ消えてほしい。
そう願うばかりだった。
やがて試合が始まった。
何かしなければならない。
そう思ったことは覚えている。
だが、何をすればいいのか分からなかった。
相手の動きを見る。
攻撃を考える。
身体を動かす。
普段なら当たり前にできるはずのことが、ひどく遠いものに感じられた。
頭では戦わなければならないと分かっている。
それなのに、身体は恐怖に縛られたままだった。
拳を出そうとしても、踏み込もうとしても、考えがまとまる前に躊躇が生まれる。
何をすればいいのか。
どうすれば、この男に対抗できるのか。
考えようとするほど、恐怖が思考を押し流していく。
まともに攻撃を組み立てることさえできなかった。
試合をしていたというより、ただ、目の前の恐怖に呑み込まれまいと必死だった。
それでも、何かをしなければならない。
何もできないまま終わるわけにはいかない。
そんな焦りだけがあった。
だが、結果は変わらなかった。
俺は、ヒソカに圧倒された。
試合が終わったあとも、何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、あの男を前にしたときの恐怖と、自分が何もできなかったという事実だけが残った。
その後、俺は念という力の存在を知った。
あのときヒソカの周囲に感じたものが何だったのか、ようやく理解できた。
だが、正体が分かったところで、恐怖が消えたわけではない。
むしろ、知れば知るほど、あのときの自分がどれほど無力だったのかを思い知らされた。
俺が感じたものは、気のせいでも、単なる気迫でもなかった。
念による威圧。
自分が知らない力を、ヒソカは当たり前のように扱っていた。
そして、俺はそれに抗うことすらできなかった。
ヒソカが本気で俺を殺そうとしていたら、どうなっていただろう。
考えるまでもない。
俺は死んでいたかもしれない。
いや、今の知識を踏まえれば、もっと正確に理解できる。
俺が生きているのは、あいつに殺されずに済むだけの実力があったからではない。
ヒソカが、俺を殺さなかったからだ。
原作の知識が戻った今、その理由も分かっている。
あいつは俺に、成長の可能性を見いだしていた。
今すぐ倒すべき相手ではなく、将来強くなるかもしれない存在。
青い果実。
だから、あのとき俺は生かされた。
そう考えれば、ヒソカの行動には筋が通る。
だが、納得できることと、受け入れられることは違った。
俺は自分の力で生き残ったのではない。
相手が、将来の俺に期待したから生きている。
あのとき、俺がどれほど恐怖していたかなど、ヒソカにとっては大した意味もなかったのだろう。
あいつが見ていたのは、今の俺ではなく、これから強くなるかもしれない俺だった。
それが、妙に腹立たしかった。
そして、恐ろしかった。
期待されている。
そう聞けば、悪い気分ではないのかもしれない。
だが、相手はヒソカだ。
あいつが期待する成長の先に何があるのか、俺は知っている。
強くなれば、いずれ再び戦うことになる。
そのとき、期待に応えられるだけの実力がなければ。
あいつが俺に興味を失ったとき、次はどうなるのだろう。
そんな考えが、頭から離れなかった。
俺は分身に視線を戻した。
これまで、ヒソカに勝つ方法を考えてきた。
どれだけ鍛えれば届くのか。
ダブルをどう使えば、攻撃の手数を増やせるのか。
本体と分身で連携し、相手の意識を分散させるにはどうすればいいのか。
どれも、間違った考えではない。
ヒソカに勝つためには、今より強くならなければならない。
そのために能力を鍛え、戦い方を工夫することには意味がある。
だが、それだけだったのだろうか。
俺は、分身を見つめた。
こいつがいれば、一人で戦わずに済む。
二つの身体で攻撃できる。
別々の方向から相手を追い詰められる。
そして、危険な場所に、俺ではない誰かを立たせることもできる。
分身を囮にして、相手の攻撃を誘う。
その隙に、本体が攻める。
戦術として考えれば、何もおかしなことはない。
だが、俺はそこで考えるのを止められなかった。
もし、ヒソカと戦うことになったら。
俺は、こいつを前に出すのではないか。
自分が攻撃される前に、分身を差し出すのではないか。
それが合理的だから、と説明することはできる。
実際、分身を危険にさらすことで本体を守れるなら、それはダブルの利点だ。
けれど、本当にそれだけなのか。
あのとき、俺は何もできなかった。
相手の力も、攻撃の仕組みも、自分がどこまで抵抗できるのかさえ分からなかった。
ただ、目の前に立たれただけで、戦う意思さえ押し潰されそうになった。
あの恐怖を、俺は忘れていない。
いや、忘れられるはずがない。
だからこそ、強くなろうと思った。
二度と、あんな思いをしたくない。
自分の命を、相手の気まぐれに委ねたくない。
いつかヒソカに勝つ。
そう考えて、鍛えてきた。
だが、ダブルを完成させたときのことを思い返すと、別の可能性が浮かんでくる。
自分と同じ姿をした分身が現れたとき、俺は確かに喜んだ。
攻撃の手数が増える。
戦い方の幅が広がる。
自分が考え、積み重ねてきたものが形になった。
あの達成感まで、偽物だったことにはしたくない。
ダブルは、俺が努力して完成させた能力だ。
今も、戦闘で役に立つ可能性を持っている。
だから、こいつを作った理由が恐怖だけだったとは思わない。
ただ、恐怖が理由の一つではなかったとも言い切れなかった。
俺は分身の前に立った。
同じ顔が、こちらを見ている。
当たり前だ。
俺が作ったのだから。
それでも、こいつを見ていると、どこか安心する自分がいる。
自分一人ではない。
自分の代わりに動ける身体がある。
自分の代わりに攻撃を受けられる存在がいる。
そのことに、俺は救われていたのかもしれない。
ダブルは、俺が強くなるための手段だ。
それは間違いない。
だが同時に、俺が再び無力になることを避けるための、心の拠り所にもなっていたのではないか。
自分の身体を危険にさらさずに済むかもしれない。
あのときのように、恐怖で身動きが取れなくなることを避けられるかもしれない。
そんな期待が、どこかにあったのではないか。
俺はダブルを解除した。
目の前から、もう一人の俺が消える。
そこには、いつもどおりの鍛錬場があるだけだった。
ダブルがなければ、俺は一人で戦うことになる。
自分の身体で攻撃し、自分の身体で防ぎ、自分の身体で相手の攻撃を受ける。
当たり前のことだ。
だが、その当たり前を、俺は本当に受け入れているのだろうか。
ヒソカに勝ちたい。
殺されずに済むだけではなく、勝ちたいと思っている。
それも本当だ。
けれど、戦うことを考えるたび、俺はあのときの恐怖を思い出す。
目の前に立たれただけで、身体が動かなくなった自分。
念の存在すら知らず、何に脅かされているのかも分からなかった自分。
そして、自分の成長を待っている、あの男。
ヒソカの期待に応えたいのか。
それとも、あいつの期待など関係なく、自分自身の力で勝ちたいのか。
今の俺には、まだ答えを出せない。
ただ、ダブルがあれば大丈夫だと考えるだけでは、何も解決しない。
こいつが俺の代わりに危険を引き受けてくれるとしても、最後に決断するのは俺自身だ。
どれだけ能力を工夫しても、どれだけ戦術を練っても、危険そのものを消すことはできない。
それを認めるのは、少し怖かった。
俺はゆっくりと息を吐いた。
恐怖は、まだそこにある。
消えてはいない。
ダブルを完成させたことも、ヒソカを恐れていることも、どちらも俺自身の一部だ。
ならば、無理にどちらかを否定する必要はない。
今すぐ答えを出す必要もない。
ただ、自分が何を恐れ、何を求めているのか。
それを知らないまま、能力だけを鍛え続けるわけにはいかなかった。
俺は、もう一度拳を握った。
まだ、ヒソカと戦う覚悟ができたわけではない。
恐怖を乗り越えたわけでもない。
それでも、目をそらさずに考えることならできる。
俺は一人で立っていた。
今は、それだけでよかった。