全身に軋むような痛みが、ニーナの動きを止める。
剄脈の疲労、そして筋力の疲労が、限界を越えたようでニーナはその場へと倒れた。
幸い地面は、塗装された固いアスファルトではなく、青々とした柔らかい芝生の上だったため体を打ち付けることはなかった。
首筋を柔らかな芝生が撫で、頬に冷ややかな風が流れる感触に、ニーナの火照る身体を冷ますことはできたが、内なる心が抱える想いを晴らすことはできなかった。
「馬鹿か、私は……」
自身の不甲斐なさから思わずニーナは、そう漏らしてしまった。
幾ら鍛錬に励んでも、幾らこの体を苛め抜いても、この感情が消えないことがないことをわかっていた。
そして―――この感情が褒められるべきものでないことも。
嫉妬。
それはレイフォンの時の物よりも大きく、抑えきれないものであった。
「……戻るか。 いつまでもここにいるわけにもいかないからな」
ニーナがどうしようが、この悩みが無くなることはない。
だが、それでも身体を動かしたおかげなのか、少しだけだが気持ちが楽になった気がした。
夜風に当たったこともあり、頭が少し冷えたニーナは両手に握る錬金鋼を基礎状態へと戻し、立ちあがろうとしたその時。
「あれ? 終わりですか?」
ふと、ニーナの耳に飛び込んできた声。
その聞き覚えのある声に、ニーナの中に抑えていた何かが膨らんでいくのを感じた。
「……何の用だ? セヴァドス・ルッケンス」
振り返ると、そこにはにこやかな笑みを浮かべたセヴァドスがいた。
屋敷の塀の上に座るような形で見下ろすように見ていたセヴァドスに、ニーナは思わず舌打ちをうつ。
女性が見れば誰もが一度は振り向きそうな端麗な顔つきをしているが、今のニーナには、その顔は見るだけで気分を害してしまうものだった。
思わず、両手の錬金鋼を握る力が強くなるニーナに対し、セヴァドスは世間話するような気軽さで口を開く。
「すみません、別に用はありませんでした。 窓の外から貴方が鍛錬するのが見えましたので、えっと……確かニーナ・アントークさん? でよろしかったですよね」
「ああ、そうだ」
「名前が当たっていてよかったです。 アントークさん、鍛錬はもう終わりですか?」
セヴァドスの発言に、ニーナは自分自身の鍛錬の様子を見られていたことを知り、同時にこの姿を一番見たくない奴に見られていたことに思わず顔を顰める。
ニーナは、嫉妬の件を抜きにしてもセヴァドスのことを好きにはなれなかった。
人当たりの良いその姿は人から見れば好印象にも見えるが、ニーナにはどこか軽薄に見えた。
同隊のシャーニッドも普段は軽薄そのものだが、いざという時は行動を起こすということはニーナは知っていた。
だが、目の前の男は自分が死のうとも、仲間が死のうとも笑っていそうな身勝手さを感じた。
何より、ただ強い者と戦いたいというセヴァドスの姿勢と、弱いものを守るというニーナの信念が重なることはないだろうと思っていた。
確かに腕を磨き、強きものと戦いたいという思いは、武芸者ならば少なからず誰もが持っていることだろう。
だが、セヴァドスのソレは間違いなく度が過ぎていた。
強さを求めるためならば、間違いなく大切な何を斬り捨てるような―――
思考が段々逸れていることに気付いたニーナは、足早にこの場から去ろうと屋敷の方へと歩き出す。
「ああ。 で、用がないなら私はもう行くぞ」
「まあ、待ってください。 折角ですから聞いておきたいのですが、レイフォンが何処にいるか知りませんか? 少し鍛錬に付き合ってもらいたいのですけど」
ニーナの反応に特に気にした様子のないセヴァドスは、レイフォンの所在を尋ねてくる。
しかし、さっきまで鍛錬をしていたニーナがそのことを知るはずもなかった。
「さあな、屋敷にいるんじゃないのか」
「いえ、妹さんやシャーニッドさんに聞いたら、外に出ていると聞きましたので、念のため貴女にも確認させていただきました」
「念のため、か」
特に意識はしていないのだろう。
だがセヴァドスの口から発する一つ一つの言葉が、ニーナの感情を苛立たせていく。
―――感情が抑えられないほどに。
「ふむ、ということは無駄足でしたか。 兄さんも何故かいませんし、とりあえずまた妹さんか、第五小隊の念威繰者さんに念威を飛ばして捜索を頼んでみましょうか」
要件は終わりだと、セヴァドスはニーナの方を見ることもなく振り返るとそのまま屋敷へと歩いていく。
その後ろ姿を見てニーナはもう少し風に当たっていようと後ろに振り替えると、後方の足音が突然途切れた。
「そう言えば、その鍛錬はあまり効果がないと思いますよ」
その言葉がニーナに向けて発せられたことに、ニーナが気付いたのは一瞬遅れてのことである。
ニーナが言葉を返すことなく、セヴァドスは口を開く。
「そんな状態で無理に訓練を続けたりすると剄脈を傷ついたり、最悪壊してしまうこともあります。 そうなってしまえば、成長の伸び代を無くすことになりますから、余程の被虐性質な持ち主以外は辞めるべきかと。 あと一応、武芸者として万全の状態に体を整えておくことは大事ですよ。 ここは安全な都市内ではなく、常に危険が伴う都市外なのですから。 まあ、レイフォンと私がいれば、あまり意味はありませんけど」
セヴァドスの言ったことは至って正論であった。
まさに、武芸者としての経験を踏まえた貴重な意見と言えるだろう。
だが、今のニーナにはその言葉の意味が届かなかった。
「……それは私達が無力、と言いたいのか?」
「ふむ――まあ、そういうことになりますか。 実際に汚染獣と戦う際は邪魔になると思いますし、レイフォンの思考を鈍らせてしまったら、前みたいなことになりかねませんからね」
「おい」
「はい?」
こちらに振り返ったセヴァドスに、ニーナは復元した鉄鞭を構えると、全身に剄を流し込む。
「鍛錬相手ならここにいるぞ」
絶対的な強者に、自分の意志を突き立てたくなった。
・ ・ ・ ・ ・
怒気が混ざる気合と共に一閃された鉄鞭を、セヴァドスはギリギリのところで躱しながら思う。
―――飽きてきましたね、と。
ニーナとの模擬戦が始まって約五分が経過した。
その短い間に、セヴァドスは完全にやる気を無くしていた。
元々、セヴァドスはニーナと戦う気なんてなかったし、乗り気でもなかった。
ニーナの実力は、小隊対抗戦で見ていて理解しており、圧倒的に鍛錬が足らない上に、経験不足。
同じ条件であるクラスメートのナルキと戦っている場合、指導という新しい経験を味わうことができ、楽しむことができたが、目の前のニーナに対してその楽しみは一切ない。
無論自他ともに認める戦闘好きのセヴァドスは、差し出されたものを食べないことはないが、それでも口の中に押し込まれたような現状の場合は、流石に不快な感情を芽生えてしまう。
普段なら一撃で潰すのだが、目の前のニーナはどうやらレイフォンのお気に入りらしい。
誤って潰してしまえば、レイフォンの怒りを買うことになるだろう。
そこから戦闘に発展するのならセヴァドスも大歓迎だが、逆に二度と戦わないと言われれば、ツェルニの唯一の楽しみを奪われることになる。
故にセヴァドスはある程度、時間を潰すかのように戦っていた。
ニーナの振り下ろしによる一撃をひらりと後方へと飛んで回避すると、セヴァドスは追撃の薙ぎ払いによる一撃を片手で受け止めると、そのまま力任せに後方に投げ飛ばす。
「ぐっ、舐めるなっ!」
「別に舐めていませんよっと」
空中で態勢を立て直すニーナに向けて、セヴァドスは手をかざして衝剄を放つ。
点ではなく面で放った衝剄は、そのままニーナを捉え、そして後方へと大きく吹き飛ばした。
「ぐぁっ」
「む、今のでは流石に意識は刈り取れませんでしたか」
地面に叩きつけられたニーナにはまだ意識があった。
加減の具合が解らないゆえの面倒臭さに、セヴァドスはため息をついてしまう。
確かに小隊員で、しかも小隊長を務めるだけのこともあり、一般的なツェルニの学生武芸者よりは頑丈だった。
それは、ナルキ達クラスメートと比べても差は明らかだろう。
―――だが、それは両者を比べてみての話である。
セヴァドスからしてみれば、小隊員も普通の武芸科の生徒もさほど大して変わらない。
しかし、小隊員の中でも極めつけに頑強なニーナの加減は、セヴァドスにとって難しかった。
首元に手刀を入れて、首を刎ねてしまったら問題だろうし、鳩尾を撃ち抜いて貫通でもしてしまえば、レイフォンに怒られてしまうだろう。
「そう考えるとレイフォンの手加減は、一種の高等技術のようですね」
瞬殺よりも武芸を見せることが好まれる闇試合で戦っていたおかげか、レイフォンは絶妙なまでに手加減が上手かった。
実際ガハルドも、その力の差に気づくことなく、瞬殺されたことがある。
そんな微調整ができるレイフォンに対し、セヴァドスは、武芸の試合において瞬殺というのが一番多かった。
元々の気質のせいか、力を吐き出すことが楽しく思えるセヴァドスに、手加減という概念は存在しない。
武芸が盛んなグレンダンの医療技術は、他の都市以上に発達していたため、セヴァドスも安心して殴り飛ばすことができた。
そうなると、ツェルニは窮屈な場所だとセヴァドスは改めて思う。
全力で戦うこともできず、自由に動くこともできない。
退屈だからと生まれ故郷を捨てたリンテンスの気持ちが解らないでもない。
「ふう……そろそろやめませんか? これ以上の手合わせは無意味ですよ」
グレンダンを懐かしく思い出していたセヴァドスの眼の前で、再びニーナが立ちあがった。
「はぁはぁはぁ……うるさい、黙れ」
この試合の結果は火を見るよりも明らかである。
往生際が悪いと言えばそうなるが――ある意味感心するほどの執念を燃やすニーナは、右足を踏み出して、一歩一歩こちらに向かって歩き出す。
その動きに当初の早さはなく、押せば倒れるほどの弱々しいものであった。
それでも戦おうとするニーナの姿を大勢の人が見れば、感動を覚えるかもしれない。
まるで強大な悪に立ち向かう正義の味方だと。
「ふむ、案外ハマり役ですね」
「はぁっ!!」
そんな想像に思わず納得していたセヴァドスの眼の前に鉄鞭が走る。
しかし、その一撃にもセヴァドスは避けることなく、その場で立ち――そしてニーナを再び後方に吹き飛ばした。
「がは……」
金剛剄。
天剣の一人、リヴァースの奥義であり、彼が最強の盾と言われる所以となった剄技である。
活剄による肉体強化、衝剄による反射を行うことで相手の攻撃を跳ね返す、一見簡易な剄技であるが、この技を強大な汚染獣に対して行えるのは、リヴァース本人くらいだろう。
剄の流れを読み取ることができる才を持つために、他人の剄技を模倣することができるレイフォンには劣るが、セヴァドスもルッケンスの鬼才と呼ばれた武芸者である。
兄サヴァリス以上の器用さで、弓技同様に取得することに成功した。
その際生じたリヴァースの彼女とされる天剣の一人、カウンティアとの戦闘はセヴァドスにとって忘れることができない大切な思い出である。
「しかし、この金剛剄はこの状況下ならかなり使えますね」
基本的には金剛剄は跳ね返しである。
つまり、セヴァドス自身が加減するよりも、ニーナ本人の一撃を返した方が安全だろう。
何よりも手加減など余計なことを考えなくて良いのが最高である。
自分の一撃を返されたことに、痛み以上に驚きが隠せなかったニーナは片膝をついたままセヴァドスの方を見ていた。
「さあ、どんどん来てください。 私はここから動きませんから」
「ぐっ、舐めるなよ」
呼吸を荒くしながらも、今だ眼光の鋭さを失っていないニーナは、再びセヴァドスに向かって駆け出すと、右手の鉄鞭を振り下ろした。
その光景をセヴァドスはただ見ているだけで、ニーナの体を後方へと吹き飛ばして地面の上を転がした。
確かに金剛剄のおかげで、手加減という問題は解決したが、同時にこのままではニーナの相手をする時間が延長したことに気づき、セヴァドスは思わず溜め息をつく。
ニーナはセヴァドスに対して何か思うことがあったかもしれないが、セヴァドスからすると、いつまでも付き合っていられないというのが本音であった。
「ふぅ、まだやるつもりですか? もう理解をされたと思うのですが」
「黙っていろっ、さぁ行くぞっ!!」
再び立ち上がり、何度目になるか分からないニーナの突撃に対し、セヴァドスは先程と同様に迎撃の構えを取ることもなく、その場で相手の動きを待つ。
ニーナの力では、金剛剄を抜くことはできない。
ならば、セヴァドスはニーナが飽きるまで、金剛剄で吹き飛ばし続ければいい。
振り下ろされた一撃は、再びニーナに向かって跳ね返される。
「がはっ」
「……む」
後方へと弾かれるように飛ばされたニーナに対し、セヴァドスは自身の足元に視線を落とす。
セヴァドスにダメージ等はなかったものの、立っていたその場から数センチだが後方に押されていた。
その事実に、セヴァドスは思わずニーナの方へと視線を向ける。
ニーナの力は既に見切っているつもりだった。
故にこの場から動くことなく、迎撃することが可能だったはずなのだが、実際のところセヴァドスの方も少しだけだが後方へと押しやられてしまった。
その事実と共に、セヴァドスの頭には幾つかの疑問が浮かんでいた。
まず一つ目だが、何故誰もこの場に来ないということである。
確かにこの場にはセヴァドスとニーナの二人しかいない。
だが、近くには小隊員が控えている屋敷があり、念威操者達の念威が周囲には張り巡らされていたはずだ。
二つ目は、目の前のニーナのことである。
よく考えれば可笑しなことだが、ニーナはセヴァドスに絡んでくる前から疲労困憊状態であった。
その状態で、幾ら相手の攻撃を跳ね返す金剛剄を使っているとはいえ、何度も自分自身の一撃を受け続けているニーナが立ち上がることは常識的に不可能と言える。
そして三つ目、これこそが現在セヴァドスが最も知りたい疑問である。
「ふむ、ニーナさん、貴女の後ろにいる山羊は何ですか?」
セヴァドスの視線の先には、ニーナの背に宙に浮くように現れた黄金色の山羊がいた。
正確には山羊のカタチをしたナニカ。
生物よりも、力と意思の固まりという表現がしっくりとくるだろう。
そして、その山羊の姿に気づいたその時から、目の前のニーナの剄量が桁違いに高まっていることにも気づいた。
「それと、これは悪意、でしょうか?」
ニーナからセヴァドスに向けられていたのは嫉妬であったが、目の前の山羊のナニカからは明らかにセヴァドスに対する憎悪の感情が向けられていた。
今までの人生において、山羊にそこまで恨まれるようなことをした覚えはなかったセヴァドスだが、向こうはそんなことはお構いなしのようである。
まるで稲妻のようだ、地面を打ち砕いたニーナの一撃を見て、セヴァドスは後方に飛びながら考える。
明らかに今の動きはツェルニの学生武芸者ができるようなものではない見事なものだった。
「ふむ、どういう仕組かはわかりませんが、どうやら貴女の剄技ではなさそうですね」
目の前にいるニーナが完全に意識を失っているのを見て判断した。
確かに似たような技を天剣の一人、カルヴァーンが使ってはいたが、明らかにあの山羊は剄技などではなく別物のような気がした。
そもそも力らしきものはセヴァドスには感じられるが、それが剄によるものなのかまでは判断がつかない。
レイフォンでもいれば、何かわかったかもしれませんね、とセヴァドスは流れるような動きで、ニーナの猛攻を回避しながら観察をし続ける。
動きそのものはニーナ本人のものであるが、出力と破壊力に関しては並みの武芸者の一撃を遥かに越えている。
流石のセヴァドスでも直撃を喰らってしまえば、掠り傷では済まないだろう。
突然起こった危機的状況に、セヴァドスは、歓喜の声を上げる。
「ははは、とりあえずこっちも仕掛けても問題ありませんよね?」
振り下ろされた鉄鞭を右拳で弾き飛ばすと、崩れた体勢のニーナに対し、セヴァドスは左拳を振り抜いた。
振り抜いた拳は、確実にニーナの横腹を捉え、剄技ではなかったが、セヴァドスの必殺の拳は骨を砕き容易にその身体を吹き飛ばす。
手応えはあった。
だが、ニーナは立つだろう、とセヴァドスは確信していた。
「いや、正確には立ったという表現もおかしいですね」
目の前のニーナに、既に意識はない。
まるで操り人形のように後方の山羊に操られているだけだ。
『怨敵ヲ討ツ。 覚悟セヨ』
ニーナの口から発せられた言葉は、ニーナのものではなかった。
怨霊、亡霊、そんな言葉がセヴァドスの頭を駆け巡り、そして一つの答えを導き出した。
「なるほど、これが『廃貴族』なのですね」
グレンダンを出るときにアルシェイラ陛下から、セヴァドスはある話を聞かされていた。
滅びた都市の電子精霊が暴走した存在『廃貴族』という存在を。
それはグレンダンが追い求めていたものの一つで、遂に手に入れることができなかった禁忌の力。
力、そのものである。
「しかし、そうなるとやはり疑問が残りますね」
迫り来る廃貴族の一撃をかわしながら、セヴァドスは考える。
何故、私は廃貴族に恨まれているのだろうか?、と。
セヴァドスは一つの疑問を抱えたまま、戦場を舞い続ける。
廃都市の夜は、まだまだ明けそうにもなかった。