Infinite Stratos:Archetype border 作:ぱらさいと
昼休みの喧噪はいつも遠く感じる。
にわか秩序が失われ混沌へ変じる。
机を寄せる音がして、廊下からは別の組の生徒が顔を出す。弁当箱を片づける者と、まだ最後の一口を食べている者が同じ机を囲み、次の授業の小テストについて声を上げていた。黒板脇に掲示された時間割表が揺れた。誰かが窓を開けたのだろう。初秋の風はまだまだ夏の暑さを残していた。
杜王町にある公立中学校。その二年生の教室で、篠ノ之箒は弁当箱の蓋を閉じた。
箒は教室の最奥にいる。大窓が並ぶ側の、最後列。そこが彼女の席だった。
背が高いのだ。端数は記憶していないが、とうに百六十センチを超えている。十四歳である。運動部所属の男子生徒と肩を並べられる。席順は公正なくじ引きによる。だが、箒が前列席にいると黒板が遮られるという者もいる。だから担任はあらかじめ箒に、後列でも構わないかと尋ねた。
もちろん異論はない。箒自身、正直言って席順などどうでもよい。
担任の中年男性にとっても授業態度に問題がない生徒で、しかも座学の成績はどの科目でも優秀なので、ある種の信頼から「大丈夫だろう」と考えていた。
誰にとっても納得出来る措置であった。
はじめこそ無関心のため受け入れていた。だがいまや箒にとって、お気に入りの席となって久しい。
背後を人が通らない。窓を少し開ければ風が入る。教室の前の方で何か騒ぎが起きても、わざわざ近づかなければ巻き込まれずに済む。黒板を見るのにも不自由はなく、授業中に集中を切らす理由は少なかった。
窓の外には、校庭の隅にある鉄棒と、その向こうの住宅地が見えた。遠くの屋根の間を、路線バスがゆっくりと進んでいく。
空になった弁当箱を手ぬぐいで包む。そのまま鞄へ仕舞った。
放課後は剣道部の道場で鍛錬をする。下校時刻まで励む予定である。
ただ剣道部員であるから、という惰性ではない。
先週の試合結果を周囲は「勝利」だと讃えている。箒は異なる考えだった。
油断があった。瞬時の判断を誤ったのである。
相手の動きに合わせて手元を上げてしまった箇所があった。結果として打たれはしなかったが、あのまま踏み込まれていれば、どうなったか。勝ったからよいと片づけるつもりはなかった。
机の上へ教科書を出しながら、その場面を思い返していたときだった。
「篠ノ乃さん」
声がした。
箒は顔を上げた。
机の通路側に、黒髪の少女が立っていた。
毛先の不揃いなざんぎり頭である。耳の周りも襟足も無造作で、寝癖なのか、もともとそういう形なのか判断に迷う毛束が、一つだけ外へ跳ねていた。
その下にあるのは、黒い目だった。
女子の制服を着た、同じ学年の生徒。けれど、こちらを見る表情にも、軽く首を傾ける仕草にも、妙に少年めいたところがある。
先月、この組へ転校してきた生徒だった。
「……グラハム、だったか」
「うん。ミーシャ・グラハム」
少女は頷いた。
初日に担任へ紹介されたとき、アメリカから来たと聞いた。箒も、そのことは覚えている。教室へ入ってきた転校生は、黒板に自分の名前を書き、少しも言い淀まずに挨拶した。
日本語には、外国語を話しているという印象がほとんどなかった。
しかも黒髪黒目で、箸も使い慣れている。
担任から日本の生活に慣れたかと尋ねられた際にも、彼女は「近所の飲食店をまだ全部回っていないので何とも言えない」と答えていた。教室では笑いが起きたが、本人は何がおかしいのか分からないような顔をしていた。
その後も、休み時間には何人かの生徒に囲まれていたはずである。
箒とは、まだ挨拶らしい挨拶もしていなかった。
「何か用か」
「今、少し話してもいいかな」
「見れば分かるだろう。食事は済んだ」
「そうだね。食べている途中だったら、あとにしようと思っていたんだ」
さらりと返され、箒は一度、言葉を切った。
遠慮して立っている様子はない。かといって、勝手に机へ手をついたり、隣の椅子を引き寄せたりすることもなかった。ミーシャは通路を塞がない位置へ半歩寄り、箒を見た。
「日曜日の試合、見ていたよ。勝利おめでとう」
「……見に来ていたのか?」
「うん。県大会」
箒の目が、僅かに細くなった。
あの会場で、同級生を見掛けた覚えはなかった。もっとも、観客席を端から端まで確かめたわけではない。自分の試合と、その前後に行われる試合を見ることに気を取られていた。
「剣道をやっているのか」
「いや。一度も」
「では、誰かの応援か」
「君の試合を見に行ったんだ」
答えは早かった。
箒は、相手の顔を見直した。
「私の?」
「教室で話を聞いたからね。篠ノ乃さんが大会に出るんだって。せっかく同じ組になったんだから、見てみようと思った」
「……物好きだな」
「そうかな」
「話したこともない相手の試合を、わざわざ見に来るとはな」
「名前だけ知っているより、何をしている人なのか分かるだろう?」
ミーシャは、ごく自然に言った。
箒は返事をせず、教科書の端へ指を置いた。
剣道をしていると知って、強いのかと尋ねてくる者はいる。試合の結果を聞き、勝ったと答えれば、それで話が終わることも多い。箒にしても、そのくらいのやり取りで十分だった。
まだ顔と名前を覚えたばかりの転校生が、会場まで来ていたというのは、少し勝手が違った。
「それで、何か用というのは」
「試合のことで、少し聞きたいことがあって」
「……何だ」
箒は椅子へ座り直した。
相手が構えを整える前に打ち込んだことか。途中で一度、間合いを切ったことか。あるいは、審判が旗を上げたときのことかもしれない。
剣道を知らない者が、どこを見ていたのか。それは少し気になった。
「試合が終わった直後、かなり汗をかいていたね」
箒の指が止まった。
「……は?」
「呼吸も浅くて、少し乱れていたように見えた。短い試合だったのに、消耗が大きいんじゃないかと思って」
窓の外で、運動靴が地面を擦る音がした。
箒はしばらく、目の前の少女を見ていた。
「それを言うために来たのか?」
「うん。気になったから」
「私は勝ったんだぞ」
「見ていたよ。だから、おめでとうと言った」
「勝った相手に、体力がないと言いたいわけか」
「勝ったことと、身体の使い方に改善の余地があるかどうかは別だろう?」
ミーシャの声は、変わらなかった。
少し高めの、しかし女の子らしく甘く響かせるところのない声。言葉の終わりを持ち上げる癖もなく、何かを一緒に確かめるような調子で続ける。
「攻撃は速かった。相手が動く前に入っていたし、退かれても、すぐ次が出ていたね」
「……それで?」
「あまり無駄に動いているようにも見えなかった。それなのに、終わってから呼吸が戻るまで、少し時間が掛かっていた」
箒は腕を組んだ。
昨日、防具を外す前に、何度か息を整えたことは覚えている。面の中へ熱が籠もっていた。汗もかいた。だが、試合をすれば、そのくらいのことはある。
「防具を着けて動けば、汗くらいかく」
「そうだね」
「会場も暑かった」
「それもあると思う」
「なら、何が問題なんだ」
「問題があると決まったわけじゃない。ただ、短い時間で強く動くことに比べて、動き続ける力や、回復する方に差があるのかなと思ったんだ」
「私は毎日稽古をしている」
「それは、見ていて分かったよ」
「分かったようなことを言うな。お前は剣道をやったことがないのだろう」
「うん。技のよしあしを、細かく説明できるわけじゃない。でも、君があの動きをできるようになるまで、何度も練習したんだろうということは分かる」
箒は口を閉じた。
褒められたのか、言いくるめられているのか、判断に迷った。
ミーシャは、箒の腕から顔へ視線を戻した。
「だから、稽古が足りないと言いたいわけじゃないんだ。瞬発力に対して、持久力が足りていない可能性はあると思った。でも、試合を見ただけで原因を決めることはできない」
「……余計なお世話だ」
箒は短く言った。
近くの席で笑っていた男子が、こちらを見た。
箒が目を向けると、男子はすぐ友人との話へ戻った。ミーシャは、そのやり取りを横目で見ただけだった。
「そうかもしれないね」
「分かっているなら、もういいだろう」
「でも、君はもっと強くなりたいんじゃないかな」
箒は、教科書へ落としかけた視線を戻した。
「……何?」
「昨日、勝ったあとも、ほかの試合を見ていただろう。帰る前にも、自分の手元を動かして、何か確かめていた」
ミーシャが、空いている自分の手を少し動かした。
竹刀を握る形にはなっていない。手首の向きも違った。それでも、何を見られていたのかは分かった。
昨日の自分は、確かにそうしていた。
「一つ勝てば、それでいいというふうには見えなかったから」
箒は黙った。
強くなりたい。それは、わざわざ他人へ説明することでもないと思っていた。
毎日、竹刀を振る。できなかったことを繰り返し、できるようになれば、次に足りないところが見つかる。そのために稽古をしている。
昨日の勝利で、終わったものなどなかった。
「……だから、何だというんだ」
「稽古以外にも、確かめられることがあると思う」
「例えば?」
「食事」
箒は眉を寄せた。
「食事?」
「普段、何を食べている?」
唐突だった。
試合を見たという話から、呼吸の話になり、今度は食べたものを聞かれている。相手がどこへ話を持っていこうとしているのか、箒にはまだ分からなかった。
「……普通の食事だ」
「普通、というのは?」
「ご飯と味噌汁。野菜も食べるし、納豆や豆腐もある。休日は魚を焼くこともある」
「朝も?」
「そうだ」
「夕食も、似たようなものかな」
「大体はな」
答えてから、なぜ自分が昼休みの教室で食卓の説明をしているのかと思った。
ミーシャは、先ほど箒がしまった弁当箱の方へ目を向けた。
「肉は?」
「たまにだ」
「嫌いなの?」
「食べられないわけではない」
「なるほど」
「何が、なるほどだ」
「食べたくなくて避けているのか、ほかのもので足りると思っているのかで、話が違うからね」
箒は、組んでいた腕へ少し力を込めた。
「私の食事に文句があるのか」
「文句はないよ。君が何を食べるかは、君が決めることだ」
「だったら、なぜ聞く」
「一日に必要なエネルギーやたんぱく質が摂れているか、確かめたことはある?」
箒は、すぐには答えなかった。
朝食を抜いたことはない。夕食も食べている。稽古へ出る前に腹が空けば、何か口にすることもある。食べるのを我慢しているわけではなかった。
「……空腹にはなっていない」
「空腹かどうかだけでは、必要な栄養が足りているかは分からない。食事の量や内容、稽古の強度も関係する」
「不足があれば腹が減るだろう」
「生理現象の一つとしてはそうだね。けれど一日に必要な栄養量――カロリーや脂質だけじゃなく、タンパク質やカルシウムの目安は個々人によって違ってくるものだ。これは主観じゃなくって栄養学の一般論としてだよ」
「お前は、いちいち回りくどいな」
「物事には順序があるからね。急いては事をし損じる、だったかな」
ミーシャは、あっさりと言った。
箒は机の端を見た。
食事のことを、まともに疑った覚えはなかった。三食をよく食べ、丹念に稽古をして、休む。翌日になればまた動ける。それで不足しているなどと考える理由がなかった。
だが、必要な量を確かめたことがあるかと聞かれれば、ない。
そう答えるのも、何となく癪だった。
「……お前は医者か何かなのか?」
「違うよ」
ミーシャの表情は微動だにしない。黒猫のような雰囲気のまま「医者じゃなくって管理栄養士じゃないかな」と生真面目に訂正した。
「なら、なぜそんなことを気にする」
「食べることが好きだから」
そこで初めて、ミーシャの表情が少し変わった。
口元が緩み、黒い目が、先ほどよりはっきり箒を捉える。
「栄養や調理について、本を読んでいるんだ。フランス料理やイタリア料理の技法も、実際に作りながら覚えているところだよ」
「自分で作るのか」
「うん。食べたいものを、毎回どこかへ食べに行くわけにもいかないだろう?」
「……それは、そうだが」
「本に書いてあると美味しそうでも、作ってみると、あまり上手くいかないものもある。だから、どこが違ったのか調べる。火の入れ方なのか、材料なのか、それとも順番なのか」
言葉が、僅かに速くなった。
「同じ材料でも、切り方や温度で、全然違うものになるんだ。何となく失敗した、で終わらせると、次に作っても同じことになるからね」
「料理の本を読むのと、私の体力に何の関係がある」
「食事は身体を作るものだから。原因が食事だと決まったわけじゃない。でも、改善できるところがあるかもしれない」
箒は、相手の髪へ目を留めた。
細かいところまで気になる性分らしい。その割に、自分の髪の長さが不揃いなのは気にならないのだろうか。
「……何か、付いてる?」
「いや」
箒は視線を戻した。
「お前は、そんなふうに誰にでも食事の話をするのか」
「聞かれたら話すよ」
「私は聞いていないぞ」
「そうだったね」
ミーシャは一度、口を閉じた。
初めて、少し考えるような間ができた。
「君の試合を見て、気になった。それで、君に聞いてみたくなったんだ」
「それだけか」
「うん。直接聞かなければ、ずっと想像しているだけになるから」
箒は、返す言葉を探した。
面白がられているだけなら軽くあしらえば済む。手慣れたものだ。勝利を過度に褒めそやされるのも同じく。適当に礼を言って、それで終わり。
ミーシャは未経験のアプローチで仕掛けてくる。鬱陶しいほど褒め続けるわけでも、横柄に己の言い分を認めろと迫るわけでもない。
ただ、聞いたことへの返事を待っている。
その落ち着きが、かえって箒を苛立たせた。
どう応じればよいか分からない。
「私の食事が間違っていると、決めつけるなよ」
「決めつけてはいないよ」
「そうとしか聞こえんと言っている」
「確認して、検証する価値はあると思う。変える必要があるかはまた別だ」
ミーシャは、少し首を傾けた。
「今度の日曜日、昼食を食べに行かないか?」
箒は相手を見た。
「……なぜそうなる」
「料理を食べながら、普段の食事について話したい。イタリア料理の店を知っているんだ。食材の使い方や、食事の組み立てについても説明できると思う」
「食事のために、わざわざ出掛けるのか?」
「食事の話をするなら、実際に食べるのが分かりやすいだろう?」
「学校でも食べているだろうが」
「君はもう、弁当箱をしまったからね」
箒は思わず、鞄へ目を向けた。
ミーシャが小さく笑った。
「それに、君が普段あまり食べないものも、選べると思う」
「肉を食わせるつもりか」
「何が出るかは、その日の料理にもよるよ。魚を使う料理もある。嫌いなものを無理に食べてほしいわけじゃない」
「……イタリア料理には暗い」
「だから、一緒に行こうと言っているんだ」
箒は、窓の外へ目を向けた。
校庭では、男子がボールを追って走っていた。追いついた一人が蹴り返し、別の一人が声を上げる。
日曜日なら、午前中の稽古がある。その後は、特に決まった用事はなかった。
だからといって、転校してきたばかりの相手と、食事へ出掛ける理由になるだろうか。
箒はミーシャへ顔を戻した。
「私の食生活に問題があるという話ではなかったのか」
「問題があるかどうか、一緒に確認したいんだ。何もなければそれでいい。見直せる部分があるなら、知っておいて損はないだろう?」
「店で一度食べれば、分かるものなのか」
「一度で全部は分からないよ。普段どう食べているか、どういうものを増やせそうか。その話をするきっかけにはなると思う」
箒は、椅子の背へ身体を預けた。
その動きを見ても、ミーシャは話を重ねなかった。
窓から入ってきた風が、少女の短い髪を動かした。長さの違う毛先がばらばらに揺れ、本人は目の近くへ落ちた一本だけを指で払った。
こちらが答えるまで、待つつもりらしい。
箒は、昨日の試合のことを考えた。
勝ったあと、防具を外し、息を整える。次の試合を見る。自分の動きを思い返す。
その中に、食事について考える時間はなかった。
もっと速く動くため、もっと確実に打つために、稽古ならいくらでもできると思っていた。それ以外のところを確かめろと言われると、途端に面倒になる。
それは少し、都合がよすぎるのかもしれなかった。
「……店の名前は?」
「トラットリア・トラサルディー。杜王町では、そこそこ知られている店だよ」
待っていた返事が来ても、ミーシャは大げさに喜ばなかった。
箒は店の名前を、頭の中でもう一度繰り返した。
「トラ……何だと?」
「トラットリア・トラサルディー」
「……長いな」
「書いておこうか」
「ああ」
ミーシャは、自分の席へ戻った。
箒はその背中を見送り、机の上の教科書へ視線を落とした。開くつもりで出したのに、表紙すらめくっていなかった。
ほどなく戻ってきたミーシャが、小さな紙を差し出した。
店名と、簡単な道順が書かれている。
字は読みやすかった。少なくとも、自分の名前を黒板へ書いたときと同じくらい、ためらいのない線だった。
「日曜日、時間はある?」
「午前中は稽古だ」
「じゃあ、そのあと。昼頃に店の前で待ち合わせはどうかな」
「……分かった。行くだけなら構わない」
口にすると、思っていたより簡単な返事だった。
ミーシャが頷いた。
「よかった」
「ただし、私の体力に問題があると決まったわけではないからな」
「もちろん。実際に確かめるまでは、仮説の一つだ」
「勝手に、何かを決めておくなよ」
「君の分の料理も?」
「それもだ!」
声が少し大きくなった。
前の席の女子が振り返る。箒は口を閉じ、ミーシャは気にした様子もなく笑った。
「分かった。食べるものは、行ってから決めよう」
予鈴が鳴った。
廊下にいた生徒たちが戻り始め、窓際まで、何人もの足音と話し声が近づいてきた。寄せられていた机が元の位置へ戻される。
「それじゃあ、またあとで」
「……同じ教室にいるだろう」
「そうだね」
ミーシャは頷き、自分の席へ戻っていった。
箒は手元の紙を見た。
トラットリア・トラサルディー。
その下に、小さく、日曜日の昼、と書かれている。
何を食べるのかも、何が分かるのかも、まだ決まっていない。昨日の自分に、どこか改善できるところがあったのかどうかも。
箒は紙を教科書へ挟みかけて、考え直した。
日曜日に、教科書を持ち歩くことはない。
鞄から手帳を出し、予定の欄へ店名を書き写す。道順の紙は、そのページに挟んだ。
顔を上げると、教室の向こうで、ミーシャが次の授業の準備をしていた。
髪の一房は、まだ外へ跳ねていた。
箒はほんの少しだけ眉を緩め、それから、今度こそ教科書を開いた。