Infinite Stratos:Archetype border 作:ぱらさいと
腰を下ろすと予想外に座面が深かい。
箒は足元を見てから車内を見回した。東北新幹線のグリーン車である。通路の両側に二席ずつあり、肘掛けも広い。鞄を置いても膝の前に余裕が残った。
前列の窓側にミーシャ、その隣にハヤカワ。後列の窓側が箒で、通路を挟まないすぐ隣にヒメノが座った。柔らかい照明と落ち着いた色の内装が、切符を取るまでの騒動を忘れそうなほど、車内を静かに感じさせた。
「……グリーン車とはな」
箒はまだ肘掛けを眺めていた。
「普通車の指定席で十分だったと思うが」
「僕もそう思うよ。東京までの移動だからね」
前の背もたれからミーシャが顔を出した。
「今回は警察側の都合です」
隣のハヤカワが顔を向けた。
「座席の手配も費用の負担も、こちらで行っています。気にする必要はありません」
「ですが、四人分となると、結構な金額でしょう」
「必要経費です」
説明はそれで終わった。ハヤカワは通路へ目を戻した。
確かに周りの席との距離がある。座る側には快適な余裕だが、護衛にとってはそれ以外の意味もあるらしい。彼は出入口を見ていた。
「いいじゃん、グリーン車」
ヒメノは早速、背もたれへ体を預けていた。座り心地を確かめるのがいちばん早かった。
「座り心地いいし、足も伸ばせるし。せっかくの旅行なんだから楽しまないと」
「姫野先輩」
「ん?」
「我々は仕事です」
「分かってるって。別に寝るとは言ってないでしょ」
「そういう問題ではありません」
「アキくんって、本当に真面目だよねえ」
先輩は笑って箒へ顔を向けた。
「箒ちゃんも、せっかくだからくつろいでね。あたしたちがいるからって、ずっと緊張する必要ないんだし」
「……ありがとうございます」
箒は軽く頭を下げた。すぐに気を抜けるわけではない。それでも昨日までより先へ進んでいる。予約画面の前ではなく、今は列車の席に座っていた。
「箒、荷物は大丈夫?」
ミーシャがもう一度振り返った。
「ああ。足元に置いた。お前の荷物は?」
「上の棚だよ。必要なものは手元に残してある」
「そうか」
「お腹が空いたら、さっきの酢漬けもあるからね」
「……お前は本当に食べ物のことばかりだな」
「食事は大事だよ」
答えはいつもどおりだった。ヒメノが笑い、箒は呆れた顔を作った。
「ははっ。ミーシャちゃんらしいねえ」
「そうですか?」
「うん。まだ会って一時間も経ってないけど、何となく分かってきた気がする」
「それは光栄です」
ミーシャは笑って前を向いた。
通路にはまだ乗客が続いている。小さなキャリーケースを引く会社員が席番号を確かめ、老夫婦が上の棚を見て相談していた。家族連れは窓側へ誰が座るかを決めているらしい。
上等な座席でも、発車前には皆忙しかった。荷物を載せる音と背もたれを動かす音がした。
その列の途中で一人の男が止まった。
「この切符、ここで合っていますか?」
英語だった。
金髪の三十代ほどの男が切符を出していた。薄いジャケットを着て、大きなボストンバッグを持っている。後ろには赤茶色の髪の女と眼鏡の中年男、短い黒髪の女がいた。
ハヤカワは券面を見た。数字なら読める。何を尋ねられているかが分からなかった。
「……すみません。英語はちょっと」
男は少しゆっくり言い直した。笑顔は変わらない。ハヤカワは聞き取ろうとしたが、速さだけの問題でもなかった。
「姫野先輩」
「ごめん。あたしも無理」
ヒメノも立ちかけていた。続きを聞くと、そのまま笑顔で止まった。
「何か、困ってるのは分かるんだけど」
「俺も同じです」
箒は耳を澄ませた。知っている単語を一つ拾ううちに次へ進んでしまう。教科書なら戻って読めるのに、目の前の男を何度も止めるわけにもいかなかった。
窓側からミーシャが顔を出した。
「切符を見せてもらえますか?」
同じ英語で返した途端に、男の顔が明るくなった。ミーシャは座席番号と車両の表示を比べ、少し前の席を指した。
「九号車で合っています。もう少し前ですよ」
「よかった。違う車両なら、荷物を持って戻らなければと思って」
男が大きく息を吐いた。ミーシャが日本語で説明すると、ハヤカワもようやく頷けた。
「ありがとうございます」
「いえ。この方たち、仙台を観光していたそうです」
これで席へ向かうのだろうと思ったが、男はまだ話しかけていた。地元の人かと尋ねられたミーシャが、今は近くに住んでいると答える。
四人の表情が揃って変わった。昨日の夕食について、聞いてほしい話があったらしい。
「牛タンを食べたんだ。あんなに厚いのに、硬くない」
指を開いて肉の厚さを示す。ミーシャはその間隔を見て笑った。
「焼き目がついていて、中は噛むと汁が出る。薄くするより、ずっといいね」
赤茶色の髪の女も頷き、今度はレモンの話をした。初めに搾りすぎた。途中から少しずつ掛けたら、同じ皿でも違って感じたという。
塩と味噌のどちらを食べたかミーシャが聞いた。それぞれが答え始め、男は自分の皿だけでなく隣の料理まで褒める。四人がまた笑った。
「……何の話だ?」
後ろの席で箒が前を窺った。
「食べ物っぽいよね」
ヒメノも同じものを見ていた。
「さっきから、噛む真似してるし」
ハヤカワにも楽しそうなのは分かった。ただし、何を言っているかが分からない。護衛する相手のすぐ隣で会話が続いているのに、内容だけが遠かった。
眼鏡の男はテールスープを気に入ったらしい。想像より澄んでいて、飲めばきちんと肉の味がした。麦飯のことも話す。初めは米の種類が違うと思っていたという。
「組み合わせた人はすごいと思うよ」
「おかわりもしたんですか?」
男は少し照れて頷いた。話すうちにもう一度食べたくなったと言い、隣から朝食を済ませたばかりだと指摘された。
いつの間にか後ろへ乗客が溜まっていた。ハヤカワが通路を見た。
「グラハムさん。少し、通路を空けてもらえますか」
「ああ、すみません」
ミーシャが訳すと四人は慌てて鞄を寄せた。通る人へ会釈し、声も少し落とす。そこで話が終わるわけではなかった。
黒髪の女が好きだったのは付け合わせの漬物だった。南蛮味噌が思ったより辛かったという。それを聞いて、ミーシャは今朝持ってきた酢漬けの話をした。
キュウリと大根、ラディッシュにパセリ。名前が出るたび女が頷いた。家庭で作るものなら赤茶色の髪の女にも話があるらしく、今度は歯応えや香りを比べ始めた。
「……まだ続くんですね」
ヒメノは笑いをこらえた。
箒はミーシャを見た。返す言葉が速い。声の響きも少し違う。普段は外国から来たことを忘れそうになるほど自然な日本語を話す。そのため、知らない言葉で暮らしていた時間まで意識しなくなっていた。
笑うときに目を細める顔は同じだった。何を言っていても、食べ物の話ならあの顔になるのだろう。
話題は東京の食事へ移った。寿司と天ぷら、蕎麦にとんかつ。候補を一つ挙げるたびに賛成と別の希望が出た。
「全部行くには何日必要かな」
「買い物の時間を減らすのは駄目よ」
ミーシャもその言い合いに笑った。男が腕時計を見て、ようやく発車時刻を思い出した。
「助かったよ。よい旅行を」
男が軽く両腕を広げた。ミーシャは顔を見て頷き、席を立った。
肩へ腕を回し、背を軽く叩く。短い挨拶だった。ほかの三人とも同じように挨拶すると、四人は鞄を持って奥の席へ向かった。
「……仲良くなるの、早すぎない?」
ハヤカワはミーシャが座るまで見ていた。ヒメノの呟きには返事をしなかった。
「……ふう」
ミーシャは小さく息をついた。
「楽しい人たちだったね」
返事がなかった。隣へ向くと、ハヤカワが何とも言いにくそうな顔をしていた。
「……ハヤカワさん?」
「グラハムさん」
「はい」
「何を話していたんですか」
「仙台観光の話ですよ」
「観光、ですか」
「ええ。特に牛タンが気に入ったそうで」
「……牛タン?」
「はい」
ミーシャは頷いた。疑問になるところがあるとは思っていなかったらしい。
「牛タンも、麦飯も、スープも。あの組み合わせを考えた人は天才だとまで言っていました」
「……それだけですか?」
「あとは東京で何を食べるか、です。滞在日数を増やさないと食べきれないと」
内容が分かるとハヤカワの肩が下がった。それだけの話が、あれほど長く続いていたのか。安心したあとに少し別の驚きが残った。
「ねえねえ、ミーシャちゃん」
今度は後ろからヒメノが呼んだ。
「はい?」
「さっきの人たち、何かすごい盛り上がってたよね」
「ええ。仙台の料理を気に入ってくれたみたいで」
「へえ。牛タンって、そんなに美味しかったんだ?」
「相当気に入ったみたいですよ。特に最初の男性は焼き加減について熱心に説明していました」
「ははっ。よっぽど美味しかったんだねえ」
「そうですね」
「で、最後のハグは?」
「別れの挨拶です」
「全員と?」
「はい」
ミーシャは首を傾げた。尋ねられた理由を、まだ掴んでいないようだった。
「何か問題がありましたか?」
「いやいや、問題ってほどじゃないけど」
ヒメノは笑いながら説明した。
「日本だと、初対面の人とああいうことってあんまりしないじゃん?」
「ああ、そうですね」
そこでようやくミーシャが頷いた。
「僕はアメリカ人なので、あまり違和感がなくて」
「そっか。そうだったね」
「もちろん人によりますけどね。握手だけで済ませる人もいますし、親しい友人でもハグを好まない人はいます」
「へえ」
「今回は向こうから挨拶してくれたので、僕も応じただけですよ」
「なるほどねえ」
ヒメノも頷いた。先ほどの挨拶が、少し分かりやすくなったらしい。
「文化の違いってやつだね」
「そうかもしれません」
ハヤカワは二人の話が切れるのを待って口を開いた。
「グラハムさん」
「はい」
「できれば、今後は知らない人と急に身体を接触させるのは控えてください」
「……ああ、護衛の都合ですね」
「そうです。相手を疑っているわけではありませんが、こちらとしては安全を確認できない行動を避けていただきたいので」
「分かりました。次から気を付けます」
ミーシャはすぐに頷いた。ハヤカワもそれを確かめた。どちらも、同じ説明を長引かせるつもりはなかった。
「お願いします」
「はい」
ヒメノが横から笑った。
「アキくん、堅いなあ」
「仕事ですから」
「そりゃそうだけどさ」
「姫野先輩も、もう少し気を付けてください」
「あたし?」
「そうです」
「何で?」
「護衛対象が突然席を立ったのに、笑っていただけでしょう」
「あー……」
今度はヒメノが目を逸らした。
「……まあ、それはそうか」
「お願いします」
「はいはい。次は気を付けます」
先輩の返事を聞いてハヤカワは息を吐いた。
箒も前の席へ顔を向けた。護衛の注意とは別に、少し尋ねたいことがあった。
「……ミーシャ」
「何?」
「お前、ずいぶん楽しそうだったな」
「うん。面白い人たちだったよ」
「そうか」
「箒も、何か話したかった?」
「いや、そういうわけではない」
箒は言葉を探した。仲間へ入れなかったと文句を言いたいのでもない。
「……ただ、お前が英語で話しているところを、あまり見たことがなかったからな」
「ああ、そうだね」
ミーシャが小さく笑った。
「普段は日本語ばかりだから」
「……そうだな」
「アメリカにいた頃は当然、英語で生活していたよ。今でも、英語の方が説明しやすいことはあるね」
「なるほど」
箒は頷いた。言われれば当然なのに、さっきまでは考えていなかった。
「……何というか」
まだうまく言えなかった。もう一度口を開く。
「少し、不思議な気分だった」
「不思議?」
「お前も、あんなふうに質問を続けることがあるのだな」
「そうかな」
「ああ」
ミーシャは少し考えた。箒にとって何が違って見えたのかを、確かめているようだった。
「でも、僕は僕だよ。使っている言葉が違うだけで」
「……それはそうだな」
箒は苦笑した。その答えには言い返せなかった。
「……ところで」
それでも確かめられそうなことが一つあった。
「お前、あの人たちとも料理の話をしていたのか?」
「うん。牛タンの話から、漬物の話になってね」
「漬物?」
「昨日僕が作った酢漬けのことも、少し話したよ」
「……そうか」
「興味を持ってくれたみたいで、嬉しかったな」
箒は少し呆れて笑った。使う言葉が変わっても、好きな話題は変わらない。
「お前はどこの国の人間が相手でも変わらんな」
「そうかな?」
「ああ。食べ物の話ばかりだ」
「大事なことだよ」
答える顔だけはいたって真面目だった。
「美味しいものを食べて、楽しく過ごせるなら、それに越したことはないからね」
「……まったく」
箒は肩を上げた。呆れたままの顔にしようとしても、笑いが残ってしまった。
「ねえ、アキくん」
ヒメノがまた前列へ声を掛けた。
「何ですか」
「今度、英語の勉強でもする?」
「……英語ですか」
「そうそう。今日みたいなこと、またあるかもしれないじゃん」
「それはそうですが」
「ミーシャちゃんに先生やってもらうとか」
「姫野先輩」
「ん?」
「十五歳の女の子に仕事のための英語を教わるつもりですか」
「別にいいじゃん。話せる人に教わるのが一番でしょ?」
「……そういう問題では」
「僕でよければ、構いませんよ」
話の途中でミーシャが引き受けた。ハヤカワが横を向く。まさか本当に話が進むと思っていなかったらしい。
「……いえ、そこまでしていただくわけには」
「気にしなくていいですよ。英会話の練習なら、僕も相手がいた方が楽しいですし」
「…………」
「ほら、アキくん」
ヒメノが嬉しそうに笑った。
「先生もこう言ってる」
「……姫野先輩」
「はいはい。無理強いはしないって」
ハヤカワは少し黙った。断る理由だけを探すのも違う気がした。
「……検討します」
返事を聞いたヒメノの顔が明るくなった。
「お、やる気じゃん」
「検討すると言っただけです」
「分かってるって」
発車を告げる放送が流れた。
ハヤカワは通路へ目を戻した。乗客の列はもう途切れていた。荷物を載せ終えた人たちも座り、話し声が少しずつ低くなる。
さっきの四人も指定席に収まっている。大きなバッグは通る邪魔になっていなかった。今のところ、気になる動きはなかった。
「……そろそろ発車ですね」
通路を見たままハヤカワが言った。
「そうみたいですね」
ミーシャが窓へ向いた。ホームを戻る人と見送りに立つ人、向かいの列車が見える。
後ろの箒も窓を見た。警戒の話ばかりなら、さっきのように笑うことはなかっただろう。ヒメノが隣にいて前にはハヤカワがいる。その席で、知らない旅人の夕食まで聞くことになった。
振り返ったミーシャへ小さく笑い返す。
車体が僅かに揺れた。ホームの柱がゆっくり後ろへ動き、間もなく駅の景色が流れ始めた。
ミーシャは頬杖をついた。ハヤカワは車内を確かめ、ヒメノは楽しそうに鼻歌を口ずさんでいる。箒は仙台の街並みを見ていた。
窓には旅行客が飲み物を出す姿も映った。今度はその顔を、牛タンの好きな旅人として覚えられそうだった。
東京までおよそ一時間半。落ち着いて座れば短いはずなのに、既にいろいろなことがあった。
「……それにしても」
不意に前から声がした。
「はい?」
ミーシャが隣へ顔を向けた。
「牛タンの話だけで、あれほど盛り上がれるものなんですね」
少し目を丸くした。それから笑い出した。そこをまだ考えていたとは思わなかった。
「美味しいものの話に、国境はありませんからね」
「……そうですか」
「ええ」
ハヤカワはそれ以上聞かなかった。後ろでヒメノの笑う声がした。
「アキくんも、今度仙台で牛タン食べようよ」
「……別に構いませんが」
「じゃ、決まりね」
「まだ何も決まっていません」
「はいはい」
箒もそのやり取りを聞いて笑った。
列車は静かに速度を上げる。乗客はそれぞれ席に落ち着き、通路に人が立つことも減っていた。護衛と旅行者という肩書きがある四人も、今は同じ列車で東京へ向かっている。
箒は鞄を足元へ寄せ直した。窓の外の景色はもう駅へ戻りそうになかった。