Infinite Stratos:Archetype border 作:ぱらさいと
日曜日の昼前、箒は店の前で手帳を開いた。
挟んでおいた紙と、目の前の看板を見比べる。トラットリア・トラサルディー。書き写した名前と同じであることを確かめてから、手帳を閉じた。
通りに面した小さな店だった。杜王町ではさほど珍しくない、白を基調とした小綺麗な一軒家である。窓越しに見える席は白いテーブルクロスが掛かり、入口脇は鉢植えが置かれている。外に料理の写真を並べた看板はなく、一見しただけでは飲食店なのか判断がつかない。言われなければ知らずに素通りしてしまうだろう。
「篠ノ乃さん」
通りの向こうから声がした。
ミーシャが、小さく手を挙げていた。
地味なグレーのTシャツに色褪せたビンテージデニム。学校で会うときとは服装が違うが、不揃いに切られた黒髪は同じだった。歩くたびに毛先が動き、黒い目がこちらを見る。
「早かったね」
「今来たところだ」
「道は分かった?」
「迷う道ではない。だからここにいる」
「確かに」
ミーシャは笑い、扉へ手を掛けた。
中から、焼けた魚の香ばしい匂いが流れてきた。続いて、油と香草の匂いがする。朝食のあとに稽古をしてきた箒は、その途端、自分が随分と空腹だったことを思い出した。
「入ろうか」
「ああ」
扉の上で、小さな鐘が鳴った。
厨房の方で食器が触れ合い、白い服の男が顔を出した。
「いらっしゃいませ、ミーシャさん!」
「こんにちは、トニオさん。今日は二人分頼むよ」
「ええ、伺っています。そちらの方が、お友達ですね?」
「そう。篠ノ乃箒。剣道をやってる」
ミーシャがこちらを示した。
箒は半歩前へ出た。
「篠ノ乃です。今日はよろしくお願いします」
「トニオ・トラサルディーです。こちらこそ、よろしくお願いします」
よく通る、明るい声だった。
トニオは二人を窓際の席へ案内した。
向かいに腰掛けたミーシャは、厨房へ目を向けていた。
教室で試合の話をしていたときより、明らかに楽しそうだった。
「よく来るのか」
「気に入ってるんだ」
「転校してきたばかりだろう」
「学校へ行くのと、ご飯を食べるのは、別の用事だからね」
「……そういうことを聞いているんじゃない」
箒が言うと、ミーシャは少し首を傾けた。
「でも、今日は初めてなんだ。誰かと一緒に来るのは」
箒は、椅子へ座り直した。
ちょうど、水の入ったグラスが運ばれてきた。箒は礼を言い、卓の上へ視線を落とした。
皿と、畳まれたナプキン。フォークとナイフ。
料理を選ぶためのものが、どこにもない。
「……献立表は、ないのか?」
「当店には、メニュー本がありません。その日の食材を見て、料理をご用意しています」
トニオが答えた。
箒はすぐにミーシャを見た。
「勝手に決めるなと言っただろう」
「二人でお昼を食べたい、と頼んだだけだよ。君の嫌いなものまでは、僕も知らないから」
「ご希望はこれから伺います」
トニオが穏やかに続けた。
「食べられないものや、苦手なものはありますか?」
「……特にはない」
「では、本日はチーズと野菜の前菜、魚料理、それから羊肉の串焼きはいかがでしょう。パンもお持ちします」
料金を聞き、箒は財布の中身を確かめた。普段の昼食よりは高いが、払える額だった。
「羊肉は、あまり食べたことがない」
「それでしたら、まず少し召し上がってみてください。どうしても苦手でしたら、別のものを考えましょう」
返事を待つ目には、押しつけるようなところがなかった。
箒は小さく頷いた。
「……それでお願いします」
「ありがとうございます。では、ご用意しますね」
トニオが厨房へ戻る。
ミーシャは水を一口飲み、グラスを置いた。
「午前中、稽古だったんだろう。お腹は空いてる?」
「ああ」
「よかった。量が多そうなら、先に言っておくといいよ」
「お前が食べる気ではないだろうな」
「食べられないなら、手伝えるけど」
返事が早かった。
箒は、少しだけ呆れた顔をした。
「まだ何も来ていないぞ」
「だから、先に言っておいたんだ」
厨房から、何かを刻む音がした。
黙っていることを気にされないのは、少し楽だった。
やがて、二枚の白い皿が運ばれてきた。
「ペコリーノと、オイル漬け野菜の盛り合わせです」
薄く切られたチーズの脇に、赤や黄色の野菜が並んでいる。表面には油が艶を作り、近づくと、ほのかな酸味のある香りがした。
「ペコリーノ?」
「羊の乳で作るチーズです。まずは、そのまま一口どうぞ。野菜と合わせても、パンに載せても楽しめますよ」
ミーシャが、すぐにフォークを手に取った。
箒もナプキンを膝へ広げ、チーズを一切れ口へ運ぶ。
思ったより、しっかりした歯応えだった。噛むと塩気が広がり、そのあとに濃い乳の風味が残る。いつも口にする薄い四角のチーズとは、随分違っていた。
少し水を飲もうとすると、向かいから声がした。
「野菜も一緒に食べてみて」
「……分かっている」
赤い野菜をフォークの先へ刺す。
舌に酸味が触れた。続いて、噛みしめた野菜から甘みが出る。口の中に残っていたチーズの味が、先ほどとは違う感じになった。
箒は、皿を見た。
「どう?」
「……悪くない」
「うん」
ミーシャはそれ以上尋ねず、自分の皿へ目を戻した。
何か詳しい感想を言わされるのかと思ったが、そうではないらしい。
箒も、もう一切れチーズを取った。今度は先に野菜を少し口へ運び、後からチーズを食べてみる。
「気に入っていただけましたか?」
トニオが尋ねた。
「ああ。……冷たいままで食べるものなんだな」
「はい。このチーズの味を、そのまま楽しんでいただきたくて。料理に使う場合は、削って加えることもあります」
「同じチーズでも、使い方が違うのか」
「ええ。種類だけでなく、料理によっても変わります」
トニオは二人の皿を確かめ、パンの籠を置いた。
ミーシャは一切れ取り、チーズを載せてから箒を見る。
「こうして食べると、また違うよ」
「お前は、いつもそんなことを考えながら食べているのか」
「最初に食べるものなら、いろいろ試したいね」
「冷めるぞ」
「今の料理は、冷たいままでいいんだろう?」
箒は口を閉じた。
ミーシャが、楽しそうに笑った。
「それで、ミーシャさん。今日は、剣道のお話もあるのでしたね」
トニオが言った。
箒のフォークが止まる。
「うん。試合を見て、少し気になったことがあってね」
「……どこまで話した」
箒は、向かいの少女を見た。
「剣道をやっている同級生と、一緒に食事をしながら話したいって。それだけだよ」
ミーシャが答える。
トニオも頷いた。
「お客様のお話は、来ていただいてから伺います。料理がお口に合うかということも、その方がよく分かりますから」
箒は、フォークを皿の脇へ置いた。
既に自分の身体について、何かを決められているわけではないらしい。
「この前の地区ブロック大会で、篠ノ乃さんは短い時間で勝ったんだ。踏み込みも速くて、相手が退いても、すぐ次が出ていた」
ミーシャは、教室で話したときと同じ調子で続けた。
「ただ、終わってから、呼吸が戻るまで少し時間が掛かっていた。瞬間的に強く動くことと、動き続ける方に、差があるのかなと思って」
「防具を着けていたし、会場も暑かったと言っただろう」
「うん。そのことも覚えてる」
「イタリアでもフェンシングが盛んですが、ユニフォーム一式を着用しての競技後は非常に熱が籠もります。通気性を考えれば日本の剣道はそれ以上に発汗するのが自然でしょう」
トニオは、箒へ顔を向けた。
「普段の稽古でも、同じようにお疲れになりますか?」
「稽古をすれば当然疲れる」
「ええ。どのような疲れ方でしょう。終わったあとどの程度の期間で疲労が回復しますか? 翌日にはキレイサッパリという方もいらっしゃいますし、数日後まで引きずる場合もあります」
いざ聞かれて見ると考えこむ。
疲労という現象をこれほど意識したことはなかった。
稽古が終われば疲れている。帰宅後もしばらく座っていたいことはある。だが、それが誰にでもある程度のことなのか、何か不足しているからなのか、比べたことがなかった。
「……次の日も、稽古はできる」
「そうですか」
「毎日、続けている。途中でやめているわけではない」
「継続することは大切ですね」
素直に返され、箒は少し肩の力を抜いた。
トニオは箒の手元へ目を落とし、声を掛けた。
「少し、手を見せていただいても?」
「手?」
「毎日、竹刀を握っておられるのでしょう」
箒が右手を軽く開くと、トニオは触れずに眺めた。掌には、稽古を重ねてきた跡がある。
「よく使っている手ですね」
「当然だ」
「私も、料理をする手を毎日使います。使い続けるためには、休ませることも、食べることも必要です」
箒は手を引いた。
「……料理と剣道は違うだろう」
「ええ。ですから、剣道の稽古については、あなたの方がお詳しい。ただ、食事についてお話しできることはあります」
トニオの声には、こちらを試すようなところがなかった。
「お食事は、ご自分で作られますか?」
「大体は」
「日頃はどのようなものを?」
「ご飯と味噌汁に、野菜。納豆や豆腐も食べる。たまに魚を焼くこともある」
ミーシャは口を挟まなかった。
箒は、それを少し意外に思った。学校では幾つも質問を重ねてきたのに、今はパンを取りながら、こちらの話を聞いている。
「肉料理は、あまり作らない。魚と豆を食べていれば、十分だと思っていた」
最後の言葉は、自分でも少し硬く聞こえた。
「魚も豆も、よい食材です」
トニオはすぐに答えた。
「大豆は近年、高たんぱく低脂質の機能食品として評価されています。とりわけ日本食は納豆、味噌、豆腐など様々な形で大豆を摂取出来る」
「では、それでよいのではないか」
「何を、どのくらい食べているかにもよりますね。名前を挙げるだけでは、一日の食事は分かりませんから」
箒は、窓際の光が落ちた皿を見た。
学校でも聞かれたことだった。
十分かと尋ねられ、空腹ではないと答えた。それで相手が納得しなかったことを、まだ少し面白くなく思っていた。
「肉を食べないことだけが、問題なのではないのか」
「それだけでは決まりません。ご飯も、野菜も、魚も、それぞれ役割があります。稽古で使う分も、成長する身体を支える分も、食事から摂ることになりますから」
トニオは、空きかけた前菜の皿へ目を向けた。
「ただ、そのお話は、もう少し食べてからにしましょう。次のお皿をご用意します」
厨房へ戻る背中を、箒は見送った。
「……お前は何も言わないんだな」
「僕が口を挟んだら、答える相手が二人になるだろう?」
「さっきは随分、よくしゃべっていたが」
「料理の話は、好きだからね」
ミーシャは、最後の野菜を口へ運んだ。
食べ終えるまで待ってから、箒は水を飲んだ。
次の皿が来たとき、香りだけで顔が上がった。
白身魚だった。
表面には焼き色がつき、皿へ流れたオリーブオイルに、細かく刻んだ香草が浮いている。付け合わせの野菜にも艶があった。
「オリーブオイルと香草で仕立てた魚料理です。熱いうちに、どうぞ」
箒はナイフとフォークを持ち直した。
身へ触れると、力を掛ける前に、白い層がほぐれた。口へ運ぶと、焼けた表面の香ばしさに続いて、柔らかな身が舌へほどける。
魚の味は、知っている。
だが、そのあとに来る香りを、何と呼べばよいのか分からなかった。
「……何を掛けているんだ?」
「オリーブオイルと香草です。レモンも、少し」
トニオが答えた。
「家では、塩を振って焼くのかい?」
ミーシャが尋ねる。
「ああ。大根おろしを添えることもある」
「それも美味しいね」
「知っているのか」
「食べたことがあるから」
当たり前のように返され、箒はもう一口食べた。
いつもの焼き魚も嫌いではない。けれど、同じように焼いた魚でも、こんなに違う味になるとは思わなかった。
「イタリア料理は、もっとチーズやトマトを使うものだと思っていた」
「そういう料理もたくさんあります」
トニオは微笑んだ。
「代表する
「……日本でも、それは同じだな」
「ええ。同じ国の料理といえど多彩なのです」
ミーシャが付け合わせを食べ、皿へ残った油をパンで少し拭った。
箒はその手元を見て、自分もやってみた。
魚と食べたときより、香りがはっきりする。パンの端まで使ってから顔を上げると、ミーシャと目が合った。
「何だ」
「いや。美味しそうに食べるなと思って」
「……普通に食べているだけだ」
「そうだね」
ミーシャは笑い、自分の皿へ戻った。
箒は窓の方を向いた。頬が少し熱い気がしたが、料理が温かかったせいだろうと思うことにした。
空になった皿が下がる。
今度は、先ほどとは違う匂いがした。焼けた脂と、炭火の香りだった。
「アッロスティチーニです。アプルッツォ州伝統の羊肉の串焼きです」
短い串が、皿へ並べられた。
小さく切った肉の端に焼き色がつき、間から肉汁が光っている。凝ったソースで覆われているわけでもなく、箒には、むしろ見慣れた串焼きに近いものに見えた。
「羊飼いたちの食文化に関わる、素朴な料理です。まずは一本、召し上がってみてください」
箒は串を取り、端の肉を噛んだ。
少し、独特な香りがした。
だが、それを気にするより先に、肉汁が口へ広がった。焼けた外側と、噛むほど味の出る内側がある。塩気が、その味を引き立てていた。
二つ目の肉へ口をつける。
飲み込んでから、串を少し持ち上げた。
「……これは、うまい」
「ありがとうございます」
トニオの顔が、明るくなった。
「苦手ではなさそうでよかった」
ミーシャも一本取り、箒と同じように食べ始めた。
「もっと、癖があるものかと思っていた」
「初めてだから?」
「ああ。食べ慣れていないものは、どうもな」
「食べてみるまで、分からないこともあるね」
ミーシャは串を置いた。
箒は、もう一本へ手を伸ばした。
「肉を食べないと、体力がつかないと言われるのかと思っていた」
「そういう話をしに来たつもりはないよ」
「だが、お前は肉を食べるかと聞いた」
「ほかに何を食べているのかも聞いただろう?」
箒は返事をせず、羊肉を噛んだ。
確かに、肉の話だけをされたわけではなかった。自分が、そこへ一番引っ掛かっていたのかもしれない。
「魚と豆で十分だと思っていた、と言ったね」
ミーシャが続けた。
「それは、誰かに教わったことなの?」
「……いや」
「調べた?」
「そこまではしていない」
「そうか」
それだけだった。
箒は、少し眉を寄せた。
「何か言いたいことがあるなら、言え」
「今の話は、覚えておこうと思っただけだよ」
「私は、間違ったことをしていたのか」
口にしてから、箒は串へ目を落とした。
尋ねるつもりはなかった。相手に判定を任せるような言い方も、したくなかった。
ミーシャは、すぐには答えなかった。
「まだ、分からないだろう」
少しして、そう言った。
「君が毎日稽古をしていることも、食事を抜かずに食べていることも、聞いた。そこから、何を変えた方がいいかまでは、僕にはまだ言えない」
箒は顔を上げた。
黒い目は、先ほどと同じだった。
こちらが反論できなくなるのを、待っているわけではないらしい。
「篠ノ乃さん」
トニオが、静かに声を掛けた。
「食べることも、練習できますよ」
「……練習?」
「自分が普段、どんなものを、どのくらい食べているか。まずは、それを知るところからです」
「記録をつける、ということか」
「はい。難しい表を作る必要はありません。食事の内容と、稽古をした時間。その日の疲れや、眠れたかどうかも、簡単に書き留めておくとよいでしょう」
箒は、皿へ残った串を見た。
「食べたものだけではないのか」
「身体を使うことと、食べることと、休むことは、別々にはできません。気になる疲れが続くようでしたら、その記録を持って、専門の方へ相談することもできます」
「今日、これを食べたからといって、分かるわけではないんだな」
「ええ。今日の食事だけで、明日から急に持久力が上がるわけではありません」
トニオは笑った。
「ただ、美味しかったと思っていただけたなら、次に食べるものを考える楽しみは増えたかもしれませんね」
箒は、少し黙った。
食事を全部変えろとも、稽古が足りないとも言われなかった。
それでも、知らなかったことはあった。
羊の乳で作ったチーズと、香草の匂いがする魚。小さな串に刺した羊肉。
箒は最後の一本を取り、口へ運んだ。
噛んで、飲み込んでから答えた。
「……記録するくらいなら、やってみてもいい」
「うん」
ミーシャが頷いた。
「だが、食事のことばかり考えて、稽古がおろそかになっては本末転倒だ」
「食事も稽古の一部だと考えればいい。身体を動かすことだけが鍛錬じゃないだろう?」
「……理屈は分かった」
箒は、少し不服そうに言った。
「納得したかどうかは、別だがな」
「今すぐ、全部に納得しろとは言っていないよ」
ミーシャはそう答え、自分の皿へ目を落とした。
箒の分より先に、串はきれいに空になっていた。
「お前は、本当に食べるのが好きなんだな」
「今日何度目だろう。その話」
「食べているところを見ると、よく分かる」
ミーシャが顔を上げた。
ほんの一瞬、意外そうな顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
箒は、水を飲んだ。
食事が終わり、トニオが皿を下げに来た。
「ごちそうさま。美味しかった」
ミーシャが言い、箒も頭を下げた。
「ごちそうさまでした。……あの魚の料理だが」
「はい」
「家で作ることも、できるものなのか?」
トニオは、少し目を開いた。
それから、深く頷いた。
「もちろんです。使う魚や道具によって、やり方は変わりますが。お知りになりたいことがあれば、また聞いてください」
「……そうか。ありがとう」
二人分の代金を、それぞれ払う。
扉が開くと、外の空気は、来たときより少し暖かかった。
箒は店を振り返った。
今なら、扉の向こうにどんな匂いがあるのか分かる。
「グラハム」
隣を歩き出した少女が、顔を向けた。
「今日は、礼を言っておく。食事について、考える機会にはなった」
「どういたしまして」
「ただし、私の体力が本当に不足しているかどうかは、まだ分からないからな」
「その通りだ。だから、これから確かめるんだろう?」
箒は、小さく息を吐いた。
「……そうだな」
道の先で、信号が変わった。
ミーシャが歩調を緩める。箒はその横へ並び、鞄の持ち手を握り直した。
「ミーシャ、と呼んでくれていいよ」
「何?」
「名前。教室だと、名字で呼ばれることも多いけど。君が呼びやすい方で構わない」
箒は前を向いた。
「……なら、私も箒でいい」
「分かった。箒」
返事が早く、箒は少しだけ顔をしかめた。
だが、何も言い直さなかった。
歩き出してから、手帳を持ってきていたことを思い出す。
帰ったら、昼食の欄に何を書けばいいのだろう。チーズと野菜、魚、羊肉。それからパン。
料理の名前は、もう一度聞いておけばよかった。
「……ミーシャ」
「うん?」
「最初のチーズは、何という名前だった?」
黒い目が、こちらへ向いた。
ミーシャは少し笑い、ゆっくり、その名前を繰り返した。