Infinite Stratos:Archetype border 作:ぱらさいと
客室の扉が閉まると、箒は鞄を床へ置き、大きく息を吐いた。高い天井にも静かな廊下にも慣れないまま、神保町を何時間も歩き続けた足だけが先に限界を訴えている。
東京旅行の初日。午後八時を過ぎていた。廊下では人の目もあって真っ直ぐ歩いたが、部屋へ戻ると脚の疲れを急に思い出した。
「……疲れた。まさか古本屋で、これほど歩くことになるとは」
「お疲れさま、箒。東京観光はどうだった?」
「楽しかった。それは間違いない。だが、人が多すぎる」
「まあ、東京だからね」
ミーシャは笑って紙袋を机へ置いた。神田神保町で買った古書が三冊入っている。傷んだ背と古びた表紙を見ても、箒には価格と価値の釣り合いが不均衡に思えた。
「よくあれだけの店を回れるものだな」
「とても時間が足りなかった。行きそびれた店の方が多いくらいだ」
「……まだ回るつもりだったのか?」
「もちろん。神保町は一日じゃ足りないよ」
相手は涼しい顔だった。店主と話している間、箒が何度時計を見たかなど気づいていないらしい。
昼過ぎから古書店街を歩いた。大小の店が並び、文庫本の隣に専門書があり、別の棚には主題すら読解不可能な洋書がある。ミーシャは目についた店を一軒ずつ覗いた。
店主と難しい話をしたかと思えば、次の店では棚の前から動かない。十分ほど待っても本を戻すだけで、また隣の段を見始めた。
最初は箒も物珍しさに負けた。珍妙な書籍の山に囲まれた状態が体感、三時間を超えたあたりから背表紙だけでも食傷気味になった。文句を言わずに済んだのは見ている方があまりにも楽しそうだったからだ。
「箒も楽しんでいたじゃないか」
「私が?」
「武術関係の古書があった店。ずいぶん熱心に見ていたよね」
「あれは……まあ、そうだが」
「ほら。興味があるものを見つけると、時間なんて忘れてしまうだろう?」
「……否定はできん」
箒は渋々頷いた。古武術の本が揃う店では自分も思うように棚から離れなかった。あの店だけ長くいたいとは言えない。
「それより、箒」
「何だ?」
「今日のプリンは美味しかった?」
「ああ。美味かったぞ」
そこは素直に答えた。
途中で休んだ喫茶店は木の机と革張りの椅子があった。古い映画のポスターが壁にあり、入ると珈琲の匂いがした。
注文したプリンも覚えている。皿の中央で形を保ち、褐色のカラメルを掛けられていた。脇にはホイップクリーム。スプーンを入れると手応えがあり、口へ運べば卵の味が濃かった。
カラメルの苦みと卵の香りはまだ舌に残っている。箒は椅子の固さや皿の重みまで覚えていた。しかし店の外にできていた行列を思い浮かべると、どうしても尋ねたいことがあった。
「だが、ミーシャ」
「うん?」
「あのプリンはそんなに珍しいものなのか?」
「硬いプリンのこと?」
「そうだ」
箒は窓際に置かれたソファチェアへ腰掛け、腕を組んだ。傍目には高さ不足の印象があったものの座ってみると快適だった。反発と柔らかさのバランスも心地よい。
僅かに微睡みつつ店外の列を思い出した。
「列はかなり長かった。世間で取り沙汰される名店ならば然もありなんだ。しかし私の知るプリンとの差はほとんどなかったぞ」
「そうだろうね」
「どういう意味だ?」
「箒が今暮らしている杜王町ではああいうプリンが普通なんだろう?」
「ああ。少なくとも、珍しくはない」
何を不思議がるのか分からない顔で答えた。
「古い喫茶店でも出しているし、洋菓子店でも見かける。家で作る場合も、あの程度の硬さになることは珍しくあるまい」
「なるほどね」
ミーシャが少し感心したように頷いた。
「……何だ、その言い方は」
「悪い意味じゃないよ。むしろ、ちょっと羨ましいと思ったんだ」
ソファへ腰を下ろし、ミーシャは片手で小さな円を描いた。
「箒。少し前まで、プリンに何が求められていたか知っている?」
「味、ではないのか?」
「もちろんそれもある。でも、それ以上に重要視されていた要素があるんだ」
「と言うと?」
「どれだけ固形から遠ざかっているか、だよ」
「…………何?」
箒は顔を見直した。言葉を聞き違えたのかと思った。
「プリンなのにか?」
「プリンなのに、だよ」
ミーシャは笑った。説明の先をまだ用意している顔だった。
「昔ながらのプリンは砂糖や牛乳を混ぜあわせた卵液の一種を容器へ流し入れ、蒸し固めるものだった。型から外しても容器の形を保っているし、スプーンを入れればちゃんと手応えがある」
「普通だな」
「うん。箒にとってはね。だけど、少し前にはその普通が時代遅れ扱いされた時期があったんだ」
「……ほう?」
「なめらかプリン、とろけるプリン、口に入れた瞬間に消えるプリン。そういう商品が次々に登場した。舌触りの柔らかさが、目新しさや高級感の指標として評価の主軸に置かれた」
「それは……」
箒は少し考えた。プリンという概念が固定観念に嵌っていた。それを取り払おうとしている。
「とろけるように柔らかいものもあるんだ。僕も好きだけどね」
ミーシャが笑う前で、箒は眉を寄せた。皿へ出せば広がってしまいそうなものを、どうしてプリンと呼ぶのだろう。
「それで?」
「それが当たり前になったところで、今度は
「……つまり」
「うん」
「普通のプリンが、珍しいプリンになったのか?」
「大雑把に言えば、そういうこと」
箒は呆れた。特別だと言われた理由が、少し分かった気はした。
「妙な話だな」
「流行ってそういうものだよ」
「だが、あのプリンはかなりの値だった」
「そうだね」
「杜王町なら、もっと安く食べられる」
「東京だからね」
「……東京だからで済ませてよいものなのか?」
「家賃も人件費も違うから、一概には言えないけどね。それに、あのお店は雰囲気も売っているんだよ」
「雰囲気?」
「古い家具、落ち着いた照明、丁寧に淹れた珈琲。それに、あの空間でプリンを食べるという体験そのものさ」
ミーシャは肩をすくめた。箒の外食はミーシャと一緒のことが大半だ。経験値が違う。提供される商品の外に置かれた価値を判断するのはまだまだ難しい。
「僕たちが暮らしているあの町は観光客が多い割に物価も安い。人口も多いから無理に高値にしなくっても成り立つ。東京にも下町はある。でもこのあたりは……付加価値なしでは厳しい勝負になるだろうね」
「……そういうものか」
箒は頷いた。
自分には当たり前のものでも、知らない人にはわざわざ見に行く理由になる。箒も生まれは東京である。それも昔ながらの下町が地元だが、もちろん東京の店を全部知っていたわけではない。離れた土地で暮らすうち、そちらの値段や店構えが基準になっていた。
「昨今は普通のものに金を払うのだな」
「そうとも限らないけど……まあ、間違いではないかな」
「同じ東京でも理解の及ばぬ環境は多い」
「箒、ずいぶん東京に厳しいね」
「事実を言っているだけだ」
澄ました顔で答えるとミーシャがまた笑った。
*
「ところで、夕食はどうする?」
時計は二十時を指していた。自宅ならとうに片付けまで終えている。遅い昼食を取っていても、あれだけ歩けば腹が減った。
「何か食べようか」
「ああ。しかし店があるのか」
箒の懸念にミーシャも頷いた。
ホテルは東京駅とそう離れていない。超の一文字を冠する一等地で、アルバイトをしているわけでもない中学生の財力に相応しい飲食店となると、全国展開するファストフードのほか候補が浮かばなかった。
「わざわざ出掛ける時間でもないか」
「うむ」
箒も足元を見た。もう一度靴を履いて外を歩く気力はあまりない。
外は真っ暗だった。
土地勘もなしに出歩くには遅い時間である。
「ではどうする? 売店で何か買ってくるか?」
「それは客室を出ないといけない」
「む……そうか」
「それに、せっかくいいホテルに泊まっているんだ。ルームサービスを頼もうよ」
「ルームサービス?」
「うん。部屋で食事ができるんだ」
「それは知っている」
箒は少しむっとした。何のサービスか知らないのではない。ただ馴染みがないだけである。
「確かめてはいないが、高額だろう。これほどの客室だぞ」
「高いだろうね」
「ならば、予算を節約するべきではないか?」
「もちろん。そのつもりだよ」
ミーシャは当然のように頷き、机からメニューを取った。
厚手の表紙を開きページを進む。時間帯に応じたコースが整然と並んでいる。箒も隣から覗いた。内容より先に、値段へ目が止まった。
「…………」
「どうかした?」
「ミーシャ」
「うん?」
「一万円を超えているぞ。二人分なら、宿がもう一泊できるのではないか」
抗議のあいだにもページがめくられた。ミーシャは料理の説明を読んでいる。
「予算の節約にならんではないか」
「ちゃんと節約になるよ」
「どこがだ!」
「僕たちの予算を使わなくて済むところさ」
「……は?」
そこでようやくメニューから顔を上げた。
「このホテル、警察が用意してくれたんだよね」
「あ、ああ」
「宿泊費は向こう持ちで決まってる。食事の精算がどうなるか、フロントに確認してみよう」
ミーシャが電話で確かめた。食事を部屋付けにできるかという問いに、担当へ確認するという返事が来た。
折り返しが鳴るまで二人で待った。間もなく折り返しの連絡があり、ルームサービスの料金もまとめて精算するという。ミーシャは礼を言って受話器を戻した。
「ほら。僕たちの財布からは出ない」
箒は相手を見た。思いもよらないところで心配が増えた。
「つまりね」
ミーシャはメニューを軽く叩いた。そこには既に目をつけた料理があるらしい。
「外で食べれば僕たちの財布からお金が出ていく。でも、ここで食べれば僕たちの旅行予算は減らない。合理的だと思わない?」
「それでは警察の予算は減るだろう!」
「そうだね」
「そうだね、ではない!」
「箒。今回の旅行は向こうの事情で予定を変えられているんだよ。それに、安全上の理由で行動も制限されている。食事くらいは用意してもらってもいいんじゃないかな」
「それは……そうかもしれんが」
「そもそも僕たちはこのホテルに泊まりたいと言ったわけじゃない。向こうが選んだんだ」
「……それも、事実だ」
「だからここで食べるのが一番簡単だよ」
「だからといって、一番高いものを選ぶ必要はないだろう」
「そうかな?」
「そうだ!」
「でも、食べてみたいじゃないか」
悪びれたところはなかった。むしろ、話がまとまりそうなのが嬉しそうだった。
「せっかくの東京旅行だよ。普段できないことを経験してみるのも悪くないと思うな」
「……お前は時々、とんでもないことを言うな」
「そう?」
「そうだ!」
箒は額へ手を当てた。ミーシャはもう一度値段を見て、いちばん高いコースを指した。
「じゃあ、これを二人分でいい?」
「私の話を聞いていたのか!?」
「ちゃんと聞いていたよ」
笑顔で返された。人の話を聞いていないわけではないらしい。聞いたうえで、そちらを選ぶつもりだった。
「でも、箒もお腹が空いているだろう?」
「それで今の話を済ませるな!」
結局、頼んだのは最も高価なディナーコースを二人分だった。
箒も最後には頷いた。腹が減っていたのは確かで、書かれた料理がおいしそうだったのも否定できない。
*
四十分ほどで扉が鳴った。
「ルームサービスでございます」
ミーシャはドアスコープを確かめて開けた。制服姿の女性スタッフがワゴンを押していた。銀色の保温カバーが並んでいる。
女性と少し距離を取った位置に黒いスーツの男女が一組いた。彼らもマキマの部下なのだろう。けれどハヤカワのような、淡々としていても威圧感のない雰囲気とはまったく違った。男女とも顔に大きな傷跡がある。特に男の方は、傷跡で埋め尽くされていた。ミーシャは何も尋ねず、食事を運ぶスタッフを通した。
机へクロスが広がる。皿が置かれ、冷水の入ったグラスとカトラリーが揃った。客室の一角が、さっきまでとは別の場所へ変わっていった。
前菜は小さな皿に綺麗に収まっていた。温かいスープ、皮目を焼いた魚。それから国産牛のフィレ肉。箒は一つずつ見た。知っている材料でも、こうして並ぶと箒は普段の食卓へも、盛り付けを少し取り入れられないかと思った。
「……すごいな」
「うん。美味しそうだね」
ミーシャの目が明るくなった。公安の予算を説明していたときより、料理を前にした今の方が年相応に見える。
「ではどうぞごゆっくりお召し上がりください」
スタッフが礼をして出ていった。ミーシャは扉が閉まるのを見てから座った。
「いただきます」
「……いただきます」
箒も腰を下ろし、ナイフとフォークを持った。まず一口分を切り、口へ運んだ。
「…………」
「どう?」
「……美味い」
「だろうね」
「何だ、この肉は……」
皿へ目が戻った。
柔らかい。ただし、さっき話したプリンのように形をなくす柔らかさではない。噛めば肉の繊維が分かり、そのたび味が出てきた。箒はもう一口切った。
「これが高級ホテルの料理か……」
「気に入った?」
「ああ。……認めたくはないが」
「どうして?」
「値段を考えると、素直に喜んでよいものか分からん」
「僕たちが払うわけじゃないんだから気にしなくていいと思うよ」
「その考え方が問題なのだ!」
抗議を聞いてミーシャが肩を上げた。
「じゃあ、箒の分は僕が食べようか?」
「それは断る」
「即答だね」
「当たり前だ!」
顔を見合わせ、同じように笑った。
高い部屋で高い料理を食べている。出発前には考えてもいなかった夜だった。それでも相手と言い合う調子は変わらず、歩き疲れた脚のことも少し忘れられた。
「……不思議なものだな」
箒はナイフを置いて呟いた。
「何が?」
「今日一日で、随分と色々なものを見たと思ってな」
「まだ初日だよ」
「ああ。そうなのだが……」
窓へ目を向けた。高い階からは車のライトとビルの明かりが見えた。遠くではまだ人が働いているのだろう。自分たちが帰ってきたあとも、東京は動いていた。
「まだ初日なのに、これだけ違うものを見たんだ。明日も楽しめそうだね」
「……ああ」
箒は素直に頷いた。
「面白かった」
今度は少し笑って言った。
「明日も楽しみだ」
「それはよかった」
ミーシャも穏やかに笑った。その横顔を見ながら、箒は今日何度か思ったことを尋ねた。
「ミーシャ」
「うん?」
「お前は東京で暮らしたことがあるのか?」
「どうして?」
「随分と慣れているように見える」
古書店でも地下鉄でも、あまり迷わなかった。路線を見て乗り換えを決め、移動に掛かる時間を考える。店員との会話も自然だった。
自分と同い年なのに、こちらが考え込む前に用事が進んでいた。
「そう見える?」
「ああ」
「あらかじめ地図で予習していたからね」
「それだけか?」
「それだけでも、結構違うと思うな。ボルチモアにいたときも遠出するときは道順を把握してからにしていたし」
さらりとした返事だった。嘘には聞こえない。全部説明された気もしなかったが、箒はそれ以上追いかけなかった。
「……頼りにしているぞ」
「うん。任せてよ」
ミーシャが笑った。
*
デザートまで食べ終えると十時を回っていた。箒はソファへ戻って息を吐いた。さっきより長く座っていたい気分だった。
「……食べすぎた」
「美味しかったね」
「ああ。だが、あれほどの料理を毎日食べていては金銭感覚がおかしくなりそうだ」
「そうだね。気をつけないと」
「お前が言うな!」
ミーシャは抗議を聞きながら伝票を確かめた。客室付けになっている。電話で聞いたとおりに処理されていた。
「うん。これで今日の夕食代はゼロだね」
「私たちにとってはだろう!」
「細かいことは気にしない方がいいよ」
「細かくない!」
笑って伝票を戻した。その横の携帯電話に充電の表示がある。位置情報も共有中だった。マキマに言われた約束は食事のあいだも続いていた。
「箒、携帯電話は充電してある?」
「ああ。さっき接続した」
「モバイルバッテリーも?」
「そちらも大丈夫だ」
「なら、よかった」
ミーシャが頷いた。
「明日は忘れず持っていこう」
「何度も言われなくても、分かっている」
箒の返事にミーシャが笑った。
今日どこを歩いたかは担当者に分かる。食事を部屋付けにしたから、何を頼んだかまで分かるだろう。選んだコースの値段を思い出し、少しだけ口元を緩めた。
伝票を片づけると、机の端の白い封筒が目に入った。食事の支度をするとき、箒が濡れない場所へ移したものだった。
「それ、まだ読んでいないんだね」
「……ああ。マキマさんが言っていた件だ」
箒はソファから体を起こした。
「落ち着いたときに見るように、だったな」
「今ならゆっくり読めるんじゃないかな」
昼の面談で一夏の名前が出てから、ほかの話を考える余裕がなかった。部屋で封筒を見つけたあとも、外出と夕食に挟まれて開けずにいた。
箒はデスクの引き出しに仕舞われていたペーパーナイフの封を切った。中の紙を机へ置き、順番を揃える。連絡先と滞在中の案内があり、最後に篠ノ之神社の現況をまとめた書類があった。
「一緒に見てくれるか」
「もちろん」
ミーシャが隣へ座った。箒は二人から見える位置へ紙を寄せた。
管理の経緯から書かれていた。
箒が転校生活に入って実家を離れたあと、地域の人々が維持と日常の管理を支えるようになった。町内会と商工会、駅前派出所。それらの人々とともに、篠ノ之家の縁戚も参加している。
箒は読み終えた行へ指を戻した。
「皆で、見てくれているのか」
よく知る名前ばかりだった。祭りで声を掛けた人。母と立ち話をしていた人。名前の先へ顔が浮かぶ。その顔が昔のままで止まっていることにも気づいた。
知らない名もあった。誰と繋がる人なのか、一覧だけでは分からない。長く離れているあいだにも、家へ通う人が増えていたらしかった。
「箒が住んでいた頃から、この形だったわけではないんだね」
「ああ。その頃は父も母も家にいた。転校を繰り返す生活になって、私も実家を離れて……」
そこで止まった。
建物は無事だと聞いていた。しかし誰が掃除し、傷んだところを確かめているかまでは知らなかった。帰る人間がいない日にも、訪ねる者がいたのである。
「小さな町だ。地域との交流は、昔から厚かった。今もその縁が続いているのだな」
安堵の言葉だった。ミーシャは頷いて次の項目を見た。
「神事はご親戚が執り行っているんだね」
箒も同じ行を追った。
神事は篠ノ之家の縁戚が執り行う。関係者の区分は詳細だった。誰が、いつ頃、どのような形で関わりを持っているか。家族が暮らさなくなっても、神前で続けてきたことまでは途絶えていなかった。
「……今も、続けてくれていたのか」
母の白い袖を思い出した。支度の邪魔をして叱られた。扇を持たせてもらったこともある。あんなに嬉しかったのに、両親と離れ、土地と離れ、結びつきを求めようという気持ちすら、途切れてばかりの暮らしが続くうちに忘れてしまっていた。
箒は紙の端を押さえ直した。
次は警備の項目だった。警備企画課四係という部署が社殿と住居、それに道場を警備している。期間は十年近く。現在の責任者は係長であるマキマの名があった。
「今日、初めて会った人なのにな」
昼に聞いた声を思い出した。目の前で説明した女と、紙の上の責任者がようやく重なった。
「係長だったんだね」
果たしてどの程度偉いのだろう。社長という役職は警察にないことぐらい箒も承知している。警視総監ならばこれは偉いと即座に判断出来るのだが、警察庁警備局という単語を並べられただけで箒の中から判断する術が失われていた。
「世話になりっぱなしだ」
ミーシャの視線はじっと文書をなぞっている。
「そうだね」
箒はゆっくり頷いた。
「いつか家に帰る日が来ると思っていた」
続きが出なかった。ミーシャは黙って待った。
持った紙の端が少し揺れた。箒は机へ置き直した。そうすると指の震えも止まった。
「何も分かっていなかった。自分が渦中の人間だということも。
言葉にすると身を斬られる思いがした。過去の自分はあまり無知で、幼かった。子供なのだから仕方がないと弁明するつもりはない。
ただ。変わってしまったものは、篠ノ之箒にとってかけがえのない価値があったのだと、気づいた。ずっと遠くに行ってもう届かない。それを認めるとまた指先が震えた。
ずっと伸ばしてきた手を、ようやく降ろせた気がした。
「明日、訪ねてみる?」
聞かれて箒は考えた。それから首を横に振った。
「突然では方々に迷惑をかける。今もマキマさんはじめ、大勢の尽力に助けてもらっているからな」
「分かった」
「旅の予定は、予定通りで良い。帰省は相応しいときを待つ」
書類を揃えて封筒へ戻す。
ひとつ、靄が晴れた気分だった。
「……ミーシャ」
「うん?」
「ありがとう」
ミーシャが小さく頷いた。箒も封筒へ一度手を置き、それからソファへ座り直した。
「……箒」
「何だ?」
「東京に来て、よかった?」
箒は少し目を開いた。急に尋ねられると、返事を選びたくなった。
「どうした、急に」
「ちょっと聞いてみたかっただけだよ」
「……そうだな」
今日見たものを順に思い返した。それからゆっくり頷いた。
「ああ。来てよかったと思っている」
「そっか」
「お前と一緒に色々な場所を回れたし、美味いものも食べられた。実家のことも、ようやく詳しく知ることができた」
「うん」
「それに……」
言葉が止まった。頬へ少し熱が集まった。
「……一夏にも、会えるかもしれん」
ミーシャはその顔を見ていた。間を置いて、いつものように笑った。
「そうだね」
「……何だ?」
「何でもないよ。会えるといいね」
「ああ!」
箒が嬉しそうに頷いた。ミーシャはそれを見てから窓へ目を向ける。
ビルの明かりが幾つか消えていた。明日の行き先を頭の中で確かめる。予定を話せる相手が隣にいることは今夜の箒には悪くなかったようだった。
「さて」
ミーシャが立ち上がった。
「そろそろお風呂に入ろうか。明日も歩くだろうし」
「ああ。そうだな」
「先に入っていいよ」
「構わないのか?」
「うん。僕は買ってきた本を少し読んでいるから」
「……寝不足になるなよ」
「大丈夫。ほどほどにするよ」
「お前の『ほどほど』は信用ならん」
「ひどいなあ」
笑って言われても、箒は少し疑わしそうだった。首を振って着替えを取り、浴室へ入る。扉が閉まり、やがてシャワーの音がした。
ミーシャは買ってきた古書を一冊取った。すぐには開かず、表紙へ指を置く。
店で箒も同じ本を持った。読めない文字のどこが面白いかと聞き、説明しても半分は分からないと言っていた。それでもページを傷めないよう丁寧に返してくれた。
明日は静嘉堂文庫美術館へ行く。刀剣だけでなく器や絵も見られるので二人で選んだ。知らないものを見たら聞けばよい。自分にも、箒へ尋ねたいことが出てくるのだろう。
本を開いて一枚めくった。古い紙の匂いがした。
「……普通、か」
喫茶店での話を思い出す。見慣れたものが、別の場所では新しく見える。その逆もあった。
箒にとって一夏は昔からの知り合いである。しかし知らない年月もある。ミーシャも自分の調べたことだけで、まだ聞いていない言葉まで分かったつもりにならずにいられるだろうか。
「……僕も、人のことは言えないかな」
少年めいた柔らかい声はシャワーの音に紛れた。
ミーシャは小さく肩を上げ、古い文字へ目を戻した。外には東京の明かりがあり、机には読み終えた封筒がある。最初の夜に決めることはひとまず済んでいた。