Infinite Stratos:Archetype border 作:ぱらさいと
人が帰ると時計の音が目立った。
一夏は窓際へ戻された椅子を見た。箒が座っていた。眉の寄せ方も、照れた途端に声が大きくなる癖も覚えていたとおりだった。
会えて嬉しかった。余計な話までした。そのあいだに、言おうと思っていたことだけが残った。
「……参ったな」
天井を見た。
箒が笑うと、そのまま笑っていてほしくなった。話せる間は何度もあった。もう少しあとでよいと考えているうちに、面会は終わっていた。
次はもっと話そうと頷いた。では何から話すのか。思い出せないのではなく、まだその順番を決めたくなかった。
向かいの建物へ夕方の色が差していた。廊下の足音が近づき、扉が控えめに二度鳴った。
「失礼します」
アズマが入ってきた。白い看護服に薄いファイル。耳へ掛けた髪が僅かに揺れる。
こちらの顔を見て、扉を閉める前に少し首を傾けた。
「お疲れですか?」
「……そんな顔してます?」
「先ほどより、元気がないように見えましたので」
「いや。具合が悪いとかじゃないです」
「痛みもありませんか?」
「はい。大丈夫です」
アズマは頷き、ベッドの傍らに来た。
「ではお熱と血圧を確認しますね」
体温計を受け取った。アズマは検温と血圧の測定を進める。話さないからといって、何度も尋ねられることはなかった。
記録の手が止まる。その間が、今日はありがたかった。
「あの」
「はい」
「今日の話なんですけど」
「退院後の生活についてですか?」
「それも、そうなんですけど……」
アズマは測定値を書いてから顔を上げた。
「急がなくていいですよ」
「……はい」
腕帯が緩んだ。外された腕を布団へ戻し、一夏は続きを言った。
「箒に、ちゃんと話せなかったなって」
何の話かと聞き返されなかった。アズマは一夏の顔を見て答えた。
「手術と、これからの治療のことですね」
「はい」
頷くと少しだけ息が楽になった。
「手術したことは話しましたけど」
「ええ」
「何をしたかは……結局、言ってないんですよね」
手術が終わったのも経過がよいのも、本当だった。箒が知っているのはそこまでで、治療の詳細を聞けば驚くだろう。何を、いつ、どこまで話すかはまだ自分で選べる。
「担当医から説明された、機能していなかった器官を切除したことですね」
声を落とされ、一夏も頷いた。
「それと、女性の器官があると言われて、そちらにも処置を受けたことです」
「はい」
「これから、薬で身体が変わっていくこともです」
細かい説明を一つ省いたのではなかった。箒が知りたがったことの、いちばん大きなところを残していた。これからの毎日にも関わる話だった。
「卵胞ホルモンと、黄体ホルモン」
覚えた名前を一つずつ確かめた。
「それを使って、これから急に、女の身体になっていくんですよね」
「担当医からは今後女性化が急速に進む見込みだと説明されていますね。変化の現れ方は診察のたびに確認していきます」
「……ですよね」
医師には分からないところを聞いてきた。その都度頷いてもいた。しかし自分のこととして人へ伝えようとすると、覚えた言葉の先が続かなくなる。
「説明は聞いて、質問もしたんです。でも、自分で言うと、違う話になりそうで」
「言葉にするのが難しいんですね」
「それも。それに、言ったら、本当にそうなるんだなって」
話したから身体が変わるわけではない。それでも医師の隣では聞けた説明を、自分の言葉にして相手へ渡そうとすると、声が止まった。治療が病院の外へ続くのだと、そこで急に分かる気がした。
「次に会ったとき、びっくりしますよね」
「そうかもしれません」
「今日だって、あんなに心配してたのに」
手術と聞いたときの顔を覚えていた。近くに暮らせるかもしれないと笑ったところも見ていた。
「せっかく、元気になったって喜んでくれたのに。今度はこんな話までしたら、また心配させるじゃないですか」
「ええ。心配はされるでしょうね」
アズマは否定しなかった。
「……そうですよね」
「ただ、篠ノ乃さんは今日あなたを心配していたことを、嫌がってはいらっしゃいませんでしたよ」
一夏は顔を上げた。
「嫌がる?」
「気がかりなことがあるなら、知っておきたい。そのようには見えました」
アズマが窓際の椅子へ目を向けた。
「説明を聞くとき、こちらをまっすぐ見ていらっしゃいましたね。少しでも聞き漏らさないように」
「……箒、真面目ですから」
「そうですね」
「昔から、そういうやつで」
「ええ」
一夏は困ったように笑った。穏やかに相槌を打たれると、昔の箒の話は続けやすかった。
「心配かけると、怒るんですよ」
「それも、少し分かった気がします」
「でしょ?」
二人で少し笑った。ただ一夏の笑いはそのまま続かなかった。
「……怒ってくれるなら、まだいいんですけど」
ファイルの上で指が止まった。
「どういう意味ですか?」
一夏は布団を見下ろした。
「変に気を遣わせたり、何を話していいか分からなくなったりしたら、嫌だなって」
話したあとにも、あの調子で言い返してくれるだろうか。自分は気楽にからかえるだろうか。
怖いのは心配させることだけではなかった。
「昔の話してたとき、俺、ちょっと忘れてたんです」
「治療のことを?」
「はい。病院にいるのに、変ですけど」
「そういう時間もありますよ」
「……普通に話せたのが、嬉しくて」
ようやく話したかったところへ近づいた。
「話した後、ああいうふうにできなくなるかもしれないと思ったら」
続きを言えなくなった。アズマも黙っていた。
廊下で挨拶する声がした。足音が離れていく。聞いているうちに、一夏は言い訳を一つ見つけられたような気がした。
箒に心配を掛けたくなかった。それは本当だった。自分へどんな顔が返ってくるかも怖かった。その二つを、ずっと同じことにしていた。
「……一つ、私からお話ししてもいいですか」
アズマが言った。
「はい」
「隠し事は男女の仲を破綻させます」
一夏は瞬きをした。
「……男女の仲?」
「はい」
「いや、俺たちは……そういう付き合い方はしてないですよ」
「お付き合いをされているわけではない、と」
「はい。幼馴染です」
「そうですか」
アズマは静かに頷いた。一夏はそれだけでは説明が足りない気がして言い足した。
「大事な友達です。今日も久しぶりだったから、喜んでくれて」
アズマは箒の顔を思い出した。友達という言葉だけでは収まらないようにも見えたが、本人に代わって伝えることではなかった。
「……何か、変でした?」
「いいえ」
アズマは少しだけ口元を緩めた。
「大切な方なのだろうと思っただけです」
「それはまあ」
一夏は照れくさそうに頬を掻いた。
「大事な友達ですから」
「でしたら、その友達にどう伝えたいかを考えてみてもいいかもしれませんね」
「どう伝えたいか……」
「心配をかけずに済む説明を探していると、話し始められなくなることもありますから」
一夏は口を閉じた。驚かせず、困らせず、気まずくもしない言い方を探していた。それが見つかれば話せると思っていたのかもしれない。
「でも、隠し事って言われると、何か……」
「責められているように感じましたか」
「ちょっとだけ」
正直に言うとアズマが頷いた。
「申し訳ありません。言い方が強かったですね」
「いえ。俺も、隠してないって言い切れるわけじゃないので」
「ご自分の身体のことを、誰にどこまで話すかはご自身で決めていいんです。篠ノ乃さんが大切だからといって、今すぐ、すべてを話さなければならないわけではありません」
一夏は少し意外そうに彼女を見た。
「……いいんですか」
「ええ」
「さっき、破綻するって」
「私の経験を、そのまま持ち込んでしまいました」
アズマはファイルの角を揃えた。
「それはよくありませんでしたね」
「経験?」
一夏は手元へ目を向けた。左手に指輪はなかった。
「結婚、されてるんですか?」
「以前は結婚していました。新婚三日で離婚しましたけれど」
「……三日?」
冗談だと言われるのを待った。アズマはいつもの姿勢で頷いた。それきり言い直さなかった。
「元夫の不倫です」
「結婚してから、三日で?」
「発覚したのが三日目でした。始まったのは結婚する前です」
「それは……ひどいですね」
「ええ」
短い肯定だった。淡々とした声のために、かえって先を急かせなかった。
「結婚すれば、やめるつもりだったそうです」
やがて、彼女は言った。
「実際にはやめていませんでしたが」
「……それで、すぐに?」
「はい。離婚しました」
「……すみません。何て言えばいいのか」
「構いませんよ。私も、しばらくは何て話せばいいか分かりませんでしたから」
アズマは壁際の椅子を見た。
「少し、座ってもよろしいですか」
「あ、もちろんです」
椅子が静かに動いた。アズマが座ると目の高さが近づいた。
いつもは必要な確認をして出ていく人だった。その人が腰を下ろしただけで、こちらから聞く話の時間になった。
「三日で別れたというと、皆さん、驚かれます」
「……でしょうね」
「それで、お話が終わることも多いんです。早く分かってよかったですね、と」
一夏は返事をしなかった。早く分かってよかったとは自分も言いかけていた。
「そうだったのかもしれません。でも、結婚していた三日間だけを、忘れればいいわけでもありませんでした」
アズマの視線が、一度だけ膝の上へ落ちた。
「その前から、一緒にいた人でしたから」
白い指がファイルの端を押さえていた。強く握っているわけではない。それでもその手が、妙に静かに見えた。
「別れた後も、話をしたくなることはありましたよ。仕事から帰って、今日こんなことがあったと、いつものように」
アズマは僅かに首を傾けた。
「そのたび、もう話さなくていいのだと思い出すんです。腹が立つのに、そういう癖は残っていました」
「……そう、なんですね」
「ええ」
彼女は顔を上げた。
「ただ、私がつらかったのは不倫をしていたことだけではありませんでした」
「黙ってたことですか?」
「はい。私は知らないまま、結婚するかどうかを決めていたわけですから」
布団の上で手を握った。アズマはそれを見て、先ほどより少し慎重に続けた。
「ですが、あなたの治療は、あなたの身体を守るために受けるものです」
「……はい」
「あなたが話せずにいることを、あの人と同じようには考えていません。そこは分かってくださいね」
一夏はゆっくり頷いた。同じだと責めているのではないことを、確かめてから聞いた。
「私の話で伝えたかったのは後から知った人にも、それまで一緒に過ごしていた時間がある、ということです」
アズマは言葉を選んだ。
「篠ノ乃さんは今日、あなたに会えて、本当に嬉しそうでした。近くで暮らせるかもしれないと聞いて、その生活を楽しみにされていました」
「……はい」
「もし後になって、あなたが一人で悩んでいたと知ったら、あのとき話を聞きたかったと、思われるかもしれません」
また空いた椅子を見た。さっきは手が届くところに箒がいた。時間がなかったとは言えない。話せる時間に、別のことを話していたのだった。
「……心配かけたくないって言えば、それでいいと思ってたかもしれないです」
「そうだったんですか」
「でも、箒が俺に同じことをしたら、多分、怒ります」
箒が大丈夫だとだけ言い、あとから別の人に詳しい事情を聞かされたら。自分も、どうして言わなかったと尋ねる気がした。
「別に、何かできるわけじゃなくても」
一夏はぽつりと言った。
「話くらい、聞いたのにって」
アズマは頷いた。
「篠ノ乃さんも、そう思われるかもしれませんね」
「……うん」
返事をして少し黙った。外の赤みが薄くなっていた。白い看護服とシーツへ、同じ淡い夕方の色が載っている。
「でも、やっぱり怖いです」
一夏は言った。
「話した方がいいって思っても、怖いのは変わらないですね」
「そうですね」
アズマは簡単には励まさなかった。
「箒、どんな顔するかな」
「それはご本人にお話ししてみないと」
「……ですよね」
「驚かれるかもしれません。すぐには言葉が出ないことも、あると思います」
指が僅かに固くなった。アズマはそれを見て、声を穏やかなまま保った。
「あなたも、説明を受けたとき、すぐに全部を整理できたわけではないのでしょう?」
「……はい」
「でしたら、篠ノ乃さんにも、考える時間が必要かもしれませんね」
一度の反応で決まるわけではない。自分だって説明を何度も聞き直した。そのくせ箒には聞いたその場で全部分かってほしかった。
「……俺、あいつに無茶言ってたんだな」
「まだ、何もお話ししていませんよ」
「あ、そっか」
一夏は間を置いて笑った。アズマも少し笑う。さっきより息を吸いやすくなっていた。
「知っててほしいって、言ってもいいですか。何とかしてほしいんじゃなくて。次に会って、何も知らずに驚かせたくないんです」
「それも、お話ししていいと思います」
「それで、できれば、今日みたいに話したい」
こちらは変わるのに相手には同じでいてほしい。その願いは少し欲張りなのかもしれなかった。
「……勝手ですかね」
「お願いすることはできると思いますよ」
アズマは答えた。
「篠ノ乃さんがどう感じるかは篠ノ乃さんにしか分かりません。でも、あなたがどうしたいかも、話さなければ伝わりませんから」
一夏はゆっくり頷いた。
「そっか」
怖かったことも、会えて嬉しかったことも話してよい。一夏は知っている病名や薬の名より、先に言うことがあると思い始めた。
「説明できないところは先生に聞いてもいいですか」
「ええ。あなたの希望する範囲で、説明の場を作ることも相談できますよ」
一夏は頷いた。誰かが一緒なら心強い。だが最初の言葉まで任せたら、また説明へ頷くだけになりそうだった。
「最初は俺から話します。その後で、助けてください」
「はい。分からないことは一緒に確かめましょう」
「やっぱり、怒るかな」
「そのことは私よりあなたの方がよくご存じでしょう」
苦笑した。想像の中で怒る顔も黙る顔も、箒の顔だった。知らない反応をされたからといって、彼女が知らない誰かになるわけでもない。
「次に来たら、最初に言います」
一夏は言った。
「昔の話とか、杜王町の話を始める前に」
「はい」
「また、楽しくなって、言わなくてもいいかって思いそうだから」
「そういうことも、あるでしょうね」
「でも、今度は後回しにしないようにします」
アズマは少しだけ微笑んだ。
「お話しすることを、書いておきますか?」
「……ああ。それ、いいですね」
「必要でしたら、後で整理するのをお手伝いします」
「ありがとうございます」
アズマへ礼を言った。彼女は頷いて立ち、時計を見てからファイルを抱え直した。
「夕食まで、少し休んでいてくださいね。今日はたくさんお話をされましたから」
「はい」
「もし気分が悪くなったり、痛みが出たりしたら、すぐに呼んでください」
「分かりました」
白い背中が扉へ向かう。見送る途中で、一夏はもう一度呼んだ。
「……アズマさん」
「はい?」
「さっきの話、聞いちゃって、すみませんでした」
彼女は振り返った。
「離婚の話ですか」
「はい。何か、俺の相談だったのに」
「私が自分から話したことですよ」
「でも……大変でしたよね」
それ以上うまく言えなかった。アズマが少し考えた。
「ええ。手続きが」
「……そっちですか」
「そちらも、です」
一夏は返事をなくした。その声はさっきまでと変わらなかった。
「名前を変える手続きの途中で、戻す手続きが増えましたから」
「うわ……」
「職場にも、訂正をお願いしました。皆さん、まだ新しい名字を覚えていらっしゃらなくて、その点は助かりました」
笑ってよいか迷い、短く息だけ漏れた。アズマの口元にも笑みがある。それを見て、ようやく一夏も笑えた。
「三日って、やっぱり、すごいですね」
「ええ。今でも、そう思います」
アズマは扉へ手を掛けた。
「ではまた後ほど。織斑さん」
「はい。……ありがとうございました」
扉が閉まった。
時計と廊下の足音、遠くのテレビの声が戻ってきた。一夏は天井をしばらく見てから身体を起こした。床頭台の引き出しにメモ用紙がある。説明の中で分からない言葉を残すために使っていたものだった。
膝へ載せてペンを取る。『箒へ』と書き、止まった。手紙にして渡すつもりではない。自分で話すのだった。
その文字は残し、下へ続けた。
『手術のこと』
『これからの薬のこと』
『身体が変わっていくこと』
三つでまた止まった。これでは教わったことを書き写しているだけだ。
空いた椅子を見た。箒はどんな顔で聞いたか。その顔を見て何を思ったか。紙へ戻り、ゆっくり書いた。
『今日、会えて嬉しかった』
これは迷わなかった。次には少し掛かった。
『変な顔をされたらと思うと、怖くて言えなかった』
格好悪かった。知られたら呆れられるかもしれない。しかし消してしまえば、また大事なところを残すことになる。
もう一行加えた。
『分からないこともあるけど、俺の話を聞いてほしい』
書いたから話せるとは限らない。それでも畳んで引き出しへ戻すのはやめた。床頭台へ広げ、上にペンを置いた。
外の建物に明かりが増えていた。廊下から夕食を知らせる音が来る。
一夏は最後にもう一度メモを読んだ。消さなかった文が目に止まった。
怖くて言えなかった。
「……そこからだな」
小さく言った。次に会うときはそこから始めようと思った。
2009年5月25日月曜日、メディアファクトリー文庫Jから『IS 〈インフィニット・ストラス〉』第1巻が発売されました。
いまから21年前のことになります。
もうそんなに昔なのかと寂寥の感を禁じ得ません。
MF文庫J版は2011年4月11日、第7巻の発売を最後に絶版。新レーベルとして創設されたオーバーラップ文庫でのリバイバルと続編の発売も、2018年4月25日発売の第12巻を最後に途絶えてしまいました。
本作は「未完の原作を完結させる」という目標を掲げ、同時に「原作よりも『納得』ある物語を」という大原則に基づき制作されています。
よって原作よりも登場人物の拡張されたスピンオフゲーム『インフィニット・ストラス アーキタイプ・ブレイカー』を参考に、複数のオリジナルキャラクターを配置。原作キャラクターへの視点を増設しています。
10月30日時点でで原作第1~3巻の執筆が完了。
校正作業が完了次第、1日3話を上限として予約投稿を実施していきます。