Infinite Stratos:Archetype border 作:ぱらさいと
実習場へ入ると一夏は天井を見上げた。教室よりずっと高い。照明の間には用途の分からない設備まで並んでいる。
少なくとも教科書の文字を追うより目は楽だった。
「……もう、午後か」
「昼食を食べただろう」
隣の箒が答えた。
「食べたけどさ」
食べたのは覚えている。味も分かっていたはずだ。ただ食事の間も頭の隅では午前の説明が続いていた。
基本構造から操縦者との接続へ移り、エネルギー管理の次には展開と収納の手順が来た。一つ書く間に黒板には次の言葉が増える。
授業の初めには、見慣れない言葉を一つ覚えれば、その先が読めると思っていた。ところが真耶が画面に示した部品の名称を写し終えるころには、千冬が操作時の注意を述べている。顔を上げると前の説明を消して次の図に移るところだった。急いで端末を開いても、今度は何頁を参照しているのか探す時間が要る。
隣で箒は、書く手を止めて教壇を見つめる時間を作っていた。教科書の頁番号を先に控え、その下に必要な短い語だけ置いている。一夏も真似をしてみたが、どれが短くできる語なのか分からない。削ってはいけない部分まで消してしまいそうで、結局長く書き続けた。
それでも、最後に実習場の集合場所と服装を告げられたときだけは間違えなかった。聞き慣れた用件だったからだ。午前中で一つは覚えられた、と言っていいだろうか。自分で考えてから、それを胸を張って報告するのはやめておいた。
知らない単語を丸で囲んだら説明にも知らないものがあった。そこにも印を付けた。最後には大事な場所を探すノートなのか、分からないものを数えるノートなのか分かりにくくなっていた。
代表候補へ推薦されたのも今朝のことだ。随分前に思えた。
「あれ、皆、全部分かったのか?」
「私は全部とは言わん」
「……そうか」
「あとで読み返す」
安心しかけると付け足された。読み返すしかないのは一夏にも分かる。だが今開けばノートの言葉がまた全部押し寄せてきそうだった。
「箒の、見せてもらってもいいか」
「何をだ」
「ノート。俺のは途中で何を書いてるか分からなくなった」
「見せるのは構わん。ただ、私も完璧ではないぞ」
「そこは最初に言ってくれたから分かってる」
箒は口元を引き結び、それから鞄にしまった端末を指で叩いた。
「後で、分からない箇所を並べてみるか。どこで説明が分かれたか確かめられる」
「並べるのか。数えたら嫌になりそうだ」
「数を競うわけではない」
「……だよな」
午前の教室で手を挙げそびれたときも、隣から何度か見られていたことを思い出す。箒は声を掛けたかったのかもしれない。ただ千冬の授業を途中で遮って話し始めるわけにもいかなかった。今ならその話ができる。そう思っただけで、鞄の底にあるノートへ向き合う気力が少し戻った。
「座ってただけなのに、疲れるんだな」
「ずっと肩に力が入っていたぞ」
「入ってた?」
「今もだ」
肩を下げると首元にスーツの襟が触れた。制服より手足は動かしやすい。ただジャケットがなくなったことにはまだ慣れなかった。
集まった生徒は皆ISスーツを着ている。襟や関節のサポートを確かめるように、肩を回したり膝を曲げたりしていた。箒も肘を押さえて腕を伸ばす。
一夏の男子用は上下が分かれていた。襟や丈、関節の作りは皆とよく似ている。裾へ手を伸ばしかけて止めた。
更衣室で確かめた。ここまで歩いてもずれていない。何度も触る方が人目を引きそうだった。
「動きにくいか」
箒が声を落とした。
「いや。大丈夫」
一夏は腕を前へ伸ばした。生地がついてきても引きつれなかった。
倉持技研で作ったオーダーメイドだと説明された。学園にある打鉄シリーズを開発した研究機関でもある。採寸のときは運動着一着に随分手が掛かるものだと思ったが、今は助かっていた。
更衣室で着た直後は裾の位置を何度も確かめた。鏡の前で腕を上げ、腰をひねり、しゃがみ込んで膝の布がつれるかどうか見た。そこで時間を使いすぎ、出るのが一番遅くなるところだった。箒に呼ばれて振り向いたとき、慌てて袖を引いたことも覚えている。
学園へ来てから、男子用と書かれたものを手に取るたび、それで周りに何を伝えたいのか考えるようになった。服を選ぶときにまで毎回考えたくはない。だが何も考えずに選べるほど、今の身体と折り合いがついているわけでもなかった。
ただ、いま腕を伸ばして確かめられたのは助かった。関節が引っ張られない。息を吸っても胸元が苦しくならない。午後の操作で困ったことが起きれば、服が合っていないせいだと決めつける前に、先生へ何が起きたか伝えられる。
身体に合わせるだけでなく輪郭の目立ち方も調整されている。鏡で確かめたときと同じく肩を丸めず立てた。これからも寸法が合うとは限らないが、そのときはまた相談する。
一夏は顔を上げた。今は授業を聞く時間だった。
「……本当に、動く分には平気なんだ」
「そうか」
箒はそれ以上聞かなかった。頷いて前方を示す。
「一組はあちららしい」
床の目印へ一組が集まっていた。ミーシャも片足の足首を回している。短い髪を払い、こちらを見つけると手を上げた。
「お疲れさま」
「まだ、これからだろ」
「午前中の分」
「……それなら、疲れた」
ミーシャが頷く。
「ノートは取れた?」
「取った。取ったんだけど、あとで読めるか分からない」
「文字が?」
「意味が。文字もちょっと怪しいけど」
ミーシャが小さく笑った。
「分からなくなったところに印があれば、あとでそこから見直せる」
「印だらけなんだよ」
「じゃあ、最初からだね」
淡々と言われたので一夏も笑った。
「……お前のノートはどうなんだ」
「気になったところは書いたよ」
「分かったところ?」
「後で確かめたくなったところ」
「それって、分からないところと同じじゃないか?」
「そういうのもある。けど、先生が何を根拠に説明してるのか気になるときもあるから」
ミーシャは端末を胸の前へ持ってきて、画面を見せるでもなく親指で側面を撫でた。朝に代表候補として名前が挙がったときも、授業では余計な話を持ち出さなかった。質問するまで待つのかと思ったが、今の様子だと後で調べる項目をいくつも用意していそうだった。
「じゃあ、今から教えてくれよ」
「僕が?」
「お前の調べ方。全部じゃなくていいからさ」
「一夏が分からないって書いた印、最初の一つを教えて。その説明なら一緒に見られる」
「一つ、か」
それなら探せる気がした。問題を一冊分並べるよりは、ずっとましだ。
ミーシャの目が襟から腕へ移って顔に戻る。スーツのことは何も聞かれなかった。
「午後は一組と二組、一緒なんだって」
「ああ。さっき聞いた」
「人数が多いから、説明を聞き逃さないようにしないとね」
「……今、それを言われると厳しいな」
午前の続きを考えかけたところで入口から声がした。
「あ、来た。二組」
一組の女子が隣を肘でつついた。一夏も入口を見る。
二組がまとまって入ってきた。全員同じようなスーツなので、昨日廊下ですれ違ったかどうかもすぐには分からない。だが周囲の女子は次々に名前を挙げた。
「あれ、凰鈴音でしょ」
「どこ?」
「前の、髪を二つに結んでる」
示すより先に別の席からも声が出た。
「ほんとだ。大会の配信で見た」
「マルコーニもいる。え、背、高い」
背伸びして見る女子もいた。一夏もその先を追う。
前に小柄な少女がいた。一夏は足を止めた。
「……鈴?」
呼ばれた方も顔を上げた。目が合い、近づきかけた足が止まる。
「一夏、よね」
「ああ。お前も、ここに……」
言いかけたところで二組の集合を告げる声がした。鈴音は担任へ返事をしてから、もう一度一夏を見る。
「あとで話すから。勝手にいなくならないでよ」
「いなくならないって。授業だぞ」
鈴音が短く頷いた。
小学校で一緒に遊び、中学でも顔を合わせていた少女だった。中国へ帰ったと聞いてから、こうして会うのは初めてになる。
一夏は二組の列を見た。すぐにまた鈴音の顔を探し、見つかると目を逸らす。懐かしい相手へ何から言えばよいのか、いまになって迷った。部屋の真ん中で名前を呼んでしまったのは、考えるより先に口が動いたせいだ。
学校へ来るまで、彼女が日本へ戻っているとは知らなかった。会わなくなってからの時間を指で数えれば長い。なのに「勝手にいなくならないで」という言い方は以前のままだ。昔も、遊ぶ約束をしておきながら自分がどこかへ行くと、鈴音はそんなふうに怒った。
もっとも、今日の自分は時間割どおりに動くので精一杯だ。授業が終わったら約束をする。その順番をひとつ覚えておこうと思った。
黒いスーツに金銀で縁取った桃の花が一輪ある。飾りは少なくても歩くたびに目へ入った。
少し後ろにはワインレッドの少女がいた。長身で、歩幅にも立ち止まる姿にも目が向く。顎を僅かに引くだけで写真のようだった。
本人は物憂げな顔で実習場の奥を見ていた。
「……有名な人なのか?」
近くの女子が振り向いた。
「凰さん? マルコーニさん?」
「二人とも」
「二人とも、代表候補生だよ。凰さんは中国で、マルコーニさんはイタリア」
「それは聞いたような……」
「競技の映像とか、記事にも出てるから。マルコーニさんはモデルもやってるし」
「記事って、学校の資料に載ってたやつか?」
「もっと普通の雑誌にも載ってるよ。大会の特集とか、本人のインタビューとか」
「……見てなかった」
「織斑君、今からでも見られるよ。前の試合の映像、私が保存してるから」
「いや、午後の授業が先かな」
そう答えた一夏の横で、別の女子が笑った。
「今、授業って言った?」
「言うだろ。ここ、学校なんだから」
「もちろんそうだけど、織斑君って真面目だね」
「午前の説明に追いついてないんだよ!」
笑い声が大きくなった。言わなくてもよかったことまで話した気がして、一夏は頬を掻いた。試合の映像については、あとで教えてもらおうと思った。
隣の女子も口を挟んだ。
「化粧品の広告にも、テンペスタの新型機の記事にも出てるよ」
周囲では見た広告の話が続いた。一夏にはどれもすぐに浮かばない。ミーシャが隣でふうんと相槌を打った。
「何だよ。知ってるんじゃないのか?」
「本人には昨日会った」
「昨日?」
「料理研究会で。一緒に体験してた」
一夏は長身の少女からミーシャへ目を戻した。
「……料理、するんだ」
「興味があるから来たんだろうね」
考えてみればそのとおりだった。広告に出る人も部活の見学はする。一緒に作ったと聞くだけで、遠くに見えた相手が同じ新入生になった気がした。
「鈴音は僕のルームメイト」
ミーシャが付け加えた。
「あの、中国の?」
「うん」
「そうだったのか」
今度は小柄な方を見た。鈴音は視線に気づいたらしい。歩みを緩めて声を掛けた女子へ向き直った。
「凰さん、だよね?」
「そうだけど」
「この前の試合、見たよ。最後、あそこから抜けるの、すごかった」
鈴音の顔が明るくなった。
「あ、あれ? 見てたの?」
「うん。途中、もう無理かと思った」
「あそこは先に避けると追われるから。ちょっと待ったの」
片手で小さく動きを示した。その周りへ二、三人が寄ってくる。映像を見ていない一夏には場面が浮かばない。
鈴音は腕をいったん引き、足先をわずかにずらした。
「相手が先にこっちを見るのよ。それで寄せておいて、向き直る前に」
「え、そんな近くで?」
「離れてたら間に合わないって。ほら、ここ」
手を動かすたびに前髪が揺れる。実際の機体は何倍も速く動くのだろうが、足の置き方にはどこか見覚えがあった。昔、遊びで追いかけっこをしたときも、鈴音は相手が曲がる先へ先回りして待っていた。追う方がいつも先に息を切らしていた。
そんな記憶を思い出している間に、周囲から別の質問が飛んだ。鈴音は答えを急がず、まず相手がどの場面を言っているのか確かめた。そのやり取りを見て、一夏は自分が午前中に何度も聞き返そうとしていたことを思い出す。質問の仕方も、案外こういうところから習えるのかもしれない。
ただ嬉しそうなのは分かった。候補生の肩書よりも試合の動きを褒められた後の方が、よく声が出ていた。
「もう一回見たいから、どの試合だったか教えて」
「いいわよ。あとでね」
次の女子にもすぐ顔を向けた。輪が広がると鈴音の身振りまで大きくなる。
「マルコーニさん、ちょっといい?」
もう一人にも声が掛かった。フランチェスカ・マルコーニがゆっくり振り返る。
「何?」
「あの、広告、見てます。新しい色のやつも」
「ありがとう」
短いが相手の顔を見た返事だった。大勢から声を掛けられても自分まで調子を上げることはないらしい。
「本物だと、もっと格好いい……」
後ろから漏れた声にも困らなかった。慣れているのだろう。目をずらしたところでミーシャを見つけた。
「昨日の」
「うん。こんにちは」
「こんにちは」
挨拶をしながらこちらへ来た。周囲の女子も一緒に一組の列の脇へ寄る。
フランチェスカが輪の間から一夏の横へ入った。顔を向けると思ったより近くに肩があった。
長身なので顔を見るには自然と顎を上げる。その距離で見上げると、彼女の目がこちらを追っているのがはっきり分かった。話しかける相手を探しているというより、こちらが何を言うか待っているらしい。
「ここ、いい?」
「あ、うん」
半歩離れても話はできそうだった。だが周りにも人がいる。避けるように動くのも変なので、そのままにした。
「昨日、ミーシャと料理を?」
「うん。ちょっと」
「そうなんだ。何を作ったんだ?」
「彼女に聞いたら?」
「……ミーシャに?」
聞き返すとフランチェスカは小さく首を傾げた。ミーシャが横から返事をする。
「パンを使った料理と、お昼の話。昨日は一緒に手を動かしたんだ」
「なるほど」
「なるほど、って顔?」
「ちょっと意外だっただけ。記事に出てる人も料理研究会を見に来るんだなって」
フランチェスカは口元を緩めた。
「ごはんは食べるから」
「いや、それはもちろん」
「興味があるものは、見てみたい」
当たり前の返事だった。一夏はつい釣られて笑った。
反対側で箒が二人を見比べていた。何か言われるのかと思ったところで、フランチェスカが一夏へ顔を向ける。
眠そうな表情は変わらない。ただ一夏が顔を上げるのを待つ目には、先ほど広告の話を聞いていたときより強い関心が浮かんで見えた。
反対側で箒の靴が床を擦った。一夏が振り返ると、彼女は背筋を伸ばし、いつの間にか半歩近づいている。
「箒?」
「……列の場所が分かったか」
「ああ。一組はあっちだって」
「なら、いつ呼ばれても動けるようにしておけ」
急に実習の話へ戻ったので一夏は目を瞬かせた。箒の目はフランチェスカにも一度向いた。何か言いたそうだったが、口にはしない。入口には二組の生徒がまだ流れ込んでいる。通路を塞いではいけないと気づき、一夏は少し立つ位置を調整した。
フランチェスカはそれを見てすぐ隣の空いた場所へ収まった。無理に腕をつかむことも、移動を妨げることもしない。その落ち着きがかえって一夏には不思議だった。
「昨日の続きは今度また聞いてもいい?」
ミーシャに声を掛けられ、フランチェスカが一度目を細めた。
「食べたものの話?」
「うん。東京の」
「……覚えておく」
溜息とも笑いともつかない息が漏れた。そばの女子がミーシャを見る。
「機体の話じゃないんだ」
「それは記事でも読めるから」
「ああ……」
分かったような分からないような返事だった。一夏には分かる。ミーシャは本当に昼食の続きを聞きたいのだ。潜水艦や英国の研究機関の話も同じ顔でしていた。
「グラハムさん、その二人と知り合いなんだ」
そこで鈴音も輪へ来た。ミーシャと並ぶと背格好がよく似ている。二人の横ではフランチェスカの長身が一層目立った。
「二人って、あたしも入ってる?」
「同室だと聞いた」
フランチェスカが答える。
「……そうよ。同室」
鈴音がミーシャを見た。
「今朝、ちゃんと自分の机、使えたでしょうね」
「うん。ありがとう」
「別に、お礼を言われることじゃないけど」
「そうだね。僕の机だから」
鈴音の眉が上がった。何かあったのかと一夏は思ったが、ミーシャは部屋の話を続けなかった。
「お前ら、もうそんなに仲良くなったのか」
「どこを見てそう思ったのよ」
「いや、普通に喋ってるし」
「同じ部屋なんだから喋るわよ。あと荷物はちゃんと片づけたの」
「うん。入口の箱も」
「だから、それをわざわざ言わなくていい!」
一夏は口を閉じた。聞いてもいないことで鈴音が慌てている。ミーシャは相変わらず落ち着いた顔だったが、部屋の様子が少し想像できた。自分も箒と同室になってから、まだ日が浅い。暮らし方を合わせるのには、話し合うことがいくつもある。
「分かった。今度は部屋の外で遊ぼうぜ」
「……今度って、今日は話せるんでしょ」
「ああ。授業のあと」
「だったら忘れないで」
鈴音はそう言って、自分で少し笑った。
ミーシャが頷いた。部屋の話はそこで収まり、一夏もそれ以上尋ねなかった。周りには聞いている女子が何人もいる。寮でのことなら、二人だけで済ませたい話もあるだろう。
「お揃いですのね」
澄んだ声に振り向いた。セシリアが近づいてくる。
深いサファイアブルーのスーツだった。鈴音の黒、フランチェスカのワインレッドと並ぶと、いっそう鮮やかだった。襟も関節のサポートも実習用に整っていたが、身につけると彼女のために選んだ色のように見えた。
いや、実際そうなのだろう。一夏が考えていると近くの女子も気づいた。
「そのスーツ、専用機用?」
近くの女子が尋ねた。
「ええ。わたくしの機体の仕様に合わせたものですわ」
「きれいな色だね」
「ありがとうございます」
微笑むセシリアを見て朝の話を思い出した。機体の姿は見えなくても、身につけた鮮やかな青が彼女の専用機を思わせる。黒板の前で聞いた言葉に、ようやく具体的な色がついた。
「オルコットさんも、英国の候補生なんだよね」
「ええ」
「でも、私、朝まで知らなかった。大会にはあんまり出てないの?」
女子は自分で言ってから慌てた。
「あ、ごめん。知らないだけだったら」
「お気になさらず。競技選手として、皆様の目に触れる機会はそう多くありませんもの」
セシリアの声は穏やかだった。
「わたくしは軍属のテストパイロットとしての仕事が中心ですから。競技の記事をご覧になる方にも、馴染みは薄いと思いますわ」
「テストパイロットって、出来た機体に乗って確かめる人?」
さきほどの女子が尋ねた。セシリアは質問を聞いてから頷いた。
「そういった仕事もありますわ。運用前の確認や、機体の状態を調べるための試験を行うこともあります」
「それ、怖くないの?」
「決められた手順に従いますから。試験の内容はその日の担当と確認しますし、終われば結果を残します」
セシリアは左手で右の袖口を軽く整えた。説明を終えると、相手がまだ疑問を持っていないか確かめるように目を向ける。
「それで、試合には出ないの?」
「機会があれば、もちろん興味はありますわ。ですが、わたくしの予定は試験が先に組まれることが多いものですから」
「へえ……」
一夏も頷いた。午前中、試験の手順という言葉を何度も聞いたが、実際にそれを仕事にしている人が隣で話すと、紙の上の言葉が少し近くなる。
「試験の結果って、公開されるんですか?」
「仕事としての操縦は公開されるものばかりではありませんので」
女子が納得して頷いた。何を試しているのかとは続けない。一夏も黙っていた。ミーシャも朝のように分析を足さず、説明を聞いていた。
「同じ代表候補生でも、色々なんだな」
フランチェスカが頷いた。
「所属先が求めることも違うから」
「そっちは試合も広告も?」
「試験も」
「……全部か」
物憂げなまま肩が少し動いた。
「予定が重なると、少し面倒」
返事をするときフランチェスカは一夏へ顔を寄せた。言葉を聞き取るには十分すぎる距離だったが、一夏は話の内容に気を取られて頷いていた。視線を戻したとき、箒がまたこちらを見ているのに気づいた。
一夏には少し面倒、で済むのが不思議だった。半日の授業で頭がいっぱいなのに、彼女たちは学校へ来ながら国や企業の仕事も続ける。そのために何を覚えて練習してきたのだろう。
同じ一年生でも随分先にいるように見えた。
一夏は自分の手を見た。午前中のノートには、操作の理由を聞くどころか、手順を書き写せなかったところが残っている。その一方で目の前の三人は、機体に乗って人に見られる仕事をすでにしている。鈴音は人前で動きを再現し、フランチェスカは何本もの予定を気軽に話し、セシリアは質問されれば試験の用件を説明できる。
そのうちの一人は、以前からよく知っている鈴だった。子どものころの彼女が何を練習してきたか、一夏は知っているつもりでほとんど知らなかったのだろう。
「……鈴、ずいぶん練習したんだな」
「何よ、急に」
「さっきの説明。ああいう動き、俺にはまだ想像もつかない」
「そりゃ、あんたはこれからでしょ。最初から全部やれる人の方が少ないわよ」
「……そうか」
「そうよ。それに、一夏って変なところで粘るじゃない。できないと思ったら、まずそこを直そうとしてたし」
それはいつの記憶だろう。聞き返す前に、近くから自分の顔色を指摘する声がした。
「織斑君、顔、疲れてるよ」
言われて一夏が瞬きをした。
「そんなに?」
「午前中、ずっと書いてたもんね」
「追いつこうとすると、そうなるんだよ」
鈴音がこちらへ向いた。
「全部、一度に覚えようとしてるんじゃないの」
「覚えろって言われたことを、覚えようとはしてるけど」
「それはそうだけど。実際に触ったら分かることもあるわよ。図だけで、全部分かった気になるよりはいいんじゃない?」
一夏は意外に思って鈴音を見た。彼女はもう実習場の奥へ目を戻していた。
「今日、何からやるんだろ。展開だけで終わるのかな」
「まずは説明を聞くところからでしょう」
鈴音が肩をすくめた。
「それは分かってるわよ」
近くで笑いが起きた。一夏も少し気が軽くなった。鈴音も今日の授業については先生の説明を待っている。みんなで前を向く時間がもうすぐ始まる。
奥の扉が開いた。千冬と真耶が現れる。前の方から順に声が小さくなった。
「一組、二組。それぞれ、指定の位置へ並べ」
千冬の声が高い天井の下を通った。
「はーい。出入口を空けてくださいね。列の間も、もう少し広く取りましょう」
真耶の手に合わせて輪がほどけた。
「じゃあ、また」
フランチェスカが頷いた。鈴音と一緒に二組へ戻っていく。声を掛けていた女子たちも名残惜しそうに自分の位置を探した。セシリアの青も列の向こうへ移る。
一夏は床の目印へ足を合わせた。肘を伸ばして膝を曲げる。サポートは引っ掛からず呼吸も楽だった。下を向いて服を確かめ続ける必要はない。
箒が隣で前を向いた。ミーシャも少し先にいる。
「午後は二クラス合同で実技演習を行う」
千冬が二組の列まで見渡した。
「経験のある者もいるだろうが、指示を待たずに機体を展開するな。まず、こちらの説明を聞け」
一夏は頷いた。まず聞く。それなら今何をすればいいのか分かる。
真耶が端末を操作した。画面に実習用の図が出る。午前にも見たものだった。ノートのどこかへ同じ図を書いた気がする。
今度はその実物がここにある。一夏は目を細めて表示を追った。
「分からないことがあれば、その場で質問してくださいね。分からないまま操作を進める方が危険ですから」
真耶は表示を少し戻した。図の横に、次の操作へ進む前に確かめる項目が並んでいる。
「実習で大切なのは、いま自分がどこまで操作できているか確かめることです。分からない表示が出たら止めてください。機体の状態は先生たちも確認しますからね」
一夏は午前のノートの一頁を思い浮かべた。あそこに描いた印は確か、動作を始める前の確認についてだった。紙の上では単語だけが並んでいたが、いま画面には順番が矢印で結ばれている。
「……山田先生」
返事を待つ間、一夏は声が大きすぎなかったか気になった。一組の数人がこちらを見る。
「はい、織斑さん。何でしょう?」
「いまの図、最初に確認するのは機体の状態ですか。それとも、操縦者の方の準備ですか」
真耶は画面の左端を示した。
「両方を確かめますが、いま説明しているのは装着前の確認です。こちらに並んでいる項目を順番に見てください。操縦者の準備については、その次の図で説明します」
「分かりました。ありがとうございます」
答えられた。一夏が自分の前の床へ視線を戻すと、横で箒が一度だけ頷いた。聞くことができたというだけなのに、午前中に抱えた気がかりが一つ減った。
一夏は画面から真耶へ目を移した。午前も聞き返したかった。どの単語から分からないか考えるうちに授業が進んでしまったのだ。
今、一つは尋ねられた。次の図で迷ったら、また聞けばいい。触れば分かることもあると鈴音は言っていたが、操作する前に先生へ確かめなければならない。
図が切り替わった。一夏は両手を脇へ下ろして前を向いた。疲れは残っている。それでももう一度説明を聞く気にはなっていた。