Infinite Stratos:Archetype border 作:ぱらさいと
違和感がまだ留まっている。
ISスーツ着用中は操縦に全神経が向く。その分、制服へ着替えたあと、つるりとした下腹部の感触を意識してしまう。
自分の身体と理解していても無理だ。
落ち着かない。
廊下を歩いていると凰鈴音が壁にもたれ掛かっていた。
「顔色、悪いけど」
一夏は額に手を当てた。頬の熱は引き始めているが、耳の奥にはまだ警告音が残っている。廊下を通る生徒の足音まで少し遠く聞こえた。鈴が心配そうにこちらの顔を覗き込み、一夏は背筋を伸ばして答えようとした。
「疲れた。けど平気」
「だったら座れば? 見栄を張るようなタイミングでもないんだから」
通路脇のベンチが空いていた。鈴はそこを顎で示す。ミーシャは二人を見てから箒と一緒に少し先の給水機へ向かった。
一夏が座ると、鈴も隣へ腰を下ろした。実習で再会してから昼休みや廊下で短い話はしていた。それでも二人だけで腰を据える時間はなかった。
給水機の方から風が抜けた。鈴が一夏へ顔を向け、少し首を傾げる。
「あんた香水つけるようになったの?」
「香水? 使ってないけど」
「そう。前はそういう匂いしなかったから」
一夏は自分の袖を見た。洗剤かもしれないと答えると、鈴はそうなの、とだけ返した。会っていなかった間に好みも変わったのだろう。彼が否定したのでそれ以上は聞かなかった。
鈴が香水と取り違えたのは治療後に少しずつ変わっていた一夏自身の体臭だった。一夏は声が高くなったことには気づいていたが、自分の匂いまでは比べていなかった。
「いい勝負だったわね」
「ミーシャがいたからな」
「デビュー戦で代表候補生と実質相打ちなんて、フツーは大事件なんだから」
鈴の口調には呆れがあった。
彼女は国際選手なのだ。
「鈴は国際大会で二回も勝ってたんだな。知らなかった」
「中国へ帰ってから、いろいろあったの。練習もしたし、負けた日もある」
向こうの扉からフランチェスカが出てきた。鈴の目がそちらへ動く。
「U15のとき、フランチェスカに連覇を止められた」
「先生もその話をしてたな」
「そう。U18の方は通算で二度勝った。でも、あの子に負けた試合の映像は今でも覚えてる。優勝の回数だけ聞いて、あたしが全部勝ち続けたと思わないでよ」
「思わないって」
鈴は瓶の蓋を指で回した。試合の映像を見直すたびに、あの日の相手の足運びが目に入るのだと言う。画面を開くだけで嫌になった時期もあったらしい。
「U15であの子に止められたときは、見てる人が思ったより多くてさ。後から何度も映像が回ってきたの。最初は端末を開くのも嫌だったわ」
一夏は何と返せばよいか分からず、膝の上の瓶を見た。鈴が話しているのは勝ち星の数より、負けてから同じ映像を見直した時間らしい。
「それでもまたやるんだな」
「当たり前でしょ。あたしの大会はあれで終わりだったけど、ここでの試合はこれから。……あんたもそうじゃないの?」
「もちろん」
笑って答えると、鈴が少しだけ顎を上げた。昔の記憶にある、勝負を挑む前の顔だった。
鈴は膝へ肘を置いた。笑っていたが、視線はまだ長身の少女を追っている。
「最後当たると思ったの。一手前まではちゃんとできてた。なのにあいつの剣先を追ったところでもう足が止まってた」
一本先取の実習で鈴が相手の腕を挟んだ瞬間を思い出した。
「この前の体当たりはそのときから考えてたのか」
「そのあと。あいつが突いてくるところばっかり見てたから抜ける方まで練習した」
フランチェスカがこちらに気づいた。声を掛けるより先に近づいてくる。
「やあ。具合はどうかな」
「大丈夫。ちょっと休んでるだけだよ」
彼女は一夏の前で止まった。顔へ落ちた髪を目で追ったあと鈴へ向き直る。
「鈴試合は来週だそうだよ」
「ああ。二組の代表を決める方ね」
「どちらが勝っても準備の日数は同じだ。ゆっくりはできないね」
鈴がベンチから背を起こした。
「分かってるわよ。あんたまた決勝の映像持ってくるんでしょ」
「君はあの体当たりを持ってくるんだろう?」
少しの沈黙のあと二人の口元が笑った。
遠慮なく割って入るには狭い隙間だ。
フランチェスカの手が伸びる。指先で、乱れた前髪をそっと整えた。毛先には湿気が残っている。シャワーの残り香を感触として堪能しフランチェスカは微笑んだ。
「目に入ってしまうよ」
「言ってくれれば、自分でやるって」
「では次はそうしよう」
返事はさらりと流れていった。
視線の熱だけは一夏にも察せられる。
彼女の奇癖にどう対応するのか。経験だけでは答えが見当たらない。
鈴はフランチェスカが座るためのスペースを譲った。
「全部付き合わなくていいのよ」
言われると返事に困る。
フランチェスカは一夏の結んだ髪へもう一度目を向けた。試合の間に横へ落ちた細い束が首に触れている。
「その髪邪魔にならなかったかい」
「髪? 後ろは何とか。横の方はちょっと」
「次は留めておいで。君の目まで隠れてしまうのは惜しいな」
鈴が彼女を見た。初対面の相手へ向けるには随分と細かいところまで見ている。
「それなら、あたしも持ってる。試合のときいつも使ってるし」
「私も使うよ。君は結べばすぐ動けるだろう。彼の方はもう少し時間が要りそうだ」
フランチェスカは淡々と答えた。一夏は自分の髪へ手をやり、慌てて下ろす。触ればまた崩れそうだった。
「あとで自分でも見てみるよ。ありがとう」
礼を言われると、長身の少女は少し口元を緩めた。鈴に何か言われる前に小さく手を上げて歩いていく。
通路の向こうで彼女の名前を呼ぶ生徒がいた。フランチェスカは立ち止まり、相手の質問を聞いている。ここで見せた僅かな笑みはもういつもの物憂げな表情へ戻っていた。
フランチェスカが去ったあと鈴は息を吐いて座り直した。
「ナイスファイト。今日は無理しないで、よく休みなさいね」
「その前に今日の分を反省しないと」
「手伝ってあげてもいいわよ。相手の記録まで渡す気はないけど」
「助かる。俺、まだ分からないことばっかりだし」
すぐに頼まれたので鈴は返事をするまで一度、一夏を見た。
再会したときに驚いた髪は肩のところで細く揺れていた。声も覚えているより少し柔らかい。それでも何を尋ねるか考えている目は一夏だった。
「病院のこと、今聞いてもいい?」
一夏の指が、瓶の蓋に触れた。
「話せる分だけなら。治療して、今も通院してる。今日の試合は医務室にも相談して出てる」
一夏は説明を一度止めて、鈴が聞き返すのを待った。昔なら、何かを思いつくと先に言い合ってしまった二人だ。今の鈴は視線を外さず、一夏の手が瓶を強く掴んでいないかまで見ている。聞きたいことがいくつもあるのだろう。それを並べずにいてくれる。
「身体、きつかった時期もあった?」
「うん。病院で言われたことを覚えるので精一杯の日もあった。でも今はこっちで生活できてる。学校の予定も、自分で決めてる」
「そっか。……連絡すればよかった」
「俺もしてなかった。今こうして話せてるし、これからは連絡できるだろ」
鈴は端末を取り出しかけ、やめた。
「あとで交換する。いま出したら、あたしがそれを口実にしたみたいじゃない」
「別にいいと思うけど」
「よくないの」
その声の強さが懐かしかった。一夏は笑うところを探し、途中でやめる。彼女は自分が知らなかった時間を、責めずに聞こうとしている。こちらにも答えられるところがある。そのことが、試合直後の疲れの中ではありがたかった。
「そっか」
「細かいことは俺もまだ、説明が上手くできない」
鈴は少し口を開きかけ、閉じた。視線を廊下へ向けてから頷く。
「じゃあ、今はそれでいい。休む日があったら、先に言いなさいよ。知らずに引っ張り回したくないし」
「……ああ。ありがとう」
給水機からミーシャが戻ってきた。鈴は隣の空きを指してから一夏を少し向こうへ押した。立ち上がれと言われるのかと思ったので一夏は笑った。
箒が、もう一本の水を持って戻ってきた。ベンチの空いている側を見て、少し離れた場所へ立つ。
鈴が顔を上げた。午前の授業で名前は聞いていたが、こうして言葉を交わすのはまだ少なかった。
「篠ノ之さん、だっけ」
「篠ノ之箒だ。箒で構わん」
「じゃあ、箒。あたしは鈴でいいわよ。小さいころから一夏と知り合いなのは聞いた」
箒は一夏へ目を向け、それから鈴へ戻した。
「そちらも小学校からだと聞いた」
「そう。あんたが転校したあとね」
互いに知っている期間を確かめる言葉だった。どちらが長いかを比べたいのだろうか、と一夏が考えていると、ミーシャがその間へ手帳を置いた。
「一夏、今日はこのあと医務室へ寄る?」
「疲れの記録だけ出しとく。診てもらうよう言われたら、残るつもり」
「分かった。夕食のとき来なかったら先に食べるね。食堂を閉めるまで待っていたら、僕たちも困るから」
「ああ。それでいい」
鈴が少し目を細めた。誰かが一夏のために予定を空け続ける返事ではなかった。聞かれた本人も無理に大丈夫だと言い張っていない。
「じゃ、あたしも先に寮へ戻る。これから部屋で二組の予定を見るから」
ミーシャが頷いた。同じ部屋で暮らす相手同士の、短いやり取りだった。
一夏はベンチから立った。鈴は反射的に腕へ手を伸ばしかけ、途中で止める。立ち上がるのを助ける必要があるか、本人の動きを見たらしい。
「平気だよ。座ったら、ちょっと戻った」
「そう。ふらついたら、ちゃんと言いなさいよ」
一夏は頷いた。別れ際、鈴がもう一度呼び止める。
「一夏。昔の約束のこと、覚えてる?」
「約束?」
鈴の顔が僅かに明るくなった。今度はすぐ返事をしてもらえると思ったらしい。箒もその顔を見ていた。
「料理。あたしが、上手くなったらって話」
一夏は少し考えた。彼女の父の店で食べた料理。放課後に何人かで遊び、遅くなってから追い出されるように帰ったこと。家へ戻る前腹が減ったと口にした自分の声が浮かんだ。
「ああ。酢豚、だっけ。練習してるって言ってたよな」
「そこまでは覚えてるのね」
鈴が頷いた。声はまだ期待を含んでいた。
「食べさせてくれるって、話してた。あのあともう一回、店で食べたと思うんだけど」
「店の酢豚の話をしてるんじゃないの」
少しずつ声が低くなった。一夏は何を思い出し損ねたのか考えた。箒は横から何か言いかけ、口を閉じる。ミーシャは手帳をしまったまま、どちらにも助け舟を出さない。
「鈴が作った方? だったら、確か、また作れるようになったら食べにおいでって」
「……そう」
鈴は一度、俯いた。すぐ顔を上げたときには先ほどよりはっきりと口元を引き結んでいた。制服の袖口へ伸ばした指を途中で止め、次に何を話すべきか考えているようだった。一夏はすぐに言い返す言葉を見つけられず、廊下を横切る生徒の足音を聞いていた。鈴が話し始めるまで、前のように冗談で済ませようとはしなかった。
「今何でもないって言って終わらせるのはちょっと癪だから。あたしにはもう少し大事な話だったってことだけ、覚えておいて」
一夏の返事が止まった。何を期待されたかまではまだ分からない。だが、腹が減ったときに寄っていいという意味だけで答えたのが、よい返しではなかったことは伝わった。
「……分かった。もう一度ちゃんと聞いてもいいか。今じゃなくても」
鈴はすぐには答えなかった。通り過ぎる生徒がいて、四人は壁際へ寄る。誰かが聞いている場所で説明を続けてもらうような話ではなさそうだった。
「今日はここまで。あたしも何を言いたいか、今の顔見て分かんなくなったし」
鈴はそう言い、踵を返した。怒って歩いていくようにも見えたが、数歩先で振り返る。
「試合の約束の方は忘れないでよ」
「忘れない。二組の代表になるんだろ」
鈴は一夏の目を見た。勝負の話なら、返事をためらう必要はない。幼いころから、一夏は誘われればまずどう戦うかを考える。自分を待たせている人間のことには時々驚くほど鈍いくせに、身体を動かす約束だけは覚えている。
「なるわよ。あんたも早く休んで、次までに元気になっときなさい」
「今日はこれから医務室へ行く」
「そう。なら先生にちゃんと見てもらって」
鈴は肩を叩こうと手を伸ばしかけたが、途中で止めた。代わりに手のひらを一夏へ向ける。一夏が軽く合わせると、鈴は先に歩き出した。
短い挨拶のあと、鈴が曲がり角を抜けるまで一夏は見送った。昔は別れ際に次の遊び場を決めていた。今は授業と試合の予定を照らし合わせる必要がある。それでも、次に話す約束は残った。
一夏は箒を見た。
「俺、何か、ひどいこと言ったか」
「私に彼女の気持ちを代わりに説明させるな」
箒はすぐ答えた。だが、一夏を置いて歩きだそうとはしなかった。
「大事だったと言われたんだ。次に話せるとき、きちんと聞け」
「……ああ」
ミーシャもどこが悪かったかを順に並べることはしなかった。一夏へ医務室のある方を示すだけだった。
一夏は医務室のある方を見た。セシリアと話す機会はまた作れるだろう。今は試合を終えた身体を診てもらうという約束が先だった。箒とミーシャが歩調を合わせ、廊下の角へ向かった。
「まず君の予定を済ませよう。立って話している間に休む時間が減った」
三人で廊下を歩いた。足元に午後の光が細く落ちていた。
医務室では試合を終えた時刻と、そのあとで水を飲んだことを話した。大きな問題がなければ、今夜は追加の実習をせずに休むよう言われる。一夏はその場で練習場の予約を取り消す連絡をした。
鈴にも今日は誘えないと短く送った。すぐ返ってきた文は分かった、の一言だった。そのあとに夕食は食べろ、という文が足された。
一夏は笑いかけ、端末を閉じた。
医務室の前で一夏を見送ると、ミーシャは寮へ向かった。途中の廊下で鈴に追いつく。彼女も二組の用事を済ませて戻るところだった。
「一夏、どうだった」
「今日は休むって。予定していた練習も取り消した」
「そっか」
鈴は頷き、もう一度医務室の方を見た。ミーシャが詳しい話を足さないので、そのまま二人で歩き出す。
部屋へ着くと、鈴はベッドへ腰を下ろした。ミーシャも自分の机へ鞄を置く。今では相手の椅子を塞がず、それぞれの荷物を置く場所があった。
鈴は昔の写真を一枚出した。父の店の前で撮ったものだ。ミーシャが顔を向けると、画面を少し寄せる。
「これ、一夏。髪、まだ短いけど」
「うん。君も写ってるね」
「店の前で撮ったの。まだ日本にいたころ」
写真へ指を置き、次の一枚へ送った。会わなかった間の話は一枚ずつ見ても全部は分からないと鈴が言う。ミーシャは頷いた。こちらが知っている今の一夏から、昔の毎日まで説明できるわけではない。
「あたしの方にも写真にないことはあるしね。中国へ帰ってからの練習とか」
「その話も一夏にする?」
「そのうち。今日全部聞いてもらうつもりはないわよ」
鈴は写真を閉じ、二組の試合予定へ戻した。フランチェスカの名が向かいにある。ミーシャが開始時刻を尋ねると、そこだけ見せてから画面を消した。
「夕飯、行く?」
「行く。君は?」
「行くわよ。あんた、一人で先に何か食べたわけじゃないでしょうね」
「さっき水は飲んだ」
「食べたか聞いてるの」
ミーシャは首を振り、机へ置いた端末を閉じた。鈴も自分の画面を消し、立ち上がる。
廊下へ出ると、食堂から香辛料の匂いがした。鈴は昔、一夏を待たせて料理を運んだ日のことを思い出した。味付けを何度も確かめ、皿の向きを直し、結局は置く前にどんな顔をしているか見てしまった。
一夏は食べるのが早かった。美味しいと言われれば嬉しかったが、あっという間に皿が空になると、せめてもう少し話してほしいとも思った。鈴が同じ量を食べ終わるまで、箸を置いて待っていた日もある。
あのとき一夏は何を話しただろう。学校のことか、弾が失敗した話か。思い出せないのに隣へ置かれた空の皿だけは覚えていた。
「今日は何があるかな」
ミーシャの声がして、鈴は顔を上げた。
「先に献立を見てきたんじゃないの」
「見た。でも前に売り切れてたことがあったから」
相手は真剣だった。鈴は少し笑い、じゃあ早く行こうと足を速めた。いま一緒に食べる相手まで黙って待たせるつもりはない。昔の皿の話はまた一夏に会ったときでよかった。
食堂の入口で一夏の好きだった料理を探しかけ、鈴は献立へ目を戻した。今日は自分が食べたいものを選べばいい。炒めた野菜の写真を指すと、ミーシャはその隣の大盛りの皿を見ていた。鈴は先に注文し、相手の分が出るまでトレーを持って待った。
昔の約束をもう一度最初から考える必要があるかもしれない。だが今夜は同室の相手と食堂へ行き、明日の試合練習に備える。そう決めると、少し腹が減っていることに気づいた。
食堂でセシリアに会うと、鈴は試合の感想を一言伝えた。二人を同時に追う場面で最後までビットを戻していたことを褒める。セシリアは礼を言い、次に見る側なら途中で映像を借りたいと答えた。
「だったら連絡先、交換しとく?」
「ええ。こちらでお願いします」
鈴が登録を返す。同期の小さな印が消えたところで、二人とも端末を下げた。
セシリアが端末をしまうと、鈴もポケットへ戻した。ミーシャが食事を受け取って来たので、三人で空いた席へ移る。
「明日の時間、送っておくわ」
「ありがとうございます。こちらも使える映像を確認しておきますわね」
鈴が頷く。セシリアはカップを寄せ、ミーシャがトレーを置ける場所を空けた。予定の話が済むと、目の前の料理へ話が戻った。