人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
土曜日の朝、僕は久しぶりに、目覚まし時計より先に目を覚ました。
窓の外は薄曇りだった。十一月も終わりに近づき、朝の空気には、冬の入口に立つ者だけが知るような冷たさがあった。
テーブルの上には、昨夜のうちに用意した鞄がある。中身は財布とスマートフォン、それから、読み終えた本。彼女に感想を話すつもりだった。
もっとも、感想と呼べるほど立派なものがあるわけではない。気になった台詞がひとつ、結末について考えたことが少し。それだけだ。
それでも、彼女と話すために用意したものがあるというのは、悪くなかった。
僕は朝食を済ませ、戸締まりを確認して家を出た。
今日の行き先は、学生の頃によく訪れた公園だった。
広い芝生と池があるだけの、特別なものは何もない場所。仕事に追われるようになってからは、足を運ぶこともなくなっていた。
彼女が気に入るかどうかはわからない。
けれど、自分が好きだった場所を、誰かに見せてみたいと思ったのは初めてだった。
*
「……本当に、何もないね」
公園に着いて十分ほどで、彼女はそう言った。
「そうだね」
「否定しないんだ」
「何もないところが好きだったから」
「へえ。おじさんって、何もないところに座って、何もせずに時間を潰すのが趣味だったんだ」
「ずいぶんな言い方だな」
「だって、そうでしょ? 休日の使い方がよわよわすぎるもん♡」
彼女は笑いながら、池のほうへ歩いていった。
水面には、冬の薄い光が揺れていた。鴨が数羽、岸辺の近くを泳いでいる。子供を連れた家族が通りかかり、少し離れたベンチでは、年配の男性が新聞を広げていた。
どこにでもある休日の風景だった。
彼女は池を眺め、それから僕を振り返った。
「でも、まあ」
「うん?」
「こういうのも、悪くないね」
その言葉に、僕は少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった」
「何その顔。あたしがつまんないって言ったら、責任感じて公園の管理事務所に謝りに行くつもりだった?」
「そこまではしないよ」
「ほんとかなあ。おじさん、変なところで真面目だから」
彼女は、僕の袖を軽く引いた。
「ほら、歩こうよ。せっかく来たんだから」
僕たちは池の周りをゆっくり歩いた。
彼女は途中で見つけた木の実を拾いかけ、何かを思い出したように手を引っ込めた。僕が尋ねると、「別に。持って帰っても使い道ないし」と答えた。
そのくせ、しばらく進んでから、落ちていた形のいい葉を一枚拾った。
「それは持って帰るんだ?」
「これはきれいだから」
「木の実も、きれいだったと思うけど」
「おじさん、いちいちうるさいなあ」
彼女は葉を指先で挟み、こちらに見せた。
「ほら。色がいいでしょ」
僕は、それを眺めた。
「うん。いい色だね」
「……でしょ」
彼女は少し満足そうに笑い、葉を鞄にしまった。
僕は、彼女が何をきれいだと思うのか、もっと知りたいと思った。
彼女の好きな本や場所を知るのと同じように、こういう小さな好みを知っていくことも、誰かと親しくなるということなのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、彼女が僕の顔を覗き込んだ。
「また考え事?」
「少しね」
「人生について?」
「そこまで大げさなものではないよ」
「じゃあ、あたしについて?」
不意を突かれ、返事が遅れた。
彼女は、すぐに笑った。
「うわ、図星? おじさん、わかりやすすぎ!」
「……君は、からかうのが好きだね」
「おじさんがからかい甲斐のある生き物だからねぇ♡」
僕は苦笑した。
彼女の冗談に、以前ほど身構えなくなった。何かを言い返せなくても、無理に取り繕う必要はない。彼女もまた、僕が黙ったからといって、いつも答えを求めているわけではなかった。
そういう間合いが、少しずつわかってきた気がした。
*
公園を出たあと、僕たちは近くの商店街へ向かった。
昼食には少し早かったが、軒先から漂う焼きたての匂いに、彼女が足を止めたのだった。
「たい焼きだ」
「食べる?」
「おじさんのおごり?」
「……僕が誘ったんだから、それくらいは」
「やった。言質取ったからね」
彼女は得意げに笑い、店先へ向かった。
たい焼きを受け取ると、彼女はさっそくひと口かじった。熱かったらしく、頬を膨らませて何度か息を吹きかける。
「熱っ……! なにこれ、熱すぎ!」
「焼きたてだからね」
「知ってるよ! だからって、容赦なさすぎでしょ!」
僕が笑うと、彼女は恨めしそうに睨んだ。
「おじさん、今笑った?」
「少しだけ」
「最低。人の不幸を楽しむ三十三歳。人間性よわよわ♡」
「君も、さっき僕を散々からかっただろう」
「それとこれは別ですぅ」
そう言いながら、彼女はたい焼きを少し僕のほうへ差し出した。
「ほら。こっち側、少し冷めてるよ」
「いいの?」
「食べたいんでしょ?」
「いや、君が食べたいんじゃないかと思って」
「……こういうときくらい、素直に受け取ればいいのに」
彼女は、少しだけ眉を寄せた。
僕は笑って、差し出されたところをひと口もらった。
「ありがとう。おいしいね」
「でしょ」
彼女は満足そうに頷いた。
そのとき、背後から声がした。
「……あれ?」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、厚手のコートを着た女性が、驚いた顔でこちらを見ていた。
「……姉さん?」
「えっ、ちょっと。なんであなたがここにいるの?」
姉だった。
遠い実家に住む姉が、なぜこの街にいるのか。僕は一瞬、状況を理解できなかった。
聞けば、仕事の出張でこちらへ来て、翌日の予定に備えて一泊することになったらしい。ホテルへ向かう途中、商店街を見つけて寄り道をしていたのだという。
「偶然ってあるんだね」
僕が言うと、姉は笑った。
「本当ね。連絡してくれれば、こっちから会いに行ったのに」
「いや、出張だろう。忙しいと思って」
「そういうところよ、あなたは」
姉は呆れたように言って、それから僕の顔をじっと見た。
「……でも、元気そうでよかった」
「うん。姉さんも元気そうだね」
「そうじゃなくて」
姉は、少し目を細めた。
「あなた、楽しそうに笑うようになったのね」
僕は返事に困った。
隣では、彼女がたい焼きを持ったまま、姉と僕を交互に見ていた。
「こんにちは。いつもお世話になってます」
彼女は、いつもの調子を少しだけ整えて挨拶した。
「あら、こちらこそ。弟がお世話になっているみたいで」
「いえいえ。こいつ、放っておくと食事も適当だし、仕事のことばっかり考えるし。ほんっと、手のかかるおじさんなんですよ」
「おい。初対面でそこまで言う?」
「事実でしょ?」
「……事実だけど」
「ほら、反論できない。よわよわ♡」
姉が声を立てて笑った。
「ふふっ。いいお友達ができたのね」
お友達。
その言葉に、彼女の笑顔がほんの少しだけ止まった。
けれど、すぐにいつもの顔に戻る。
「まあ、あたしが優しいからね。感謝してほしいくらいです」
「そうね。ありがとう」
姉は、ごく自然に答えた。
「この人、昔から自分のことは後回しにするところがあるから」
「姉さんまで……」
「だって本当でしょう? 欲しいものがあっても、こっちが先に選んでいいよって言うし。困ったことがあっても、なんでもないって顔をするし」
姉は、懐かしそうに笑った。
「小さい頃から、そうだったもの」
僕は苦笑するしかなかった。
姉は、僕が今の仕事に就くよりずっと前から、僕を知っている。何に夢中になって、何に腹を立て、どんなふうに失敗してきたのか。僕自身が忘れてしまったようなことも、彼女は覚えているのだろう。
姉の前で笑う自分は、彼女の前で笑う自分とは、少し違っていた。
それを、隣にいる彼女も感じ取ったらしい。
彼女は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
――いいな。
胸の奥に浮かんだ感情に、彼女自身が驚いていた。
姉が羨ましかった。
自分が出会うより前から、彼の人生を知っていること。彼が疲れ切る前の姿を知り、彼がどんなふうに育ってきたのかを覚えていること。
自分には、どうしたって持てない時間だった。
けれど、同時に、ほっともした。
彼には、自分の知らないところにも、彼を気にかけてくれる人がいる。自分がいつも叱り、食べさせ、励ましていなければ、この人は立っていられない――そんなふうに思わずに済む。
彼には彼の人生があり、彼を大切に思う人たちがいる。
それは、彼女の肩に知らず知らずのうちにかかっていた責任を、少しだけ軽くしてくれた。
「……おじさん」
彼女は、わざと明るい声を出した。
「お姉さんの前だと、ずいぶん素直なんだねぇ。あたしの前じゃ、すぐ『大丈夫』って誤魔化すくせに」
僕は彼女を見た。
「……そうだね。君にも、もう少し話したほうがいいのかもしれない」
「えっ」
予想外の返事だったのか、彼女は一瞬、言葉を失った。
それから、慌てて眉を吊り上げる。
「べ、別に、張り合ってるわけじゃないからね? あたしは生活指導係として、報告を受ける義務があるだけですぅ」
「わかっているよ」
「……本当に?」
「うん。仕事のことも、これからどうしたいかも、少しずつ話すよ」
彼女は、たい焼きに視線を落とした。
「……なら、よろしい」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
*
三人で近くの甘味処へ入り、温かいお茶を飲んだ。
姉は、僕の仕事について尋ねた。僕は、今の職場に感じている疲れや、転職を考えていることを、できるだけ正直に話した。
まだ何も決まっていない。応募した会社からの返事もなく、次の応募先を検討している段階だ。うまくいくかどうかもわからない。
それでも、以前のように「大丈夫」とだけ答えることはしなかった。
姉は、すぐに何かを決めろとは言わなかった。
「焦らなくてもいいと思う。でも、自分がどうしたいかは、ちゃんと考えてね」
「うん」
「遠くにいるから、いつもそばにいてあげられるわけじゃないけど。何かあったら、話していいんだからね」
僕は、ゆっくり頷いた。
「ありがとう。今度、休みを取って帰るよ」
「楽しみにしてる。好きだったもの、作ってあげるから」
姉が笑う。
僕も笑った。
そのとき、テーブルの向こうから、彼女が小さく咳払いをした。
「……はいはい。家族の感動タイムはそこまでですよー。おじさん、ぜんざい冷めちゃうよ」
「君もあんみつを食べているだろう」
「女の子の甘いものは別腹なの」
「僕も別腹だよ」
「三十三歳のおじさんが、女子の特権を勝手に使わないでくださーい」
姉はまた笑った。
その笑い声を聞きながら、彼女は、姉と話す僕の顔を盗み見た。
自分の知らない彼がいることは、やっぱり少し寂しい。
でも、僕が誰かに大切にされてきたことは、嬉しかった。
彼女は、僕が自分ひとりに頼らなくてもいいようになってほしいと思っている。自分の生活を、自分の手に取り戻してほしいと思っている。
だから、僕が姉に弱さを見せられたことは、喜ぶべきことなのだ。
そうわかっていても、もう少しだけ、自分も彼のことを知っていたいと思った。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「さっきお姉さんに話してたこと、今度あたしにも聞かせてよ。仕事のこととか、これからどうしたいかとか」
彼女は、少しだけ頬を膨らませた。
「別に、お姉さんに張り合ってるんじゃないからね。あたし、あんたの最近の生活については詳しいんだから。報告義務があるの」
「そうだね」
僕は、彼女を見て笑った。
「君が、僕のことを知ろうとしてくれるのは嬉しいよ」
「……っ、ばか!」
彼女の頬が、見る間に赤くなった。
「そういうこと、急に言わないでよ! こっちだって心の準備があるんだから!」
「ごめん」
「謝るな! 余計に恥ずかしいでしょ!」
姉は、二人のやり取りを眺めながら、目を細めていた。
彼女には、まだ二人の関係に名前をつけることはできない。
けれど、弟がこの少女の前で、以前よりも自然に笑っていることはわかった。
それだけで、今は十分だった。
*
駅で姉と別れたあと、僕たちはしばらく並んで歩いた。
「いいお姉さんだね」
彼女が言った。
「うん。昔から、あんな感じなんだ」
「そっか」
少し間があった。
「……あんた、家族の前だと、ちょっと甘えんぼなんだね」
「まだ言うのか」
「だって、かわいかったもん。姉さん、姉さんって」
「そんなに呼んでないだろう」
「呼んでたよ。心のアルバムに永久保存しとこ♡」
僕は苦笑した。
彼女は笑っていたが、その表情には、先ほどまでの羨望がまだわずかに残っているように見えた。
僕は、少し考えてから言った。
「……君の知らない僕も、まだいるんだろうね」
彼女は、足を緩めた。
「そりゃそうでしょ。あたし、あんたが生まれたときから一緒にいたわけじゃないし」
「うん。でも、これから少しずつ話していけたらと思う」
彼女は黙って僕を見た。
それから、いつものように鼻を鳴らす。
「……やっとわかってきたじゃん。三十三歳にしては上出来だねぇ♡」
「ありがとう、先生」
「先生って呼ぶな!」
彼女は僕の腕を軽く叩いた。
そのあと、僕たちはスーパーに寄った。夕食と翌朝の食材を買うためだった。
彼女は野菜売り場で足を止め、僕の買い物かごを覗き込んだ。
「卵、豆腐、味噌……。おじさん、ちゃんと味噌汁作る気あるんだ」
「あるよ。今日は君に言われる前から、作るつもりだった」
「へえ。成長したねえ」
「いつも低いところから評価するね」
「だって、伸びしろがあるんだもん♡」
彼女は笑い、白菜を一つ、かごに加えた。
「これも買いなよ。味噌汁に入れたらおいしいから」
「ありがとう」
「べ、別に。あたしが食べるわけじゃないし」
「うん」
「……何、その顔」
「いや。君は優しいなと思って」
彼女は、かごの中の白菜を見つめたまま、しばらく黙った。
「……ほんっと、そういうところ、ずるい」
「何が?」
「なんでもない!」
彼女は歩き出した。
僕は、その隣についていった。
*
帰宅してから、僕は姉に短いメッセージを送った。
今日は会えて嬉しかったこと。今度、休みを取って帰省したいこと。仕事についても、少しずつ考えていること。
姉からは、すぐに返事が来た。
『話してくれてありがとう。焦らなくていいからね。帰ってきたら、好きだったものを作るから』
僕は画面を見つめ、微笑んだ。
それから、彼女にも連絡を送った。
『今日はありがとう。公園に付き合ってくれたことも、姉さんと会えたことも、嬉しかったよ』
しばらくして、返事が届いた。
『はいはい。楽しかったなら、よかったねぇ♡』
続けて、もう一通。
『でも、明日の朝ごはん、ちゃんと食べること。味噌汁も作るんでしょ』
『うん。白菜も買ったから、作るよ』
『よろしい』
そこで終わるかと思ったが、少し間を置いて、さらに一通届いた。
『……今日のあんた、ちょっとかっこよかったよ』
僕は、画面を見つめた。
返信を打とうとして、指が止まる。
からかわれているのかもしれない。いつものように、すぐに「うそ♡」と続くのかもしれない。
けれど、僕は、嬉しいと思った。
『ありがとう。嬉しいよ』
送信すると、すぐに返事が来た。
『素直すぎ! 調子狂うんだけど!』
そのあとに、小さなハートの絵文字がひとつ。
僕はスマートフォンを伏せた。
彼女が姉を羨ましく思ったことには、気づいていない。彼女が何を感じ、何を飲み込んだのか、僕にはまだわからない。
ただ、彼女が僕のことをもっと知りたいと言ってくれたことは、覚えていた。
僕も、彼女のことをもっと知りたい。
彼女が何を好きで、何を大切にしていて、どんなことに傷つくのか。まだ知らないことは、たくさんある。
そのすべてを、急いで知る必要はないのだろう。
明日も、彼女はきっと僕をからかう。
僕は食事を抜かないように気をつけ、仕事ばかりにならないように、少しずつ自分の生活を整えていく。
その中で、互いの知らない部分を、少しずつ見せ合えればいい。
姉が知っている僕も、彼女が知っている僕も、どちらも僕自身なのだから。
そして、彼女の知らない僕を、いつか彼女に話せるようになったなら。
彼女がそれを聞いて、また呆れたように笑ってくれたなら。
きっと、それは悪くないことだと思う。
僕は明日の朝のために、買ってきた白菜を冷蔵庫へしまった。
まだ何も決まってはいない。
それでも、僕たちの間には、次に話したいことがひとつ増えていた。
……なんか、ちょっと、……ずるい