人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
採用の知らせは、午後三時十七分に届いた。
職場の窓から差し込む冬の陽光が、机上の書類に細い縞模様を落としていた。隣の席では誰かが咳をし、遠くの複合機は、紙を吐き出すたびに乾いた音を立てている。
世界は、僕の人生に何が起ころうと、驚くほど無関心だった。
受信箱に届いた一通のメールだけが、その無関心に小さな穴を開けた。
件名は、採用選考結果のご連絡。
僕は、しばらく指を動かせなかった。
選考の結果、採用が決定したこと。入社日については、追って相談したいこと。これまでの経験を評価したこと。文面は簡潔で、最後には、どうぞよろしくお願いいたします、とあった。
もう一度、初めから読み直した。
やはり、採用と書いてある。
喜びというものは、もっと派手な姿で訪れるものだと思っていた。胸が躍り、世界が明るくなり、長年閉ざされていた扉が音を立てて開くような。
けれど、実際には何も起こらなかった。窓の外では車が走り、複合機は紙を吐き出し続け、向かいの席では同僚が夕食の話をしていた。
ただ、僕の中で、何かが静かにほどけていた。
履歴書を書いた。職務経歴書をまとめた。求人を探し、応募し、面接で緊張しながら自分の言葉を話した。うまく答えられなかった質問もあったし、帰り道に受け答えを思い返しては、布団の中で頭を抱えた夜もあった。
返事を待つ時間は、長かった。
何かをしていれば忘れられるというほど、器用でもなかった。仕事の合間に受信箱を確かめ、帰宅してからも通知を気にした。何も届かない日が続くと、自分の判断が間違っていたのではないかと思った。
それでも、結果はここにあった。
自分が動いたことに対して、世界がひとつ、返事をしたのだった。
「……採用、か」
声に出すと、ひどく頼りない響きだった。
僕はスマートフォンを取り出した。
知らせたい相手は、すぐに思い浮かんだ。
どう伝えればいいのか、少しだけ考えた。もっと気の利いた言い方があるようにも思えたが、結局、何も浮かばなかった。
『採用の連絡が来た』
それだけ送った。
数秒後、既読がついた。
『……は?』
続けて、もう一通。
『えっ、うそ』
『おじさん、採用? ほんとに?』
思わず笑ってしまった。
『本当だよ』
少し間があった。
そして、画面いっぱいに文字が現れた。
『うわあああああ!!』
『やったじゃん!!!!』
『あのよわよわおじさんが!?』
『履歴書書くだけで疲れてた三十三歳児が!?』
『採用!? すごっ!!』
僕は職場であることも忘れ、声を殺して笑った。
こんなふうに、ただ嬉しくて笑ったのは、いつ以来だろう。
さらにメッセージが届いた。
『……ねえ』
『今日、空いてる?』
『お祝いしよ』
少し間を置いて、もう一通。
『あたしがご飯おごってあげる、って言いたいところだけど』
『あんたが自分で稼いだお金で、ちゃんとおいしいもの食べなよ』
『今日は、あんたが主役なんだから』
僕は、最後の一文をしばらく見つめていた。
主役。
そんな言葉を、自分に向けられる日が来るとは思っていなかった。
『ありがとう。ぜひ行きたい』
すぐに返事が来た。
『よろしい!』
『じゃあ、ちょっといいお店を探しといてあげる』
『予算は?』
僕は考えた。
いつもの食事より、少しだけ奮発してもいいだろう。贅沢と呼ぶほどではなくても、今日くらいは値段を見て、すぐに諦めるのをやめてみたい。
『少しなら、奮発してもいいと思ってる』
『……へえ』
『言うじゃん』
『じゃあ、遠慮なく選ばせてもらいますねぇ』
『あとで財布見て泣いても知らないから♡』
僕は笑った。
自分の努力が報われたことも、こんなふうに一緒に喜んでくれる人がいることも、ただ嬉しかった。
*
待ち合わせ場所に現れた彼女は、いつもより少しだけおしゃれをしていた。
濃い色のコートに、柔らかなマフラー。髪も普段より丁寧に整えられている。
「……今日、なんか雰囲気違うね」
「は?」
彼女が振り向いた。
「なに。あたしのこと、じろじろ見てたの?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
「へえ。採用された途端、女の子を観察する余裕までできちゃったんだ。成長ってすごいねぇ。昨日まで履歴書に怯えてた生き物とは思えない♡」
「褒めてるのか、それ」
「半分くらい?」
「残り半分は?」
「からかい」
「全部じゃないか」
「ばれた?」
彼女は楽しそうに笑った。
それから、ふと表情を和らげた。
「……でも、ほんとによかったね」
不意に声が柔らかくなり、僕は返事をするまでに少し時間がかかった。
「うん。ありがとう」
「……もう。だから、そういう顔するの、ずるいんだってば」
「どんな顔だよ」
「知らない。今日はいっぱい褒めてあげようと思ってたのに、先に照れさせてくるんだもん」
「褒めてくれるのか?」
「調子に乗らない!」
彼女は僕の腕を軽く叩いた。
「ほら、行くよ。予約してあるから」
「予約までしてくれたの?」
「当たり前でしょ。大事な祝いの席なんだから。適当な店で済ませたら、あたしが納得しないもん」
彼女が選んだのは、落ち着いた雰囲気の洋食店だった。高級店というほど肩肘を張る必要はないが、いつもの食堂よりは少し上等で、テーブルには白いクロスが敷かれていた。
席に着くなり、彼女はメニューを開いた。
「さて。今日はお祝いですからねぇ。好きなものを選んでよろしい」
「君も好きなものを頼んでよ」
「もちろん。そのつもり。あたし、遠慮って言葉を辞書から消してるから」
「知ってる」
「失礼だなぁ。これでも、あんたの財布を気遣ってるんだよ?」
「本当かな」
「うん。高いものを頼むときは、心の中で三回くらい謝ってる」
「謝る相手は僕じゃないの?」
「財布だよ。おじさんの財布、いつもかわいそうだから」
僕は笑った。
メニューを眺めていると、昔、仕事の付き合いで高価なフランス料理を食べたことを思い出した。上司の話に相槌を打ち、取引先の表情を読み、会話の流れを気にしながら、目の前の料理を口に運んだ。何を食べたのか、今となってはほとんど覚えていない。
けれど、今日は違った。
何を食べたいか、自分で考えている。
「……僕はハンバーグにしようかな」
彼女が顔を上げた。
「おっ。自分で決めた」
「決めたよ」
「えらい。じゃあ、あたしはビーフシチューにしよっと」
「最初から決めてたんじゃないの?」
「ばれた?」
彼女は悪びれずに笑った。
「だって、ここ、ビーフシチューがおいしいって聞いたんだもん。あんたが採用されたら連れてこようと思って、前から調べてたの」
僕は、メニューを閉じる手を止めた。
「……前から?」
「……っ」
彼女の顔が、ほんの少し赤くなった。
「な、なに? 悪い? 別に、絶対採用されるって信じてたわけじゃないけど。こういうのは下調べが大事じゃん。人生、準備が八割なの。あんたにも見習ってほしいくらい」
「そうか」
僕は微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいよ」
「……だから! 今日のおじさん、素直すぎ! 採用されて人格まで改善されたの? 怖いんだけど!」
「そうかもしれないな」
「否定しなよ!」
彼女はメニューで顔を隠した。
その耳が赤いことに、僕は気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
今日くらいは、彼女の照れをそっとしておくのも悪くないと思った。
*
料理が運ばれてきた。
僕の前には、艶やかなデミグラスソースをまとったハンバーグ。彼女のビーフシチューには、大きな肉と野菜が深い色のソースに沈んでいた。どちらも湯気を立て、食欲を静かに刺激した。
「……うわ。おいしそう」
彼女が目を輝かせた。
「君のもおいしそうだね」
「ちょっと、あんたのハンバーグもおいしそうじゃん。ずるい」
「交換する?」
「一口だけね。あたしのは高級品だから」
「値段は同じくらいだろう」
「気持ちの問題ですぅ」
彼女はシチューを少しすくい、僕の皿に取り分けた。
「はい。採用祝いの特別サービス」
「ありがとう」
「その代わり、ハンバーグも一口ちょうだい」
「もちろん」
僕もハンバーグを小さく切り分け、彼女の皿に置いた。
二人はそれぞれ、相手の料理を味わった。
「……おいしい」
僕が呟くと、彼女は僕の顔を見て笑った。
「ちゃんと味わってるねぇ」
「せっかく来たんだから」
「前は、こういうときも仕事のこと考えてたんでしょ?」
僕は少しだけ黙った。
「……そうだな。誰と何を話すかとか、どう見られるかとか。食べ物の味は、後回しだった」
「ばっかみたい。目の前においしいものがあるのに、もったいないじゃん」
「うん」
「今日は、ちゃんと食べなよ。採用されたんだから」
彼女は自分のシチューをひと口食べ、それから、少し声を静かにした。
「……ずっと頑張ってたもんね。書類も書いたし、面接も行ったし。返事が来るまで、ずっと不安だったでしょ?」
僕はフォークを置いた。
「不安だったよ。落ちたら、また最初からだと思ってた。自分にはもう、次に行ける場所なんてないんじゃないかって」
口にしてみると、その不安は思っていたよりも小さくなっていた。
「でも、採用された」
「そうだよ」
彼女はまっすぐに僕を見た。
「採用されたんだよ、おじさん」
その言葉には、自分に言い聞かせるよりも確かな響きがあった。
「だから今日は、喜んでいいの。まだ何も始まってないとか、これから大変だとか、そういうのは明日考えればいいじゃん」
「……そうだね」
「ほんっと、嬉しいときまで反省会を始めようとするんだから。面倒くさい性格してるよねぇ」
「否定できないな」
「でしょ?」
彼女は笑った。それから、少しだけ視線を逸らした。
「でも、あたしは、そういうあんたが、ちゃんと一歩進んだのが嬉しいよ」
僕は顔を上げた。
彼女は、照れ隠しのようにナプキンを畳み直していた。
「……ありがとう」
「うん。今日は褒める日だからね。明日からは通常営業です。覚悟しときなよ、よわよわおじさん♡」
僕は笑った。
笑いながら、目の奥が少し熱くなった。
泣くほどのことではない、と思った。
けれど、泣くほどのことではないと、自分に言い聞かせる必要もないのかもしれなかった。
僕はもう一度ハンバーグを口に運んだ。
おいしかった。
ただ、それだけのことが、今日はひどく大切だった。
*
食事のあと、二人は温かい紅茶を飲んだ。
窓の外では街灯がひとつずつ灯り始めていた。冬の夕暮れは短く、青かった空は、もう深い藍色に沈みかけている。
「……で、採用されたわけだけど」
彼女がカップを置いた。
「これから、どうするの?」
「まずは、今の会社に退職の意思を伝えないと。入社日も相談しなきゃいけないし、引き継ぎもある」
「うんうん」
「新しい職場で、ちゃんとやっていけるかも不安だよ。今まで身につけたことが、どこまで通用するのかもわからない」
「うん」
「……でも、前よりは少し楽しみなんだ」
彼女が目を瞬かせた。
「楽しみ?」
「もちろん、不安はある。でも、今度は自分で選んだ場所だから。何も考えずに流されてきたわけじゃない」
僕は紅茶に目を落とした。
「自分で選んだんだから、うまくいかないことがあっても、まずは自分で考えてみたい。無理なら、助けを求める。そういうふうに働いてみたいんだ」
彼女は、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「……へえ。おじさん、ちゃんと大人になってるんだなぁ」
「三十三歳だからね」
「年齢だけはね」
「おい」
「ふふっ。冗談だってば」
彼女はテーブルに肘をついた。
「……でも、ほんとによく頑張ったね」
その声には、からかいがなかった。
「ありがとう」
「うん」
「君がいろいろ言ってくれたからだと思う。食事のことも、仕事のことも。僕が自分を後回しにしているって、何度も言ってくれただろう。あれがなかったら、たぶん、今も何もしていなかったと思う」
彼女は唇を結んだ。
「……まあ、あたし、優秀だからね」
「うん」
「人材育成の才能があるのかも。次は、もっと若くて素直な男の子を育てようかな」
「それは少し寂しいな」
言ってから、僕は自分の言葉に驚いた。
彼女も、目を丸くしていた。
「……え?」
僕は、少し困ったように笑った。
「いや。君が誰かの面倒を見るのは、いいことだと思うけど……僕は、これからも君と一緒にご飯を食べたいから」
彼女の頬が、ゆっくりと赤くなった。
「……な、なにそれ」
「だめかな?」
「だめじゃ、ないけど……」
彼女はカップを両手で包んだ。
「……そういうの、急に言わないでよ。あたしだって、びっくりするんだから」
「ごめん」
「だから、謝らないでってば!」
彼女は恥ずかしさをごまかすように、僕の手の甲を指でつついた。
「新しい会社に入ったら、忙しくなるかもしれないんだからね。あたしとご飯を食べる時間がなくなったら、困るんだけど」
「そうだね。なるべく時間を作るよ」
「なるべくじゃなくて、ちゃんと作るの」
「……はい」
「よろしい」
彼女は満足そうに頷いた。
それから、ほんの少しだけ声を小さくした。
「……あたしも、あんたとご飯食べるの、好きだから」
僕は黙った。
嬉しくて、すぐには言葉が出てこなかった。
「……ちょっと! なに黙ってんの! そこは何か言うところでしょ!」
僕は、ようやく笑った。
「嬉しくて」
「……っ、もう!」
彼女はテーブルの下で僕の靴を軽く蹴った。
「ほんっと、今日は調子狂う! 採用祝いだからって、なんでも許されると思わないでよね!」
「思ってないよ」
「思ってる顔!」
「どんな顔だよ」
「嬉しそうな顔!」
彼女はそう言って、笑った。
僕も笑った。
その夜、僕たちの間に何かが決まったわけではない。互いの関係に名前がついたわけでも、明日からの生活が突然、輝かしいものに変わるわけでもない。
ただ、僕は自分の未来を選び、その報せを誰より先に伝えたいと思う相手がいた。
彼女は、その知らせを自分のことのように喜び、僕が積み重ねてきた努力を、きちんと祝いたいと思ってくれた。
それだけのことが、僕たちには十分に大切だった。
*
店を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
「寒っ……!」
彼女が肩をすくめる。
「マフラー、もう少しちゃんと巻いたほうがいいよ」
「巻いてるもん!」
「首のところ、開いてるよ」
「……うるさいなぁ」
彼女はマフラーを直そうとして、うまくいかず、少し苛立った顔をした。
「貸してみて」
「え?」
「ちょっと曲がってるから」
僕はマフラーの端を整え、結び目を直した。首元に隙間ができないようにして、手を離す。
「はい。これでいい」
「……ありがと」
小さな声だった。
「どういたしまして」
彼女は僕を見上げた。
「……おじさん、採用されたからって、急にかっこつけてない?」
「そうかな」
「そうだよ。なんか、いつもより余裕あるし。むかつく」
「余裕があるわけじゃないよ」
僕は少し考えてから、正直に言った。
「……でも、今日は、自分のことを少しだけ誇らしく思ってる」
彼女は目を丸くした。
「まだ何も始まってないし、これから苦労することもあると思う。でも、応募して、面接を受けて、採用された。それは、僕がやったことだから」
冬の空を見上げた。
「自分で、自分を褒めてもいいんだね」
彼女は、しばらく僕を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……うん。いいんだよ」
彼女は僕の腕に軽く自分の腕をぶつけた。
「あたしが許可します」
「ありがとう、先生」
「先生って呼ぶな!」
彼女は笑いながら、僕の腕を掴んだ。
その手は、寒さのせいか、少し冷たかった。
「……でも、ほんとによかった」
前を向いたまま、彼女は言った。
「おじさんが、ちゃんと自分のために動いて、ちゃんと結果を出したんだもん。あたし、すごく嬉しいよ」
僕は、彼女の横顔を見た。
「ありがとう。君が喜んでくれて、嬉しい」
「……っ、もう! 今日のおじさん、ほんとにどうしちゃったの! 採用通知に変な薬でも入ってた? 素直すぎて怖いんだけど!」
「そんな薬はないよ」
「あるかもしれないじゃん。採用された人間だけが飲める、素直になる薬。こわっ。あたし、絶対飲みたくない」
「君は、飲まなくても素直だろう」
彼女が足を止めた。
「……今、なんて?」
「嬉しいときは嬉しいって言うし、心配なときは心配だって言うから」
「言ってない!」
「言ってるよ」
「言ってないもん!」
彼女は真っ赤になった。
僕は笑った。
彼女は僕の腕を叩いたあと、しばらく顔を背けていた。
やがて、ぼそりと言った。
「……おじさんのくせに、そういうところだけ、ちゃんと見てるんだね」
「うん。君には、いつも助けてもらっているから」
「……ばか」
彼女は呟いた。
けれど、その手は、僕の腕から離れなかった。
*
帰宅した僕は、玄関で靴を脱ぎながら、今日という日を思い返した。
採用通知。ハンバーグの肉汁。彼女の赤くなった耳。冬の風の中で、僕の腕を掴んでいた手。
どれも特別なものではないようでいて、これまでの生活にはなかったものばかりだった。
スマートフォンを取り出し、採用通知のメールをもう一度開いた。
そこに書かれている文字は、昼間と何も変わっていない。
けれど、今は違って見えた。
僕は、まだ変われる。
これからも迷うだろうし、失敗もするだろう。新しい職場で、うまくいかないこともきっとある。期待したとおりの未来が待っている保証など、どこにもない。
それでも、自分の人生を、自分で選ぶことはできる。
今日、僕はそのことを知った。
スマートフォンが震えた。
『ちゃんと帰れた?』
『帰れたよ』
『よろしい』
それから、僕は続けて送った。
『今日はありがとう。すごく楽しかった』
返事はすぐに来た。
『あたしも楽しかったよ』
少し間があって、もう一通。
『……おじさんが、あんなに嬉しそうなの、見られてよかった』
僕は画面を見つめた。
『また、こういう日があるといいな』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『あるよ』
短い言葉だった。
続けて、もう一通。
『だって、あんた、これからも頑張るんでしょ?』
『だったら、頑張ったぶん、またお祝いしなきゃじゃん』
『次は何食べよっかなー』
僕は笑った。
『何がいい?』
しばらくして返事が来た。
『おじさんが食べたいもの』
『あんたのお祝いなんだから、あんたが決めるの』
『あたしに合わせなくていいよ』
『自分が食べたいもの、ちゃんと言いなよ。せっかく、そこまでできるようになったんだから』
僕は、ゆっくりと文字を打った。
『……じゃあ、次は焼肉が食べたい』
既読がついた。
そして、歓声のようなメッセージが届いた。
『おおおおお!』
『言えたじゃん!!』
『やればできるじゃん、三十三歳児!!』
『焼肉ね! よし、覚えとく!』
『ただし、安い肉で妥協しようとしたら怒るからね。お祝いなんだから、ちゃんとおいしいの食べること!』
僕は笑った。
以前なら、自分の希望を口にすることさえ、少しばかり気恥ずかしかっただろう。
相手がどう思うか。負担にならないか。自分の望みを伝えることで、相手の自由を奪ってしまわないか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は、焼肉が食べたい、と言えた。
その希望を、彼女は笑って受け取ってくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
『ありがとう。これからも、よろしく』
送信してから、しばらく待った。
『……うん』
『こちらこそ、よろしくね』
そのあと、いつもの言葉が続いた。
『でも、明日からは通常営業だから』
『仕事で疲れたとか言って、ご飯抜いたら許さないからね』
『あと、採用されたからって、急に偉くなった気にならないこと』
『あんたは、あんたのままで、ちゃんと頑張りなよ』
最後に、ひとこと。
『……今日は、本当におめでとう』
僕はスマートフォンを伏せた。
部屋は静かだった。窓の外では、冬の街が夜の底に沈んでいる。
明日の朝は、卵を焼こう。味噌汁も作ろう。少しだけ早く起きて、余裕を持って家を出よう。
新しい職場へ移るまでには、まだ手続きがある。今の仕事の引き継ぎも、退職の相談も、これから始まる。
それでも、もう、何もかもが終わっているようには思えなかった。
今日、僕は採用された。
そして、そのことを一緒に喜んでくれる人がいる。
それだけで世界が急に美しくなるわけではない。明日からの生活が、突然、容易になるわけでもない。
けれど、明日の朝、目を覚ます理由がひとつ増えた。
僕は、その小さな幸福を、今夜は疑わずに受け取ることにした。
冬はまだ続く。
新しい職場で、僕はまた迷い、疲れ、時には自分を見失いかけるかもしれない。
そのときには、きっと彼女が、いつもの調子で言うのだろう。
――なに、また一人で抱え込んでるの。ほんっと、学習能力よわよわおじさんだねぇ♡
そう言いながら、好きなものを半分くれるのかもしれない。
そして僕は、少しずつ覚えていく。
自分の人生を、自分のために選ぶこと。
嬉しいときには、嬉しいと言うこと。
誰かの優しさを受け取ったなら、ありがとうと伝えること。
その隣にいる人が、自分にとってどれほど大切なのかを、照れくさくても、時には言葉にしてみること。
三十三歳の男が今さら学ぶには、あまりにも幼いことばかりなのかもしれない。
しかし、自分の人生を取り戻すのに、遅すぎる年齢などないのだろう。
僕は、明日の朝食のために、冷蔵庫から卵を二つ取り出した。
それを見て、ふと笑った。
新しい生活は、まだ始まっていない。
それでも僕は、もう、その始まりを待っていた。
そして、そのことを知っている少女がいる。
彼女はきっと明日も、僕をからかう。
僕もまた、いつか彼女のことを、今より少しだけ上手に笑わせられるようになるだろう。
そんな未来を、僕は初めて、楽しみにしていた。
焼肉、楽しみだな。 というよりかは、君とだから楽しみなんだろうか。