人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
退職を申し出ると決めた朝、三十三歳のおじさんは、目覚まし時計が鳴る十五分前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む冬の光は青白く、昨夜の冷気が部屋の隅に残っていた。
布団の中で天井を見つめながら、彼は何度も言葉を組み立てた。
退職させていただきたいと思っています。
いや、これでは曖昧すぎるだろうか。
退職を決意しました。
少し強すぎる気もする。
ご相談があるのですが。
それでは、また相談で終わってしまう。
考え直すたび、言葉は丁寧になり、決意だけが薄くなっていく。
彼が恐れているのは、上司の怒声だけではなかった。周囲から向けられる失望、自分の決断を責められること、そして、選んだ道が間違いだったと後になって証明されること。そのすべてが怖かった。
枕元のスマートフォンを手に取り、彼女とのメッセージを遡る。
『応募したの、自分で決めたんでしょ』
『だったら、次も自分で決めなよ』
少し下には、いつもの調子で続く言葉があった。
『まあ、よわよわおじさんにしては上出来じゃん♡』
彼は小さく笑った。
怖くなくなったわけではない。ただ、怖いままでもやっていいのだと、思い出すことができた。
朝食に卵を焼き、味噌汁を温める。味噌汁は少し煮詰まっていたが、飲めないほどではなかった。
食べ終えると、彼は空になった椀を流しに置いた。
「……よし」
誰に聞かせるでもない声だった。
それでも、その一言を胸の中にしまい、彼は家を出た。
*
上司に時間を取ってもらったのは、午前十時だった。
小さな会議室には古い空調の音が響き、窓の向こうでは隣のビルが鈍い光を返していた。
「それで、話というのは?」
上司が書類から顔を上げる。
彼は膝の上で両手を組み、一度だけ息を吸った。
「私事で恐縮ですが、退職したいと考えています」
「……は?」
上司の顔から表情が消えた。
「退職? どうして急にそんな話になるんだ」
急に。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
急ではなかった。
朝が来るのを恐れるようになってから、どれほどの時間が過ぎただろう。日曜日の夕方には胃が重くなり、夜中に目を覚ましては、仕事の失敗を思い返した。休日に眠り続ける自分を怠け者だと責めながら、月曜日になればまた、何事もない顔で出勤していた。
それらを、彼は口にできなかった。
「君ももう三十三だろう。転職が簡単じゃないことくらい、わかっているよな?」
「はい。承知しています」
「次は決まっているのか」
「内定をいただいた会社があります」
上司は椅子の背にもたれ、乾いた笑いを漏らした。
「そうか。うちで経験を積んで、仕事も覚えて、これからというときにね」
彼は黙っていた。
「正直、がっかりだな。君には期待していたんだが」
胸の内側が冷えていく。
「君が抜けたら、誰がその仕事をやるんだ? 今だって人が足りないのに。残る人間のことは考えなかったのか?」
反射的に、彼の頭が下がりかけた。
申し訳ありません。
ご迷惑をおかけして。
自分勝手なことを言ってすみません。
いつもの言葉が、舌の先まで出てきていた。
誰かが不快そうな顔をすれば、まず自分が悪かったことにする。相手の声が大きくなれば、自分の声を小さくする。相手が困っているなら、自分が困ることなど後回しにすればいい。
そうしていれば、大抵の場は収まった。
少なくとも、表面上は。
彼女の声が、ふいに脳裏をよぎった。
――困らせないことと、何でも言うこと聞くことを一緒にしてない?
彼は膝の上で手を握った。爪が掌に食い込み、かすかな痛みがあった。
「……ご迷惑をおかけすることは、申し訳ないと思っています」
声が震えた。
「ただ、退職については、自分で考えて決めました」
上司は眉をひそめた。
「だから、それが無責任だと言っているんだよ。今まで会社が君にどれだけ時間をかけてきたと思っている?」
研修。残業。休日の電話。急な仕事。そして、無理を頼まれるたびに向けられた「君ならできる」という言葉。
感謝すべきことがなかったわけではない。教えてもらったことも、助けられたことも、確かにあった。
だからこそ、彼は自分の苦しさを訴えることにさえ、後ろめたさを感じてきた。
受けた恩があるなら、どこまで耐えれば返し終わるのだろう。
誰かに期待されたなら、いつまでその期待に応え続ければいいのだろう。
彼には、その終わりがわからなかった。
――今まで頑張ったことと、これからも我慢しなきゃいけないことは、別の話でしょ。
彼女なら、きっとそう言う。
彼は息を吸った。
「これまで教えていただいたことには、感謝しています」
上司が口を開きかける。
「ただ、今の働き方をこの先も続けていくことは難しいと判断しました。次の会社で働くことも、自分で決めたことです」
「本当にそれでいいと思っているのか?」
忠告にも、脅しにも聞こえる問いだった。
怖かった。
今すぐ前言を撤回すれば、ひとまずこの場は収まる。頭を下げ、考え直しますと言えば、上司の表情も少しは和らぐかもしれない。
彼は、そういうやり方をよく知っていた。
けれど、その先に待っている日々のことも、もう知っていた。
「はい。まだ不安はあります。でも、自分で決めたことです」
会議室が静かになった。
上司はしばらく彼を見つめ、やがて深く息を吐いた。
「……考え直すつもりはないんだな」
「はい」
「なら、引き継ぎはきちんとやってもらう。退職日についても、こちらの都合があるからな」
「引き継ぎについては、責任を持って対応します。退職日や必要な手続きについては、改めて確認させてください」
上司は不満げに口を結んだ。
話がすべて片づいたわけではない。退職日も決まっていないし、これから何度も話し合うことになるだろう。職場の人々から、何かを言われるかもしれない。
それでも彼は、自分の決断を撤回せずに会議室を出た。
廊下に出てから、膝が震えていることに気づいた。
トイレの個室に入り、鍵を閉める。
「……はあ」
長い息が漏れた。
涙は出なかった。
あれほど怖がっていたのに、ようやく言えたというのに、胸の中には達成感よりも疲労と空白ばかりが広がっていた。
彼はスマートフォンを取り出した。
『退職の話、してきた』
少し考えてから、続ける。
『少し揉めたけど、自分の意思は伝えられた』
返事は、すぐに来た。
『は!? やったじゃん!!』
『えらい。めちゃくちゃえらい』
続いて、もう一通。
『で、今日は焼肉ね。祝勝会だから』
彼は画面を見つめた。
『焼肉?』
『そう。前に自分で食べたいって言ったでしょ』
『上司に人生のハンドル奪われなかった記念♡』
そういえば、前に自分から焼肉が食べたいと言ったのだった。彼女はそれを覚えていたらしい。
『……ありがとう』
『お礼はお肉で受け取ります』
『たくさん食べよう。僕も、食べたいし』
送ってから、彼は少しだけ考えた。
誰かの希望に従うのではなく、誰かが喜ぶことを自分の意思で選ぶ。それは似ているようで、まるで違うことだった。
返事には少し間があった。
『……ふーん』
『そういうこと言えるようになったんだ?』
『じゃ、今日はちゃんと食べなさいよ。逃げずに来な、よわよわおじさん♡』
彼は笑った。
今度は、ほんの少しだけ、本当に笑えた。
*
彼女が選んだ焼肉屋は、駅から少し離れた商店街の外れにあった。
看板は年季が入っていて、ガラス戸の向こうには暖色の照明が灯っている。店内から、肉の焼ける香ばしい匂いと、客たちの話し声が流れてきた。
高級店ではない。特別な日にふさわしい華やかさもない。
けれど、彼は入口に立っただけで、朝から張り詰めていた肩が少し緩むのを感じた。
「おっそーい」
先に席を取っていた彼女が、頬を膨らませる。
「ごめん。少し仕事が長引いて」
「退職するって言いに行った日にまで仕事してるとか、最後まで社畜の鑑じゃん」
「はは……」
「笑ってごまかさないの。ほら、座りな」
彼女は向かいの椅子を足先で引いた。
彼は上着を脱ぎ、席に着いた。卓上には小さな網が置かれ、換気扇が低く唸っている。
「今日は奢ってあげてもいいけど?」
「......じゃあ、お言葉に甘えて」
彼女は、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「……おっ。いいじゃん」
「そんなに驚くことかな」
「だって、いつもかっこつけてあたしに払わせないおじさんがだよ? 人の申し出に素直に甘えたんだもん。記念日じゃん」
「退職を申し出た日より、そっちが記念日なの?」
「あたしにとってはおじさんの進歩の方が大事♡」
彼女は得意げにメニューを開いた。
「はい、今日は食べたいもの頼みなさい。遠慮して安いの選んだりしたら、あたしが怒るから」
「わかった。じゃあ、カルビとロース、それからタンも頼もうかな」
「おお。いいじゃん。もっといける?」
「最初からそんなには食べられないよ」
「生活能力よわよわのくせに、胃袋まで控えめなの?」
「胃袋は関係ないと思うけど……」
彼女はけらけらと笑った。
二人で肉と野菜、それにご飯とスープを注文した。やがて運ばれてきた皿には、鮮やかな赤身と白い脂が重なり、薄切りのタンが花びらのように並んでいた。
彼女はトングを手に取った。
「ほら、最初はタンね。網が熱いうちに焼くんだから」
「詳しいね」
「焼肉を前にしたあたしを舐めないでほしいんですけど?」
タンが網に触れ、小気味よい音を立てた。
脂が弾け、香ばしい匂いが立ち上る。彼女は肉の色を見ながら手際よく裏返し、焼けた一枚を彼の皿に置いた。
「はい。祝勝会の主役からどうぞ」
「ありがとう」
「レモンつけてね。あと、熱いから気をつけなさいよ」
彼は言われたとおりに肉を口へ運んだ。
歯を入れると、弾力のある食感のあとから、香ばしさと旨味が広がった。レモンの酸味が脂を軽くし、思わずもう一枚食べたくなる。
「……おいしい」
「でしょ」
彼女は満足げに頷き、自分の皿にもタンを取った。
しばらくは、肉を焼き、食べ、ご飯を口に運ぶことに集中した。
彼女は上司が何を言ったのか、どんな顔をしたのか、詳しく聞こうとはしなかった。彼が自分から話すのを待つように、ときどき肉を裏返し、焼きすぎないうちに皿へ移していく。
その何気なさが、ありがたかった。
「……怖かった?」
カルビを網に並べながら、彼女が尋ねた。
彼は箸を止めた。
「うん。すごく」
「そっか」
「怒られるのも、責められるのも、これからどうなるのかも。全部」
「うん」
彼女は、焦げそうになった肉を裏返した。
「でも、言えたんでしょ」
「……うん」
「じゃあ、今日はそれで合格」
「そんな簡単に?」
「簡単じゃないから言ってんの。ばーか」
彼女は笑ったが、その目は笑いだけではなかった。
彼はご飯を一口食べた。白い米の甘みが、肉の脂とよく合った。
おいしかった。
その当たり前のことに気づいた途端、胸の奥で何かがほどけた。
上司の声が蘇る。
君には期待していたんだが。
残る人間のことは考えなかったのか。
会社が君にどれだけ時間をかけてきたと思っている。
それに重なるように、これまでの記憶が浮かんだ。
深夜のオフィス。休日の朝に鳴る電話。コンビニのおにぎりを立ったまま食べた昼休み。失敗した仕事のことを考えながら、眠れずに過ごした夜。
何かあるたびに、彼は自分を責めた。
もっと早く気づけばよかった。
自分がしっかりしていれば、誰にも迷惑をかけずに済んだ。
自分さえ我慢すれば、丸く収まる。
そうやって何年も、自分の心に蓋をしてきた。
いったい誰を安心させようとしていたのだろう。
周囲の人間か。それとも、何事もなく働き続けている自分を見ていなければ、安心できなかった自分自身か。
彼は箸を止めた。
視界が滲んだ。
最初は、煙のせいだと思った。焼肉屋の換気が悪いわけではない。それでも、目の奥が熱くなり、網の上の肉がぼやけていく。
頬を伝ったものが顎に落ちたとき、彼はようやく、自分が泣いていることを知った。
「……あれ」
慌てて目元を拭う。
「ごめん。なんか、急に……」
涙は止まらなかった。
嗚咽をこらえると喉の奥が痛み、肩が震えた。三十三歳にもなって、食事の席で、彼女の前で、こんなふうに泣くなんて。
恥ずかしかった。みっともなかった。
何か冗談でも言って、この場を取り繕いたかった。
けれど、何も出てこなかった。
「……ごめん、ほんとに」
彼は俯いた。
「こんなつもりじゃ、なかったんだけど」
「うん」
彼女の声は、いつもより静かだった。
「……ずっと、怖かったんだと思う」
口にした途端、また涙が溢れた。
「仕事に行くのも、失敗するのも、人に迷惑をかけるのも。辞めたいって思っても、それを言ったら、今まで頑張ってきたことまで無駄になる気がして」
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
「僕、ずっと……ちゃんとやらなきゃって思ってたんだ。誰かに迷惑をかけないように。期待を裏切らないように。大丈夫ですって言っていれば、なんとかなると思ってた」
彼女は黙って聞いていた。
「でも、全然、大丈夫じゃなかった」
その言葉が口から出た瞬間、彼は顔を覆った。
「……全然、大丈夫じゃなかったんだ」
声が崩れた。
何年も押し殺してきたものが、一度に溢れ出したようだった。止めようとするほど、涙は次々に頬を伝っていく。
彼女はしばらく彼を見つめていた。
それから、ティッシュを数枚取って、彼のそばにそっと置いた。
「……ばか」
彼女が言った。
「ほんっと、ばかなおじさん」
彼は顔を覆ったまま、何度も頷いた。
「うん……」
「大丈夫じゃなかったなら、そう言えばよかったじゃん」
「……うん」
「誰にも言えなかったなら、せめて自分には嘘つかなきゃよかったのに」
「……うん」
「……もう」
困ったように息を吐いてから、彼女はテーブルの上で少し迷い、彼の手の甲に指先を置いた。
触れているかどうかも心許ないほどの、かすかな接触だった。
「いいよ」
彼女が言った。
「今日は泣いても」
彼は顔を覆う手を、わずかに緩めた。
「……いいの?」
「いいに決まってんじゃん。誰に許可取ってんの、ほんと」
彼女は照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「ていうか、あんたさ。怖かったのに、ちゃんと自分で決めたって言えたんでしょ? 怒られても、そこで引っ込まなかったんでしょ?」
彼は頷いた。
「だったら、泣いたくらいで減点されるわけないじゃん」
「……でも」
「でもじゃないの」
彼女は少しだけ身を乗り出した。
「頑張った人が泣くのって、そんなにおかしい?」
彼は答えられなかった。
「ずっと我慢してたんでしょ。だったら、我慢してた分くらい、出てくることもあるじゃん」
彼女の指先は、彼の手の甲から離れなかった。
「……あたしの前でまで、ちゃんとした大人のふりしなくていいよ」
彼はまた泣いた。
彼女は、もう何も言わなかった。
店内では、肉の焼ける音が続いていた。隣の席では誰かが笑い、厨房から注文を通す声が聞こえる。換気扇は変わらず低く唸っていた。
世界は、彼が泣いていることなど知らずに動いていた。
そのことが、ひどくありがたかった。
泣き止めとも、しっかりしろとも、誰も言わない。
彼はただ、一人の人間として泣くことができた。
しばらくして、ようやく顔を上げた。目は赤く、鼻も詰まっていた。
「……ごめん」
彼女は眉を吊り上げた。
「はい、今日二回目」
「え?」
「ごめん、ごめんって。あんた、あたしに何回謝る気?」
「いや……」
「泣いたことに謝らない。泣いてるところを見せたことにも謝らない。わかった?」
彼は、涙の残る顔で少し笑った。
「……わかった」
「よろしい」
彼女は頷き、網の上を見た。
「……あっ、やばっ!」
カルビの端が焦げかけていた。彼女は慌ててトングを伸ばし、肉を救出する。
「ちょっと! あんたが泣いてるから、お肉が危なかったじゃん!」
「ご、ごめ……」
言いかけて、彼は口を閉じた。
彼女がこちらを向く。
「ん?」
「……いや。ありがとう」
「よろしい。学習が早いじゃん」
彼女は得意げに笑った。
その笑顔を見て、彼もようやく笑うことができた。
「ほら、食べな。冷めちゃうよ」
「うん」
彼は箸を持ち直した。
少し冷めたカルビを口に運ぶ。甘辛いタレと脂の旨味が広がり、白いご飯がよく進んだ。
おいしかった。
涙で味がわからなくなるかと思ったが、そんなことはなかった。
彼女は自分の皿から焼けた肉を一枚取り、彼の皿に置いた。
「はい、おまけ」
「いいの?」
「泣いた人への特別サービス。ありがたく食べなさい」
「……ありがとう」
「今度はよろしい」
彼女はようやく自分の食事に戻った。
しばらく二人で肉を焼き、食べた。彼女は彼の皿が空になりそうになると野菜を勧め、彼がご飯のおかわりを迷っていると、勝手に店員を呼びそうな顔をした。
「……あたしさ」
少し落ち着いたころ、彼女が言った。
「今日、あんたがちゃんと言えたって聞いて、すごく嬉しかったんだよね」
彼は顔を上げた。
「いつもだったら、上司に何か言われたら、すぐに『自分が悪いんです』って引っ込んでたじゃん」
「……うん」
「でも今日は、自分で決めたって言えたんでしょ」
彼女は網の上の肉を裏返した。
「それって、すごいことだと思う」
彼は黙っていた。
「……あたしには、あんたが今までどれだけしんどかったか、全部わかるわけじゃないけどさ」
彼女はそこで少し言葉を切った。
「これからは、しんどいって言ってもいいんだから」
胸の奥が、また熱くなった。
今度はどうにか堪えた。
彼女が慌てて手を振ったからだ。
「ちょ、ちょっと! まだ泣くの!? もう顔が焼肉のタレで大惨事みたいになってるじゃん!」
「いや、これは……」
「はいはい。わかったから。ほら、スープ飲んで。落ち着きなさい」
彼女は自分のスープを持ち上げ、照れ隠しのように一口飲んだ。
「……ほんと、手のかかるおじさん」
そう言う声は、少しだけ優しかった。
彼はスープを飲んだ。
温かさが喉を通り、胸の奥に落ちていく。
今すぐ元気にならなくてもいいのだろう。明日から立派な人間にならなくてもいい。ただ、今日の自分が苦しかったことを、なかったことにしないでいられれば。
彼女は、それ以上を求めなかった。
肉が焼ける音の中で、二人はまた食べ始めた。
*
店を出るころには、夜の空気がすっかり冷え込んでいた。
彼は何度か目元を気にした。まだ赤いだろうか。店員に気づかれてはいなかっただろうか。
隣を歩く彼女が、横から顔を覗き込んだ。
「なに、まだ気にしてんの?」
「……少し」
「ふーん。じゃ、今日のことはあたしが忘れないでいてあげる」
彼は彼女を見た。
「え?」
「だって、あんた、明日になったら『昨日はちょっと疲れていただけです』とか言い出すでしょ」
「……言うかもしれない」
「でしょ。だから、あたしが覚えておくの。あんたがどれだけ怖がって、それでも自分の人生を選ぼうとしたか」
彼女は彼の袖を軽くつまんだ。
「自分で忘れそうになったら、あたしが教えてあげる」
彼は、しばらく何も言えなかった。
彼女はわざとらしく顔をしかめた。
「……なにその顔。まーた泣きそうになってんの?」
「いや、違うよ」
「嘘つき。目がうるうるしてるじゃん。三十三歳児、涙腺までよわよわ♡」
「それはひどいな……」
「ひどくないでーす。事実でーす」
彼女は笑い、彼もつられて笑った。
駅前の信号が赤に変わり、二人は並んで立ち止まった。吐く息が白くほどけていく。
「……今日は、本当にありがとう」
彼が言うと、彼女は一瞬だけ口を閉じた。
「……別に。焼肉食べただけだし」
「それだけじゃないよ」
「はいはい。そういうの、まっすぐ言うの禁止」
「どうして?」
「……照れるから」
あまりに小さな声だった。
彼が聞き返そうとすると、彼女はすぐに腕を軽く叩いた。
「なに! 聞こえてたならそれでいいでしょ!」
「はは、ごめん」
「また謝った!」
「……そうだった」
二人は笑った。
信号が青に変わる。
歩き出しかけた彼女が、ふと思い出したように振り返った。
「ねえ」
「うん?」
「次の会社でも、無理しすぎないこと」
そこには、いつものからかいがなかった。
「頑張るのはいいよ。でも、頑張れることと、何でも我慢しなきゃいけないことは違うからね。困ったら相談する。休むときは休む。嫌なことがあったら、ちゃんと嫌だって考える」
「……うん」
「あと、ご飯抜かない」
「それは、もう大丈夫だよ」
「その『大丈夫』が一番信用できないんですけど?」
「……確かに」
「でしょ。だから、自分のこと、あたしが見てないところでも雑に扱わないこと」
彼はゆっくり頷いた。
「わかった」
「よろしい。じゃ、またね。よわよわおじさん♡」
彼女は歩き出した。
少し離れてから、もう一度だけ振り返る。
「……今日は、ほんとによく頑張ったね」
夜の空気に紛れそうな、小さな声だった。
けれど、彼にははっきり聞こえた。
今度こそ、彼は謝らなかった。
「うん。ありがとう」
彼女は照れたように手を振り、今度こそ駅の方へ歩いていった。
*
帰宅すると、部屋はいつもどおり静かだった。
上着を掛け、手を洗い、鞄を置く。退職に向けた手続きも、引き継ぎも、まだこれからだ。今日一日ですべてが解決したわけではない。
それでも、朝から胸を締めつけていたものは、幾分か和らいでいた。
焼肉を食べた腹には、心地よい満足感が残っている。彼女と交わした言葉や、卓上で焼ける肉の匂いまで、まだ鮮やかに思い出せた。
彼は食卓の椅子に腰を下ろした。
上司の前では、最後まで泣かなかった。
自分の決断を伝え、引き継ぎの話をし、会議室を出た。あの場で泣いていたところで、何かが変わったわけではないだろう。
けれど、彼女の前では泣いてしまった。
恥ずかしかった。三十三歳にもなって、あんなふうに涙が止まらなくなるとは思わなかった。
それなのに、彼女は困ったような顔をしながらも、彼を急かさなかった。元気を出せとも、しっかりしろとも言わず、肉が焦げると文句を言って、彼の皿に一切れ余分に置いた。
そのことが、嬉しかった。
泣いたからといって、彼女の態度が変わるわけではない。格好の悪いところを見せても、二人で過ごす時間はいつもどおり続いていく。
それを知っただけで、こんなにも心が軽くなるとは思わなかった。
スマートフォンが震えた。
『ちゃんと家着いた?』
『着いたよ。今日はありがとう』
『はいはい』
『……ちゃんと帰れたならよろしい』
続いて、彼女からもう一通届いた。
『お腹いっぱい?』
彼は小さく笑った。
『うん。かなり』
『でしょーね。あんだけ食べたんだから』
『今日はゆっくり休みな』
短いやり取りだった。
けれど、いつもの生意気な調子の向こうに、彼を気遣う気持ちがある。そのことが、今夜はひどく心に沁みた。
彼はしばらく画面を眺め、それから文字を打った。
『今日は、自分でもよく頑張ったと思う』
以前なら、自分で自分を褒めることにさえ、ためらいがあっただろう。誰かに認められて初めて、自分の努力に価値が生まれるような気がしていた。
けれど今日は、そうではなかった。
怖くても、自分の意思を伝えた。上司の不興を買っても、決めたことを曲げなかった。それは確かに、自分が頑張った結果だった。
返事はすぐには来なかった。
やがて、画面に短い言葉が並んだ。
『うん』
『あたしもそう思う』
『今日は、ほんとにえらかったよ』
彼はその文字を見つめた。
頑張った自分を褒めてもらえることも、もちろん嬉しい。けれど、それ以上に、泣いてしまった自分を知ったうえで、そう言ってもらえることが嬉しかった。
立派でいられなくても、そばにいてくれる。
そのことを、彼はようやく信じられそうな気がした。
『ありがとう』
そう返信して、スマートフォンを置く。
窓の外では、いつもの夜が静かに更けていた。
明日になれば、また面倒な話し合いが待っている。新しい職場でうまくやれる保証もない。これから先、今日の決断を後悔する日だって来るかもしれない。
それでも、今夜は少しだけ休んでよかった。
彼はソファに移り、背もたれに身体を預けた。満ち足りた腹の重みが心地よく、まぶたがゆっくりと重くなる。
ふと、焼肉屋での彼女の顔が浮かんだ。
泣いている自分を見て、彼女は何を思ったのだろう。きっと明日には、また散々からかわれるに違いない。
そう考えると、自然に笑みがこぼれた。
恥ずかしさは、まだ消えていない。けれど、もう自分を責める気にはならなかった。
彼女の前で泣いてしまったことも、今日一日を懸命に生きた自分の一部なのだ。
スマートフォンが、もう一度震えた。
『おやすみ、おじさん』
『明日もちゃんと生きること。命令ね♡』
彼は笑って返信した。
『了解。おやすみ』
それから風呂に入り、寝支度を済ませた。
布団に入ると、今日の疲れがようやく身体から抜けていくようだった。
明日は、まだ少し怖い。
それでも、今日の自分は、自分の人生を選ぶための一歩を踏み出した。そして、その帰り道で、彼女に弱さを見せることもできた。
どちらも、彼にとって大切なことだった。
次に彼女と会ったら、今度は自分から誘ってみよう。彼女の行きたい場所を尋ねるだけでなく、自分の行きたい場所も伝えてみよう。
誰かに選んでもらうのではなく、一緒に選ぶ。
そんな関係を、これからも少しずつ育てていけたらいい。
彼は目を閉じた。
腹には焼肉の満足感が残り、心には彼女の笑顔が残っていた。
明日になれば、また日常が始まる。
けれど、その日常を、昨日までより少しだけ穏やかな気持ちで迎えられそうだった。
……僕は、頑張れたのか。