人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
退職の日は、思っていたよりもあっけなく訪れた。
上司に退職の意向を伝えてから、最終出社日までには、それなりの時間があった。
引き継ぎの資料を作り、後任に仕事の手順を説明し、途中まで進めていた案件の進捗を一覧にまとめた。自分がいなくなったあとも業務が滞らないように、と考えれば考えるほど、資料は細かくなり、説明は長くなった。
退職する人間が、最後まで仕事を増やしてどうするのだろう。
そんな自嘲を胸にしまいながら、彼は一つずつ仕事を片づけていった。
ある日の午後、後任の若い社員が、資料を片手に彼の机へやってきた。
「この部分なんですけど、前回の処理と少し違っていて……」
「ああ、そこは先方の都合で手順が変わったんです。こっちの資料にも追記しておきますね」
「すみません。何度も聞いてしまって」
「いえ。僕も最初はよく間違えていましたから」
そう答えると、相手はほっとしたように笑った。
彼は、自分が何年もかけて覚えてきた仕事を、こうして少しずつ他人へ渡していくことに、不思議な感覚を覚えていた。
自分がいなくても、会社は回る。
当たり前のことだった。わかっていたつもりだった。
それでも、自分が長い時間を費やして身につけたものが、誰かの手へ移っていくのを見ると、胸の奥に小さな寂しさが生じた。
その一方で、ようやく終わるのだという安堵もあった。
相反する二つの感情は、どちらかが嘘というわけではなかった。
最終出社日の数日前には、思いがけないこともあった。
昼休み、普段は挨拶を交わす程度の同僚が、彼の机のそばで足を止めたのだ。
「そういえば、もうすぐ辞めるんだって?」
「ええ。来週で最後です」
「そっかあ。いや、寂しくなるね」
あまりに自然な調子で言われたので、彼は返事をするまでに一拍かかった。
その同僚とは、部署こそ同じだったものの、仕事で直接関わることはほとんどなかった。会議で顔を合わせたり、給湯室で挨拶したりするくらいの間柄である。
「ありがとうございます。あまりお話しする機会もありませんでしたけど」
「そうなんだよねえ。もっと早く話せばよかったな」
同僚は少し困ったように笑い、それから、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、駅の向こうにある洋食屋、知ってる? ハンバーグがうまいところ」
「ああ、知っています。以前、行ったことがあります」
「やっぱり? 俺も何度か行ってるんだよ。あそこのデミグラスソース、妙にうまいよね」
彼は思わず笑った。
「わかります。少し濃いんですけど、それがいいんですよね」
「そうそう。あと、あそこのプリンも意外といい」
「プリンも食べたことがあります」
「なんだ、結構行ってるじゃないか」
同僚は楽しそうに笑った。
それから二人は、店の混みやすい時間や、以前メニューにあった料理の話をした。どちらも大した話題ではない。仕事の相談でも、退職についての深い話でもなかった。
けれど、彼はその短い会話を、思っていた以上によく覚えていた。
自分が知らなかっただけで、相手も同じ街で暮らし、同じ店で食事をし、似たような日常を過ごしていたのだ。
「またどこかで会ったら、声かけてよ」
別れ際、同僚はそう言った。
「ええ。そちらも、ぜひ」
そう答えた彼は、相手の背中を見送りながら、少しだけ考えた。
自分はこの会社で、仕事ばかりしていたように思っていた。実際、そうだったのだろう。
しかし、その時間の周囲には、知らない誰かの暮らしも、何気ない好みも、ひっそりと存在していた。
自分がいなくなることを、ほんの少し惜しんでくれる人もいた。
それだけのことが、なぜだか嬉しかった。
退職の日、彼は最後の挨拶を済ませ、机の引き出しを空にした。使い古したマグカップを紙袋へ入れ、私物を確かめ、空になった机を一度だけ眺めた。
長年通った廊下も、何度も頭を下げた受付も、夕方にはもう、自分とは関係のない場所のように見えた。
駅へ向かう道すがら、彼は何度か振り返りそうになった。
けれど、振り返ったところで、何が見えるわけでもない。
そこにあるのは、彼が長いあいだ働いてきた会社であり、同時に、これからは毎朝そこへ向かわなくてもよいという事実だった。
胸に去来したのは、解放感ばかりではなかった。
次の職場へ移るまでの、わずかな休息期間。ようやく手に入れたはずの自由は、広すぎる部屋のように、かえって彼を落ち着かなくさせた。
何をすればいいのだろう。
何もしなくてもいいのだろうか。
そんなことを考えながら帰宅し、彼は冷蔵庫の中身を確かめ、洗濯物を畳み、読みかけの本を開いた。
翌日は、少し遠くまで散歩をした。
その翌日は、普段なら手をつけない場所を掃除した。
そして三日目の朝、彼は目覚まし時計も鳴っていないのに、布団から起き上がれなくなった。
身体が鉛のように重かった。
喉がひりつき、関節が鈍く痛む。額に手を当てると、掌のほうが冷たいのではないかと思うほど、皮膚が熱を持っていた。
「……あれ」
彼は掠れた声を漏らした。
体温計を探し、脇に挟む。
三十八度二分。
数字を見た途端、彼はなぜか、ひどく申し訳ない気持ちになった。
誰に対して申し訳ないのか、自分でもわからなかった。
せっかく退職したのに。せっかく時間ができたのに。これから少しずつ、生活を立て直していこうと思っていたのに。
よりによって、風邪をひくなんて。
「……何やってるんだ、僕は」
自嘲気味に呟いてみたが、声を出しただけで喉が痛んだ。
彼は布団に戻った。
きっと、これまでの疲れが出たのだろう。長いこと張り詰めていたものが切れ、身体がようやく休むことを思い出したのかもしれない。
そう考えれば、少しは納得できた。
納得できたところで、熱が下がるわけではなかったが。
*
昼過ぎ、枕元のスマートフォンが震えた。
彼女からだった。
『生きてるー?』
『退職して三日で廃人になってないでしょうね』
彼は画面を見て、ぼんやりと笑った。
返事をしなければ。
そう思った。
けれど、指先が思うように動かなかった。画面の文字が滲んで見え、普段なら何でもない短い文章を作るのに、ひどく時間がかかった。
彼は、なんとか文字を打った。
『いきてる』
送信。
少し間を置いて、もう一度打つ。
『ちょっとねつがある』
送信してから、彼は目を閉じた。
これだけで、もう疲れてしまった。
しばらくして、返信が届く。
『……は?』
『熱?』
『何度? ご飯食べた?』
彼は画面を見つめた。
熱は三十八度二分だった。ご飯は食べていない。朝から水を少し飲んだだけだ。
それを伝えなければと思ったのに、彼の頭の中では、言葉が妙な具合に絡まり始めていた。
熱に浮かされた意識は、日常の小さな事柄を、ひどく大切なもののように見せる。
彼は、ゆっくりと文字を打った。
『さんじゅうはちど』
『ごはんは、たべてない』
そこまでは、よかった。
しかし、次の一文は、彼自身にも何を考えていたのか、よくわからないものになった。
『ごめんね』
『せっかくじゆうなのに』
『ちゃんとしなきゃいけないのに』
送信。
少しして、また文字を打つ。
『僕、まためいわくかけてる?』
それを送ったところで、彼はスマートフォンを胸元に落とした。
眠い。
寒い。
頭が痛い。
それから、どうしようもなく心細かった。
熱のせいだろうか。布団の中にいるのに、世界から置いていかれたような気がした。会社を辞めたときには、あれほど自由を望んでいたはずなのに、今は誰かに、ここにいてもいいのだと言ってほしかった。
彼は再びスマートフォンを手に取った。
最後に、もう一度だけ文字を打つ。
『……ちょっとだけ、さみしい』
送信した直後、彼は自分の書いた文章を見て、ぼんやりと眉を寄せた。
こんなことを送るつもりではなかった。
いつもの僕なら、絶対に送らなかっただろう。
恥ずかしい。
消したい。
けれど、もう頭が働かなかった。
彼はスマートフォンを枕元に置き、深い眠りに落ちた。
*
彼女は、そのメッセージを電車の中で読んだ。
最初の数行は、いつものおじさんらしかった。
退職して三日で廃人になっているあたり、いかにも生活能力の低い男である。彼女は呆れながら、返信を打とうとしていた。
ところが、後半を読んだところで、指が止まった。
『僕、まためいわくかけてる?』
そして。
『……ちょっとだけ、さみしい』
「……は?」
思わず声が出た。
向かいの座席に座っていた乗客がちらりと彼女を見たが、彼女はそれどころではなかった。
「なにこれ……」
彼女は画面を見つめた。
普段の彼なら、熱があっても、まず謝るだろう。迷惑をかけてすみません、心配しないでください、寝ていれば治ると思います。
そんな、誰にも心配させないための文章を、律儀に並べ立てるはずだった。
それなのに。
さみしい、と。
彼は書いたのだ。
彼女は、唇をきゅっと結んだ。
「……ほんっと、ばか」
呟いた声は、いつものように意地悪だった。
けれど、スマートフォンを握る手には、少し力が入っていた。
彼女はすぐにメッセージを送った。
『ちょっと待ってて』
『今から行くから』
続けて、もう一通。
『あと、迷惑とか考えるの禁止』
『病人がそんなこと考えてどうすんの。寝てなさい』
送信。
それから、彼女は次の駅で降りた。
スーパーに寄り、スポーツドリンク、ゼリー、プリン、バナナ、レトルトのお粥を買った。念のため、冷却シートも手に取る。
買い物かごの中身を見て、彼女は少し考えた。
「……食べられなかったら、あたしが食べればいいし」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
「プリン二個くらい、余裕だし?」
そう言いながら、彼女はプリンをもう一つかごに入れた。
*
彼女が彼の住むアパートに着いたのは、それから四十分ほど経ったころだった。
インターホンを押す。
返事はない。
「……寝てる?」
もう一度押す。
やはり返事がない。
彼女はメッセージを送った。
『着いたよー』
『開けられる?』
しばらく待っていると、室内で物音がした。
足音はひどく頼りなかった。何かにぶつかるような音がして、やがて玄関の鍵が回った。
扉が開く。
そこに立っていたおじさんは、見るからに具合が悪そうだった。
髪は乱れ、頬は赤く、目元には熱のせいで滲んだような潤みがあった。部屋着の襟元はよれていて、いつもよりずっと頼りない。
彼は、扉の向こうにいる彼女を見て、しばらく瞬きをした。
「……あれ」
「『あれ』じゃないんですけど?」
彼女は眉を吊り上げた。
「なに、その顔。お化けでも見た?」
「……来たんだ」
「来たよ。あんたが謎の弱音LINEを送ってくるからでしょ」
「謎の……?」
「自覚ないの!? 『ちょっとだけさみしい』って何!? 熱で頭がとろけて、急に甘えんぼさんになっちゃったわけ!?」
彼女はいつもの調子でまくしたてた。
けれど、最後の言葉を口にしたあたりで、彼の身体がふらりと傾いた。
「……おじさん?」
彼女は慌てて買い物袋を床に置き、彼の腕を支えた。
「ちょ、ちょっと! 危ないってば!」
「ごめん……」
「はい、謝罪禁止!」
彼女は彼の腕を自分の肩に回させた。
「いいから、部屋戻るよ。ほら、ゆっくり。あーもう、ほんっとに手がかかる!」
言葉は乱暴だったが、彼女の動きは慎重だった。
彼が足を踏み出すたびに、彼女は歩調を合わせた。玄関の段差では腕をしっかり支え、布団まで連れていくと、彼の背中に手を添えてゆっくり座らせた。
「はい、横になって」
「……うん」
「靴下脱げる?」
「……たぶん」
「たぶんじゃないの。無理なら言いなさい」
彼女は彼の顔を覗き込んだ。
彼は、熱に潤んだ目で彼女を見つめていた。
「……ほんとに、来たんだね」
その声は、ひどく幼く聞こえた。
彼女は、一瞬だけ言葉を失った。
それから、わざと大きなため息をついた。
「来たってば。何回言わせんの?」
「……ありがとう」
「はいはい。お礼は元気になってから聞くから」
彼女は彼の額に手を当てた。
熱かった。
その熱さに、彼女の表情から冗談めいたものが少し消えた。
「……ほんとに熱いじゃん」
「そうみたい」
「そうみたい、じゃないの」
彼女は冷却シートを取り出す前に、体温計を手にした。
「もう一回測るよ。あと、症状もちゃんと確認するからね。息苦しかったり、水分が飲めなかったり、どんどん悪くなったりしたら、医療機関に相談する。あたしが来たからって、何でも解決した顔しないこと」
「……はい」
「よろしい」
体温計の数字は、三十八度三分だった。
彼女は眉を寄せたが、彼の前では努めて平静を保った。
「とりあえず、水分ね。飲めそう?」
彼が頷いたので、彼女はスポーツドリンクをコップに少しだけ注いだ。
彼は両手でコップを持ち、ゆっくり飲んだ。
一口飲むたび、喉が痛むのか、眉がかすかに寄る。
「無理しないで。少しずつでいいから」
「……うん」
飲み終えた彼からコップを受け取り、彼女は枕元に置いた。
それから、彼の額に冷却シートを貼ろうとした。
彼は目を閉じたまま、されるがままになっていた。
額に冷たいものが触れた瞬間、彼の眉間の皺が少し緩んだ。
「……つめたい」
「そりゃ冷却シートですからねー。三十三歳児、初体験?」
「……そんなことないよ」
「じゃあ、ちゃんと知ってるんじゃん。えらいえらい」
彼女は笑いながら、乱れた前髪を指先で避けた。
その手つきは、思っていたよりもずっと優しかった。
*
部屋は、ひどく静かだった。
彼女はカーテンを少しだけ閉め、室温を確かめてから、台所へ向かった。買ってきたものを冷蔵庫に入れ、鍋や食器の置き場所を探す。
彼の部屋を訪れるのは、これが初めてではなかった。
けれど、こうして一人で台所に立つのは初めてだった。
流しには、きちんと洗われた食器が伏せてある。テーブルの隅には、読みかけの本と、書き込まれた転職先の資料。冷蔵庫には卵と牛乳、それから、彼女と食べた店のレシートが磁石で留められていた。
彼女は、そのレシートに気づいて、少しだけ目を細めた。
「……なに、取ってあんの」
口元が緩んだ。
すぐに顔を引き締め、彼女は鍋に水を張った。
お粥を作るほどの余裕は、今の彼にはないかもしれない。まずはゼリーや飲み物を少しずつ。食べられそうなら、お粥を温める。必要なものを手の届くところに置いて、熱が下がるか様子を見る。
彼女は、慣れない手つきで準備を進めた。
ときどき寝室を覗き、彼の呼吸や顔色を確かめた。
そのたび、彼は薄く目を開けた。
「……何かあった?」
「ないよ。あんたがちゃんと寝てるか見てるだけ」
「……そっか」
「そっか、じゃないの。寝てなさい」
彼は目を閉じた。
数分後、また目を開けた。
「……帰らないの?」
彼女は、手にしていたタオルを止めた。
「は?」
「いや……」
彼はぼんやりと天井を見つめていた。
「忙しいだろうし。もう、来てくれただけで十分だから」
彼女の眉が、ぴくりと動いた。
「……あのさ」
彼女は布団のそばに座った。
「今、あたしが帰るって言った?」
「……言ってない」
「じゃあ、勝手に帰すな」
彼は目を瞬かせた。
「でも……」
「でも、じゃない。あたしが来たかったから来たの。あんたが決めることじゃないでしょ」
彼は、しばらく彼女を見つめていた。
熱でぼんやりした頭では、その言葉の意味をすぐに整理できなかったのかもしれない。
「……来たかったの?」
「そうだよ」
彼女は少しだけ頬を膨らませた。
「悪い?」
「……悪くない」
「でしょ」
彼女は満足げに頷いた。
「だったら、あんたは大人しく看病されてなさい。具合悪いときくらい、誰かに世話されてもいいの」
彼は目を閉じた。
それから、消え入りそうな声で言った。
「……ありがとう」
彼女は返事をしなかった。
返事をしようとすると、なぜだか喉の奥がむず痒くなったからだ。
代わりに、彼の掛け布団を肩まで掛け直した。
「……寝なさい、ばか」
*
夕方になっても、彼の熱はまだ高かった。
彼女は何度か体温を測り、水分を摂らせ、食べられそうか尋ねた。幸い、ゼリーなら少し食べられた。
けれど、彼は食べ終えると、ひどく疲れた様子で目を閉じた。
彼女はその隣で、スマートフォンをいじっていた。
ときどき画面を見て、また彼の顔を見る。
普段なら、こんなふうに人の寝顔を見つめたりしない。
そんなことをしたら、まるで自分が、彼のことを必要以上に気にしているようではないか。
……いや。
彼女は小さく息を吐いた。
実際、気にしているのだろう。
彼が新しい仕事を選び、少しずつ自分の人生を取り戻していくのを、彼女は嬉しく思っていた。自分の食べたいものを言えるようになったこと。疲れたときに休むことを覚えたこと。家族に弱音を吐けたこと。そして、退職を決め、自分の意思を上司に伝えたこと。
その一つ一つを、彼女は覚えていた。
彼は、自分が思っている以上に頑張ってきた。
だからこそ、今こうして、何もできずに横になっている姿を見ると、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼は、きっと今もどこかで、自分が休んでいることを責めているのだろう。
何かしなければ。
迷惑をかけてはいけない。
早く治さなければ。
そうやって、休むことさえ仕事のように考えてしまうのだろう。
「……ほんっと、面倒くさい人」
彼女は呟いた。
すると、布団の中から小さな声がした。
「……ごめん」
「起きてたの!?」
彼女は飛び上がりそうになった。
彼は薄く目を開けていた。
「……なんとなく」
「もう。寝てなさいってば」
「……うん」
彼は素直に目を閉じた。
それから、少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……僕、ちゃんと休めてるのかな」
彼女は、思わず息を止めた。
「……どういう意味?」
「会社を辞めてから、時間はあるんだけど……何かしてないと、落ち着かなくて」
彼の声は、熱に溶けて頼りなかった。
「休んでると、怠けてる気がして。次の仕事までに、ちゃんとしておかなきゃって……」
「……うん」
「でも、今日みたいに何もできなくなると……なんか、だめだなって」
彼女は、唇を噛んだ。
この人は、まだそんなことを考えている。
あれほど頑張ったのに。
ようやく仕事から離れたのに。
身体が休めと言っているときにさえ、自分を責めようとする。
彼女は彼の額に手を当てた。まだ熱い。
「ねえ、おじさん」
「……ん?」
「今、あんたがやること、何だと思う?」
彼は少し考えた。
「……次の仕事の準備?」
「ぶっぶー」
「……部屋の掃除?」
「大外れ」
「……ご飯?」
「それは元気になったらね」
彼女は、彼の額から手を離した。
「今は、治すこと」
彼は黙っていた。
「身体が休みたいって言ってるんだから、休むの。あんたが何かサボってるわけじゃない。風邪ひいた人が寝てるのは、普通のことでしょ?」
「……そうだね」
「それに、退職したからって、明日から急に完璧な人間にならなきゃいけないわけじゃないんですけど?」
彼女は、少しだけ笑った。
「今まで、ずーっと頑張ってきたんでしょ。だったら、しばらくは頑張らない練習でもしてなよ」
「頑張らない練習……」
「そ。あんた、何でも練習しないとできないんだから」
彼女は得意げに胸を張った。
「ご飯を食べる練習。休む練習。人に頼る練習。自分の好きなものを好きって言う練習」
そこで、彼女は少し声を落とした。
「……あと、寂しいときに寂しいって言う練習」
彼は、ゆっくりと目を開けた。
彼女は、彼と目を合わせなかった。
「……あのLINE、見たから」
「……うん」
「熱で頭がふわふわしてたんでしょ。だから、いつもなら言わないことまで送っちゃったんでしょ」
「……うん」
「……別に、いいじゃん」
彼女は指先で、布団の端を弄んだ。
「そういうの、あたしは嫌じゃないし」
彼は彼女を見つめていた。
「……本当に?」
「本当。何回言わせるの?」
彼女はようやく顔を上げた。
「むしろ、ちょっと嬉しかったし」
「……嬉しかった?」
「っ、そこは聞き返さなくていいの!」
彼女の頬が、目に見えて赤くなった。
「病人のくせに、そういうとこだけ元気なの、ほんっと腹立つ!」
彼は、掠れた声で笑った。
その笑いはすぐに咳へ変わったが、彼女は慌てて水を差し出し、背中をそっと支えた。
「ほら、無理して笑わない。今は笑うのも禁止!」
「それは……難しいな」
「難しくない!」
彼女は彼の背中をゆっくりと撫でた。
咳が落ち着くまで、ずっと。
彼は水を飲み、呼吸を整えた。
彼女の手の温度が、薄い部屋着越しに伝わっていた。
不思議だった。
誰かに背中を撫でてもらうことが、こんなにも安心できるなんて。
子供のころ以来だろうか。
いや、もしかすると、子供のころでさえ、こんなふうに安心して人に身体を預けたことはなかったのかもしれない。
彼は、彼女の袖をそっとつまんだ。
「……ねえ」
「なに?」
「……もう少し、ここにいてくれる?」
彼女の手が止まった。
彼は、自分の言ったことが急に恥ずかしくなった。
「いや、その……無理なら、いいんだけど」
「……ばか」
彼女は、小さく呟いた。
それから、つままれた袖を振りほどく代わりに、彼の手の上へ自分の手を重ねた。
「いるよ」
彼女は言った。
「ちゃんと、ここにいるから」
彼は目を閉じた。
その言葉を聞いた途端、身体の奥から力が抜けていった。
彼女の手を握るほどの元気はなかった。
ただ、袖をつまんだ指先だけは、離さなかった。
*
夜になるころ、彼は一度、目を覚ました。
部屋の明かりは落とされ、枕元の小さな照明だけが点いていた。
彼女は、布団のそばの床に座り、クッションを背にして本を読んでいた。
彼女が持ってきたのだろう。表紙には、彼が以前、書店で見かけた小説の題名があった。
「……あれ」
彼が声を出すと、彼女はすぐに顔を上げた。
「起きた?」
「……うん」
「気分はどう?」
「少し、楽になった気がする」
「そ。よかった」
彼女は本に栞を挟んだ。
「水飲める?」
彼は頷いた。
彼女はコップを手渡し、彼が飲み終えるまで、隣で待っていた。
「……ずっと、いてくれたの?」
「うん」
「……疲れたでしょ」
「まあね。あんたの部屋、暖房効きすぎなんだけど」
「ごめん……」
「はい、謝罪禁止って言ったよね?」
「……そうだった」
彼女は呆れたように笑った。
「まったく。熱が下がっても、その癖だけは治らないんだから」
彼は、申し訳なさそうに笑った。
けれど、今度は謝らなかった。
彼女はそれに気づいたらしく、少しだけ目を細めた。
「……よろしい」
そして、彼の額に手を当てる。
「まだ熱はあるね。今日は無理しないで寝てなさい。明日も高い熱が続いたり、症状が悪くなったりしたら、ちゃんと医療機関に相談するからね」
「……うん」
「約束」
「約束する」
彼女は満足げに頷いた。
それから、ふと、枕元に置かれたスマートフォンへ目をやった。
「……そういえばさ」
「うん?」
「あのLINE、明日になったら恥ずかしくなって消したくなるかもしれないけど」
彼は、ぎくりとした。
図星だった。
「……うん」
「消さなくていいからね」
彼女は、彼の顔を覗き込んだ。
「熱があったからって、あんたの気持ちまで嘘になるわけじゃないでしょ」
彼は何も言えなかった。
「寂しかったんでしょ。誰かに来てほしかったんでしょ。それを言えたの、あたしはいいことだと思うよ」
彼女は、いつものように口角を上げた。
「まあ、相手があたしでよかったね。こんなに優しくてかわいい看病係、そうそういないから♡」
「……自分で言うんだ」
「当然でしょ?」
彼は笑った。
今度は咳き込まずに笑えた。
彼女もつられて笑った。
その笑いが静まったあと、彼は小さく言った。
「……来てくれて、本当に嬉しかった」
彼女は一瞬、固まった。
そして、耳まで赤くした。
「……もーっ! 病人のくせに、そういうのばっかり上手くなっちゃって!」
「ごめん」
「だから謝るなってば!」
彼女は彼の額を指先で軽くつついた。
「……でも」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「……あたしも、来てよかった」
彼は彼女を見た。
彼女は、照れくさそうに目を逸らしていた。
「だってさ。あんたがちゃんと誰かを頼ってくれたんだもん。いつもみたいに『大丈夫』って言って、ひとりで何とかしようとしなかったんだもん」
彼女は、膝の上で本を閉じた。
「……それが、嬉しかったの」
彼は胸の奥が熱くなるのを感じた。
熱のせいだけではなかった。
「……そっか」
「うん」
「……じゃあ、次に具合が悪くなったときも」
「次は予防しなさい!」
彼女が即座に叫んだ。
「なんで次の看病を予約しようとしてんの!? 学習能力どこに置いてきたの、このおじさん!」
「はは……」
「笑うな!」
彼女は頬を膨らませた。
けれど、彼の布団を掛け直す手は、やっぱり優しかった。
「……まあ、どうしても困ったら、連絡くらいはしていいけど」
彼女はぼそりと言った。
「その代わり、ちゃんと症状も言うこと。熱が何度か、ご飯を食べられたか、水が飲めるか。『ちょっと具合が悪い』だけで済ませない。わかった?」
「……はい」
「よろしい」
彼は目を閉じた。
身体はまだ熱かった。喉も痛いし、頭も重い。明日になれば、また熱を測り、食べられるものを食べ、休まなければならない。
風邪が治ったところで、人生の問題が全部片づくわけでもない。
それでも。
今夜は、ひとりきりではなかった。
彼女の気配が、すぐそばにあった。
本をめくる小さな音。コップを置く音。時折、彼の呼吸を確かめるように近づいてくる足音。
彼は、うとうとしながら思った。
誰かに頼るということは、相手に自分の人生を背負わせることではないのだ。
ただ、自分が弱っているときに、弱っていると伝えること。
そして、来てくれた人に、来てくれて嬉しいと伝えること。
そんな小さなやり取りが、誰かとのあいだに、温かな場所を作っていく。
「……ねえ」
彼は、半分眠りながら呟いた。
「なにー?」
「……明日、プリン食べたい」
沈黙。
そして、彼女の笑い声が部屋に響いた。
「ぷっ……あははっ! なにそれ! 熱で寝込んで、最初に出てくるお願いがプリン!?」
「……だめ?」
「だめじゃないけど! あんた、ほんっとに別腹おじさんなんだから!」
彼女は笑いながら、冷蔵庫のほうを指差した。
「ちゃんと買ってきてあるよ。食べられそうになったらね」
彼は、目を閉じたまま微笑んだ。
「……ありがとう」
「はいはい」
彼女は、彼の額に貼られた冷却シートをそっと確かめた。
「おやすみ、おじさん」
それから、いつもの調子で付け足した。
「明日もちゃんと生きること。命令ね♡」
「……了解」
彼の返事は、眠りに溶けていった。
彼女はしばらく、その寝顔を見つめていた。
普段は自分の弱さを隠そうとしてばかりの男が、今夜は自分の袖をつまみ、帰らないでほしいと頼んだ。
そのことを思い出すと、彼女の胸の奥が、どうにも落ち着かなかった。
「……ほんっと、ずるいんだから」
彼女は小さく呟いた。
けれど、その顔には笑みが浮かんでいた。
やがて彼女は、もう一度本を開いた。
彼が目を覚ましたとき、そこに誰かがいるように。
彼が熱に浮かされて、また心細くなったとき、呼べば返事が返ってくるように。
彼女は、彼の部屋に残った。
窓の外では、夜が静かに深まっていた。
そして三十三歳のおじさんは、久しぶりに、何かを頑張らなくても許される夜を眠っていた。
……生きてる。えらいね、おじさん。