人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
風邪が治ってから、おじさんは三日間、妙なことを考えていた。
看病のお礼をしたい。
ただし、何をすればいいのかがわからない。
菓子折りを買って渡すのは、どこか他人行儀な気がした。食事に連れていくのも悪くないが、これまで散々ご馳走になったり、彼女の好きな店を教えてもらったりしている。そろそろ自分から何かを差し出したかった。
何より、彼女はあの日、彼の部屋に来てくれた。
熱で頭がぼんやりして、みっともないことを言った。寂しいと、帰らないでほしいと、まるで子供のように頼んだ。
彼女は笑わなかった。
もちろん、からかいはした。あれだけからかわれたのだから、今後十年分くらいの恥をかいたような気もする。
それでも彼女は、彼が眠っているあいだもそばにいてくれた。
あのときのことを思い返すたび、彼の胸には、言葉にしにくい温かさが広がった。
だからこそ、何かをしたかった。
彼女がしてくれたことを、同じ形で返すのではなく。
彼女が喜んでくれることを、自分で考えて。
そうして彼が辿り着いたのが、手料理だった。
*
問題は、彼の料理の腕である。
正直に言えば、褒められるほどのものではなかった。
卵焼きは作れる。味噌汁も作れる。肉を焼き、野菜を炒め、レシピを見ながらなら、いくつかの料理を完成させることもできる。
しかし、それらはすべて「食べられるものを用意する」という範囲に収まっていた。
人に食べてもらうために作る料理となると、話が違う。
ましてや相手は、食べ物に関して妙に目が肥えているメスガキである。
ラーメン屋のスープの違いを語り、定食屋の味噌汁の出汁に気づき、フレンチのソースを口に含んでは、したり顔で感想を述べるような少女だ。
彼は、スマートフォンの検索画面を見つめていた。
『初心者 手料理 喜ばれる』
画面には、色とりどりの料理が並んでいた。
煮込みハンバーグ。チキン南蛮。ロールキャベツ。手の込んだパスタ。
どれも、写真の中では実に立派だった。
彼はレシピを一つ開き、材料を確認した。
閉じた。
別のレシピを開いた。
また閉じた。
「……いや、これは無理だろう」
ロールキャベツの葉を一枚ずつ剥がしている自分を想像し、彼は早くも敗北した。
見栄を張るのはやめよう。
そもそも、彼女に料理人として認めてもらいたいわけではないのだ。
自分にできる範囲で、ちゃんと食べてもらえるものを作る。
彼はしばらく考えた末、鶏肉の照り焼きと、だし巻き卵、それから野菜の味噌汁を作ることに決めた。ご飯は少しだけいい米を買って炊く。デザートには、彼女が好きそうなプリンを用意しておこう。
そう決めると、彼は彼女にメッセージを送った。
『今度の休み、うちでご飯を食べない?』
すぐに既読がついた。
『え、なに?』
『おじさん、ついに料理教室にでも通い始めた?』
『それとも、あたしに食べさせるために毒でも仕込んだ?』
彼は苦笑した。
『看病のお礼に、手料理を振る舞いたいと思って』
返信は、少し遅れて届いた。
『……へえ』
『手料理』
『おじさんの?』
『……ふーん?』
疑念が三段階にわたって深まっているようだった。
彼は、もう一度メッセージを送った。
『一応、食べられるものを作るつもりだよ』
直後に、電話がかかってきた。
「もしもし?」
『ちょっと! なにその自信のなさ!』
開口一番、彼女はそう言った。
「え?」
『食べられるものを作るつもりってなに!? あたし、毒味係じゃないんですけど!?』
「いや、そういう意味じゃ……」
『あははっ! やば! もう不安になってきたんだけど!』
電話の向こうで、彼女はけらけらと笑った。
その笑い声を聞いていると、彼の心配は少しずつ、馬鹿馬鹿しいものに思えてきた。
「……そんなに笑わなくても」
『だって、あんた! あたしを呼んどいて、食べられるかどうか心配してるんでしょ?』
「それは……まあ」
『ぷっ、あははっ! なにそれ! かわいそ!』
「自分で作る料理だから、口に合うかどうかはわからないじゃないか」
『あのねえ』
彼女は、笑いを残したまま言った。
『あたし、料理評論家じゃないんですけど? 星いくつとか、点数何点とか、そういうの求めてないから』
「……うん」
『あんたが作ってくれるんでしょ。それで十分じゃん』
あまりにあっさりと言われたので、彼は返事を忘れた。
彼女は少し間を置き、いたずらっぽい声になった。
『ま、もし失敗しても、ちゃんと笑ってあげるから安心しなよ♡』
「安心できないなあ……」
『あははっ! じゃ、当日ね。逃げたら許さないから!』
電話が切れた。
彼はスマートフォンを見つめ、しばらく動かなかった。
それから、台所へ向かった。
献立の見直しをするためではない。
練習をするためだった。
*
約束の日、彼は朝から落ち着かなかった。
米を研ぎ、野菜を洗い、鶏肉の水気を拭き取る。調味料を計量し、使う順番に並べる。レシピはスマートフォンで開き、濡れた手で触らなくて済むように、少し離れたところへ立てかけた。
何度も時計を見た。
まだ一時間もある。
それなのに、彼の胸の中では、もう夕食の時間が始まっていた。
彼女は何と言うだろう。
おいしいと言ってくれるだろうか。
もし、味が濃すぎたら。肉が硬かったら。卵焼きが焦げていたら。
考え始めると、際限がなかった。
彼は包丁を置いた。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。
彼女は、完璧な料理を食べに来るわけではない。
それでも、できるだけおいしいものを食べてほしかった。
看病してくれたお礼だから、というだけではない。
彼女が好きなものを、少しでも知りたかった。どんな味付けが好きで、何をおいしいと感じて、何を食べたときに笑うのか。
これまで彼女は、彼の食生活を気にかけてくれた。彼が自分の希望を口にするまで、辛抱強く待ってくれた。
今度は、自分が彼女のために、台所に立ってみたかったのだ。
そう考え直すと、少しだけ呼吸が楽になった。
インターホンが鳴ったのは、約束の時間ちょうどだった。
「はーい」
扉を開けると、彼女が立っていた。
今日はいつもより少しだけ明るい色のカーディガンを着て、髪を後ろでまとめている。手には小さな紙袋を提げていた。
「おじゃましまーす」
「いらっしゃい」
「へえ。ちゃんと掃除してるじゃん」
「人を何だと思っているんだ……」
「よわよわおじさん♡」
「はいはい」
彼が苦笑すると、彼女は満足げに頷いた。
それから、台所のほうを覗き込む。
「で?」
「で、とは?」
「料理。見せてよ」
「まだ途中だよ」
「いいから、いいから」
彼女は靴を脱ぐなり、興味津々といった様子で台所へ向かった。
そして、まな板の上に並べられた鶏肉や野菜、計量された調味料を見て、目を丸くした。
「……えっ」
「な、何?」
「ちょっと待って。なにこれ」
彼女は、調味料の小皿を指さした。
「全部、計ったの?」
「うん。レシピにそう書いてあったから」
「ぷっ……あははっ!」
彼女は腹を抱えて笑い始めた。
「なにそれ! 真面目すぎでしょ! 理科の実験じゃないんだから!」
「いや、分量を間違えると味が変わるだろう?」
「変わるけど! 変わるけどさあ!」
彼女は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、彼を見上げた。
「……あー、もう。ほんっと、あんたって面白いね」
彼は耳が熱くなるのを感じた。
「そんなに笑うことかな……」
「笑うよ! だって、あたしのために一生懸命やってくれたんでしょ?」
その言葉に、彼は口を閉じた。
彼女は、少しだけ笑い方を変えた。
「……ありがと」
照れくさそうな、柔らかな声だった。
それから、彼女は袖を捲った。
「で、あたしも手伝っていい?」
「え?」
「なにその顔。まさか、あたしを椅子に座らせて、完成まで黙って待ってろって言うつもり?」
「いや、せっかくだから、今日は僕が全部やろうと思って……」
「ふーん?」
彼女は、わざとらしく首を傾げた。
「じゃあ、あたしは見学係ね。あんたが失敗するところ、特等席で見ててあげる♡」
「……手伝ってください」
「あははっ! 素直でよろしい!」
彼女は、満面の笑みでエプロンを探し始めた。
*
料理を始めると、台所は思いのほか賑やかになった。
彼女は野菜を切り、彼は鶏肉に下味をつけた。味噌汁の鍋からは、出汁の香りが立ち上っている。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
「鶏肉、もう焼いていいの?」
「ええと、皮目から……」
「知ってる知ってる。皮から焼くんでしょ?」
「じゃあ、聞かなくても……」
「だって、あんたがちゃんとわかってるか確認しないと♡」
彼女は、けらけらと笑った。
彼は小さくため息をついた。
「……本当に、口が減らないね」
「今さら気づいたの?」
鶏肉をフライパンに置くと、じゅう、と音がした。
皮から脂が滲み、香ばしい匂いが広がっていく。
彼は真剣な顔で、肉の焼き色を確かめた。
彼女はその横顔を眺めていた。
普段、食事をするときの彼は、どこか遠慮がちだった。何を食べたいか尋ねても「何でもいい」と言いかけるし、店を決めるときも、まず彼女の好みを気にする。
けれど、今の彼は違った。
火加減を調整し、肉の焼き色を見て、調味料を入れるタイミングを計っている。失敗しないかと緊張しているくせに、途中で投げ出そうとはしない。
その姿が、彼女には少し眩しかった。
「……なに?」
彼が尋ねた。
「いや?」
「ずっと見てるから」
「別にー?」
彼女は目を逸らした。
「おじさんが料理してるの、珍しいなーって思っただけ」
「そうだね。普段は簡単なものしか作らないから」
「へえ。じゃあ、あたし、貴重なもの見てるんだ?」
「……そういうことになるのかな」
「やった。三十三歳おじさんの調理風景、観察日記につけとこ」
「やめてくれないか」
「あははっ!」
彼女は笑いながら、切った野菜を鍋へ入れた。
やがて、照り焼きのタレが煮詰まり始めた。
醤油とみりん、砂糖の甘い香りが立ち上り、台所いっぱいに広がる。
彼は少しだけタレを味見した。
甘い。
しかし、醤油の塩気がそれを引き締め、鶏肉の脂と合わさると、ちょうどよい味になりそうだった。
「……どう?」
彼女が覗き込んだ。
「うん。たぶん、大丈夫」
「また大丈夫って言った!」
「えっ」
「味見したんでしょ? じゃあ、どう思ったか言いなよ」
彼は、少し考えた。
「……甘めだけど、醤油の味もちゃんとする。ご飯には合うと思う」
彼女は満足げに頷いた。
「よろしい。ちゃんと自分の感想が言えました」
「……何の指導なんだ、これは」
「おじさんの生活能力向上講座?」
「受講料は高そうだな」
「プリン一個でいいよ♡」
彼は笑った。
その間に、彼女は味噌汁の鍋を覗き込んでいた。
「ねえ、これ、もう味噌入れた?」
「まだ。具材に火が通ったら、いったん火を止めて入れようと思って」
「ふーん。じゃあ、味見していい?」
「もちろん。味噌を入れてからね」
「はーい」
彼は具材に火が通ったのを確かめ、いったん火を止めた。お玉に味噌を取り、少しずつ汁に溶き入れる。湯気に混じって、味噌の香りがふわりと立ち上がった。
味噌を溶き終えると、彼は弱火でそっと温め直した。煮立たせないように気をつけながら、お玉で汁をすくい、ひと口だけ味見をする。
出汁の風味に味噌の旨味が重なり、塩気もちょうどよかった。
「……うん。これなら大丈夫そうだ」
「なになに?」
彼女が、すぐそばから鍋を覗き込んだ。
「味噌を入れてから味見したんだよ。濃すぎないか、確かめておこうと思って」
「ふーん。じゃあ、あたしにも飲ませてよ」
彼は小さなお椀に味噌汁を少しよそい、彼女に渡した。
彼女は両手でお椀を受け取り、湯気に息を吹きかけてから口に含んだ。
しばらく、黙っている。
彼は息を止めた。
「……どう?」
彼女は、もう一度味噌汁を飲んだ。
「うん」
「うん?」
「おいしい」
彼は、思わず彼女の顔を見た。
「……本当に?」
「本当に。出汁の味がちゃんとするし、味噌も濃すぎない」
彼女は、お椀を彼に返した。
「なに? あたしが嘘ついてると思ってる?」
「いや、そうじゃないけど……」
「じゃあ、信じなさいよ」
彼女は笑った。
「おいしいものは、おいしいんだから」
その言葉が、彼の胸にすとんと落ちた。
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
料理は、まだ完成していない。
それでも、彼はもう、少しだけ嬉しかった。
*
食卓に料理が並んだのは、午後七時を少し回ったころだった。
白いご飯。鶏肉の照り焼き。だし巻き卵。豆腐とわかめの味噌汁。それに、彼女が切ってくれたトマトときゅうりの小さなサラダ。
豪華な食卓ではない。
盛り付けも、店で出てくる料理のように整っているわけではなかった。だし巻き卵の端は少し崩れ、照り焼きのタレは皿の底に溜まっている。
それでも、湯気の立つ食卓には、彼が彼女のために費やした時間が、ひとつひとつの料理に染み込んでいるようだった。
「……どうぞ」
彼が言った。
「どうぞって。あんたも食べるんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃ、いただきます」
彼女は手を合わせた。
彼も続いて手を合わせる。
「いただきます」
彼女は、まず照り焼きに箸を伸ばした。
皮にはきれいな焼き色がついていた。箸を入れると、肉は思ったよりも柔らかく切れた。
彼女は一口食べた。
咀嚼する。
彼は、その様子を見つめていた。
彼女はもう一度噛み、飲み込んだ。
それから、彼を見た。
「……なに?」
「いや、感想を……」
「ぷっ」
彼女は吹き出した。
「あははっ! なにその顔! あたしが毒味してるのを見守る人みたいになってるんだけど!」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「あるでしょ! めっちゃあるでしょ!」
彼女は笑いながら、もう一口食べた。
それから、少しだけ真面目な顔をした。
「うん。おいしいよ」
彼は、肩の力が抜けるのを感じた。
「……よかった」
「タレはちょっと甘めだけど、ご飯に合うし。鶏肉もちゃんと柔らかい」
彼女はご飯を一口食べ、照り焼きをもう一度口に運んだ。
「ほら、こうやって食べると、ちょうどいいじゃん」
「……そうか」
「うん」
彼女は、嬉しそうに笑った。
「男料理って感じで、いいね」
彼は少しだけ眉を寄せた。
「男料理って……」
「だって、ちょっと不器用だけど、ちゃんとおいしいんだもん」
「不器用は余計じゃないかな」
「えー? だって、あの調味料の小皿! 思い出しただけで笑えるんだけど!」
彼女は再び、けらけらと笑った。
「ほんっと、真面目なんだから。レシピどおりに作らないと死んじゃう人?」
「失敗したくなかったんだよ」
彼は、苦笑しながら答えた。
「せっかく来てもらったのに、おいしくなかったら申し訳ないと思って」
彼女は、箸を止めた。
「……ねえ」
「うん?」
「それ、まだ気にしてたの?」
彼は少し迷ってから、頷いた。
「うん。やっぱり、人に食べてもらうとなると、緊張するね」
「ふーん」
彼女は、だし巻き卵を一切れ口に運んだ。
「じゃあさ」
「うん」
「あたしが、もしおいしくないって言ったらどうするつもりだったの?」
「……次は、もっとおいしく作れるように練習する」
「ぷっ」
彼女はまた笑った。
「真面目か!」
「いや、でも……」
「ううん、いいよ。そういうとこ、あんたらしいし」
彼女は笑いを収め、彼の顔を見た。
「でもね。あたしは、料理の腕を試しに来たわけじゃないんだよ」
彼は黙っていた。
「看病のお礼に、あんたがご飯を作ってくれた。それが嬉しいの。だから、おいしいって言ってるのは、お世辞じゃないからね」
彼女は少しだけ照れたように、視線を皿へ落とした。
「……あんたが、あたしのために何かしようって考えてくれたのが、嬉しいんだから」
彼は、箸を持つ手に力を込めた。
胸の奥が、温かくなった。
彼女は、そんな彼の様子を見て、すぐに口元を緩めた。
「……あ、なに? また泣く?」
「泣かないよ」
「ほんとー?」
「本当だよ」
「ふーん。じゃあ、泣く前に食べなよ。冷めちゃうから」
彼女は照り焼きをもう一切れ取った。
「……おかわり、ある?」
「あるよ」
「じゃあ、もらおっかな」
その言葉に、彼は思わず笑った。
「気に入ってくれたんだね」
「だから、おいしいって言ってるじゃん!」
彼女は頬を膨らませた。
「何回言わせんの、このおじさん! 人の感想を信用しなさいよ!」
「……そうだった」
「そうですー」
彼女は得意げに頷いた。
そして、ご飯を頬張った。
その姿を見て、彼はようやく、自分も食べることに集中できた。
照り焼きは、少し甘かった。
味噌汁は、彼女が言ったとおり、出汁の香りがよく出ていた。だし巻き卵は、ところどころ形が崩れているものの、口に含むと優しい味が広がった。
うまい。
それだけではなかった。
彼女がおいしいと言ってくれたものを、自分も同じ食卓で食べている。
そのことが、彼には嬉しかった。
誰かに褒められるためではなく、誰かと一緒に食べるために作った料理。
自分が食べたいと思ったものを作り、それを誰かに差し出すこと。
その小さな営みが、こんなにも温かなものだとは知らなかった。
*
食事が半分ほど進んだころ、彼女が突然、箸を置いた。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「今度、あたしにも作り方教えてよ」
彼は目を瞬かせた。
「え?」
「え、じゃないよ。これ、おいしいし」
彼女は照り焼きを指さした。
「自分でも作れるようになりたいなって思ったの」
「……そうか。もちろん、いいよ」
「ほんと?」
「うん。ただ、そんなに難しい料理じゃないから……」
「はい、また始まった!」
彼女は彼の言葉を遮った。
「自分が作ったものを、すぐ大したことないって言うの禁止!」
彼は口を閉じた。
「難しいかどうかは、あたしが決めるの。あたしが作ってみたいと思ったんだから、それでいいじゃん」
「……そうだね」
「でしょ?」
彼女は満足げに笑った。
「じゃ、今度は一緒に作ろ。あたしが失敗したら、あんたが笑っていいから」
「……笑わないよ」
「えー? なんで?」
「せっかく一生懸命作ったものを、笑いたくないから」
彼女は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、ふいと顔を逸らした。
「……ばか」
「え?」
「そういうこと、さらっと言わないでよ」
彼女の耳が赤くなっていた。
彼は、ようやく自分が何を言ったのか理解した。
「ああ……ごめん」
「だから謝るなってば!」
彼女は彼の腕を軽く叩いた。
「……ほんっと、あんたって、たまにずるいよね」
その声は、怒っているというより、困っているようだった。
彼は、少しだけ笑った。
「……お互いさまじゃないかな」
「は?」
「僕が風邪をひいたとき、君も、ずるいくらい優しかったから」
彼女は固まった。
しばらくして、彼女は口元を手で覆った。
「……なにそれ」
「本当のことだよ」
「……っ、もう!」
彼女は顔を伏せた。
「はいはい! ご飯! ご飯食べよ! 変な話は禁止!」
彼は笑った。
彼女も、しばらくしてから笑った。
その笑い声が、食卓の上にふわりと広がった。
*
食後、彼はプリンを冷蔵庫から取り出した。
彼女は目を輝かせた。
「おっ、プリン!」
「この前、食べたいって言っていたから」
「覚えてたんだ?」
「うん」
彼は二つのプリンをテーブルに置いた。
彼女は、片方を手に取り、蓋を開けた。
「……ふーん」
「何?」
「いや。ちゃんと二個買ってるんだなって」
「二人で食べるんだから、当然だろう?」
彼女は、また黙った。
それから、プリンを一口食べた。
「……おいしい」
「よかった」
「うん」
彼女は、もう一口食べた。
しばらくして、彼女はスプーンを置いた。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、来てよかった」
彼は、彼女を見た。
「……本当?」
「本当。何回言わせんの?」
彼女は、少し照れくさそうに笑った。
「おいしいご飯も食べられたし。あんたが元気になったのも確認できたし。……それに」
彼女は、言葉を探すように少し黙った。
「……あたしばっかり、あんたの世話焼いてるみたいだったからさ」
彼は、静かに耳を傾けた。
「でも、今日は違ったでしょ。あんたがあたしのために、ご飯を作ってくれた」
彼女は、プリンのカップを両手で包んだ。
「……なんか、嬉しかったんだよね」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「……僕も、嬉しかったよ」
「なにが?」
「君が、おいしいって言ってくれたこと」
彼は少し考え、それから続けた。
「それに……誰かのために何かをするのって、こんなに楽しいんだなって思った」
彼女は彼を見つめた。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、これからも作ってよ」
彼は笑った。
「もちろん。君が食べたいなら」
彼女は、得意げに胸を張った。
「よろしい。じゃあ、次はハンバーグね」
「……えっ」
「なに? まさか、もう献立が尽きた?」
「いや、ハンバーグなら作れると思うけど……」
「じゃ、決まり!」
彼女は、けらけらと笑った。
「次も楽しみにしてるからね、よわよわおじさん♡」
彼は苦笑しながら、頷いた。
「……頑張るよ」
「頑張りすぎは禁止ね」
彼女は、すぐに付け加えた。
「ちゃんと休んで、無理しないで。失敗してもいいからさ」
その言葉に、彼は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……うん。わかった」
*
彼女が帰ったあと、彼は一人で食器を洗った。
流しに立ち、皿についたタレを水で流していく。だし巻き卵を盛り付けた皿には、ほんの少しだけ、黄色い跡が残っていた。
彼はそれをスポンジで丁寧に洗い落とした。
部屋は、彼女が来る前よりも静かになっていた。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
食卓には、二人で食べた痕跡が残っている。空になったプリンのカップ。使い終えた箸。彼女が笑いながら置いた湯呑み。
どれも、ただの食器にすぎない。
それでも、彼には、それらが何か大切なもののように思えた。
誰かを看病すること。
誰かのために料理を作ること。
誰かが作ってくれたものを、おいしいと言って食べること。
それらは、立派な人間だけに許された行為ではない。
仕事ができるかどうかとも、誰かの期待に応えられるかどうかとも、関係がない。
ただ、誰かを大切に思う気持ちがあれば、少しずつ形にできることなのだ。
彼は、洗い終えた皿を水切り籠に置いた。
そして、スマートフォンを手に取った。
彼女からメッセージが届いていた。
『今日はごちそうさま!』
『照り焼き、ほんとにおいしかったよ』
続けて、もう一通。
『だし巻き卵はちょっと形がよわよわだったけどね♡』
彼は笑った。
『ありがとう。次はもっときれいに巻けるように練習しておくよ』
すぐに返信が来た。
『練習しすぎ禁止!』
『あたしが食べに行くんだから、気楽に作りなさい!』
彼は画面を見つめた。
それから、ゆっくりと文字を打った。
『わかった。次も、一緒に食べよう』
送信。
しばらくして、返事が届いた。
『……うん』
『楽しみにしてる』
たったそれだけの言葉だった。
けれど、彼はしばらく、その画面を閉じることができなかった。
以前の彼なら、誰かに何かをしてもらったとき、どうやって返せばいいのかばかり考えていた。借りを作ってはいけない。相手に負担をかけてはいけない。もらったものは、きちんと返さなければならない。
けれど、今日、彼女は彼の料理を食べて、笑ってくれた。
彼が用意したものを、彼が用意したという理由だけで喜んでくれた。
そして、次も一緒に食べようと言ってくれた。
何かをしてもらったから、何かを返す。
それだけではなく。
何かをしてあげたいと思うから、何かをする。
そのあいだに、少しずつ、お互いの居場所ができていく。
彼は、台所の明かりを消した。
明日もきっと、会社のない朝が来る。
まだ慣れない時間を持て余し、何をすればよいのかわからなくなるかもしれない。新しい仕事への不安が、また胸の奥で膨らむ日もあるだろう。
それでも、今はひとつ、楽しみができた。
次はハンバーグを作る。
彼女が笑いながら食べられるように。
できれば、今度はだし巻き卵も、もう少しきれいに巻けるように。
そう考えると、彼は少しだけ、明日が楽しみになった。
彼女のために作った料理は、決して特別なものではなかった。
ただの鶏肉と卵と味噌汁だった。
けれど、彼女が「おいしい」と笑ってくれたその食卓は、彼にとって、これまで生きてきたどの晩餐とも違っていた。
そこには、誰かの機嫌を窺う必要も、期待に応えるための演技もなかった。
彼は、自分で作ったものを、自分でおいしいと思い、彼女と一緒に食べた。
それだけのことが、こんなにも幸福だった。
そして彼は、ようやく理解し始めていた。
人を大切にするということは、いつも立派でいることではない。
ときには看病され、ときには料理を振る舞い、失敗すれば笑われ、それでもまた次の食卓を約束すること。
そんな、ささやかで不格好な繰り返しの中にこそ、人と人が一緒に生きていくための、温かなものがあるのかもしれなかった。
美味しいと、言ってくれた。次も、頑張ろう