人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで   作:メスガキに勝てない

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春だから


第十五話

 転職してから、しばらくが経った。

 

 最初のうちは、何もかもが新しかった。新しい机、新しい社員証、新しい人間関係。仕事の進め方も、会議で発言するタイミングも、帰り際に誰へ何と言えばいいのかさえ、前の職場とは微妙に違っていた。

 

 おじさんはそのたびに戸惑い、失敗し、帰宅してからひとり反省会を開きかけた。

 

 けれど、以前と違うことがひとつあった。

 

 反省会が始まる前に、風呂に入るようになった。腹が減っていれば、先に飯を食うようになった。どうしてもわからないことは、翌朝、同僚に聞くことにした。

 

 それでも、疲れるものは疲れる。

 

 ただ、疲れたからといって、自分の生活まで投げ捨てる必要はない。そのことを、おじさんは少しずつ覚え始めていた。

 

 そして、ようやく迎えた、何の予定もない休日。

 

 午前八時十二分。

 

 スマートフォンが震えた。

 

『起きてる?』

 

 メスガキからだった。

 

 おじさんは布団の中で、しばらく画面を見つめた。

 

『起きてるよ』

 

『ほんとにぃ? どうせ布団に埋まって、社会復帰したくないよぉ、とか言ってるんでしょ』

 

『そこまでひどくない』

 

『じゃあ今日、ピクニック行こ』

 

 あまりにも唐突だった。

 

『ピクニック?』

 

『そ。天気いいし、桜もまだちょっと残ってるらしいし。お弁当持ってこ。あたし作るから、おじさんも作ってね』

 

『僕も?』

 

『え、なに? 自分だけ食べさせてもらう気だった? よわよわおじさん♡』

 

 おじさんは笑った。

 

 彼女のこういうところは、相変わらずだ。誘うときには誘うという単純なことを、妙に偉そうな顔でやってのける。

 

 けれど、彼はもう知っていた。

 

 その偉そうな文面の向こう側に、彼女が自分と過ごす休日を楽しみにしていることを。

 

『わかった。作っていくよ』

 

『おっ。えらいじゃん。ちゃんと自分で決められたね』

 

『何を作るかは、これから考える』

 

『そこから!? 三十三歳児、遠足の前日に宿題を残すタイプだったんだ』

 

『お弁当のおかずを考えるのも、僕にとっては立派な宿題なんだよ』

 

『はいはい。じゃ、楽しみにしてるね♡』

 

 最後のハートマークが、妙に目に残った。

 

 おじさんは布団から出た。

 

 今日は、何かを成し遂げなくてもいい日だ。

 

 だからこそ、何をしたいか、自分で決めてみたかった。

 

     *

 

 台所に立ったおじさんは、冷蔵庫を開けた。

 

 卵。鶏もも肉。ブロッコリー。ミニトマト。冷凍庫には、買い置きしていた枝豆。

 

 それから、昨夜のうちに炊いておいた米が、保存容器に入っている。

 

「……よし」

 

 誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。

 

 豪華なものを作る必要はない。けれど、彼女に食べてもらうなら、適当に済ませたくもなかった。

 

 考えた末に、鶏の照り焼き、だし巻き卵、ブロッコリーのごま和え、ミニトマト。それに、塩昆布を混ぜたおにぎりを握ることにした。

 

 前に彼女が食べてくれた照り焼き。

 

 形が不格好だと笑われただし巻き卵。

 

 今度こそ、少しは見栄えよく仕上げたい。

 

 フライパンで鶏肉を焼く。皮目がこんがり色づいていくのを見守りながら、彼はふと思った。

 

 自分は、彼女に何かをしてあげたいのだ。

 

 世話になったから。恩を返さなければならないから。そういう理由だけではなく。

 

 彼女が弁当箱を開けて、少し驚いて、それから笑ってくれたらいい。

 

 自分が作ったものを、彼女においしいと言ってもらえたらいい。

 

 それだけのことが、こんなにも楽しみなのだ。

 

 照り焼きのたれを絡め、火を止める。

 

 だし巻き卵は、前回よりも形が整った。完璧とはいえないが、少なくとも、卵焼きという料理の尊厳は守られている。

 

「……成長したな、僕」

 

 誰もいない台所で自画自賛した。

 

 もし彼女がここにいたら、間違いなく笑われただろう。

 

 それでも、今日は少しくらい、自分を褒めてもいい気がした。

 

 弁当箱におかずを詰め、おにぎりを並べる。彩りを確かめ、少し傾いた卵焼きの位置を直した。

 

 最後に蓋を閉めると、彼はそれを保冷バッグにしまった。

 

 準備はできた。

 

 そう思うと、まだ家を出るまで時間があるというのに、妙に落ち着かなくなった。

 

     *

 

 待ち合わせ場所に現れた彼女は、生成り色のブラウスに薄手のカーディガンを羽織っていた。肩に掛けた小さなバッグから、花柄の布に包んだ弁当箱が覗いている。

 

 おじさんを見つけると、彼女は片手を上げた。

 

「おっそーい」

 

「待ち合わせの五分前だよ」

 

「女の子を待たせた時点で遅刻なの。知らなかった?」

 

「初耳だなあ」

 

「三十三歳にもなって、女心の初歩から勉強し直し? かわいそ♡」

 

 彼女は笑いながら近づいてきた。

 

 そして、おじさんの手にある保冷バッグに目を留める。

 

「お。ちゃんと持ってきたんだ」

 

「約束したからね」

 

「へえ。逃げずに作ってきたんだ。えらいえらい」

 

 彼女はそう言って、彼の頭をぽんぽんと撫でた。

 

「……子供じゃないんだから」

 

「知ってるよ。三十三歳の、ちょっと褒められるとすぐ嬉しくなっちゃうおじさんでしょ?」

 

「そんなことは……」

 

 言いかけて、彼は黙った。

 

 嬉しくなっていた。

 

 彼女の手が離れると、そこだけ妙に心細い。そんな感覚に気づいてしまい、おじさんはわずかに視線を逸らした。

 

「なに、その顔」

 

「いや」

 

「ふーん?」

 

 彼女は彼の顔を覗き込み、何かを察したように目を細めた。

 

「……ま、いっか。今日はいっぱい甘やかしてあげよっかな。お弁当、頑張ったみたいだし?」

 

「それは、どうも」

 

「ただし、調子に乗ったら減点ね♡」

 

 そう言って、彼女は先に歩き出した。

 

 おじさんはその隣に並ぶ。

 

 歩幅を合わせようと意識しなくても、二人の速度はいつの間にか揃っていた。

 

     *

 

 公園は、春の名残を抱いていた。

 

 桜は満開の時期を過ぎ、枝先にはまだ淡い花がいくつも残っていた。若葉の混じり始めた枝を、春風がそっと揺らしている。

 

 風が吹くたび、花びらがひらりと舞い落ちた。芝生の上を滑り、敷物の端に降り、あるいは石畳の隅へと集まっていく。

 

 見上げれば、青い空を背景に、薄紅色の花がまばらに浮かんでいた。満開の華やかさとは違う、少し名残惜しく、それでいて穏やかな美しさだった。

 

 子供たちがボールを追いかけ、犬を連れた人が木陰を歩いている。桜の下では、家族連れが敷物を広げ、年配の夫婦が並んで花を見上げていた。

 

 どこにでもある、春の休日の風景だった。

 

 けれど、おじさんはその景色を、以前よりもゆっくり眺めることができた。

 

「ここ、いいでしょ」

 

 彼女が言った。

 

「うん。気持ちいいな」

 

「でしょ。あたしのお気に入り。仕事で嫌なことがあったときとか、なんか考えすぎちゃうときに来るの」

 

 彼女は、桜の木から少し離れた芝生の一角を指した。

 

「今日は特別に、おじさんにも使わせてあげる」

 

「光栄です」

 

「わかればよろしい」

 

 彼女は満足そうに頷き、敷物を広げた。

 

 二人で芝生の上に腰を下ろす。彼女が持参した水筒を置き、おじさんも保冷バッグから弁当箱を取り出した。

 

「じゃーん」

 

 彼女が自分の弁当箱を開ける。

 

 彩りのよい、春らしい弁当だった。

 

 鮭の塩焼き。菜の花のおひたし。小さな鶏つくね。ほんのり黄色い卵焼き。桜色の漬物が、白いご飯の隅を飾っている。

 

 おかずがぎゅっと詰まっているのに、窮屈な感じはしない。赤、緑、黄色が自然に並び、食べる前から春の匂いがした。

 

 その向こうには、桜の花が見える。

 

 風が吹くたび、花びらが一枚、二枚と舞い降りた。弁当箱の蓋に落ちた花びらを、彼女が指先でつまみ上げる。

 

「すごいな」

 

「んふふ。でしょ?」

 

 彼女は得意げに胸を張った。

 

「ちゃんと自分で作ったんだから。どこかの誰かとは違うの」

 

「……僕も全部作ったよ」

 

「えっ」

 

 彼女の顔が、ぴたりと止まった。

 

「え、全部?」

 

「うん。卵も焼いたし、照り焼きも作った」

 

「……へえ」

 

 彼女は、いかにも興味がないという顔を作った。

 

 しかし、目はもう彼のお弁当箱に釘付けだった。

 

「ま、まあ? あたしに食べさせるんだから、多少は頑張るよね? 当然だよね?」

 

「そうだね。頑張ったよ」

 

 おじさんが素直に認めると、彼女はほんの少しだけ頬を赤くした。

 

「……そ、そういうの、さらっと言わないでよ」

 

「どうして?」

 

「どうしてって……!」

 

 彼女は言葉に詰まり、唇を尖らせた。

 

「ほんっと、最近のおじさん、たまにずるいんだけど」

 

「そうかな」

 

「そうなの!」

 

 怒ったように言いながら、彼女は笑っていた。

 

 おじさんはその笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 

 誰かに食べてもらうために作ったものが、誰かを笑顔にする。

 

 その当たり前のことが、今の彼には、少しばかり眩しかった。

 

     *

 

 最初に、彼女の弁当を一口もらった。

 

「はい。まずはこっちからね」

 

 彼女が差し出したのは、鶏つくねだった。

 

 甘辛いたれが照り、表面には白ごまが散っている。口に含むと、ふんわりした肉の中から生姜の香りが立ち上がった。甘みは強すぎず、冷めていても肉が固くない。

 

「おいしい」

 

「でしょ。鶏ひき肉に豆腐ちょっと混ぜたの。冷めても柔らかいんだよ」

 

「工夫してるんだな」

 

「まあね。あたし、できる女だから♡」

 

 彼女は鼻高々だった。

 

 続いて、鮭。皮目は香ばしく、身にはほどよく塩気が残っている。菜の花のおひたしには出汁がしみていて、ほろ苦さが春の空気によく合った。

 

「これも、おいしい」

 

「ん。いっぱい食べな」

 

 彼女は何気なく言った。

 

「……あ、でも、あたしのばっかり食べないでよ? おじさんのもあるんだから」

 

「わかってるよ」

 

「ほんとかなあ。おいしいものが目の前にあると、すぐ人任せにして食べようとするんだから」

 

「そんなに信用がない?」

 

「ないねぇ」

 

 彼女は即答したあと、ふっと笑った。

 

「……でも、今日はちゃんと自分のも作ってきたもんね」

 

 その声は、先ほどまでより少し柔らかかった。

 

 おじさんは自分の弁当箱を開いた。

 

 鶏の照り焼きは、たれがよく絡んでいる。だし巻き卵は、端の形こそ少し歪んでいるものの、黄色い層が幾重にも重なっていた。ブロッコリーの緑とミニトマトの赤が、弁当の中で小さく主張している。

 

 彼女が身を乗り出した。

 

「おお。思ったよりちゃんとしてる」

 

「思ったより、は余計だな」

 

「だって、おじさんだし?」

 

「どういう偏見だよ」

 

「生活能力よわよわおじさんに対する、妥当な評価でーす♡」

 

 彼女は箸を伸ばし、照り焼きをひとつ取った。

 

 口に入れる。

 

 彼女は黙った。

 

 おじさんは、なぜか背筋を伸ばした。

 

「……どう?」

 

「んー」

 

 彼女はわざとらしく、ゆっくり咀嚼した。

 

「……おいしい」

 

 その一言に、おじさんの肩から力が抜けた。

 

「よかった」

 

「うん。たれの味もいいし、ちゃんと中まで火が通ってる。前に作ってくれたときより、ちょっと上手になったんじゃない?」

 

「本当?」

 

「なに。疑ってるの?」

 

「いや、そうじゃなくて……」

 

 嬉しかった。

 

 自分のしたことが、誰かに伝わった。そのことを、こんなにもまっすぐ嬉しいと思えるのか。

 

 彼は自分の弁当を見つめた。

 

「練習してよかったな」

 

 小さく呟くと、彼女は一瞬、目を丸くした。

 

 それから、ふにゃりと笑った。

 

「……うん。よかったじゃん」

 

 その顔があまりにも優しかったので、おじさんは、少し困った。

 

 からかわれるほうが、まだ楽だ。

 

 彼女が真面目に喜んでくれると、自分の中の何か、長いこと固く閉ざされていた場所が、どうしようもなく緩んでしまう。

 

「じゃ、次は卵ね」

 

 彼女はだし巻き卵を箸で持ち上げた。

 

「おっ、ついに審査が始まるんですか」

 

「そう。こちら、メスガキ審査委員会でーす。基準は厳しいよ?」

 

「お手柔らかにお願いします」

 

 彼女は卵焼きを口に運び、しばらく味わった。

 

「……うん。おいしい」

 

「形は?」

 

「形は……」

 

 彼女は弁当箱と彼の顔を見比べた。

 

「ちょっと、よわよわ♡」

 

「やっぱりか」

 

「でも、味はちゃんとしてる。出汁もきいてるし、甘すぎないし。あたし、これ好き」

 

 おじさんは笑った。

 

「ありがとう」

 

「……だから、そうやって素直に喜ばれると、調子狂うんだってば」

 

「褒めてもらったら、嬉しいよ」

 

「はいはい。よかったねぇ」

 

 彼女はそっぽを向いた。

 

 耳が赤かった。

 

 桜の花びらが、二人の間にひとひら落ちた。

 

 彼女はそれを指でつまみ、弁当箱の端にそっと置いた。

 

「……お花見っぽいね」

 

「うん」

 

「お弁当もあるし。桜も残ってるし。おじさんも、今日はちゃんと笑ってるし」

 

「最後のは、お花見に必要かな」

 

「必要でーす。あたしが決めました♡」

 

 彼女はそう言って、もう一度、卵焼きを口に運んだ。

 

 おじさんは、花びらの向こうに見える彼女の横顔を眺めた。

 

 春は、いつもより少しだけ、人の顔をよく見てしまう季節なのかもしれない。

 

     *

 

 昼食を終える頃には、太陽が少し高くなっていた。

 

 おじさんは保冷バッグから、小さな水筒と、持参した缶ビールを一本取り出した。

 

 彼女がそれを見て、片眉を上げる。

 

「お。お酒?」

 

「うん。一本だけ。今日は休みだし、せっかくだから」

 

「へえ。いいじゃん」

 

 彼女は意外にも、あっさり頷いた。

 

「でも、飲みすぎは禁止ね。せっかくの休日に、芝生で酔いつぶれた三十三歳のおじさんを回収する羽目になるの、あたし嫌だから」

 

「一本で酔いつぶれるほど弱くはないよ」

 

「どうかなあ。仕事の疲れを全部お酒に押しつけて、急に人生について語り始めたりしない?」

 

「……それは、少しありそうだな」

 

「自覚あるんだ!?」

 

 彼女は声を上げて笑った。

 

 おじさんも笑いながら、缶を開けた。

 

 小さな音が、春の空気に弾けた。

 

 よく冷えたビールを一口飲む。苦みのあとに、軽い麦の香りが広がった。

 

 普段なら、仕事のあとに飲む酒は、疲れを忘れるためのものだった。明日のことを考えないため。今日の失敗を、しばらく頭から追い出すため。

 

 けれど、今日は違った。

 

 風が頬を撫でる。遠くで子供の笑い声がする。桜の枝が揺れ、花びらがゆっくりと舞い落ちる。

 

 隣には、彼のだし巻き卵を気に入った少女がいる。

 

 酒は何かを忘れるためではなく、今あるものを、ほんの少しだけ豊かに味わうためにあった。

 

「……うまいな」

 

「ん?」

 

「ビール」

 

「そりゃよかったねぇ」

 

 彼女は水筒の蓋を開け、お茶を飲んだ。

 

「おじさん、なんか顔がゆるんでるよ」

 

「そう?」

 

「うん。いつもより、ずーっと間抜け」

 

「ひどいなあ」

 

「褒めてるんだけど?」

 

「どこが?」

 

「だって、ちゃんと休んでる顔だもん」

 

 彼女はそう言って、視線を芝生の向こうへ移した。

 

「前はさ。おじさんとご飯食べてても、ずっと何か考えてたじゃん。仕事のこととか、これからどうするかとか。おいしいって言っても、そのあとすぐ『でも』って続きそうな顔してた」

 

 おじさんは缶を手にしたまま、黙っていた。

 

「今は、ちゃんとおいしそうな顔してる」

 

 彼女は笑った。

 

「……まあ、あたしのお弁当がすごくおいしいから、ってのもあるだろうけど?」

 

「それは否定できないな」

 

「でしょ♡」

 

 得意げな横顔。

 

 その横顔を見ていると、胸の奥に、説明しづらい気持ちが広がった。

 

 この時間が、好きだった。

 

 仕事の話をしなくてもいい。立派な人間であることを証明しなくてもいい。何かを達成して、成果を報告しなければならないわけでもない。

 

 ただ、隣に彼女がいて、弁当を食べて、少し酒を飲んでいる。

 

 それだけでいい。

 

 おじさんは缶を置いた。

 

「……なあ」

 

「んー?」

 

「ちょっと、こっちに来てもらってもいい?」

 

 彼女は怪訝そうに彼を見る。

 

「なに。お酒で気が大きくなっちゃった?」

 

「いや、そういうわけじゃ……」

 

「ふーん?」

 

 彼女は少しだけ身を寄せた。

 

 おじさんは、言葉を探した。

 

 こういうとき、どう言えばいいのだろう。

 

 そばにいてほしい。

 

 もう少し、このままでいたい。

 

 普段なら、そんな言葉を口にする前に、もっともらしい理由をいくつも考えたはずだ。寒いから。疲れているから。話したいことがあるから。

 

 けれど、今日はどれも違った。

 

「……少しだけ、甘えてもいいかな」

 

 彼女が固まった。

 

 風が吹いて、彼女の髪が頬にかかる。

 

「…………は?」

 

「いや、その……」

 

「え、待って」

 

 彼女はおじさんを見た。

 

 いつもの、からかうための笑顔が消えていた。代わりに、どう反応すればいいのかわからないというような、年相応の戸惑いが浮かんでいる。

 

「……おじさん、今、なんて?」

 

「少しだけ、甘えてもいいかって」

 

「二回言わなくていいから!」

 

 彼女は顔を赤くして、彼の肩を軽く叩いた。

 

「な、なにそれ。急に。ほんっと、ずるいんだけど!」

 

「ごめん。嫌だったら、いいんだ」

 

「嫌なんて言ってないでしょ!」

 

 声が、少し裏返った。

 

 彼女は咳払いをひとつして、できるだけ偉そうな顔を作った。

 

「……ま、まあ? おじさんがどうしてもって言うなら? 特別に許可してあげなくもないけど?」

 

「ありがとう」

 

「だから、そういうの!」

 

 彼女は両手で顔を覆った。

 

「……もー。ほんと、最近のおじさん、あたしの扱いが下手なくせに、変なところで急所狙ってくるんだから……」

 

 しばらくして、彼女は手を下ろした。

 

 それから、少しだけ迷うように視線を泳がせ、ぽん、と自分の肩を叩いた。

 

「……ほら」

 

「え?」

 

「だから。甘えたいんでしょ?」

 

 彼女は顔をそむけたまま言った。

 

「今日くらい、いいよ。……あたしも、嫌じゃないし」

 

 その最後の一言は、風の音に紛れそうなほど小さかった。

 

 おじさんは、少しだけ笑った。

 

「じゃあ……失礼します」

 

「なに、その挨拶。会社の会議室じゃないんだけど」

 

 彼女が文句を言う。

 

 それでも、彼がゆっくり頭を傾けると、彼女は逃げなかった。

 

 彼のこめかみが、彼女の肩にそっと触れた。

 

 カーディガン越しに伝わる体温は、思っていたよりもずっと近かった。

 

 彼女の身体が一瞬、強張る。

 

 しかし、すぐに力が抜けた。

 

「……重くない?」

 

 おじさんが尋ねる。

 

「全然」

 

「そう?」

 

「うん。おじさん、頭までよわよわなの? もっとどーんと重いかと思った」

 

「それはそれで傷つくなあ」

 

「ふふっ」

 

 彼女は笑い、少しだけ肩を動かした。

 

 彼が楽な位置に収まるように。

 

 その小さな気遣いに、おじさんは気づいた。

 

 気づいてしまったから、ますます動けなくなった。

 

「……なあ」

 

「なに?」

 

「もう少しだけ、このままでいてもいい?」

 

 彼女は空を見上げた。

 

 桜の花びらが一枚、風に運ばれていく。

 

「……いいよ」

 

 返事は、いつもの調子よりずっと静かだった。

 

「今日は、あたしが誘った休日だもん。おじさんがちゃんと休めるところまで、面倒見てあげる」

 

「ありがとう」

 

「ただし!」

 

 彼女は、急にいつもの声を取り戻した。

 

「これ、酔っぱらいの特権じゃないからね? お酒の力で甘えただけだったら、あとで減点だから」

 

「……そうだな」

 

 おじさんは目を閉じたまま答えた。

 

「今度は、しらふでも言えるようにするよ」

 

 彼女の呼吸が止まった。

 

「…………は?」

 

「甘えたいときは、甘えたいって言う。疲れたときは疲れたって言う。そういうのも、少しずつ練習するよ」

 

「…………」

 

「だから、今日は練習の一回目ということで」

 

 長い沈黙が落ちた。

 

 やがて、彼女は片手で額を押さえた。

 

「……あー、もう。ほんっと、ずるい。なにそれ。そんな真面目に言われたら、こっちだってちゃんと受け止めなきゃいけないじゃん……」

 

 ぶつぶつと文句を言いながら、彼女は彼の頭に、そっと手を置いた。

 

 そして、一度だけ、優しく撫でた。

 

「……えらいよ」

 

 おじさんは目を開けなかった。

 

 その声があまりにも柔らかかったからだ。

 

「ちゃんと、自分の気持ちを言えたじゃん」

 

「……うん」

 

「いい子、いい子」

 

「それは、ちょっと恥ずかしいな」

 

「今さらでしょ。もう甘えちゃってるくせに♡」

 

 彼女の手が、もう一度、彼の髪を撫でる。

 

 おじさんは、笑った。

 

 そして彼女もまた、彼に見えない角度で、少しだけ頬を緩めた。

 

 嫌ではなかった。

 

 むしろ、嬉しかった。

 

 彼が自分の弱さを見せてくれること。彼が自分の隣を、安心できる場所だと思ってくれること。

 

 それは、彼女が思っていた以上に、胸の奥をくすぐるものだった。

 

 ただし、本人にそれを知られるのは、少し悔しい。

 

「……ちなみに」

 

 彼女は、わざと意地悪な声を出した。

 

「これで味を占めて、毎回甘えてくるようになったらどうするつもり?」

 

「……困る?」

 

「べ、別に困らないけど!?」

 

 即答だった。

 

 おじさんは顔を上げた。

 

 彼女はしまった、という顔をした。

 

「……あっ」

 

「そっか」

 

「なに、その顔!」

 

「いや、嬉しいなと思って」

 

「だからぁ! そういうの、ほんっとに……!」

 

 彼女は真っ赤になった。

 

 それから、ぷいと顔を背ける。

 

「……まあ、ほどほどなら、いいけど」

 

「うん」

 

「あと、ちゃんと自分でも休むこと。あたしに甘えれば全部解決、なんて思ったらダメだからね」

 

「わかってる」

 

「ご飯も自分で食べる。仕事で困ったら相談する。嫌なことは嫌って言う。あたしがいない日だって、自分のことちゃんと大切にする」

 

「うん」

 

「……そのうえで、たまには頼ってもいいよ」

 

 最後の言葉は、彼女自身も少し驚くほど、まっすぐだった。

 

 おじさんは彼女を見た。

 

「ありがとう」

 

「……もう。今日はそれ、何回目?」

 

「何回でも言いたいんだよ」

 

「はい、もう禁止!」

 

 彼女は彼の額を指で押した。

 

「感謝の安売りはダメでーす。代わりに、今度もちゃんとお弁当作ってきてね」

 

「それなら、できると思う」

 

「おっ。頼もしいじゃん」

 

「だし巻き卵も、もう少し上手に巻けるようにするよ」

 

「んー。じゃあ、次はあたしも何か新しいの作ろっかな」

 

 彼女は弁当箱を閉じながら、楽しそうに言った。

 

「交換するの。今回より、ちょっとずつレベルアップしてさ」

 

「料理対決みたいだな」

 

「そうそう。負けたほうは勝ったほうの言うことを一つ聞くの」

 

「……それは、少し怖いな」

 

「なによー。あたしが変なこと言うと思ってる?」

 

「思っているというか、実績があるからね」

 

「失礼すぎ! じゃあ、絶対負けないように頑張ってもらわないとね、よわよわおじさん♡」

 

 二人は笑った。

 

 肩が触れ合うほどの距離で。

 

 彼女はもう、彼が寄りかかっていることを気にしていなかった。

 

 そのとき、すぐ近くの通路から、幼い子供の声が聞こえた。

 

「ママー! あの人たち、なにしてるのー?」

 

 おじさんは、はっと顔を上げた。

 

 いつの間にか、桜を見に来たらしい親子連れが、敷物の脇を通りかかっていた。小さな男の子がこちらを指さし、その隣で母親らしい女性が、困ったように笑っている。

 

「あらあら。お昼寝かな? 仲のいいご夫婦ねえ」

 

「ふ、夫婦!?」

 

 声が裏返った。

 

 隣の彼女も、勢いよく顔を上げる。

 

「ち、違いますけど!?」

 

 ほとんど同時だった。

 

 母親は一瞬きょとんとして、それから「あら、ごめんなさい」と笑った。

 

「でも、あんまり仲がいいから。お二人でお花見なんて、素敵ね」

 

「いや、あの、仲がいいというか、その……!」

 

 おじさんは言葉を探した。

 

 友人です、と言えばいい。そう言えば済むはずだった。

 

 なのに、なぜかすぐには口にできなかった。

 

 隣では、彼女が顔を真っ赤にしている。

 

「べ、別に! 今日はたまたま、お弁当を食べに来ただけですから! ね、おじさん!」

 

「えっ。あ、うん。そう、そうだね」

 

 おじさんは何度も頷いた。

 

 子供は二人を交互に見て、無邪気に言った。

 

「じゃあ、カップルなの?」

 

「ちがっ……!」

 

 今度は彼女が言葉に詰まった。

 

 おじさんも、なぜか返事ができなかった。

 

「こら、そんなこと聞かないの。お兄さんたち、ごめんなさいね」

 

 母親は子供の手を引き、もう一度軽く頭を下げた。それから、笑みを残したまま桜の木の向こうへ歩いていった。

 

「……ばいばーい!」

 

 子供が振り返って手を振る。

 

 彼女はぎこちなく手を振り返した。

 

「……ば、ばいばい」

 

 二人の姿が遠ざかる。

 

 やがて、聞こえるのは風の音と、遠くの子供たちの笑い声だけになった。

 

 沈黙。

 

 おじさんは、そっと彼女を見た。

 

 彼女は、まだ赤い顔のまま、弁当箱の蓋を必要以上に丁寧に閉めていた。

 

「……あのさ」

 

「なに」

 

「……夫婦、だって」

 

「聞こえてたよ!」

 

 彼女は即座に言い返した。

 

「いや、そうだよね」

 

「そうだよ! 耳ついてるんだから!」

 

「うん」

 

「……」

 

「……」

 

 また沈黙が落ちた。

 

 おじさんは、膝の上で指を組み直した。

 

「……仲がよく見えたのかな」

 

「知らないよ!」

 

 彼女は顔を背けた。

 

「おじさんが、あんなふうに肩に寄りかかってくるからでしょ!」

 

「それは……そうかもしれない」

 

「そうだよ! まったく、もう……」

 

 彼女はぶつぶつと文句を言いながら、カーディガンの袖を引っ張った。

 

 けれど、その口元は、怒っているというには少しだけ緩んでいた。

 

 おじさんは、胸の奥に残る妙な感覚を持て余していた。

 

 夫婦。

 

 カップル。

 

 通りすがりの親子が、何気なく口にしただけの言葉だ。彼らにとっては、ほんの一瞬の勘違いにすぎない。明日になれば、きっと覚えてもいないだろう。

 

 それなのに。

 

 その言葉が、耳の奥に残っている。

 

 もし、二人がそういう関係だったら。

 

 そんな想像が一瞬だけ頭をよぎり、おじさんは慌てて打ち消した。

 

 まだ、そういうものではない。

 

 彼女は自分に優しくしてくれる。休日に誘ってくれる。お弁当を作ってくれる。肩を貸してくれる。

 

 けれど、それを勝手に別の名前で呼んでいいわけではない。

 

 そう思う一方で、隣にいる彼女の顔を、さっきまでとは少し違う気持ちで見てしまう。

 

「……ねえ」

 

 彼女が、不意に口を開いた。

 

「はい」

 

「……もし、またああいうこと言われたら」

 

「うん?」

 

「ちゃんと否定してよね。変に黙ったりしないで」

 

 彼女はおじさんを見ないまま言った。

 

「……僕、黙ってた?」

 

「黙ってた!」

 

「ごめん」

 

「謝ればいいってもんじゃないんだけど!」

 

 彼女は勢いよく振り返った。

 

 そして、彼の顔を見るなり、言葉を失った。

 

 おじさんが、少し困ったように笑っていたからだ。

 

「……なに、その顔」

 

「いや。君が慌ててるの、珍しいなと思って」

 

「はあ!? 誰のせいだと思ってんの!」

 

「僕かな」

 

「そうだよ!」

 

 彼女は叫び、それから、はっと口を閉じた。

 

 言いすぎた、とでも思ったのだろう。

 

 視線が泳ぎ、頬がさらに赤くなる。

 

「……も、もういい。忘れて」

 

「うん」

 

「今のこと、ぜーんぶ忘れて!」

 

「努力はするよ」

 

「努力じゃなくて忘れろーっ!」

 

 彼女は彼の腕を軽く叩いた。

 

 おじさんは笑った。

 

 彼女も、少し遅れて笑った。

 

 けれど、笑い終えたあとも、二人の間には、さっきまでとはほんの少し違う空気が残っていた。

 

 彼女は、以前よりも近くに座っている。

 

 いや、実際には、先ほどからほとんど位置は変わっていない。

 

 変わったのは、たぶん二人の意識のほうだった。

 

     *

 

 午後三時を回る頃、二人は敷物を片づけ始めた。

 

 おじさんの缶ビールは、すでに空になっている。飲みすぎることもなく、酔いに任せて余計なことを口にすることもなかった。

 

 ただ、いつもより少しだけ、心の扉が開きやすくなっていた。

 

 そして、通りすがりの親子が残していった言葉が、まだ二人の間に小さく漂っていた。

 

 彼女が弁当箱をバッグにしまい、忘れ物がないか確かめている。

 

 おじさんは、その横顔を見ていた。

 

「……今日は、ありがとう」

 

「ん? お弁当なら、あたしもおいしかったし」

 

「それもだけど」

 

 彼は一度、息を吸った。

 

「誘ってくれて、嬉しかった。あと……さっきも」

 

 彼女の手が止まった。

 

「……そ、そう」

 

「うん」

 

「……まあ、あたしも、楽しかったし」

 

 彼女は弁当箱の入ったバッグを持ち上げた。

 

「おじさんがちゃんと笑ってたから、誘ってよかったなって思った」

 

 その言葉を口にしたあと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに眉を寄せた。

 

「……あー、もう。今日はなんか、素直になりすぎてる気がする」

 

「いいんじゃないかな」

 

「よくないよ! あたしはもっと、こう……余裕のある、からかい上手な女の子でいたいの!」

 

「今でも十分、からかい上手だと思うよ」

 

「それ、褒めてる?」

 

「もちろん」

 

「……ふーん」

 

 彼女はしばらく彼を見つめたあと、ふっと笑った。

 

「じゃあ、今日は特別に、合格にしてあげる」

 

「何の試験?」

 

「さあね」

 

 彼女は先に歩き出した。

 

 数歩進んでから、振り返る。

 

「ねえ、おじさん」

 

「うん?」

 

「また、こういう休日にしよ」

 

 それは、いつものように命令する口調ではなかった。

 

 誘いというより、願いに近かった。

 

 おじさんは、迷わず頷いた。

 

「うん。僕も、そうしたい」

 

「……よし」

 

 彼女は満足そうに笑った。

 

「じゃ、次はハンバーグね。前に一緒に作るって約束したじゃん」

 

「そうだったね」

 

「忘れたら減点。あと、卵焼きも練習しておいて」

 

「注文が多いなあ」

 

「だって、あたしが食べるんだもん。おいしいもの食べたいでしょ?」

 

「……そうだね」

 

 おじさんは、彼女の言葉を胸の中で繰り返した。

 

 あたしが食べるんだもん。

 

 その言い方が、どうしようもなく嬉しかった。

 

 自分の作ったものを、また食べてくれる。

 

 次の約束が、もうそこにある。

 

 それに、さっきの言葉。

 

 夫婦。カップル。

 

 まだ、そういうものではない。彼女だって、そんなことを望んでいるとは限らない。

 

 それでも、もし次にまた誰かから同じことを言われたら、自分は今度こそ、すぐに否定できるだろうか。

 

 おじさんは自分の考えに気づき、少しだけ困った。

 

 考えたところで、答えが出るはずもない。

 

 ただ、隣を歩く彼女の横顔が、いつもより少しだけ眩しく見えた。

 

 以前の彼は、休日が終わることを恐れていた。月曜日が来る。仕事が始まる。今日という時間が終われば、また同じ毎日が戻ってくる。

 

 けれど今は、少し違った。

 

 休日が終わることは寂しい。

 

 それでも、次の休日を楽しみにできる。

 

 その違いは、思っていたよりも大きかった。

 

     *

 

 帰宅して、シャワーを浴びたあと。

 

 おじさんはソファに腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。

 

 彼女からメッセージが届いていた。

 

『ちゃんと帰れた?』

 

『帰れたよ。今日はありがとう』

 

『お弁当おいしかった! 照り焼き、ほんとに上手になったね』

 

 続けて、すぐにもう一通。

 

『卵焼きは、まだちょっとよわよわだけど♡』

 

 おじさんは笑い、返信した。

 

『次はもっと上手に作るよ』

 

『ん。楽しみにしてる』

 

 少し迷ってから、彼はもう一通、打ち込んだ。

 

『それと、今日は少し甘えさせてくれてありがとう』

 

 送信。

 

 既読がつく。

 

 返事は、なかなか来なかった。

 

 おじさんは、少し不安になった。

 

 やはり、気恥ずかしいことを言いすぎただろうか。相手を困らせてしまっただろうか。

 

 そう考えかけたところで、スマートフォンが震えた。

 

『……別に、いいよ』

 

 その下に、もう一通。

 

『あたしも、ちょっと嬉しかったし』

 

 そして最後に。

 

『でも、次はお酒なしで言ってよね。しらふでも甘えられるようになるんでしょ? 約束だよ、おじさん♡』

 

 彼は画面を見つめた。

 

 口元が、どうしようもなく緩んでいく。

 

 以前の彼なら、こんなふうに誰かを頼る自分を、情けないと思ったかもしれない。

 

 三十三歳にもなって、女の子の肩に頭を預けて。嬉しいと言ってもらっただけで、帰宅してから何度もメッセージを読み返して。

 

 ずいぶん、みっともない。

 

 けれど、そのみっともなさを、今日は嫌いになれなかった。

 

 人に甘えることは、相手に自分の人生を背負わせることではない。

 

 自分の足で立とうとすることをやめずに、ときどき、隣にいる人の手を借りること。

 

 疲れたときに、疲れたと言うこと。

 

 嬉しいときに、嬉しいと言うこと。

 

 そばにいてほしいときに、そう伝えること。

 

 そして、相手が差し出してくれた優しさを、勝手に遠慮して突き返さないこと。

 

 それもまた、誰かと一緒に生きていくための、ひとつの技術なのだろう。

 

 おじさんは、スマートフォンに返信した。

 

『約束する。今度は、しらふでも言うよ』

 

 すぐに返事が来た。

 

『ん。えらいじゃん』

 

『あと、次のお弁当も楽しみにしてる』

 

『……そっちも、ちゃんと楽しみにしててよね』

 

 最後の一文には、ハートマークがついていた。

 

 おじさんはスマートフォンを伏せ、窓の外を見た。

 

 夕方の空は、春らしい淡い色をしていた。

 

 転職したからといって、人生のすべてがうまくいくわけではない。明日にはまた仕事で困るかもしれないし、疲れが溜まって、以前の癖に戻りそうになる日もあるだろう。

 

 それでも、次の休日には、作りたい弁当がある。

 

 食べてほしい人がいる。

 

 そして、次に会ったときには、今日より少しだけ素直に甘えてみようと思っている自分がいる。

 

 それから、あの言葉を思い出すたび、少しだけ落ち着かなくなるのかもしれない。

 

 夫婦。カップル。

 

 たった一度、見知らぬ親子にそう言われただけだ。彼女がその言葉をどう受け止めたのか、おじさんにはわからない。

 

 わからないからこそ、気になってしまう。

 

 けれど、答えを急ぐ必要はなかった。

 

 次の休日がある。次のお弁当がある。一緒にハンバーグを作る約束もある。

 

 今は、そのひとつひとつを大切にしていけばいい。

 

 三十三歳の春は、劇的な変化を連れてきたわけではなかった。

 

 ただ、芝生の上で誰かの肩に寄りかかり、春風の中で眠りそうになった、ほんの短い時間があった。

 

 通りすがりの誰かに、二人の関係を勘違いされたこともあった。

 

 慌てて否定しながら、彼女の赤くなった頬を見て、自分まで妙に意識してしまったことも。

 

 その記憶は、明日からの日々を生きるために、十分すぎるほど温かかった。

 

 おじさんは立ち上がり、台所へ向かった。

 

 空になった弁当箱を洗うために。

 

 次に作るものを、少しだけ考えながら。

 

 今度は、だし巻き卵をもう一段、きれいに巻いてみよう。

 

 そして、もし彼女がまた頭を撫でてくれたら。

 

 そのときは、照れ隠しに笑うだけではなく、ちゃんと伝えてみよう。

 

 ――嬉しい、と。

 

 春の夜は、ゆっくりと更けていった。

 




ふ、ふ、夫婦じゃないし! ……おじさんも、顔、変になってたなあ。……ふふっ。
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