人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
そのキッチンカーを見つけたのは、土曜日の昼前だった。
おじさんは、駅から少し離れた商店街を歩いていた。特に目的があったわけではない。日用品を買い足し、昼食をどこかで済ませて帰る。それくらいの、何の変哲もない外出だった。
商店街の広場に差しかかったとき、人だかりが目に入った。
青い車体のキッチンカーが一台。窓口の上には、手書きのメニューが並んでいる。炙った肉の香ばしい匂いと、甘辛いタレの匂いが、風に乗って流れてきた。
列は、思いのほか長かった。
若い人が多い。手元のスマートフォンを見せ合っては笑い、車体のロゴを撮影し、順番が来るのを待っている。
何かの催しだろうか。
彼は列の最後尾を探しながら、窓口の横に貼られた紙に目を留めた。
『SNSで話題! 数量限定・本日の特製弁当』
「……えす、えぬ、えす」
小さく呟いた。
言葉そのものは知っている。知らないわけではない。世間で何かが流行しているとき、その話題の発信源として登場する、あのSNSである。
ただ、彼自身は使っていなかった。
誰かの日常を眺めることにも、自分の日常を誰かに知らせることにも、いまひとつ馴染めなかった。スマートフォンは連絡と天気予報と、時々の調べものができれば十分だった。
だから、何が話題なのかは分からなかった。
分からなかったが、弁当はおいしそうだった。
車体の写真には、蓋を開けた弁当が載っていた。香ばしく焼かれた肉、色鮮やかな野菜、半熟の煮卵。白いご飯の上には、細かく刻んだ薬味が散らされている。添えられた小さな容器には、見慣れないソースまで入っていた。
丁寧に作られた料理というのは、写真越しでも伝わるものらしい。
彼は列に並んだ。
待つこと二十分ほど。ようやく注文の順番が来たとき、窓口の店員は申し訳なさそうに言った。
「すみません、今日の限定弁当、残り二つなんです。味は同じで、お肉の種類が違うものが一つずつあります」
二つ。
その言葉を聞いて、彼は一瞬、少女の顔を思い浮かべた。
最近、彼女とは食事をする機会が増えた。
彼が料理を作り、彼女がそれを食べたこともある。彼女が選んだ店に連れていかれ、彼の知らなかった料理を教えてもらったこともある。温泉旅行では、同じ景色を眺め、同じ食事を楽しんだ。
そうして少しずつ、彼女がどんなものを好むのか、どんな味に目を細めるのか、以前より分かるようになってきた。
もちろん、まだ知らないことも多い。
たとえば、彼女がこの弁当を見たら、どんな顔をするだろう。
「……じゃあ、その二つをお願いします」
気がつくと、そう答えていた。
会計を済ませ、弁当の入った紙袋を受け取る。
思っていたより、ずっしりしていた。
一つは炭火焼きの鶏肉が主役のもの。もう一つは、香辛料を利かせた豚肉が主役のもの。どちらも、蓋を閉じた状態でさえ、食欲をそそる匂いがかすかに漂っていた。
彼は袋を持ち直した。
さて、どうしよう。
自分で二つ食べるつもりだったわけではない。かといって、二つ買ったからといって、彼女が必ず食べてくれるとも限らない。
以前の彼なら、ここで考え込んだだろう。
急に誘って迷惑ではないか。昼食の予定があるかもしれない。せっかくの休日を邪魔してはいけない。断られたら、二つの弁当を持って帰ればいい。
どれも、もっともな考えだった。
ただ、最近は、それらを一つずつ並べて、最後まで悩むことが少し減った。
断られる可能性があっても、誘ってみる。
相手の予定を尊重しながら、自分のしたいことも伝える。
それは、彼女が何度も教えてくれたことだった。
彼はスマートフォンを取り出した。
『今、近くでおいしそうな弁当を買ったんだけど、もし予定がなければ、一緒に食べない?』
送信してから、少し考え、もう一通付け加えた。
『SNSで話題らしいよ。僕は何が話題なのか、よく分かっていないんだけど』
返事は、思ったより早かった。
『は?』
いつもの一文字だった。
次に届いたのは、
『ちょっと待って』
そのあと、数秒の間を置いて、
『……どこのキッチンカー?』
彼は、車体の名前を確認して送った。
すると、今度はすぐに返信が来た。
『えっ』
『あれ?』
『え、待って。ほんとに?』
彼は画面を見つめた。
どうやら、何か特別な弁当らしい。
続いて、電話がかかってきた。
「もしもし」
『おじさん、今どこ?』
「商店街の広場を出たところだよ」
『その弁当、二つ買ったの?』
「うん。鶏肉のと、豚肉のと」
電話の向こうで、彼女が息を呑んだ気配がした。
『……え、なんで?』
「残り二つだったから」
『いや、そういうことじゃなくて! なんで二つ買ったのかって聞いてんの!』
「君と食べられたらいいなと思って」
沈黙。
そのあと、彼女はひどく不機嫌そうな声で言った。
『……おじさんって、ほんと、たまにそういうことするよね』
「そういうこと?」
『あたしが何を気にしてるか、全然知らない顔して、急にど真ん中に投げ込んでくるやつ』
「……ごめん。何か予定があった?」
『ない!』
返事が早かった。
『ないけど! そうじゃなくて!』
「うん」
『……今から行くから。どこにいるか、ちゃんと送って』
「え、君のところまで持っていこうか?」
『……』
再び、沈黙。
今度は少し長かった。
『……来て』
「うん?」
『うちの近くまで来ていいって言ってんの。せっかく二つ買ったんでしょ。あたしも食べたいし』
「分かった。ありがとう」
『だから、すぐ感謝すんな! まだ食べてもいないんだけど!』
彼女はそう言って電話を切った。
おじさんは、手元の紙袋を見下ろした。
それから、口元が緩むのを止められなかった。
どうやら、二つ買って正解だったらしい。
*
彼女の住む建物の近くに着いたのは、連絡をしてから二十分ほど経った頃だった。
指定された場所で待っていると、見慣れた姿が小走りに近づいてきた。
薄手の上着に、肩から提げた鞄。髪はいつもどおり整っているが、急いで出てきたのだろう、片方の袖口が少しだけ折れていた。
彼女はおじさんの前で立ち止まるなり、紙袋を見た。
「……それ?」
「うん。これだよ」
「ちょっと見せて」
彼が袋を開けると、彼女は中を覗き込んだ。
弁当の蓋には、店の名前と小さなロゴが印刷されている。
彼女はそれを確かめたあと、両手で口元を覆った。
「……うわ。ほんとだ」
「そんなに有名なのかい?」
「有名っていうか……。いや、有名なんだけど。え、なんでおじさんがこれ持ってんの?」
「通りかかったら売っていたから」
「……それだけ?」
「それだけだよ」
彼女は、信じられないという顔をした。
「いやいやいや。これ、休日はけっこう並ぶんだよ? 出店する場所も毎回違うし、販売時間も短いし。気づいたときには売り切れてることもあるし」
「そうなのか」
「そうなの! あたしも気になってたんだけど、場所とか時間とか調べてまで行くのは、ちょっと面倒だなって思ってて。いつか機会があったら食べたいな、くらいだったの!」
彼女はそこで言葉を切った。
改めて、紙袋を見つめる。
「……それが、なんでおじさんの手に二つもあるわけ?」
「運がよかったんだと思う」
「運がよかった、で済ませるな!」
彼女は彼の腕を軽く叩いた。
「こっちは、ちょっと気になってたけど、たぶん食べる機会ないだろうなって思ってたんだよ? それをおじさんが、何の気なしに買ってきて、しかも二つあるから一緒に食べようって……」
彼女は口を閉じた。
それから、わざとらしく目を細める。
「……なに? あたしの行動範囲に、食べ物の匂いを嗅ぎつけて現れるタイプの妖怪?」
「そんな妖怪がいるのか」
「いるよ。今、あたしの目の前に」
「それは困ったな」
「困ってる顔じゃないじゃん!」
彼女はまた腕を叩いた。
けれど、声には笑いが混じっていた。
「……でも、ありがと」
その言葉は、からかいの間に、ぽつりと落ちた。
おじさんは彼女を見た。
彼女は、すぐに目を逸らした。
「……なに」
「いや。喜んでもらえたみたいで、よかった」
「べ、別に、そこまで喜んでないし! ただ、気になってたものが目の前に来たから、ちょっとテンションが上がっただけ!」
「うん」
「あと、おじさんが自分から誘ってきたのも、まあ……」
「うん?」
「……別に、悪くないって言ってんの!」
「そっか」
彼が笑うと、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「……ほんと、最近のおじさん、ちょっとずるい」
「何が?」
「そうやって、変に落ち着いてるところ。前だったら、あたしが喜んでるかどうか、気になって仕方ない顔してたじゃん」
「今も気にはしているよ」
「……え?」
「君が喜んでくれたら、僕もうれしいから」
彼女は、言葉を失った。
ほんの一瞬、彼の顔を見つめていた。
そして、次の瞬間には、顔を赤くしてそっぽを向いた。
「……っ、はいはい! そういうのはいいから! とっとと食べるよ! お弁当が冷めるでしょ!」
「そうだね」
「あと、あたしの分を勝手に食べないこと!」
「分かっているよ」
「ほんとに? おじさん、食べ物を前にすると、たまに遠慮と食欲の間で挙動不審になるからね」
「そこまでかな……」
「そこまでだよ。三十三歳のくせに、最後の一切れを譲るかどうかで五分くらい悩む人間、初めて見たもん」
「君だって、僕が譲ると、すぐ食べるじゃないか」
「そりゃそうでしょ。譲ってくれたんだから」
「……そうだね」
彼女は、また笑った。
その笑い声を聞きながら、おじさんは、紙袋を持ち直した。
二つの弁当は、まだ温かかった。
*
二人は、彼女が案内してくれた小さな公園へ向かった。
駅から少し離れた住宅街の中にあり、遊具とベンチ、それから数本の木があるだけの、こぢんまりした場所だった。
休日の昼下がり。子供たちの声が遠くに聞こえる。散歩中らしい人が一人、犬を連れて通り過ぎていった。
彼女は、池のそばのベンチを選んだ。
「ここなら、ゆっくり食べられるから」
「よく来るの?」
「まあね。たまに。近いし、混んでないし」
彼女はそう言いながら、ベンチの上を手で払った。
「ほら、座って」
「ありがとう」
「……だから、そういうの!」
「はいはい」
彼は笑いながら腰を下ろした。
彼女も隣に座り、紙袋から弁当を取り出す。蓋に印刷された店のロゴを、もう一度確かめていた。
「……ほんとに、これなんだ」
「そんなにうれしい?」
「うれしいよ」
彼女は、今度はすぐに否定しなかった。
「……食べたかったものが食べられるんだから、うれしいに決まってるじゃん」
「そうだね」
「しかも、おじさんと一緒に」
最後の言葉は、ひどく小さかった。
おじさんは、聞き間違えたのかと思った。
「……え?」
「なに?」
「今、何か言った?」
「言ってない!」
「そう?」
「そう! おじさん、耳までよわよわになったの? そろそろ健康診断で聴力も見てもらった方がいいんじゃない?」
「それは、考えておくよ」
「真面目に返すな!」
彼女は笑いながら、弁当の蓋を開けた。
蓋が外れた瞬間、香ばしい匂いがふわりと広がった。
炭火で焼かれた鶏肉には、照りのあるタレが絡んでいる。ご飯の上には刻み海苔と薬味。色鮮やかな野菜の和え物、味の染みた煮卵、箸休めの漬物。どれも、見た目からして手がかかっていた。
彼女は、思わず身を乗り出した。
「……うわあ」
「おいしそうだね」
「おいしそうっていうか、これ、絶対おいしいやつじゃん……」
「まだ食べていないよ」
「分かってるよ! 見た目で分かるの!」
彼女は箸を手に取り、鶏肉を一切れ持ち上げた。
それから、少しだけ迷うように、おじさんを見た。
「……ねえ」
「うん?」
「先に食べていい?」
「もちろん」
「……いただきます」
彼女は一口、鶏肉を食べた。
噛んだ瞬間、目が大きく開く。
それから、ゆっくりと口元が緩んだ。
「……んん」
彼女は、何も言わずにもう一度噛みしめた。
炭火の香り。甘辛いタレ。肉の柔らかさ。噛むほどに広がる旨味。
やがて彼女は、箸を持ったまま、おじさんを振り向いた。
「……おいしい」
「よかった」
「いや、ちょっと待って。これ、思ってたよりおいしい。タレが甘すぎないし、炭火の匂いがちゃんとするし、ご飯にも合う。あと、付け合わせがちゃんとしてる。こういうのって、メインだけ豪華で、野菜は適当だったりするじゃん? でも、これ、全部おいしい」
「詳しいね」
「そりゃ、気になってたんだから、多少は調べるでしょ」
彼女は、はっとしたように口を閉じた。
「……いや、別に、めちゃくちゃ調べたわけじゃないよ? ちょっと見かけて、へえ、こんなのあるんだって思っただけだから!」
「うん」
「……なに、その顔」
「いや。君が楽しそうで、よかったなと思って」
彼女は、じっと彼を見た。
その視線は、いつものようにからかうためのものではなかった。
「……おじさん」
「うん?」
「……こういうの、いいね」
「うん。僕もそう思う」
「なんか、すごい大げさなことをしたわけじゃないのにさ。おいしいものがあって、一緒に食べる相手がいて。それだけで、休日がちょっと特別になる感じ」
彼女は、弁当を見下ろした。
「……あたし、こういうの、好きかも」
おじさんは頷いた。
彼自身も、同じことを思っていた。
誰かを喜ばせるために、何か大きなことをしなければならないわけではない。
高価な贈り物を用意する必要もない。完璧な計画を立て、相手が望むものをすべて先回りして用意する必要もない。
ただ、自分が見つけたものを、相手にも見せたいと思う。
自分がおいしいと思ったものを、一緒に食べたいと思う。
それだけのことが、こんなにも心を満たす。
彼は自分の弁当を開けた。
こちらは、香辛料を利かせた豚肉が主役だった。薄く切られた肉に、少し辛みのあるソースが絡み、ご飯には香ばしいナッツと青菜が添えられている。
彼も一口食べた。
「……うん。おいしい」
「でしょ」
「君の方は、どう?」
「おいしいって言ったじゃん!」
「いや、鶏肉の方が気に入ったみたいだから」
「そりゃ、こっちが鶏肉だからでしょ。あたし、鶏肉好きだし」
「そうだったね」
彼女は、少し得意げに笑った。
「……ちゃんと覚えてるんだ」
「うん。前に、唐揚げが好きだって言っていたから」
「……」
彼女は、一瞬、箸を止めた。
それから、何でもないことのように豚肉の弁当を覗き込む。
「……そっちは?」
「こっちもおいしいよ。香辛料が利いていて、少し辛いけど、肉の味がちゃんとする」
「へえ。じゃあ、一口ちょうだい」
「いいよ」
彼は弁当を少し彼女の方へ寄せた。
彼女は自分の箸を持ったまま、豚肉を一切れつまんだ。
口に運んで、噛む。
「……ん。こっちもいいね」
「うん」
「ちょっと辛いけど、ご飯と一緒ならちょうどいい。……あ、これ、卵もおいしい」
「食べる?」
「食べる!」
彼女は即答した。
おじさんは笑いながら、煮卵を一つ、彼女の弁当の端に移した。
「……なに?」
「君が気に入ったみたいだから」
「……いや、そうだけど」
彼女は卵を見つめた。
それから、わずかに顔を赤くする。
「……おじさん、自分の分、ちゃんと残しなよ」
「二つ入っていたから、一つずつだよ」
「……そっか」
彼女は、少しだけ安心したように頷いた。
そして、煮卵を食べた。
「……おいしい」
その声を聞いて、おじさんもまた、豚肉を口に運んだ。
*
食事は、思っていたよりも長く続いた。
弁当を食べながら、二人は店の話をした。彼女は、いつ頃からそのキッチンカーが話題になっていたのか、どういうところが人気なのかを教えてくれた。
写真を投稿した人の感想が広がり、出店情報が共有され、気づけば休日には行列ができるようになったらしい。
「……つまり、みんなが写真を撮って、誰かに見せて、どんどん広がっていったってこと?」
「そうそう」
「すごいね。僕は、店の名前を見ても、何が何だか分からなかったよ」
「おじさん、ほんとにSNS弱いよね」
「否定できないな」
「この前も、あたしが送った動画、どうやって見ればいいか分からないって言ってたし」
「音が出なかったんだよ」
「音量がゼロだっただけでしょ!」
「……そうだったね」
彼女は声を立てて笑った。
「ほんと、よわよわおじさん♡ 流行に置いていかれすぎて、もう時代の方が先に行っちゃってるじゃん」
「まあ、追いつく必要があるかどうかも、よく分からないけどね」
「それはそうだけど!」
彼女は笑いながら、弁当の残りを見た。
「……でも、今日みたいに、知らないところでおいしいものに出会えるなら、たまにはいいんじゃない?」
「そうだね」
「それに、あたしが知ってるものを、おじさんが知らないっていうのも、ちょっと面白いし」
「いつも僕が知らないことを、君が教えてくれるからね」
「……まあね」
彼女は、どこか満足そうに頷いた。
それから、ふと、彼の顔を覗き込んだ。
「……ねえ。おじさんってさ」
「うん?」
「今日、これを買ったとき、あたしのこと考えたの?」
彼は少し考えた。
「うん。残り二つだって聞いて、君が好きそうだなと思ったんだ。どちらが好みかは分からなかったけど、二つともおいしそうだったから」
「……それだけ?」
「それだけ、というか……」
彼は言葉を探した。
「君が気になっていたものなら、一緒に食べられたらいいなと思った。それだけだよ」
彼女は黙った。
今度は、すぐに顔を赤くして怒鳴ることもなかった。
彼女は箸を置き、膝の上に手を揃えた。
「……あたしさ」
「うん」
「ほんとは、ちょっと気になってたんだよね。これ」
「うん」
「でも、わざわざ並んで買いに行くほどでもないかなって思ってたし。いつか見かけたら食べてみよう、くらいで」
「そうだったんだ」
「うん。だから、今日、ほんとにびっくりした」
彼女は弁当の蓋を指でなぞった。
「……あたしが何となく気になってたものを、おじさんが見つけて、買ってきてくれたんだって思ったら……」
彼女はそこで言葉を止めた。
「……なんか、うれしかった」
おじさんは、静かに頷いた。
「よかった」
「……うん」
彼女は、照れ隠しのように顔を上げた。
「でも、勘違いしないでよね。これ、弁当がおいしかったからうれしいっていうのもあるんだから!」
「もちろん」
「おじさんがあたしのことを考えてくれたのも、まあ、悪くないけど!」
「うん」
「……だから、そんなに素直に頷くなってば!」
彼女は彼の肩を軽く叩いた。
けれど、すぐにその手を引っ込めることはなかった。
おじさんは、彼女の手元を見た。
彼女もまた、彼の視線に気づいたらしい。
「……なに?」
「いや。今日は、君の知らない顔を、少し見られた気がして」
「……は?」
「いつも、僕が何かをすると、君はすぐにからかうだろう?」
「そりゃ、からかうでしょ。おじさん、からかい甲斐があるし」
「うん。そうなんだけど……」
彼は、少し笑った。
「今日みたいに、君が本当にうれしそうにしているのを見ると、僕も、もっといろいろ知りたくなるんだ。君が何を好きなのか。どんなものが気になるのか。どういうときに、うれしいと思うのか」
彼女は、彼を見つめた。
「……それ、あたしの好みを全部把握して、完璧な男になろうとしてる?」
「いや。そんなつもりはないよ」
「ほんとに?」
「うん。知らないことがあったら、聞けばいいと思っているだけだから」
彼女は、少しだけ口を開いた。
何か言いかけて、やめる。
それから、困ったように笑った。
「……おじさん、最近、ほんとに変わったね」
「そうかな」
「そうだよ。前は、何かしてくれるとき、すごく慎重だったじゃん。あたしが喜ぶかどうか、迷惑じゃないか、失敗しないかって、いちいち考えてた」
「……今も、考えるよ」
「うん。でも、前よりちゃんと、自分がしたいことを言うようになった」
彼女は、弁当の蓋を閉じた。
「……それ、いいと思う」
おじさんは、彼女の横顔を見た。
「ありがとう」
「だから、感謝で話を終わらせるなって!」
彼女は、彼の腕を叩いた。
「……もう。ほんと、調子狂うんだから」
そう言いながらも、彼女の口元には笑みが残っていた。
*
食事を終える頃には、日差しが少し傾いていた。
二人は、空になった弁当の容器を袋にまとめた。彼女が持ち帰るつもりで手を伸ばしたので、おじさんは自分の分と一緒に持とうとした。
「いいよ。あたしが持つ」
「でも、君の分もあるから」
「だから、あたしが持つって言ってんの。おじさん、せっかく買ってきたんだから、最後まで全部やろうとしなくていいの」
彼は、手を止めた。
以前なら、彼女がそう言うと、すぐに謝っていたかもしれない。
けれど今は、少し違う。
「……じゃあ、半分ずつ持とうか」
彼女は、一瞬、目を丸くした。
「……え?」
「僕の分は僕が持つ。君の分は君が持つ。それならいいだろう?」
彼女は、彼を見つめた。
それから、ふっと笑った。
「……うん。それなら、いいよ」
二人は、それぞれ袋を持って立ち上がった。
公園の出口へ向かう途中、彼女がぽつりと言った。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「また、こういうの見つけたら、誘ってよ」
「もちろん」
「……いや、何でもかんでもじゃなくていいからね? 毎回、流行りの店を探して、あたしを連れ回すとか、そういうのは違うから」
「分かっているよ」
「ほんとに?」
「うん。僕が食べたいものを見つけたら、君にも教えたいと思う。君が気になっているものがあったら、一緒に食べられたらいいなと思う。そういう感じで」
彼女は、黙って歩いていた。
やがて、彼の袖を指先でつまんだ。
「……それなら、いい」
「うん」
「……あと、次はあたしが見つけたものを、おじさんに食べさせてあげる」
「それは楽しみだな」
「でしょ。おじさん、知らないものいっぱいあるからね。SNSも分からないし、流行りの店も知らないし、たまに注文の仕方も間違えるし」
「最後のは、関係ないんじゃないかな……」
「関係あるよ。あたしが教えてあげるんだから」
彼女は、得意げに笑った。
「だから、次はあたしが誘う。おじさんは、ちゃんと来ること」
「分かった」
「予定があったら?」
「そのときは、別の日を相談しよう」
彼女は、満足そうに頷いた。
「……よし」
そのまま、しばらく歩いた。
駅前の大通りに出る手前で、彼女が足を止めた。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、来てくれて、ありがと」
おじさんは、彼女を見た。
彼女は、目を合わせなかった。
「……ほんとに、うれしかったから」
今度は、からかう言葉を続けなかった。
おじさんも、すぐには返事をしなかった。
うれしかった。
その言葉が、胸の中で静かに広がっていく。
彼は、彼女に向かって微笑んだ。
「……僕も、君と食べられてよかったよ」
彼女は、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「……そっか」
「うん」
「……じゃあ、またね」
「うん。またね」
彼女は数歩進んでから、振り返った。
「……あ、そうだ!」
「どうした?」
「今日のお弁当、あたしの方がちょっと多く食べたから!」
「そうだったかな」
「そうだよ! だから、次はおじさんが食べたいものを選ぶ番ね。あたしが一緒に食べてあげる!」
「……ありがとう。考えておくよ」
「だから、感謝で終わらせるなってば!」
彼女は笑い、今度こそ歩き出した。
おじさんは、その背中を見送った。
彼女の姿が人波に紛れて見えなくなるまで、しばらくそこに立っていた。
手元には、空になった弁当の袋がある。
たったそれだけのものだった。
それなのに、今日の一日は、思っていた以上に豊かなものになった。
彼女が気になっていた弁当を食べたこと。
彼女が本当にうれしそうに笑ったこと。
次は彼女が何かを見つけて、自分に食べさせてくれると約束したこと。
どれも、人生を劇的に変えるような出来事ではない。
けれど、こういう小さな約束が、二人の間には少しずつ増えている。
以前の彼は、誰かに何かをしてもらうと、借りを作ったような気持ちになった。親切を受け取ったら、同じだけ返さなければならない。喜んでもらうには、相手の期待を正確に読み、失敗しないようにしなければならない。
そう考えていた。
けれど、彼女と過ごす時間の中で、彼は少しずつ知り始めている。
何かをすることは、必ずしも借りを作ることではない。
一緒に食べたいと思って弁当を買い、相手が喜んでくれたら自分もうれしい。それで十分なこともある。
相手の好みをすべて知っている必要はない。知らないことがあれば、尋ねればいい。分からなければ、教えてもらえばいい。
そのやり取りの中で、互いのことを知っていく。
それは、誰かの人生を背負うことではなかった。
自分の生活を捨てて、相手に尽くすことでもなかった。
ただ、自分の生活の中に、相手のための小さな場所を残しておくこと。
そして、相手の生活の中にも、自分が座れる場所が少しずつできていくこと。
彼は、スマートフォンを取り出した。
彼女から、もうメッセージが届いていた。
『ねえ』
続けて、
『次に食べたいもの、考えといてね』
少し間を置いて、さらに一通。
『……あたしも、探しとくから』
おじさんは、画面を見つめた。
そして、返信した。
『分かった。楽しみにしているよ』
すぐに返事が来た。
『よし。じゃあ、今日は特別に合格♡』
『何の合格?』
『おじさんが、ちゃんとあたしを誘えた記念』
彼は、思わず笑った。
『それは、ずいぶん採点が甘いね』
『うるさい! 次はもっと上手に誘ってね、よわよわおじさん♡』
彼は、少し考えてから、返信した。
『うん。次も、君と一緒に食べたいからね』
送信して、画面を閉じた。
しばらくして、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
取り出してみると、短い返事が一つ。
『……うん』
そのあとに、小さなハートの絵文字が添えられていた。
彼は、笑った。
弁当一つで、人は変わらない。
誰かに喜んでもらえたからといって、明日から急に何もかもがうまくいくわけでもない。
それでも、人は、偶然見つけたものを誰かに分けることができる。
自分が気に入ったものを、相手にも見せたいと思うことができる。
相手が知らない世界を少しだけ覗き、相手の知らない自分の一面を、少しだけ見せることができる。
彼女が気になっていた弁当を、今日は彼が見つけた。
次は、彼女が何かを見つけてくれるらしい。
それを一緒に食べる日が、もう一つの楽しみになった。
名前のついていない関係は、時々、曖昧で不安定だ。
恋人と呼ぶには、まだ何かが足りない。
友達と呼ぶには、互いを気にかける気持ちが、少しばかり深くなりすぎている。
けれど、名前がないからといって、そこに何もないわけではない。
一緒に食べたいと思うこと。
うれしい顔を見て、自分もうれしくなること。
次の約束を、自然に交わすこと。
そうした小さなことが積み重なって、いつか二人の関係に、ふさわしい名前が見つかるのかもしれない。
今はまだ、それでいい。
おじさんは、帰り道を歩き始めた。
今日の弁当は、おいしかった。
彼女が喜んでくれたことも、うれしかった。
そして、次は何を一緒に食べようかと考えている自分が、少しだけ好きだった。
誰かのために何かをすることは、自分を後回しにすることではない。
自分が食べたいものを選び、誰かにも食べてほしいと思い、その気持ちを言葉にしてみること。
相手にも、相手の好きなものがある。
相手にも、相手の生活がある。
そのことを忘れずに、互いの世界へ少しずつ歩いていく。
今日、彼は、彼女が気になっていた弁当を二つ買った。
一つは彼女のために。
もう一つは、自分のために。
そして二人は、同じ場所に座って、それぞれの弁当を食べた。
それだけのことが、こんなにも幸せだった。
──人は誰かを大切にするとき、その人の人生を奪うのではない。
その人が生きている世界に、自分の足で訪ねていく。
そして、いつかまた一緒に食べられるように、心の中に、もう一つ席を残しておくのだ。
ちょっと、君の顔が浮かんだだけで。他意はないんだ。本当。